566

ひとはどうして芸術をこころざすのか。

菊池 寛は、「小説家たらんとする青年に与う」という文章の中で、

小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い時代の苦労が第一なのだ。金のあるひとなどは、真に生活の苦労を知ることはできないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸を嘗めることが大切である。

という。いかにも菊池 寛らしい実際的な見解である。

画家の東山 魁夷は、東京美術学校の在学中に「帝展」に入選したほどの才能を持ちながら、ドイツに留学のあと、惨憺たる道を歩んだ。父の商売が破綻して、貧困の中で母、弟の病気、父の死、応召と、立て続けに不幸に見舞われている。「私の履歴書」というエッセイに、魁夷は書いている。

若いときの苦労は薬だとよく言われるが、それは結果的に見て薬であって、本当は薬というよりも毒であると私は思う。

という。
私は、このお二人とは比較にもならないしがないもの書きだが、自分なりに意見を述べることは許されると思う
若いときに人生の辛酸を嘗めることは、芸術家にとってけっして必要条件だとは思わない。できれば苦労などしないほうがいい。ほとんどの人は、苦労すればするほど人生に押しひしがれてしまうのだ。私にしても、あたら才能を持ちながら、人生に敗れて自殺したり、消えていった人々をいくらでも見てきた。それこそ死屍累々といってよい。
だから、菊池 寛のように「小説を書くには、若い時代の苦労が第一」などとは、けっして思わない。
問題は、もっと別のところにある。

私は、もっとも親しい身辺の人々を、妻以外には全部失ってしまったときから、芸術に徹する生活が始まったのかもしれない。

東山 魁夷はいう。さりげない言葉だが、芸術家が芸術家であろうとする覚悟はこういうものだろうと考える。
かつて文壇の大御所といわれた菊池 寛の作品は、もう誰も読まない。東山 魁夷の作品は、これからもたくさんの人に何事かを伝え続けるだろう。
もとより、文学と絵画といったジャンルの違いに問題があるのではない。

565

詩人、ハイネは日本に関心を持っていたらしい。直接には、ゴロブニンの『日本幽囚記』を読んで、遠い異国にあこがれた。
1825年10月、詩人は手紙の中で、
「日本人は世界中でもっとも文化が高く、もっとも優雅な国民という。私は日本人になりたい」
と書いている。
文政時代で、この年の5月、イギリス船が陸奥沖合いにあらわれている。幕府は、異国船打ち払い令を出している。翌年、シーボルトが、将軍に謁見する一行の随員になる。そんな時代に、ハイネが日本に関心を持っていたというのも意外ではなかったかも知れない。

モスクワに行ったことがある。当時の「作家同盟」が、毎年、作家を3名招待してくれたのだが、その年、たまたま私が選ばれただけのことである。
モスクワでは何も見ることができなかった。たまたま街角にポスターが貼ってあって、ハイネの生誕150年の催しらしく、講演や詩の朗読が行われるらしかった。私はこの催しに行ってみたかった。ドイツ語もロシア語もわからないので、行ってみたところで何の役にも立たない。しかし、モスクワの市民が、どういう思いでハイネを聴くのか、その程度のことはわかるだろう。
しかし、同行した高杉 一郎も、畑山 博も、こうした催しにはまったく関心を見せなかった。私はすぐにあきらめた。

帰国したらいつかハイネを読み返そうと思った。しかし、そう思ってから30年、いまだに読み返す機会がない。ごめんね、ハイネさん。

564

吉原、三浦屋の遊女、奥州は深く契った男がいたが、心ない人の中傷で、愛想づかしされて、彼のあいだも途切れかけた。かねて心を決めていたので、
恋死なば わが塚でなけ ほととぎす
の辞世を残して世を早めたという。
奥州は、「吉野さぞ 郭あたりの菜種さへ」の句がある。
吉原界隈でさえ菜の花が咲いている。遠い吉野の桜は、さぞみごとに咲いているだろう。遊女の悲しみまでも感じられる。

ほかの遊女の句もあげてみよう。

思ふこと 伏籠(ふせご)にかけて おぼろ月  野里
おしどりに 霞かかるや 夢心   なる
擂り箔の小袖に吹けや 春の風   花讃
難波女のふところ寒し 春の風   うめ

最後の句なんか、私のような貧乏作家も身につまされる。

563

ときどき想い出しては女流の俳句を読む。読むといってもせいぜい20~30句ばかりを読む程度だが。

嫁ぎける其夜や 寒き春の月
春月や 伽藍の蔭の ちさき宮
浮かれ歩く人の女房や 朧月
鏡中や わが黒髪に風光る
陽炎(かげろう)に 髪解きいるや 頭痛性

以上、五句、はぎ女。どういう女性なのか。私は、なぜかこのひとの句が気にいっている。ほかに「春雷や 道頓堀の旗の上」、「貝寄せや 問屋ばかりに古き町」などがあって、大阪の商家の女とわかる。加賀の千代を尊敬していたらしく、「千代の墓に赤き草花や 春の霜」という一句がある。このひとの優しい心根がうかがえよう。

日永魚 鼻を並べて泳ぎけり
おのが句の屑の多きや 暮れの春

自分の句にクズが多いと認めている、こういうしおらしさがいい。

562

彼女が自殺した(06/2/10)。26歳。
今年になって、女性シンガーのユニが自殺しているので、韓国の芸能界にとってはいたましい出来事が続いたことになる。
チョン・ダビンが死を選ばなければならなかった理由は知らない。

戦後、『文学座』から舞台女優として出発した女優がいた。登場したときから、『戦後』に登場したもっとも才能のある舞台女優として期待された。実際、美貌だったし、演技もすばらしいもので、たちまち注目を浴びた。
だが、いくつかの舞台に出ただけで、彼女は自殺した。
堀 阿佐子。もう誰もおぼえてはいないだろう。

彼女が自殺した直後にある集まりがあって、劇作家の内村 直也さんが、ある有名な女優に、
「堀 阿佐子は惜しいことをしましたね」
と声をかけた。その女優はちらっと内村さんを見つめたが、唇をゆがめて何もいわなかった。
私はたまたますぐ近くにいたのでこのときのことをよくおぼえている。この女優が、どうして唇をゆがめたのかわからない。何をいいたかったのか。あるいは、何をいいたくなかったのか。しかし、その女優の表情には何か冷酷なものがひそんでいた。

堀 阿佐子や、チョン・ダビンの死の背後にひそむもの、あるいは原因を探る必要はない。
ただ、彼女たちの死から、私は今までずっと一つの確信を持ち続けてきたと思う。

女優には、いつか必ず何らかの障害を克服しなければならなくなる時期がくる。とくに『娘役』(ジュンヌ・プルミェール)として出発した女優の場合、これはしばしば危機的な障害を引き起こす原因になる。だが、どんなに大きな障害であっても、死を代償とするほどの価値はない。

人にはそれぞれの人生観がある。そして、誰も自分の人生観を他人に押しつけることはできない。それを承知の上で、いっておきたい。
自分が美貌だから女優になれるだろうとか、ほかにすることもないので舞台に立ってやろう、といった女の子たちは別として、女優として地道に勉強をつづけている若くて美しい女性に、考えてほしいことがある。君は、若くて美しいことにだけ責任を持てばいい。
そのかわり、どんなに苦しいことがあっても、死ぬに値するほどのものはない、と覚悟すること。

死ぬな。

561

つい最近、ある歴史家が書いていた。
うがい(嗽、含嗽)が広まったのは、明治初年からという。なんでもない記述だし、歴史家の書いていることなので誰でも信じるだろう。うっかりすると、私たち日本人の生活にはうがいの習慣がなかった、ということになる。
そこまではいいとして、よろしくないのは、明治新政府の成立から、日本人がにわかにヨーロッパの文明開化を受け入れて、石鹸で顔を洗ったり、ガラガラうがいを始めたと思われること。
私としては、歴史家にまことしやかなことをいわれると、ついムカつく。冗談じゃない。

天明期の雑俳、『武玉川』(二編)に、
うがひに手間の とれる浪人
という付け句が出ている。
平がな書きだが、まさか「鵜飼」ではないだろう。朝起きて口をそそぐくらいのことは、明治になってからの流行ではない。おてんとさまを仰いでガラガラやるくらいのことは長屋住まいの素町人だってやっていた。
ついでに書いておくと、石鹸だって、さまでめずらしいものではなかった。
しゃぼんの玉の門を出て行(く)
という句もある。(おなじく『武玉川』二編)
子どもがしゃぼん玉を吹いて遊んでいる。そのしゃぼん玉が、風に吹かれて門を出て行ったという景色。

歴史の記述は、その時代に生きた人々に寄り添ったものでなければいけないだろう。
永井 荷風は歯磨きに「コルゲート」を使っていた。当時としてはめずらしいハイカラぶりである。コカコーラは、敗戦後に日本人が飲むようになったと誰でも思っているが、じつは芥川 龍之介が飲んでいた。いずれも本人が書いているのだから間違いはない。

歴史家がよく調べずに、さも自分が「新発見」したような顔をして、いいかげんなことを書く。世間の人がそれをあっさり信じてしまう。ムカつく。

560

中学生がいじめを苦にして自殺する。そんなニューズに心が暗くなる。いじめで死を選ぶ子どもの内面には、ほんとうは恐怖がひそんでいる。それを大人にいえないから、追いつめられて、自殺まで考えるのだ。

小学生のころ、いじめられたことはない。仙台で中学に入ってから、いじめられるようになった。
いっぱしに生意気だったし、学校の成績もそこそこだったが友だちがいなかった。子どもにとっては、時分の住んでいる場所から通学する友だちがいるかどうかは大きな問題になる。

私と同じ地域に住んでいる生徒が一人いた。毎朝、私をさそってくれるので、いっしょに通学することになったが、これがかなりのワルだった。

私はこの生徒のことを思い出すと、今でも不快な気分になる。

私が、彼を避けるようになってから、毎日、学校の行き帰りが恐怖の連続だった。登校時間をズラしたり、帰りはわざわざべつの道を選ぶようになった。それでも、三度に一度はつかまってしまう。いっしょに帰りながら、彼はニヤニヤして、途中の店で私にお菓子や、子ども向きのゲームのようなものを買わせるのだった。
いつも私が自発的に買って、それを彼にくれてやる、という格好になるのだった。だから、脅迫ではなかった。しかし、下校の途中、待ち伏せしていた彼につかまると、蛇ににらまれた蛙だった。

559

西鶴の『好色一代女』に、大名の側室にあげられる女の条件として、

十五より十八まで 当世顔はすこし丸く 色は薄花桜にして 眼は細きを好まず 眉あつく 鼻の間はせはしからず 次第高になりて 口ちひさく 歯並白く 耳は根まで見え透き 首筋立ちのびて をくれ毛なしの後髪 手の指たよはく 長みあって爪うすく 足は八文三分に定め 親指反って 胴間のつねの人より長く 腰しまりて物ごし衣裳つきよく 姿に位そなはり 心立おとなしく ほくろひとつもなき 云々

とある。元禄の美女の基準とはこういうものだったのだろう。
現在でも、基本的には美女の条件はさほど変わってはいない。大名の側室という身分がなくなったが、今だって誰かの側室になりたい女性は、いくらでもいるだろう。
ただし、最近の小説には、心に残る美女はあまりいなくなっている。作家も美女に感心がなくなったのか。西鶴ほどの才能がいなくなったというべきか。

558

本所で育った。つまりは隅田川を毎日見て育ったことになる。
同級生に口の悪いノがいて――
おめぇ、本所ッ子かぁ、隅田川の向こうから、ひらりひらりと、風吹きカラスで飛んできたか。

島崎 藤村を読んでいて、

流れよ、流れよ隅田川の水よ。少年の時分からのお前の旧馴染(むかしなじみ)が複たお前の懐裡(ふところ)へ帰って来た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなどの河畔に立って私が思い出すのは何時でもお前のことだった。

という一節にぶつかったとき、なんともいいようのない気分になった。
えらい作家は違うなあ。私などは、とてもじゃないが、流れよ、流れよ、隅田川の水よ、なんて口に出せない。だいいち、隅田川に向かって、お前なんぞといえるわけがない。
セーヌ、アルノ、ネヴァの河畔に立ったことがある。ついぞ隅田川のことなどや思い出しもしなかった。

島崎 藤村はどうも好きになれない。本所ッ子のひがみだろう。

557

韓国の俳優、女優さんは、セリフをいう前に、かるくsighをすることが多い。おそらく、息づかいaspirationの特徴といってよい。ドラマの流れで、セリフを口にする前に、きわめてわずかな時間、間をおく。これは別にめずらしいことではない。
芝居の世界でいう『半間』だが、しかし、その半間が、韓国の俳優の多数に共通して、かすかなsighを置く、というのは注意していい。
理由はいろいろ考えられるのだが、一つには韓国の演技論、ないしは、俳優術にあるような気がする。もっと別の要因として、韓国の古謡、フンタリョンなどにあらわれる発声からきているのだろうか。

556

評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期、毎日、彼の演出した舞台の写真を見ていた。
実際に舞台を見たことがないのだから、せいぜい写真でも眺めて、彼の演出を想像するしかなかった。

『シャイヨの狂女』を演出したとき、ジュヴェは新聞にエッセイを書いた。

読者のみなさんのなかには、衣裳ダンスや、屋根裏部屋に、四、五十年も前の、1895年から1910年あたりのご婦人がたの衣裳とか、アクセサリーなどをお持ちか、ご所蔵の方をご存知の人もいらっしゃると思います。
お母さんがた、お祖母さんがたがお召しになったドレスなど、レース、リボン、スパンコールなどのついたタフタや、シルクのローブ、ガチョウの羽飾り、造花をあしらったハット、インレイの網タイツ、ハンドバッグ、アンクルブーツ、要するに、当時のファッションなら何でもかまいません。今からでもお送りいただければ、ジロドーの芝居に出る役者たちに着せてやれます。傷んでいても結構です。むしろ大歓迎なのです。

翌日、ジュヴェの劇場に、おびただしい人たちが集まってきた。さまざまな衣裳や、宝石、扇、アクセサリーを手にして……

戦後すぐの疲弊しきったパリで、ジロドーの芝居を演出しようとしていたジュヴェに私は感動していた。

555

ある女子高校の話。
先生は生徒に対して呼び捨てしない。お互いに、おしとやかに会話をなさる。教室で先生が質問する。「XXさん、質問にお答えください」。生徒が答えると、「ありがとうございました」と先生がおっしゃる。
授業が終わると、級長さんの号令で、「ありがとうございました」と御礼を申しあげる。先生も「ありがとうございました」とお答え遊ばされる。

お嬢さま学校という。

学校にはそれぞれ校風がある。私はこうした教育を否定しない。むしろ美風として賞賛してもいい。ただ、こういう教育の、眼に見えないうしろ側に、鼻持ちならない偽善性、いやらしいお上品ぶり、ひたすら表面だけを飾るヴィクトリア時代ふうのいやらしさを感じる。

私がはげしく嫌悪するのはこういうプジャニーム(カマトト)ぶりである。

554

冬のある日、椎野 英之(当時、「時事新報」の記者だった)が、私をつかまえて、
「耕ちゃん、すまないが原稿を取りにいってくれ」
という。私はこころよく引き受けた。親友の椎野に頼まれて、いなやはない。戦後すぐのはげしい混乱のなかで、有名な文人がどういう生活をしているのか見ておきたかった。それにまったく無名の私は暇だったから。

玄関先で来意をつたえると、上品な夫人が書院に案内してくれた。
明窓浄机という言葉がふさわしい和室で、みごとな軸が一幅、これもみごとな黒檀の机。
私は、どこに控えていいのかわからずに、和室の隅にかしこまっていた。先ほどの夫人がお茶をふるまってくださった。
しばらくして、主人が姿を見せた。

「原稿はまだ書いていないので、これから書きます。待っていてください」

いくらか太めの万年筆で、すぐに書き始めた。私は驚いて見ていた。私の見ている前で正座したまま、机に置いた原稿用紙にすらすら書いてゆく。
古風にいえば、白雪の音も聞こえる静けさだった。

やがて、原稿を頂戴した私は深く頭を下げた。その先生は丁重に頭を下げて、
「お待たせしました。椎野君によろしくおつたえください」
と声をかけてくれた。

何もかも驚きだった。新聞社のお使いさん、せいぜいアルバイト学生にすぎない私を丁重に扱ってくれた。なによりも驚いたのは、私の見ている前で即座に原稿を書きあげたことだった。
戦後すぐのことで、日刊新聞も裏表2ページ、紙面にまったく余裕がなく、この原稿もせいぜい8百字程度の随筆だったと思う。
現在の私でもさほど苦労せずに書ける枚数だが、そのときの私は驚くばかりだった。その筆跡にはまったく渋滞のあともなく、書き込みや修正もなかった。
この人が土岐 善麿出会った。未成年の私が戦後初めて会った文学者ということになる。当時、還暦を迎えたぐらいの年齢ではなかったか。
当時、私は18歳。

553

中原さんという方から、思いがけない質問をいただいた。

中田耕治の「日本海軍の秘密」(昭和47年)は単行本に収録されているかどうか。

残念ながら、本になっていない。今後も本になることはないだろう、とお答えしておく。

明治の日本が戦備の拡張のためにイギリスの造船所に発注した戦艦が、日本に向けて回航中に、南シナ海で忽然と姿を消した。これは、実話だが、この事件を日本側が調査したとき、ひそかにイギリスから初老の人品いやしからざる老人が来日して、事件の解決に当たった。その老人こそ、誰あろう、シャーロック・ホームズその人であった、というまことに荒唐無稽なストーリーである。担当の編集者は北原 清君だった。

私のようにしがない作家の場合、既発表の作品をあつめて一冊の短編集を作る機会は少ない。そのときそのときに注文があって書くだけで、一度発表してしまえば、あとはたいてい忘れてしまう。今頃になって「日本海軍の秘密」を探している奇特な読者がいると知って私のほうが驚いている。

この作品の主人公は、海軍中尉、「桜木三郎」という。若年ながら有能な「桜木中尉」は、「ホームズ」と協力して事件の捜査に当たる。これも私のいたずらで、若い友人の、当時、「少年ジャンプ」の編集者だった桜木 三郎君の名前を拝借した。桜木君は大学で私のクラスにいたが、後に美しい女性と結婚することになって、私が媒酌をつとめた間柄だった。
彼は「週刊大衆」の北原君とも親しかったので、この原稿を手にした北原君も私のいたずらにすぐ気がついて、ニヤニヤした。なつかしい思い出である。

はるか後年、日本作家による「シャーロック・ホームズ」もののアンソロジーが河出書房から出たが、これにも収録されていない。このときの編集者は飯田 貴士君だったが、あとで私がそんな短編を書いていると知って、とても残念がっていた。
日本の作家が書いた「シャーロック・ホームズ」ものとしては、おそらくもっともはやいものだろう、と思う。

飯田 貴士も、桜木 三郎もすでにこの世の人ではなくなっている。晩年の桜木君は最後まで、私の『ルイ・ジュヴェ』を出そうと努力してくれた。私の内面には、なつかしい思い出と、ありがたさがこんな短編ひとつに重なっている。

552

「諸君」に、フランシス・フクヤマのインタヴューが出ていた。

フクヤマは、日本の核武装に反対している。その理由は、
「現在の日本が自主防衛能力を持つことは、東アジアのパワー・バランスを崩すことになる。したがって、アメリカの視点からは、日本が急速に国防力を増強することは望ましくない」
これに対して、インタヴュアーの伊藤 貴は、中国の経済的、軍事的な発展を指摘しながら、
「今後20年間に、東アジア地域のパワー・バランスは激変する。2020年代に入って、東アジア地域におけるアメリカ・中国の軍事バランスが逆転する可能性が強い。そうなったとき〈アメリカの傘〉は万全なのか」
と問いただしている。フクヤマは答えている。
たとえ日本が核攻撃を受けた場合でも、アメリカが北米大陸から、ICBMを発射してそれに報復するということはありえない、と。
考えてみれば、フクヤマの論点はきわめて明快でほかに答えはない。

551

ジュディ・バドニッツという作家は、現在、もっとも不思議な作家の一人。

ストーリーは千変万化。一作ごとに、内容はもとより語り口、ひいては想像の性質までが変化する。こういう作品を読まされる読者は、驚きながら笑い出すだろう。その笑いは、ただおかしいから笑うのではない。こんなバカなことがあるはずはない、という疑いと、いや、いわれてみれば、そうなんだなあ、というへんな安堵感が交錯して、とりあえず笑ってしまえ、という感じだ。だが、その笑いには、なぜかうそ寒いものが響く。作家は、私たちを笑っているのではないだろうか。そんな気がしてくる。
しかし、そうではないかも知れない。もしかすると私たちは、この小説を読んで、自分の内面にきざしはじめる、いいようのない恐怖や戦慄をごまかそうとして笑うのではないだろうか。
ここまできて、きみは気がつく。この笑いは、自分を笑うように作家が仕向けていることに。

この作家を不思議な作家というのは、私なりにいうと、マジック・ファラシイ Magic Fallacyの文学だからなのだ。以前は、よく「奇妙な味」とか幻想小説といったいいかたで、こういう作品をくくろうとしたものだが、そんな概念でくくれるものではない。いっそ「妄想小説」といってもいいのだが、作家は妄想をたくましくしているわけではない。
この作家にとって、すべてが自然なのだ。だからこそ、私たちは、ときに笑いながら、戦慄するのだろう。

なんといっても岸本 佐知子の訳がすばらしい。

550

幼い頃、私の家に竈(かまど)があった。へっついという。火を起こすのは子どもの仕事で、火吹き竹でふうふうやった。けむりが眼にしみて、涙を流しながら。

今ではどこの家庭にも電気釜が普及しているので、お米の炊き方を知らない女性もふえている。若い女性のほとんどが知らないだろう。
たとえば、地震や火災で被害をうけた人々が、ご飯を口にできるまでかなり時間がかかっている。お米はあっても炊き方がわからない。そこで、私流のお米の炊きかたを。

何時間か前にお米をといで、ザルにあげておく。
水かげんは、好みによって違うが、昔は米一升に水が一升二合というのが、だいたいの目安だった。
釜の口を蔽う大きさのフキンにじゅうぶん水をふくませて、濡れたままを釜にかぶせる。その上から木のフタをして、〈ときには、重石(おもし)で〉おさえる。
火は最初から強火。一升なら、十分ぐらいで、ふいてくる。重湯がふき出さないうちに、火を全部ひいてしまう。
それから、四、五分して、お米の煮え立つ音が静まるのを待って、古新聞、オガクズ、古縄、段ボールなどを燃やす。これで、もう一度、沸騰させてから、しばらく蒸しておく。これを、仕上げ炊きという。

この仕上げ炊きで、ご飯につやが出て、ふっくらと炊きあがる。しかし、火加減によっては、釜の底が焦げついて、オコゲができた。このオコゲをショウユで食べるとおいしかった。
地震や火災にそなえて防災訓練をするのも必要だが、そうした訓練には、被災した場合手持ちの食材をかき集めて、すぐに料理ができる練習もしておいたほうがいい。

登山に熱中していた頃、ご飯はたいてい旧陸軍の飯盒(はんごう)で炊いていた。私のアナクロニズムだが、夏、アルプス銀座に登るような連中を軽蔑していたせいもある。
ただし、飯盒の炊きかたはけっこうむずかしい。
はじめチョロチョロ、中パッパ、と呪文のように唱えながら炊くのだが、最後に、登山靴で蹴って、飯盒をひっくり返してムラす。このタイミングがむずかしい。
誰も登らないコースで悪戦苦闘したあと、飯盒で炊いた「銀しゃり」をパクつくのは、登山のよろこびのひとつ。
非常食はお米一合、仙台のゆべし(伊達 政宗の戦陣食)、塩、味噌、サラダオイル。小さなフィルムケースにつめておく、角砂糖4~5個ときめていた。小さなケースなので、浄水用の錠剤といっしょに、輪ゴム、麻紐をぐるぐる巻きつける。止血用その他に応用できる。
しばらくして調理はアメリカ軍払い下げのパン(なべ)ですませるようになって、飯盒とも縁が切れた。

なぜ、こんなことを書いておくのか。理由はある。いつか時代をへだてて、私のコラムを読んでくれる人がいないともかぎらない。ひょっとして……かつて日本人がどういうふうにお米を炊いて食べていたか、興味をもつかも知れない。
私がいろいろなトリヴィアを書きとめておくのは、それ以外の理由からではない。

549

ビューティー・スポット。数年前からよく耳にするようになった。
「あいつ、モエなところがビューティー・スポットなんだ」
電車で、高校生がこのことばを使っていた。「あいつ」は女の子のことらしい。
ふ~ん、そういうふうに使うのか。

beauty spot n.付けぼくろ(patch):ほくろ、あざ(mole):わずかな汚点:景勝地 (「リーダース英和」研究社)

私などは、こういう意味だと思っていた。

日本ではいつ頃から、使われていたのだろうか。

西洋の化粧法に、ビューテイー、スポットといふのがあるが、これは、顔の大切のところに、わざとホクロを描き、単調を破ることによって、自らの美点を強調せんとする計略なのださうである。然るに彼の人間に、全くビューテイー、スポットを欠ゐていた。 ({中央公論」1938年4月号)

安部 磯雄(1865~1949)をとりあげた匿名の人物評の一節。(山浦 貫一あたりが書いたのだろう。むろん、確証はない。)

ふ~ん、こういうふうに使われていたのか。

548

井月。
ほとんど知られていない俳人。文政5年(1822年)、長岡に生まれた。それ以外、出自、係累、事跡などは不明。放浪、漂泊の人生を送った。

作風はおだやかで、さしてすぐれた句とも見えないが、私はこの俳人に幕末の庶民の心情を思う。

子どもらが寒うしてゆく炬燵かな

私の部屋の窓から学校に通う子どもたちの姿が見える。それを見ながら、井月の句を思いうかべる。

行きくれし越路(こしじ)や ほだの遠明り

漂泊のさびしみが感じられる。越路は、越後の道をさすが、おのれの過ぎこしの人生も重なっていよう。

春寒し 雨にまじりて何か降る

だが、春になれば、

のどかさや 鳥の影さす東まど
鯉はねて眼のさめにけり春の雨
箒目の少しは見えて 別れ霜

さらには、

どこやらに鶴の声聞く霞かな
見るものの霞まぬはなし 野の日和
春風に まつ間ほどなき白帆かな

という風景がひろがる。

547

原 敬(はら たかし/1856~1921)の日記。

近頃財政甚だ悪し、両三日前客ありて鰻を馳走せしに其価八十銭余なり、最初は通帳にて払ふ積(つもり)なるに、鰻屋は本月限り現金にて受取たしと云ふ、然るに銭なし、五度まで取りに来れり、巳むを得ず友人より借りて払ひたり、貧乏は常の事にて記載せし事なけれども、フト思ふことありて記せり、呵々。

当時、原 敬は、パリの公使館の勤務を終えて、農商務省参事官になったが、外相、大隈 重信が狙撃される事件が起こって、黒田内閣が倒れ、山県 有朋の内閣が成立(第一次)したとき、農商務省の秘書官になった。
その頃、80銭のウナギの代金が払えなかったのだから、たいへん貧乏だったらしい。
原 敬ら平民宰相と呼ばれた政治家だった。1921年、東京駅で暗殺された。これは大正デモクラシーの終焉でもあった。

私も「貧乏は常の事にて記載せし事なけれども」ことのついでに書きとめておく。「フト思ふことありて」書いたわけではない。呵々。