1247

すっと読んだだけでは、さほど優れているとは見えない。しかし、人事、風俗に関して、好きな俳句がある。

行く女 袷(あわせ)著なすや にくきまで   太祇

袷(あわせ)は、おもて、裏をあわせて作った着物。つまり、裏地つき。
昔は、四月一日から五月四日まで、そして九月一日から八日までと、着る習慣になっていたとか。つまり、期間限定だったらしい。
「著なす」は、着こなすの意味だろう。心にくいほどの着こなし、という。さぞやいい女だろうなあ。こんな句に思わずうっとりする。

蚊帳に居て 戸をさす腰を ほめにけり    太祇

たいして優れた句ではないが、繰り戸を閉める女の腰にいささか力がこめられて。それを見ている風情は、なかなか粋だねえ。
この夏、尖閣諸島沖で、領海を侵犯した中国の漁船が、日本の海上保安庁の巡視船に故意に衝突した事件が起きた。このとき、官房長官の仙石某が、わが国の外交方針を「柳腰」と唱えた。(’10.9月)私は仙石某の無知にあきれたが――こういうバカはこの句を読んでも何ひとつ見えるはずもない。

彼の後家の うしろに踊る 狐かな     太祇

これまた、なかなかおもしろい。
いたずら好きな人なら、いろいろパロディーできるだろう。

1246

風邪がはやっている。

私は虚弱な子どもだったので、よく風邪をひいた。学校を休んで、ふとんに寝かされているのは退屈だった。枕に頭をつけて見ていると、閉めきったガラス戸からもれる光に、小さなゴミが浮遊するのが見えた。

発熱した頭で、ぼんやりゴミの動きをいつまでも見ている。

母親が手当てしてくれるのがうれしかった。

風邪のひきはじめには、ネギをミジン切りにして、生ミソをくわえたものに熱湯をそそいで、寝る前に飲む。

大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜて、ショーユをかけ、あつい番茶をかける。それが風邪に効く、とされていた。
母親が、枕もとにもってきてくれるので、腹這いになって飲む。おいしいものでもなかった。

火鉢に炭火がおきている。鉄瓶がジンジン音を立てている。

灰の中に、キンカンの実を埋めて、まっくろになるまで焼く。皮がくろくなったキンカンの実をとり出して、お湯をかける。

いまどき、どこの家庭でもこんな療法はやらないだろう。こんな民間療法にどんな効果があったのかわからない。
私は、あまり風邪をひかなくなっている。
風邪をひいてもお医者さんの診察をうけることはない。
台所で――大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜ、ショーユをたらしてお湯にまぜて飲む。
ふと、亡き母親のことを思い出す。

1245

しばらく前に、ワキ役俳優、アンデイ・デヴァインのことを書いた。
舞台や映画で、たくさんの俳優や女優を見てきたので、アンデイのようなワキ役専門の俳優のことが心に残っている。

有名なスターたちと違って、ワキ役の俳優、女優たちのことはほとんど知られていない。私は、そのときどきに見た「彼」や「彼女」の姿、演技、ときには声まで思い出す。なつかしさもあるが、その俳優、女優たちの存在が、映画芸術をささえてきたことが思いがけないあざやかさでよみ返ってくる。

たとえば、ジェームズ・グリースン。
小柄で、痩せたアイリッシュの老人だった。今の私たちが、ビデオやDVDなどで見られる映画は、「毒薬と老嬢」ぐらいだろうか。
この映画では、頭のおかしい殺人者の老嬢たちの邸にやってきて、主役のケーリー・グラントをあわてさせる刑事をやっていた。タフで、鼻っ柱がつよいが、人情にあつい。そんな「役」が、ジェームズ・グリースンにぴったりだった。
(ニューヨークの警察官、刑事には、アイルランド系が多い。)

もともとブロードウェイ出身の演劇人だった。劇作家、演出家として知られたが、プロデューサーをやったり、俳優として舞台に立ったり。
やがて、映画、さらにはTVに出るようになった。
それだけに、舞台というものを知りつくした俳優だったはずである。そして、ほかのおびただしい俳優、女優たちの「運命」を見つづけてきたはずである。

「幽霊紐育を歩く」Here Comes Mr.Jordan(1941年/コロンビア)に出て、42年のアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。
(「天国からきたチャンピオン」(1978年)は、この映画のリメーク。)
私は戦後に見たのだが、主演のロバート・モンゴメリがへたくそな芝居をしているのに、ジェームズ・グリースンがやたらに達者な芝居をしているので感心した。
このあたりから、ジェームズ・グリースンが出ている映画は必ず見ることにしたのだった。「ブルックリン横町」、「タイクーン」、「恋は青空の下」など。

まず、「ブルックリン横町」は、エリア・カザンの監督第一作。ドロシー・マッガイアー、ジョーン・ブロンデルという異色女優の起用に若いカザンの気負いが見える。
「タイクーン」は、ジョン・ウエインのアクションもの。まだ、それほど知られていなかったアンソニー・クィンがワキで出ていた。
「恋は青空の下」は、フランク・キャプラが戦前に撮った「其の夜の真心」のリメークもの。「戦後」のキャプラの彷徨と枯渇がまざまざと感じられる。
ジェームズ・グリースンは、戦前の「群衆」(41年/フランク・キャプラ)にも出ているが、この映画ではほとんど目立たない。

戦時中、アメリカに亡命したジュリアン・デュヴィヴィエが、ハリウッドで撮った映画に「運命の饗宴」(Tales of Manhattan/42年)がある。
これは、オムニバス映画。第3話は、貧しい音楽家が、大指揮者に認められて、カーネギー・ホールで自作の交響曲を指揮することになる。貧しいので、当日着て行くタキシードがない。教会の神父さんの計らいで、妻が質流れのタキシードを手に入れて、破れたところをつくろって、夫の門出を祝うのだが……

貧しい音楽家の夫婦を、チャールズ・ロートン、エルザ・ランチェスターがやっていた。ふたりは、現実にも名優・名女優のカップルで有名だった。
音楽家が、満場の嘲笑を浴びたとき、厳然として彼をかばう大指揮者を、フランスの名優、ヴィクトル・フランサン。
ジェームズ・グリースンは、ニューヨークの貧しい教区で、しがない人々の生活を応援している神父さん。セリフもほとんどない「役」だが、これがとてもよかった。

戦後の映画のなかで、ジェームズ・グリースンの存在はいつも輝いていた。

ジェームズ・グリースンの最後の出演作は、スペンサー・トレイシー主演の「最後の挨拶」だが、日本では公開されていない。

ジェームズ・グリースンは、1959年に亡くなっている。

こんなことばかり書いているから――きみのブログは「地味」だねえ、といわれるのだが。

1244

高津 慶子という女優がいた。私は高津 慶子のファンだったけれど、あまりに幼い頃に見たので、彼女の顔も思い出せない。

経歴は、少しだけ知っている。

1929年(昭和4年)、17歳で「松竹楽劇部」に入った。この年(昭和4年)7月、「帝キネ」に移る。おそらく「恋のジャズ」という無声映画が、最初の出演作ではないだろうか。

初めての「恋のジャズ」の試写を初めて見た時は、何だか変な気持でしたわ。
自分はこっちにゐるのに、向ふでは別の自分が動いてゐますでせう。そして、
あそこではかう動いたのにと思ってるのに、変な風に動いてゐますし……
ほんとに、踊る幻影といった気持ですわ。
彼女はちょっと眼を細くして、その当時を思ひ出す。

当時のインタヴュー記事から。

1930年、19歳で、「腕」という映画に主演している。このあたりから、トップスターになった。

高津 慶子は藤森 成吉の傾向小説、「何が彼女をそうさせたか」に主演している。傾向小説というのは、プロレタリア文学のこと。
パート・トーキーにする企画だった。

偶然だが、私は高津 慶子を2、3本、見ている。
題名もわからないのだが、河津 清三郎と共演した映画では、愛する男が失業し、別の女のもとに走ったため苦しみぬいて、最後には男と心中して果てる女をやっていた。お涙頂戴のメロドラマだった。小学生の私は、美しい高津 慶子が不幸なまま人生を終えてしまうその姿に戦慄した。そして、彼女をさんざん苦しめたあげく、まるで無理心中のようなかたちで死んでしまう河津 清三郎がきらいになった。

はるか後年、高津 慶子の写真を見て、もう忘れていた顔を思い出した。今の女優でいうと、水野 美紀にかなり似ている。私は、舞台劇『ユートピアの彼方へ』で見ていらい水野 美紀の熱心なファンなのである。

自分の感性をずっと遡って行くと、高津 慶子と森 静子が浮かんでくる。
この二人の女優が好きだったことは、ひょっとすると、その後の私の女性観になんらかの影響をおよぼしているかも。(笑)

1243

1929年から、30年にかけての日本映画。

「松竹」は、村上 浪六原作の「原田 甲斐」。市川 右太衛門、鈴木 澄子。
鈴木 澄子は、後年たくさんの怪談映画に主演した女優さん。この頃は、可憐な娘役で、はるか後年、多数の怪談に出るようには見えない。まったく、女はこわいね。

この頃、浪六の人気が高かった。つぎつぎに映画化されている。「東亜映画」が「三日月次郎吉」を、嵐 寛寿郎、原 駒子で。おなじ浪六の『かまいたち』が、澤村 國太郎、マキノ智子の主演で。これは「マキノ映画」。
その「マキノ映画」が、「敗戦の恨みは長し」というロマンス・メロドラマを出している。帝政ロシアから亡命した音楽家と、その門下で音楽勉強に勤しむ日本娘のせつせつたる恋物語。秋田 静一がロシア系のハーフの芸術家。彼の行く手には松浦 築枝。彼はミューズの愛に救われる。別に深い意味はないはずだが――「敗戦の恨みは長し」という題がはるか後年の日本の運命を暗示しているような気がする。

「松竹」の現代劇は、北村 小松の「抱擁」を。岡田 時彦、及川 道子。「アラ、その瞬間よ」などという映画も。及川 道子はいい女優だった。この題名は流行語になった。及川 道子に魅力があったからだろう。
当時、日本はアメリカの大不況の影響を大きく受けていた。(今と似たようなものだ。)だから、「不景気時代」などという映画が作られている。川崎 弘子、斉藤 達夫。
「奪はれた唇」というメロドラマに、渡辺 篤、筑波 雪子。
「女は何処に行く」は、栗島 すみ子、田中 絹代。

「日活」の時代劇では、「大岡政談 魔像編」で、大河内 伝次郎、伏見 直江。
「帝キネ」は、独立10周年記念で、「江戸城総攻め」。大仏 次郎の「深川の唄」を。佐々木 邦の「新家庭双六」に、杉 狂児。
バンツマ(板東 妻三郎)は、大仏 次郎の「からす組」の撮影に入っている。

残念ながら、私は、これらの映画のほとんどを見ていない。     (つづく)

1242

 1929年のベストテン。

「ディスレリー」
「マダムX」
「リオ・リタ」
「ブロードウェイの妖婦」
「ブルドッグ・ドラモンド」
「懐かしのアリゾナ」
「藪睨みの世界」
「チェニー夫人の最後」
「ハレルヤ」

ベストテンなのだからもう1本あっていいはずだが、資料がない。
さすがにこの時期あたりから、私の映画知識も多少はしっかりしてくる。

「ディスレリー」は、日本では「市民宰相」として公開された。主演はジョージ・アーリス夫妻。「マダムX」は、連続活劇のポーリン・フレデリックの「母もの映画」だが、ストーリーは――戦後、ラナ・ターナーがリメイクに出ている。この「母の旅路」で見ている人がいるかも。
「リオ・リタ」は、もともとブロードウェイでヒットしたミュージカルだが、この映画はビーブ・ダニエルズが主演したもの。
「懐かしのアリゾナ」は、ラウール・ウォルシュが撮ったはじめてのトーキー。この頃には、サイレント映画のスターたちが凋落して、ぞくぞくと新人俳優、女優が、ハリウッドに押し寄せている。

このベストテンのなかで、私がいちばん見たい映画は「藪睨みの世界」。じつは、これもブロードウェイでヒットした The Cock-eyed Worldという喜劇。マクスウェル・アンダーソン、ローレンス・ストーリングスの合作。
主演は、ヴィクター・マクラグレン、リリー・ダミタ。
リリー・ダミタは、後年、エロール・フリンの夫人。

マクスウェル・アンダーソンは、やがて『春浅き冬の頃』から大きく発展し、ついには壮大な歴史劇に移ってゆく。(私はマクスウェル・アンダーソンについて、みじかい紹介を書いたことがある。「現代演劇講座」河出書房刊)

そういえば――リリー・ダミタの息子は、ヴェトナム戦争で従軍記者として活躍したが、70年代、冷戦のさなか、ウィーンで取材中に失踪している。当時のソヴィエト側の秘密情報機関による暗殺と見られる。                (つづく)

 

1241

(No.1237からつづく)

この夏、船橋で「第七天国」(フランク・ボゼージ監督)を見た。この映画は、戦後すぐに池袋の焼け跡にできたバラックの映画館で見ている。私が、はじめて見た戦前のハリウッド映画だったが、あらためて60年ぶりに見直したことになる。
この日、私はかぎりなく幸福だった。まるで天使が私のとなりに舞い降りてきたようだった。
戦後、アメリカ映画を自由に見られるようになったが、「第七天国」を見たとき、隣りに美しい女性がいて、胸がどきどきした。私は、ほんとうに解放感を味わっていた。
この映画を見直して、連日の暑さで枯渇していた内面に火がついた。はじめて恋をしたようだった。私が長年心に秘めてきたのは、こういう思いだったのか。

「第七天国」は、アカデミー賞最初の最優秀作品賞。ジャネット・ゲイナーはこの作品で主演女優賞を受けている。

1928年のベストテン。

「愛国者」
「ソレルとその子」
「最後の命令」
「四人の息子」
「街の天使」
「サーカス」
「サンライズ」
「群衆」
「キング・オブ・キング」
「港の女」

私の見た映画は、「サーカス」、「群衆」、「港の女」だけ。
私はとても映画研究家にはなれない。

「サーカス」は日本では未公開だったが、戦後、パリの「オデオン」で見た。日本では見られなかったチャプリンの活動写真をパリで見た。観客は、子どもたちが多かったが、日本人は私ひとりだったのではないだろうか。これも忘れられない。この映画を見て、コメディを見る無上のよろこびといったものを知った。

私が生涯の大半をかけてもとめつづけてきて、最近になってやっと手に入れたものを、チャプリンは、とっくの昔に手にいれていたような気がする。

それをなんと表現していいのか。ミューズとの邂逅といおうか。   (つづく)

1240

2011年である。

気のきいたことの一つもいいたいのだが、何もうかばない。

ルネサンスに生きた、ポッジオ(1380~1459年)の話を思い出した。
ローマにさる有名人がいた、という。
ある日、何を思ったか、葦でかこまれた壁の上によじ登った。(湿地帯で、あたりに葦がいっぱい生えていたらしい。)
その葦にむかって、彼は演説をはじめた。市政を論じはじめたのである。むろん、人間相手ではないから、日頃、胸懐に秘めた不幸、不満、はては、天人ともに許さぬ者どもに対する激烈なフィリピクスもふくまれたことだろう。

熱弁をふるっていたとき、一陣の風が吹きわたり葦の葉をそよがせた。
それを見た雄辯家は、自分の話に賛成して頭をたれた人々と見立てて、
「ローマ人諸君、そんな敬礼にはおよびませぬ。私は、みなさんの中でも、もっとも卑小なる一人に過ぎません」
と呼びかけた。
このことばは、このときからローマの格言になったという。

これだけの話。
この男は、民衆にへりくだって見せたのか。それとも、謙虚な人物だったのか。あるいは、世間にむかって声をあげることのできない臆病者だったのか。ひょっとすると、おのれの夢想に生きたロマンティスト。いや、ナルシストだったのか。
ポッジオは、この短いエピソードを、どうして自分のエッセイに書きとめたのか。

2011年、新年を迎えて、私はぼんやりとこのローマ人のことを思い、このホームページに書きとどめて、春風駘蕩たる気分を味わっている。

みなさんのご多幸を祈りつつ。