成田 朱美

 中田先生にはじめてお会いしたのはいまから四十年ほどまえになるので、シャールの若いお仲間のなかではもっとも古いかもしれません。
 バベルの翻訳講座で、最初は通信講座を受けていましたが、紙面上でもわかる先生の熱いご指導に、ぜひじかに講義を受けたいと思ったのでした。
 想像どおり、お教室は先生の熱意と学ぶ側の真剣な熱気にあふれ、しーんと静かななかにも独特の緊張感がありました。用意していった課題の訳文を先生に提出したあとはいつも机の下で膝ががくがく震えていたのを覚えています。はたして自分の訳文が訳例として読み上げられるか、読んでいただけた場合でもどんなご注意や批評をうけるか生きた心地もしないひとときでした。先生と生徒の真剣勝負です。
 先生はつねに本気で私たちを仕事がいただける翻訳者に育てようと厳しく、そしてやさしく教えてくださいました。とても実践的でもありました。
 当時の仲間の一人が、ペン習字を習っていると話してくれたことがありました。まだワープロもパソコンもなかったころ、原稿はすべて手書きでしたが、出版社の編集者によい印象をもってもらうためにも文字はきれいにと先生に注意されたとのことでした。

 その後まもなく、先生から原稿を書くにはワープロを使うようにとのお達しがありました。要するに手書きからタイプを打つようにキーボードを打つ書き方になり、それが時代の趨勢だと先生はおっしゃるのです。大枚をはたいてワードプロセッサーなる器械を買ったはいいけれど、慣れない扱いに四苦八苦。一文字打っては間違えて打ち直し、ちっとも先に進まない訳出作業にうんざりして、これなら一生手書きでもいいとさえ思ったものでした。
 誤字脱字、文章の推敲はインク消しで消してから書き直すか、切り貼りをしなければなりません。原稿を仕上げ、締め切りに間に合わないので、電車で出版社に向かう途中の車中で切り貼りした覚えもあります。それがワンタッチで間違いを書き直せる便利さと速さに私たちは脱帽しました。と同時に先生の世の中を見据える先見の明にも驚嘆したのです。
 まだ一般のオフィスでワープロもパソコンも使われていなかったころです。

 緊張の授業がすむと、先生は近くの喫茶店や安い飲食店にちょっと寄って生徒同士、先生と生徒の交流の場を作ってもくださいました。翻訳のこと以外にも先生は古今東西の文学や演劇、映画、音楽などありとあらゆるジャンルのお話をしてくださり、また私たち生徒のひとりひとりを知ろうとしてもくださいました。集まりのときも途中で何度もご自分の席を立ち、さまざまな席に移られてみんなに話しかけ、また話を聞いてくださいました。ひとりひとりの人間に興味をもち、だいじに思ってくださるすばらしい教育者でもいらっしゃったと思います。翻訳教室の参加者を中心にそうしてできたのが、QTと言われる集団で、シャールの前身のようなグループだと思いますが、なぜQTなのか名前の由来はいまだに定かではありません。
 ともすると孤独になりがちな、翻訳の勉強や仕事に日々追われている私たちに机上の勉強だけでなく、人との交流や芸術を鑑賞する大切さを教えてもくださいました。ギャラリー、能、演劇の舞台、銀座の街中、自然のなかへのハイキングや散策、いろいろなところに連れていってもくださいました。なかでも楽しかったのは佐倉での合宿でしたでしょうか。
 活躍中のお忙しい作家や脚本家の先生方を集まりに呼んでくださってお話をうかがう機会も作ってくださいました。なかでも中田先生の大先生であられた内村直也先生にもお目にかかることができ、内村先生のお好きな「津軽海峡冬景色」や「アリラン」を一緒に唄ったことは懐かしい思い出です。

 毎年、お教室の年度末になるときまって先生は、「もう来なくていいよ!」とおっしゃるのが口癖で、私たちは戸惑わされたものです。才能ないからこれ以上来ても無駄だよ、と言われているようで。ぼくはもうアルツハイマーだからね、とごまかされることもありました。
 オロオロとただ、継続は力なり、と勝手に思うことにして講座に通わせていただいているうちに、先生のおかげである映画の原作小説を翻訳出版させていただくチャンスに恵まれ、やっと訳者名が付されるお仕事ができるようになりました。
 折しも原作者、主人公、翻訳者がすべて女性という翻訳エンターテイメント・ブームもあって、女性翻訳者がもてはやされた一時代もありました。V・I・ウォーショースキーというシカゴの女探偵に憧れ、いつかこんなヒロインが登場する小説を訳してみたいとも思っていました。いうまでもなく先生のお教室からも多くの優秀な翻訳者が巣立っていきました。

 ありがたいことに仕事で忙しくなってお教室に出られなくなってからは、新刊の拙訳書が出るたびに、夜クラスのお教室が終わるころ先生にお届けにうかがいました。ますます人気の高い先生の講座にはたくさんの後輩たちがあふれていました。
 先生はやがてバベルを離れ、独自の翻訳講座、文学講座を立ち上げられて、時間があるときは顔を出させていただき、また新たな気持ちで勉強を始めました。なんと演出家でもいらした先生は翻訳の勉強にも演技することを取り入れられていてびっくりさせられました。お教室はそのつど文京区の春日、護国寺、月島、吉祥寺などあちこちに移り、最後には千葉に。まあ、先生の追っかけのようなものでした。

 先生はいつも集まりの席で、「小説を書け!」とだれかれとなくおっしゃっていました。小説を訳す者として、自分で小説を書くくらいの気持ちをもてと話していらっしゃるのだと思っていましたが、どうもそればかりでなく、ほんとうに自分で小説を書くとよいと思われていたようでした。
「そんな、とんでもない! とてもそんな才能は……」と謙遜する私たちに、先生は「ただ書けばいいんだ!」とおっしゃるばかりでした。
 そんな中から実際にミステリー小説新人賞の大賞を受賞してプロの作家としてデビユーされたのが、なんと翻訳事始めのころ机を並べていた仲良し、ペン習字の彼女でした。精緻な構成のミステリーをわくわくしながら読ませてもらっていましたが、多忙のためか若くして病をえて早世され、もう彼女の作品は読めなくなりました。

 数年のち私はあるミステリー作家が主催する地方都市の小さなミステリー小説新人賞に応募したことがありました。その先生はだれもが知る著名な本格ミステリー小説の大家ですが、私は本格ミステリーのなんたるかもよく知らず、受賞や入賞などはこれっぱかしも期待せず、ただだれかに読んでもらえるだけでうれしいと応募したまででした。一次、二次の審査を通って最終審査の三名に残り、私にはそれで十分でした。
 千葉での講座や集まりで先生にお会いするたびに、そのことをご報告したものかどうか逡巡する日々がつづきました。受賞したわけでもなく、恥ずかしくてお話しする勇気がでないまま、つい言いだしそびれていました。
 選者の先生は受賞された方には「穴のあいたジーパンを着ている感じ」。それに対して私には「きちんとしたパンツスーツを着ている感じ」と違いを評されました。生真面目な書き方に好感を持っていただいたようでしたが、なんせミステリーとしては荒唐無稽でした。
 中田先生にお話ししたら、「やっぱりね!」と笑ってくださったのではないかと思います。
 ここ数年は先生にお会いできる日もほとんどなくなり、ついになにもお話ししないうちに先生は旅立たれてしまいました。遅かったと、かえすがえす悔いが残ります。
 それにも増して昨年11月の最後になってしまった中田先生を囲む会に出席できなかったこともことばにできないほど無念でなりません。愚かな弟子でした。

 最愛の奥さまを失くされて悲嘆にくれる一句を送ってくださった先生、いまはきっと美しい奥さまのもとでともにゆっくり休まれていることでしょう。
 私の半生を導いてくださった中田先生、ありがとうございました。
 でもお別れはいいたくありません。
 先生は私たちにとてつもなく大きなものを遺してくださいました。
 先生のご講義、とくに文学講座の膨大なノートも残っています。そのときはまだ読んでいなかったたくさんの文学作品も含めて、また改めて読み返し勉強させていただきます。
 低音の魅力で語られる先生のお声が鮮やかによみがえることでしょう。

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