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年の暮れ。
いまの日本の地方都市の駅前なんて「島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むる」状態だよ。

市中一般の職業は歳の暮れともなれば夜さえ碌々寝(やす)む暇さえなきまでに繁忙を極むるが習いなるに、この島にてはこれに反してほとんど休業同様の姿となるなり。されば大道芸人らは本月十四、五日頃よりは全く稼ぎに出ること能わずいずれも一日千秋の思いをなして新玉の春を待てり。

これは、明治30年11月から12月にかけて「報知新聞」に連載されたルポルタージュ「昨今の貧民窟」(執筆者、不詳)の一節。(中川 清編『明治東京下層生活誌』岩波文庫/収載)
私は、戦前の東京の下層生活を見てきたので、芸人たちの暮らし向きが眼にうかぶようだった。
芸人たちは十二月十四、五日頃からは稼ぎに出かけることができない。

その間の困難は実に甚だしきものにてほとんど五月雨(さみだれ)の頃か時雨時の如くすべての芸道具を質入れして、わずかに兵営の残飯を粥となしたるを一、二度ずつ啜りて半月の露命を繋ぎおるに過ぎず。

この「シマ」は、芝、新網町というが、浅草、本所、深川、どこに行ったって、たいていて似たような暮らしだった。

古昔(むかし)は節分の年越しと称(とな)うるが年の内にあること多く、また「せきぞろ」と称(とな)うる袖乞いありしかば芸人の多くは「厄払い」または「せきぞろ」に出(い)でて鳥目(ちょうもく)あるいは餅などの貰い多かりしため正月の支度にもさして困難を感ぜざりしに……

「せきぞろ」は、節季に候。ただし、実物を見たことはない。
芸人が、二、三人、赤い絹で顔(おもて)をつつみ、「せきぞろでござれや」とはやしたてて、歌い、踊りながら、お正月の祝詞を述べて、米や銭をもらう。
しかし、明治も30年代になって、大道芸人もそんな悠長なことでは年も越せなくなったのだろう。

近来、「せきぞろ」は全く廃(すた)れ、「厄払い」は二月の頃となりぬれば、暮れの内には更に稼ぐべき道なく島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むるなり。

さて、みんなで「せきぞろ」に出るか。

せきぞろの来れば 風雅も 師走かな    芭蕉