582

小説の中で、一番早くラジオを登場させた作家は、菊池 寛だそうな。どういう作品にラジオが出てくるのか知らない。1923年、真空管ラジオを発明したマルコーニが、無線電信網が世界をおおうと宣言した時期、『真珠夫人』から通俗小説に転向して、圧倒的な人気作家になっていた菊池 寛が、いち早くマス・メディアとしてのラジオを自作に取り入れたとしても不思議ではない。

では、小説に一番早くテレビを登場させたのは誰だったか。
中田 耕治である。本人が言うのだから間違いない。『闘う理由、希望の理由』という短編にテレビ・カメラを登場させた。当時、敗戦国の日本は占領下にあって、まだテレビ放送も認可されず、現実にテレビなどどこにも存在していなかった。
そういう状況のなかで、ありもしないテレビを書きこんだ。この短編を「三田文学」に載せてくれたのは山川 方夫だが、彼はニヤニヤしながら、中田さん、いたずらですね、といった。

もうひとつ、それまで誰も使わなかった(セックス関連の)禁止用語を小説にはじめて書いたのも私だった。今では別にめずらしくもない名詞だが、これも私のいたずらだった。むろん、自慢になることではないが。

505

歳末、鈴鹿の藤田 充伯さんから蕷芋(とろろいも)をいただいた。
私がいただいた品種は伊勢いもという。
ベ-スボ-ルの硬球よりももっと大ぶりで、皮を剥いてすりおろす。伊勢いもはコシがつよくて、すりおろして箸をつけても、途中で切れない。ふつうのヤマノイモ、ナガイモは、これに較べると、水っぽくて、箸にべたべた貼りついてくるだけだが、伊勢いもは、塗りの箸ですくっても、しっかり形をとっている。
私は麦とろろが好きで、駒形はもとより丸子宿まで足をのばしてみた。とろろにするのは、ヤマイモ、ナガイモ、ツクネイモ、いろいろあって、それぞれにおいしいのだが、薯蕷芋(とろろ)としては、いずこも伊勢におよばない。
味は・・ただ、ひたすら風味絶佳としかいいようがない。

歳末になると、私は伊勢いもを酒菜に、信州は松本、亀田屋の銘酒、「大吟醸 アルプス正宗」を酌む。
人生、至福のとき。

504

この「人生案内」は、現在の私にさまざまな波紋をなげかけるようだった。
これに、作家、立松 和平が回答している。

短いお手紙の中で、一代記を読ませていただいた気がいたしました。誰でも自分の半生を振り返るものでしょうが、悲しいと思えば悲しみの色に染まり、うれしいと思えばうれしさの色に染まります。おなじ人生でも、気持ちによってどのようにでも変わるものです。
あなたのお年で、あなたより健康に恵まれていない人は、身の回りにたくさんいます。その人たちがすべて心まで弱っているとは私には思えません。死の床に横たわって余命幾ばくもなくとも、その日その時間その瞬間を、希望を持って生きている人もいます。
あなたがこれまでの自分の人生を否定的にとらえていることが、若輩で申し訳ないのですが、私には気になりました。生きたくとも80歳まで生きられない人は、たくさんいます。100歳まで生きられるというなら生きるべきではないでしょうか。死を自分で決めてはいけません。目や耳は誰でも年とともに衰えてきます。散歩が楽しみというあなたは、足がしっかりしているのですから、方々歩いて、一人でも多くの人に出会ってください。

私は立松 和平に敬意をもっている。かりに、私が答えたとしても、似たような答えになるに違いない。
短い紙数で何ほどのことも書けないと承知しているが、この老人ははたしてこの答えで安心するだろうか。
この老人は、散歩を楽しみにしている。足がしっかりしているのだから、方々歩いているだろう。だが、たかが散歩するくらいで、どれほど多くの人に出会えるだろうか。
私もよく散歩をする。近くの公園に集まった老人たちが、木蔭で将棋を楽しんでいる。しかし、ベンチに腰かけて、ただぼんやりしていたり、うつらうつら眠りこけている姿を見る。その老人たちは一人でも多くの人に出会うことはない。
私にしても似たようなものだと思う。

老人は長く独身だったが、ある女性と結婚した。子どもにも恵まれたが、不幸なことに5歳の子どもと死別。夫婦で悲嘆のどん底に陥った。
その妻も3年前に亡くなって、最近死にたくなってきたという。
ここに語られている孤独に、私たちはどう答えることができるだろうか。

生きているかぎりどのような人の愛別離苦も私たちに無縁なものではない。
この「人生案内」は、おなじ老人の私にさまざまな波紋をなげかけてくる。
むろん 私はこの老人に答えるのではない。そんな資格は私にはない。
ただ、立松 和平とは、まったく別の問題について考えてみようと思う。

たとえば愛別離苦にかかわるエロスについて。

503

ある新聞の「人生案内」にこういう投書があった。

80歳男性。若いころは、就職も思うにまかせず、人里離れた土地で、養鶏の仕事をしていました。恋をしたこともなく、20年以上一人暮らしを続けました。
しかし時代とともに、採算が取れなくなり廃業。町に出て、商家の物置を借りて住みました。どぶ掃除などのアルバイトをしながらのその日暮らしでした。
そんなとき、ある女性と知り合い結婚しました。仕事も得て、44歳で子どもにも恵まれました。楽しい生活でした。しかし、子どもは5歳のとき海で水死してしまいました。夫婦で悲嘆のどん底に陥りましたが、何とか立ち直り、生きてきました。
その妻も3年前に亡くなりました。最近死にたくなってきました。健康診断を受けると、「あと20年は生きられる」と言われました。
でも目はだんだん見えなくなり、耳も次第に聞こえなくなっています。散歩は楽しみですが、他に趣味はありません。これからどうして生きていこうか迷っています。

三重県の老人の投書であった。(06.11.14.「読売」)私は、この短い文章に心を動かされた。

老年の孤独がまざまざと感じられたからである。

若いころは、就職も思うにまかせなかったというのは、おそらく「戦後」の激烈な混乱のなかで、就職したくても就職できる状況ではなかったのだろう。
都会には空襲で焼け出された人たち、敗残の復員兵があふれ、道義は地に落ちて、巷にはヤミ、誰もが犯罪におびえきっていた。庶民はタケノコ生活、若い女たちはストリップ。戦前のエログロなど比較にならないすさまじい時代になった。
「欲しがりません、勝つまでは」は「とんでもハップン」で、どこを見ても「てんやわんや」と「やっさもっさ」の時代だった。
私の大学の同期でも戦後になってから自殺した者が二、三名いるし、ヤクザになって惨殺された者もいる。

戦後、人里離れた土地で、ひっそりと養鶏の仕事をしていた若者の心情も、私には想像できるような気がする
この「人生案内」は、おなじ世代の私にさまざまな波紋をなげかけた。

(つづく)

502

出雲の阿国は別として、日本ではじめて女優になったのは誰だったのだろう。

演劇史は知らない。

明治16年、新富座で菊五郎(五代目)が実録ものの『千種花音頭花唄』河竹 黙阿弥・作)を出した。座主の守田 勘彌の企画で、これに花柳界総出の踊りを出すことになった。
新富町、葭町、霊岸島、日本橋、下谷、講武所、東京じゅうの花柳界がわき立った。
たちまち警視庁から「男女混合の芝居は規則の禁止するところ、芸妓の出演まかりならぬ」と横やりが出た。勘彌が動いた。
なにしろ、勘彌の二号さんは、新橋の「岩井屋」のお貞である。当時、お貞は・・・ 西園寺 公望のご贔屓が「蓬莱屋」のお玉、井上 馨が「窪田屋」の鳥介(とりすけ)、大倉 喜八郎が「田中屋」のお愛、堀田 瑞松が「若菜屋」の島次と並んで名妓五人にかぞえられていた。この女たちが、ちょいと耳うちしただけで、警視庁の幹部の首が飛ぶ。 そこで警視庁も黙認。

初日、楽屋に張り紙が出た。
「男女混合の芝居は其筋に於て許可されざりしを種々懇願の末、猥りがましき事の無きやう、十分注意せよとの厳命を受け、ここまで運びたるに付、一同其心得にて謹直に身を持すべき事」

いずれ名だたる美男美女が楽屋にごった返しているのだから、こんな張り紙一枚にききめがあるはずもない。
まっさきに禁を破ったのは、家橘(のちの羽左衛門)と葭町の米八。これが露顕して、あわれ、米八は芝居の途中から舞台からパ-ジされた。

ほかにもイロイロと隠れた粋な話があるのだが、この米八が発奮して、のちに女優として舞台に立った。だから、本邦最初の舞台女優。

千歳 米坡(ちとせ べいは)である。

501

戦後すぐに里見 敦が書いた随筆に、電車に乗っている女、あるいはカップルを見ただけで、その女なりカップルのことがだいたい想像がつくとあった。作家の眼はおそろしいものだ、と思ったおぼえがある。
たとえば、レストラン。
楽しそうにしゃべっているのもいれば、押し黙ったまま食べているのもいる。このふたりはどうして知りあったのか。男と女だから、どういうわけか親しくなって、現在にいたっているわけだが、ベッドの中ではどうなのか。作家でなくても誰しもそんなことを考えるだろう。

里見 敦という作家の眼力はすごいものだが、いまの私にしても里見 敦程度のことならいえるような気がする。

年配のふたりづれがテ-ブルで向きあって食事をしている。

沈黙の長さが、結婚生活の長さとほぼ正比例する。

☆500☆

教育改革が問題になって、教育再生会議なるものができた。「ゆとり教育」の見直しという観点から、全体に教員の質の低下とか、教育の現場に不適格な教員が多いということが問題になっている。
教員としての素質も適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは教員の教育能力を向上させなければならない。ゆえに、ひろく検定試験を実施し、何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

おいおい、冗談じゃねえや。
何かいまわしい事態が明るみに出ると、きまってこういう「正論」が出てくる。私が、もっとも軽蔑するのは、こういう「正論」なのだ。「正論」というやつは、正面きっては誰も反論できない。だから、こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

数学だけに限定しても、各国の7~14歳の児童のうけている授業時間は、
フィンランド   2018時間
韓国       2182 〃
日本       2359 〃
しかし、成績のレベルは、1位が香港、2位がフィンランド、3位、韓国とつづいて、オランダ、リヒテンシュタイン、日本は6位。
つまり、日本の数学の授業は、授業時間に比して効率がわるいということになる。

では、日本の小学6年生の国語の授業時間は、
1970年代   245時間
2004年    140時間
哀れだなあ。言霊のさきわう国の国語力のいちじるしい劣化がわかるだろう。

教員の再検定とか、免許の更新ということが問題になっている。
これにも笑ったね。車の免許じゃあるまいし。そんなことが実施されたら、現場の教師は、検定のための「勉強」に終われるだろうし、いろいろ苦労させられるだろう。
そんなことを考えることにこそ、現在の教育システムの破綻があるのだ。
個人的な資質、教育に対する熱意、その人格の程度くらいは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。私は小学校のときから、「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だったと思う。
今だって、小学生、生徒たちは、はっきり見ているはずなのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は、表面は「よくできる」先生だが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしているか。uu先生は誰それさんをヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。etc、etc・・。
たいていの子どもたちは、いつだってかなり正確に「先生喜劇」を見届けている。

クラスにおける教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、権威主義的であり、教育学的に誤りである。

私は教員のレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんな小手先の改革で、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるものなのか。
むしろ、府県単位の教員免許制度を廃止すべきである。ただし、全国共通の教員試験を実施せよ、というのではない。一府県で教員免許を取得した人は、どこの府県でも教育者として採用できるシステムを確立すべきではないか。

最近、いじめの問題が深刻化して、自殺する児童、生徒が出てきたが、これまで文部科学省には、そうした深刻な事例は一件も報告がなかったという。
そういう連中が、教育界を停滞させ、ひいてはレベルを低下させてきた。その責任を問うべきなのだ。
(「児童虐待防止法案」なるものは、すでに昭和4年に、当時の帝国議会に提出されているくらいなのだ。ウソだと思ったら調べてみるがいい。こういう「いじめ」が、戦前の日本の陸海軍にはびこっていたことは否定できない。下級兵にかぎらない。下士官クラスの新兵いじめ、部下いじめのひどさ、悪辣さ、陰湿さを思い出すがよい。)

教育問題については、いずれまたとりあげよう。

499

本を読むのにあきたり原稿が書けないとき、CDを聞く。

中国、韓国、香港、台湾のシンガ-もずいぶん聞いた。ただ聞いているだけだから、少し前の有名歌手も、最近の新人も区別がつかない。
好きなシンガ-もたくさんいるし、好きなCDも多い。

たとえば、子小 悦 を聞く。田 震、陳 明以後の歌手だが、とてもいい歌手だった。アルバムのタイトルは「快楽指南」(上海声像出版)。タイトル曲はあまり感心しないが、つぎの「情舞」から「新人愛語」を聞いて、関心をもった。
「黄昏放牛」でまるっきりのヨ-デルも歌っているのだが、「漂漂亮亮」あたりがいい。

このひとの別のCDが入手できないのが残念だが、そのうちにまた別のシンガ-が見つかるだろう。

498

映画の撮影には困難をきわめた。クランクアップしても、打ち上げをする余裕がなかった。現地から逃げるようにしてスタジオに戻った。
撮影、録音、編集をすへて終わって試写にかけたとき、会社の人々は欣喜雀躍した。
だが、検閲が残っている。

「いい映画です」
ゆっくり担当官がいった。
「外国人にはウケるでしょう」
担当官はつづけた。
「しかし、外国人が喜ぶのはかならずしもいいことではない」
主演女優は、頭がくらくらして、担当官の声が遠のきはじめた。
「この映画は国外では上映してはならない。国内でならかまわない」

国内各地で上映された日、観客からは絶大な称賛の拍手が起きた。しかし、それも束の間、当局から、全国の上映館に、即日上映禁止、フィルムの回収が通達された。

中国の映画女優、劉 暁慶(リュ-・シャオチン)の回想を読む。
残念なことに、「芙蓉鎮」、「西太后」しか見たことがない女優さんだが、彼女は自分のスキャンダルを臆せずに語り、政治に翻弄されていた中国映画界の裏面を知ることができる。

497

バイロンの詩は好きではない。しかし、その女性観は興味深い。

「私に感心するだけの賢さはもっていてもらいたいが、自分が賛美渇仰のまとになりたいと思うほど利口であっては困る」という。

三島 由紀夫なら、おなじことをいいそうな気がする。

少し論点を変えれば・・・・自分が賛美渇仰のまとになりたいと思うほど愚かな女はいくらでも見つかる、ということになる。
たとえば、毎月の「プレイボ-イ」に出てくるヌ-ド。