明治45年、明治座に拠った市川左団次は、年頭から奮闘したが興行はあたらず、この夏、ついにドサまわりを決意した。
表向きは旅興行とはいいながら、はるかに遠い九州落ちであった。
昔の旅のことだから、停車場(すてんしょ)には、駅弁売りや、新聞売りが声をからして走りまわっている。
新聞! 新聞!
左団次は、その呼び声を聞いていた。売り子がプラットフォームを走って、左団次の車窓までやってきた。
「新聞を買ってくれ」
左団次は同行した興行主任に頼んだ。
「いや、新聞なんかつまらねえ」
興行主任が、にべもなくそう答えたという。
このエピソードが私の心に残った。というより心を揺さぶられた。
当時の左団次は、亡き父の借財に苦しんでいたし、本拠の明治座は不入りがつづいて、まったく動きがとれなかった。この八月、先代いらいの由緒ある明治座を、新派の伊井 蓉峰に売りわたしている。左団次の胸に、深い挫折の思いが刻まれていたと想像しても、それほどあやまりとはいえないだろう。
都落ちを決意して乗り込んだ汽車のなかで、一部の新聞が買えないほどの貧乏を味わうことが、どんなに屈辱的だったか。
人間の一生には、自分でもどうしようもない挫折、破綻がつきまとうことがある。
ドサまわりから戻った十月、左団次は、ついに松竹に膝を屈した。大正時代に入って、八百蔵(のちの中車)と組んで、演劇史にかがやく仕事をつづける。
最近、全国で3月までに失業する非正規労働者が8万5千人になるという。サラリーマンの平均年収は、97年(467万円)から、9年連続で下落している、といった話を聞く。これは、とり返しのつかない事態で、日本の政治のどうしようもない停滞を物語っている。
これと左団次の悲運には何の関係もないのだが・・・私たちも不運に見舞われた場合、まずはその悲運にまっこうから立ち向う気概、姿勢が必要な気がする。時代の変化よりも、私たちの変化のほうに解決の可能性があるような気がする。