526

あるインタヴューで、ヘミングウェイが語っていた。

35年前の、よごれた古着を洗濯するみたいな昔の文壇の楽屋ばなしなんか。おれはきらいだね。

エズラ・パウンドのことを話したときの台詞。相手は、たしか、ジョージ・プリントンだったと思う。

これを読んだとき、いかにもヘミングウェイらしいなあ、と思ったおぼえがある。
私は文壇と関係のない仕事をつづけてきたので、「昔の文壇の楽屋ばなし」などまるで知らない。だから語りようもない。
ただ、私が出会った少数の先輩たち、同時代の作家や評論家のことは、いまでもよく思い出す。その人たちを私は尊敬の眼で見ていたから。

むろん、私の嫌いな連中もいた。向こうも私のことを嫌っていたのだからお互いさまだが。

525

古典の教養がないので、歌学の知識がない。残念に思ってきた。
江戸の文芸にしても、せいぜい川柳、草草紙の類を読んできただけで、趣味ともいえない。しかし、かりにも文芸批評を試みようというのだから、古典についてまったく無知というわけにはいかない。
ただし、アカデミックな批評とはまるで無縁である。

好きな古典はいくらでもある。紫も『日記』、和泉も『日記』。『伊勢』、『土佐』よりは『方丈記』、『徒然草』。
西鶴ならば『永代蔵』、『胸算用』。

むろん、教養がなくても何かを読めばそれなりの感想はうかんでくる。

524

鼻の先でピシャリとやられる。フラれる。
それをどういっているか。

「鼻の先でぴしゃり?」
「いや違います。わが国では、巷間、これを振ると云ひますね。振る、または、振りつける」
「あら、それなら平凡ですわ」
「ところが、これが男性の心胆を萎縮させる言葉でしてね。荒涼たる感じの用語です。これと同じ手の用語は、まだそのほかにたくさんある。愛想づかし。厭やがらせ。厭やみ。おどかし、わるふざけ、ひやかし、やまひづかせ、おもはせふり、うれしがらせ、おためごかし、その他いろいろありますが、みんな一つ一つその味はひが別個の感じを持ってゐて、それでありながらその感じの後味は一味ほろにがいものがあるやに思はれますね」

この説を聞かされた「女子医専」の女の子は、相手が自分に気があるのではないかと警戒して、ストッキングをはいている足をそれとなくスカ-トのなかに隠す。それを見ていた、別の男が、彼女の顔に「空気が集まってきた」という。

「空気ですって?」
「左様、空気が立ちこめました」

この空気については、具体的に説明できない、という。たとえば・・・同じアパ-トに住んでいるマダムのように、見るからに裕福に稼いでいる女の顔には、少しも「空気がないようなもの」という。
マダムが商売女として稼いだか稼がなかったかということは、この「借問先生」のような苦人には一目瞭然でわかるという。

笑ったね。こいつぁいいや。
私も、今年から「空気が集まってきた」とか「空気が立ちこめてきた」ということばを使うことにしよう。

井伏 鱒二先生の初期の短編『末法時論』(1938年)に出てきた。

523

江戸の道楽者が、朝湯に入る。そういう道楽者が例外なしに、お女郎や芸者にもてる。そういう世話講談を聞いていると、羨ましくってたまらなくなる。
堅気の商家では、朝湯に入るのは、堕落の第一歩ぐらいに思っていた。小原庄助さんの例もある。小島政二郎の祖父は、朝湯に入るとからだがナマになって、怠けものになる、といましめていたという。ところが、小島政二郎はさっそく朝湯を実行してみる。最初のうちは、からだがだるくなって、何をするのもイヤになった。ところがなれてくると、朝飯がおいしい。これで一日の仕事がはじまる、という爽快な気分になった。
こういうオッチョコチョイなところが、じつは、世態人情に向ける眼を養った。彼の作品にひそんでいる実際性、プラグマティックな性質、世間の常識に背をむける意地っぱりな姿勢が流行作家として成功した遠因だろう。

522

明治初年の英語入り都々逸。

ダルク思ひも 今宵は晴れて
ほんにうれしき ベドル-ム

いいねえ。いかにも「文明開化」の匂いがする。

ほれている  アイライキ I like ・・
うれしい  ラ-プ   Love, lovely
かわいい  ロ-プ   Love, lovely
口を吸う  ツンキ   tongued Kiss

「うれしい」と「かわいい」では発音を変えるとき表情も変えるらしい。

『和英言葉ノ通シ』や『風流英国言葉』などに出ている単語を見ていると、戦後すぐに大ベストセラ-になった『日米会話』を思い出す。

521

明治末期から大正にかけて、投稿雑誌が多く出ている。女性雑誌でも、「女子文壇」とか「文章世界」などに、たくさんの女性が投稿している。
そのなかから、やがて作家、歌人になった人も多い。

こうした投稿雑誌は、昭和に入ってからもつづいている。戦時中、紙の不足から不要な雑誌が強制的に廃刊させられたり、おなじ分野の雑誌の統合が行われるまで、つづいていた。
私も中学生になって投稿するようになった。

はじめて詩のようなものを投稿した。優秀、秀逸、佳作、選外佳作とわけて、五、六編がならんで、雑誌に掲載される。翌月号に、選者の短評がついて、私の作品がトップに出ていた。選者は、当時有名だった作詞家で、私はその人の名前をおぼえた。

うれしい、と思ったかどうか。むしろ、自分の書いたものが活字になったことが不思議だった。活字になると、とても綺麗だが、よそよそしい気がしたのだった。
たしか二円程度の図書券か何かもらったとおぼえている。それがうれしかった。

やがて別の雑誌にも投稿するようになった。ずっと後年になって、友人の小川 茂久もそうした雑誌に投稿していたことを知った。いつも小品を投稿していた、という。
小川 茂久は、大学の同期で、のちに明治の教授としてフランス語を教えていた。私も講師になったので、週に一度、顔をあわせると、近くの居酒屋で飲む。親友はありがたいもので、黙って酒を酌みかわすだけで楽しかった。

小川が投稿していたことを話してくれたとき、私はすぐに思い出した。
「そういえば、おまえの書いたヤツ、読んだような気がする」
私がいうと、小川はケッケッケと笑った。
「おれもおまえの書いたヤツ、読んだよ」

520

イギリスでは、美しい女性はなんとなく白眼視されます。おまけに才能がある女となると、よけい肩身がせまくなります。美貌と頭脳となると、ただのお楽しみではなくなって、まるっきり怪物あつかいなのです。

1968年のヴィヴィアン・リーの言葉。

今の日本の女優さんたちはどう思うだろうか。
ヴィヴィアン・リーに劣らない美女だっているだろう。

ただし、どこを押してもこんな台詞が出てくるはずはないが。

519

せっかく同窓会の通知をもらっても欠席する。

昨年、大学で同期だった人から通知をもらって出かけた。これが最後の同窓会という。もう残っている人も少ない。久しぶりに会ってみると、みんなおじいさん、おばあさんになっていて、街ですれ違ってもわからないだろう。

あらためて自己紹介をしなければ、お互いにわからなくなっていた。顔を見ているうちに、少しづつ思い出したが、名前を聞いても思い出せない人もいた。
みんながそれなりに人生の経験をへて、現在にいたったに違いない。しかし、半世紀も会っていないのだから、経歴を聞かされても、どういう仕事をやってきたのか、どういうふうに、それぞれの老いを過ごしているのかまるでわからない。
出席している人々も、私がどういう仕事をしてきたか知らない。

欠席者も、ほとんどが病気が理由で出られないという。

共通の話題は、教えをうけた教授たちのこと、同窓会に出られなくなった同期の誰かれのこと、家族のこと、とくに孫たちのこと。あとは、自分の病気のこと。
私はろくに教室に出なかったので、そうした話題に興味がなかった。同窓会に出られなくなった、つまり亡くなった誰かれのこともまるで知らないのだった。

どうせお互いに孤独なのだ。わざわざ同窓会に出ておのれの孤独を思い知らされるなどというのは私の趣味にあわない。

518

冬になると、月に一度はカンピンパンを食べる。
中国。明清の時代から中国の苦力(ク-リ-)たちが食べていたという。だから寒貧飯。その名の通り、さむざむしくて貧しい飯である。

お鍋にサラダ油(ゴマ油をほんの少しまぜてもいい)を入れて、ブタのコマギレ一つかみ、野沢菜をこまかく切って、いっしょに炒める。好みによって、チリメンジャコ、アブラゲ、シイタケ、何を放り込んでもいい。
半分ほど火が入ったところで、水を入れ、ご飯をまぜるだけ。
誰でも作れる。ある有名な作家が食べていたと知って私も作るようになった。

寒貧飯の具はいろいろ工夫してみたが、基本はブタのコマギレに野沢菜がいちばん。
野沢菜の塩分が肉にからみあって味がいい。

冬山に登っていた頃は、前の晩にブタと野沢菜を炒めたものを冷凍しておく。コチコチに固まったものをポリエチレンの袋に入れてザックのポケットに放り込んでおく。
山に登りはじめる。昼食の頃には解凍できて、(まだ冷凍状態でも)その固まりを鍋に乗せ、沢のへりの氷のかけら、雪、ときには貴重な水筒の水を張り、ご飯を入れて、登山用のコンロか焚き火にかけて煮る。
豪雨や、雪でビバークするときも、ツェルトをひっかぶって、ガタガタふるえながら、寒貧飯を作った。

私のおもな登山用品は、アメリカ軍放出の小さなフライパン一個と、スゥィスのアーミーナイフ、ツェルトときめていた。これさえあればもう大丈夫。
このフライパンで、煮炊きからコ-ヒ-、紅茶、ホットケ-キ、どんど焼き、ときには木の芽のてんぷら、何もかも間にあわせていた。

冬、寒貧飯を食べながら、今では登れなくなった山を思い出す。

517

アンナ・マニャーニがいっていた。

大いなる情熱なんて、あなた、そんなものは存在しないのよ。ウソつきの幻想ね。実際には、短かったりちょっと長つづきはしても、ごくありきたりの色恋沙汰だけよ。

やっぱり、大女優のいうことは違うなあ。
オリアナ・ファラーチのインタヴューに答えて。

516

近眼になってよかったことは何ひとつない。

ふつう、25歳になると、視力の低下はとまるといわれている。私の場合、30代なかばまで、何度もメガネを変えなければならなかった。

マリリン・モンロ-が「百万長者と結婚する法」で、メガネをかけて、いろいろドジを演じているのを見て可哀そうになった。
中年になって登山に熱中した。冬山を登っていて地図を見たとき、5万分の一の文字が揺らいで、よく見えなくなった。はじめて老眼になったのではないかと疑った。その後、映画を見ていてたまにスクリ-ンがボケることがあった。
おやおや。映写技師がどうかしてレンズのフォ-カスを変えたのだろう、ぐらいにしか思わなかった。いい気なものである。

まだコンタクトがそれほど普及していなかった頃、ある女優さんがコンタクトをしていることを知った。芝居の演出をしていて、その女優さんの芝居がどうも気に入らなかった。そこで、わざとメガネをかけさせて芝居をさせた。メガネをかけると、それまでとは違った演技になったし、どこかエロティックな感じになった。

若いときから眼がよくて、視力が高いほど、老眼になってから苦労するのではないかと思う。

最近はコンタクトが普及して、メガネをかける人は少なくなっている。
しかし、小学校5年のときから近視になった私としては、近眼の子どもたちが多くなってきたことを心配している。

587

中国の「瞭望東方週刊」が、大学生を対象に行った意識調査で、日本の大学生があげた「好きな中国人」(自由回答で3回まで)のリストを見た。
1 チャン・ツーイー  119   8・0%
2 ジャッキー・チェン  89   6・0%
3 孔 子        61   4・1%
4 諸葛孔明       57   3・8%
5 劉 備        40   2・7%
6 曹 操        25   2・2%
7 関 羽        23   1・5%
8 毛 澤東       23   1・5%
9 楊貴妃        18   1・2%
10 孫 文        18   1・2%

チャン・ツーイー(張 子怡)、ジャッキー・チェン(成 龍)が選ばれているのは、日本でも人気のある映画スターだからだろう。
孔 子は、当然として、諸葛孔明、劉 備、曹 操、関 羽があげられているのは『三国志』の登場人物だが、おそらくテレビゲームからの連想だろう。
毛 澤東、孫 文があげられているにしても、現代中国史に関心があってのことではないだろう。

私も、「好きな中国人」をあげてみようか。
1) 張 慧敏/2) 張 曼玉/3) 林 青霞/4) 王 菲/5) 張 子怡/ 6) 趙 薇/7) 梅 艶芳/8) 鞏 悧/9) 王 租賢/10) 陳 明(広州のシンガー/同名、日本でよく知られている二胡奏者ではない)
補欠に、劉 暁慶、那 英、王 馨平、黎 姿、彭 羚、小 雪(これも日本の映画スターではなく、香港の美少女)……きりがない。

515

最近、学校保健の統計で、2006年度、子どもたちの視力の低下が続いて、1.0未満の子どもは、小学生で30%近く、中学生では二人に一人に達しているという。
この調査は、全国の幼稚園から高校生徒まで、約336万人を対象にしたもの。

幼稚園児でも視力が、1.0未満の子どもは24%、高校生では58.7%というから、ゆゆしき一大事。
テレビゲ-ムやパソコンの影響によるという。

私は小学校5年のときから近視になった。
窓際の席だった。ある日、担任の壺 省吾先生が黒板に何か書いて私に質問した。私は答えられなかった。黒板の字が読めなかったから。先生が意外そうな顔をしたのをおぼえている。まさか、こんなやさしい問題がわからないとは思っていなかったらしい。

その晩、母にメガネを買ってもらった。クラスでメガネをかけたのは私がいちばん最初だった。その後、メガネをかけた生徒はこくわずか、せいぜい二人ぐらいだったと思う。
メガネをかけると世界が一変した。それまで、ぼんやりとしか見えなかった風景が新鮮に見えた。
メガネをかけてからも、走りまわっていたし、仲間と取っ組みあいをしていたので、メガネが割れたり、ツルが飛んでしまったり、毎週のようにメガネ屋に通った。
母があきれて、しまいにはメガネのツルのかわりに黒い糸をくくりつけて、耳にかけさせられた。さすがにカッコ悪いと思った。

視力はどんどん低下して強度の近視になった。

514

「新しい小説の新しさを評価する」ことから別のことを考える。

80年代になると、キ-ス・ヘリングもどきみたいな流行に乗った絵を描いていた連中がたくさんいた。

――バスキアもどきも多かったよね。やっぱりあれは誰でも描けると思うんだろうな。

あの連中は、今、どうしているんだろう?

――キ-ス・ヘリングはけっこう記号的なおもしろさだけど、バスキアはやつぱりペインティングだから、当時の美大生とかは「これだ~!!」みたいになったんだろうね。

でも、その連中は、もうどこにもいない。

――やっぱり追って消えたんだよ。それふうに描けるようになった時はもう次だった。で、そこでやめちゃうんじゃない?

大竹 伸朗と永江 朗の対談。(「ユリイカ」06,11月号」)

513

ある若い批評家が書いていた。

新しい小説の新しさを評価できない人間は退場すべきである。

いいことばだと思う。

ただ、「新しい小説の新しさ」というものは、いずれすぐに新しくなくなってしまうし、わるいことにひどくあっさり古びてしまうのだ。
『日輪』、『ダイビング』、『幽鬼の街』、『太陽の季節』、いくらでも例がある。

「新しい小説の新しさを評価する」ことなどはおやすいご用。ただし、私はもうとっくの昔に退場している。

512

1936年、ドロシー・キルガレンが書いている。(『女の世界一周』)。

バグダッドの特産は歴史の日付と・・族長たち。

2007年、中田 耕治が考える。

バグダッドの特産は憎悪と敵意と・・テロだけ。

511

鼓笛隊の少年を描いた名作がある。
少年の頃、ああ、これがジャンジャカジャなのか、と思った。まだ、映画の「戦争と平和」や「ナポレオン」も見ていなかったから、鼓笛隊の少年といっても、自分とおなじ年代の少年が軍装して、鼓笛を手に戦場に立ったことが想像できなかった。

幕末、尊皇攘夷で国論が分裂していたとき、幕府はフランス式調練をとりいれた。このとき、閲兵訓練や、号令に鼓笛が使われた。
これがジャンジャカジャである。
文久の頃にはやった俗謡に、

一夜どまりのジャンジャカジャに惚れて、ついて行かれず泣き別れ

という歌がある。この歌は、成島 柳北が記録している。

幕末、江戸の町娘たち、遊女たちの姿が見えてくる。

510

初夏。勤労動員で農家で働いた。最初の仕事は、水田に苗を植え付ける作業だった。なれない作業で中腰になるので、田植えはつらかった。
ふと足元を見ると血が流れている。くるぶしの上から出血している。あわてて田んぼからあがった。
数匹のヒルが脛(すね)に張りついている。あわてて払い落とした。しぶといヒルはそれでも離れない。払い落としたやつはくねくね動いている。見るもおぞましい姿で。
田の畔(くろ)に生えていた草の葉にヒルをのせて、そのまま農家に戻った。台所の棚から塩をつかんでヒルにふりかけた。ナメクジとおなじだろうと思ったから。
よりによっておれの血を吸うとは、不届き千万。このヒルだけは許さない決心をした。ほんとうは、農作業をサボりたかったのだが。
いつまでも観察していた。やがておびただしい血を吐いてヒルはくたばった。

中年過ぎてから登山に夢中になった。
あるとき、安東 つとむ、吉沢 正英、ほかに数人の女の子たちといっしょに、登山道を歩いていた。このグル-プにKという女の子がいた。
深い木立を抜けてやっと中腹にさしかかったとき、ひとりの靴に見なれないものがべったりついていた。ヒルだった。私たちは完全装備だったから、ヒルが靴下に張りついても、すぐに皮膚まで食い破る危険はない。私はヒルから眼を離さずにザックの片手を外して、ポケットの食塩を出しながら歩きつづけた。女の子は気がつかない。
ヤマビルは、自分の10倍も血を吸う。南アルプスには、ヒルがたくさんいる山があって、こういう山を登るときはとくに注意しなければかならずやられる。

Kという女の子は、とてもまじめな、おとなしい性格で、登山の初心者だった。
彼女には、ほかの誰にもまねできない特技があった。どんなに浅くて幅の狭いクリ-クでも、かならず足をすべらせる。私は水流をわたるときはいつも彼女をサポ-トしたが、それでもかならず水に落ちて、靴を濡らしたり、片足を流れに落としてしまう。むろん、たいした事故ではない。ほんの2、30センチ、チョロチョロ流れる谷川のせせらぎをわたっても水に落ちる。
「あ、また落ちた!」
みんなが笑いだす。その笑いには少しも悪意はなく、彼女の「水難」がかえってみんなの笑いを誘う。それが、いつもみんなの結束をつよめた。

しばらく歩いてから、私は声をかけた。
「Kくん、きみのクツを見てごらん」
はじめてヒルに気がついた彼女は悲鳴をあげた。みんなが足をとめた。どこかに、小さな水たまりでもあったのか。みんながけげんな顔をした。私はそのヒルをKの靴下の上からもぎとって塩をふりかけた。ヒルは死の舞踏をはじめた。
「ここで休憩しよう」
私はみんなにヒルを観察させることにした。誰もヒルを見たことがなかったから。
塩をかけたのになかなか死なない。登山靴で踏みにじった。

彼女は、やがて私のパ-ティ-でもベテランになっていったが、ほかの誰にもない特技はなかなかなおらなかった。
私はヒルにはげしい敵意をもっているらしい。

509

私は他人の幸福を羨むことをしない。自分の不幸を他人に話すことをしない。

ひどく不幸だと思うときは・・・手あたり次第にCDを聞いている。
今、リス・スジャント(Lis Sugianto)を聞いている。

ことばがわからないのが残念。ラテン・リズムをとりいれた曲が多い。新しいポップスなのだろう。こういう曲は、あまり関心がないのだが、それでも、「アジザ」(Azizah)、「ティガ・マラム」(Tiga Malam)、「セリブ・タフン・ラジ」(Seribu Tahun Lagi)などを聞いているうちに、気分が落ちついてきた。
マレ-シア/インドネシアのポップスは、エミ-・マストゥラ、ジャシンタ、マイズ-ラ、メイ・イ-たちが好きである。フランス語で歌ったアングンよりも、インドネシア語で歌うアングンのほうがすばらしい。
リス・スジャントは、彼女たちのあとに登場したシンガ-ではないか、と思うのだが、むろんわからない。
ただ、なぜかアジア・ポップスを聞くほうが心を慰められるような気がする。

508

内閣府が、独居老人の意識調査を行った。(06年1月。発表、06年11月21日) 対象は、全国、65歳以上の高齢者、4500人。回答率、61.2%。

近所つきあいはない男性、24.3% 前回比(8.9~ ↑)
〃  女性  7.1% (0.2~ ↑)

親しい友人のいない男性、41.3% (3.6~ ↓)
〃  女性 22.4% (3.7~ ↓)

老人クラブ、町内会などのグル-プ活動に所属していない
男性 47.6% 前回比(3.6~ ↓)
〃  女性 37%
こんな無機的な数字からも、孤独に暮らしている老人の姿が浮かび上がってくる。
随筆家の森田 たまなら、これを見て「孤独ほど耐へ難いものはない。しかしまた孤独ほど尊いものはない。」というかも知れないが。

私の場合、やはり、近所つきあいはまったくない。道であっても、せいぜいお辞儀をする程度。だいいち、その人が隣近所の人かどうかもわからない。
老人クラブ、町内会などのグル-プ活動に所属していない。公園などで楽しそうにゲ-トボ-ルをやっているお年寄りを見て、いいなあ、と思う。それくらい。

だが、冬の黄昏どきに、寒そうに肩を落として繁華街の裏通りを徘徊している老人がいたら、それは私である。人通りのたえた横町かどこかで行き倒れている老人がいたら、それは私である。

さいわい親しい友人はまだいる。だいたいは女性だが。