1287

 私は、金言、格言、ときにはアフォリズムなどが好きで、けっこういろいろな人の寸言隻句に興味をもっている。反対に、流行語にあまり関心がない。
テレビの芸人が、そんな流行語の一つ二つを考え出す。それがウケて、人気が出る。私は、別に不快には思わない。そんな流行語はほんのいっとき人の口の端にのっても、すぐに忘れられてしまう。そんなものは芸でも何でもない。だから私は自分では口にしない。

 アフォリズム、警句、格言だって、自分につごうのいい場合に使うのが気になって、私はあまり使わない。

「少年よ、大志を抱け」という言葉は、誰でも知っている。
だが、このことばには、もう一つ、別の言葉がついている。直訳すれば、

 

学生諸君、野心的であれ、善きキリスト教徒であるために。

 

ということになる。私たちは後半の部分をまるっきり無視して、「少年よ、大志を抱け」という部分だけを心に刻みつけたらしい。

「紳士は金髪がお好き」。これは格言ではないけれど、このことばは私たちも知っている。だが、原作者のアニタ・ルーズは、もう少し別のニュアンスをこめて使っている。

 

紳士は金髪がお好き。だけど、ブリュネットと結婚するのよ。

 

 もう一度くり返すけれど――私はアフォリズムが好きだし、いろいろな人の寸言隻句に興味をもっている。

 私の好きなことばは――それを語った本人の人柄、本人の立場などが、すぐに理解できるような言葉。
誰もが使う言葉で語りながら、その人でなければいえないことを語っていることば。

 

有名スターになったとき女優に注ぎこまれる毒ってものがあるのよ。

 

キム・ノヴァクのことば。
ただし、その毒が何なのか、どういうふうに毒が効いて、致死量がどの程度なのか、キムは語らなかったけれど。

 

 

1286

(つづき)

好きな女のところに通いつめたが、なにせ人にしられぬ恋路、犬までがあやしんで吠えかかって、毎晩、さわがしい。犬なんかいっそブッ殺してやりたい。手紙を出そうかとも思ったが、犬を手なづけたほうがいい、食べものをくれてやって、なんとか、シッポをふるところまでこぎつけた。この憎らしい関守に、ものを与えようなどと、心づかいをするのもひと苦労。女のほうは――誰とも知らない人が、いつもの時間ぴったりに、尺八を吹いて通って行く。今宵もあなたにあこがれてきています、という知らせでもあろうか。古歌にいう、シギ立つ沢の秋の夕暮れなどを連想して、やさしい殿方だよ、と思ってくれるかもしれない。

やがて、夜空の星が遠くかたぶき、空を吹きわたる風の音もさびしくなって、籬(まがき)のかたわらに立ちつくして、他人のいびきが聞こえてくる頃、女の寝所のに、しのびやかに、着物のすその音がして、ああ、ついにそのときは至れり、と胸がときめき、これまでどんなに長い時間待っていたか、と、たもとを引く手もふるえ、絹のような下腹部をさぐりさぐり、からだを横ざまにひそかに入って、音をたてないように迫り、声も出さずにため息したのも、心ときめくうれしさ。

からだをあわせようとして、枕を傾け、行灯(あんどん)を離すと、女の顔がほのかに見えて、さし向かいながら、床についているような気がしない。長い間、つれない仕打ちばかりだったと責めたり、心をつくしてお慕い申しておりましたのに、などと恨みも交えて語りあう。いつわりの多いおかたなど、相手にするつもりではなかったのに、いつかのお手紙から、あなたが好きになりました、と顔を赤くするのも、言葉多く語るよりもずっとまさっている。

 

まだまだ続くのだが、鬼貫の「戀愛論」はこれくらいにしておく。

鬼貫は、追悼の句を多く詠んでいるか、恋の句は少ない。

 

契不逢戀
油さし あぶらさしつつ 寝ぬ夜かな

さしていい句でもないが、ここにあげておく。
題は「ちぎりて、逢わざる恋」なのか。逢わざる恋をちぎりて、なのか。その読みかたで、私の想像はかなり違ってくる。
やや遅れて、「遇不逢戀」という狂歌があって、

 

うつり香の残りて としをふる小袖
今は身幅も あはできれぬる   於保久 旅人

きみに逢ふ 手蔓も切れて うき年を
ふる提灯の はりあひもなし   網破損 はりがね

こんなものより、鬼貫の句のほうがずっといい。

 

1285

 

鬼貫の俳論、『ひとりごと』に、「戀」というエッセイがある。
ただし、冒頭から――「心は法界にして、無量なる物ながら、一念まよふ所は、大河の水のわずかなる塵によどむがごとし」といった文章が切れめなくつづくので、すっきり頭に入りにくい。
エッセイ自体は、それほど長くないのだが、もう少しわかりやすく、現代語に訳してみよう。

 

逢ったこともないのに、どこどこの土地に美しい女がいると聞いただけで、もう忘れられなくなる。一度遊んだだけの遊女から、手紙が届いたりして、その筆づかいを見て、やさしい女心を思う。あるいは、茶屋の娘の接待する物腰のきよらかさがうわさになっているので、せめて水の一杯でも所望してその姿を見届けよう、ただ通りすがりに、窓格子からちらっと顔を見せたりすれば、近くの商店に立ち寄ってその店の品物の値段を聞くふりをして、さりげなくめあての女の家名を聞いたりする。

春、お花見の頃、あるいはお祭りやお寺参りの頃、魅力のある女たちが立ちあらわれる。そんな女たちに恋をしては、あわよくば首尾を遂げようとおもっていると、にわかにつよい雨ふりになって、傘をさしつさされつ、あるいはタバコの火を借りたり、ときには近くの道を教えたりする。そんなきっかけから、お互いの心のふれあいができたりする。そんな出会いのなかでも、女のうしろ姿がひとしお美しいのに心を惹かれて、すぐさまあとを追いかけ、足を早めて女の前に出て、後ろ姿に似あわぬブス、あまりのことに落胆するというのもおかしい。あるいは、ひとを恋しても自分から口に出さないまま、ふつうのつきあいをしてきて、いつか折りを見てうちあけようと思って、いつしか時間がたってしまった。この思いはいつかうちあけようと思っていると、何かのことばのはしはしから、相手もこちらの恋心を承知しているとわる。そのうれしさよ。

また、メモをもらって、いそいでふところに隠した。人目につかない隅っこで、紙の皺をのばして読もうとする風情は、まるめてポンと投げ捨てられるよりもずっといい。

 

 

鬼貫の「戀愛論」はもう少しつづく。
(つづく)

1284

 上島 鬼貫(1661―1738年)は、元禄の頃に登場した俳人だが、私はあまりくわしく知らない。
ただ、この人の句に、

 

   惜めども 寝たら起きたら 春である

 

 という句があって、驚いた。江戸時代に、すでに現代国語の格助詞、「である」を俳句に使った例「である」。「である」は、明治の言文一致からはじまったとばかり思っていたからである。
すっかりうれしくなった私は、さっそくこの句をパクって、

 

   我が輩は 寝ても起きても 猫である

 

という一句を詠んだ。去年から、私の飼っているネコを詠んだもの。
漱石先生のお叱りをいただきそうだが。

昨年の夏に、我が家の飼猫が他界したので、喪があけてから「動物愛護センター」にお願いして子ネコをもらってきた。
名前はチル。じつはこれもパクリで、ルイ・ジュヴェが飼っていた愛犬の名前を頂戴した。(ジュヴェだって、きっとメーテルリンクから頂戴したに違いない。)

さて、鬼貫のことに話を戻すことにしよう。
私の好きな句 を選んでみた。


春雨の 今日ばかりとて 降りにけり
くらがりの 松の木さへも 秋の風

遊女の絵に讃す

殿方を おもうてゐるぞ 閨の月

いつも見るものとは 違う 冬の月

雪に笑ひ 雨にもわらふ むかし哉

久しく交りける友の身まかりけるときこえはべりければ、

いとどさへ旅の寝覚は物うきを
木がらしの 音も似ぬ夜の おもひ哉

ほかのひとには、私の選句は気に入らないかも。鬼貫の句は、もう少しヴァライェティーに富んでいるからである。
(つづく)

 

 

1283

 1965年2月から3月にかけて、私はヴェトナムにいた。
そんなある日、母に手紙を書いた。ほんらいなら公表すべきものではないが、ある親子の間にかわされた、わずか一通の手紙なので、ここに公開する。

 

 

お母さん

毎日ぼくのことを考えていてくださるのでしょうね。無事に旅をつづけていますからご安心下さい。

サイゴンの印象は、やはりぼくにとって強烈なものでした。久しぶりで、自分がほんとうに生きているような実感がありました。それを小説に書いてみたいのですが、うまく行くかどうか。
ユエに行きましたが、ここでは一生忘れられない経験をしました。ユエの街はとても小さい町で、かつての王城のあとが、それこそ夏草のなかにむなしく残っているだけなのです。
ぼくは町を歩き、歩き疲れて、一軒の酒楼に入ってビールを飲みましたが(水のかわりです。水質がわるいので、その頃ひどい下痢にくるしみつづけでした。)人なつっこいおじいさんが寄ってきました。むろん話は通じません。すると、あと二人(おまわりさんと地方裁判所の書記ということがわかりました)中年の男たちが僕に寄ってくるではありませんか。
書記の人がフランス語を話すので、すっかり仲よしになりましたが、ぼくがビールをおごったら、その晩、六時におじいさんが家に招待するというのです。何しろ知らない土地ですし、聞けばユエの街ではなく、かなり離れているらしく、夜なのでこまったなと思いました。断ろうとしたのですが――その前に自分の家へきて泊まれというのを断ったものですから――どうにも理由がなく六時に会うことにしました。
六時に旗亭に行ってみると、おまわりさんがひとりいるだけです。この人はフランス語も英語もダメで、何が何だかわからないし、旅費としてかなりの金額をぼくは身につけています。危険な行動になるかも知れないと覚悟をしました。
ユエの街には大きな湖(ラツク)がありますが、もう日が暮れかかり、船も通らな
いのです。暗い水面を見つめながら、この湖の付近にもヴェトコンが出ると聞いたことを思い出したりして不安でした。
やがて村につきました。(トレガという貧しい村です。)貧しい村でした。ところがそこに、昼間のおじいさんが村の人を八人ばかり招んで待っていたのです。
お互いに言葉は通じませんが、いくらか安心しました。やがて書記の人がきてくれて、これが純粋にぼくを接待してくれる集まりだということがわかりました。

貧しい食事でしたが、ほんとうに心あたたまる思いをしました。十時近くまでいましたが、やがて最後におなじ席にいたおばさんが、私のためにヴェトナムの歌を歌ってくれました。ヘタな歌でしたし、意味も何もわからない歌ですが、それはそれは哀傷を帯びた歌で、黙って聞いているうちに、いろいろな感情がむねに迫ってきて思わず涙ぐんでしまいました。こんなに質朴な人たちが、ぼくのために集まってくれたこと、そして、こんなにやさしい人たちが、今、はてしない戦乱にくるしんでいるのだと思うと、その哀しみが自分に揺れ返ってきて、大きな感動が測測と迫ってきました。酒の酔いもあったのでしょうし、それまでの不安な思いが消えたこともあったのでしょう。旅先で孤独だったことの感傷もあったのでしょうが、涙がと
めどなく頬をつたわりました。
すると、おばさんも泣きながら歌いつづけたのです。

帰途は、若いヴェトナム兵が一人、ぼくを送ってくれましたが、彼は私の名を聞いて舟の上で即興で歌を歌ってくれました。これも意味はわかりませんが――ある日、私の村に見しらぬ日本人がきた。名はナカダという。彼のために、私たちは一席の宴を張り、XXおばさんが彼をもてなすために歌を歌ったが、ナカダは感動のあまり泣いた。日本人が私たちのために泣いてくれたのだ――そういう意味に間違いないと思います。これも切々たる哀調を帯びた歌でした。

この夜のことは一生忘れられない経験になるでしょう。おそらく、ぼくのことは、あの貧しい村では、いつまでも語りつがれて、いつか一つの伝説になるような気がします。

サイゴンや、バンコックや、香港のことはまたあとで書きます。さよなら。お元気で。

          中田 耕治

 

 

 

私にとって、ヴェトナムの印象は「強烈なもの」だった。しかし、この時期、私はヴェトナムに取材した小説を書くことはなかった。

はるか後年、ヴェトナムを舞台にした長編を書いたが、新聞に連載しただけで、そのまま出版することがなかった。

サイゴンの印象は、中編、「サイゴン」だけは、私の撰集(三一書房版)に収めた。

この手紙は、亡くなった母の遺品を整理していて文箱のなかから見つけた。焼き捨てるつもりだったが、私が母にあてて書いたわずか一通の手紙なので、ここに残しておく。

 

 

1282

「午前十時の映画祭」で選ばれた「名作」50作品に、「風と共に去りぬ」や「ローマの休日」がはいっていなかった、というのも驚きだが、著作権、上映権などの問題がからんでいるにちがいない。
私が「あらたに選定した50作品」を選ぶとすれば、まるっきり別の名作をあげるだろう。なにしろ、徐 克(ツイ・ハーク)や、王 家衛(ウォン・カーウェイ)の映画のほうが、「2001年宇宙の旅」や、「小さな恋のメロディ」、「E.T.」よりも、よほど高級と見ている、つむじまがりだからね。

「午前十時の映画祭」なら、その日いちにち、うきうきして過ごせる映画のほうがいいと思う。そこで、私が企画するとしたら、

「ウォリアーズ」
「リリー」
「題名のない映画」(ドイツ映画)
「キャリー」
「ストリート・オブ・ファイアー」
「殺人幻想曲」
「ガルシアの首」
「ファウルプレイ」
「運命の饗宴」
「北京オペラブルース」(香港映画)

私にとっては――こういう映画のほうが「ニュー・シネマ・パラダイス」や、「フォロー・ミー」や、「スタンド・バイ・ミー」よりも、はるかにすぐれた名画なのである。

1281

「午前十時の映画祭」という催しがあるという。昨年の2月から1年かけて、50作品を上映してきたらしい。(私は、一度も見に行かなかった。)
今年も、あらたに選定した50作品を加えて、継続されるという。

1年目の観客党員数は、58万6838人。興行収入は、5億円を上まわった。

今年の目標は、観客の動員目標が、百万人、収入が100億円。

今年の上映リスト。一般投票の上位、10作品。

「ショーシャンクの空に」
「サウンド・オヴ・ミュージック」
「ニュー・シネマ・パラダイス」
「フォロー・ミー」
「風と共に去りぬ」
「ローマの休日」
「スタンド・バイ・ミー」
「2001年宇宙の旅」
「小さな恋のメロディ」
「E.T.」

たしかに、名作ばかりだから、若い人たちが、こういう映画を見に行くようになればいいと思う。
「風と共に去りぬ」については、批評めいたものを書いたが、「ローマの休日」、「スタンド・バイ・ミー」、「2001年宇宙の旅」については何も書かなかった。私が書くよりも別の批評家が書けばいい。
「E.T.」よりも「激突」や「ジョーズ」のほうがはるかにすばらしい。
「スタンド・バイ・ミー」や「小さな恋のメロディ」よりも、「ハックルベリ・フィン」や「にんじん」のほうがずっといい。
(つづく)

1280

 明暦の大火。
江戸市中が猛火につつまれ、数万の民衆が焼死するという惨事だったという。この災害の犠牲者のために、両国の回向院が建てられている。

このとき、焼け出された人が国許(くにもと)に送った手紙がある。読みやすくするために、平易に書き直してみよう。

近年、大身(たいしん)の人々はもとより、私ども、または下々の
者まで、皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、
驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととしている。
したがって財宝足らざる故に、自然に、上(かみ)は民百姓に
むさぼり、下(しも)はたがいに相むさぼる、このたびの大変
(たいへん)はじつに天罰である。天道(てんどう)よりまことに
よき意見を受けたのである。
ついては人を翻然(ほんぜん)として、積年の非を悔いあらため、
まず真の士風俗(さむらいふうぞく)に復すことに、一統努力
するほかはなかろう。

江戸文化の研究家、三上 参次は、この手紙にふれて、

今日(こんにち)も明暦の昔とおなじように、感慨無量、長大息
する人が少なくないことと思う。この手きびしい意見、この峻烈な
る天罰を、七千万日本人の身代わりとして引受けられた幾万の同胞
に対して、深厚なる感謝の意を表したいというのはこの意味に
外(ほか)ならないのである。

という。
これを読んだとき、私は日本人の心性はまったく変わらないのだという感慨をもった。
じつは、私は東日本大震災が起きた瞬間に「このたびの大変はじつに天罰である」というふうに感じた。そして、私たちが「皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととして」きた代償として、大震災が起きたという意見を眼にした。
しかし、私としては――この災害を「天よりまことによき意見を受けた」などと考えない。もとより私たちの無数の誤謬、過失、失策の結果として、この惨状があると見て、ただ謙虚に、わるびれずに、この事態をわれとわが身に引きうけるべきだろう。

福島原発について、NHKのニュースは、いつも「深刻な事態に見舞われている福島原発」という形容をつけていた。これは、4月になってから、この形容はつけなくなったが、いつもおなじ形容、修飾語を重ねることで、かえってクリシェとして、空虚に響いたのではなかったか。

1279

福島原発のニュース。

死者、1万4001人。行方不明、1万3660人、避難者、13万6127人。(4月19日午後6時、警察庁調べ)
この大震災で、検視した死者、1万3195人のうち、津波による死者が、92.5パーセント。身元、年齢が判明した犠牲者の65パーセントが60歳以上。
つまり、高齢者の犠牲が大きい。
東京大空襲の記録では、60歳以上の高齢者は、自宅から150メートルの範囲で死亡していたという。若者では、自宅から4.5キロの距離まで逃げて、落命した例がある。

福島原発。2号機の汚染水、4月1日~6日の流出、総量、520トン。
放射性物質の量は、4700テラ・ベクレル(1テラは、1兆という)。
4月21日、このニューズを読んだとき、私は心の底から憤りをおぼえた。この事実を、東電や、原子力安全保安院は、なぜ今まで伏せていたのか。
4月1日から6日の時点で、この恐るべき事態はすでに判明していたはずである。それなのに、2週間もこの事実を伏せていた。
その間に、統一地方選挙があったから(その影響をおそれて)伏せたのではないか。

私は激怒している。まず、これを報じた大新聞について。
「読売」は、この記事を一面でとりあげている。ただし、下の4段目、わずか2段、32行という短いあつかいだった。その記事の末尾に――「深刻な数値」という見出しで、2面であつかっていることが出ている。

その2面の記事は、34行。2行の小見出しに――

「4700兆ベクレル」大気放出の尺度でレベル5から6相当

とある。(「読売」4月22日/朝刊)

大震災以後に書かれた無数の記事のなかで、日本のジャーナリズムがとった、もっとも陋劣(ろうれつ)で、もっとも「悪しき行動」の最たるものの一つ。
なるほど、この記事は事態の「深刻さ」をきちんと報道しているように見える。しかし、実際は、事態の「深刻さ」を国民の眼からそらすように工夫されている。
この2面の記事には、放射性物質による汚染の例として、1950年代から80年代にかけてのイギリス、セラフィールドの汚染水の海への放出(9000兆ベクレル)、また、1952年~92年におよぶ極東海域におけるロシアの汚染物質の日本海への投棄の事例もとりあげてある。

私は怒っている。「4700兆ベクレル」という記事は、1面のトップに出すべきだったといいたい。1面のトップに出したのは――20キロ圏「警戒区域」設定 一時帰宅 数日中に開始 という記事だった。もう一つは、「節電目標15パーセントに緩和 政府調整 大企業・家庭に一律」という記事だった。
いずれも重要な記事にはちがいない。しかし「20キロ圏」に「警戒区域」を設定しなければならない事態は、4月6日に判明していたのではないか。
それなのに、「さしあたって人体に影響をおよぼさない」と強弁しつづけたヤツがいたのではないか。
私が、かつての大本営(松村秀逸、平出孝雄両大佐)の発表を思い出していたのは、けっして偶然ではないのだ。彼らは、いつも陸海軍の被害にはふれなかったし、ふれたとしても「わが方の損害は軽微なり」として、頬かむりしつづけた。この連中を、日本人としてまったく恥を知らない最低の人間と見るように、私は、東電、および原子力安全保安院、さらに政府の当局者に侮蔑の眼をむけざるを得ない。
(つづく)