408

日本の音楽環境に登場したシュ-・ピンセイ、ダイヤオたちが、あれほどすばらしい才能を発揮しながら、ついに成功しなかった理由はいろいろあるだろう。日本語のむずかしさもある。だが、根本的に、たいして才能もない人たちがブロデュ-スしたり、舌ったるい作詞ばかり歌わせたことも、成功しなかった大きな要因だったと思う。
なにしろ、艾 敬(アイジン)に、70年代のつまらない日本ポップスをカバ-させるというセンスのない連中が、プロデュ-スしていたのだから。
日本語を使っても、台湾の林葉 亭の「SUBWAY」の「吹泡泡等尓」(玉置 浩二のカバ-)、曲で使われる「サヨナラ」というフレ-ズは少しも気にならなかった。おなじ1993年に出た香港の鄭 秀文の『快楽迷宮』、最初の曲が「Chotto等等」で、日本語の「ちょっと待って」というフレ-ズがくり返される。
Chotto mate yo
愛心尓不必一次盡傾
というフレ-ズがひどく耳ざわりだったことをおぼえている。

王 菲の「Separate Ways」が、アジア人による日本のポップスとしての最後の輝きだったと思う。
その後、「女子十二楽坊」が登場してきたが、あくまで美しい中国姑娘たちのみごとな中国楽器の演奏が成功したのであって、あえていえば、楊貴妃べにに蛾眉ひたいの美少女たちに、観衆がうっとりしただけのことだったろう。演奏された曲のほとんどはつまらないものばかりだった。

あれから十数年、日本のアジア・ポップスへの関心は消えた。香港返還を境に、誰もアジア・ポップスを聞かなくなった。
日本からアジア・ポップスが去ったのではない。アジアから日本ポップスが去ったのである。

407

テレサ・テン、アグネス・チャン、欧陽 菲菲たちが日本で成功してから、日本デヴュ-をめざしたシンガ-が出てくるのは当然だった。
香港返還の一年前に作られた映画「ラヴソング」(ピ-タ-・チャン監督/1996年)では、テレサ・テンの曲(平尾 昌晃ほか)が象徴的に使われていた。これだけでも、80年代のテレサ・テンの存在の大きさがわかる。

当時、日本ではアジア・ポップスに関心が集まって、周 慧敏(ヴィヴィアン・チョウ)が吉田 栄作とデュエットしたり、關 淑怡(シャ-リ-・クァン)が日本からデヴュ-したほどだった。たとえば、区 麗情などが、日本でデヴュ-していた。
ある時代に、すぐれた芸術家がぞくぞくとあらわれるように、大陸、香港、台湾、さらには東南アジアに、すぐれたシンガ-がぞくぞくと登場してきた。当然ながら、日本ポップスを意識したシンガ-も輩出する。
頼 冰霞は作曲者の名を「佚名」としたり、別の中国人の作曲に見せかけながら、日本演歌のそっくりさんだった。台湾の林 美莉も、日本の演歌の絶大な影響を受けていたし、林 晏如は日本のポップスの影響が大きかった。

1993年、「チャイニ-ズ・ゴ-スト・スト-リ-」で日本でも人気の高いショイ・ウォンが全曲、日本語のアルバム「アンジェラス」を出した。これも期待したほどのものではなかった。1995年には、林 憶蓮(サンディ・ラム)が「オ-プン・アップ」で、5曲、日本語による曲を歌った。しかし、EPOの一曲以外は、日本語の歌詞が弱く、ほとんど成功していない。サンディ・ラム自身も、これ以後、しばらく方向を見失っている。

こうして、日本で活動するシンガ-もあらわれる。
「Suna no fune」(砂の船)で登場したス-レイ。「Love Songs」で登場したシュ-・ピンセイ(周 氷倩)。「夢・ 物語」のダイヤオ。
ス-レイは表題曲がよくなかった。これに較べて、シュ-・ピンセイは二胡の演奏も聞かせたし、日本の新人よりもずっと歌唱力もあった。しかし、成功しなかった。
ダイヤオはホリプロが開催したオ-ディションでグランプリを得て登場しただけに、中国でも成功したが、日本語による曲は、「夢先案内人」、「星月夜」といった質の低いものばかりで、彼女の日本デヴュ-は成功しなかった。

406

私はだいたい熟睡する。睡眠薬のかわりになにかしら読んで寝るから。
最近は、『朝鮮童謡集』(金 素雲訳)を愛読している。
メロディ-を知らないので残念だが、韓流ドラマや映画を見るようになって、こんな童謡を読んでも、ずっとよくわかるような気がする。金 素雲の序文を読むと、戦前の日本に母国の童謡を紹介しようとしたこの詩人の内面の声が聞こえてくるような気がする。
韓国ドラマ「チュオクの剣」を見て、捕盗庁(ポドチョン)という警察の活動を知ったが、こんな童謡がある。渡り鳥が空を飛んで行く。雁を見上げて、

前(さき)のが 盗人(ぬすっと)
後(あと)のが 捕盗使令(ポドサリョン)

咸鏡南道の童謡。おなじ渡り鳥を見て、

前(さき)のが 大将
後(あと)のが 盗人(ぬすっと)
中のが 蜜壺。

これは京畿の童謡。おもしろい。

とんび(鳶)は 眼が敏(さと)い
捕盗使令(ポドサリョン)は どうじゃいな

ツバメは 衣裳がよい
平壌妓生(キセング)は どうじゃいな

カラスは 黒装束
都監砲手(トガムポス)は どうじゃいな

都監砲手は猟師のことらしい。
女の子たちが遊んでいる。あとから仲間に入れてほしい子が歌う。

黒ゴマ 白ゴマ 遊んでる
荏(え)ゴマも一緒に 入れとくれ

金 素雲はいう。「なるほど、胡麻の中に胡麻が混ったからとて何の不思議はないね。君たちの巧まぬ知恵にかかっては閻魔さまだってかぶとを脱ぐよ」と。
こう書いたときの詩人の胸に何があったか。

童謡を三つ四つ読む。いろいろなことを想像する。そのうちに眠ってしまう。

405

小学生の頃、ナンセンスなことば遊びがはやった。おおかたは忘れているのだが、こういう「ことば」である。
「ぺ-チャ・ジンジン・・・・・・・ナンバン、カラクテクエネ」

朝、学校に行くと、まるで挨拶のように誰かれなしに、「ぺ-チャ・ジンジン」と声をかける。かけられた相手は当意即妙にいい返さなければならないのだが、即興で答えるので、この部分は忘れている。すかさず、相手が「ナンバン、カラクテクエネ」と答える。どうってことのない、つまらないことば遊びだが、小学生には楽しいやりとりだったらしく、しばらく流行した。

「ナンバン、カラクテクエネ」。唐がらしは辛くて食えない。

関西ではトウガラシのことを南蛮(なんばん)という。この(ナンバン)だけが、どうして東北に残ったのだろうか。
南瓜は、インドシナから伝来したところからカボチャと呼ばれているらしいが、九州あたりではボ-ブラという。私の育った下町では、ト-ナスといっていた。唐茄子である。悪口をたたくとき、「あの唐変木(とうへんぼく)め」というのとおなじで、「あの野郎、ト-ナスカボチャのくせしやがって!」と、ごていねいに二重かさねの悪口になった。
太宰 治が河口湖に滞在して『富嶽百景』を書いていたとき、宿の女将がホ-トウ料理を出した。ホ-トウは武田信玄の戦陣食として知られている。太宰 治はこれを「放蕩」と聞き違えて不機嫌になったという。

唐木 順三のものを読んで、「なんでえ、この唐変木(とうへんぼく)め」と悪態をつく。中村 光夫の『明治文学史』には「ケッ、ト-ナスカボチャのくせしやがって!」と悪口をたたく。別に悪意をこめるわけではないが、けっこう楽しい。

小学生のたあいもないことば遊びを、老いぼれ作家がふと口にする。記憶中枢に刻まれた「ことば」は不思議な働きをするものだ。

404

久隅 守景(くすみ もりかげ)という画家。
江戸前期。狩野 探幽の門下。のちに狩野派を離れ、加賀に赴き、当時の農村の風物、農民の生活を描いた。「夕顔棚納涼図」は国宝という。
不精ひげの男と、上半身はだかで涼んでいる若い嫁さん、赤んぼうに近い男の子。
見ているだけでいろいろと想像が生まれてくる。
守景の晩年の作、「人見四郎出陣」。どういう武将か知らない。鎧に身を固めているが、討ち死にを覚悟しているにちがいない。そのひげづらの決意に、どこかかなしみが見られる。その賛に、

花咲かぬさくらの老木朽ちぬとも その名は苔の下に隠れじ

きっと辞世の一首だろう。
あまりうまい歌ではない。しかし、これを描いた画家の心境をうかがうことができる。
こういう思いは、いまの日本人にはわからなくなっているのだが。

403

戦争が終わって、9月上旬、占領軍が上陸してきた。
有楽町ではじめてアメリカ兵を見たが、兵士たちにまつわりつく若い女の子を二、三人見た。戦争が終わったばかりで、もんぺ姿だったり、やぼったいセ-タ-、スカ-トを着た女たちだった。敗戦直後の解放的だが、みじめな、屈辱的な風景のひとつ。
彼女たちは、その後すぐにパンパンとよばれるようになった。
パンパンガ-ルはあくまで金をかせぐために男と寝る街娼のこと。これと違って、もともとズベ公で、気に入った男にだけ、からだをまかせて、毎日、おもしろおかしく遊び暮らしている女がパンスケだった。自分でもスケちゃんと称していた。好きになった男がアメリカ兵だった場合は、オンリ-で、ほかの女たちより高級な存在のように思っていたらしい。おKちゃんもそのひとりだった。

戦時中は軍需工場の優秀な女子工員だったが、戦後、家業がまったくふるわなくなって、10月にはパンスケに転向して、その年(1945年)の暮れにオンリ-さんになった。私より五、六歳、年上の女性だったが、その変身ぶりに驚かされた。
こうした女たちは日本じゅうどこにでも発生して、パンパンガ-ルと呼ばれることになる。

パンパンガ-ルは街娼だが、それまでの娼婦とは違った考えをもっていた。おKちゃんはいう。いやな戦争が終わった。戦争のおかげで、私なんかさんざん苦労してきた。戦争責任なんか私たちにはない。せっかく自由になったのだから、これからは世間をおもしろおかしく生きて行くほうがいい。敗戦の混乱のなかで、まともな仕事があるわけではない。だから、自分の気に入った男にからだをまかせて、お小遣いをもらう。だから、金をもらうためにからだを売るのとは違う。

パンパンガ-ルにせよ、パンスケにせよ、共通していたのは、戦前からつづいていた公娼に対する反感なり侮蔑だった。なぜなら、特定の家(娼家)に囲われ、与えられた食事を黙って食べ、衣装を借りて、男たちを迎える女たちこそ、まぎれもないパンパンで、しかも前借でしばられたまま男たちに身をまかせるのだから、最下等な淫売ということになる。

逆に、戦後ようやく復興した吉原の女たちの論理はまったく違うものだった。
彼女たちは、ノライヌのように街から街をうろついて男の誘いを待ちかまえるみじめな女たちと違って、それなりにきちんとした居住空間をもっていて、独立した暮らしをしている。この社会に落ちたのは境遇のせいで、春をひさぐのは生活の方便であって、いつかはまともな暮らしに戻ろうと思っている。だから、パンパンガ-ルやパンスケなどは女のクズなのだ。
こうした考えかたは、たとえば吉原は日本のシマ、日本人のシマなのだという、いわば誇りがささえていた。そのうしろには、「降るアメリカに袖は濡らさじ」という考えが生きていた。
戦後の吉原の女でパンパンになった女はいたが、パンパンから吉原の女になった女はほとんどいない、といわれている。

フェミニストたちは性差別を考える。私は、差別のなかの差別を考える。

402

作家がおかしなことを書いていても、私は別に気にしない。ただ、こんなことは書かないほうがいいのに、と思うだけである。
保高 徳蔵の最後の作品に、戦時中にグレアム・グリ-ンの『第三の男』を読んだと書いていた。
この作家は明治22年生まれ。英文科の出身。むろん、戦時中にグレアム・グリ-ンを読んだ可能性がないとはいえない。
植草 甚一(明治44年生)は、戦時中にグレアム・グリ-ンを読んでいたという。このことは、直接、植草さんから話を聞いた。読んだのは上海の海賊版だったという。当時、グレアム・グリ-ンの名前を知っていたのは、おそらく植草 甚一ぐらいのもので、それも「スペクテ-タ-」の映画批評あたりから関心をもったと思われる。植草 甚一を通じて、双葉 十三郎、飯島 正なども読んだはずである。
私が植草 甚一の名を知ったのは、昭和19年だった。当時、「ポ-ル・ヴァレリ-全集」(筑摩書房)の月報の片隅に、編集部がヴァレリ-の『ヴァリア』を探している旨の告示が出ていた。そのつぎの月報に、世田谷在住の植草 甚一氏から『ヴァリア』を所持しているという知らせがあったという短い報告が出ていた。
ヴァレリ-に関心をもっていた私は、戦時中に、そんな貴重な本をもっている植草 甚一という人物の名がはっきり心に刻みつけられた。
はるか後年、私は植草 甚一と知りあう幸運をもった。ここには書かないが、戦時中にどういう経緯でグレアム・グリ-ンを入手したか聞いて驚かされた。

植草 甚一の話から・・・戦後まもなく私がヘミングウェイの『持つことと持たざること』をはじめて読んだのも、じつは上海の海賊版だったことを思い出す。

保高 徳蔵が、戦時中に、グレアム・グリ-ンを読んだとしても『第三の男』を読むはずがない。なぜなら、この作品は戦後に書かれたもので、それもキャロル・リ-ドが映画化するまで誰も知らなかったはずだから。
小説家は何を書いてもいい。しかし、こういう誤りは書かないほうがいい。

401

1943年(昭和18年)10月21日、私は明治神宮外苑競技場にいた。現在の国立競技場である。この日、降りしきる雨のなかで、出陣学徒壮行会が開催された。
私は中学生だったが、全校生徒がこの競技場に参加させられた。数万の大学生、高校生、中学生がスタンドを埋めつくした。
4月に、連合艦隊司令長官、山本五十六が戦死して、戦局がただならぬ状況に立ち至っていることは中学生にも想像がついた。それまで、学生は徴兵猶予という措置で、戦争にかかわりなく勉学にいそしんでいられたが、これが撤廃されて、在学中の学生も招集されることになったのだった。
東大を先頭に各大学の学生たちが担え銃でつぎつぎに大行進をつづけていた。私は、観客席のなかで息づまるような思いで大行進を見ていただけだったが、見送っている学生たちから昂奮しきった大歓声がわきあがった。私も声をからして叫んでいたひとりだった。

首相だった東条 英樹が激励の演説をしたが、私のすわっている席からは豆粒のように見えただけだった。国家未曾有の非常時にあたって学生諸君は粉骨砕身、米英撃滅に邁進せられんことを、といった内容の演説だったと思う。しかし、群衆は熱狂していた。観客席にいた学生たちの激烈な歓声が神宮競技場を揺るがした。
このとき中学生の胸に何があったか、今になってもあざやかに思い出すことができる。

400

夏目 漱石は、大学をやめて「朝日新聞」に移り、本格的に作家活動に入るのだが、このとき、ある人にあてて手紙を書いた。

小生の文章を二三行でも読んでくれる人があれば有難く思ひます。面白いと云ふ人があれば嬉しいと思ひます。敬服する抔といふ人がもしあれば非常な愉快を覚えます。

私も、この「コ-ジー・ト-ク」を一つでも読んでくれる人がいればありがたいと思っている。おもしろいという人があればうれしいと思う。
敬服するなどという人はいるはずがない。軽蔑するという人がいれば、「非常な愉快を」おぼえるかも知れない。私にはマゾヒスティックなところはないが、そうした軽蔑にはかならず羨望がひそんでいるからだ。

私は漱石先生の足もとにもおよばない、しがないもの書きだが、こんなものを書きつづけていると、自分の考えの動きが見えてきてけっこう楽しい。

きみが読んでくれるだけで、ありがたいと思っている。

399

ある女性からハガキをもらった。このコ-ジ-ト-クを読んでくれたらしい。

「はじめてサイトを開いたときの感動、おどろくほどでした。変化成長するものの中で、「変らないもの」の大切さも感じさせていただいています」

誰かが読んでくれている。これはうれしい。ただし、モ-ムふうにいえば・・・私のようなもの書きは、もはや変化したり成長できるはずがない。
しかし、さまざまに変化し成長するものの中で、私は「変らないもの」だけを語っているわけではない。それでは、まさしく時代からとり残された化石か石器、まるで違った種に属する動物ではありませんか。

鳥は空を飛ぶ。サカナは水を泳ぐ。お互いにおなじものを見るわけではない。お互いに出会うこともないし、お互いに相手を知らないままに生きるしかない。

私は、トンボのように空を飛びたいし、カエルのように水を泳ぎたい。できれば、ヤシガニのようにときどき木に登って身を休めたり、チ-タのようにしなやかに砂漠を走りたい。

獲物を追って。

398

『ルイ・ジュヴェ』の第六部を書きながら聞いていたのは、オランダのエディタ・ゴルニァクだった。すぐれたア-ティストだが、シャキ-ラのように有名にはならなかった。
『ルイ・ジュヴェ』を書きあげてから、旧ソヴィエトのリュ-バ・カザルノフスカヤを「発見」して、彼女のCDを探しまわった。ソヴィエトでは、彼女のCDはこの1枚しか出ていなかった。(現在は、それ以後のものも入手できる。)ソヴィエトが崩壊してから来日した彼女の『サロメ』を聞きに行ったことも忘れられない。

397

自分の好きな女優を勝手に「発見」すること。私の場合、ほかのジャンルでもおなじことで、香港ポップスでも、王 菲(フェイ・ウォン)がシャ-リ-・ウォンとして登場した1992年にCDを聞いた。このときからファンになった。やがて、王 菲(フェイ・ウォン)から逆に、梅 艶芳、黄 鶯鶯、テレサ・テン、さらに戦前の白 光、チヤウ・シャンとたどることになった。誰もふれないが、ア-ティストとしての李 香蘭は三十年代の中国ポップスを代表している。

『ルイ・ジュヴェ』の第五部を書いていた時期、ジュヴェが劇団をひきいてラテン・アメリカを巡業した頃のことを書くために、ラテン音楽ばかり聞いていた。当時、シャキ-ラが登場してきたので、毎日「エストイア・キ」を聞いていた。あとになって鈴木 彩織がシャキ-ラのおなじアルバムを贈ってくれた。私がラテン音楽を聞いていることは誰も知らないはずだったので、偶然にせよ、彼女がシャキ-ラを贈ってくれたことにちょっと驚いたことを思い出す。

シャキ-ラはその後、世界的にブレイクする。

先日のサッカ-のw杯、フランスvsイタリアの優勝決定戦の開幕で、シャキ-ラが歌っていた。(このとき、プラシド・ドミンゴが『トゥ-ランドット』のアリアを歌っていた。)シャキ-ラの人気のほどがわかる。

しかし、いまの私はシャキ-ラに関心がない。

*注)鈴木 彩織は『ハリ-・ポッタ-ともうひとりの魔法使い』(メディア・ファクトリ-刊)などで知られている翻訳家。

396

どういう女優がお好きなのですか。

こういう質問には、できるだけ知られていない女優をあげることにしよう。
たとえば、スペインのロレ-ナ・フォルテ-ザ。ペネロ-ペ・クルスに似た美女。とてもいい女優さんだが、スペインの女優なので「踊れ トスカ-ナ」1本しか見ていない。
もう誰も知らない女優をあげてもいい。田中 絹代、入江 たか子あたりは、よく知られているだろうが、沢 蘭子、及川 道子、伏見 直江、その妹の伏見 信子、琴 糸路あたりになると、もう誰も見ていないだろう。まして、佐久間 妙子、光 喜三子となれば誰も知るはずがない。
彼女たちはそんなに魅力があったのか。そう聞かれると答えに窮する。
最近の女優さんほど美貌ではない、といっておこう。演技にしても、ファッションや挙措、それほど洗練されていたとは思えない。

しかし、それぞれが私の心を奪った美女だったことは間違いない。

395

私は書いたのだった。
「今では誰も思い出すことのない俳優、女優たちにふれるのは、それぞれの時代の俳優、女優たちの姿やおもざしをなつかしむためではない。それぞれが、時代に生きて、いずれも『時分の花』としてときめいていた事実を忘れないためである。」(「ルイ・ジュヴェ」第四部第二章)

この「時分の花」が、『花伝書』からのものであることはいうまでもない。

女優だけに関心をもったわけではない。主役のスタ-よりもワキで、つよい存在感、あるいはその役者しかもっていない魅力を見せる連中がいた。

いつも眼をギョロギョロさせながら、ドタドタ歩いていたミッシャ・アウア。(父が有名な音楽家で、ほんとうに「不肖の子」だった。)
いつもいつもトボけたような顔をしていたエドワ-ト・エヴァレット・ホ-トン。(若い頃は、ブロ-ドウェイの二枚目だった。)
天性の悪声というか、頭のテッペンからひんがら声を出していたアンデイ・デヴァイン。
老齢で、ひどく痩せこけていたが、いつも気品のある役をやっていたハリ-・ダヴェンポ-ト。
ふてぶてしい悪役ならワ-ド・ボンド。(晩年、ジョン・フォ-ドの映画では、いい「役」、たとえば勇敢な軍人役をやっている。)
フランス映画では、いつもチンケな悪党、よくいって下層社会の庶民といったレイモン・エイモス。

こういう「さしたることもない」役者たちにつよい関心をもちつづけてきたが、こうした関心が私の批評をささえているような気がしている。
(『ルイ・ジュヴェ』(第一部第十二章)

すでに過ぎ去った時代の俳優や女優たちに、若き日の私が見たもの、あるいは期待したものを考えると、やはり感慨なきを得ない。

394

今でもマリリン・モンロ-がお好きなのですか。
ええ、好きですよ。
マリリン・モンロ-以外の女優はお好きではないのですか。
とんでもない。私は、たくさんの女優が好きです。
たとえば?

こういう質問にどう答えればいいのだろう?

映画を見ると、いつも女優に関心をもってきた。しかし、私の場合、まだあまり知られていない女優のほうが、スタ-女優よりも好きになるのだった。
その意味で、「臥虎伏龍」や「八面埋伏」よりも「初恋のきた道」の章 子怡のほうが好きなのだ。「ドア-ズ」のメグ・ライアンは、スタ-になってからのメグよりもいい。 たとえば、グロリア・デ・ヘヴン。(「ゴッド・ファ-ザ-」第一部で、アル・パチ-ノがはじめてラス・ヴェガスに行く。その背景のシ-ンに、グロリア・デ・ヘヴンのショ-の大きな看板が出ていた。私は、グロリア・デ・ヘヴンが映画では見られなくなったグロリア・デ・ヘヴンがショ-・ヒズネスで成功したことを知ってうれしかった。彼女の「アウト・オヴ・ブレス」は、私にとっては忘れられない一曲。
たとえば、「五番街の出来事」のゲイル・スト-ム。もう少しいい女優になるかと期待したリンダ・パ-ル。名前も忘れてしまったが、「赤い家」でエドワ-ド・G・ロビンソンを相手に、一作だけで消えてしまった美少女。
ずっと成熟した女性をあげれば、最近ではスペインのビクトリア・アブリル。アルモドバルの映画に出ているが、「彼女の彼は、彼女」では完璧なフランス語を話している。
(つづく)

393

若い頃のバ-ナ-ド・ショ-は、三編の小説を書いて、出版社に送ったが、どれもすぐに送り返されてきた。
「今でも茶封筒の包みを見るとゾッとする」
と語ったことがある。
9年間にもらった原稿料が、たった6ポンド。
そのうち、5ポンドは、製薬会社のコマ-シャル・コピ-の原稿料だった。
バ-ナ-ド・ショ-でさえ、そういう時代があった。そう考えれば、原稿が売れなくてもあきらめがつく。

ノ-ベル賞をうけたとき、バ-ナ-ド・ショ-はいった。
「なんで、おれにそんなものをくれるのかね。きっと、去年、何もしなかったご褒美だろうな」

392

ある日、銀座の試写室で、その老人を見かけた。それまで一、二度見かけたことはあったが、どういう人なのか知らなかった。
むろん、映画関係者には違いないが、かなり前に退職した重役か何かで、たまたま試写室に姿を見せる程度の人だろうと思った。
その老人のお帰りになるときには、現役の部長が手をとらんばかりにしてエレベ-タ-までご案内するのだった。
その日の映画は、エロティックな内容で、前評判も高く、せいぜい三十人程度しか収容できない試写室に人がつめかけていた。大多数は、週刊誌の芸能ライタ-だが、有名な作家や、映画批評家の顔も見えた。

その日の試写で、ご老人がたまたま私のとなりにすわった。
映画がはじまると、すぐに寝息が聞こえた。

試写が終わって、観客が席を立つと、ご老人が眼をさまして、ヨタヨタしながら外の廊下に出た。外にいた若い担当者は挨拶もしなかったが、部長は丁寧に挨拶して、エレベ-タ-までご案内した。ご老人はご機嫌よく帰って行った。

当時の私は、この老人をどう見ていたのか。
いくら前評判のいい映画でも、試写を見にきて眠ってしまうくらいなら、見ないほうがいい。それに、試写室は満員になれば入場を断られる人も出てくる。マスコミ関係者、とくに新聞の芸能貴社たちは時間をやりくりして映画を見にくるのだから、試写を見るかどうかで、とりあげかたが違ってくる。
だから、暇つぶしに試写室にくるような老人はできれば遠慮してほしい。
そんなことを考えたかも知れない。
若気のいたりであった。今の私は、おのれの不遜を恥じている。

彼はほんとうに映画を愛していたのだと思う。自分では、もう映画制作の現場にかかわることがなくなっている。しかし、かつて彼が作ってきた映画が、その後どれほど発展をとげたか。おそらく、どんな映画を見ても、自分が想像もしなかったほどの変化に驚かされていたのではないか。

あるいは、彼は幻を見ていたのか。豪華なセットや、たとえようもなく美しい異国の女たちは、ことごとく虚しい見せかけの仮像にすぎない。
だが、そうしたシ-ンの一つひとつに、(はじめから比較にならなかったにせよ)かつて自分が作り出した豪奢や、イメ-ジの優雅さ、たくさんの役者、女優たちの、おかしな、悲しい物語を重ねてはいなかったか。
あるいは、かつてフィルムに現像し、焼き付けた自分の信念や、希望を見てはいなかったか。

そのご老人は伊藤 大輔。昭和初期の映画監督。
しばらくして、彼の姿を試写室で見ることがなくなった。

391

熱心な映画ファンは公開前に大ホ-ルの試写を見ることがある。
しかし、それより前に行われる社内試写、試写室のようすを知っている人は少ないだろう。
試写室には、名だたる映画批評家たちが顔を見せる。淀川 長治、植草 甚一、双葉 十三郎、飯島 正といった有名な映画批評家や、荻 昌弘、田中 小実昌、小川 徹、佐藤 重臣、渡辺 淳といった人たちが居ならぶとなかなか壮観だった。
私はある時期まで映画批評を書いていた。週刊誌で5年、新聞で10年、映画批評をつづけていたので、週に3日は都内の試写室に通っていた。
→ (「コ-ジ-ト-ク」No.86)

映画を見たあと、親しい人たちが近くの喫茶店に寄って、見てきたばかりの映画の話をする。植草 甚一さんに誘われたときは、映画の話よりも小説の話が多かった。
たまにその映画の宣伝担当の人が座談会を用意する。そんなこともあったが、たいていはつぎの試写に急行することが多かった。
それでも、多くて200本見るのがやっとだった。

戦後すぐ、ある映画のホ-ル試写に志賀 直哉が見にきていた。ただの偶然だったが、帰りの客で混雑する階段を、ずっと志賀 直哉のすぐうしろについて降りたことがある。
観客たちは長い列になって、階段を降りるのだった。
私は雑誌の写真で作家を見ていた。これが有名な志賀 直哉なのか、と思った。
やがて階段を降りきって銀座の通りに出たとき、たまたま前方から歩いてきたアメリカ占領軍の兵士が、志賀 直哉を見た。不意に足をとめた兵士は、さっと不動の姿勢をとって挙手の礼をした。どうやら日本の将軍とでも思ったらしい。
志賀 直哉はごく自然に会釈してその前を通りすぎた。
私はすぐうしろを歩いていた。ただ、それだけのことだが、後年、その試写会場に行くたびに、まだ焼け跡ばかりで見るかげもない銀座の風景と重なって、志賀 直哉のことを思い出した。

長い期間、試写室の暗がりで過ごしてきたせいか、最近の私はほとんど映画を見ることがなくなった。

390

哲学者のベルグソンを日本人が訪問した。彼の著作を翻訳したいという。
ベルグソンは喜ばなかった。
「私は日本語を知らないので、あなたの翻訳が私の思想をほんとうにつたえているかどうかわからない」
彼はそう答えた。
このエピソ-ドは、いつまでも私の心に残った。

ベルグソンには、無意識にせよ、日本人の理解する「ベルグソン」と自分は違うのだという思いがあったと思われる。そして、これも無意識にせよ、日本人に対する警戒がはたらいたのではなかったか。
それはそうだろう。私のところにホッテントット人がやってきて、きみの『ルイ・ジュヴェ』を訳したいといわれるようなものだから。私はきっと卒倒するだろう。
婉曲なかたちで、「日本人に私の思想がわかるのだろうか」と疑問を投げかけたはずである。

ただ、こういうふうにも考える。
「日本人に私の思想がわかるのだろうか」といういいかたには、無意識にせよ、日本人に対する否定が隠れているのではないか。

たとえば、この論理は、サルトルのいう「飢えた子どもの前で文学は可能か」という論理に、どこかでむすびついている。
大岡 玲が、このサルトルのことばにふれて、
「私には問いかけの立脚点がよく見えない感じがするし、はるか高みから下界をみおろしているような不遜な臭気がただよう気がして、どうも好きになれない」
という。
私がベルグソンのいいかたに感じるものも、これに近い。

もう一つ、ここから翻訳という仕事について自分なりに考えることができる。

むずかしい問題なので、私はまだ考えつづけているのだが。

389

野茂 英雄がMLBに移ってから、NHKで中継を放送するようになった。おかげで、本場の野球が見られるようになって、いろいろなプレイヤ-の動きや、ときには内面まで想像しながら、ベ-スボ-ルを楽しむようになった。

サウスポウのピッチャ-。

“サウスポウ”という用語は1885年からのもの。たいていの野球場は、バッターの位置を東にして、太陽が西に沈むとき目が眩まないように設計されている。したがって、ピッチング・ポジションに立った投手が左腕投手なら、左“手首”(ハンド)は南を向く。もともと“サウスポウ”は左腕投手の意味だったが、今ではしばしば左ギッチョ一般をさすようになった。
いいサウスポウ・ピッチャーがどこのチームでも歓迎されるのは、左利きのプレイヤー(選手)は左腕投手に向かうと、右利きの投手ほど打てないから。
野球で左ギッチョが有利なのは一塁手で、打たれたボールを二塁、三塁に投げるのが楽だからである。しかし、ほかの内野の守備では左ギッチョの選手は左側に打たれたボールを投げるときからだをぐるっと廻さなければならないという重大なマイナスがある。
野球史上、もっとも有名な“サウスポウ”は「レフテイ」ゴメス、「レフテイ」グラヴ、サンデイ・コウファックス、ウォーレン・スパーンなど。全員、「野球の殿堂」入りを果たしている。ベーヴ・ルースは偉大なバッターとして知られたが、野球選手になった当時はサウスポウ・ピッチャーとして野球人生を始めた。

ついでにいっておくと、サウスポウ・ピッチャーがそうザラにはいないのは、左ギッチョは全人口の約一割に過ぎないからである。

なぜ、こんなことを書いておくのか。じつは、クリフォ-ド・オデッツの芝居を読んでいた時期、調べたから。