188

山形の子どもたちは、竹を割って作った竹スキ-でスロ-プをすべったり、「ベンジャ」で、雪のなかをコイヌのようにころげまわっていた。「ベンジャ」というのは、下駄の底に10~15cm程の長さの鉄の板(テッパンというと大げさで、おシャモジの把手ぐらいの厚み、長さ)を埋め込んだもの。いってみれば、下駄スケ-ト。(秋田では、鉄の板2本を埋め込んだ「ヒキズリ」という下駄スケ-トがあって、これとは別もの。)山形ではこれがスキ-の代用品。ミカン箱のソリすべり、雪合戦。少しの晴れ間には凧あげ。 「メドチ」といって、落とし穴に仲間を突きとばしたり、「メントリ」というのは、降りつもった雪にわざと顔を突っ込んだり。わざと落とし穴を作るのは「ドフラ」という。 女の子たちは「スメズリ」。足駄の歯で横すべり。「タマワリ」は、足駄の爪先で、雪をまぁるく押し固め、お互いにぶつけあって、割れなかったほうが勝ち。
女の子は赤い足袋(たび)をはいていたが、なかには素足で、シモヤケの子もいた。ゴムグツをはいている子はほとんどいなかった。不況の時代だった。
家に戻って囲炉裏を囲んだり、「フクサ湯」に手足をつけるのだろうか。干した大根の葉を湯にひたしたもの。
私は都会の子どもだったし、スキ-客だったので、土地の子どもたちと遊ぶ機会がなくて、土地の子どもたちが楽しそうに遊んでいるのを見ていただけだった。

187

バスの窓から斜めに走る粉雪の流れに、遠く低い峰のつらなりがかすんでいる。近くを過ぎるわずかな家並みも、ぼうっとかすんでは消え去って行く。
ウィークデイのバスは、乗客といっても私のほかにジーンズにコートの若い男女のふたりだけだった。これからスキー場に行くのだろうか。
私は後部座席でザックによりかかって眼を閉じた。眠っておく必要があった。千葉に住んでいるので早朝、新宿から出ても、山小屋に着くのは夜中になる。少しでも眠っておかなければならない。
吹雪になっていた。バスが停った。すぐに走り出すはずのバスが動かない。窓際に顔を寄せると、警防団の刺子を着た男が走ってきた。
「雪崩でヨ、この先んトンネルからバスが通じねえだハ」
もう4時過ぎで、あたりはすっかり暗くなっていた。
「ほいでいつァ通れツだや」
バスの運転手が聞いた。
「さァのう、徹夜作業になッかだが」
私はザックを肩にかけてバスを降りた。仕方がない。この先の宿屋に泊まることにきめた。4キロ近く歩くことになる。
前に一度、その旅館に泊まったことがあった。ふたかかえもありそうな大火鉢に、枝炭を山のようにおこして、紫いろの炎の上に、古風な鉄瓶が白い湯気を吹いている。湯がしらしらと沸き立っているだろう。
歩き出そうとして、ふり返ると、おなじバスに乗ってきた若いふたりが運転手に何か話しかけていた。
若い女がステップから降りながら、
「すごい雪だわ!」
吐く息がけむりのように白かった。
「おお、寒い!」
身ぶるいすると、若い男が抱きよせるように女の肩に手をかけた。ふたりの髪、顔、肩に、粉雪が降りかかった。
私は歩き出した。

186

診察室。患者がはいってくる。

医者 どうしました?
患者 このところ、どうもストレスがたまって、不眠症気味で・・
医者 それはよくない。仕事を変えてみたらどうですか。
患者 え、失業しろとおっしゃるんですか。
医者 くよくよするのがいちばんよくない。とにかく、今夜からぐっすりおやすみなさい。

このシ-ン、いつか、自作の台本に使ってみたかったのだが。

185

中国の国家統計局が2005年のGDPを発表した(’06.1.25.)。実質伸び率が前年比9・9パーセント増という。
まさに驚異的な経済ダイナミックスで、この十年、経済的に苦しんできた日本とは比較にもならない。ただ、04年のGDPが10パーセント増だったことに比較して、3年ぶりに10パーセントより低くなったことに気がつく。それでも政府の目標とした8パーセント増よりも大幅に上まわっている。
中国の場合、昨年(’05年)の統計から推計すれば、2030年に、
鉄の消費量が世界の26パーセント。
セメントの消費量が世界の47パーセント。
コメの消費量が世界の37パーセント。
これにインドがくわわるとすれば、事態は私たちの想像をはるかに越えるだろう。
インドは、いまやIT産業で世界をリードしそうな勢いだし、国内の航空網が整備され、乗客数も年に20~30パーセントと急増している。2010年には、年間、5千万人に達すると予想されている。(’06.1.12.)すごいなあ。
かりに2030年に、このふたつの国の、国民ひとり当たりの資源消費量が現在(’06年)の日本の水準に達したとしよう。
中国、インドの需要をみたすためには、地球がもう一個必要になるという。
まさに人類史上、空前の事態になる。
私に才能があったら、さっそくSFを書くところだが。

184

スキ-が大衆化したのは、昭和初期。小学校三年の冬から春にかけて、毎週のように、父につれられて、土曜日の午後から、仙山線で、山形の蔵王高湯に出かけて、暗くなるまでゲレンデですべった。その夜は定宿にしていた「若松屋」という温泉宿に泊まることにしていた。宿の主人は斉藤 茂吉の親戚らしく、茂吉の書が掛けられていた。
当時はまだ樹氷もほとんど知られていなかった頃で、スキ-で蔵王に登るスキ-ヤ-は少なかった。登頂したあとは、上ノ山まで、スキ-で下って行く。豪快なコ-スだった。上ノ山からは、また汽車で仙台に帰るのだった。
山形で、スキ-がひろがつたのは、昭和4~5年からで、芸者衆までがスキ-をはいてお座敷まわりにいそがしかった。スキ-場でよく見かけたものだった。
雪のお山で リャ-ンとリャン
ジャンプとテレマク リャ-ンとリャン
走ってころんで リャ-ンとリャン
深い雪につつまれた静かなお座敷で、女たちがさざめいていた。・・
東京の中学に入ってから、スキ-とは縁がなくなった。

183

ある若い女優さんが、大きなおなかでト-ク番組に出ていた。(06.1.30)これまでも人気のある女優の出産は、テレビがとりあげたり、女性週刊誌も派手にかき立ててきたが、妊娠している女優がテレビに出てきたのはめずらしい。
ハリウッドでは、モニカ・ベルッチは、初産が40歳だったが、妊娠中にヌ-ドを撮影している。ジュリア・ロバーツは、37歳で、一昨年、双子を生んでいる。コートニー・コックス・アークェットは、不妊治療をうけていたが、40歳にあと2日というところで出産している。
少子化が危惧されている時代なのだから、若い女優さんが妊娠するのは慶賀のいたり。できれば、もう少しベテランの女優さんたちにもどんどん出産してほしい。
ニコール・キッドマンやシャロン・ストーンのように。
第二次世界大戦で、フランスが敗れた遠因の一つは、いちじるしい出生率の低下にあったという。若い女優さんが、大きなおなかでト-ク番組に出ていたことから、そんなことまで・・・つい、考えてしまった。(笑)。

182

1932年、アメリカ、レイク・ブラシッドで、第三回、冬季オリンピックが開催された。日本は、前回の冬季オリンピックでは全敗している。その後、ノルウェイ陸軍のヘルゼット中尉の指導をうけただけに、第三回に参加して、世界のレべルに少しでも追いつこうとしていた。日本の参加選手は、監督以下、22名。
当時、フィンランドにはニッカネン、ノルウェイにはスプラウテン、ルンデ、ステ-ネンといった名選手がいた。日本からは、栗谷川、坪川、山田、保科などが出たが、彼らの実力では、まだまだ互角の勝負どころではなかった。
スピ-ド・スケ-トは、当時のアメリカのつよい要望で、二つのトラツクを同時に数名が滑走することに変更された。まあ、横紙やぶりだね。現在は、もと通り、ユ-ロピアン・スタイルに戻っている。
2006年、トリノの冬季オリンピック、フィギュアで、荒川 静香、村主 章枝、安藤 美姫の三人が世界のトップをめざしている。参加選手の層の厚さだけをとっても遜色はない。

181

愛と言うのは、執着という醜いものをつけた仮りの、美しい嘘の呼び名かと、私はよく思います。

伊藤 整の作中人物がいう。
ありていにいえば、そういうことだろう。だが、かりにも美しい嘘なら、われひとともに騙されていい。たしかに執着は醜いだろうが、どうあっても執着しなければならないこともある。
「私はよく思います」というのだから、そう思わないときも、たまにはあるわけだろう。私たちにしても「そう思う」と「そう思わない」の間に揺れることがないだろうか。

180

私は泉 鏡花が好きである。小説におバケが出てくるから。
鏡花は仲間の作家(たぶん、硯見社の誰かれだろう)に、おバケを出すなら、できるだけ深山幽谷のなかに出したほうがいい。なにも東京の、三坪か四坪のなかに出す必要はない、といわれたらしい。
しかし、鏡花は、なるべくなら、お江戸のまんなか、電車の鈴の聞こえる場所に出したい、と答えた。
鏡花にいわせれば、作中におバケを出すのは別にたいした理由があるわけではないという。私はこういう鏡花に敬意をもつ。いちいち理由を並べて出てくるおバケがいるはずもない。ようするに、索漠としてつまらない現実のなかで、自分の感情を具体化して、うつつとも夢ともつかぬマージナルな場所にあやかしを見る態の感受性を享けて生まれてきた作家と見ればいい。
鏡花は「この調節の何とも言へぬ美しさが胸に泌みて、譬へ様がない微妙な感情が」起きてくる、という。この感情が『草迷宮』になり、また、ほかのおバケになる。
「別に説明する程の理屈は無いのである」といいきっている鏡花に、文壇批評など太刀打ちできるはずがない。

179

晩年、アルツハイマーに襲われた作家や芸術家は少なくない。作家のサマセット・モ-ム、演出家のジャック・コポオ、写真家のバ-ク・ホワイト、丹羽 文雄のように。
娘として、実の母がアルツハイマーになったら、どういうふうに対処するだろうか。しかも母親が有名な文筆家で、その娘もまた作家だったとしたら。
エレノア・クーニー著『夕光の中でダンスを』は、副題が「認知症の母と娘の物語」となっているように、アルツハイマーの母親を愛しつづけながら、娘として、作家として見つめた女性の回想である。船越 隆子の翻訳がいい。
エレノアの母は作家として知られていただけではなく、有名な博物学者、バードウォッチャー、画家のオーデュボンの足跡をたどった評伝的なドキュメントを書いた。しかし、三度目の夫、マイク(環境問題に熱心にとりくんでいた作家)と死別した悲しみから立ち直れないまま、やがて運命の悪意のようにアルツハイマーの症状を見せる。
母はなにごとにつけ、非常に能力のある女だった。ところが、その母に奇行や妄想があらわれ、エレノアは「女ラスプ-チン」のような母にふりまわされる。エレノアは母のことを思うと、ときどきものすごく苦しくなる。やりきれなくて。やがて母の人格が確実に崩壊してゆく。そうなった母は、いろいろなホステルや老人介護の施設からも追い出されてしまう。その姿は息ぐるしいほど、いたましい。
ここに描かれている奇行は、外から見ればおかしなことばかりだが、当事者にとっては懊悩の日常。ときにはすさまじい葛藤が描かれる。
ただし、母の無残な姿を描いた私小説ふうなアルツハイマー残酷物語ではない。私たちはこの本を読む途中で作家とともに考えるのだ。母がマイクをどんなに愛していたか。愛とは何か。さらに自然や、老病死苦について。ラストに近く、やっと見つけた優秀な施設に入所させた母が全裸で男のベッドにもぐり込んでいたと報告されて、娘は最後まで残った女としての母に微笑をむける。
作家は、アルツハイマーになった母を娘の眼で見つめながら、アメリカの中産階級の生活を描いた家庭小説の伝統を受けついでいる。と同時に、母をテ-マにした芸術家小説をめざしている。
いみじくも、登場人物のひとりがエレノアにいう。芸術的な才能をもつことの意味は、「自分にあたえられた義務」と心得ること、と。
訳者の船越 隆子がこの作品を訳したのは「自分にあたえられた義務」と見たのではないだろうか。

エレノア・クーニー著『夕光の中でダンスを』 船越 隆子訳
06.2.オープンナレッジ刊 1700円

178

寒い。
私の好きな久保田 万太郎の句をあげてみよう。

寒き灯のすでに行くてにともりたる

このあわれ。末五が少し気になるのだが、恋の句として読めば、やはりこうなるしかない。

年の市 子に手袋を買ひにけり

「ただごと」の、どうってこともない俳句だが、これだってしみじみとした親子の姿が眼に浮んでくる。

たかだかとあはれは三の酉の月

この悲しみはもう誰にもわからない。
敗戦直後の、空襲で焼けただれた東京の廃墟のなかで詠まれた句といえば、いくらかは想像できるかも知れない。浅草にいて、すみだの向こう、本所、深川、さらには日本橋、京橋、西は九段まで、少し眼を移せば、鶯谷、三河島まで、荒涼たる風景がひろがっていた。
この句は子規絶命の「葉鶏頭の十四、五本もありぬべし」とともに、作者の悲傷がそくそくと迫ってくる。

177

楚臺(そだい)の夢は一夜の枕に驚き、驪山(りざん)の契りは万里の雲を隔つ。朝(あした)の嵐に錦帳を動かせも、李夫人が影もふたたびかをることなし。然(さ)らば、翡翠(かわせみ)という鳥は、いかなる美人の魂にかあらむ。杜子美が衣桁(いこう)になくといひけむも此鳥ならで外にはあらじ。名にめでてこれを我友となさば、はしなき人にやあやしまれむ。
支考の文章。
江戸文人のこういう文章が、いまの私に理解できないのは、残念だが仕方がない。支考さんのいっていることは、なんとなくわかるのだが、無学な私にはすっと頭に入らない。 しかし、翡翠という鳥の「名にめでてこれを我友となさば、はしなき人にやあやしまれむ。」というのは気にいらない。「はしなき人」に「あやしまれ」たっていいじゃありませんか。

176

私の悪癖。いまごろ気がついたいちばん不愉快なことの一つ。
何かをせずにいられないこと。何もしないでいるためにはどうしたらいいのだろうか。

175

冷戦時代の東ベルリン。
バス・ターミナルの国営売店に、ほんのわずかながら国産のおみやげ品が並べられていた。私ものぞいてみたが、品数はせいぜい15、そのどれをとってみても品質のわるいものばかりだった。
そのなかに、10センチほどの大きさで木綿の端切れの人形が眼についた。赤いホッペに頭巾をかぶった、エプロン姿の農民のオバサン。かわいらしい人形ではない。いかにも素朴な手づくりの人形だった。
売り子を探した。どこにもいなかった。誰ひとりおみやげを買う気にならないのだから、売り子がいなくても不思議ではない。その「オバサン」人形を手にとって、うろうろと眼を泳がせていると、美しいドイツ娘がやってきた。
「これをほしいのですが、いくらですか」私は訊いた。
その答えに思わず耳を疑った。10マルクという。
いくら素朴な人形でも、たかが木綿布の切れっぱしを大ざっぱに糸で縫っただけのしろものではないか。どんなに高く見積もっても、せいぜい1マルクが相場だろう。
私の顔に驚きのいろが浮かんでいたに違いない。美しい東ドイツの娘は、まるで「ブリュンヌヒルデ」のように尊大な顔つきで、買いたくなければ買わなくていいのよ、といった表情を見せた。傲岸だが、ほんとうに美しい娘だった。
私は黙ってその人形を置いて、その場を離れた。
しばらくして、またさっきの売り場に戻った。あの素朴な「オバサン」人形を買うことにしたのだった。私の胸には、これが、東ドイツの「現実」なのだ、という思いがあった。経済的格差ではまったく比較にならない西ドイツ・マルクを相手に一歩もひかない構えといえば聞こえはいいが、こういうかたちで旅行者からマルクをふんだくる根性が汚い。これが社会主義だと? ふざけやがって。
よし、それなら買ってやろうじゃないか。
この人形を買った。東ドイツで買ったただ一つのおみやげだった。

「オバサン」人形は、今でも変わらない姿をしている。笑顔も見せないが、長い歳月をへて、しっかりした働きもののオバアサンに見えてきた。しかし--あの美しい東ドイツの娘は、この「オバサン」よりも、もっとみにくく老いさらばえているだろう。そんな思いが私の内部に根を張っている。

174

その日は雪だった。一日じゅう降りつづいていたが、しばらくすると、どんよりした雲の一部を太陽の暈がわずかに明るく見せはじめた。彼女は不意に顔を向けた。
その顔を見たとき、心が凍えた。苦しみぬいたような顔をしていた。
「じゃ、帰るわ。さよなら」
白い雪を薄く肩にのせて、くるりと背をむけると、雪が濡れてところどころ黒いペーヴメントを去って行った。
私は、そのうしろ姿を見送っていた。もう、二度と会うことはないだろう。自分がたいせつなものを手放してしまったことはわかっていた。駅に向かって歩きながら、こんな別れかたをしたことを、ほんとうに後悔していだ。

173

秋の海辺。彼女は明るい日ざしを受けて立っていた。ほのかにピンク色の素肌が匂いたつような、しなやかな肢体が目の前にあった。季節はずれでもう誰もいない秋の海辺。午後の日ざしは少し弱くなって、波はおだやかだった。石を組んでセメントで固めただけの防波堤がほんの十数メートル海に突き出していて、そこに寄せてくる波に少しだけ変化が見えている。片側の波の流れはきらきらしているが、反対側の波は青みが濃くなって、そのあたりが少しだけ深くなっている。彼女は防波堤のすぐ横に立っていた。小柄だが、乳房から腰にかけてふくよかで、内部に秘めたものがしっとりみなぎっている。腕のやりばがないようで,片足をわずかに曲げるように立っている姿にはじらいが見られた。大きく見ひらいた私の眼が、彼女のすぐ眼の前にあった。その眼がつややかな潤いを帯びると、その手が動いて、すっと水着のストラップにのびた。ふっくらした乳房があらわれた。そのとき小さな波が寄せてきて、うしろに下がろうとした彼女が、よろけて石の壁に片手をついた。その瞬間にカメラのシャッターを落とした。後で現像した写真には、遠い水平線と、それを斜めによぎっている防波堤と、波に洗われてボロボロになっている石と、まるでヒトデのように石の表面にはりついている彼女の片手しか写っていなかった。

172

一の酉。
吾妻橋をわたって、ひさご通りを千束(せんぞく)まで。すぐ裏が吉原。
夜ともなれば、押すな押すなの雑踏で、人波にもまれていつしか鷲(おおとり)神社の境内に出る。浅草たんぼのお酉さま。江戸のなごりのひとつ。
熊手売りが軒をつらねて、威勢のいい掛け声の三本〆め。ごった返しのあいだあいだに、切り山椒、八つがしら。ぶっきりアメ。子どもの心もうき立ってくる。
私の住んでいた界隈では、「いちのとり」とはあまりいわなかった。初酉(はつとり)という。いや、それよりも「おとりさま」だった。二の酉、三の酉とはいう。
ある日、新聞で雑誌の広告を見た。そのなかに、武田 麟太郎作「一の酉」と出ていた。小学生が読む小説ではない。「いちのとり」とは野暮な題名だなあと思った。
中学生になって、改造社版の「武田 麟太郎集」で読んだ。一の酉の雑踏の雰囲気が眼にうかぶようだったが、どうも内容はよくわからなかった。
ずっと後年になってまた読み返した。作家が舌なめずりをしながら市井の女を描いている息づかいに、「たけりん」(武田 麟太郎)一代の傑作と見ていいような気がした。
戦後の久保田 万太郎に、
たかだかとあはれは三の酉の月
という句がある。私の好きな一句。
敗戦後、吉原焼亡。三の輪から国際劇場の通りも黒焦げ、入谷、鶯谷から言問橋までまる見えの焼け野原。この句に無残に焼けただれた浅草の姿を重ねあわせて、作家のかなしみを読む人はもういないだろう。

171

ヴァレリーのことば。

二つのことばのうち、つまらないことばのほうを選ぶこと。

むろん、通俗的に書け、とか、万人にわかるようなことばを選べという意味ではない。だから、このことばはおそろしい。

170

明治23年、ロシアの医師、作家のアントン・チェーホフは、サハリンに旅行した。大旅行であった。イルクーツク、チタを経由して、6月26日、清国とロシアの国境が接しているアムール沿岸のブラゴヴェシチェンスクに到達する。
友人にあてて、
「シベリアはすばらしい土地でした。がいしていえば、シベリアの詩は、バイカルからはじまります。バイカルまでは散文です」
と書いた。
「ブラゴヴェシチェンスクから、日本人たち、というよりむしろ日本の女たちがはじまる。大きい奇妙なマゲを結い、美しい肢体の小柄なブリュネットで、ぼくには股が短いような気がした。」(スヴォーリンあて)
ブラゴヴェシチェンスクに着いた日に、日本人の娼妓女を相手にする。
「あのことにかけては絶妙な手練を見せてくれるので、そのせいで女を買っているのではなく、最高に調教された馬に乗っているような気になる」とも。
当時、からゆきさんと呼ばれた女たちがアジア各地に進出していた。長崎は、1898年にロシアが旅順を租借するまで、冬はロシア艦隊の停泊港になっていたから、長崎、島原、天草の女たちがシベリアに売られて行ったとも考えられる。
ただし、私は別のルートもあったと見る。
明治23年、北海道、江差のニシン漁業は最盛期を迎えていた。海岸線に白壁の土蔵が建ち並んで、「江差の春は江戸にもない」といわれる好景気を迎えていた。明治25年、江差新地の遊廓が拡張されている。
明治34年、新地裏町の戸数は101戸。そのうち妓楼17軒。見番に籍を置いた芸妓の数は50名から7、80名。自前は少数で、あとはみんな抱えだったという。娼婦の数は35名から多いときで70以上。ほとんどが江差の出身だったらしい。
私はチェーホフは、江差あたりからシベリアに流れて行った日本の女を買ったのではないかと想像する。チェーホフは若くて健康だった。このときから、チェーホフの内面に日本に対する深い関心が生まれている。
十九世紀ロシア、私はチェーホフがいちばん好きなのだ。

169

最近の私はあまり画廊に行かなくなっている。
まだ無名の画家の仕事を知るために、じつにいろいろな画廊を見てきたが、今の私は、もうそんな気力がない。体力もないし時間もない。
こうして、好奇心も薄れてゆくのだろう。われながら哀れなものである。
好きな画家は変わらない。
私の好きな絵は・・見ている私の「現在」のためにこそ描かれている、と感じられるもの。と同時に、私以外のほんのわずかな人々の「未来」のために描かれていると思えるもの。その絵を見るとき、その絵を通して(直接の影響とか模倣にはまったく関係なしに)「過去」に存在したすぐれた画家の仕事を心の深いところで思い起こさせるもの。
つまり、私の内部に賛嘆と同時に、なぜか畏敬に近い思いを喚び起す作品。
たいていの現代絵画は、いつも独創的であろうとしてそれに成功している。しかし、もう少し時がたてば、その作品を見る人は少しも独創的とは見なくなるだろう。