68

イプセンの「野鴨」の劇評。
「ああ! この芝居を見た人たち(観客)、翻訳したランダンローブとエフライムたち、作家(イプセン)、着想させたシェイクスピア、神も、悪魔も、誰ひとり、「野鴨」とは何か、ドラマのなかで何が行われているのか、何を意味しているのか、何を語っているのか、誰ひとり、まったく絶対に理解していないだろう。」
19世紀でもっとも権威のあった劇評家、フランシスク・サルセー。
わけのわからない芝居を見せられたときの劇評家の表情がよくわかる。私は、サルセーを軽蔑してはいない。ただ、サルセーのような劇評が堂々とまかり通っていた時代を軽蔑している。

67

リンゴをひろって、そっとバッグにしのばせた。旅を終えて、帰国してすぐにそのリンゴの種を鉢に埋めた。毎日、芽が出るのを待ち続けたが、いくら待っても芽は出なかった。ヤスナヤポリヤナの果樹園に落ちていた小さなリンゴ。
トルストイは家出をする直前まで、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいたらしい。粗末な机の上に、本のページが開かれたままになっていた。……
ドストエフスキーの書斎の壁に、ラファエロの聖母がかけられていた。毎日、この聖母に祈りを捧げた。トルストイの寝室には、別のラファエロの聖母像がかけられていた。トルストイは、毎日、この聖母に憎悪の眼をむけていた。

66

いくら愛していても、イヌはイヌ、人間は人間の領域をまもるべきだという。人間がイヌから野生の自由を喪失させて、ペットにしていいものか。
これは、ほんとうにイヌ好きの人の内面にきざす倫理的な問いのひとつ。
こういうことを考えない人は幸福なのだ。
D・H・ロレンスは考えている。

65

ミレイユ・バラン。
わが国では「望郷」以外、ほとんど知られていない。
「望郷」のラスト、ミレイユはマルセーユにむけて出航する汽船の甲板からアルジェを眺めている。恋人のペペ・ル・モコの叫びに汽笛の音がかさなって、思わず耳をおおってしまう一瞬のミレイユ。彼女の姿は私の心から永遠に消え去ることはない。

64

ヒロイン。「彼女」を知ったときから、自分がもはや以前の自分とはまるでちがった状態に生きている、と思わなかったか。
小説や映画のヒロインたちひとりひとりは、けっしてきみの期待を裏切らない。ところが、きみはすぐに「彼女」を忘れてしまう。
たいていの読者、観客は不実なのだ。

63

『2046』は日本ではあまり評判にならなかったが、「第24回/香港電影金像奨」で、梁 朝偉(トニー・レオン)が最優秀主演男優賞を、章 子怡(チャン・ツィイー)が最優秀主演女優賞をうけた。ほかに最優秀撮影賞、衣裳デザイン賞、音楽賞もさらっている。(‘05.4.)
張 曼玉はほんのおつきあい。鞏 俐はしどころがない。カリーナ・ラウは平凡。王 菲はミス・キャスト。それだけに章 子怡の演技には瞠目すべきものがある。いつか、この映画の批評を書いてみたい。
王 家衛は私の好きな監督のひとり。もっとも、徐 克のほうがもっと好きだが。

62

「チリの大地震」は短編小説の傑作のひとつ。
ドイツの作家にはあまり関心がなかったのだが、この短編を読んだおかげで、自分でも意外にドイツの文学を熱心に読んできたと思う。
尊敬している作家は、ホフマンスタール、ツヴァイク。批評家では、オイゲン・ヴィンクラー。ヴィンクラーの著作がまったく翻訳されていない。残念な気がする。

61

しめじご飯をたべる。
子どもの頃、母が作ってくれた炊き込みご飯や、まぜご飯を思い出す。
エダマメやクリ、ときにはギンナン、ムカゴなど。クリは、鬼カワ、渋カワをむいて、網の上で、じっくり焼いたものだった。焼いている途中で、つい、口にほうり込む。よく叱られた。それでもおいしかった。
帆立、アサリの炊き込みご飯はたべたことがない。今でも、あまり好きではない。

60

「キリマンジャロの雪」が、私のはじめての翻訳だった。
民間放送がはじまる前に、内村 直也さんが若い俳優の養成を考えて、「芸術協会」をはじめた。私はこのとき朗読のテキストを探して、ヘミングウェイに出会った。
この訳を俳優の三島 雅夫が読んで、アーサー・ミラーの「みんなわが子」の訳を依頼してきた。私の訳は戯曲の訳として、まるで使いものにならなかった。演出家の菅原 卓につよく叱責された。このときの経験が今の私を作ったと思っている。

59

イタリア料理について。じつは何も知らない。
東京でも、パスタ、ニョッキ、リゾット、いろいろ食べてみたが、ほんとうにおいしいものにぶつからなかった。私はまるっきりグルメではない。
ローマから北にチヴィタ・ベッキアをへて、モンタルト・ディ・カストロに近い海辺の安食堂でカニとトマトのパスタを食べたが、これはおいしかったなあ。
私の味覚はイタリアの庶民の味覚なのかもしれない。

58

私は、どれほど多くのヒロインたちにめぐりあってきたことか。「ナスターシャ」や「ソーニャ」たち、「エマ」や「ジャンヌ」たちにめぐりあうことがなかったら、私の人生はどう変わっていたか。
私が好きになったヒロインたちは――現実の恋愛とはなんのかかわりもないもので、いわば夢の造形のようなものだった。映画のヒロインたちにたいする関心は、「ヒロイン」と「ヒロイン」を演じた女優たちにたいする、さまざまにニュアンスの違う想念と彩られていたけれど。

57

喇叭。

キグチ コヘイ ハ シンデモ ラッパ ヲ ハナシマセンデシタ

生涯、この一節は私の心から消えない。

56

やれつけ。もう誰も知らないだろう。
中村 三郎の「日本売春史」、明治18年(1885年)の記述にでている。
戦時中に徴用工員を相手にする「矢場女」を見たし、戦後すぐ(1945年)に浅草、田原町の闇市に、葦簀(よしず)張りで「やれつけ」が出たことを私は知っている。
「戦後」のすさまじい頽廃や混乱が想像できるだろうか。

55

マリリンについてはさまざまな機会に書いてきたが、大衆の偶像としてのマリリンにはまったく興味がない。こんなことを書くと読者はおどろくだろうけれど。
私にとって「マリリン」とは、二十世紀に生まれたひとりの女優は、どう生きることができたのか、という設問につきる。
映画女優として好きなマリリンは「人生模様」、「夜のもだえ」、「アスファルト・ジャングル」のマリリン。イノセントなフレグランスを感じさせるから。

54

松浦 静山が林 述斉と会った。閑談数刻におよんだ。
述斉が静山に川柳を披露した。

目はメガネ 歯はイレバにて こと足れど

思わず笑ってしまった。

53

埴谷 雄高がはじめて花田 清輝にあてて書いたハガキ。花田 清輝から借りた本にはさまっていた。文面のなかに「あなたは戦後文学の狂い咲きです」とあった。
その後のふたりは「戦後文学」を代表する思想家になった。
若い頃の私はふたりがはじめて会ったときも近くにいたのだが、そのときのことをなつかしく思い出す。
このハガキはふたりの全集にも入っていない。

52

仲がわるいとつたえられている芸術家の不和、嫉視、確執にまったく興味がない。
マリア・カラスとレナータ・テバルディほどの芸術家の反目や確執ならサマになるが、たいしたこともない連中がいがみあいをしたってはじまらない。
私には見飽きた喜劇なのだ。
台湾第一の美女、蕭 薔と、これも台湾最高のモデル、林 志玲はとても仲がわるかった。ところが、最近、ふたりがすっかりうちとけて言葉をかわし、親しく握手しているというニューズ(’05年6月)を見た。
こういうほうがいい。

51

ダニエル・ダリューは戦前のフランスを代表する美女。『不良青年』は彼女のもっとも初期の映画で、内容はつまらないラヴロマンス。
当時、ダニエルはまだ十七、八歳。アパッシュふうの男もののスーツに、男もののフェルトのハットを斜めにかぶっていた。ディートリヒの男装も見たことがなかった時期で、妖しい魅力に思わず息をのんだ。
シガレットを口にくわえて、こちらを見るまなざし。思わず心がふるえた。

50

「細雪」は、太平洋戦争のまっただなかで書かれた長編小説だった。
ただひたすら戦意昂揚を叫んでいた軍部が、「細雪」のような作品の発表を許すはずもなかった。谷崎潤一郎が小説の発表を禁止された、というニューズは、少年の私にも、暗い時代の重苦しさを感じさせた。
「細雪」に描かれていた時代は、私たちがつい昨日過ごしてきた日々だった。
谷崎潤一郎が小説の発表を禁止された日から、私は谷崎の「刺青」や「麒麟」からはじめて、手に入るかぎりの作品を読みはじめた……。

49

ガルボがはじめて主演した映画は、G・W・パプストの『喜びなき街』だった。第一次大戦の「戦後」の暗い世相を描いた映画だった。(私は、おなじように、敗戦直後の東京で見た。戦後すぐで、日本映画の製作はまだ順調ではなかった。映画館も上映できる映画が払底して、ブローカーがどこかの倉庫にあった古い活動写真のフィルムをひっぱり出してきたらしい。)
この映画では、敗戦後のドイツのすさまじい荒廃、頽廃のなかを、孤独な美少女があてもどもなく彷徨する。ラスト・シーンで、ごった返す雑踏(無声映画だから、その喧噪は聞こえないが)のなかに、まったく無名のマルレーネ・ディートリヒの姿があった。一瞬、ガルボとすれ違うシーン。これを「発見」したとき思わず眼を疑ったことを思い出す。
このことは誰も指摘していない。私は「幻影」を見たのだろうか。