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仙花紙(仙貨紙)の本。
 くず紙をすき返して作った質のわるい洋紙で、戦後、印刷用紙がなかった時期に、この仙花紙に印刷された本があふれた。
 今では古本屋でもめったに見かけない。

 三好 一光という作家がいた。おそらく誰も読んだことがないだろう。いわゆる「倶楽部雑誌」の作家だった。作家といっても、無名に近いひとだった。
 「新派」が大阪の歌舞伎座で芝居を打つようになって、たとえば、山本 有三の『路傍の石』、田口 掬汀の『女夫波』と並んで、三好 一光の『戀すてふ』を出した。娘義太夫の世界の「いき」を描いた傑作という。
 当時、山本 有三は大劇作家だったし、『路傍の石』は片山 明彦の主演で映画化されてたいへんな人気だった。
 田口 掬汀は明治末期のベストセラー作家。作家、高井 有一の父君である。こういう作家と並んで、「新派」の芝居(喜多村 緑郎、花柳 章太郎)の初日、三好 一光の前途は洋々たるものだったはずである。だが、『戀すてふ』の上演は、不運だった。

 1937年(昭和12年)7月、一発の銃声が世界の運命を変えた。日中戦争の勃発である。

 戦争中の三好 一光は沈黙を余儀なくされた。ほとんど無名のまま。

 戦後、このひとの消息は友人の鈴木 八郎からよく聞かされた。
 鈴木 八郎も無名のまま終わったが、戦前の「劇作」の人々と親しく、内村 直也先生の門下といってもいい人だった。私よりもひとまわり以上年上で、ホモセクシュアルだった。仲間に、西島 大、若城 希伊子、山川 方夫たちがいた。

 鈴木 八郎も下町に住んでいたが、三好 一光は戦中戦後をつうじて、東京の下町に住んでいた 。
 戦後、二、三冊、小説を出した。仙花紙の本で、たいして注目されなかったと思われる。時代の激変のなかで、三好 一光は俗悪なカストリ雑誌に小説を書いて、かつかつに生活していたらしい。
 いくら戦後のクラブ雑誌、カストリ雑誌の安い稿料であっても、作家が原稿料をもらうのは当然であった。しかし、この作家は、年間、収入がある金額に達すると、それ以上、その年になにひとつ書かなかった。

 この姿勢は徹底したもので、戦後、この作家は、税金を国に払うことをいさぎよしとしなかった。つまり、課税される寸前のところで、その年度の執筆活動を停止する。
 だから、有名になるはずもない。
 こうした姿勢をとった理由を、三好 一光は誰にも語らなかった。どうやら、空襲でおびただしい人命が失われるのを見届け、敗戦という事態で、庶民に塗炭の苦しみをなめさせている国に対する憤りから、下町の隠士として過ごすことにきめたらしい。
 私は、鈴木 八郎から、その暮らしぶりを聞いて、この作家のものを読むようになった。クラブ雑誌の短編ばかりだったが、年季の入った仕事ぶりが感じられた。時代もの、それも情痴小説ばかりだったが、下町の人情、気風を描く、奇特な作家だった。

 奇人といってもよい。しかし、清貧の人といっていいだろう。

 三好 一光を読んでから、私は世に容れられないままに自分の世界を築きあげて行った人たちの仕事に関心をもつようになった。