468

日本人は、なにごとにまれランク付けが好きらしい。文化年間の、遊廓の番付に「諸国遊所 見立角力 竝ニ 直段附」というのがあって、東、大関が大坂の新町、関脇がおなじく潟之内、小結が京、祇園新地。西は、大関が吉原、関脇が京、祇園、小結が大坂の北新地。
行司に、江戸の品川、九州の博多と並んで、千葉の寄合町とあって驚いた。その下に、塩釜、山ノ目、水沢などがつづく。
毎年、映画のベストテンを選ぶのも、番付けの変形と見ていいだろう。
ただし、今では女優たちが相撲見立ての番付に並ぶことはない。
大正時代の歌劇女優番附を見ながら、初春をことほぎつつ酒を飲む。

467

賀状をいただく。
自分では出さないのに、賀状が届いてくるとうれしい。御歳暮をいただくのとおなじで、自分ではお返しも差し上げないのに、いただくことはありがたい。まことにムシのいい、さもしい人間なのである。御歳暮のお返しもしないのは、私が貧しいからで、お返しをしたくてもできないからである。

賀状を出さなくなったことにも、私なりの理由がある。

しばらくまえまでは律儀に賀状を書いていた。印刷した賀状を出すのも気がきかない。たとえ印刷した年賀状でも、かならず干支にちなんだ一筆描きのようなもの、挨拶を添えて。
マンガや、デッサンめいたものを描いたり、けっこう楽しかった。ところが、年々、賀状をさしあげる数がふえて、ある年からとても間にあわなくなった。
そうなると、絵を添えるどころか挨拶も雑になる。祝詞を印刷した賀状に、自筆で「お元気ですか」と一行書き添える自分に愛想がつきた。

住所録のアイウエオ順に書いてゆくのだが、サ行の途中あたりまで書くと、くたびれ果ててしまう。そのためタ行からの友人、知人には、年賀欠礼という仕儀にあいなった。
御歳暮とおなじで、賀状をいただくのはありがたいのだから世話はない。要するに老人の身勝手さなのである。

ある年、植草 甚一さんから賀状をいただいた。これには驚いた。植草さんは暮に亡くなられたのだから。
おそらく、ご病床にあって書かれたのだろう。ご自分ではご病気の回復を信じていらしたと思われる。あのユニ-クな字体で書かれた賀状を押しいただきながら、個人を偲ぶと哀しみが胸に迫った。

このときから、私はもう賀状を出すまいと思ったのだった。

手紙も、私はワ-プロ、パソコンでは書かない。金釘流でも自分の字で書くようにしている。むろん、よそさまからいただく手紙は、ワ-プロ、パソコンでもうれしい。

今年も賀状は書かなかった。

466

明けましておめでとうございます。

あらたまの年の始めに思うこと。さりとて別に思うこともない。

ただ、私としては、正月を迎えて、友人、知人から賀状をいただいて、その人その人の健康をことほぎ、あらたな幸福を祈っている。
もともと座右の銘などもたないが、今年は、つぎのことばを心に置きたい。

行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あづ)からず我に関せずと存候。

勝 海舟のことば。

465

歳末。

すすめられつつ、ついしわすれど、
こともおろかや、よいことはじめ、
陽気うわきの、ほうき客とて、
西や南をはいてまわるが 煤とり、
あとにゃ くたびれ、
ほんにもちつき、はやせつぶんや、
けがれ不浄の 厄をはらうて、
まめの数とりゃ、つい三百六十ついた、
ひいふうみいよ。

近松 門左衛門の作という。竹田 出雲が加筆したともいう。
それほどむずかしくはないが、裏にはエロティックな含意がある。「ついしわすれど」は、うっかり、大掃除をするのを忘れた、に師走がかけられている。
「ことはじめ」は、むろん、セックスのこと。ただし、昔は旧暦だったから、12月13日。歌舞伎や粋筋では、この日をあらたまの年として、顔見世がはじまる。
「ほうき客」は、お座敷を掃除する箒にかけて、女をつぎつぎにとりかえる客。
西は福原、西門筋。南は大阪の遊廓。関東者の私にはよくわからない。
そこで「もちつき」、「せつぶん」にもなにやら見えてくる。
厄払いは、大晦日に子どもが近隣の家々をまわって、おゼゼ、お豆をもらう。最近、東京の子どもたちがアメリカン・スタイルの仮装で、ハロウィンに近所をまわると知ったら、江戸の子どもたちは羨ましがるだろうか。
「まめ」、「つい三百六十ついた」も想像がつく。

禿(かむろ)、舞子の子どもたちから、ひろく江戸の子どもたちにはやった歌で、私の「コ-ジ-ト-ク」も、これでおしまい。
どちらさまも、よいお年を。

464

へたな俳句を詠んだ。(1986年)

歳末、小雨の午後、何も仕事をしない一日。

さし迫る用事もなしに師走かな

落雷はげし 年の瀬の夜明け前

この歳末、山に登った。ほとんど客のいない麓の宿で。

つごもりをつたなく病んで薄き粥

山の湯に大つごもりの薄明り

いつも歳末をこんなふうにすごしていた。もう、20年前のこと。

463

私の好きな音楽。

戦時中ずっと沈黙していた小林秀雄が、戦後に『モーツァルト』を発表したことはほとんど一つの事件だった。私は小林秀雄に大きな関心をもっていたので、『モーツァルト』を読んで、しばらくモーツァルトばかり聞いていた。
ブルーノ・ワルターのモーツァルトが好きになった。もっとも、ブルーノ・ワルターのレコードしかもっていなかったのだから当然だろう。
ずいぶんあとになるが、「フルトヴェングラーと巨匠たち」という映画で、ブルーノ・ワルターがモーツァルトを指揮しているのを見てうれしかった。これとは反対に、シゲッティが来日したとき、たしか「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」を聞いたが、ブルーノ・ワルター指揮のシゲッティとずいぶん印象が違うような気がして、内心がっかりしたことをおぼえている。
そんなこともあって、まず、モーツァルトをあげておこう。

私には『メディチ家の人びと』という評伝めいた作品がある。これを書いたときは、朝から晩までベートーヴェンばかり聞いていた。メディチ家と『皇帝』にはなんの関係もない。しかし、私はこの曲を聞くと、なぜかメディチ家の運命を聞くような気がするのだった。好きだったのは、ギーゼキングやゼルキンの「皇帝」。両方ともワルターの指揮。途中から、オイゲン・ヨッフムのレコードに換えたが、これはワルターのレコードがボロボロになってしまうことが心配だったからだった。ついでに、最近のグルダのものをあげておこうか。

もう一曲となるとこれがむずかしい。
ショパンをあげようと思ったが、誰のショパンが好きなのか、自分でもきめられない。ほんとうに困った。
いっそオペラにしよう。
そこで、マリア・カラスの『ランメルモールのルチア』をあげようかと思ったが、ジューン・サザーランドとパヴァロッテイの『ルチア』もすばらしいし、そんなことをいえば、チェリル・チューダーとドミンゴの『ルチア』もいい。
さあ、困った。そこでちょっとズルをすることにした。

私があげたのは・・ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッテイの三人がいっしょに出ているビデオ。つい、数年前にテレビで放送されたものだから、よく知られているだろう。三人がいろいろなミュージカル、民謡などをつぎつぎに歌ってくれるので、肩のこらないコンサートになっている。なにしろ現代最高のテノールの顔見世興行だから楽しいが、最後にパヴァロッテイがプッチーニの「誰も寝てはならぬ」を歌ってからがいい。「オ・ソレ・ミオ」を三人が合唱する。ここのやりとりを見ていると、ヨーロッパの音楽、舞台の厚みを見せつけられるような気がした。
これはビデオで見られる。

ただし、この三人のジョイント・コンサートでほんとうによかったのは、この第一回のときだけ。あとは、だんだんわるくなってくる。東京でやったものは、とくにひどいものだった。
最後に、主催者側の要請(または強制)で、美空ひばりの「川の流れのように」を歌ったが、パヴァロッテイははじめから投げていた。カレ-ラスは途中まで。最古までなんとか歌ったのはドミンゴひとり。
私は、この三人に美空ひばりを歌わせたテレビにはげしい怒りをおぼえた。と同時に、自分の意に添わないものでも、しっかり歌おうとしたドミンゴに敬意をもった。

今の私はもうこの三人にもう興味がなくなっている。

ブルーノ・ワルター「皇帝」 NYフィル ゼルキン SONC 15025
フリードリヒ・グルダ「ベートーヴェン」 ウィーン・フィル ロンドン KICC 9061-2
「パヴァロッテイ、ドミンゴ、カレーラス 3大テノール 世紀の競演」ロンドン  POVL 1003

462

父は昭和45年(1970)に亡くなったのだが、父が危篤に陥った夜に、私はある座談会で、植草 甚一、五木 寛之に会っていた。私が司会したのだが、この座談会は、植草さんの『ワンダ-植草 甚一ランド』に載っている。このときの司会は、私としてはうまくいかなかったのだが、植草さん、五木さんの話はおもしろかった。
このときのことは、五木 寛之も書いているし、私ものちに「五木寛之論」で触れている。
座談会を終えて、すぐに父のもとに駆けつけたが、すでにこの世の人ではなかった。

この日、三島 由紀夫が市ヶ谷で自裁するという事件が起こっていた。
その直後に、当時、週刊読書人の編集者だった森 詠(今は作家になっている)から、至急、三島 由紀夫・追悼を書いてほしいと依頼されたのだった。
私は三島 由紀夫の行動に衝撃を受けていたので、その晩までに書くと約束した。
しかし、父の通夜のさなかに、三島 由紀夫の追悼など書けるはずがなかった。

締め切りの時間はすぎている。私は森 詠に電話で、原稿は書けそうもない、と詫びた。父が亡くなったことは伏せていた。しかし、森 詠は、すでに大日本印刷の校正室に入っていた。
森 詠としてもここにきて別の原稿にさしかえたり、ほかの執筆者に原稿を頼むことは不可能だった。私もそれは承知していたが、病院から父の遺体を移し、親族や知人に電話や電報で知らせ、葬儀の手配や、通夜にきてくれた人々に挨拶するという状況では、まったく書けない。何かを考えられる状態ではなかった。
とにかく明日の早朝、大宮まで原稿をとりにきてほしい、と森 詠に頼んだ。

何もかもごった返していた。
つぎつぎに弔問に訪れた人々に挨拶をする。その合間をみては机に向かって、ほんの二、三行、原稿を書いては、また弔問の人々に挨拶したり、読経、精進の手配、親族や知人に電話をしたり。ときどき柩の前から離れては書きつづけた。
父を失った悲しみと、三島 由紀夫の自裁というショックで動揺していたため、自分でも何を書いているのかわからないくらいだった。

翌朝、6時頃、約束通り、大宮で森 詠に原稿をわたした。森 詠はその足で大日本印刷に戻った。そして、予定していた原稿を私のエッセイに差し替えたのだった。
このときの私の印象が彼の作品に書きとめられている。私は憔悴しきっていたという。森 詠は私が三島 由紀夫の死に激甚なショックを受けたと思ったらしい。
たしかに、ひどいショックを受けていたが、別な要因が作用していたことは森 詠も気がつかなかった。父を失ったことは、私個人にかかわることだったから。

翌日、大新聞も週刊誌もいっせいに三島 由紀夫の特集を組んで、多数の人が意見を発表していた。「週刊読書人」の発行は事件の1週間後だったが、作家の反応としては、私の文章はもっとも早いものの一つだったと思う。
私としては、自分が書かなければならないと思ったことだけを書いたにすぎない。しかし、私のエッセイが出たあと、おなじように三島 由紀夫の事件にふれた本多 秋五、澁澤 龍彦、平岡 正明たちが、それぞれ私の文章に言及していた。(ただし、澁澤 龍彦は、後でその部分を削っている。)

三島 由紀夫と面識はあったが、親しくはなかった。しかし、彼の死はその後も文学的な主題として私の内面に深くきざまれている。

461

父には一つだけ、特技があった。
水練が得意で、古泳法、水府流の達人だった。
五、六歳から泳いでいたらしい。隅田川の中州に、芦が生えていたころで、アサリや白魚がとれた時代だった。大川端のこっち河岸(かし)には、ヤッチャ場があったし、本所寄りの岸には、百本杭。よくセイゴなどをしゃくったという。
水練の先生は、ゆたかな白髯(はくぜん)をたくわえた老人だった。普通なら、髯が水で濡れる。いくらりっぱな髯でも、水に濡れればチョロッとたれて、水がしたたるはずだが、この先生はけっして髯を濡らさず、子どもたちを叱咤し、水泳を教えた。
昌夫は水府流の泳ぎなので、へそ下しか水につけず、立ち泳ぎをしながら、弓矢も射るし、筆も使う。なにしろ、鎧兜をつけても泳げる戦闘泳法なのである。
水府流。元禄時代、水戸の島村 孫左衛門正広が編み出した泳法という。
ついでに書いておくが・・・向井流は、幕府の旗本、お船手組の組頭、向井 将監(しょうげん)のはじめた泳法。木村 荘八が少年の頃にこの泳法を習ったという。

父といっしょにプ-ルに行く。これが、いやだった。
はじめのうちは誰も気がつかないが、しはらくすると、泳いでいる人たちがみんなプ-ルから出てしまう。プ-ルサイドに立った人々が、奇妙なものを見たような顔をする。
昭和の初期でも、日本の古泳法はすでにすたれていた。それどころか、古泳法そのものを知る人もいなかったのだろう。
父はひとりで泳ぎつづける。スピ-ドを重視するクロ-ルや平泳ぎを見慣れている眼には、ひどく奇妙な泳ぎかたとしか見えない。

水府流の泳ぎかたでも胸から下は沈めない。上半身、へそから下を沈めて泳ぐこともあった。それでいて、いくら泳ぎ続けても息が乱れない。抜き手、ノシを切っても、水面がまったく波立たない。そのかわりスピ-ドの遅いこと遅いこと!
みんなが茫然として見ていた。失笑する人もいた。なにしろ誰も見たことのない泳ぎかただったから。一度だが、頭に鉢巻きを巻いて墨を含ませた筆を挟み、立ち泳ぎで、和紙に文字を書いたことがある。むろん、両手も和紙も濡らさなかった。見ていた人たちから拍手がおきた。
バサロのように水にもぐる潜水泳法もあるのだが、息つぎの長さは驚くべきものだった。昭和になって元禄の古式ゆかしい泳法を見たら誰だって驚くだろう。

父といっしょにプ-ルに行くのが恥ずかしかった。父が泳ぐと、みんながおもしろがって見物するのだから。私が人前で泳がないのは、これが原因だったような気がする。

江戸ッ子のくせに、朴念仁で、まったくの無芸。まるっきり社交的ではなかった父、昌夫に私も似ているらしい。

(つづく)

460

若い頃の父は登山やスキ-に熱中していた。冬になると、小学生だった私は、毎週、父につれられて、日帰りで作並、鳴子、八ッ森といったスキ-場に行った。土日には、山形側の蔵王高湯のゲレンデから地蔵の樹氷まで山スキ-。
当時としては、めずらしいウィンタ-・スポ-ツで、小学生にはむずかしいコ-スだった。樹氷の中で、ガスに巻かれて、遭難しそうになったこともある。
私にスキ-、スケ-トを教えてくれたのは、小学校で担任だった壺 省吾先生だった。壺先生はスポ-ツ万能で、後年は東北の体育関係の組織の会長などを歴任なさった。
帰りは、たいてい壺先生をリ-ダ-に、父の同僚、それに小学生の私。数名のチ-ムで、蔵王からいっきに麓の山の上(やまのかみ)のバス停まで滑降する。

後年の私が、中年過ぎて登山に熱中したのも、壺先生や父の影響だったかも知れない。
(つづく)

459

私の父、昌夫は明治32年(1899)、浅草、田原町で生まれた。
チャキチャキの江戸ッ子だが、9歳からイギリス人の家庭でそだてられた。江戸ッ子のくせに、19世紀のイギリスふうに倫理的で、堅苦しい朴念仁で、まったくの無芸。まるっきり社交的ではなかった。
当然、英語ができたので、戦時中に石油公団につとめた以外は、外国系の商社につとめた。戦後、ピットマン速記を使ったステノグラファ-は、東京でもわずか二人しかいなかった。父はその一人だった。
ほかに、フランス語もある程度まで堪能だった。戦争中に、フランス語のブラッシアップのために、「慶応」で講義していた串田 孫一先生のクラスに通っていた。串田さんの日記に、一か所だが父のことが出てくる。ほかに誰も出席していない教室に、年長の生徒がひとりだけ出席しているので、串田さんもやむなく講義したらしい。
昌夫は、終生、串田さんに感謝していた。
(つづく)

458

ベルリンからパリに。それほど時間がかかるわけでもない。
ルフト・ハンザ。私の隣りに、8、9歳の少年がすわった。服装はふつうだったが、中流の上ぐらいの家庭に育ったらしく、態度が上品で、まだ幼いからだつきながら、明るくてとても可愛らしい。
しばらくして私は、この少年に話しかけてみた。
「失礼だけど、きみはどこに行くの?」
「パリ」
「いつもひとりで旅行するの?」
少年は私の質問に不思議そうな顔をした。
いつもひとりで旅行している。
少年は小学校2年生。ベルリンに住んでいて、5日間の休みに、フランスの友だちのところに遊びに行くのだった。
私に答える少年の態度には、年長者に対する敬意が見られた。見知らぬ外国人、それも日本人に話しかけられたことはなかったに違いない。きちんと座席に腰かけて、どんな質問にもきちんと答える少年に私は感心した。

ドゴ-ル空港に着いたとき、彼は私に向かって、きちんと足をそろえて、
「あなたとお話できてうれしかったです」
といった。

少年の名前も知らない。私も名前を告げなかった。
しかし、この少年のことば、その姿、マナ-、凛然とした態度は、いつまでも心に残った。

まだ、私たちのあいだで、国際化とか、小学校からの英語教育などが問題になっていない頃のこと。

それだけのことである。

457

ハプスブルグ王家の歴史。

ルドルフからはじまって、アルブレヒト二世、ルドルフ四世。
しばらくしてマキシミリアンが出てくる。
なんといっても、カルロス(クィント)五世、フェリ-ペ二世、フェルディナンド一世の時代がおもしろい。
やがて、バロックの時代のレオポルド一世。
さらには、マリ-ア・テレジア。

いつだったか、種村 季弘と話をしていて、たまたまマイエルリングの悲劇が話題になった。ハプスブルグ最後の皇太子と男爵令嬢の悲劇。
私は、ハンチュカ、カ-ンあたりから、ヴァンドルシユカなどの研究家のものを読んで、ハプスブルグを少しづつ勉強していた。
フィリップ・エリアの小説を読んでいた私は、小説ではこれを越えるのはむすかしい、と思った、しかし、評伝という形式なら、この王室の悲劇を書いてみたいと思った。
種村 季弘がにやりとした。
「ボワイエとダリュ-だね」

ハプスブルグ王家について書く気がなくなった。

456

私たちの内面には、どうしようもなく暗いもの、他人にはけっして知られたくないにがいものが隠されている。
いったんそれに気がついてしまうと・・・生きているのがほんとうにいやになったりする。

さて、どうするか。

455

ヘラヘラヘッタラ ヘラヘラヘ。

映画、というより活動写真でおぼえた。エノケン(榎本 健一)の活動写真だったと思うのだが、間違っているかも知れない。ずっと後になって、これは落語家の三遊亭 万橘が、明治十三年頃、高座でヘラヘラ踊りを披露したときのものと知った。

赤い手拭い 赤地の扇 それを開いて おめでたや
ヘラヘラヘッタラ ヘラヘラヘ
太鼓が鳴ったら にぎやかだ ほんとにそうなら すまないよ
トコドツコイ ヘラヘラヘ

明治十八、九年頃には、

親がちょんこして わしこしらえて
わしがちょんこすりゃ 意見する ちょんこ

これは「ちょんこぶし」。
俗謡、流行歌には、その時代の民衆の欲求、そのひそかな願望、ときには挫折、あきらめが隠されている。ポップスもおなじことだが、ポップスのことばが、民衆の内面に根づくことは少ない。
むろん、時代の変化のスピ-ドが違うからだが、歌詞の一部が流行語になる基盤がないからだろう。
しかし、「ほんとにそうなら すまないよ」とか「おやまかちゃんりん」、「テケレッツのパ-」、「オツだねえ」といったことばが、明治の俗謡からつたえられてきたことに気がつく。
そのあたりから、日本人の心性、品性、さらには性意識といった問題を考えている。

もっとも、「真実ねえ、あきれるねえ」(明治42年)とか、「いやだいやだ、インテリさんはいやだ、頭のまんなかに 心狸学 社怪学 なんてマがいいんでしょ」という声が聞こえてきそうな気がする。
「なんてマがいいんでしょ」は、明治43年頃の「ハイカラぶし」から。

454

私は実直なサラリ-マンの家庭で育ったが、半分は下町の零細な工場にいりびたっていた。だから、私自身は律儀で、まじめな(と自分では思っている)のだが、半分はどうやらヘラヘラヘェ的にふざけた、いい加減なところがある。

叔父、西浦 勝三郎は、本所、吾妻橋で段ボ-ルの製造工場をやっていた。下町の大きな工場の下請けでの箱を作る家内工業で、住み込みの職人が二人、通いの職人が二、三人。忙しいときは、母親、嫁さんも手つだう。中学生の私も、ときどき駆り出されて断裁の機械で、大きな段ボ-ルを切ったり、小さなボ-ル紙の端をハリガネでとめる作業をさせられた。つらい仕事ではない。それに職人たちの話を聞くのが楽しみだった。

日がな一日、おなじ作業をしているのだが、勝三郎がオ-ト三輪で製品を届けに行く。
浅草まで歩いて十分。若い職人は仕事を終えると、たちまち外に飛び出して、吉原ぞめき。寄席や演芸場に行ったり、評判の活動写真を見たり。
花電車を見てきたといって、とくとくとして仲間にご披露するやつがいて、私が顔を出すと、あわてて話をやめたりする。私にはよくわからなかった。
あとで、この職人さん、私の祖母によびつけられて、こっぴどく叱りつけられていた。
勝三郎の帰りは夜遅く、どこかに立ち寄って、いいご機嫌になっていた。
もう寝静まっている。
「勝さん、今、お帰りかい」
「へい、おっかさん、ただいま戻りやした」
「何時だと思っているんだえ。いいかげんにしないと、妾(ワツチ)だって怒りますよふんとに」
「へい、もう二度と致しませんので、どうぞご勘弁を願います」
これが、勝三郎の自作自演。

たいていは落語だが、ときには梅沢、虎造でやる。

翌日、私の母、宇免のところに祖母がくる。この話に母も私も大笑いする。

453

横浜国立大/名誉教授の宮脇 昭という人のことを読んだ。
日本各地の土地を歩いて、その土地ほんらいの自然が残っている森、「鎮守の森」を拡大しようとしている。

日本では、もともとその土地に根づいた森がなくなってきている。
その土地ほんらいの森に見える里山の雑木林にしても・・・じつは、燃料や肥料に使うために、人間に都合のいいように変えられた二次植生だという。
ところが、住人が勝手に手をつけることのできない神社、鎮守の森などには、その土地ほんらいの自然が生きつづけている。

いまでは常識になっている宮脇先生の考えも、60年代半ばには、生態学者さえ半信半疑だった、という。

宮脇先生は、80年代に『日本植生誌』(全10巻)を出された。10年におよぶ労作である。その研究をつらぬいているのは・・・「鎮守の森」には、防音、集塵、空気の浄化、水質浄化、保水といった機能が集約されているという思いだった。

宮脇先生は、われわれの先祖のいとなみについて、

「(われわれの先祖は)ふるさとの木によるふるさとの森を残してきた。愚か者が破壊しないように、神社やお寺やお地蔵さんをまつって、この森を切ったらバチが当たるというふうにしてきた。この日本人の叡知を見直すべきだと私は思います。」

宮脇先生がこう語ったのは、1989年だった。

そして今、私たちは2007年をむかえようとしている。

452

土岐 哀果。大正七年から、土岐 善麿。

戦後まもなく、一度だけ土岐 善麿先生の原稿をいただきに伺ったことがある。
友人の椎野 英之に頼まれて土岐 善麿の自宅に原稿をとりに行った。土岐 善麿は、私を新聞社のアルバイトと見たに違いない。原稿はできていなかった。

「申しわけないが、これから書くので、少し待っていてください」
塵ひとつない茶室のような書斎に招き入れられた。明窓浄机というのはこういう仕事場をさすのだろうか。私はかしこまってすわっていたが、土岐 善麿は私を前にして、大きな黒檀の机にむかうと、随筆をすらすらと書きはじめた。
戦後すぐで、随筆のスペ-スとしてはたぶん二枚程度だったと思う。それでも私は驚いた。この先生は、いつでもすらすら原稿が書けるのか。

このときの印象はその後いつまでも心に残った。

私はどこででも原稿を書く。ある時期まで、喫茶店で書いたり、電車に乗ってすぐに原稿を書きはじめ、担当の編集者に原稿を届けるような「芸当」をつづけてきた。

私の書斎ときたら、本、雑誌、マンガ、クラシックから邦楽まで、CD、ビデオ、DVD、女の子たちが描いてくれた油絵からエロティックなデッサン、おまけに各地のおみやげまで、何もかも放り込んで、まるでゴミ収集場かゴミ焼却場のようなていたらく。
その私が心のどこかでは、土岐 善麿の茶室のような書斎をもちたいと思ってきた。
しょせん、かなわぬ夢だったが。

ときどきテレビで、ゴミをひろってきて、近所に迷惑をかける「困った人」がとりあげられると、自分の書斎兼仕事場を見せつけられるような気がする。
だから、土岐 善麿の茶室のような書斎を思いうかべて、いつも、えらい人は違うなあ、と思う。

私は土岐 哀果にさして関心がない。土岐 善麿さんに敬意を持っているけれど。

451

土岐 哀果。大正七年から、土岐 善麿。

戦後まもなく、一度だけ土岐 善麿先生の原稿をいただきに伺ったことがある。
友人の椎野 英之に頼まれて土岐 善麿の自宅に原稿をとりに行った。土岐 善麿は、私を新聞社のアルバイトと見たに違いない。原稿はできていなかった。

「申しわけないが、これから書くので、少し待っていてください」
塵ひとつない茶室のような書斎に招き入れられた。明窓浄机というのはこういう仕事場をさすのだろうか。私はかしこまってすわっていたが、土岐 善麿は私を前にして、大きな黒檀の机にむかうと、随筆をすらすらと書きはじめた。
戦後すぐで、随筆のスペ-スとしてはたぶん二枚程度だったと思う。それでも私は驚いた。この先生は、いつでもすらすら原稿が書けるのか。

このときの印象はその後いつまでも心に残った。

私はどこででも原稿を書く。ある時期まで、喫茶店で書いたり、電車に乗ってすぐに原稿を書きはじめ、担当の編集者に原稿を届けるような「芸当」をつづけてきた。

私の書斎ときたら、本、雑誌、マンガ、クラシックから邦楽まで、CD、ビデオ、DVD、女の子たちが描いてくれた油絵からエロティックなデッサン、おまけに各地のおみやげまで、何もかも放り込んで、まるでゴミ収集場かゴミ焼却場のようなていたらく。
その私が心のどこかでは、土岐 善麿の茶室のような書斎をもちたいと思ってきた。
しょせん、かなわぬ夢だったが。

ときどきテレビで、ゴミをひろってきて、近所に迷惑をかける「困った人」がとりあげられると、自分の書斎兼仕事場を見せつけられるような気がする。
だから、土岐 善麿の茶室のような書斎を思いうかべて、いつも、えらい人は違うなあ、と思う。

私は土岐 哀果にさして関心がない。土岐 善麿さんに敬意を持っているけれど。

450

歳末。
ふと、口ずさむ一首。

『働かぬゆゑ、貧しきならむ、』
『働きても、貧しかるべし、』
『ともかくも、働かむ。』

作者には失礼だが、笑ったね。ただし、嘲笑したわけではない。しがないもの書きとしては苦笑するしかないが、自嘲の笑い、または羞恥の笑いでもあった。

私が貧乏なのは、「働かぬゆえ」に違いない。
しかし、いくら働いても貧乏だろうなあ。
最近は、ともかくも働こうという意欲がない。

さて、『働かぬゆゑ、貧しきならむ、』と、『働きても、貧しかるべし、』にも、おなじようにト-トロジックなものが感じられないだろうか。私の笑いは、そのあたりに向けられている。
そして 同時に、これをしも短歌と見るべきか、という疑いもあった。羨望もまた。
いささか皮肉にいえば、こういう短歌を詠むことで歌人として生きることのできた時代のありがたさを思った。

作者は、土岐 哀果。
(つづく)

449

2008年の北京オリンピックのマスコット。
英語で Friendlies だった。ところが、英語のわかる人たちからメッタメタに批判されたとか。
Friend lies に見えるから。
発音がわるいと Friendless に聞こえる、って。

北京五輪組織委員会は、中国名の「福・ 女圭」を Fuwa に変更した。

口に出してごらんなさい。中国語で発音できない日本人は、思わずぎょっとする。ちょっと困るなあ。(笑)