谷田 尚子
私は出来の良い生徒じゃなかった。
訳文に「excellent」と書いてもらえたのは一回ぐらいだったし、教室で正々堂々、褒めてもらうこともなかった。そのぶん、「君は誰に向かって書いているんだ」「困ったなあ」など、ダメ出しはバラエティに富んだ。まともな精神の持ち主ならば、授業が終わると重い心を引きずって、そそくさと家路に着いたろうに、私は恥ずかしげもなく、優秀な仲間達と共に、牛丼の吉野家とか、古い喫茶店とかに行って、先生と語らった。そのうち、どうも先生と私の間に独特の「気」が流れるようになった。軽いコントのような、そんな感じ。
中学生の頃、親の横で、大河ドラマの「勝海舟」を毎週観ていた。愛人役の大原麗子さんが色っぽくて、ドキドキしたものだ。彼女はよく、
「センセ」
と海舟に呼びかけていた。その音の響きに心が震えた。
中田先生のご自宅に電話するようになった私は、あるとき、少しおちゃらけて、あの大原麗子ばりに、
「センセ」
と呼びかけた。まったくの出来心。一瞬のポーズ。すると、まったりとした声で、
「はい、谷ヤン」
と、先生は、末尾のイントネーションをちょっと持ち上げて答えた。
受話器の向こうの含み笑いが感じられた。こちらは名乗りもしないのに、先生は、絶妙のキーとリズムで、私の名前を呼んだ。いや、そんなふざけたことをするのは、こいつしかいない、と楽勝だったのかもしれない。
それ以来、「センセ」と「はい、谷ヤン」は、電話の決まり文句になった。
私は先生をよく呼び出した。
舞台に関わる仕事をしたいと告げると、「君が演劇を選ぶなんてねえ」と驚き、先生は宙を見上げた。
演劇の情報誌に初めて翻訳文が刷られ、「ここに、私の名前!」と、見開きページを見せると、ニッと笑って、「良かったね」と目を細めた。
デビューしたての井上芳雄を有楽町の高架下の喫茶店で紹介すると、彼が席をちょっと離れるなり、「子供じゃないか!?」と目を丸くし、私がまるで誘拐犯か何かのように嘆息した。
10年後、千葉駅の喫茶店で「石丸幹二と個人事務所を立ち上げようと思って」と報告したら、「君はまあ、女性の体が辛くなる頃から、新しいことを始めるんだなあ」と、呆れたように、私の顔をまじまじと見た。
もちろん石丸の舞台に駆けつけてくださった。
終演直後、「シャーロック・ホームズだ。ホームズをやりなさい」と、先生は私を強く見据えて命令した。なんだか具体論に入れたようで、嬉しかった。
残念ながら、ホームズ役はベネディクト・カンバーバッチに先を越されてしまった。
明智小五郎役は舞い込んできたけれど、実現に至らなかった。
それから15年、私は、芸能界の末端で生き抜くのに精いっぱい、毎年届く先生との集いの案内にも答えられず、きっともう知らない人ばかりだろうなあ、と微かに罪の意識を感じていた。でも、昨秋、今年は行かなきゃ、と、心が言った。
会場に着くと、まだあまり人が来ていなくて、先生が一人座っていた。
始まりの時間じゃないけれど話してきていいよ、と言ってもらえ、私は近づいた。
「センセ」
私を見上げ、先生はあの笑みを浮かべた。
「想像してたより、ずっと元気そうで、良かった」
「ダメだよぉ。もうこれがないと歩けない」
と、先生は杖を指さした。
「でも歩けるんだから、それでいい」
他愛ないことを話すうちに皆が集まってきて、そのままグループトークに流れていった。
先生は「ぎこちない間」について語ってくれた。「フランス語では、こう言うんだよ」と。
自分のグループの時間が終わると、私は、会場を後にした。
先生の閉会の言葉を聴くのを、本能的に避けたのだ。
去り際、エレベーターの前で、「先生に挨拶して帰らなくてもいいの?」と
問われた。部屋の中で、先生は次のグループの人たちと話していた。
その姿だけでいいと思った。
次の日、石丸幹二のCDをどっさり宅配便で送りつけた。
封を開けないまま、きっと先生は天に召されてしまったんだろうな。
今度、会ったら、いつもの挨拶の後で、一番先にそのことを訊ねてみよう。
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