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  竹内紀吉くんのこと Date: 2006-09-04 (Mon) 

 竹内紀吉君が亡くなってからかなり時間がたっているのだが、私の内面にぽっかりあいた大きな空隙はそのまま残っている。
 身近な友人や知人たちが亡くなるたびに打ちのめされたが、それぞれの悲しみはなんとか耐えてきたような気がする。ところが、ここにきて竹内紀吉までが私を見捨ててしまった。そんな思いがあった。
 竹内紀吉君と出会った。どこでどのようにして会ったのか思い出せないくらい、ごくふつうの出会いだった。ありきたりの成り行きで彼に会って、彼とのやりとりのなかで、お互いに親しくなって行った。今となっては、やはりまぎれもない縁扮(えにし)としかいいようがない。

 竹内君は浦安図書館を作ったことで知られている。図書館学が専門で、図書館のありかた、すこし大きくいえば社会と図書館のかかわりかたにこだわりつづけてきた。いつも多忙で、地方都市があたらしい図書館を作る計画に招かれたり、図書館法や司書の養成といった実務的なことでもゆたかな経験を買われて、各地からいろいろと講演の依頼がくるようだった。竹内君はただでさえ多忙なのに、そういう仕事を片っぱしから引き受けて、結果としてはいつもエナージェティックに全力をつくすことになったのだった。
 波に乗るというか、あぶらがのるというか、おそらくその両方だったのだろう。そのくせ、私の顔を見ると、いつも小説を書きたいというのだった。
 私は戦前の本所小梅、彼は戦後の本所両国で育った。芥川龍之介が書いているのだが、本所は「見すぼらしい」町で、美しい家などどこにもなかった。しかし、幼い少年の日に自然の美しさを教えたのはやはり本所の町々だった、という。
 龍之介がすごした頃のおもかげは、震災、戦災で、まったく失われたが、それでも私と竹内君には大川の近くで育ったという親しみがあったかも知れない。お互いに大学で教えていたし、お互いに千葉というがさつな土地に移り住むことになったのだから、似たものどうしのよしみがあって当然だったかも知れない。

竹内君から聞いた話で心に残ったことはいくらでもある。
 竹内君は小岩かどこかの小学校を出たらしいが、同窓会にはいつも出席していた。小学校の担任は若くて美しかった先生で、竹内君が図書館から大学に移った頃はきれいな老女になっていたが、竹内君が図書館長になり大学の先生になったことを心からよろこんでくれた。
 竹内君もなつかしく受け答えしながら、ふとどこかでその先生に対する淡いあこがれがたゆたっていることに気がついて、少しうろたえたらしい。何十年も前のことなのに、その先生の前に出ると、たちまち少年にもどってしまうようだった。私はそういう話をする竹内君が好きだった。
 フランス語の研修でグルノーブルに行ったとき、いよいよ日本に帰国するとなって、それまでほとんど会話らしい会話もしなかったポーランドかどこかから研修にきていたおばさまが涙ぐんで、彼に別れのことばをかけてきたという。お互いに異国で勉強している身で、まして当時のポ−ランドは共産圏に組み込まれていたから、フランスを去ってしまえばお互いに二度と会う機会はない。共産主義国家では旅行もきびしく制限されていたし、いくら語学の研修であっても交友関係まで見張られていたはずで、その女性の孤独の深さが想像できるのだが、竹内君も少し涙ぐんで別れを告げたに違いない。
 「そのひと、美人だったの?」
 私が訊くと、彼は、ふと遠くを見るような眼になったが、
 「全然。ふつうのおばさんでしたよ」
 私はギャッと笑いころげたが、彼も私の笑いを不快には思わなかったろう。私にしろ竹内君にしろお互いの年齢では、こうした話題にいやらしさはともなわなかった。
 彼の話を聞いて、そのまま小説になると思った。そういうことこそ短編に書いたらいいじゃないか。少年の異性に対する淡いあこがれや、中年を過ぎての、それまで意識もしなかった思いがけない心の揺れを。異国の女性との、さりげない別れも。竹内君も私のすすめに気もちが動いたらしく、いつか暇ができたら書きたいといっていた。しかし、彼は書かなかった。それ以後、竹内君に会ってもその話をしたことがあったかどうか。
 私たちはほんの少し違う分野で、別々に仕事をつづけてきた。しかし、彼に招かれていろいろな場所で講演したり、彼の周囲の人たちと交際するようになった。人生の途上で、いつも文学や、映画を語りあい、そのあれこれへの関心を伝えあった仲間ということになる。
 竹内君は千葉の大学で教えていた。私はべつの大学で講義していたので、よく教育について彼の考えを聞くことが多かった。
 私がわずかに見聞したかぎりでも、学生たちにほんとうに教えたいという意欲や熱意をもっている教育者は、ほんのかぞえるほどしかいなかった。学生にしても、真剣に勉強しようという学生はほとんどいないようだった。たいていのクラスは、まじめに本を読めばすむようなことを、マイクを通して話を続けるような授業ばかりだったのではないかと思う。
 竹内君の授業はおそらくそういうものではなかった。実際に見たわけではないのだから私の推量にすぎないが、竹内君はじつに多くの時間と努力を、人間と人間のふれあう教育という場にそそいだ。学生たちも、竹内君のような先生との出会い、ふれあいがどんなに大事なものだったか、あとになって気がついたはずである。
 その彼がいつも私を羨やましがっていた。
 私の場合は、なんとなく私を中心にした若い女性たちのグル−プができて、竹内君もそのなかの数人と親しくなっていた。竹内君が自宅や別荘にそういう女の子たちを招いてくれたり、神田あたりの居酒屋や、稲毛のビアガーデンで、竹内君といっしょに飲んだりしたことがあった。そのこともよく話題に出たが、竹内君は一人ひとりをよくおぼえていて、
 「先生はいいなあ」
と、羨ましそうな顔をするのだった。
 「何が? いいことなんかあるわけねえよ」
 「あんなにすばらしいお嬢さんたちを、いつも傍にはべらせているんだから」
 たしかに私の周囲には優秀な女性が非常に多かった。その頃は無名だったにせよ、現在、ほとんどがすぐれた仕事をつづけている。大学で教えながらベストセラ−を出したり、医師として生命倫理に関する重厚な翻訳をつづけながらバレエ評論家として知られたり、劇作家として登場した女性もいる。二、三冊の翻訳をだしている程度の女の子はいくらでもいた。
 中国から千葉大に留学して、今はシンガポールで経済関係の仕事をしている遅芳や、在学中に工学博士になった王婷たちも竹内君に紹介した。
 そんじょそこらの学生とははじめから知的なレベルが違っているのだから比較にならないのだが、とにかく私の周囲に、いつも若くて美しい女性がひしめいていることを竹内君は羨ましがっていた。
 私と会うときは、そうした女の子たちの話題が出た。私は女の子たちの仕事や消息を教えてやるのだった。
 私はけっして他人のわるい噂をしないし、他人の私生活を話題にしたことはない。しかし、彼がいつも私のグループのことを話題にするのがうれしかった。これが松島義一になると、わざと露悪的に、私がいつも身辺に美少女をはべらせているといっては、酔いにまかせてことさら私を嘲弄したり、あらぬ話題をもち出しては同席している竹内君を鼻白ませたりするのだが、竹内君はけっしてそんなことはなく、彼女たちを賞賛しては私を羨ましがっていた。なかでも女子美の助手だった大河原優紀、翻訳家の竹迫仁子、田栗美奈子、青木悦子、濱田伊佐子、圷香織たちがご贔屓で、いつも彼女たちのことを話題にした。
 最後にいっしょに飲んだのは、去年の三月、ちょうど大学の卒業式の日だったが、そのときも、しみじみと、
 「・・さんは、ほんとうにセラフィックな女性ですねえ」
 と、感にたえたように私に話していた。

 那須に竹内君の別荘があった。
 夏になると彼が招いてくれたが、いつも千葉で会っていたから特別に旅をする気分はなかった。
 夏の朝、那須温泉に着く。わずかな乗客が出て行く。迎えの人の姿もない。私はゆっくり改札に向かう。誰もいない構内に竹内君がぼんやり立っている。私がなかなか出てこないので急行に乗り遅れたと思ったらしい。私を見たときはほんとうに安心したような顔になった。
 山荘まで車で20分ばかり。夏なのに、那須の山々は中腹から下があざやかな新緑が萌えていた。遠くに見える村落の森。白く乾いたドライヴウェイ。平野を断ち切るような高原。いつだったか、三度小屋から朝日を縦断して、福島県に抜けたことを私は思い出した。途中の別荘の庭には花々がみだれ、綺麗に刈り込まれた芝生が、水に濡れて金砂子を敷きつめたように光っていた。
山道を走りながら、話はすぐに文学の話になる。先生、××(作品)をお読みになりましたか。あれはいいですねえ。彼の話題はいつもそんなふうにはじまるのだった。
 竹内君の山荘は、竹内君のもとの別荘によく似ていた。千葉県の三芳村に建てた別荘で、8畳ばかりの和室、となりに仕事場。そこには机、手作りの本棚があって、蔵書が並んでいた。愛犬のハナがシッポをふって迎えてくれるところまで似ていた。
 山荘に着いてすぐに入口のスペースに駐車場を作ったという。私に見せたくてしようがないらしい。わずかなスペースを開いて、石を積み上げ、セメントを打っただけだが,軽自動車がじゅんぶんに入るのだった。何もかもひとりでするのだから、たいへんな労力だったろう。
 竹内君の教養や誠実さについては、誰しも認めるところだが、私が思い出す竹内君は、その竹内紀吉ではない。駐車場にセメントを流したり、愛犬のハナを乗せてドライヴしたり、ボ−トで沖に出て釣りをしたり、バイクやランドクルーザーに私を乗せて、近くの喫茶店に乗りつける竹内君なのだ。

 その日の夕方、さびれた温泉のあとに案内してくれた。季節はずれのせいか不況の影響なのか、那須には廃業したホテル、旅館が多い。廃業した旅館のひとつの跡地に、温泉が勝手に流れて、いわば天然の露天風呂のようになっているという。
 温泉は、ふたつの池をつないだようなもので、ちいさな池に、都会からきたらしい若い男女がのんびりつかっていた。もともとは誰も知らない場所だったが、週刊誌に出たとかで、最近はウィークデイでも人が集まってくるらしい。あたりは山に囲まれて、自然の樹木が見られるし、旅館の玄関口だった場所に駐車できる。
 竹内君といっしょに、上の池に入ることにした。脱衣場だったらしい棚も、風雨にさらされたまま残っている。
 いくらかぬるい温泉だった。大自然のなかにこんな露天風呂があることに心を奪われていたし、竹内君とふたりでのんびり湯につかっていると、旅の楽しみを味わうことができた。お互いに黙って透明な湯につかっていただけだった。
 手入れも何もしていないので、足の下は小石がずっしりとつもっている。からだを動かすと、その小石が砂埃りをあげて、湯の中にフワーッと浮かびあがる。少し大きな石には、硫黄に付着する海藻のようなものがこびりついている。それを指でこすり落とすと、軽石のような肌ざわりの石になるのだった。
 竹内君と過ごしたなかで、このときの入浴がいちばん心に残っている。

 やがて山荘に戻った。
 もう夕方で、食事の仕度をしなければならない。いつもなら竹内君が食事の仕度をする。彼は器用な手つきで魚をさばいたり、サラダやス−プを作るのだった。私も自分で食事を作るくらいはできるのだか、その晩の竹内君はめずらしい小料理屋に案内しましょう、という。
 鄙びた温泉地のはずれに、目的の小料理屋があった。大きな田舎屋敷を改装しただけの店で、入り口に入ってすぐ、板敷きの部屋に、囲炉裏がふたつ切ってある。炭火がおこしてあって、藺草を編んだ座布団を出してくれる。
 この店の主人が釣ってきたイワナやジャガイモ、ネギなどを竹串に刺して囲炉裏の鉄床に立てて焼く。秋田のキリタンポのような素朴な料理だったが、味もよく、なかなかの趣きのものだった。
 酒を酌みかわしながら竹内君と話をしているうちに、あれをやろう、これをやろうというような、宿題がつぎつぎに出てくるのだった。
 私は前年、ガーステンバーグ脚色の『不思議の国のアリス』を上演していた。堤理華、田栗美奈子、青木悦子、圷香織たちを使った。翻訳をしたり創作をするために実際に芝居をやってみるという途方もない計画だったが、週に一回の稽古で、いちおう本格的な舞台を作ったのだった。
 竹内君はこのときから私をつかまえて、
「また芝居をやりましょうよ。このつぎはぜひぼくも出させてください」
「何をやりたいの?」
「『カラマーゾフ』ですよ」
 私は笑った。そんなものができるわけがない。ところが、竹内君は、半分冗談にしても、私の芝居に出たいと思っていたようだった。(注)
「きみならドミートリーがいいかも知れない」
「松島(義一)君も出してやってくださいよ」
「あいつは、さしづめスメルジャーコフだなあ」
 そんな他愛ない冗談をいいあっては笑いころげた。
 話題はつぎつぎに出た。竹内君のことばは自在に流れ出して、ときには時事問題だったり、教育、国語、ときには彼としてはめずらしい巫山雲雨の艶笑譚だったりする。おかげで竹内君と話していると、それこそ三、四編のエッセイを書いたような気分になるのだった。
 しばらくして、私たちのとなりに客が三人入ってきた。外国人とふたりの女性だった。当然、会話は英語だった。女性はふたりとも流暢にしゃべったが、そのひとりは有名な女優さんだった。彼女の英語はとくに流暢だった。私は、少しだけ英語を解するのでこちらに届くことばのやりとりを聞くともなしに聞いていた。
 そのときの話の内容はここに書く必要はない。
私と竹内君は、ほとんどしゃべらずに酒を酌み交わしていた。
 とっぷりと日が暮れて、あたりに深い闇が立ち込めていた。
 この晩のことは、いつまでも心に残った。

 竹内君が那須の山荘につれて行ってくれたり、三芳村の別荘や、保田の海につれて行ってくれたことが、私の人生にどれほど大きな救いになったことか。

 竹内君の臨終の枕頭に立ったことはたしかだが、彼の絶命に立ち会ったわけではない。そのことが今でも私の心から離れない。
 暑いさなか、まったく口もきけなくなって、昏睡しながら病気と戦っていた彼のことを思うとほんとうに心が暗くなる。ただ遠くから見ているだけで、何もしてやれないのが残念だったが、どうすることもできない。あとになって、その喘鳴が Death Rattle だったと思いあたったが、私はただ呼吸困難を起こしていると思ったのだった。彼は私のことばを聞いてもわからなくなっているはずだった。
 彼は眼を見開いていた。眼に潤いはなく、視線は何も見ていなかったし、輝きがなかった。だから私が枕もとにきていることがわかったとも思えないのだが、私が声をかけたとき、不意に私がきていることがわかったのか、私がすぐそばにいて語りかけていることに一瞬気がついたようだった。
 喘鳴がとまった。しっかりと見開かれた瞳は、不気味で異様に見えた。静かなまなざしが私に向けられたとき、私は背筋が凍りついた。竹内君は何を考えていたのかよくわからないながら、いのちの最後の瞬間に自分ではどういうふうに反応していいかわからないようだった。ただ、一瞬、私のことばを聞き届けてくれたような気がした。
 彼がはっきり私のことばを聞いていると思ったのは、私の錯覚にちがいない。しかし、彼の喘鳴がとまって、彼が何かを訴えようとしている。そう思ったとたん、私は涙で何も見えなくなった。しかし、私は竹内君に涙を見せまいとしていた。
 やがて、竹内千佳子さんに声をかけて外に出た。そのときは、あと十分もしないうちに彼が死ぬとは思ってもいなかった。
 私は竹内君の家からバス停まで放心したように歩いた。あとからあとから涙が流れていた。バス停についた頃に亡くなったらしい。臨終に立ち会ってやれなかった、やらなかったことは、いくら悔やんでも追いつかない。

 竹内君のことは――いまはもう、これ以上書けない。
 この追悼の文章でも書きたいことばかり多くて、それをどう書いたものかわからなかったし、あらためて書くにしても冷静に書けるとは思えない。
 もともと私は社交的ではなく、老年になってますますその度合いがひどくなってきているので、そのぶんだけ竹内紀吉を失ったことがひどい痛手になったのだろう。

 しばらく君に別れを告げないことにしよう。


 (注)私たちが話題にした『カラマーゾフの兄弟』は、ジャック・コポオ脚色のもの。まだ無名のルイ・ジュヴェが「ゾシマ」、シャルル・デュランが「スメルジャーコフ」を演じている。コポオ脚色では「スメルジャーコフ」は主役クラスの「役」である。


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