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ある日、石井 漠と徳川 夢声が新橋あたりを歩いていた。
石井 漠が、とあるビルに眼をやって、
「ねえ、きみ、あのビルは動いているのか、いないのか」
と訊いた。
「ビルが動くはずがないじゃないか。どんなビルだって動いていないよ」
徳川 夢声があきれたような顔で答えた。
「ところが、じつは動いているんだ。ほんとうは、倒れまいとして、しっかり立っているだけなんだよ」
石井 漠が答えた。

映画批評を書いていた頃、私はよく新橋を歩いた。この界隈には試写室が多かった。映画を見終わって、戦後から大きく変わってしまったあたりを歩きながら、ときどき、このエピソ-ドを思い出した。

どこで読んだのか。何かの雑誌に出ていたのか、夢声の随筆で読んだのか。
日中戦争がはじまった翌年(1938年)頃の話らしい。
石井 漠は、当時の日本を代表する舞踊家。徳川 夢声は、活弁(活動弁士/無声映画の説明者)から漫談に転向し、さらに俳優として映画や舞台に出た。
戦後も、吉川 英治の『宮本武蔵』や『新平家物語』のラジオの朗読で人気があった。
石井 漠、徳川 夢声を知らなくても、このエピソ-ドからいろいろと考えることができる。