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  「NEXUS」45号 あとがき  (Revised) Date: 2007-03-25 (Sun) 
   

 ようやく「NEXUS」四十五号が出ることになった。
 早くから原稿を寄せてくれた人びとには申しわけないと思っている。これまでのペースをつづけていれば昨年の夏には出せるはずだったが、私個人の事情をふくめていろいろと不手際が重なったため、こうした結果になった。残念だが、これもやむを得ない。

 「NEXUS」を出すようになって、すでに十年の歳月を閲している。このあとがきを書くついでに、「NEXUS」をはじめた頃のことを書いておく。
 私事にわたって恐縮だが、私は二つの大学で講義をつづけながら、一方では、翻訳家志望の人たちを相手に翻訳の実習クラスを指導していた。
 私のクラスには優秀な人たちが多く、やがて多数の翻訳家がぞくぞくと登場する。

 その頃、吉沢 正英と親しくなっていた。「日経」の映画批評のコラムを担当していた新聞記者で、個人的にも親しくなり、月に二、三回はいっしょに登山をつづけていた。
 その吉沢君が思いがけない病気になった。彼の発病を知らせてくれたのは、結婚してまもない夫人、吉沢 万季だった。私はすぐに万季に会って、彼の病いの重篤を知ったが、正英君の不運に暗然とした。
 私たちにつきつけられたのは、ガンであることを告知するかどうかという問題だった。私としては――彼に残された時間がかぎられている以上、彼がひそかに志していた創作に専念できるように、と願うしかなかった。このとき深夜まで検討したうえで、夫人はガンを告知はせず、彼がそれまでとおなじ生活をつづけることにきめたのだった。万季としても、ぎりぎりの選択だった。
 このときから、私は吉沢 正英のために何かできることはないかと考えつづけた。むろん、本人にも、ほかの仲間にも絶対に真実を告げずに。

 私にできることは何もなかった。彼といっしょに登山などできるはずもなかった。私は、数年前から吉沢 正英とふたりで、ガラン谷縦走という難コースを踏破する計画を立てていたが、これも断念した。私は懊悩していた。
 それからも、できるだけ機会を作っては彼に会っていたが、お互いの近況、友人の誰かれのこと、お互いの仕事の話をしてもまったく病気の話は避けていた。彼が不治の病におかされている。それを私は知っているが、本人は知らない。私はそ知らぬ顔で、映画の話や小説の話ばかりしていた。いっしょに試写を見た「ダウンタウン物語」に出たふたりの美少女、ジョディ・フォスター、フローリー・ダガーのことはよく話題になった。彼はジョディをいち早く認めていたが、私はフローリーのほうが好きだったことを思い出す。彼は、難コースのガラン谷でなくても、まだほかに適当な山があるといって、いつかまたふたりで登りたい山の話をしていた。
 彼も私のことを心配していたのかも知れない。いくら水を向けても山に登る話になると、私がしりごみするようになっていたから。

 ある日、しびれを切らした彼は、とうとう強引に私を誘って山につれて行くことにしたのだった。初心者向けのコースだった。
 しばらく登山を休んでいた私はすっかり体力がなくなって、初心者コース(といっても、まるっきりの初心者が歩く程度のコースではなかったが)なのにひどくバテた。おどろいたことに、彼はまったく疲れを見せなかった。その山を降りる途中で、もう一つ別のコースを選ぼうと主張した。そのときの私はもはや気力がなくなっていた。
 山を降りて、ふもとの温泉につかりながら疲れをやすめたが、もうつぎに登る山の話題は出なかった。私はもう気力も体力もなくなっている。おそらく二度と山には登れない。無残な思いがあった。これが私と吉沢君の最後の登山になった。
 
 しばらくして、吉沢君の体調が少しずつわるくなってきた。私に考えられるのは、できるだけ彼の近くにいて、病気に関係のない時間をすごすこと。彼を疲れさせないで、何か気分転換になることはないものか。私は翻訳のクラスにきている若いお嬢さんたちを誘って、吉沢君といっしょに近場の街を歩くプランを考えた。吉沢君の知らない土地に案内したり、日頃、彼が眼にするはずもない催しものを見に行く、そんな〈ぶらり旅〉でいい。
 柴又の帝釈天詣でのついでに矢切の手繰り舟で、北葛飾に。たとえば、馬琴、源内、北華などの墓。浄閑寺なら荷風の詩碑、苦界に沈んだ遊女の塚。山の手育ちの吉沢君の知らない場所ばかり。同行するお嬢さんたちも知らない土地なので、けっこうよろこんで参加してくれたのではないかと思う。
 だが、吉沢君の病状はますます悪くなって、ついに途中から姿を見せなくなった。

 それでも、少しでも彼の病状がよくなれば、かならず参加してくれると期待してクラスの人たちとぶらり旅≠つづけていた。やがては、吉沢君の住んでいる中野に近いというだけの理由から新宿のデパートの絵画展に行ったり、最後には中野の駅の周辺に集ることまで考えた。しかし、吉沢君はその集まりにさえ出られなくなっていた。
 参加してくれた人たちのためにリーフレットのようなものを作ろう、といい出したのが安東 サ(つとむ)だった。私はすぐに賛成した。これが「NEXUS」の出発になった。
 私としては、ぜひとも吉沢君に何か書いてほしいと思ったが、もはや彼は何も書けなくなっていた。やがて慶応病院で亡くなった。私たちと吉沢君の〈旅〉もこれで終わったが、その後の「NEXUS」は、それぞれが意欲的な原稿を載せる同人雑誌スタイルに変化してきた。私自身も、編集作業で余ったページ数を埋めるために、かならずエッセイや小品を書いた。
 原稿を書いてくれるメンバーは変わっても、それぞれが地道に文章を書く。それはそれで楽しかったのではないかと思う。
 もとより過大な期待をもってはいなかった。めいめいが人生の一時期、それまでまったく知りあうことのなかった人たちが、「NEXUS」(むすびつき)をもった。それぞれの内部にゆるぎない「NEXUS」(つながり)という実質をもてばよい。そう思ったのだった。

 吉沢君が亡くなる前から、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きあげようと決心した。お互いにジュヴェのことは、よく話題にしたせいもある。しかし、この仕事は困難なものになって、ついに吉沢君に読んでもらうことはできなかった。おそらく、私もまた人生の大きな転換期にさしかかっていたのかも知れない。吉沢君が亡くなったあと、私は「NEXUS」の人たちと勉強をつづけていた。やがて、「SHAR」という集まりを作った。だが、「SHAR」に参加してくれた人びとのなかで、宮崎 佳子、神山 和夫、阿久津 里香とつづけて別れなければならなかった。この人たちは私の内面にそれぞれ大きなものを残したと思う。それを信じつづけることが、私をささえてきたし、「SHAR」の仕事にも何らか大きな可能性を秘めていたといえるかも知れない。
 
 私が知りあった当時、二十代だった人たちも、いまは大半が四十代にさしかかっている。今は、ほとんどの人が翻訳ばかりでなく、エッセイ、小説、戯曲などを書くようになっている。すでに一流の訳者として知られている人も多い。
 その意味で、「NEXUS」の目的は充分に達したと思う。もっとも、目的に達したと思ったとき、私たちは――自分のたどった道はただしかったと思い込むものだが。

 残念ながら、「NEXUS」はもはや命脈がつきていると見てよい。ここしばらくの私は、たえず自分がいま何をしようとしているのか、何をなし得たのか問いつづけてきた。「SHAR」は、ほんらい「問い」という意味なのである。
 いや、こう言い直そうか。私は「NEXUS」で何をつづけてきたのか知らない。「NEXUS」から何が生まれたのか。また、将来、何が生まれてくるのか。それをすでに私は知らない。

 昔の雑俳(元禄十年)を読んでいて、こんな句を見つけた。

 がたがたの我他にがもなくたがもなし

 くだらない雑俳に思わず苦笑する。だが、この一句、なぜか心に残った。なんとなく、現在の私の心境に近いものを感じたせいだろうか。

 さて、これで私の「あとがき」は終る。がたがたの文章だが、まあ、「NEXUS」の埋めくさぐらいにはなるだろう。

 

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