神崎 朗子
柏葉あじさいの花を見るたび、あの日のことを思い出します――中田耕治先生の「生前葬」の日のことを。
あの日、私たちは中田先生と遠足に出かけました。総勢二十数名だったでしょうか。千葉駅から乗ったバスを降り、しばらく歩いて到着したのは、先生のご親戚のお宅でした。広々とした緑のお庭に、はっとするほどみずみずしい、こんもりとした白い花が咲き乱れていました。「柏葉あじさい」という名を、私はそのとき初めて知りました。
お庭にレジャーシートを敷きつめ、陽の光を浴びながら、みんなでお弁当を食べました。私はいつもどおり田栗美奈子先生のとなりに座って、唐揚げを頬張ったのを憶えています。おだやかな話し声が響き、笑顔あふれる、なんとも和やかなひととき……。
そのあと、またみんなでしばらく歩いていくと、緑地が広がっていました。中田先生を先頭に、みんなで一列になって、鬱蒼とした緑の小径をうねうねと歩いていきました。
やがて開けた場所に出たとき、突然、眼の前に現れたのは、巨大な岩のような黒い墓石。中田先生の流麗なご手跡が大きく力強く刻まれ、真っ赤に塗られていました。私は息を呑み、圧倒され、その場に立ち尽くしました。
「これは私の生前葬です。私は葬式をやりませんから、こうしてみなさんに集まってもらいました。ありがとう」
束ごと火をつけたお線香の白い煙がもうもうと立ち昇り、明るい空に吸い込まれていくなか、私は夢でも見ているような気持ちで、みなさんとともに祈りと感謝を捧げました。
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中田耕治先生に初めてお目にかかったのは十二年前、翻訳者としてほんの駆け出しだったころです。田栗美奈子先生のご紹介で、中田先生の私塾「SHAR」(シャール)に入門させていただいたのでした。いわば、末席の孫弟子です。私はそれまでも数年間、翻訳学校で勉強し、さまざまなことを学びましたが、中田先生の教えは、翻訳者として生きていくうえで指針となるものでした。
「小説の翻訳をするときには、小説を読む喜びを読者に与えなければならない」
「原作者に対する敬意を忘れないこと。そして、翻訳にあたっては、原作をどこかで越えること。(中略)原作を誰にも負けない情熱で紹介し、しかも、翻訳家として、原作以上のところを目ざす。それが、勇気なのだということ」
私にはまだ小説の訳書が一冊しかなく、あとはノンフィクションばかりなのですが、それでも同じように心がけ、同じことを目指して翻訳をしています。献本をお送りするたびに、中田先生はどの本も必ず読んでくださり、本のご感想や本を読んで想起されたこと、そして忘れがたいお言葉の数々を綴ったお手紙をくださいました。この十二年間に頂戴したお手紙は、二十通あまりになります。四年ほど前、ある訳書に短い手紙を添えてお送りしたときには、中田先生からとりわけ長いお手紙をいただきました。
「これだけの仕事をしたあと、きみがなぜか落ち込んでいた、と知って、じつは驚いている。もの書きなら、誰だって『暗闇をひとりでとぼとぼ歩いているような心地がする』ことはある。きみが全力をあげたあと、一種の脱力感、疲労から、落ち込んだとしても無理はない。(中略)これは今のきみでなければ翻訳できなかった、すばらしい本だと思う」
私は泣きました。いまでも読み返すと、泣いてしまいます。
中田組の先輩方はみなさんご存じのとおり、中田耕治先生は一人ひとりに、宝物のようなお言葉をたくさんくださいました――私のような末席の孫弟子にまで。一人ひとりと向き合うことを大切にしてくださり、少しでもいいところを見つけ、伸ばそうとしてくださった。そしてときには、厳しいこともおっしゃってくださったのです。
「翻訳は孤独な仕事だから、きみにも仲間が必要だ」と言って、SHARに迎え入れてくださった中田耕治先生。新入りの私は、先輩方のようにバベルで先生にしごかれたこともなく、先生が演出された「不思議の国のアリス」や「卒塔婆小町」などのお芝居に出演したこともなく、アナイス・ニンやフィッツジェラルドの作品集の翻訳にも参加できませんでした。すべて、遅すぎたのです。
そんな私に、中田先生は『NEXUS』(門下の文芸誌)のバックナンバーを何十冊も送ってくださり、「SHARのみんなは本当の仲間だと思っていい」と何度も言ってくださいました。先生がそのようなお方なので、先輩方もあたたかく気さくに接してくださったこと、心から感謝しています。翻訳者としてほんの駆け出しのころに、中田耕治先生にめぐり逢えた私は、本当に幸せでした。
これからも先生の教えとお言葉を忘れずに、歩んでいきます。
中田耕治先生、本当にありがとうございました。
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