488

戦前の浅草オペラに熱中したペラゴロたちの眼には、「茶色の毛をつけた日本人たち大勢の顔やからだや仕草」はエグゾティックに見えたにちがいない。
だが、戦後、日本のオペラをささえてきた人々は、いつも山崎 清のような指摘にたえながら、それぞれが自分の信じる道を歩みつづけてきたはずである。

たとえば、50回をむかえた「新春オペラ・コンサート」は、こうした批判とはかかわりなく日本人が到達した結果とみていい。むろん、日本人は『トスカ』のアリアで、パヴァロッテイ、ドミンゴ、カレーラスにおよばない。しかし、そうした比較は、やがて無意味なものになる。

これは、別の領域でもおなじことなのだ。たとえば、現在の翻訳が、明治、大正の翻訳家の仕事とは比較にならないほど高度なものになっていることを見ればよい。
私たちのミュージカルが、ブロードウェイの絢爛をもたないとしても、少しも恥じることはない。あえていえば、一部の人たちはすでに才能において劣ることはない。

すでに、私たちのディーヴァたちの顔やからだや仕草が、イタリア・オペラとはそれほど異質なものとはいえなくなっている。
NHKの「新春オペラ・コンサート」を見て、考えたこと。

487

NHKの「新春オペラ・コンサート」を見た。

もう、40年も昔のことだが・・・イタリア歌劇団の来日公演で、『フィガロの結婚』が上演された。
これを見た山崎 清博士が書いている。

イタリアのオペラ歌手たちの間にはさまって、幾人かの日本人歌手が出場しているのだが、からだの貧弱なのは、いたしかたないとしても、あの顔――。なんという顔だ。見物席の日本人は、ぞーっとするのである。

山崎 清は、人類学、とくに頭蓋計測から発展した歯科学における「顔」の研究の専門家だった。随筆家としても知られている。
博士の気に入らないのは、オペラ歌手としての才能の比較ではなかった。

イタリア人に真似したつもりか、茶色の毛をつけた日本人の青年男女のふんしている村人たち大勢の顔やからだや仕草が、イタリア・オペラとはまったく異質なものなのだ。

たしかに、山崎 清の指摘するとおりに違いない。私も、翻訳劇を演出してきたので、こういう指摘には反論できない。
だが、昔からこういう論理はくりかえされてきたのだ。明治初年の文明開化と、それに対する『千紫万紅』などの日本主義の論客の批判や、芝居の世界でも、島村 抱月の誤訳を徹底的に批判した『八当集』の筆者などを思い出せばよい。

むしろ、この問題は人種的な違い、容貌、体格、肢体、挙措動作の違いが、「見物席の日本人の内面を、ぞーっとさせるものかどうか」ということにある。

(つづく)

486

初等/中等教育に、いろいろ問題が出てきて、「教育基本法」なるものが成立した。

私は、ごく狭い分野で教育にかかわってきただけだが、教育の基本は「読み、書き、そろばん」にあると考える。まさか、江戸時代に逆行するような考えと見る人はいないだろうが・・・まず、国語教育を徹底的に行うこと。国語ができる子どもは、かならず英語その他の外国語にも習熟する。
小学校で英語を必修科にすることに私は反対する。

作文教育を、まず、徹底的に行うこと。ただし、かつての作文指導のようなものではなく、時候の挨拶、慶弔の文章まで、候文から、恋文まで、いくらでも教える材料はある。
日本語の美しさを教えること。

入学試験に、太宰 治の『走れメロス』がとりあげられて、その文章を細切れにして、子どもに判断させる文例を見たことがある。怒りをおぼえた。
その「問題」では、たとえば作中人物の心理、性格、事件の内容に関して、いくつかの例をあげて、子どもに判断させる。そういうやりかたはただちに廃止すべきである。
文学作品は、誰がどう読んでもいいのだ。いくつかの選択肢をあげて、その一つに正解がある、などとする文部官僚は、文学の敵なのだ。
それよりも、太宰 治の教科書に出ている作品を、生徒に声に出して読ませる。さらに、太宰 治のほかの作品を教師自身が読み聞かせる。
そのほうがずっと国語力が身につく。

そろばんを復活せよ、とまではいわない。しかし、算数の暗算能力を高めることは、高学年になってからの思考力、想像力、論理力を発展させる。

小学校から知識を集中的にたたき込む。

初等/中等教育にレッセ・フェ-ルはないのだ。「学校群」から「ゆとり教育」まで、文部官僚はひたすら初等/中等教育の衰微、劣化に力をつくしてきたではないか。
彼らの責任は大きい。

「教育基本法」よりも、まず現場の教師たちの意識をかえる必要がある。

485

「千の風になって」。
作者不詳の詩という。

この詩は、ニユ-ヨ-クで9・11一周年の追悼式に読まれた。ロサンジェルスでは、マリリン・モンロ-没後30年の追悼で読まれた。もっと前の、アイルランド、タブリン、1RAの爆弾テロで亡くなった市民の葬儀でも読まれた。

やさしい内容が人の心にまっすぐ届く詩。

死者に対する私たちの哀しみを素直にあらわしている。

詩について考えるとき、私はいつも心の片隅にこの詩を置いておく。あらゆる詩法、詩学よりも、私にはわかりやすいから。

484

ギュンタ-・グラスが、戦時中、17歳で、ナチス親衛隊に編入されたことを告白したとき、さまざまな批判にさらされた。
私は、最近のドイツ文学にうといし、ギュンタ-・グラスのいい読者ではなかった。それに、批判できる立場でもなかったのでしばらく考え続けてきただけである。

私は、17歳のギュンタ-・グラスが、ナチス親衛隊に編入されたことを誰が責めることができるのか、と考える。しかも、実際に戦争を知らない人々が。

そして、ギュンタ-・グラスをとらえつづけたものは、自分ではどうしようもなくナチス親衛隊に編入されたことに対する恥辱感だったと思うようになった。
これは、彼の短いエッセイ、「羞恥と恥辱」(1989年)を読んだせいもある。
彼は、このなかで、戦争によるポ-ランドの悲惨な運命を語りながら、

私たちが50年後の今日、ポ-ランドの苦しみとドイツの恥辱を思い返すとき、私たちがどれほど厳しく罰せられたとしても――そして時が過ぎ去ったにもかかわらず、罰が軽減されることはなかったが――語ることで払いきれないこの滓のような責任は、いつまでもたっぷり残る。そして新たな努力の結果、ある日、私たちの責任が片づいたとしても、羞恥は残るだろう。

私は、このギュンタ-・グラスを信頼する。
それだけでいいのだ。

483

雨の日の神宮外苑で、学徒出陣の壮行式がおこなわれた。
今でも、テレビのドキュメントで、戦時風景として放映されることがある。そのシ-ンのなかで、38式歩兵銃を肩にになって、水しぶきをはねあげながら行進する角帽の大学生たち。
観客席には、各大学から動員された数万の学生が、校旗をかかげ、大きな白地の幟(のぼり)や幔幕(まんまく)を立てて、観客席から熱狂的な大歓声をあげていた。
私もその学生たちのなかにいた。
むろん、フィルムに写っているわけではない。観客席のどこか隅っこにいたのだから。隣りに女子学生たちが日の丸の鉢巻きをつけて並んでいたことを思い出す。同年代の女の子と隣りあわせに並ぶことなど考えられない時代で、彼女たちの黒髪が雨に濡れそぼって、雫が白い頬やうなじを流れていた。見てはならないものを見たように息苦しかった。

その日、東条秀樹首相が壇上に立って、学生たちの士気を鼓舞する演説をした。内容はまったくおぼえていない。ただ、その声と独特の抑揚がかすかに耳に残っている。

『ブリキの太鼓』の作家が、17歳で、ナチス親衛隊に編入されたことを告白したとき、まっさきに雨の日の神宮外苑の、学徒出陣の壮行式の情景を思い出していた。
私は17歳だった。

482

ショ-ト・ショ-ト・コメデイ

社員  部長、今度の木曜日、休ませていただきたいんですが――
部長  困るねえ。歳末、このいそがしいさなかに。つい、このあいだも、きみは休んだじゃないか。
社員  どうも申しわけありません。じつは、友人が結婚することになりまして。
部長  この前もたしか、友人が結婚するとかいってたね。
社員  この前の友人は離婚しまして。それが、こんど再婚することになったものですから。
部長  それはまた早い話だな。女のほうも、もう少し考えてから結婚すべきだよ。
社員  彼女がこんど結婚する相手、というのが、じつは、わたしなんで。

481

長谷川 伸のことば。

この歳になっても、よくある話。――ああ、あれを聞いておけばよかった。それが長丁場ではなく、たった一言。別れてしまってから、あとで振り返ってみても、もう相棒はいない。しまった、と思ってももう遅い。

おなじ思いをしている人は多いだろう。私も、両親に聞いておけばよかったと思うことがいろいろある。

つまらない私小説を読むくらいなら、長谷川 伸を読んだほうがいい。人間について、人生について、なによりも日本人について考えることができる。

480

記憶について。

記憶をつかさどっているのは海馬という部分。脳内の神経ネットワ-クに、シナプスという結合部があって、ある刺激に大して反応しやすくなった状態が一定期間つづくのが記憶の基本をなす、という。
年老いて記憶がわるくなるのは、記憶を引き出す海馬の部分に障害が出るからだ、という。
驚異的な記憶能力をもつ男性がいて、本の1ペ-ジを10秒で読み、自分の読んだ1万2千冊のすべてを記憶しているという。ただし、これは「サヴァン症候群」という病気で、おぼえたことを総合する抽象的な思考ができない。

若くして天才的な指揮者として活躍しながら、ウィルス性の疾患によって海馬が破壊され、記憶がわずか15秒しかつづかない音楽家のドキュメントをBBCで見た。
この人を知ったとき、人間としてもっとも悲惨な状況におかれていると思った。たとえば、自分の思考に異常があると自覚して、自殺を考えたとしても、その15秒後には、そう考えたことさえも忘れてしまうのだから。
ピアノを演奏する能力は残っていて、実際にピアノを演奏するのだが、その瞬間は何を弾いているのかわかっても、数小節先を弾くときには、自分が何を演奏しているのか忘れている。
N氏はこれほどおそろしいドキュメントを見たことがなかった。

N氏にしても、けっこうたくさん本を読んできた。しかし、それは読んだという記憶があるだけで、どのペ-ジに何が書いてあったのか、ほとんどおぼえていない。だから、何度もくり返して読み直したり、まるではじめて読んだような感動をおぼえたりする。

N氏はごく平凡な記憶力しかもたなかったことを感謝しなければならないだろう。
誰に?
自分の海馬に。

479

雨の国の王者」さんへ

思いがけないメール、ありがとう。

『ゼロ大陸/サイゴン』を探してくださったようですね。

きみは書いてくれた。――「著作リストに、『死角の罠』、『殺し屋が街にやってくる』、『孤独な獣』、『週末は死の恋人』なぞが、挙げられていないのは、ううむ、やはり、さびしい、それも、とてもさびしい」と。

じつは、去年、おなじことを評論家の小鷹 信光さんからも指摘された。
私の略歴にミステリー関係の著・訳書がほとんど記載されていない。私がミステリー作品をあげていないのは、意図的に過去を隠蔽しようとしているのではないか。そういうお叱りをうけた。
思いがけないことで恐縮した。

これまでいろいろな仕事をしてきた。自分の過去の作品群を隠したわけではないが、わざわざ略歴にあげるようなものではない。そう思ってはぶいたのだった。むろん、韜晦する気もなかった。私のミステリー作品など、誰の興味も惹かないだろう。そう思っていただけに、きみが「川崎 隆」や「美谷 達也」の名をあげてくれたことにおどろき、世間には奇特な読者がいるなあ、と感謝したのだった。

ミステリーの翻訳をやめたのは、先輩の宇野 利泰さんの忠告による。
宇野さんがどういう理由で忠告なさったのか忖度のかぎりではないが、私は『マキャヴェッリ』というモノグラフィーを書いたばかりだった。宇野さんはそれを読んでくれたのだと思う。
私は宇野さんの忠告に素直にしたがった。たまたま手許に10冊ばかり翻訳の依頼があったので、動きがとれなかった。そのことで、やはり先輩の福田 恒存に相談したのだった。
一年半後に、私はミステリーから足を洗った。翻訳よりも小説を書くことにきめたのだった。

ミステリーを書かなくなったのは、『メディチ家の人びと』を書いてからだった。それまでは、パルプ・マガジンにミステリーからポルノまで書きとばして、ルネサンス関係の資料を買ったものだが、『メディチ家』を出したとたんに、どこからも注文がこなくなった。これにも驚いた。つまらないミステリー、ポルノを書きとばしている大学の先生が、ルネサンスの研究をしていると知って敬遠したらしい。
当時、長編を一つ書いた。「川崎 隆」もの。500枚。しかし、どこからも出せなかったので、えいっとばかり、焼き捨てた。どうせたいした作品ではない。この事情は、ある編集者が知っている。

今年から、「中田耕治ドットコム」で、少し長い小説を書きはじめる予定だが、おそらくへんてこな作品になるだろう。
私はふたたびミステリーに興味を向けないだろうか。それはわからない。もし書くとすればこのサイトに発表する。

きみのメールがもう少し早く届いていたら、たちまちミステリーを書く気になったかも知れないなあ。

きみにはほんとうに感謝している。ありがとう。

478

江戸の遊女たちには、つれづれに俳句を嗜む女が多かったと思われる。むろん、いい句もあれば、それほどいい句と思えないものもある。吉原の遊女、薄雲や、京都、島原の遊女、長門などの俳句はなかなかすばらしい。
長門は、紋に花筏をつけていた。それを見た客が、なかなか初心なことだと褒めた。半分は嘲りを隠していたのだろう。

流れなる身に似合しき花筏を    長門

遊女という特殊な女でなければ詠めない俳句には哀切なものが多い。

碁一目 苦界の暑さ忘れけり    歌之助

遊女の哀しい生活が想像できる。

暑き日や 女の罪の鉄漿(かね)匂ふ   花 讃

私は、どうも加賀の千代女や、智月尼などの句にあまり関心がない。しかし、遊女たちの句に胸を打たれることがある。

猪も抱かれて萩のひと夜かな    高尾

477

芥川 龍之介は「闇中問答」のなかで、

シェクスピィアや、ゲーテや、近松門左衛門はいつか一度は滅びるであろう。しかし彼等を生んだ胎(たい)は、・・・大いなる民衆は滅びない。

という。
芥川の民衆礼賛を私は素直に信じる。
ただし、

芸術家は或は滅びるかも知れない。しかしいつかは知らず識らず芸術的衝動に支配される熊さん八さんは滅びないね。(「妄中問答」)

という芥川にはあまり感心しない。たとえ、これが関東大震災の後で、彼の内面に暗澹たる思いがあったとしても。

いっそ、ゲーテや、近松門左衛門は、すでに滅びてしまったような気がする、といったほうがいい。ゲーテがドイツ人の誇りでありつづけていても、舞台で近松が上演されつづけているにしても。
セリーヌや、ブコウスキーのように、ゲーテくたばれ、近松門左衛門くたばれ、といったほうが気が楽だろう。

大いなる民衆などというものをどこで探せばいいのか。私のつぶやき。

476

芥川 龍之介は『侏懦の言葉』のなかで、

俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである--と思うこともない訳ではない。

という。
たしかに、俳優や歌手の幸福は彼等の作品が残らないことだが、それは私たちの「現在」にとって不幸なことなのだ。
しかし、百年前の一流歌手のレコードは、かなり残っているし、どうかすると俳優の舞台さえ実写や活動写真で見ることができる。今ならビデオ、DVD、PCで見ることもできよう。
そして、「現在」の眼には、しばしば滑稽に見えたりする。

芥川 龍之介はいう。(「澄江堂雑記」)

時々私は廿年後、或は五十年後、或は更に百年後、私の存在さえ知らない時代が来るという事を想像する。

しかし、これから20年後、半世紀後、百年後でも芥川 龍之介は読まれるだろう。たとえ一部の人でしかないにしても。彼は、落莫たる百代の後に当って、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を、と書いた。逆説的に、彼の自負、あるいは自恃のつよさを見ていい。

本所でそだった芥川 龍之介に、私はひそかな共感をもっているのだが、しがないもの書きなので、20年後、半世紀後、百年後どころか、現在でさえ私の作品を読む読者がいるかどうか。ごくわずかな人が、このHPを読んでくれるだけでありがたいと思っている。
もっとも百年後に私の文章を読む人がいたら--何が書いてあるのかさえわからないだろう。(笑)

475

最近になって、ご近所の人から声をかけられる。ほとんどが、私と同年輩の老人ばかり。これまでは、かるく頭をさげるだけか、「おはようございます」とか「お出かけですか」といった挨拶をする程度だった。

「よく、町中を歩いていらっしゃるのをお見かけしますよ」
「それはどうも。ほかに楽しみもないものですから」
「姿勢がいいんで感心しているんですよ」
私はにやりとする。

ある日、映画の試写の帰り、階段を降りはじめて、いきなり声が降ってきた。
「君の歩きかたは変わらないねえ」
追いついてきた作家がいった。私よりずっと先輩の中村 真一郎だった。

中村さんは戦後すぐに私の友人の椎野 英之の家に移った。当時、大森に住んでいた私もその頃に知りあっている。中村 真一郎がまだ独身だった頃である。
だから、映画の試写のあとで私を見かけて中村 真一郎が声をかけてきても不思議ではない。
歩きかたが変わらないといわれても、返事のしようがない。それに、相手が作家なので、何か書かれると困る。うっかりした返事はできない。
階段を降りながらその映画のことを話した。別れぎわに彼がいった。
「映画監督の歩きかたも変わらないもんだねえ」

いろいろな作家の歩きかたがある。
ある日、舟橋 聖一が小林 秀雄といっしょに銀座を歩く。舟橋 聖一は歩きながらブティックを見たり、通りすがりの若い女の服装や肢体、歩きかたを見て、一瞬でその「女」の生態まで見届ける。
ふと気がつくと、小林 秀雄はずっと前方を歩いている。

「あいつの歩きかたは学生のときから変わらないんだよ」

舟橋 聖一から直接聞いた話。
蔵の中、茶室仕立ての小部屋で、大きな黒檀の机。小屏風。ただ一字、志賀 直哉が揮毫したみごとな書が置かれていた。

474

ドナルド・キ-ンの『私と20世紀のクロニクル』に、ソヴィエトを旅行したことが出てくる。安倍 公房の小説を翻訳したリヴォ-ヴァ教授に会うためだった。

「ソ連を出国するにあたって形式的手続きが済むまで、随分と時間がかかった。ソ連国民が最後の瞬間になって、何かの理由で飛行機から下ろされたという話を、私は聴いていたことがあった。ついに飛行機は離陸した。その瞬間、誰もがはじけるように笑い出した。何か、おかしいことがあったわけではなかった。笑いは、緊張から突然開放されたことが原因であったに違いない。スウェ-デン人のスチュワ-デスは、言った。飛行機がストックホルムに向けて飛び立つ時は、いつもこうです、と。」

私もおなじような経験をしたことがある。

私は、作家の高杉 一郎、畑山 博といっしょに、当時の「作家同盟」に招待されて、ソヴィエトを旅行したのだった。私たちを案内してくれたのは、「作家同盟」のエレ-ナ・レジナさんだったが、この旅行で、私はソヴィエトの驚くほどの硬直ぶり、頑固さ、けっして外には見せないが民衆の内部にひそんでいる、やりどない思いをかいま見ることができた。
いよいよ明日、モスクワから帰国するとき、私たちは自宅に電報を打つことを許された。日本語でも英語でもいいという。どうせ、この電報もエレ-ナ・レジナさんが翻訳して、しかるべき部署に報告されるだろう。そう思った私は、英語で書いた。
ラストに From Russia With Love として。

私のいたずら。

473

東京から、千葉まで。
幕張あたりで、めずらしく和服の若い女が乗ってきた。せいぜい二十歳。なかなかの美形だった。小股の切れあがった娘だが、身のこなしが粋で、水商売の女なのか。この娘が私の横に身をかがめて何かしている。何を探しているのか。そのうちに私のとなりにぺたっとすわった。へえ、めずらしいこともあればあるものだと思った。
むろん、私に関心があってすわったのではない。何かを拾おうとして、こんどは私のとなりの男の横から身をかがめて何かしきりにさぐっている。その男は、娘の動きに驚いたのか、あわてて席を立ってドアに向かった。娘は、空いた席にすっと腰を下ろした。おやおや。
よく見ると、腕にからめた大粒の木のお数珠のようなものをまさぐっている。紐が切れて、その珠が何個かころがり落ちたらしい。それを拾おうとして、私のそばをうろうろしたらしい。
なんでぇ、つまらねぇ。
帰宅。

472

俳句は短い詩型なので、誰でもかんたんに俳句を詠む。

今の世の理解にうとき頭巾かな     この女

江戸の俳句にこの一句を見つけて、少し驚いた。俳句に「理解」といったことばが使われている。
いろいろと苦労してきたけれど、いまは仏門に帰依しています。おかげで、世の中のことにはすっかりうとくなってしまったわ。これが、私の注釈。
「頭巾」は冬の季題で、ほかに、

持仏堂どの尼見ても頭巾かな     はぎ女
思ふやうに冠(かむ)れぬ風の頭巾かな   信子

といった例がある。「この」さんはどういう境遇の女性だったのか。ほかに、

河豚(ふぐ)提(さ)げて源太が女房通りけり

という句を見つけた。きっと庶民的なひとだったに違いない。
このフグの種類は何だったのか。それよりも、江戸の庶民が自分でフグをさばいていた(らしい)ことに驚いた。

471

カマトト。『広辞苑』(岩波)では、

かまとと[蒲魚] 蒲鉾(かまぼこ)を、「これは魚(とと)か」ときくことからいう。わかっているくせにわからないふりをすること。なにも知らないような顔をして上品ぶり、またおぼこらしくふるまうこと。また、その人。

『新潮国語辞典』(新潮社)では、

かまとと[蒲(魚)(蒲鉾(カマボコ)を、「これは魚(トト)か」と聞く意という)知っているくせに知らないふりをすること。おぼこらしくふるまうこと。また、その人。

ほとんどおなじ記述である。

幕末の上方方言で、かまとと、というのも、「おぼこらしくふるまうこと」を意味したが、ある通人にこの魚のことを伺ったところ、おいおい、そういうノをカマトトってンだヨ、といわれた。
昔の本に・・・「釜ととなる魚は、生きがよいので、一箸は頂けるが、深入りすると毒がある。よって通人は食わず。昔はこの魚(うを)、玄人のあいだに多かりしも、今は変りて、素人のあいだにあり」とある。

当然、年若い芸妓や舞子の品定めにかかわる、という。
釜というのは女性の性器。おととは魚だが、要するに、「おぼこらしく」ないもの。だから、こういうのは(最初の)一箸は頂けるが、深入りすると毒がある。

「なんだ、おまイ、そんなことも知らねぇのか」

470

お正月から、大正オペラの美人たちを眺めている。
原 信子、木村 時子、澤 モリノから、明石 須磨子、英 百合子、相良 愛子まで。

彼女たちの出現した時期、それまで全盛だった娘義太夫がみるみる凋落してゆく。
「どうする連」にとってかわったペラゴロたちは、澤 モリノたちの歌に酔いしれ、その動き、その肢体におののき、心臓の鼓動が高鳴った。ときには、「彼女」が歌いだそうとした瞬間に、いま、おのれの人生に何かきわめて重要なことが決定されるという思いにかられながら。・・
誰もが、劇場につめかけて、舞台にあらわれた美少女たちの一顰一笑(いちびんいっしょう)に胸ときめかせ、とりとめもない恋の夢想に憑かれた。そういうペラゴロたちが、浅草にいっぱいあふれていたのだろう。
ああ、今日の紅顔可憐は、明日の皺顔曲腰たるは誰も知るひとの運命(さだめ)なれども、今、この歌劇女優の写真を眺めつつ、若き昔は彼女等が花前の蝶のごとく、光煌く舞台に嬋娟たる肢体をあらわし、箆吾郎の目を奪いしかと想像するに、如何にその時の隔たりたるかを思い給え。

彼女たちは「洋装」の美人であった。ゆたかなブロンド、ブリュネットは、すっきりした頬にまつわり、あらわな肩や胸もとに落ちている。これほど美しい肩や胸もとを見たことがあったろうか。しかも、その肌の白さ。
それは日本の女がもたないものだった。
もし、推測がゆるされるとすれば、大正オペラは、「自由劇場」から「築地小劇場」に発展してゆく中間にあって、やがて、「カジノ・フォ-リ-」や「笑いの王国」のような大衆演劇と、いわゆる「新劇」の分水嶺をなしていたのではないだろうか。
荷風の『腕くらべ』、藤村の『新生』、万太郎の『末枯』の時代。にせ画学生、今 東光、不良少年サトウ ハチロ-がヨタっていた頃。

一枚の番付から、自分では見たこともない時代の美女たちを思う。これも私の趣味なのである。

469

お正月。大正時代の歌劇女優番附を見ながら、酒を飲む。
実際に大正オペラは見たことはないし、歌劇女優で多少とも知っている名前はごくわずか。

東           西
横綱 原 信子     横綱 清水 静子
大関 井上 起久子   大関 天野 喜久代
関脇 花房 静子    関脇 神山 仙子
小結 松木 みどり   小結 平野 松栄
おなじく        おなじく
横綱 安東 文子    横綱 澤 モリノ
大関 木村 時子    大関 河合 澄子
関脇 岩間 百合子   関脇 岡村 文子
小結 一条 久子    小結 松本 徳代
別格         別格
大関 原 せい子    大関 今村 静子
小結 明石 須磨子   小結 白川 澄子

東方、55名。    西方、554名。

西の前頭三枚目に英 百合子がいる。

写真がついている。上段に、原 信子、木村 時子、澤 モリノ。
中段に、松木 みどり、明石 須磨子、瀬川 鶴子(東の前頭二枚目)。
下段に、岡村 文子、英 百合子、相良 愛子(東の前頭十枚目)。
みんな若くて可愛い。それぞれたいへんな人気があったに違いない。
当時のハリウッド女優のメ-クを真似ているせいか、だいたいエグゾティックな顔をしている。レパ-トリ-がわからないし、ソプラノ、コロラチュ-ラの区別もつかないのだが、トラジェディエンヌ、コメディエンヌ、コミック、スブレット、なんとなく想像はつく。
残念なことに、当時のレンズ、フィルム、シャッタ-・スピ-ド、照明のせいで、ハリコの美しい女優たちそろって白塗り。そのせいで、あたら美貌に個性的な魅力は薄れている。

澤 モリノは私でさえ名前を知っているオペラ女優だが、失礼を承知でいえば、それほど美人ではない。ということは、おそらく歌唱力、演技力が抜群だったのだろう。
木村 時子は、後年、劇作、舞踊劇の作者になった才女だが、この写真では、まさにテイ-ンの娘役(ジュンヌ・プルミェ-ル)である。さぞ可愛かったに違いない。原 信子はおなじ娘役でも、もう少し成熟した感じがある。
英 百合子は「夢見る乙女」タイプのお上品な娘役。
はるか後年、英 百合子は、岡村 文子とともに多数の映画に出ているので私も見ている。
松木 みどりは、江戸から明治にかけてのおとなしい、古風な美人だが、瀬川 鶴子は輪郭がはっきりしていて舞台映えのする顔。
相良 愛子はセダ・バラのようなアイ・メ-ク。おそらく小柄で、お侠な「役」が得意だったのではないだろうか。

私がいちばん惹かれたのは、明石 須磨子。今の女の子にもときどき見かけるタイプ。どこにでもいるタイプだが、昭和初期のモガを先取りしたような感じがある。

私はサラ・ベルナ-ル、レジャ-ヌを想像するように、彼女たちを見てはいない。そうではなく、ついさっきまで舞台に出ていた女優さんを見るような眼で見ている。
(つづく)