『リュミエールの子供たち』。(95年/日本版「日活」ビデオ)。フランス映画100年史。
1895年3月19日、世界最初の実写フィルム『リュミエール工場の出口』が撮影された。それから一世紀、無数の映画がスクリーンに登場する。
ルイ・ジュヴェは、『北ホテル』、『レディ・パナマ』、『アリバイ』、『帰ってきた男』、『舞踏会の手帳』の5本が入っている。『犯罪河岸』も入っているが、シャルル・デュランのシーンだけ。
『帰ってきた男』は、ギャビー・モルレーに別れをいいわたすラストシーン。『舞踏会の手帳』は、マリー・ベルを相手にヴェルレーヌの詩を口ずさむシーン。
「ごく最近の映画は、ノスタルジーを感じるには近すぎる。だが、それも永遠につづく映画の未来の記憶になる。」
とはいえ、半世紀もすれば、ほとんどの俳優、女優たちの名前は誰の記憶にも残らない。だからこそ私はときどきこのドキュメントを見直す。
投稿者: zion
107
中国語を勉強したかった。記憶力が落ちているし、もともと外国語を身につける才能がないので、とうとうものにならなかった。
中国語を勉強したいと思った動機は、1992年、まだ有名ではなかったシャーリー・ウォンのCD、「執迷不悔」を聞いたせいだった。それからは、チェン・ミン(陳 明)、ナーイン(那 英)、リン・シューホワ(林 淑樺)と聞きつづけた。
私に中国語を教えてくれたのは、千葉大の大学院で教育学を勉強していた小姐と、人工知能を研究していた小姐だった。ふたりとも、たいへんな才媛で、人工知能を研究していた小姐は、卒業と同時に工学博士になり、現在も世界のトップレベルの研究をつづけている。教育学を勉強していた小姐は、千葉大を卒業と同時に、ロンドン市立大の大学院に留学した。私はふたりが去ったため中国語の勉強をやめてしまった。
シャーリー・ウォンは現在の王 菲である。
106
トルストイの『戦争と平和』を訳したことがある。マニュエル・コムロフがダイジェストしたもので、オードリー・ヘップバーン主演で映画化された。日本でも公開にあわせて翻訳することになって、田村 隆一が私に依頼してきた。
ダイジェストといっても4000枚からの長編なので、福島 正実、都筑 道夫、常盤 新平たちにそれぞれ分担して訳してもらうことになった。いまとなっては凄い顔ぶれだが、いずれも個性的な訳者ばかりで、できあがってきた訳は下訳といった程度のものではなかった。
この仕事を終わったあと、肺結核が再発してしばらく寝込んでしまった。
105
ベラスケスの「ラス・メニーナス」を見た。圧倒的な傑作だった。すぐ隣りの展示室に、ジョルジョーネ。これは凄い。さらに奥にゴヤの「マハ」が並んでいる。それほど大きな絵ではないが、こう、たてつづけに傑作ばかり見せつけられると、眼が灼熱してしまう。
イタリア絵画の展示室に階段がつづいている。
ヘミングウェイは、いつもここのグィド・レニの小品の前にたって、あかず眺めていたという。美少女が並んでいる。一枚は農民の娘。もう一枚は小間使いか子守女らしい娘。ヘミングウェイは、どっちの少女がお気に入りだったのか。
「マハ」の前にはいつも人だかりがしているので、誰も見ないらしいグィド・レニを見に行く。彼女たちの美しさは、どんな王女、どんな貴婦人ももたない輝きにみちあふれている。
104
エリック・ホッファーを読んで、こんなことばを見つけた。
「人間の魂のなかの高貴な心性――勇気、名誉、希望、信念、義務、忠誠。こういうものは、ややもすれば仮借ない非情さに変質してしまう。」
戦争で、私たちは、たくさんの勇気、名誉、希望、信念、義務、忠誠を見る。しかし、戦争の現実は、かならず仮借ない非情さをともなうものだ。
ホッファーは沖仲仕のような労働をしながら、自分の思想を築きあげて行った思想家だった。彼はつづけていう。
「ただ思いやりだけが、これをおしとどめられる。さらには、思いやりのある人だけに“静かな細い声”が聞きとれるのだ。静かな細い声、すなわち良心の声である。」と。
勇気、名誉、希望、信念、義務、忠誠といったことばが出てくると、どうしても条件反射的に警戒する。そういうことばを使う連中を信じたくない。
私の声も静かな細い声だろう。
103
新潟に行ったことがある。新潟の新聞にエッセイを書き、テレビに出てマリリン・モンローのことを話した。ずいぶん昔のことだが。
思案小路、甚九郎小路といったゆかしい道筋。西堀通りの由緒あるお寺さん。
鍋茶屋通りで、美しい古町芸者を見かけた。
江戸の儒者、寺門 静軒の『新潟富史』を読むと、昔の新潟の成り立ちや、花柳界のことまで、じつによくしらべあげている。「新潟は多く女を生みまた多く美なり。けだしその土地、陰に位するをもつてならん。妓女は温柔にして、ほぼ京の女に似る。(中略)温にして妬心なく、情客とかりそめの幸いをほしいままにす。これ江都と反す。不義理をとらえて、文句をいうがごときはなし。」
新潟の魅力は私をとらえたが、原稿料も出演料ももらえなかった。ひどい話だ。いまさら「不義理をとらえて、文句をいう」つもりはないが、よくもなめやがったな。その後、二度と新潟に行ったことがない。
102
花について。「美しい花がある。花の美しさなどというものはない」。小林 秀雄のことば。有名過ぎるほど有名なフレーズだが、しばしば誤解されている。
小林 秀雄から離れて、まったく別のことを考える。私の描く花には誰にも見ぬけないものが秘められているのだ。
いつか『ルイ・ジュヴェ』で書いたのだった。
「彼がおのれの裡に見届けているものは、マドレーヌという女、マドレーヌの“花”をすばらしい眺めとして楽しむ自分ではなかったか。」(第五部 第三章)
マドレーヌ・オズレイ。ルイ・ジュヴェの「恋人」だった女優。
私はいつも誰にも見ぬけない、秘められた“花”をこそ描いてみたいと思ってきた。
101
ロンドンで、二度目の同時多発テロが起きたとき(05年7月21日)、目の前が暗くなった。ロンドン在住の知人のことが心配だったから。
事件が起きたのは、地下鉄のノーザン線、オーバル。この系統とヴィクトリア線がつながっているウォーレン・ストリート。ハマースミス・アンド・シティ線のシェパーズ・ブッシュ。
オーバルは知らない。ウォーレン・ストリートとシェパーズ・ブッシュは少し知っている。シェパーズ・ブッッシュで降りて、バッキンガム宮殿までぶらぶら歩いただけで、けっこう遠かったような記憶がある。どうしてそんな歩き方をしたのか、自分でも説明がつかないのだが、バッキンガム宮殿の衛兵交代は見た。たまたま人ごみに気がついて寄って行っただけ。観光客がつめかけていたが、私は名所見物に興味がなかった。
それでも、一度でも行ったことのある場所、少しでも知っている場所はなつかしい。小説にもなんとか書けそうな気がする。もっとも、ロンドンのことは一度も書く機会がなかった。
100
イギリスの戯曲や批評を多く読んできたつもりだが、小説はそれほど読んでいない。はじめから系統的な読書とは無縁で、手あたりしだいに読んできたせいだろう。ほかに読まなければならないものがいっぱいあった。
だから外国の作家についての知識は偏頗なもので、好きな作家、劇作家は徹底的に読みつづけたが、きらいな作家には眼もくれなかった。
詩は翻訳したことがない。むずかしくて歯が立たないからである。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、マリリン・モンローの詩を翻訳したぐらい。ウィリアム・イェーツの戯曲を読まなかったら、彼の詩は読まなかったと思う。
そろそろ好きな詩人を訳してみようか。そんなことを考える。ただ、考えるだけのことだが。
99
『おさん』のヒロインはいう。
「――九月の朝顔、時候はずれだから見る人もないでしょ、花も小さいし、実もならないかもしれないのに、蕾であってみればやっぱり咲かなければならない、そう思ったら哀れで哀れでしようがなかったわ」
男と女の「哀れさ」を見つめること。山本 周五郎は、終生、そういう思いを生きた作家だった。
男がいて女がいる、というのは悲しいものだ、という思い。
私が山本 周五郎が好きなのは、作中人物にいつもそういうせつなさが感じられるからなのだ。
98
「ロリ・マドンナ戦争」は、いわゆるB級映画。きっと誰も知らないだろう。
ストーリーもよくおぼえていないのだが、若い娘が南部の片田舎にやってきて、牧場主(ロバート・ライアン)の一家と、隣の地主(ロッド・スタイガー)一家の対立にまき込まれる。復讐(フュード)テーマだが、意外にいい映画で、当時、どろ沼化していたベトナム戦争に対する批判がこめられていた。
主演女優はシーズンズ・フューブリー。モデル出身で、この映画で新鮮な魅力をふりまいていた。しかし、映画女優としては成功しなかったらしい。
ずっとあとになって、カート・ラッセルの近未来SFに端役で出ていた。私は胸を衝かれた。期待していたほど伸びなかった才能を見ると、とても悲しい。
97
吉行エイスケは新興芸術派の作家。たいへんに早熟な作家だった。十七歳で、「あぐり」(安久利)と結婚して、翌年、長男、淳之介が生まれている。
二十三歳の吉行エイスケは「バルザックの寝巻姿」を書く。ロダンと花子の関係を描いた短編。この年、あぐりは市ヶ谷で美容院をはじめた。
村山 知義の設計した二等辺三角形の建物で、手すりのついた狭い階段から二階に出ると、丸い窓から市ヶ谷の駅前の通りが見える。戦後、焼け残って、ファッション・ブティックになっていた。まるで、モルナールの芝居に出てくるような雰囲気だった。K.K.という、武蔵野美大を出たデザイナーがここで働いていた。
私はある短編でこのブティックを描いた。むろん、吉行淳之介の知るはずもないことだが。
96
モンタンが来日したとき、フランス大使館で歓迎パーティーが催されて、なぜか私も招待されていた。
モンタンは堂々たる風格で、背が高く、ゆたかな声で、みごとなスピーチをした。短い時間、といっても十分ばかり、じつに冷静、かつ明晰に、とうとうと日本の文化を論じた。
つづいて日本を代表する有名な映画俳優ふたりが挨拶したが、空疎で無内容な挨拶だった。ひとりは、テレくさそうに、適当にモンタンに敬意を表しただけで、通訳も困ったらしく、途中でかなり省略してしまった。私は、ふたりともモンタンの映画をろくに見ていないことに気がついた。「いそしぎ」も「ギャルソン」も「Z」も。
日本の役者の頭のわるさ、社交性のなさにはほんとうにあきれたが、これほどの男性ならマリリンが恋したのも無理はないという気がした。
95
香港映画のファンだった。やがて香港ポップスを聞くようになった。
最近(2005年6月)、陳 慧嫻の上海コンサートは、あまり評判にならなかった。香港で出したベスト盤も売れなかったらしい。潘 越雲は負債に苦しんでいるという。陳 淑樺はもう歌わなくなって、ひっそりと暮らしている。葉 倩文は、舞台で歌っているとき、数十万ドルの耳飾りを踏みつぶしてしまった。
私が好きだった林 青霞(ブリジット・リン)は、当年、五十八歳。「去年の雪いまいずこ」の思いがある。
94
のっぽ。やたらに背が高い人のこと。赤ノッポ青ノッポ。「小国民文庫」の各巻に連載されていた武井 武雄のマンガ。そそっかしくて、怒りっぽくて、すぐに真っ赤になって鉄棒をふりまわす赤ノッポ。いつも、赤ノッポにふりまわされて、オタオタ、オロオロする青ノッポ。
私は毎日、父にせがんでアメリカのコミック、ジグスとマギーを読んでもらうような子どもだった。赤ノッポ青ノッポはなんだかローレル&ハーディーのスラプスティックを見るようでおもしろかった。
ただ、幼いときから、私の好みはほかの人たちとずいぶん違っているらしい、と思いはじめた。
93
ドストエフスキーは、哲学的で、難解な作家と見られている。むずかしそうだと思う人は「作家の日記」あたりから読むといい。
ある日、ドストエフスキーの短い作品を脚色し、短い一幕ものにして、実際に稽古してみた。稽古に参加してくれたのは、私といっしょに勉強している仲間たち。私塾のような勉強の場だから、実際に上演したわけではないが、プロをめざすひとたちの演技の訓練にも使えるし、アマチュアがまったくの無装置、無照明の舞台でやっても、じゅうぶんおもしろい。
稽古を見た岸本 佐知子が、ドストエフスキーっておもしろいですね、といってくれたのがうれしかった。
92
とうもろこしを焼く匂い。石川 啄木の歌碑がある公園。真夏、真昼、喧噪、人の流れ。四十年ぶりに会った旧友たち。
しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほひよ
秋の夜ではない。真夏、真昼。老人三人が焼いたとうもろこしを食べている。ぎらぎらする光の散乱の下で。
91
ソヴィエトについて書かれた本は無数にある。ほとんどはもう読む必要もない。私も読まない。それでも、これまで何度も読み返した本が何冊かある。
ジッドの「ソヴィエト紀行」と「紀行修正」、ソルジェニーツィンの「廃墟のなかのロシア」、ナターリア・ギンズブルグの「暗い昼、あかるい夜」、トロッキーの「裏切られた革命」、シャリアピンの「自伝 蚤の歌」など。
それぞれ違った思想、違った立場から書かれたものだが、じつにさまざまなことを「発見」する。あらためてロシアの「現在」を考えるのが私には必要なのだ。
90
御病気如何御座候や。随分心身を調ふるよふにあそばさるべく候。
良寛さんが、維馨尼(いきょうに)にあてた病気見舞い。じつに簡潔で、いい手紙の例だと思う。維馨尼は四十三歳。親友の姪。当時、良寛さんは五十歳。病気がちだった弟子を思ってオロオロしている良寛さんの表情が見える。
維馨尼が亡くなって五年後に、良寛さんは歌の弟子として貞心尼と出会う。貞心尼、三十歳。良寛さん、七十歳。美しい邂逅だった。
仏教者としての良寛さんのことは私にはわからない。しかし、良寛さんの手紙を読むだけで優しいお人柄がしのばれる。
89
弟が亡くなったのは、日中戦争が勃発した翌年、1938年6月13日だった。数えで6歳。私が小学5年のとき。このときから、私にとって死はいつも身近なものになった。
弟を失った母はほんとうに狂乱した。何を見ても悲嘆に沈む。弟が遊んだおもちゃを見るだけで、いろいろと思い出すらしく、毎日泣き暮らしていたが、ある日、私を見てクズばかり残ったとつぶやいた。
私は弟を思い出すと、いつもひとりで広瀬川の小さな砂州に遊びに行った。水面をかすめるアユやハヤの影を放心したように眺めたり、草むらに寝そべって空を見つめていた。
この頃から、私は性格が変わったと思う。