588

今でもつきに二度は神田の神保町を歩いている。
私の知っていた界隈もすっかり変わってしまった。

戦後すぐの神保町を思い出す。
駿河台から神保町にかけて、空襲でも焼け残ったが、淡路町、小川町から多町、司町一帯は全焼していたし、水道橋の駅はホームの屋根が焼けただれて、鉄柱もなくなっていた。(酒に酔った小林 秀雄が、このプラットフォームから転落したのは、この後のことである。)
戦争が終わったばかりで、毎日、大きなニューズがつづいていた。特高警察が廃止され、内相、警視総監をはじめ、軍の上層部、右翼の指導者がぞくぞくと逮捕され、治安維持法が廃止され、言論の自由が指令されて、国民に重くのしかかっていた軍国主義の暗雲がはれたばかりだった。
大学は再開されたが、教授たちは疎開先から戻ってこなかったため、授業はほとんどが休講だった。私と、友人の覚正 定夫(柾木 恭介)はほかに行くところがないので、毎日、大学の教室に行った。教室にいると、召集されて入隊した友人の誰彼が、よれよれの復員兵の姿で真っ先に教室に戻ってくるのだった。

戦後すぐに「岩波」が文庫を出したとき、店の前に徹夜でたくさんの客が並んだ。まだ新刊書もろくに出なかったし、「岩波文庫」の復活は、誰にも自由の到来を実感させた。古書は店の棚もガラガラだった。しばらくして、まだ営業できなかった「神田日活」の前の歩道にムシロを敷いて、その上に占領軍の兵士が読み捨てたポケットブックや、けばけばしい表紙の雑誌を並べて売る露天商人が出た。
外国の本に飢えていた学生たちが群がっていた。

ゴザの上に5~60冊ばかり、ポケットブックが投げ出されている。半分は、横に細長いアーミー・エディションで、手にとって見た。活字がぎっしり詰まっている。二、三行、読んでみた。なにが書いてあるのかわからなかった。
次々に手にとって見たが、私の英語では、まったく歯が立たなかった。

その中に一冊、なんとか読めそうな小説があった。短編集らしい。作者は、ウィリアム・サローヤン。知らない作家だった。農村らしい風景に少年が立っている表紙。内容は、私でも何とか読めそうな気がした。
もう一冊、買うことにした。やさしい文章で書かれたものをさがして、全部の本をひっくり返したあげく、やっと一冊見つけた。
作者は、ダシール・ハメット。むろん、この作家も知らなかった。二冊で20円。

当時、食料は配給制で、外食するときは、外食券が必要だった。ソバ一杯が、17円。つまり本を二冊買っただけで、一食抜きということになる。空腹を抱えて、やっと買った本であった。

帰宅して、辞書と首っぴきで読みはじめた。最初にサローヤンを読みはじめたが、主人公がアラムという少年とわかった程度で、あとはまるでわからない。そこで、ハメットを読むことにしたが、こちらは冒頭から何が書いてあるのかまるっきり見当もつかなかった。このとき私の内面にあったものは、なんともいいようのない思いだった。オレはバカだ、と思った。そのことに絶望した、というより、ひどい空虚感があった。そもそも語学もろくにできないのに、いきなりアメリカの文学にふれたいと思った、なんという傲慢だろう。自己嫌悪があった。
そもそも英語もろくに勉強していないのに、こんな本を買おうと思った自分の思いあがり、うかつさに腹が立った。わざわざ読めそうな本を探して、まるで読めないていたらくであった。
空腹で眼もくらみそうなのに、食事を抜いてまで、読めもしない本を買い込むのは、バカとしかいいようがない。少しでも読めると思っていながら、まるっきり読めない。なんという阿呆だ。

その日から、アメリカ小説を相手の悪戦苦闘がはじまった。

586

「雨の国の王者」さんへ。

前にも書いたように、私のミステリー作品など誰の興味も惹かないだろう。そう思っていただけに、きみのように奇特な読者にはほんとうに感謝している。

小説を書きながらジャズを聞いていた。というより、ジャズを聞いていれば小説が書けた。ジャズ喫茶に立ち寄って、アルテックか何かのスピーカーで、パーカー、コルトレーン、マイルズ、ドルフィーをガンガン聞きながら、短編を書きとばしていた時期もある。
書きおえると、そのままバーに直行する。そんな生活だった。

別のことを思い出した。当時、小さな劇団で演出していた。
たまたま友人の戯曲を演出している途中、稽古場に電話がかかってきた。その日の稽古でどうにもむずかしい部分があって、私もあせっていたのだった。初日を間近にひかえていろいろ演出を変えてみたがどうもうまく行かない。電話がかかってきたので、稽古を中断して電話に出た。埴谷 雄高さんからだった。埴谷さんのお話によると、「近代文学賞」という小さな文学賞を私がもらえるらしかった。
「思いがけないことですが、ありがとうございます」
私はこたえて、すぐに稽古場にもどった。そのまま黙って稽古を続けた。
夜も稽古をつづけた。やっと稽古が終わってから、みんなに文学賞をもらうことを告げた。稽古中に私がどなりつけたり、文句ばかり並べていたので、すっかり落ち込んでいた役者たちが、とたんに、うきうきした気分になった。拍手が起きた。それまでうかぬ気分だった私もきゅうにうれしくなって、買ったばかりのコルトレーンを女優さんのひとりに、あっさりくれてやった。
その晩、近くの酒場でワイワイやっているうちに、こんどは私をさがしていた別の編集者につかまって、逃げるわけにもいかず、徹夜で短編を書いた。
コルトレーンを聞きながら書きたかったのに。
いや、もっとほんとうのことをいえば、コルトレーンを進呈した彼女と……つもりだったのに。……(笑)

「雨の国の王者」さんの質問のおかげで、つい、ろくでもないことを思い出してしまった。きみのメールも思い出も楽しかったけれど。

「風のバラード」という短編。これはどの短編集にも入れず、のちに中島 河太郎編のアンソロジーに入れてもらった。私としては気に入っている短編。

私はそういう作家、そんな程度の作家なのだ。
さればこそ、「中田耕治書誌」などこの世に存在すべきではないと考えているので、あしからず。

585

「雨の国の王者」さんへ。

連休中に、書斎のご本を片づけていて、私の本を見つけたそうでご苦労さまでした。
私の著書に関していろいろとご質問をいただいて、ちょっとおどろいています。

じつは手もとには自分の著訳書がほとんど残っていない。おかしな作家なので。
出版社から本がとどいてくると、親しい友人、知人たちにさしあげるのだが、わずかな部数、手もとに残しておいた本も、いつの間にかなくなっている。
なにしろ自分の書いたものに興味がないので、本をとっておく習慣がない。だから、きみが「中田耕治書誌」を探しているというので本人が驚いている次第。

私の略歴にミステリー関係の著・訳書がほとんど記載されていなかったのも、ことさら隠蔽しようとしたわけではなく、そんな本を書いたこともすっかり忘れてしまったからなのだ。

「明日のない男」や「死を呼ぶ女」が、どの短編集に入っているのかと聞かれても返事のしようがない。未収録とすれば初出誌は何かと問われても、私自身、まるでおぼえてもいない。
だから、私(中田耕治)はそういう作家なのだと思っていただければいい。
きみの熱心な質問を受けて、自分がどんなにボケているか、はじめて気がついたのはわれながらあきれた。いそいで書棚を探してみたら、やっと『殺し屋が街にやってくる』が見つかった。本の扉を開けてみると、最初のページに、

中田耕治さま
ビッグボックスの古本市で見つけました
ゲストとして来ていただきましてありがとうございます
木村 二郎

とサインしてあった。してみると、自分の著書をひとさまから頂戴したわけである。

これで思い出したが、あるとき、小鷹 信光さんが主宰なさっていたミステリー研究会に招かれて、早川ミステリの草創期の頃のことをしゃべった。そのとき、同席していた木村 二郎さんが私の本をもっていたので頂戴したのだった。
私としては木村 二郎さんのご好意がうれしかった。
著者が自分の本を手もとに一冊も置いていない、と知った木村さんはあきれたかも知れない。
だから、『傷だらけの逃亡』が長編なのか短編集なのか、と聞かれても、ほんとうにおぼえていない。こうなると、どうやら重度の認知障害だなあ。(笑)

(つづく)

584

ボリス・エリツィンが死んだ。(’07/4/23)

旧ソヴィエト解体に大きな役割を演じて、一時はクレムリンの頂点にたった。しかし、その政治家としての顔は、民主的な改革派、強権主義、政治的なポピュリズムなどいろいろで、民主化、資本主義的な市場経済の道をたどった新生ロシアで、功罪あいなかばする足跡を残した。
新聞の記事には、エリツィン氏ほど歴史的評価のむずかしい政治家はいないだろう、とあった。

1991年6月、共産党保守派と軍の一部によるクーデタ未遂事件が起きた。このとき、ソヴィエト連邦大統領だったゴルバチョフは、避暑地で軟禁された。
やがて、ゴルバチョフは無事にモスクワに帰還して、人民会議場で大統領としての演説をしようとした。
ゴルバチョフが一枚の原稿を手にしてにこやかに笑みを浮かべて演壇に立った。ゴルバチョフは、無事に戻ってきたと挨拶して、手にした書類に眼をやって「この報告はまだ読んでいませんが」といった。そのとき、上手にひかえていたエリツィンがつかつかと寄ってきて、語気するどく、
「あんたは、ここで読めばいいんだ!」
と浴びせた。
ゴルバチョフが、一瞬、顔色を変えた。鼻白んだ表情というか、ムッとした顔で、エリツィンを睨み返した。ソ連邦大統領ともあろうものが、ロシア共和国大統領からこんな無礼な指示を受けたことはなかったに違いない。
エリツィンは尊大な表情で、またもや語気するどくおなじことばをくり返した。
さすがに、ゴルバチョフもその場の空気を察したらしく、固い表情に微笑をはりつけて、そのメッセージを読んだ。
この瞬間、ソヴィエト体制が崩れたのだった。

私はこのシーンをテレビで見たが、旧ソヴィエト解体のきっかけになったのは、まさにこの瞬間だったと思う。すごいシーンだった。
私はソヴィエトという巨大な虚構(フィクション)、あるいは幻想(ファラシイ)が地響きをあげて崩壊してゆく音を聴いたような気がした。
この直後に、共産党保守派と軍の一部によるクーデタが起きたが、エリツィンは戦車のうえに立って民衆に抵抗を呼びかけた。このシーンもテレビで見たが、これにはあまり心を動かされなかった。

エリツィンは、ゴルバチョフの運命について回想している。
「このクーデタが成功していたら、コルバチョフは、廃帝ニコライや、失脚したフルシチョフとおなじ運命をたどっていただろう」と。
つまり、ゴルバチョフを銃殺しなかったのは、自分の庇護があったからだった、ということになる。エリツィンの傲慢な姿勢、政敵や同輩の生殺与奪までにぎろうとした非情な表情が透けて見える。

エリツィンの葬儀の模様をテレビで見た。(’07/4/26)途中で、故郷のスヴェルドロフスクからモスクワに向かう日のエリツィンの姿が出てきた。
アマチュアの撮影だろうか。ほんの数分の映像。ちいさなアパートの一室。大きなからだのエリツィンが、長椅子に腰かけている。服を新調したらしく、表情もわかわかしい。まったく「非情」な印象はない。やおら身をかがめて、長椅子の下から小さなバッグを出し、無造作にかかえて狭い部屋から出てゆく。まったく無音で。
つぎのカットは、外に出たエリツィンが、街角に駐車している車まで歩いて行く。ロシアの地方都市だが、人通りもなく、車も走っていない。エリツィンの大きな背中が遠くなって、黒く写っているだけ。サイレント映画のように。
共産党の中央委員に選出されて、モスクワに向かうエリツィン。
このとき、自分が世界史に残るような運命を担っているとは考えもしなかったに違いない。

エリツィンの尊大な表情と、動揺したゴルバチョフが、一瞬、顔色を変えたのは、自分の生殺与奪が誰の手にあるのか察知したからではなかったか。あのシーンは、私がテレビで見たもっとも忘れられないシーンのひとつ。それに、このスヴェルドロフスクのシーンが重なってきた。

エリツィン氏ほど歴史的評価のむずかしい政治家はいないだろう、てか。笑わせる。

583

もう前のことだが、テレビで「三大テノール・ガラ・コンサート」を見た。(05年10月5/6日。サントリーホール)。たぶん再放送だろうと思う。
指揮、ニコラ・ルイゾッティ。東響。ヴィンチェンツォ・ラ・スコラ、ジュゼッペ・サバティーニ、そしてニール・シコッフ。
その内容をここに書くつもりはない。

第二部「ナポリ民謡」が終わって、万雷の拍手。三人が舞台から引っ込む。むろん、アンコールの拍手が続く。最後に三人の「サンタ・ルチア」でおひらき。しかし、観客は、それだけではおさまらない。拍手がつづく。
すると今度は、スコラがチェロを抱えて出てきた。え、歌うんじゃないのか。観衆がちょっと驚く。それを見たルイゾッティがピアノに向かった。おやおや、何をやるんだろう。
ふたりはサン・サーンスの「象」を演奏した。むろんご愛嬌だが、場内は大喜び。驚いたことに、つぎにルイゾッティが「フィガロ」を歌った。けっこう聞かせる。ウケた。
つづいてサバティーニがフルートをもって出てきた。当然、スコラの隠し芸に対抗して、何かご披露するのだろう。ベルリーニの「ノルマ」のアリアを演奏した。これがまたウケた。
こうなると、観客もやたらにうれしくなってくる。さて、つづいてはシコッフが何をやるのか。ますます期待が高まってくる。
シコッフは、昔のオリヴァー・ハーディー(相棒がスタン・ローレル。サイレント時代からトーキー初期に大変な人気があった喜劇役者)みたいな動きで、ヴァイオリン・ケースを抱えて出てきた。なんと、シコッフの演奏が聴けるとは!
シコッフがヴァイオリン・ケースのふたを開く。楽譜を引っかきまわす。演奏するはずの楽譜が見つからない。次々に、楽譜をつかんでは舞台に放り投げる。あとの二人も、心配そうな顔で寄ってきて、出番が終わったサバティーニたちも見るに見かねて、あわてて寄ってくると、いっしょになって楽譜をつかみ出す。ステージに紙クズが散乱する。
シコッフが青いハンカチーフをつかんで放り出す。ここまできて、観客はシコッフのかくし芸は手品らしいと気づく。
最後に、やっとお目当ての品(楽譜)が見つかったらしい。シコッフの顔に笑みが広がる。観客も安心する。と、彼がとりだしたのは、なんとトライアングル。観客がどよめく。
それはそうだろう。スコラがチェロ、サバティーニがチェロなのだから、シコッフが何かの楽器を出して、みごとに演奏すると思っているのだから。観客に笑いがひろがった。

観客がしずかになったとき、シコッフは耳元に寄せて、その楽器をかるくたたく。音はほとんど聞こえない。観客はこの寸劇に大爆笑で、シコッフも、してやったり、という感じでうれしそうな顔になる。このシコッフは、一流のコメディアンの風格さえ見せていた。

誰の記憶にも残らないようなシーン。しかし、日本のオペラ界でこういうパーフォーマンスはほとんど見られない。だから、こんなことにも一流のアーティストの風格から文化の成熟、芸術を楽しむ余裕といったものが見えてきて、それが、私にはうらやましかった。

581

WHO(世界保健機関)の発表。(2007.2.27)
2005年、認知賞の患者数が、約2千400万人。
2030年には約4千400万人(ほぼ1.8倍)になる、という。

日本のように高齢化が進んでいる国や、ヨーロッパ、アメリカなどの高所得層の多い国では、05年、人口、1千人当たり、患者数は約11.4人。30年には、これが約17.5人に増加する。世界の平均では、05年に約3.8人。これが、2030年には、約5.6人。

「先生、お元気ですか」
こう訊かれたときは、「ハイ、マアです」と答えている。ハイ、マア元気ではアルツれど、というおフザケ。しかし、WHOの報告を読むとふざけてもいられない。
『ルイ・ジュヴェ』の中で、演出家、ジャック・コポォの晩年を描いた。彼は認知症であった。知的機能が衰え、記憶も病的に低下した。(第六部 第九章)
俳優のジャン=ルイ・バローは、
「コポーのようなみごとな知性が、全盛の輝きを放ったあとで、まるで日食のように、一瞬に隠されてしまうのをじっと耐えて見ていることは、私たちにはひどくつらいことだった」
と書いている。

私の場合は、せいぜいボケ老人になるだけのこと。これはもう仕方がない。ただ、自分の気もちとしては、できれば任痴症でありたい。痴に任せる。もともと愚かな人間なのだから、愚かに生きるしかない。
この「コージートーク」を書いているのも愚行のひとつ。

580

大学の近くにそば屋があった。
学生時代、敗戦直後は食糧の配給券をもって通ったが、そばが1ぱい17円だった。そばを食う金を倹約して、アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買うことにしていた。1冊20円。だから、そばも食えなかった。
大学で講義をするようになって、たまに立ち寄ることがあった。店の様子は変わったが、もともと、たいしてうまいそばを出す店でもない。

大学で講義を続けたが、講義のあとは、いつも友人の小川 茂久といっしょだった。小川はフランス語の教授で、斗酒なお辞せずという酒豪だった。行き先はいつもきまっていて、「あくね」という酒場か「夕月」という居酒屋だった。

お互いに忙しくて時間があわないときがある。
そういうときは、おなじ神田の裏通りのそば屋にきめていた。火鉢形に細長く切った囲炉裏の前に箱膳を据えて、とっちりこと腰を下ろして、サカナはほんの少しの塩けがあればよし、手酌で二合、一口飲んでは舌鼓。浮世の何を思うでもなく、用がなければ何を言うでもなく、箸休めをしてはまた一口、チビリチビリとまた一口、二銚子ばかりを小一刻、そばをツルツル半時間、ほろ酔い機嫌で外に出る。

これが、小川 茂久といっしょの十年一日の紋切り型。小川は、佐藤 正彰先生、斉藤 磯雄先生などにつかえて明治の仏文科をささえつづけた。中村 真一郎氏と親交があった。私より2歳上。少年時代から大人(たいじん)の風格あり、酒に弱い私につきあってくれたものだった。

私が16歳のときに会って、50有余年親しくした友人だった。

579

元気がないときの対症療法がある。その一つは、好きな映画を見ること。ビデオ、DVDで。
私が見るものはだいたい決まっている。

「ファウル・プレイ」、「ローラ・ラン・ローラ」、「ファイアー・ストリート」といったB級映画である。こういう映画が見たくなるときは、きまって元気がない。つまり、見ているうちに、元気を回復してくる。私にとっては、大切な疲労回復薬のようなものである。

それでも元気にならないときはどうするか。
いよいよ最後にとっておきの映画を見る。
「刀馬旦」か「ウォリアーズ」の2本。これまたB級映画だが、これに「重慶森林」を加えれば、だいたい私の精神的な疲労や、悩みは解消する。

それでも回復しなかったら?
そうなったら仕方がない。寝込んでしまう。

578

坂口 安吾は「風博士」で認められた。つづいて「村のひと騒ぎ」(昭和7年10月)を発表する。(彼の初期の作品としてはあまり高く評価されていない。)
当時、新進作家として高い評価を受けていた竜胆寺 雄は、翌日、坂口安吾を取り上げて批評している。

物語の中の主人公たちが脱線するのは、いくら脱線してもいい。作者がかうハメをはづして脱線したんでは仕方がない。作者が一人でドタンバタンと百面相騒ぎをして、ひとを笑はさうとしているのは第一下品である。いい素質をもったこの作家は迷路を彷徨しているもののやうだ。何しろこれでは青クサくて下手な落語にも及ばぬ。

たしかに坂口安吾は、その後「迷路を彷徨して」いたが、戦後、「白痴」でそれまでとまったく違った姿を見せて登場する。一方、竜胆寺 雄のほうも、戦前すでに文壇から去って(本人は抹殺されたと思っていたらしい)、それこそ迷路を彷徨していた。戦後は、『不死鳥』などで復活をはかったが果たさず、サボテンの研究家になった。
私は、竜胆寺 雄の『アパアトの女たちと僕と』は昭和初期を代表する作品だと思っている。
この二人の文学的な軌跡にさえ、戦前の作家の不幸な運命を見るような思いがある。
同時代の批評は、後世の眼から見ると、ずいぶんおかしなところがある。しかし、そうした批評上のバイアスがじつにおもしろい。おなじ時代に生きている息吹のような物が感じられるからだろう。竜胆寺 雄は、『村のひと騒ぎ』を散々ケナした挙句、最後になってわずか一行、付け加えている。

因みに、――この作品の骨子と構想とは大変に面白かった。

私は、こう書いたときの竜胆寺 雄の表情を想像するのである。

577

「お買いものに行ってちょうだい」
母にそういわれて、私は5銭玉を握りしめて勝手口からかけだした。路地を出た先に小さなお店があった。食料品が主で、ほかに日常の雑貨を並べた便利屋で、店先に、大豆、ウズラ豆、サツマイモを入れた木の箱、野菜の隣にイワシ、サバの干物、トウフや佃煮が並んで、棚のクギに下げたザルに生みたてのタマゴが盛られている。
鶏卵は毎日の食卓に並ぶにしても、たいていはその日の朝に買う習慣だった。冷蔵庫もない時代で、タマゴは足の早い(腐敗しやすい)食品だったし、値段も高かった。

下水に格子のフタがはめ込んである。それを避けてピョンと飛び越えた。とたんに、小さな手の中から白銅貨が飛び出した。大切に握りしめてきたのに、道路に飛び出した拍子に手のひらを開いてしまったらしい。
5銭玉は私の目の前で転がってゆく。あわててそれをつかもうとしたが、そのはずみに前にバッタリ倒れた。白銅貨は転がり続けて、排水溝のフタのあいだに吸い込まれた。

信じられない出来事だった。私は泣き出した。
私の様子を見ていたらしい近所のおばさんがすぐに駆け寄って、私を抱き上げてくれた。
「おう、可哀そうに。痛かったねえ」

膝をすりむいたらしく、少しだけ血がにじんでいた。痛みは感じなかった。
私はなぜ泣いたのだろうか。5銭銅貨が自分の見ている前で転がって、それをつかむことができなかった。これはありえないことだった。それが信じられなくて泣いたのだった。

このできごとは幼い自尊心を傷つけたような気がする。泣きながら家に戻って、母にすがりついた。母は私から事情を聞こうとしたが、私にはうまく説明ができなかった。はじめてのお使いに失敗した。だから泣いたのではなかった。お金を落としたためではない。他の理由でもないようだった。自分でも何がどうなったのかわからない。だから泣きだしたのだろう。そういうことが、幼い私には言葉で説明できないのだった。ただ私は母にとりすがって泣いていた。

三歳半か四歳の私の記憶。

576

ありえない血縁関係。
マルグリット・デュラスの言葉。
ジャンヌ・モローは誰の孫娘だろうか。デュラスは言う。ルイ・マルを介して、スタンダールの孫娘、と。デルフィーヌ・セイリグは? アラン・レネを介して、プルーストの孫娘。
とてもエスプリのきいた言葉だと思う。

こういういいかたで、いつか日本の女優が語られるようになる日がくるだろうか。

575

BS11で、ルネ・クレマンの「しのび逢い」(1954年)を見た。主演はジェラール・フィリップ。
この映画は何度も見ている。ジェラール・フィリップは、私の『ルイ・ジュヴェ』に登場してくる。ありし日のジェラールをしのびながら、いろいろなことを思い出した。

原作は『白き処女地』のルイ・エモン。戦前のフランス映画ファンなら、ジュリアン・デュヴィヴィエの映画を思い出すだろう。若き日のジャン・ギャバン、マドレーヌ・ルノーの姿も。
この「しのび逢い」のなかで使われているテーマのシャンソン、作詞がピェール・マッコルラン。作家としてのマッコルランは、日本ではほとんど知られていないが、私たちは、おなじデュヴィヴィエの『地の果てを行く』の原作者だったことをおぼえている。

古い映画を見ていると、もはや失われた風俗、ファッション、街の風景が、あらためてよみがえってくる。現在のロンドンの人がこの映画を見れば、なにがなしノスタルジックな思いにかられるかもしれない。この映画で、私たちはイギリスの「戦後」を見ることができる。
ルネ・クレマンは、『禁じられた遊び』を作ったあとで、この映画をロンドンで撮っている。そんなことから、別のことを考えはじめた。
おもに女性の風俗を描く作家は、風俗作家として、いささか不当にあつかわれてきた。 志賀 直哉が文学の神様のようにあつかわれていた時代が長く続いたが、今では志賀 直哉よりも、里見 敦や、芥川 龍之介、久保田 万太郎のほうがずっとおもしろい。
中村 光夫のような批評家は、風俗作家を徹底的にコキおろした。たしかに、たいていの風俗小説は書かれてしばらくは読まれるかもしれないが、すぐに命脈が尽きてしまう。しかし、一世代、二世代たって読み直すと、意外に新鮮に見えたり、あるいはその時代の姿を想像させてくれることが多い。最近の文学の動きのなかで、中村 光夫のような批評が消えただけでも、ずいぶん風通しがよくなった。

「しのび逢い」は、艶笑ものといっていい。家賃も払えずにアパートから逃げ出す主人公が、よれよれのレインコートに隠して持ち出したカセットを、路上に落としてしまう。つぎの瞬間、通り過ぎた車のタイヤが轢いて、ラジオが壊れる。残骸をひろって立ちつくす「リポワ」。茫然自失するその表情に、俳優、ジェラール・フィリップのすごさがみられる。惜しい俳優だったなあ。

「しのび逢い」という邦題はよくない。ジェラール・フィリップが、どこか哀愁をおびた二枚目なのでこんな題になったのだろう。原題は「ムッシュウ・リポワ」。今ならこのままの題名で公開されるだろう。

古い映画を見ながら、とりとめもないことを考える。私の悪徳のひとつ。

574

その事件は、昭和17年(1942年)1月、奄美で起きた。当時、旧制中学4年だった少年が、最近になって書いている。

(前略)私が目にし、そして記憶にとどめているのは昭和十七年正月明け早々のことである。旧制中学四年の冬休みのことである。突然、防空演習が行われた。その前年の十六年十二月八日に大東亜戦争(真珠湾攻撃)が始まっているから、その時防空演習が行われるのも不自然ではない。しかし、それは、要塞司令部の参謀の指導の下に、実は防空演習に名を借りたカトリック教の隠れ信者と黙された人々いじめだったことは明らかだと思われる。
(中略)演習に参加した人々も所どころに集まっていたが、目標にされた建物は、それは防空演習の跡というよりは、どうしても火災現場を想像させる感じのものだった。私たちの学級にもクリスチャンと思われる者がいたが、皆同様に接していた。しかしその時以来姿を見せず、一人は家族で本土に引き揚げて行き、一人は何処かに転校したらしかった。

奄美では、昭和七、八年頃から、要塞司令部の参謀を中心に街の一部の人たちがいっしょになってカトリック排撃運動が起こっていたという。その結果、外人神父は島外に追放され、教会の所有はすべて没収、信者は改宗を強要されたらしい。
ほんとうに小さな事件だが、戦時中の軍国主義者の狂気じみた行動を、いくらかでも知っている世代の私としては遠藤 周作に教えてやりたかったと思う。

それよりも、私としては、この参謀たち(昭和7、8年当時の参謀と、その後に歴任した参謀たち)、とくに昭和17年に在任していた参謀たちのその後を知りたいと思う。

奄美が要塞地帯だったから、沖縄の地上戦に参加した人もいたかも知れないが、戦後まで生きていたとすれば、どう生きたのか。

この少年は、奄美在住の詩人、進 一男である。最近の彼は全詩集をまとめて出しているが、奄美のカトリック排撃の動きについて、はじめて書いている。
遠藤 周作が生きていたら、どんな思いで読んだろうか。

(注)進 一男著「続続 進 一男全詩集」(沖積舎/’07年2月刊 9000円)

573

ある日、澁澤 龍彦が、たまたま買ったばかりのフランス語の本を見せてくれた。そのことを、私が座談会でしゃべっている。

中田  いつかご自分の買った本を見せてくれた。ぼくなんか読めない本だけど、澁澤さん、それはそれはうれしそうなの。中世の秘蹟か何かの研究書だったけど、その本を手にしてることがもううれしくってたまらないの。ぼくまで、うれしくなってくるようで、ああいう澁澤さんはすばらしいなあ。
高橋(たか子) 子供が自分のもっているオモチャを、友達に喜んで見せるように、ニコニコしてお見せになりますね。
中田  お人柄というより、何か純潔なんだなあ。ぼくが(澁澤邸の)壁にかけてある絵を見ていると、それがうれしいみたい。ぼくは好奇心がつよいので、無遠慮にジロジロ見るんだけど、澁澤さんはそういう無遠慮が恥ずかしくなるほど、やさしいんだ。
種村(季弘) 垣根を作ってここからこっちに寄せつけないということは、全然しませんね。

この座談会は、高橋 たか子、種村 季弘、四谷 シモンのお三方、私が司会役だった。(別冊新評『渋澤龍彦の世界』昭和48年10月刊)
澁澤邸で私の見た絵は、葛飾 北斎。大きな女陰から男が外に出ている有名な一枚。

人生にはさまざまな偶然がある。澁澤 龍彦と出会えたことは、ほんとうにありがたいことだった。彼の慫慂がなかったら、私の仕事のいくつかは書かれないままで終わったにちがいない。
今にして彼の知遇を得たことを人生の幸運のひとつと思っている。

572

近くの古本屋が廃業するというので、日頃は読みそうもない本を買い込んだ。暇があったら読んでみようと思って。
たとえば、書棚の片隅にころがっていた一冊の本。
「東西感動美談集」(講談社/非売品/昭和3年)。800ページ。

昭和2年(1927年)、芥川 龍之介が自殺した。この年、金融恐慌がはじまっている。この本が出た昭和3年、特高警察が設置された。戦前の、もっともいまわしい凶悪な言論統制がはじまる。

この本は800ページの大冊なのに非売品だった。円本ブームに参加しなかった講談社が雑誌のキャンペーンでバラまかれたからだろう。
執筆者と内容をざっと見て買ったのだが、100円。いまどき、こんな本を読む人はいないだろう。これまで買い手のつかなかった本だったらしく、古本屋のおニイチャンが50円にまけてくれた。

帰宅して、804ページ、3時間で読んだ。文学的にはほとんどとるに足りない。いや、まったく得るところがなかった。昭和初年の読者はこうした通俗読物、ないしは通俗的な伝記ものに感動したのだろうか。

大正3年、青島(チンタオ)攻撃に倒れた歩兵下士官の実話。熊谷次郎直実の馬を世話した忠僕。児玉源太郎(陸軍大将)とヤクザの話。姫路の町大工の悲劇、といった実話がならんでいる。そのなかに、オーストリア軍を迎撃したナポレオン麾下の一将校が、山峡の古塔をわずかな守兵をひきいて死守し、最後まで戦ったドーベルヌ。清国の弓師の子、燕揚が身をもって父を助けた美談など、53本がぎっしりつまっている。

執筆者もほとんど私の知らない人ばかり。しかし、よく見ると沢田 謙、池田 宣政(南 洋一郎)、安倍 季雄、野村 愛正などが書いている。少年時代に、私はこの人たちの本を読んだものだった。
さして意外というほどではなかったが、執筆者のなかに、後年、左翼作家として知られた間宮 茂輔、詩人の岡本 潤、流行作家になった尾崎 士郎などの名があった。この人たちは無名ではないにしても、まだ、有名とはいえなかったに違いない。
菊地 寛が最後になって登場する。「名君物語」と題して、将軍吉宗の行状を描いている。後年の作家が、読み物として、日本人の逸話や美談を書きつづけたことを私たちは知っている。してみれば、彼の、もっとも早い時期の作品だろうか。この菊地 寛を読んで私がさまざまな感慨を催したとしても当然だろう。
あくまで私の推測だが、菊地 寛はこの本の企画に深くかかわっていたのではないだろうか。苦労人だった彼は、貧乏作家たちを救済しようとして、執筆者たちに稼ぐ機会をあたえてやったのではないか。
菊地 寛が「劇作家協会」、「小説家協会」を作ったのは、大正9年(1920年)、無名ではないにしても、まだ未知数の存在だった人たちは、その後、関東大震災、大不況の影響をうけたはずである。やがて、大正15年、(1926年)、「劇作家協会」、「小説家協会」が合併して「文芸家協会」が発足する。

この本の口絵は、荒木 十畝。挿絵画家は30名。そのなかに伊藤 幾久造、斉藤 五百枝、樺島 勝一の名があるのは当然だが、名取 春仙、山川 秀峰、五姓田 芳柳、神保 朋世などが描いている。これにも感慨を催した。

この本が出版されたとき、私は1歳。むろん、こんな本が出ていたことを知らない。
少し前の私なら、まったく手にすることもなかったに違いない。

この本を読んでいるうちに、いつしか戦争に向かって歩みはじめている昭和という時代の足音がかすかに聞こえてくるようだった。

571

女性が、離婚して300日以内に出産した子を、すべて「前夫」の子とする民法の規定がある。
これに対して、例外を認める法案が提出されるはこびになったが、反対が多く、見送られることになった。(’07/4/11)

衆議院議員、稲田 朋美が反対する理由は……
(離婚前に妊娠するような)行為は、法律婚の間の不貞行為は、不法である。実質的に別居しているケース等の例外を保護する場合は、裁判上の手続きでみとめればよい。
ということにある。
また、おなじく衆議院議員、西川 京子が反対する理由は……
この民法規定の見直しによって、婚姻制度が崩壊する危険性がある。
という論点である。

私は、この意見に集約されている考えかた、と同時にこういう意見を「良識」とする見解に反対する。
稲田 朋美がいう「法律婚の間の不貞行為」といういいかたには、離婚した女性への(無意識にせよ)差別がひそんでいるし、こういう発言には戦前に姦通罪を成立させた悪しき法律論、それを「善」と思い込む愚劣な観念がひそんでいる。
離婚は、法的には「婚姻関係終了」である。正式に離婚をすればいいではないか、といわれるかも知れない。しかし、離婚手続きに手間どったり、離婚までのさまざまな葛藤があったに違いないことを斟酌しない意見に過ぎない。
裁判にのぞむ当事者たちの負担もおそらく大きいだろう。

裁判の結果、300日以内に生まれた子を戸籍に入れることが認められても、その戸籍には、前夫の氏名、裁判による手続きまでがれいれいしく記載される。これこそ戦前の戸籍に「私生児」の記載があったこと以上の悪例になる。つまり、国家がその子の生涯にいまわしい「傷」を押しつけ、生涯、屈辱を強制するようなものではないか。
西川 京子が、この民法規定の見直しによって、婚姻制度が崩壊する危険性があると見ているなら、誤りもはなはだしい。よくいっても歴史、社会、性に対する無知、きわめて粗略な思い過ごしである。人倫上、婚姻制度が崩壊することはない。逆にいえば、離婚して300日以内に出産した子に例外を認める法案が提出されたぐらいで崩壊の一歩をたどるほどの制度なら、そんなものはすぐに崩壊してもいいのである。

私が、裁判員制度を手放しでよろこべないのは、この種の「良識」が裁判の審議を支配するのではないか、と危惧するからである。

570

私がホレース・マッコイをはじめて読んだのは1946年の冬だったと思う。
アメリカ文学は、私にとってはテラ・インコグニタ(未知の大地)だった。

これも私にとっては未知の作家だったが、やがてヘミングウェイという作家に出会って、『キリマンジャロの雪』を訳した。当時、私は芝居に関係しはじめていたので、俳優の訓練のためのテキストとして使った。これが、私のはじめての翻訳になった。
とにかく、手あたり次第にいろいろな作家を読みはじめていた。なにしろ、それまで読んだことのない作家ばかりだったから、毎日、新しい「発見」をしていたような気がする。むろん、こっちが知らなかっただけのことだが。

そんなことから、別の人のことを思い出した。

戦後すぐの昭和20年(1945年)から21年冬にかけて、日本の山村を訪れたアメリカ人ジャーナリストがいた。敗戦直後、日本の国内情勢が混乱をきわめていた時期で、一ジャーナリストが来日したことなど、誰の記憶にも残っていないだろう。
ただ、私としては、この俊敏なジャーナリストの眼に何が映っていたのか、知りたいと思ってきた。
この人は、東京を中心に、関東、中部を熱心に歩きまわったらしい。
栃木、那須の、ある村を訪れたとき、たまたま雪が降ってきた。淡雪だったらしく、すぐに溶けてしまった。
彼が出発するときに、宿の主人が宿帳か何かを出して、記念に署名をもとめた。
そのアメリカ人は、思いがけないことでとまどったのかも知れない。しかし、こころよく応じて、「それでは日本の歌を書きましょう」といって、二行詩らしいものを書きつけた。むろん、英語である。

The Snow Came To The Garden
But Not For Long
このアメリカ人ジャーナリストは、エドガー・スノウ。

この俳句を訳すのは、至難のわざである。しいて意訳をすれば、

淡雪の庭に降りては消えにけり
いまし降る雪のつづかぬ庭にして
降りながら庭に小雪のとどまらず

ぐらいだろうか。しかし、前の訳では Not For Long が生きていない。あとの訳では、理が勝ちすぎるだろう。
参考に、いくつか雪の句をひろって見よう。

雪降るや 小鳥がさつく竹の奥     多代
初雪や 松のしずくに残りけり     千代
草の戸や 雪ちらちらと夕けぶり    よし女
雪ふんで 山守の子の来たりけり    なみ
雪ひと日 祝いごとある出入りかな   はぎ女

どの句も気韻において、私の訳などのおよぶところではない。
もう一つ、疑問が出てくる。スノウは日本の誰かの句を思い出して書いたのだろうか。では、誰の? これがまた見当もつかない。
スノウ自身の句と考えてもいい。日本にくる前に、俳句まで眼を通していたに違いない。

スノウは日本を去った直後、半年にわたってソヴィエトに滞在して、ルポルタージュを書いた。これは「サタデイ・イヴニング・ポスト」に発表されたが、当時、敗戦国の人民が読む可能性は絶無だったはずである。まして、18歳の私が知るはずもなかった。
スノウは、このルポルタージュを書いたために、アメリカでは左翼として攻撃されたが、皮肉なことに、当時のソヴィエトは、スノウを悪質な反共主義者として入国を禁止している。

私はスノウの著作をまったく知らない。しかし、敗戦直後に日本の田舎の宿屋に泊まって、俳句を書いたスノウになぜか親しみをおぼえる。
この句には、敗戦にうちひしがれている日本人を思いやる気もちが含まれているような気がする。あるいは、ジャーナリストとして日本の運命を見ていたような気がする。

569

「雨の国の王者」さん。きみは書いてくれた。

そんなことはどうでもいい、いまからでも遅くはない。ハードボイルド・ミステリーを書け!」という類の、それでも、わたしの本心の、不遜な注文をメール送信しました。

少し前だったら、私もグラッときたかも知れない。
そろそろ何かあたらしいことをやってみようか、と思いはじめていたから。
しかし、今のところ、とてもミステリーを書く気力も、体力もない。いや、もうミステリーを書く才能がない、というべきだろう。

もう一つ、書いておくことがある。
私がホレース・マッコイをはじめて読んだのは1946年の冬だったと思う。戦後のこの時期に、アンドレ・ジッドがホレース・マッコイを読んでいた。このことを知った私は大きな「衝撃」を受けた。そればかりではなく、やがてサルトルやカミュも読んでいたことを知った。このあたりのことは『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第一章)で、ふれておいた。

きみのメールを読んで、一瞬、グラッときたことは事実である。
昔、一時の気の迷いで、長編の原稿を焼き捨てて惜しい気がした(笑)が、どこかで「川崎 隆」を登場させてみようか。そう思った。しかし、これは無理な話だ。たとえ「川崎 隆」が登場したところで、ほんのちょっとした冗談にすぎないけれども。

ふと、蕪村のことばを思い出す。

発句集はなくてもありなんかし。世に名だたる人の発句集出て、日来(にちらい)の聲誉を減ずるもの多し。況んや凡々の輩をや。

お元気で。

568

「雨の国の王者」さん

ホレース・マッコイについて、きみがメールをくれた。

先日、『彼らは廃馬を撃つ』を再読して、その訳者(常盤新平)あとがき(角川文庫版)に、「……この『彼らは廃馬を撃つ』を私に教えてくれたのは、中田耕治氏である。もう十五年も前のことだ。……」
この傑作『彼らは廃馬を撃つ』を再読して、これは、よい、と唸ったあとに、その、あとがきに、中田耕治氏の名前を見つけて、やあなんだか、ちょっと、うれしくなりました。
それは、ほんのちょっとのことなんですけれども。
(計算すると、それは、五十五年前のことなのですね。)

またしても思いがけないメールで、はるかな「過去」を思い出した。
じつは、ホレース・マッコイの存在を知ったのは、(「コージートーク」で書いたように)神保町の露天の古本屋だった。ゴザの上に積みあげてあるポケットブックをゴソゴソヒックリ返して、見つけた一冊。私の語学力でも、なんとか読めそうな気がしたからだった。
その直後に、植草 甚一さんがある雑誌で紹介なさった。私は、植草さんに先を越されたと思った。そのときから、私はホレース・マッコイの全作品を読みつづけてきた。
ホレース・マッコイは、しょせん三流作家に過ぎない。当時のベストセラー作家たち、ハロルド・ロビンス、レオン・ユリスのようなおもしろい小説が書ける作家ではなかった。そして、ドナルド・ヘンダスン・クラーク、オグデン・ステュワートのように、いつも読者にウケる作品しか書かない作家でもなかった。
しかし、彼の『彼らは廃馬を撃つ』は暗い輝きを失わない。私はそういう作家に、いつも関心をもってきたのだ。
たとえば、デューナ・バーンズ、アナイス・ニン。たとえば、B・トレヴン。

いつかぜひ翻訳しようと思っていたが、機会がないまま過ぎてしまった。やがて、常盤 新平が訳したと知って私はよろこんだ。常盤君が訳したのなら、作家にとっても幸運だったと思う。
(私が書くべきことではないが、常盤 新平の『遠いアメリカ』をお読みになれば、この頃の私のことがおわかりになるはずである。)

これもご存じのはずだが、『彼らは廃馬を撃つ』はジェーン・フォンダの主演で映画化されている。私がこの女優に関心をもちつづけてきたのも、ホレース・マッコイへの関心から派生したものだった。
(「私のアメリカン・ブルース」、「映画の小さな学校」)

まだ、ポケットブックもろくに買えない頃、サローヤン、ハメット、ヘミングウェイにつづけて、私が読みつづけた作家がホレース・マッコイなのである。
文学、人生、社会について何も知らなかった私が、ようやく自分の内部に測鉛をおろして、まったくあたらしいものを発見させてくれた作家のひとり。
(つづく)

567

1945年(昭和20年)の冬から翌21年にかけて、アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノウは日本を歩いている。敗戦直後の日本が、彼の眼にどう映っていたのか。当時の日本は、無条件降伏したあと、敗戦国として疲弊しきっていたし、政治、経済、すべての面で混乱を極めていた。国民は生きるのに必死だったので、エドガー・スノウのルポルタージュなど誰も知らなかったに違いない。
むろん、少年だった私が知るはずもなかった。

スノウは、この滞在中に、栃木県那須に立ち寄った。旅館に泊まったのだから、温泉で旅の疲れを休めたのだろう。
彼が出立するとき、宿の主人が宿帳に署名をもとめた。
スノウは、にこやかに「それでは日本の詩を書きましょう」といって、英語で二行の詩を書きとめた。

The Snow Came To The Garden
But Not For Long

直訳すれば、「雪が庭に降った/しかし、長続きはしなかった」ということになる。誰の句だろう。私は、俳句に詳しくないので、ご存知の方のご教示を仰ぎたい。
スノウが「ハイカイスト」だったはずはないが、こんな俳句に、アメリカ人らしいユーモアが感じられる。むろんスノウを「雪」にかけてある。那須の一夜はこの俊敏なジャーナリストの旅情を慰めたと見ていい。
これをスノウの俳句として訳してみたらどうなるか。「逗留も長くつづかぬ庭の雪」とするか。あるいは、ただ、「淡雪は庭をしばしに消えにけり」くらいにするか。私のようなものには、どうせ月並みな俳句しか浮かばない。

エドガー・スノウは、左翼ジャーナリストとして知られている。日本を去ったあと、ソヴィエトを訪問してルポルタージュを書いた。当時、手放しのソヴィエト礼賛としか見られなかったが、ロシアの硬直した体制を鋭くとらえていた一人。しかし、もう誰も読まないだろう。

この三月、東京で初雪が降った。観測史上、もっとも遅い初雪だったらしい。わが家の庭にも、白いものがチラついた。そこで一句。

庭の雪 たちまちにして 消えてけり