やっと『アナイス・ニン作品集』が出た。私の編訳、『ガラスの鐘の下で』(響文社/2200円/05.11.15.)である。
装幀と、短編全部に山本 直彰さんの絵を小さくカットふうに使わせていただいた。山本さんは国際的に知られている画家である。
まだ製本の段階に、「響文社」の高橋 哲雄さんが製本所に飛んで行って、できあがったばかりの見本をすぐに私に送ってくれた。お互いによろこびあう。なにしろ、待ちに待った出版なのだから。見本が出たのがたまたま私の誕生日だったので、なによりのお祝いになった。
『アナイス・ニン作品集』には、訳者たち、エッセイを寄せてくれた人たち、造本にかかわった装幀者、デザイナー、出版社の人たちのたいへんな努力が隠されている。
一冊の本が出るまでに、どれほどおおぜいの人の辛苦が重なっているか。たいていの読者はそんなことを考えない。芝居の観客は、舞台の役者たちだけを見て、裏方や、大道具方、照明、衣裳部のおばさんたちのことを考えない。それとおなじことだろう。
だが、私の読者たちに、ぜひ知ってほしいことがある。
まるっきり無名だったアナイス・ニンは、自分で活字をひろって、自分で印刷機械にかけて、わずかな部数の本を出した。部数、300部。
それが『ガラスの鐘の下で』なのだ。
投稿者: zion
147
リディア・ディヴィスの『ほとんど記憶のない女』(白水社)を読む。
この数年、私が読んだ小説のなかで、いちばんすぐれたものの一つ。
全部で61編の短編。少し長い短編もあるが、「面白いこと」、「たいていの場合彼が正しい」、「恐怖」など。いずれもわずか数行の短編。「ピクニック」という短編はむずか2行。「恋」は3行。ほかにもわずか1ページにみたない掌編が多い。いちいち読者に紹介するわけにはいかないが、「ロイストン卿の旅」、「サン・マルタン」などは比較的長い短編。
それぞれ硬質な輝きを放つ宝石や、きらきらしたビーズや、少しいびつなガラス玉や、女性なら誰でも身につけるアクセサリ、そんなものを無造作に放り込んだ宝石函。しかも、風にのってはこばれる植物の種子のように、しなやかで、かろやかな柔毛(にこげ)や、するどいトゲをもっている。不思議な小説ばかり。
幻想的な世界もあれば、古めかしい紀行文めいた旅行記もある。寓話的だったり、離婚する女の苦悩や、友人に対するするどい観察もある。グレン・グールドや、ミッシェル・ビュトールなどにふれながら、思考がアメーバのようにどんどん増殖してゆく。
誰もが考えそうでいながら、けっして考えないようなことをリディアは考える。表面はそれほど独創的には見えないが、ほんとうはじつにユニークな発想なのだ。その背後、というか、その考えの先にあるものが、いきなり私たちにつきつけられる。
しばらく前にひとしきり評判になったミニマリズムの作品を連想させるけれど、ミニマリズムの作家と比較しても、刺激的な緊張、密度、そこで語られるナレーションの意外さ、女であることを見つめるきびしいまなざしにおいて、はるかにすぐれている。
どの短編もつぶぞろいで、語られていることもおもしろいが、不意に切断されたような、それ以上は語られなかったことが、私たちにいろいろな想像させる。
どれをとってもみごとな短編だったし、なによりも翻訳がすばらしい。
翻訳することは読むこと。翻訳することは書くこと。もし読むことが翻訳することで、翻訳することが書くことなら・・書くことは書くこと、読むことはまた読むこと。そうなると、読むことは読んで読むこと。「読んでいるときは、書いているので読み、読んでいることは翻訳もしているので読む、したがって読んで読んで読んで読むこと」(「くりかえす」)という。これはそのまま訳者の岸本 佐知子の姿勢に違いない。
訳者は、ニコルソン・ベーカーや、「ヴァギナ・モノローグ」の訳で知られているが、翻訳家として、エッセイストとしても、もっともすぐれた仕事をしているひとり。
私は、ふとアナイス・ニンを連想した。とくに彼女の処女作品集『ガラスの鐘の下で』を。アナイスとリディアにはなんの関係もない。リディアには、アナイスふうに幻想的、セミ・シュールレアリスティックな作品はまったく見られないのだが。
しかし、アナイスもリディアも、私に小説を読む楽しさを教えてくれた。小説を書きたい人は、ぜひ、彼女たちを読むほうがいい。
私は、ときどき気がむいたときリディアの作品の一つ二つを読む。おいしいケーキを食べるようにして。むろん、ひどく苛烈な味が残るけれど。
『ほとんど記憶のない女』
リディア・ディヴィス著
岸本 佐知子訳
05.11.5刊 白水社 1900円
146
「鈴ヶ森」は、「お若えの、お待ちなせえ」で有名な芝居。
鼻高幸四郎が長兵衛役者の第一という。むろん見たことがない。つづいては七代目の得意芸。そのあとで九代目(団十郎)が極めつけの長兵衛役者として語りつがれている。
「鈴ヶ森」の長兵衛は、「勧進帳」の「弁慶」よりもむずかしい役だと思う。よほどうまくいっても、どうにもウケにくい。逆にいえば、長兵衛役者がしっかりしないと、狂言のほんとうの凄さが出せない芝居だろう。
戦時中に、羽左衛門の権八、吉右衛門の長兵衛で見た。なにせ中学生だったから、芝居のよさなどわかるはずもなかったが、それでも羽左衛門の独特の口跡にしびれた。それに拮抗して、吉右衛門の芸の凄味。魂が宙に飛んだ。
あまりいい芝居を見てしまうと、どうもあとがつづかない。戦後に何度か「鈴ヶ森」を見たが、見られたものではなかった。狂言そのものの値打ちが下がったようで、そのうちに歌舞伎から足が遠のいた。
145
「戦後」といっても、第一次大戦の「戦後」を調べたことがある。
フランスは、戦死・戦病死が131万人。16歳から45歳の男子、795万人の16.5パーセント。
工業地帯が戦場になったため生産は激減した。農業も、大半の農民が召集されて、ゆたかな農地が荒廃した。穀物の生産は、戦前の40パーセント。
意外なことに、ロシア革命の影響も大きく、ロシアの公債や、利権が消えてしまった。
1914年(戦争開始)に3020億フランあった国家資産が、1918年(戦争終結)には2270億フランに落ちた。じつに四分の一が失われたのである。
膨大な軍事公債がはげしいインフレーションを惹き起こした。物価は戦争開始の年に比較して、3.5倍。物価指数は、1914年を100として、1918年は360。
これが第二次大戦の「戦後」となると、はるかに悲惨なことになる。
『ルイ・ジュヴェ』を書いた時期、私はまるで知らなかった経済から金融まで勉強したのだった。
→『ルイ・ジュヴェとその時代』(第六部/第一章)
144
もっけの調法。鶴屋 南北の『高麗大和皇白浪』で、島原の廓から逃げた遊女「滝川」を追って「當馬」が、大和路で、偶然、「滝川」を見つける。
「わしもその詮議を頼まれて、わさわさ尋ねて大和路へ、踏みこんだが、勿怪(もっけ)の調法。今日ここで逢うからは、サァ、連れて行きます。ござりませ」
もっけのさいわいは知っていたが、「もっけの調法」は知らなかった。
「當馬」は拒む「滝川」にむかって、
「コレ、お前、マァ、廓にござるうち、逢引のある女郎衆ゆゑ、あののもののですびいても、(中略)成るように、成らぬように散らしたを、よもやお前、忘れはさっしゃるまいが」と、しなだれかかる。
「あののもののですびいても」とか、「成るように、成らぬように散らした」という台詞は、もっけの調法にいまでも使えるかも。
郵政民営化法案で、自民党の執行部が反対派を「あののもののですびいた」が、反対派のなかに「成るように、成らぬように散らした」連中がいた、というふうに。
大南北が苦笑いするだろうなあ。
143
ひやかし。
廓のなかを歩く。顔見世の女をながめるだけで、登楼しない。
江戸時代、吉原の近くにあった紙漉場の職人が紙を水に冷やしておいて、廓をひとまわりして帰ると、紙がほどよくひえていたことから。『嬉遊笑覧』に出ている。
いまでは吉原遊郭を知っている人もいないだろう。少年の私は、吉原をひやかしにつれて行かれたことがある。むろん、登楼したことはない。ひやかしただけである。
ところで、ひやかすの「か」が気になる。やる、やらせる、とおなじで、やらかすの「か」が気になるように。
こういう用法は、国語学者の先生に訊けば簡単に説明がつくかも知れない。私としては、このことばには、自分を少し切りはなして、どこか自己戯画化めいた感じがあるような気がする。
別のいいかたでは、素見。昔の小説を読んでいると、ぞめき、と、ルビがふってあったりする。
142
江藤 淳のこと。ある日、内村 直也先生から電話があった。江藤 淳という優秀な人がいるのだが、アルバイトで翻訳をしたいといっている。慶応の後輩なんだよ。すまないが、きみ、力になってやってくれないか。
すぐに江藤 淳に会った。場所は神田の「小鍛治」という喫茶店で、会った瞬間に、聡明で、ひどく老成していて、まるでトッチャンボウヤのようだと思った。私たちの話はハーバート・リードからコンラッド・エイキンまで。じつに多彩な話題が出たが、彼は博識だった。ただし、私はこういうすぐれた若者が私のように俗流ミステリーの翻訳をすれば苦労するだろうと思った。
その日、まず「早川書房」の編集者だった都筑 道夫に紹介した。このことは、後年、都築自身がエッセイに書いている。福島 正実にも紹介したが、福島ははじめから江藤君とはソリがあわなかった。結果として、江藤君は翻訳家にならなかったが、江藤君のためにはそれでよかったと思う。
晩年の江藤 淳は高井 有一に語ったという。
「六十歳を過ぎてそれ以前のものを凌駕する作品を書いた人はいない」。
本人がそういうのだからたぶん間違いではない。
141
『収容所』は、80年代に駐日ポーランド大使だったルラッシュの回想。いまでは誰も読まないだろう。しかし、いま読んでもけっこうおもしろい。
ズジスワフ・ルラッシュ、1930年、ポーランド生まれ。ワルシャワ中央計画統計大学で、経済学を専攻。54年、統一労働者党(共産党)中央委員会に勤務。やがて、56年に外国貿易省に入る。優秀なエリートだったに違いない。
81年、駐日ポーランド大使として赴任した。当時、ポーランドはヤルゼルスキの軍事政権に対してワレサ(ワレヤンサ)を中心にした「連帯」が、はげしい抵抗をみせていた。イデオロギー支配の恐怖にようやく亀裂が走りはじめる。
ルラッシュは、日本に赴任した81年のクリスマス・イヴに、アメリカに亡命した。あまり話題にならなかったが、冷戦のさなか、共産圏のポーランド、ヤルゼルスキ体制を根底から揺るがす事件だった。翌年、国家反逆罪で、欠席裁判ながら、ワルシャワの軍事裁判で死刑を宣告された。その後、共産主義ポーランドが崩壊してしまったから、こんな軍事裁判も、一場の笑劇に終わった。
『ルイ・ジュヴェ』を書いたとき、ジュヴェのポーランド巡業の時期のポーランド情勢の参考になるか、と思って読んでみた。むろん、ジュヴェのことなど一か所も出てこない。評伝を書く。ときにはずいぶん遠まわりもしなければならない仕事なのである。
140
都の錦(八田 光風)は、江戸(元禄)の戯作者。西鶴の文章を盗作したとそしられて、『元禄太平記』の冒頭で反論している。
古来、小野篁が白楽天の影響を受けたとか、司馬遷が左伝の文章に似せて「史記」を書いたとか、いろいろな例を並べて、いわく、「詩に換骨の法をゆるし、うたに古人の詞(ことば)をとれと、先達の教えなれは今都の錦が文章に西鶴がいい捨てを用ひたりとて、さのみ疵にもあらず。古木を以て新しきとするは、皆名人の所為ぞかし」
おかしいのは、最後の部分で、惜しいことに都の錦は、せっかくもの書きにになったのに、二十七歳で、西海の藻屑と消えてしまった、とぬけぬけと書いている。
都の錦というペンネームを捨てても困らない。それからも梅薗堂、澤風軒、黄金道裏山人といったペンネームを駆使して書きとばしたらしい。
江戸のポットボイラーの一人。たいした才能ではないが、江戸時代の三流作家、山崎北華とならんで、おもしろいマイナーポエット。
139
明治の人はよく手紙を書いた。子規、漱石の書簡は文学史に光彩を放っているが、一葉の書いた女子手紙の模範文などを読むと、明治という時代の息吹きまでつたわってくる。
ジッド/マルタン・デュガールの往復書簡や、コクトオ/ジャック・マリタンの往復書簡や、キャサリン・マンスフィールド、D・H・ロレンスの手紙を読むと、芸術家のエスプリにじかにふれるような気がする。
最近の私は手紙を書かない。年賀状も出さなくなった。さして理由もないのだが、面倒なせいもある。つまり、手紙を書く余裕がない。それでも、知人に手紙を出すときは、かならず自筆で書く。ワープロの手紙をもらって、しばらくして読み返そうと出してみたらほとんど読めなくなっていた。
親しい友人に手紙を書くのは楽しい。心のなかでその相手を思いうかべながら手紙を書いたほうが、電話やインターネットと違って自分の正直な気もちが届くような気がする。
作家志望者は、できれば自分の尊敬する作家の書簡集を読むといい。
いい文章修行になる。
138
ユトリロの絵はかなり多く見てきた。
パリを愛して、パリの街角、名も知れぬ通り、家並みばかり描いた画家は多い。たとえば荻須 高徳。しかし、ユトリロは荻須 高徳とはまったく違う。
こうした見方は、不幸な人生を送ったユトリロへの憐憫とは関係がない。
ユトリロは、ときに点景的に人物を描く。通行人のように。ときにはそれが三人になる。男女のカップルと子どもひとり。あるときから、このことに気がついた。
さりげなく男女のカップルと子どもを風景に置いている。いかにもユトリロにふさわしい、というより、こういう巷をうろついて、この三人を描くために死んでいったのだという気がする。男女のカップルと子ども。これに気がついてから、冷たい、よそよそしいパリの風景、灰色の塀や、坂道の土の下にユトリロ自身が横たわっているような気がしてきた。そんな我にもない思いに、ふと胸をしめつけられる。
男女のカップルと子どもがぼうっと描かれているユトリロの絵を見ると、なぜか底知れない、不気味な、孤独を感じることがある。
137
キスリングが日本で、はじめて知られたのは1926年だった。数年後に外山 卯三郎編『キスリング』という薄っぺらで、印刷もよくない画集が出ているので、たとえ僅かにせよキスリングが知られていたことは間違いない。
戦時中に本郷の古本屋で手に入れたが、お粗末な写真版のキスリングに魅せられた。空襲のときも必死に持ち出して逃げた。このときから、モジリアーニ、ファン・ドンゲン、キスリング、フジタといった画家の仕事に関心をもちつづけてきた。それは、やがてピカソに対する関心に収斂してゆく。
『ルイ・ジュヴェ』(第五部/第七章)で、マドレーヌ・ソローニュ(女優)にふれて、私は一行、「マドレーヌをモデルにしたキスリングの肖像画が日本にある」と書いた。
それ以上、私は何も書かなかったが、この絵は、1968年、世界最高の文学賞をうけた作家がその賞金で買ったとつたえられる。
この「マドレーヌ・ソローニュ」は、あまり人の関心を惹かないがキスリングの最高の傑作。その作家の「末期の眼」にどう映っていたのだろうか。
136
サルトルは80歳になって、自分は少しも年をとった気がしない、と語った。
あれほど強靱な論理で、世界にむかって思想的に発言をつづけていただけに、その活動に「老い」を感じさせなかった。バートランド・ラッセルのほうが、ずっとヨタヨタしていた。私はサルトルの発言に驚かされたが、同時に、サルトルは「老い」を認めたくないのだろうと思った。(現実には、数年後にサルトルは亡くなっている。)
私もいまや老年に達している。ところが、自分が少しも年をとった気がしない。へんな話である。ほんとうはもっと枯れた、いかにも老人らしい境地に達していいはずなのに、どうもそんな気がしない。サルトルと違って、私はおよそ哲学的な思惟、直観、認識をもたない。つまり、頭がわるい。半分くたばりかけていながら、少しも年をとった気がしない、というのは、どう見てもバカの証拠だろう。
しかし、自分が彼の年齢になってみて、実感としてのサルトルのことばがよくわかるのである。自分は少しも年をとった気がしない、と思うほど老いぼれたには違いないけれど。われながら、へんな話だと思う。
135
浅草(六区)の映画館は、関東大震災後に再建されたが、おもなものだけでも、大勝館が一級、日本館、富士館あたりが二級、あとは、帝国館、東京倶楽部、電気館、千代田館、大都映画といった映画館があった。大勝館は封切り館なので、誰かにつれて行ってもらうだけだった。
昔の話である。芝崎町に東洋一の大劇場、国際劇場ができて、コケラ落としのすぐあとで日中戦争がはじまった。
芝居の実演は、松竹座、常盤座、金竜館、花月など。私の少年時代には、すでに玉木座、凌雲座、万盛座、カジノなどはなかった。もとの音羽座、三友館は映画館になっていたが、音羽座が何という映画館になったのか知らない。
落語専門の江戸館はあまりおぼえていないのだが、金車亭にはよく通った。浪曲よりも落語が好きだったが、落語を聞くなら上野に出るほうがよかった。講談では神田 伯竜の怪談のこわかったこと。
山ノ手には行ったことがない。世田谷、杉並と聞いただけで、まるで別世界のような気がした。新宿の武蔵野館に行ったのは、戦後で、外国映画が見られるからだった。
134
ディノニクス(Deinonychosaurus)のなかでも、トロエドンのファンである。ピッツバーグの博物館で見た。
日本で見られる「恐竜展」では、まず大型種に圧倒される。メラノロサウルス、アンキサウルスといった草食恐竜。こういうのは凄い。なんといっても姿がいい。
ステゴザウルス、トゥジャンゴサウルスなど、背中に鎧のようなプレート(スパイク)を背負った連中はどうも好きになれない。見るからに凶暴そうだが、不細工で、いかにも頭がわるそうだから。
小型恐竜のドロマエザウルスは眼が正面を向いて、ものを立体的に見ることができたらしい。トロエドンはもう少し小型。走るのも早かったらしい。長い、しなやかなシッポのせいで、すばやく方向転換できた。トロエドンは、現在知られているほかの恐竜たちより、はしっこくて頭もよかった。とてもかわいい。
ほかにも、剣竜とか、イグアノドン、トリケラトプス、その他いろいろ並んでいるわけだが、トロエドンはたいてい「恐竜展」の隅っこにひかえている。誰もまともに見やしない。そういうひかえめな扱いをうけているところがいい。
133
猿之助(猿翁)のこと。芝居好きだった母から聞いたような気がする。
まだ団子といっていた時分、父の段四郎の「勧進帳」の後見をつとめた。
あろうことか、弁慶の数珠がぶっつり切れた。それを見た団子は、すぐさま懐中にしたかわりの数珠をさっと出して、弁慶にわたした。
楽屋でも、団子の後見はたいそう褒められたという。
ところがこれを聞いたほかの後見が、せせら笑って、
「そんなことは、あたりまえの話で、後見をするくらいのやつなら、誰でも心得ていることだ」といったという。
この猿之助の働きは私の心に残った。きみたちはこの話から何を考えるだろうか。
「ほかの後見」のなかに、のちに役者として名をなしたひとがひとりでもいたのかどうかそんなことを私は知りたい。
132
小林 秀雄が教室に姿を見せると、学生たちは緊張する。教壇の机の横に椅子を置いて、無造作に切り出す。
「何か質問は?」
思いがけないことなので誰も答えない。学生たちは固唾をのんで見まもっている。うっかり質問しようものなら、どんな辛辣な返事が返ってくるかわからない。おそろしい沈黙が流れる。誰も質問しない。と、
「あ、質問はないのか」
そのまま教室から出て行ってしまった。
翌週からの講義では、学生のひとりが質問をすることにした。せっかくの講義が聞けないのは残念だからだった。幼稚な質問ばかりだったが、質問に答える小林 秀雄は見ものだった。額のあたりに手をやって、指先で髪の毛をつかむ。指先にくるくる巻きつける。
その動作に――小林 英雄の直観、感性、それをどう説明するかという判断、その思考の速さがごうごうと渦をまいているように見えた。
131
古本屋を歩く。二週間に一度は古本屋歩きをつづけている。
「およそ本屋の数の多い事にったら、東京の神田本郷に及ぶ所は、世界中何処の都会を歩いても決してない」という。長谷川 如是閑の『倫敦! 倫敦?』(明治43年)にそう書いてあるが、いまの神田、本郷はすっかり様変わりしてしまった。「本屋の数の多い事」はたしかだが、スキー用品の店や、ファストフード、ビデオ、DVDショップがふえて、店の隅っこで思いがけない掘り出し物を見つけて狂喜することもなくなった。
神保町で植草 甚一さんの姿を見かけたときは、その日の収穫はない。めぼしい本は、みんな植草 甚一さんが先にあさってしまうからだ。
植草 甚一さんは私を見かけると、近くの喫茶店に誘うのだった。買ってきたばかりの本を楽しそうにご披露しながら、その内容、著者の経歴などを説明してくださる。
おかげでこっちもその本を読んでしまったような気がして、つぎに別の場所で見つけてもおなじ本は買わなかった。
130
源氏店。『世話情浮名横櫛』の「与三郎」が、
「もし、お富さん、いやさお富、久しぶりだったなあ」
と頬かむりの手拭いをとる。
場所は、いまの人形町三丁目。もとの電停、人形町からひがし北。これも、もうなくなってしまった末広から大門の通りを、玄冶店(げんやだな)といった。このあたりに、船板塀に見越しの松、つまり妾宅が多かったという。
戦時中、羽左衛門で見た。うらぶれた男のゆすりと、自分を捨てた女へのうらみが重なって、晩年の羽左衛門でも出色の芝居だった。凄い。見ていてゾクゾクした。
もっとも、私の住んでいた近くにも船板塀に見越しの松が多くて、芝居に出てくるお富さんのような綺麗なお妾さんもいたっけ。
おめかけ横町が焼けたのは、一九四五年三月十日。
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正宗 白鳥から、じかに芝居の話をきいたことがある。
「演劇」の編集長だった椎野 英之が軽井沢の別荘に伺って、作家の原稿をうけとってきたのだった。まだ戦後の混乱が続いていた時期で、食料の買い出しで列車は大混雑していた。列車内でスリに狙われたか、落としたか、椎野は原稿を紛失してしまった。
椎野は真蒼になって、軽井沢に電話をかけた。事情を説明してあやまったが、白鳥さんは、もう一度、原稿を書くといってくれた。たまたま翌日、白鳥さんは東京に出てくることになっていた。原稿は朝の10時に江戸川アパートでわたすという。
私が頂きに行くことになった。むろん、白鳥が私のことを知っているはずもない。
原稿をわたしてくれた白鳥さんは、江戸川からハイヤーで歌舞伎座まで行くことになっていた。
「きみ、乗って行ったらどう?」
私は同乗させてもらったが、このとき白鳥さんから、芝居の話をうかがったことはいまでもあざやかに心に残っている。