文学専門の批評家なのに、古典を知らない。さらには、古典の詩歌を知らない。
恥ずかしながら、私もそんなひとりだった。
俳句を論じたことがある。子規からはじめて、大正期の俳句まで、二年間、講義をしたのだが、学生たちがほとんど理解できないと知って、この講座は中断した。
短歌についていえば、「アララギ」以後の歌人のものはずいぶん読んできたが、古典、とくに中世の和歌についてはほとんど知らない。
中世の和歌について語らない理由のひとつは――俳句なら即座に思い出せるのに、和歌となると、なかなかおぼえられない。思い出せないことが多い。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
読みやすいように上下に わざと空間を置いたが この和歌はおぼえていても、
里はあれて月やあらぬと怨みても 誰 浅茅生に衣うつらん 良経
身の憂さに 月やあらぬとながむれば 昔ながらの影ぞ もりくる 讃岐
という連想がはたらかない。
だから、読むには読む。鑑賞もするけれど、和歌についてはまともに論じる教養がない。もうすこし勉強しておけばよかったと思うけれどもう遅い。
はるかなる岩のはざまに独(ひとり)いて人目思はでもの思はばや 西行
こういう心境になれないのも、和歌を理解することが少ないせいだろう。