348

先日、テレビの「日曜美術館」で、ジャコメッテイをとりあげていた。この彫刻家は、当時、パリにいた矢内原 伊作をモデルに、おびただしいテッサンをとり、彫刻を制作した。若い頃、矢内原さんに会っただけだが、見ていてなつかしかった。
ある芸術家が別の芸術家のモデルになる。たとえば、ショパンとドラクロワ。想像するだけでドキドキしてくる。もっとも、ブリジット・バルド-を描いた晩年のヴァン・ドンゲンのように、画家が無残な姿をさらしている絵もあるけれど。

ヴァレリ-が、ジャック・エミ-ル・ブランシュのモデルになった。
画家がヴァレリ-に文句をいった。
「ねえ、ヴァレリ-先生。ふだん、あなたほど聡明なお顔をなさっている方はいません。あなたの叡智が眼にあふれ、口もとからほとばしっている・・。ところが、今はどうです。一週間前から、このアトリエには、いきいきしたところのない、眠ったようなヴァレリ-だけが、おいでになる。あなたはヴァレリ-じゃない、そういいたくなりますよ」
その日、画家はヴァレリ-をひきとめていっしょに昼食をとった。ご馳走はたっぷり、ワインは最高。
「午後、またしてもポ-ズという<刑罰>がはじまって、私はつい眠ってしまったんですよ、眼は開いたまま。・・私が、うつらうつらと夢みていると、突然、ブランシュの声が聞こえました・・・≪ああ、やっと≫と、叫びましたよ。≪ようやく、ふだんの聡明なお顔になりましたね≫って」

これは、モ-ロアが書いている。
きみたちは、このシ-ンから何を考えるだろうか。
私ですか? 笑いましたね。だって、どう見てもヴァレリ-のほうが一枚も二枚も上だから。

347

戦時中、『ドクトル・ビュルゲルの運命』や『幼年時代』を熱心に読んだ。しかし、戦後になってからは、ツヴァイク、ヘッセ、ケストナ-を読んでもカロッサは読まなくなった。それから60年、カロッサについては考えもしなかった。
最近になって、『一九四七年晩夏の一日』を読んだ。カロッサ最晩年の作品である。(ドイツ文学の翻訳では、手塚 富雄、原田 義人、深田 甫といった名訳者に敬意をはらってきたが、この訳はよくない。)
翻訳に責任を押しつけるわけではないが、戦後すぐに読んで、私は感動したかどうか。おそらく一顧だにあたえなかったに違いない。
1947年、バイエルンの小都市郊外に住んでいる老夫婦の日常と、彼らがたまたまめぐり会う名もない人たちが描かれている、少し長い中編。ヨ-ロッパの春はうららかで、さまざまな植物が美しく芽吹いている。そのドイツは敗戦の混乱のなかにあった。
国破れて山河あり、という思いを読んだのは私の感傷だろうか。

敗戦後の日本の作家が書いたものもずいぶん読んできた。里見 敦のエッセイ、広津 和郎のエッセイ、北条 誠の小説まで。しかし、カロッサの『一九四七年晩夏の一日』を読んでみると、日本の作家の思想の底の浅いことにおどろかされる。

私は、今頃になってカロッサの作品をはじめて読んだ。べつにはずかしいとは思わないし、いまになってカロッサを読んだありがたさを思った。
ただ、作家の晩年の作品を読んで、その作家の内面にあった苦悩や悲しみがわかるまでに、こちらもその作家とほぼおなじ年齢に達しなければならなかったというのは、なんとも悲しい。

346

長いものは読みたくない。短いものを選ぶことにした。翻訳もの。近くの古本屋にころがっていた。
うるわしく晴れた日の午後、若いトルコ人が宝石商の店先に立つ。この若者は数日前にバグダッドに着いたばかりで、「今や愈々募る驚きを以てその市の凡ての驚く可きものの間をさまよった」という。
この書き出しから、私はいまやいよいよ募る驚きをもって、この翻訳のすべての驚くべきフレ-ズのあいだをさまようことになった。汗がふき出してきた。
この若者は宝石を見て感嘆する。そして、「おお宝石」と彼は有頂天になって叫ぶ。

「御前が王様達の冠を飾る為に選ばれたのも誠に尤なことだ、何故かと言って凡ての壮麗なものが一緒に御前の中に圧縮されそして浄化されて居るのだもの、則果敢ない日光は囚へられてお前の神秘な中枢に確りし閉じ籠められ褪せ易い五彩の色も御前の中に目出度浄化され不滅の生命を得、曇りない天の元素の風や火や水も御前の中に契りを結んで居る!」

この冒頭から、仰天した。これは凄い!
大正十四年のドイツ文学の翻訳で、昭和十年に再版されている。この訳者のものは、戦争中に読んだおぼえがあるのだが、少しもおもしろくないので放り出した。
私があまりドイツ文学を読まなかったのも、最初にこんな翻訳にぶつかったせいかも知れない。

345

吉井 勇にこんな歌がある。

宮戸座の看板の前にたたずめる昔のわれを見るよしもがな

ときどき、この歌をパロデイしてつぶやいた。

アテネ座の看板の前にたたずめる昔のわれを見るよしもがな

実際には、宮戸座も、アテネ座も知らないのだが。
評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期。

344

いつ頃からか、日本映画をほとんど見なくなってしまった。
そのかわり見た映画は、だいたいおぼえている。
「軍艦武蔵」、「無能の人」、「大誘拐」、「八月の狂詩曲」、「あの夏、いちばん静かな海」、「おもひでぽろぽろ」、「夢二」、「上方苦界草紙」といった映画。
ほとんどがもう忘れられてしまった映画だが、「おもひでぽろぽろ」は、テレビで何度も見ているし、「八月の狂詩曲」はビデオで見直している。
なぜ、日本映画を見なくなったのか。別に理由はないのだが、ソヴィエトが崩壊しはじめた時期で、毎日、世界史の大きな変換を見るような思いで、日本映画を見る余裕がなかったような気がする。
むろん、それ以後も少しは見ているのだが、それ以前ほど熱心に見ることがなくなってしまった
同時に、私の見た外国映画も本数は激減した。「羊たちの沈黙」、「シェルタリング・スカイ」、「テルマ&ルイ-ズ」、「コルチャック先生」、「マルセルの夏」、そのあたりはおぼえている。その後、外国映画は見つづけていたが、本数は激減した。
試写に行かなくなったせいもある。当時の私は大学をやめ、長い評伝を書く決心をして、その準備にかかっていた。これも映画をあまり見なくなった遠因になった。

343

あるとき、小学校の同窓会があって、私も出席した。
長い歳月をへだてて少年時代の仲間に再会したのだか、みんなすっかり変わっていた。道ですれ違っても、お互いに同級生だったとは思わないだろう。
それでも、しばらく話をしているうちに、お互いになつかしい顔を思い出すことになった。
学校の前の駄菓子屋の息子も出席した。でっぷりして恰幅のいい初老の商人といった感じだった。席上、各自が挨拶したが、彼は、小学校でいちばんの美少女にあこがれていたことをうちあけた。みんなが笑った。クラスの全員がその少女にあこがれていたからだった。
私もずいぶん美少女を見てきたが、美少女ということだけでいえば、彼女ほどの美少女を見たことがない。人形のようなおもざしの優雅さ、その容姿の美しさでは、これほど非のうちどころのない、文字どおりの美少女といってよかった。
成績もよかった。いつも全校のトップクラス。
当然、全校で評判になって、クラスの全員がひそかにあこがれていたはずである。彼女が成人するまで待って、求婚しようとしている先生もいた、という噂もあった。

私の住んでいた土樋から先の越路に彼女の家があったので、たまにいっしょに帰ったり、ほんの少し話をしたことがあった。それだけでもうれしかった。
ただし、この美少女が私の初恋の人だったわけではない。

342

小学校の正門の前に「出雲屋」という文房具屋があった。文房具も売っていたが、実際は駄菓子屋で、子どもたちが日に一度は、何かしら買いに寄るのだった。
この店の息子が同級生だった。たいしてめだたない生徒だった。
この店で売っているものは、けんだま、こま、パッタ(メンコ)、日光写真。これは、小型の印画紙、セロファンに印刷された白黒のタネイタ。これをかさねて半透明のセロファンの袋に入った古い活動写真のフィルムが1枚。
食べ物としては、アンコ玉、ネジリンボウ、のしイカ、細く切った塩コンブ、豆モチ、ニッケ(肉桂)、コンペイトウ、カワリ玉(マ-ブル)、テッポウ玉。
ラムネ、サイダ-。
トシケというあてものがあって、ジグソウパズルのように、ちいさくてまるい紙、表面の紙をはがすとアタリ、ハズレの文字が出てくる。アタリをとったことは1度しかなかった。

341

私の少年時代は、世の中、のんびりしたものだった。
どこの町に行っても、たいていガキ大将というのがいて、これが(学校の成績は別として)まことに才知にあふれたヒ-ロ-ときまっていた。
子分(といっても小学生。せいぜい中学二年まで)をひきつれて、紙芝居を見に近隣の町に出かけて、(あとで自分のテリトリ-にまわってくる)、見物場所の奪いあいから喧嘩になったりする。その喧嘩をおさめるのが、これまた別の町のガキ大将だったりするのだが、お互いに引き上げどきの駆け引きも心得ていた。
親たちも、わるい遊びをしたところでガキ大将を睨みつけるだけで、むしろ、あの子が大将なら遊んでも大丈夫、と寛容なものだった。というより、まるっきり放任していた。ガキ大将のほうも、まとめてよその子の面倒を見るのだから、しっかり責任をとらなければいけない、と心得ていた。
遊ぶといっても悪いことはしない。肥後守(ひごのかみ/小刀)ぐらいはポケットにしのばせているが、これは竹を切ったり、塀に相合い傘を彫りつけたり。ませたヤツは、旭日章に棒一本。どこの厠(かわや)にも描いてあったものである。
子どもたちは横町の路地でパッタ(メンコ)かベエ、三、四人なら鬼ごっこ、女の子にまじってナワ飛び、セッセッセ。コ~トロコトロ。遊びにあきるとゾロゾロと雁首そろえて、近くの川原に出かけたり、ヘビ、ムシ、オタマジャクシをつかまえる。
のどが乾けば、池のほとりに片膝をつき、掌で水面のゴミをサッとはらって、すかさず水をしゃくって飲む。手練の早業。活動写真で嵐 寛寿郎(アラカン)がやったとかで、ガキ大将がやってみせる。幼い子どもが真似しても、袖口が濡れるだけだった。
腹がへってくる。ガキ大将が、一銭か二銭、子分から銅貨をかきあつめて、焼き芋か煎餅、ときには子どもめあての屋台のドンド焼きなぞ買い込んで、みんなに分配する。
最近の子どもたちのように、学校から帰るなり、テレビにかじりついてゲ-ムに熱中するなんてことはなかった。コリントゲ-ムが出てきたときは、たいへんなゲ-ムが「発明」されたものだと思った。
少子化問題など、この世のどこにもなかった時代の話。

340

月に一度、「文学講座」をつづけているのだが、幹事の田栗 美奈子がウ-ロン茶を用意してくれる。これも幹事の浜田 伊佐子がロンドンで買ってきたプラスティックのカップを用意してくれる。このウ-ロン茶がおいしい。
そのことからの連想だが・・・
TVコマ-シャルのなかでは、サントリ-のウ-ロン茶のコマ-シャルが好きである。 サントリ-のウ-ロン茶のコマ-シャルだけをあつめたCDをもっている。これがとてもいい。
初期のコマ-シャルは、中国の少女がキャンディ-ズの「春一番」、「暑中お見舞い申しあげます」、「微笑み返し」(94年)といった曲を歌っていた。とっくに流行らなくなっている曲が、中国の可憐な少女の声でまったく別のト-ンを帯びていた。
「遙かなる武夷山」(90年)だけは30年代の上海の歌星、白光やチョウ・シェンといった歌手の曲を使ったらしいが、こうしたリ-ニュ(ライン)はアミンを起用した「大きな河と小さな恋」(03年)につづいている。
一方、中国少女の歌は、シュ-べルトの「鱒」(96年)や、「蘇州夜曲」(99年)、さらにマドンナの「ライク・ア・ヴァ-ジン」(01年)や、笠置 シズ子をカバ-した「上海ブギウギ」(02年)とつづく。
中国少女が中国語で歌うのだから、それまで私たちがもっていた曲とはまったく別のものになる。ふつうの少女の歌だからうまいとはいえない。しかし、原曲にはないイノセントなものが私の心に響いてくる。アマチュアリッシュといっても、カラオケで歌われる歌とは違って、もっと澄みきった子どもっぽさ、純真さがあらわれる。こうした無邪気さが、ウ-ロン茶のおいしさに重なってくる。プロデュ-サ-、ディレクタ-のねらいはそのあたりにあったはずで、サントリ-のウ-ロン茶のコマ-シャルがいつも成功してきたのだろう。
プロデュ-サ-、ディレクタ-がどういう人なのか知らない。しかし、このコマ-シャルだけで会社の品位の高さが感じられる。そういうコマ-シャルはすくない。
私はこのCDを作った人にひそかに敬意をもっている。たいへんに教養のある、しかもアジアの音楽をほんとうに愛している人に違いない。
ひところのアジア・ポップスの流行はもはや雲散霧消したが、そんな現象とは無関係に、このCDは、アジア・ポップスとして、私の心を深くとらえつづけている。

http://www.toshiba-emi.co.jp/st/special/chai/chai/index_j.htm

339

オ-クシイ男爵夫人の『紅はこべ』を訳したことがある。さいわい好評だったので、続編を訳す気になった。
プロロ-グで、「マルニ-侯爵」は死病の床についている。ヒロインの「ジュリエット」の父である。ようやく七十歳になったばかり。なるべく、オ-クシイ男爵夫人ふうに紹介してみよう。
彼は十二歳になったばかりで国王につかえるお小姓に召し出されて、宮廷で過ごしてきたが、かれの人生が終わりを告げたのは・・・十年ほど前の、人生のさかりのさなか、天の容赦ない手に打ちのめされた。がっしりした樫の老木がなぎ倒されるように、みるみる衰弱の一途をたどり、ついには死にいたるまで逃れられない車椅子に・・・足萎えの廃人として・・・縛りつけられたときであった。
当時、ジュリエットは、いまだ胸のふくらみもおぼえぬいたいけな少女ながら、老公のいやはての幸福な歳月、手塩にかけてそだてられ、それこそ眼に入れても痛くない娘になった。どこか母をしのばせる憂愁のおもざしが、彼女の裡にただよっている。その心優しい母君は、何にまれしんぼうづよく耐え忍び、すぐれて雄々しい夫を心から愛し、寛容をもって夫につかえてきた女人であったが・・・いたいけな重荷を・・・生まれおちたばかりの娘を残して、あわれにもみまかったのである。
まあ、こんな調子で、小説は展開してゆくのだが、残念ながら、この『続・紅はこべ』はとうとう出なかった。
私の人生の途上に、さまざまな挫折や失敗が重なっている。いまだって、天の容赦ない手に打ちのめされているのだが、まだ、人生が終わりを告げたわけではない。
しかし、もはや『続・紅はこべ』を訳す気力はない。
ほんとうに気力、体力が充実していないと、翻訳という仕事はできないのだ。

338

いまはもう誰も読まない本を読む。
鶴田 知也の『若き日』(コバルト叢書/1945年)を見つけた。昭和二十年十二月一日発行とあった。定価、参円八十銭。すなわち敗戦後の大混乱のさなかに刊行された作品だった。
鶴田 知也は、「文芸戦線」系のプロレタリア作家として知られている。昭和11年、『コシャマイン記』で芥川賞を得た。
敗戦直後に、この作家は何を考えていたのか、どういう思いでこの作品を書いたのか。もしかすると作家がもっとも早く敗戦に対応した例かも知れない。
そのあたりの興味で読んでみた。おどろいたことに、ごくありきたりの恋愛小説だった。戦争は影もかたちもない。むろん、敗戦直後の日本の姿もない。新農民をめざして北海道の酪農に従事する青年が、デンマ-クの酪農家の本に刺激されたり、老子の思想に関心をもったりしながら、美しい娘と恋愛する。それだけのことで、内容はおよそ空虚で、さりとてメルヘンを読むような楽しみもなかった。戦意高揚のために書かれたものではなかったが、小説としてはまったく見るべきところがない。これは驚きだった。というより、信じられない思いがあった。
いわゆる「玉音放送」で戦争が終わって、占領軍が日本全土に展開する(9月12日だったと思う)まで、民衆は虚脱したようにとまどい、神州不滅を信じていた軍人たちはまだまだ狂気にとらえられていた。すべてが突然に沈黙し、すべてにわたって、絶望と希望がせめぎあい、白日のなかで佇ちつくしていた日々。日本人の誰もが、これからどうなってゆくのかという思いにかられていたなかで、この作家がこういう小説を書いている。
おそらく戦時中に農業雑誌か何かに連載され、出版の予定だったものが、敗戦直後の激動のなかで、出版社としてはほかに出せる作品もないまま出したに違いない。
『コシャマイン記』の作家が、戦後すぐに出した作品が、こういうものだったことに、私なりに感慨があった。というより、なんともいえないいたましさをおぼえた。
あの混乱のなかで、この作品がはたして読まれたのだろうか。おそらくほとんど誰にも読まれずに終わったのではないだろうか。
この小説は、書かれたときに死に、出版されたときに死んだ。そしていま、私に読まれることによってまたも死ななければならない。なんという無残なことだろう。
私はこの小説を読んで、一日じゅう暗澹たる思いだった。
作家にかぎらず、芸術家には、自分ではどうしようもない運命にながされることがある。この本が出たとき、鶴田 知也はみずからの運命をどういうふうに引き受けたのだろうか。

337

女優のシモ-ヌ・シモンが亡くなったのは、05年2月22日。享年、93歳。
誰か追悼のことばを捧げるのではないかと期待したが、誰も彼女の映画を知らないらしく、追悼する人もいないようだった。エドウィ-ジュ・フィエ-ルが亡くなったときだって、誰ひとり吊詞を書かなかったけれど。

1914年4月23日、マルセ-ユ生まれ。(新聞のオ-ビチュアリでは1911年生まれになっていた。)
母がイタリア人。1930年、パリに出て、衣装関係の工場で、デザイン助手のような仕事をしたという。まあ、お針子に近い仕事だったのだろう。30年に「知られざる歌手」(V・トゥルヤンスキ-監督)に出たというが、16歳、端役もいいところだったに違いない。
私の調べたところでは、まったく無名の踊り子として「ボゾ-ル王の冒険」という舞台に出た。この踊り子たちのなかに、シュジ-・ドレ-ル、メグ・ルモニエたちがいた。
翌年、映画監督、マルク・アレグレが、「マムゼル・ニトゥシュ」に起用している。さらに32年、イタリアのカルミネ・ガロ-ネ監督が「アメリカの娘」で彼女を使っている。どうやら「娘役」(ジュヌ・プルミエ-ル)として認められたらしいが、戦前の日本では見る機会がなかった。
彼女の存在が知られたのは、「乙女の湖」(マルク・アレグレ監督/34年)だった。
私は戦後すぐに、偶然、この映画を見た。シモ-ヌはまさに青春の輝きを見せていた。敗戦直後の日本には見られない輝き。まだ戦争の影がさしていないフランスに、こういう美少女が存在していた。いや、戦後のフランスもまた、さまざまな脅威にさらされている。そうした混乱の彼方に、なお、こういう「戦間期」の美少女を見ることが、私にとって救いに見えた。こういう輝きは、シモ-ヌを見るまでは知らなかった。これは発見だ。私はそんなふうに考えたらしい。シモ-ヌの、ほとんど高貴といっていい明るさは、清らかな水のように私の心にしみた。
美貌だが、チンクシャでオチョボグチ、幼さと妖艶さがいりまじった美少女。まるでネコ科の動物のような魅力があった。現実にも“Femme-chatte”と呼ばれていたことをずっとあとで知って、なぜか納得したおぼえがある。この映画で妹をやっていたのがオデット・ジョワイユ-。まだ、少女だった。
この映画のあと、シモ-ヌはすぐにハリウッドに招かれた。残念ながらこの時期のハリウッド映画は見ていない。
フランスに戻って、「獣人」(ジャン・ルノワ-ル監督/38年)でジャン・ギャバンと共演した。かつての美少女が、まるっきりゾラの女になっていた。
シモ-ヌがふたたびアメリカに移ったのは、第二次大戦が起きたことによる。
この時期の映画は見ることができた。日本で公開されたときの題名は忘れたが、「悪魔とダニエル・ウェブスタ-」(ウィリアム・ディタ-レ監督/41年)や「キャット・ピ-プル」(ジャック・トゥルヌ-ル監督/42年)など。
私にとってもっとも興味があるのは、戦後すぐにフランスにもどったシモ-ヌの「ペトリュス」(マルク・アレグレ監督/46年)である。これは、1934年、ルイ・ジュヴェが舞台で上演したもの。これは見たかったなあ。
シモ-ヌの映画は、当時の日本には輸入されることがなかった。それに、シモ-ヌを追って、戦後はダニエル・ドロルム、フランソワ-ズ・アルヌ-ル、ダニ-・ロバンたちがぞくぞくと登場してくる。
1950年、シモ-ヌはマックス・オフュ-ルスの「輪舞」に出た。翌年、「オリヴィア」のシモ-ヌを見たのが最後だった。

私たちは、映画や舞台で、ほんとうにみごとな演技を見せる美少女たちをたくさん知っている。たとえば、イザベル・アジャ-ニ。たとえば、ジョデイ・フォスタ-。しかし、シモ-ヌのように、しなやかな、まるでネコのような女優、豪奢な毛並みのよさ、狡猾で、すばやい動き、そのくせどこかもの倦い感じをもった女優はほんとうに少ない。チンクシャのペルシャネコのような不思議な魅力。そこに見える、若い女のくもりのなさ。そのまなざしに残忍な光りをたたえて。その姿態はエロティックだが、激情は見せない。現在の女優では、いくらかレニ-・ゼルウィガ-が近い。むろん、シモ-ヌとはまるで似ていないけれど。

93歳。あの美女が老婆になったところは想像もつかない。三島 由紀夫の『卒塔婆小町』のことばを思い出す。「あんたみたいなとんちきは、どんな美人も年をとると醜女になるとお思いだろう。ふふ、大まちがいだ。美人はいつまでも美人だよ。」
そうなのだ。
かつて胸をときめかせた異国の電影女星を想い起こす。それは、もはや過ぎ去った世界のあやかしの数々を過去から奪い返すことなのだ。そして、私の老いの横糸、縦糸のひとすじひとすじを解きほぐすことでもある。かつての銀幕の妖精たちは、いまも私の内面に美をもたらしている。
93歳のシモ-ヌは、私にとっては異界の女、卒塔婆小町ではないか。
さいわい、私はもはやシモ-ヌを見ることはない。

アディユ-、シモ-ヌ。

336

私が歌川 国芳の評伝を書くはずもないが・・・このエピソ-ドを書き込むだろうか。おそらく書かない。前回、そう書いた。
書かない理由は、おわかりだろう。この逸話には、どこかうさんくさいところがある。だから、わざわざ書く必要もない。
国芳が画家としてどんなに熱心に対象に迫ろうとしたか。結果として、国芳のリアリズムを高く評価する。こうして誰もが納得する批評が成立する。
ここのところがうさんくさい。
おなじ注文を受けた画家が、かならずや身分の高い諸侯の眼にふれるものと心得て、つつしんで筆をとり、美しい女たちの入浴の図を描いた。誰が軽蔑できるのか。
国芳を称賛する人は、大名におもねって美人入浴の図を描いた国貞を冷笑したかも知れない。この逸話には、国貞に対する無意識の軽蔑、あざけりがひそんでいる。私は、こういう批評上のトリックをいつも不快に思ってきた。ほんとうは諸侯たちの審美眼など、まったく信じていない国貞が、つつしんで筆をとったと見せかけて、のうのうと美女たちの入浴の図を描いたかも知れないではないか。国貞ほどの画家はそのくらいの芸当ができないア-ティストではない。
もし、歌川 国芳の評伝を書いて・・・このエピソ-ドを書き込むとすれば、わたしはもっと別の視点からとりあげるだろう。それは、芸術家としてのヴォワイユ-リズム(のぞき趣味)である。国芳をいやしめるためではない。ピカソなどに見られる強烈な生命のダイナミズムなのだ。ヴァン・ドンゲンのような美人画家の内面に何があったか、そんな連想から、国貞のふてぶてしい韜晦ぶり。
私は江戸の芸術家たちを尊敬しているのである。

335

評伝を書くとき、逸話(アネクド-ト)を入れるかどうか。けっこう真剣に悩んだりする。逸話は、その人の意外な一面を物語っていたり、同時に、その逸話こそがいかにもその人にふさわしいものに見えるから。
あるとき歌川 国芳は、さる大名の依頼で一双の屏風絵を描くことになった。表は山水画だが、裏は江戸市中の女風呂の図という注文だった。
同門の国貞もおなじ注文を受けた。国貞は身分の高い諸侯の眼にふれるものと心得て、つつしんで筆をとり、美しい女たちの入浴の図を描いた。
町絵師の国芳にしても女湯の中までは知らないので、近所の湯屋(ゆうや)のあるじに頼み込んで、毎日、釜湯の板戸の隙間から女湯をのぞかせてもらった。
裸の女たちの肌、からだつき、性毛ばかりではなく、女たちの年齢や、職業、階級といったあたりまで丹念に写生した。
やがて、絵屏風がその殿様のところに届けられた。その絵には、さまざまな女の姿態があざやかに描かれていた。流し場でまともに正面を向いてかけ湯を使っている女、初心らしくつつましく腰を落としている娘、みるからに商売女とわかるあけすけな姿、たちこめる湯気のなかに、裸女たちのししむらが描きだされていた。
某侯は、一夕、この屏風の披露の宴を張った。招かれた諸侯は、国芳のみごとな技量を称賛し、このような絵を描かせた主人をうらやんだという。
国貞の絵には、さしたるお褒めのことばもなかったらしい。

私が歌川 国芳の評伝を書くとして・・・このエピソ-ドを書き込むだろうか。
(つづく)

334

何かを読んでいて、ふと眼についたことばからまるで別のことを考える。私の悪徳のひとつ。
「限りなき回想と、とどめえぬ感傷。少なくとも僕は、新しく加わった執筆者も含めて、本誌の書き手にはそれを望まない」。
清水 信は、三重県鈴鹿在住の批評家で、長年、同人雑誌の批評をつづけ、現在も新しい文学ジャンルをめざす「詩小説」を主宰して後進の指導にあたっている。このことばには清水 信らしいきびしさがある。
これに対して、執筆者のひとりが書いている。
「近来、ものを書こうとすると回想と感傷しか浮かんでこない。それをごまかすために、何度か奇怪な性を描いたり、歴史物に挑んだりしてきたが、それももはや種が尽きたようだ。残っているのは、とめどもない回想と限りなき感傷。」と。
おもしろいのは、清水 信が「限りなき回想と、とどめえぬ感傷」といっているのに、こちらは「とめどもない回想と限りなき感傷」といっていること。
わずかないい換えだが、それぞれの資質、方向、姿勢の微妙な違いが読みとれる。
私の場合はどうだろう、と考えた。
「限りなき回想」にふけることはない。私の思い出には限りがあるし、思い出したところで、すぐに忘れてしまう。それをごまかすために、奇怪な性を描いたり、歴史ものを書いたこともない。
何かを思い出したときに「とどめえぬ感傷」にふける。それは私にもあるだろう。むろん、書くつもりはない。もともと自分を感傷的だと思っているから。

何かを読んでいて、ふと眼についた一節からまるで別のことを考える。これは私の楽しみのひとつ。

333

「舞踏会の手帳」(ジュリアン・デュヴィヴイエ監督)については、評伝『ルイ・ジュヴェ』でふれた。
若い未亡人、クリスティ-ヌ(マリ-・ベル)が、身辺を整理しているうちに見つけた手帳に、はじめての舞踏会で自分に思いを寄せてきた男たちの名前がしるされている。彼女は夫を失った傷心を忘れるために、過ぎ去った日々の恋の相手をさがす旅に出る。
ルイ・ジュヴェのエピソ-ドは第二話。
表むきはキャバレの経営者だが、通称ジョ-と呼ばれるギャングのボス。思いがけず尋ねてきたクリスティ-ヌを、高級コ-ルガ-ルと間違える。しかし、彼女が若き日のピエ-ルの思い出のために訪れたと知って、ヴェルレ-ヌの詩をくちずさむ。

凍てのなか ひと気なき庭園に
いまし 影ふたつ 過ぎゆきぬ

ジョ-は、詩の冒頭、Dans(なか)を、Par(沿って)と間違える。これだけで私たちは、ジョ-が淪落の人生を送ってきたことを知らされるのだ。このシ-ンはルイ・ジュヴェの凄みがマリ-・ベルを圧倒している。
詩が終わったとき、警察がジョ-を逮捕する。
“Adieu,Christine! C’est fini.”
ジュヴェの声がいまでも耳から離れない。「こんなことは、たいしたことじゃない。連行されてゆくのはピエ-ルじゃない、ジョ-さ。ピエ-ルはきみに残してゆく」
忘れられないセリフ。つらいことがあると・・・サ・ナ・パ・ダンポルタンス(こんなことは、たいしたことじゃない)とつぶやく。そして、je vous le laisse.と。
女にふられたときも。

332

遠い海鳴り。
歩きつづけると、いきなり崖になる。
海鳴りはそこからさらに遠のいて、はるかなところからわきあがってくる。
波がしらがうねり、押し寄せて、すぐに白い砂を侵してひろがり、長くのびた汀が、ながながとくろくいろづいて行く。

海辺の町は潮の匂い。しばらく前は漁師の家が立ち並び、白く乾いた砂ぼこりが舞いあがって、その道を日灼けした女たちが、赤いしごきに絣、醤油で煮しめたような手拭いをかぶって歩いていたものだった。
いまは、安っぽいプレハブの小屋や、いかにも規格通りの別荘が並んでいる。

私は、毎年、この浜辺に十人ばかりの女の子たちをつれて行った。私のクラスで翻訳の勉強をしているひとたちのグル-プや、女子学生たちだった。日帰りで帰る女の子もいたし、二、三日、のんびりすごす女の子たちもいた。
それぞれが未決定の未来にむけて歩もうとしていた若い女性たち。
画家の小林 正治や、人形作家の浜 いさをもいっしょに招いたことがある。

最近、ある作家が自分の青春を回想していた。のちに結婚することになる娘さんが登場してくるのだが、彼女も女子学生の頃、私たちのグル-プといっしょにこの海辺にきたことがある。やがて、パリに去って行った私の「恋人」もそのときいっしょだった。

もし私が青春の回想を書くとすれば、この海辺の思い出を書くことになるだろう。

331

かつて志賀 直哉は小説の神様といわれていた。昭和前期の横光 利一は、文学の神様といわれていた時期がある。
私が志賀 直哉の作品でおもしろいと思うのは、初期の短編だけで、横光 利一は、やはり初期の『機械』あたり、『榛名』などの名品のいくつか、あとは『旅愁』は最初の一巻だけである。神様には、どうやら縁がなかった。
横光は、時代が彼に強いたせいもあるが、日本とヨ-ロッパをいつも対比的に見ていた作家だった。
道元の、鳥飛んで鳥に似たり、魚行きて魚に似たり、ということばを引用して、こんなにも簡潔に自然と純粋をいいあらわした言葉はない、という。

そこへ行くとヨ-ロッパの法則は中ごろからギリシャの数学のために人間を馬鹿にしてしまった。このため、これに触れた優れた人物は、陸続として眼で見たものだけを信用し、同時にこれを愚弄せずにはおられなくなり、チェホフやヴァレリィのやうに暗澹となって動かうとしない。法則が愚者を建造してその中に住むのである。

昭和九年(1934年)十月のエッセイ。(「覚書」金星堂/1940年刊)
当時の「文学の神様」が、こんなに雑駁なヨ-ロッパ理解しかもっていなかったと思うと憫然とする。19世紀、専制ロシアに生きたチェホフは、はたして暗澹として動かなかったか。20世紀、ヴァレリィが暗澹として動かうとしなかったのか。

人間が人間のために立たねばならぬと云い出して敢然と立ち始めたのがジッドである。それが再び唯物論に転向したが、これもこの世を極楽にするためには、人行きて人に似たりといふ観念論的な地獄への到達から、一層のこと地獄は地獄をもつて洗ふべしと思ったことによるのにちがひない。

こういう一節を読むと、横光 利一にあきれるしかない。頭がわるいのは仕方がない。時代の良心と見られていた作家が、一所懸命に考えていたことがこのような妄語につきる、そのことが哀れなのだ。
もとよりこれは自戒でもある。

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私は美少女が好きである。いや、好きだったというべきだろう。
若松 みゆき、森山聖子、星野明日香、長岡久美、川奈邦子たち。もっともっといたっけ。霧賀魔子。もう、みんな中年のオバサンになっているだろうな。
美少女なら誰でも好きというわけではなかった。宇都宮すばる。一文字 愛。おなじ「みゆき」でも、鹿島みゆきは、それほど好きではなかった。
若松 みゆきは、いうまでもなく、あだち 充のみゆきちゃん。
森山聖子は、「ときめきのジン」のヒロイン。やたらに明るくて、可愛くて。村生 ミオの作品の美少女たちは、「胸さわぎの放課後」の沢田知佳にしても、ちょっとむっちりしていて、だいたい森山聖子タイプの少女が多かった。
星野明日香は、原 秀則の「さよなら三角」。女子高生。すれ違いばっかり。
長岡久美は、明るくて、素直。セ-タ-の胸に白いLOVEという字が浮きだして。
川奈邦子は「翔んだカップル」の柳沢 きみおが、つぎの作品に登場させたヒロイン。どこか、いたいたしい感じがただよっていた。
霧賀魔子は「さすがの猿飛」に出てくる美少女。しばらくして「ラムちゃん」が出てきたので、もう誰もおぼえていないだろう。

80年代の私はマンガをよく読んでいた。いま思い出しても、すぐれたマンガが輩出していた時期だった。系統的に読んだわけではないし、気に入ったものばかりを読んだわけでもない。則巻アラレという美少女が出てきた時代に、石井 隆を読む一方、「番外甲子園」に驚いたり、「あさりちゃん」、「タラッタポン」が好きという、いいかげんなファンだったから、オタクにはならなかった。それでも、「サンケイ」でしばらくマンガ評論めいたものを書いたことがある。ルネサンス関係の本や、文壇小説の書評を書くよりずっと楽しかった。
やがて、担当だった服部 興平が亡くなってこの連載は打ち切られてしまった。マンガについて書かなくなって、美少女にも興味がなくなった。
その後、マンガも読まなくなったが、ちょっと残念な気がする。

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奄美大島に詩人がいる。詩集を何冊も出しているので、詩壇では知られている。
進 一男である。
1945年、19歳。偶然、武者小路 実篤を知って、日向の「新しき村」に行くことになる。ところが鹿児島に帰って召集令状がきていることを知り、九日しかない日数で、小説を書きつづけた。少年は、これが最後の作品になるとひそかに覚悟はしていたが、「これが遺書代わりだなどとは」いわない。
彼が書いたのは『クレォパトラの鼻に就いて』という短編だった。
これが、戦争とはまったく関係のない寓話的な、どこか皮肉な、若者らしい夢想に彩られた「奇想」の作品になっていることにおどろかされる。
原稿は木箱におさめ、風呂敷に包んで、入隊前に母と姉に預けられた。母と姉は空襲のたびに原稿を濠に入れ、隣家まで焼けたときにはその包みをもって裏山をよじのぼったという。
敗戦後、その原稿は復員した進 一男の手に戻った。
現在、八十歳になった詩人が、入隊前にあわただしく書きあげた十代最後の作品を出版した。「遺書代わりになるかも知れない気がどこかに無くはなかった作品」という。

進 一男は、私と同期で、彼が入隊してから、ついに一度も会うことがなかったが、十代最後の作品を八十歳になって出版した詩人の幸福を思う。