1842 (2020年4~5月の記録)

20年4月13日(月)やや晴。

左膝の痛みが残っている。やっとの思いでワープロに向かう。
私はDVDばかり見ている。なにしろ時間をもてあましているのだから。思いがけない「再発見」もある。
こんなことに気がつくのも、室生 犀星ふうにいえば――「今日も一日生きられるという素晴らしい光栄は、老いぼれでなければ捉えられない金ぴかの一日」といっていい。

1841 (2020年4~5月の記録)

 

20年4月4日。

この1~2週間に公開されていた映画を記録しておく。「パラサイト 半地下の家族」(12週目)、「犬鳴村」(8週目)、「スマホを落としただけなのに」(6週目)、「ミッドサマー」(6週目)、「仮面病棟」(4週目)、このほか4週目に入ったばかりの「一度死んでみた」、「ハーレクィンの華麗なる家族」、「弥生、3月」、「サイコパス 2」など。このほか、スーダン映画、「ようこそ、革命シネマへ」、「白い暴動」(イギリス映画)、「囚われた国家」(ロバート・ワイヤット監督/アメリカ映画)など。残念ながら、これらの映画を1本も見ていない。せっかく公開されながら、こうした映画の大多数は、誰にも見られないままオクライリになってしまう。これらの映画が再上映されるかどうか。おそらく、その可能性は低いだろう。コロナ・ウィルスが収束しても、そのときはもう誰の記憶にも残っていないだろう。

こうした状況においては、どんなにいい映画であっても、たちまち忘れられるだろう。これらの映画が日本で公開されていたことも、その映画に出ていた俳優、女優たちも、恐らく話題になることはない。だからこそ、私はせめてタイトルだけでも記録しておきたいと思う。

これらの映画の製作に当たった監督、制作スタッフ、出演者たちの無念は察するにあまりがある。
今回の中国コロナ・ウィルスのおそろしさは、「サーズ」と違って私たちの文化に回復できないほどの傷を与えることにある。

1840 (2020年4~5月の記録)

何か、短いものを読んでみよう。俳句か、川柳でもいい。
「柳多留」をさがしたが、見つからない。

仕方がない。明和の川柳でも読むか。

いや、驚いた。むずかしい。ほとんどの句がわからない。当時の世態風俗を知らないし、その句の典拠も見当がつかない。まるでナゾ解きのように、一句々々、ゆっくり読んで行く。まるで、散歩や、ジョギングのようなものだが。

一生けんめい 日本と書いて見せ 

 こんな句にぶつかると、18世紀、明和の頃に、すでに日本という国家観念が庶民に理解されていたのだろうと、感心する。「あふぎ屋へ行くので唐詩選習ひ」という句があるところを見れば、ごくふつうの庶民が中国を意識していたことはまちがいない。そういえば、「紅楼夢」はいつ頃から日本で読まれたのか。そんなことまで考える。これまたまったくの暇つぶしだが。

日本へ構ひなさるなと 貴妃はいひ     

三韓の耳に 日本の草が生え     松 山    (文化時代)

日本の蛇の目 唐までにらみつけ   梁 主    (文化時代)

日本では太夫へ給ふ 松の號     板 人    (文政時代)

東海道は日本の大廊下        木 賀    (文政時代)

 江戸の、化政時代の文化も私の想像を越えているのだが、川柳のなかにも、役者の名が出てくる。それぞれの時代を代表する海老蔵、歌右衛門、三津五郎、路考、菊五郎、宗十郎、彦三郎、田之助、半四郎、小団次たち。当時、こうした役者がぞくぞくと梨園に登場してくる。ただし、それぞれの役柄、芸風など、私には想像もつかない。
こうした名優たちの名跡の大半は、今に受け継がれている。だから、今の海老蔵、三津五郎、菊五郎たちと重ねて、それぞれの役者が、かくもありしか、と思い描く。

演劇史的には――文化・文政時代になって、現在の歌舞伎のコアというべき型、口跡がほぼ完成される。
はじめこそ芝居も猥雑なものだったに違いないが、やがて、それぞれの芸風も洗練されて、すぐれた劇作家もぞくぞくとあらわれる。

私は、歌舞伎をあまり見なくなったが、それでも、今の海老蔵の団十郎襲名にあたっては、見たこともない五代目(後の白猿)や、水野越前の改革で、江戸を追放された七代目の故事を重ねてしばし感動したものだった。

もはや誰も知らない時代の川柳を読みながら、あらぬ思いにふける。

1839 (2020年4~5月の記録)

幼い頃から映画を見ている。
むろん、内容もおぼえていない。
後年、母、宇免から聞いたところでは、エディ・カンターの喜劇を見た私は笑いころげたという。
母は、いろいろな映画を見たが、私をつれて行くときは、きまって喜劇映画ばかりだった。

幼い私は、ハロルド・ロイド、バスター・キートン、ローレル/ハーディの喜劇が好きだった。

母の知人で、瀬川さんという裕福な家庭があった。瀬川さんの子どもたちが、私の幼友だちだった。瀬川夫人の従姉妹が伊達 里子だった。「蒲田」のスター女優だったと思う。私は伊達 里子の映画も何本か見ている(はず)だが、もう思い出せない。

もうすこしあとのことだが――小学生の2年生か3年生の私がぼんやりおぼえているのは、高杉 早苗や、田中 絹代といった美女たち、さらには桑野 通子というモダン・ガールだった。

幼い私があこがれていたのは、高津 慶子という女優さんだった。

ずっと後年になって知ったのだが――高津 慶子は、17歳で、「松竹座」楽劇部に入社。1929年7月から「帝国キネマ」(帝キネ)に移った。19歳で「腕」という活動写真に主演。これが6本目。
日本でも、サイレントの活動写真からトーキーに移行しようとしていた時代で、高津 慶子はプロレタリア映画、「なにが彼女をさうさせたか」に出ている。

私が見た高津 慶子がこれもスターだった河津 清三郎と共演した活動写真に、幼い私はショックを受けた。題名もわからない。お互いに愛しあいながら、身分の違いが二人の仲を裂き、最後に旅先の旅館で心中するというストーリーだった。
幼い私に何が見えているわけでもない。しかし――幼い少年時代に、私は農村がどんなに疲弊していたかを見ていた。
幼心に、ふたりの悲劇がなんとなく理解できたのではないか。

小学校の6年生の頃、時代劇の森 静子が好きだった。

はじめてエノケン(榎本 健一)の「孫悟空」に出た中村 メイ子も見ている。

その頃から佐久間 妙子、琴 糸路といった女優さんが好きになった。大都映画という、マイナーな映画会社のスターだった。このことは――ひとりで活動写真館にもぐり込むようになっていたことを意味する。
いつの間にか高津 慶子のことも忘れてしまった。

かくばかり さびしきことを思ひ居し
我の一世(ひとよ)は、過ぎ行かむとす  釈 迢空

老いさらばえて、もう誰も知らない古い古い映画のスターたちのことを思い出している。
われながら、愚かしいこととは承知しているのだが。

1838 (2020年4~5月の記録)

私のように平凡な作家でも、幼年期から少年期にかけて、いくつか忘れられない情景がある。

5歳か6歳の頃。

ある日、私は父につれられて活動写真を見に行った。何を見たのかおぼえていない。
(後年、私が見た映画は、「乃木将軍と辻占売り」というタイトルで、山本 嘉一が「乃木稀典」だったのではないか、と思った。)

その活動写真の休憩時間に、シャツにツナギの作業服を着た労働者が出てきて、スクリーンの前で激烈な演説をはじめた。若い俳優で嵯峨 善兵という。

この俳優が何をしゃべったのか、幼い私にはわからなかったが、このアジ演説に館内の観客たちが立ち上がってさわぎはじめた。

当時の映画館には、銭湯の番台のような臨検席という囲いがあって、制服の巡査がその席からスクリーンを見ていることがあった。このときも巡査が立ち会っていた。
その巡査が立ちあがって、観衆のさわぎを静めようとした。ところが、観客の怒号がつづき、巡査に詰め寄って、館内で殴りあいのケンカがはじまった。

何が起こったのかわからないが、私は、殴りあいの乱闘をする大人たちに恐怖をおぼえた。父はもみあう人たちに巻き込まれまいとしながら、私を守ろうとして、やっとのことで館内から脱出した。
このできごとは幼い記憶に刻まれた。

私の内面には群衆に対する恐怖がある。

1837(2020年4~5月の記録)

外出自粛。
読みたい本があるのだが、本屋も休業。新刊の本も買えない。仕方がないので、わずかな蔵書をかたっぱしから読み直す。なにしろ暇なので、新聞に載っている俳句、川柳をじっくり読む。

マンションのエレベーターに乗りたれば顔なき声なきマスクとマスク 瀬古沢和子

エスカレーター マスク外さず目で会釈    鎌田 武

挨拶は マスクのままで春彼岸        家泉 勝彦

コスモスの刺繍ほどこし花束のようなマスクを嫁から貰う  須山 佳代子

しかし、日本人が折りにふれて、俳句や短歌を詠むことのありがたさは、こうした俳句や短歌にも見られる。

新聞の俳句、川柳を読み終わって、古雑誌をさがした。

釋 迢空の短歌。(1940年)。

老いぬれば 心あわただしと言ふ語(こと)の
こころ深きに、我はなげきぬ

かくばかり さびしきことを思ひ居し
我の一世(ひとよ)は、過ぎ行かむとす

1940年作。やはり、釋 迢空はすごいなあ。

とりとめもないことを思い出した。
釋 迢空先生には、一度だけお目にかかったことがある。紹介してくれたのは、「三田文学」の小泉 譲だった。私は畏れ多くて何もしゃべれなかった。
1947年の冬だったと思う。他人にとっては、とるに足りない些細なことでも、本人にとっては忘れられない光景がある。

1836(2020年4~5月の記録)

ブログに記録しておく。

20年4月7日、私がブログを再開してすぐに、安倍首相が緊急事態宣言を表明した。
政府は、5月6日までの期限内で、感染症の収束をめざしている。(これはさらに延期された。 後記)このエピデミックは、まさに国難と見ていい。

この宣言の対象は、東京都、神奈川、埼玉、千葉、大阪府、兵庫、福岡の都府県。期間は5月6日までの1カ月程度。
(その後、この規模は、全府県に拡大された。)コロナ・ウイルスの脅威は、ついに、日本にも及ぶことになった。

東京では、6日、大学、映画館、ナイトクラプなども休業した。

わが家の前の道路も、1人も通行人がいない。車も通らない。異常事態に直面したとき、私たちが(例外はあるにしても)、ほとんど平静に「緊急事態宣言」を受け入れようとする。その習性の、国民性の従順さ、規律正しさがよくあらわれている。

私が若かったら、関東大震災に夢野 久作が東京を歩きまわって、ルポルタージュを書いたように、こういう時代の姿を記録しておくのだが。
この4月、深刻なコロナ・ウイルス感染症の収束はまったく見られない。制御できないまま、ウイルスの感染はつづいている。つい2週間前には、感染者数も低かったロシアも、いまやパンデミックが絶大な衝撃をもたらしている。

私は、現在の感染拡大の収束よりも、むしろその後のもっとおそろしい事態を危惧している。それは、政府が緊急経済対策で、現金10万円の一律給付を発表したが、これは焼け石に水にすぎない。
きたるべき大不況は、この程度の対策では経済対策として成功しないだろうと思う。

むしろ、私たちの前途には、いやおうなく大失業時代が待ちうけていると覚悟したほうがいい。

リーマン・ショックのとき実施された一律給付をおぼえている。与党の党首の提言で、急遽、現金の一律給付が実行された。当時の首相はこの提言を聞いて、ちょっと驚いたような表情を見せたが、
「いいんじゃないですか。この事態で、できることは何でもやってみる、ということで……」
と反応した。木で鼻をくくったような反応ではなかったが、与党の党首の提案としてはほとんど意味がない、と思っていたらしい。私は、この瞬間、リーマン・ショックが、もっと深刻な打撃なのだろうと直観した。

このときの現金給付は、焼け石に水でさえなかった。実効性のない思いつきで、ほとんど無意味な経済対策で終わった。私はテレビでこのシーン(首相の反応)を見たが、これが平成の「失われた10年」の端緒になった。
この緊急経済対策の失敗を見ているだけに、今回の48・4兆円程度の給付措置が、今回のコロナ・ウイルスに対する経済的な支援として成功するとは思えない。

私は、確実に大不況がくると思った。

(このブログは、4月15日に書いたのだが、発信しなかった。
もう少し、事態の推移を見たかったので。)

1835

 

(つづき)

せっかくの機会ですから、もう少し書いておきます。

「ルイ・ジュヴェ」を書きあげたあと、私はもっと書きたいことがあるのに、これで終わってしまうのは残念な気がしました。しかし、いちおう書きあげたのだから、これでよしとしなければならない。これだけでも長すぎる作品なので、当時、不況のさなか出版できる可能性はなかったのでした。それまで、どんな本を書いても出版できないことはなかったのですが、私の仕事を担当してくれていた編集者たちもつぎつぎに他界したため、「ルイ・ジュヴェ」を出してくれるところはなかったのです。

やっと出せることになってからも屈辱的なことがつづきました。私は、とにかく出せればいいと思っていました。たとえ少数であっても、この本が出るのを心待ちにしている読者がいる。そう思うことで耐えてきたのでした。
「あとがき」の冒頭の一行、

ようやく評伝 「ルイ・ジュヴェとその時代」が出版されることになった。

には、私の感慨というより、やみがたい無念の思いがこめられているのです。

つまらないことを書きました。話題を変えましょう。

ジュヴェがアテネで倒れたとき、ワンダ・ケリアン、モニック・メリナンたちが一緒でした。そのひとりに、フランソワーズ・ドルレアックがいました。後年、映画スターになった美少女です。当時、17歳。私は、このフランソワーズの名をあげただけで、あとは何も説明しませんでした。実は、彼女は「権力と栄光」でジュヴェが抜擢した女優でしたが、ジュヴェが亡くなったため、「権力と栄光」に出演することがなかったのです。このフランソワーズの妹は、当時、7歳。

妹の名は、カトリーヌ・ドヌーヴ。

フランソワーズ・ドルレアックと、カトリーヌ・ドヌーヴは、「ロシュフォールの恋人たち」(1967年)で共演しました。双子の姉妹の役で、「世界でいちばん美しい姉妹」と呼ばれました。いたましいことですが、映画の完成直後にフランソワーズは交通事故で亡くなっています。

つい昨年(2019年)「カトリーヌ・ドヌーヴの言葉」(大和書房)という美しい本を書いた作家、山口 路子さんに会う機会がありました。カトリーヌのことから、フランソワーズが話題になりました。私が、
「ジュヴェがアトリエで倒れた日、最後まで付き添ったひとりが誰だか知ってる?」
「え?」山口 路子さんは驚いたようでした。
「フランソワーズ・ドルレアックだよ」

私が「ルイ・ジュヴェ」で、書かなかったことはたくさんあります。たとえば、晩年のジュヴェが来日する可能性が大きかったこと。ジュヴェがもう少し生きていたら、おそらく来日していたでしょう。

私は、当時、親友だった椎野 英之と雑談していたとき、ジュヴェがアメリカで巡業することを話題にしました。当時、日本は占領下にありましたが、講和条約がサンフランシスコで調印されることがきまっていました。
ジュヴェが、アメリカにくるのなら日本に巡業することも夢ではない。
ジュヴェを日本に呼ぶことはできないだろうか、私たちは小林 一三あたりに話をもっていけば、不可能ではないなどと話しあって、舞いあがりました。

椎野は、この話を「東宝」の森 岩雄にもってゆくことにしました。私は劇作家の内村 直也さん、当時「文学座」総務で、「文化放送」の演芸部長になっていた原 千代海さんに相談しました。おふたりは、かならずしも不可能ではないと考えてくれたのでした。

こうして、私と椎野 英之のたあいのない空想はかなり急速に具体化してゆきました。

もう誰も知らないことですが、それほど具体的な交渉があったのです。残念なことに、この交渉の直後にジュヴェは亡くなりましたが。

ジュヴェ訪日のことに関わった少数の人たち、内村 直也、「東宝」の重役だった森岩雄、NHKのプロデューサーだった堀江 史朗、「東宝」にいた椎野 英之(のちにプロデューサー)などもすでに亡くなって、事実を伝える証言が得られなかったからです。
はるか後年、ある人を介して森 岩雄さんにおめにかかりたいとおねがいしましたが、僧籍に入られていた森さんは、過去のことは語らないとして拒否されました。

じつは、ジュヴェに連絡できるルートは、ほかにもありました。ジュヴェと親しい日本女性がいたのです。この女性のことも「ルイ・ジュヴェ」では書きませんでした。
残念ながら。

ジュヴェ年譜、1941年の「世界のおもな事項」の末尾に、
「画家ロックウェル、クリスマスに『イエス生誕を見守る人々』を描く」という一行があります。私の「いたずら」ですが、このブログで、私がなぜ、こんな一行を書いておいたのか、その理由は、このブログに書いておきましたが。

コロナ・ウイルスの恐怖がつづいているさなか、あなたのような熱心な読者がいると知って、あらためて自分が作家として「ルイ・ジュヴェ」を書いておいたことを誇りに思っております。

ありがとう。

 

1834

思いがけないメールが届いた。(2020.4.15.)

そのまま、ブログに載せるのは失礼だが、許していただきたい。
中田 耕治様

尊敬する方が神のように憧れると仰ったジュヴェのことを
知りたくて、ご著書を出版後直ぐに手にいれました。
それは、時代の空気の中の、役者・演出家の息遣いまで書き
込んであるような本で、圧倒されましたが、それだけではなく、
その人の人生に伴走しているような錯覚をおぼえるものでした。
遅読で、毎日少しずつ読み、読むことが自分の一日の一部の
特別な時間となり、途中から、いつか終わるこの日々が惜しく、
辛かった思いが鮮明に残っております。
けれども、エピローグ、あとがきまで読み終わり、「ありがとう、
ジュヴェ」という言葉に辿り着いた時、止めどなく涙が流れ、
生きなければ、生き果たさなければ、と、大きな励ましを戴き
ました。自分の人生の様々な局面で、再び本を開き、紆余曲折、
とにかくは死なずになんとか生きて来られました。
新型コロナウイルス問題で、自宅待機の日々、久しぶりに
手に取り、少しずつ読みながら、わくわくしております。
ただの一読者で、甚だ厚かましいと存じながら、中田様のブログ
を発見して、今、書かなければ、と思い着くと止められなくな
りました。
ありがとうございました、中田様。この本を書き上げて下さ
って、本当にありがとうございました。
どうぞお身体に気を付けて、書き続けてくださいますよう。
ありがとうございました。
高野さんという方のメールだった。

まことに失礼ながら、このメールを引用させていただいた。(どうも宮 林太郎さんの「日記」のように、知人の手紙を勝手に引用するようで忸怩たる思いがあるのだが。)

高野さん。
あなたからのメール、うれしく拝読しました。お礼を申しあげます。

評伝、「ルイ・ジュヴェ」をお読みくださっている読者がいる。しかも、発表して20年になるのに、私のブログ再開を喜んでくれている。まず、このことに驚き、かつ感動しています。

あの評伝は、あと書きでふれましたように、20世紀の終わりに、つい昨日の世界を見つめ直すつもりで書いた作品です。たいして評判にもならず忘れられた作品ですが、こうして出版後20年もたっていながら、あらためて読み返してくださった読者がいる、と知ってうれしくなりました。

1万人の読者が1度読んだだけで、その後は2度と読まれない本を書くよりも、少数の読者が時をへだてて読み返してくれる本を書く。作家としてこれほどうれしいことはありません。まして、あなたのように、毎日少しずつ読み、読むことが自分の一日の一部の特別な時間となり、途中から、いつか終わるこの日々が惜しく、辛かったという読者が、私のブログの再開に励ましのメールを送ってくださった。作家として、これほどありがたいことはありません。

私の「ルイ・ジュヴェ」は、複雑な記述が多く、とりあげられたテーマも多様で、しかも、今ではもう誰もおぼえていない俳優、女優が次から次に出てくるのですから、さぞ読みにくかったとおもいますが、あなたは最後のあとがきまで読み終わり、涙したと書かれています。私のほうこそ、こういう読者がいると知って感動しました。

心からお礼を申し上げます。

(つづく)

1833

ここで、私の「現在」に戻るのだが――

もう誰もおぼえていない映画だが、「ジュリー&ジュリア」(ノーラ・エフロン監督、2009年)のなかで、ヒロイン、「ジュリー」(エイミー・アダムズ)は、毎日、ブログを書いている。
「ジュリー」は――半世紀も昔に、パリでフランス料理を勉強して、アメリカ人のために、524ものフランス料理のレシピを書いて、ベストセラーを出した「ジュリア・チャイルド」(メリル・ストリープ)にあこがれて、1年間かけて、そのレシピを作ってみる。そのプロセスを、おもしろくブログに書き続けるのだが、途中で、ブログを書くことは――「虚無の空間に書き送っている感じ」に陥る。そんな娘の将来を心配した母親に、

あんたが、そんなブログを書いても、書かなくても、誰も気にしないよ。

とあびせられる。

いろいろなセリフを思い出す。
「大いなる眠り」のハンフリー・ボガート。

Another hour, another bottle――another dame?

むろん「フィリップ・マーロー」のセリフ。

老齢に達した作家が、何かの事象をとらえて、自分の理解なり洞察を日記に書きとめる。そこには、宮さんのように老年の叡智が輝くかも知れない。ただし、私のブログにそんな叡智が輝くはずはない。

ただ、これから先の「中田耕治 ドットコム」では、できるだけいろいろなテーマをとりあげてみたいと思う。できれば、宮さんが生きていたら相好をくずしてよろこんでくれるようなテーマを書きとめておきたい。
まさか、宮さんのような天衣無縫な「日記」などは書けないけれど。
(再開 15)

1832

宮さんのことを書きながら、私は戦前のフランス映画、「望郷」の「ペペ」と、パリジェンヌの「ギャビー」が、語りあうシーンを思い出した。
「ペペ」は、地下鉄、シャンゼリゼ、オペラ、北駅(ガール・デュ・ノール)。カプシーヌ、モンマルトル。ロシュアール・フォンテーヌ、ブランシュ広場とあげてゆく。
あのシーンのように、私たちは、いつも、パリの街の美しさ、パリの女の美しさを語りあった。

宮さんは、映画、「失われた地平線」を見たことを思い出して、「ぼくは、遙かなる昆崙山脈中のラマ教の寺院・シャングリラーに行きたい」と書く人でもあった。(「日記」第7巻)私は、そういう宮さんの無邪気なところが好きだった。

お互いにヘミングウェイや、パリのこと以外はほとんど話題にしなかったが、私を相手にした宮さんはシャンゼリゼの美しさ、トティ・ダルモンテ、マリアンヌ・フェイスフル、ハリウッド女優、ジュリア・ロバーツの美しさを語って倦むことがなかった。
宮さんの天衣無縫な話題と、心のやさしさを思い出す。

(再開 14)

1831

宮さんの「日記」のいいところは、老年になって、それまではついぞ覚えたことのない老年の不機嫌や、ひがみも語りつづけたこと。
それでいて、頑迷な、気むずかしい人間になり果てた老人といった感じがない。

宮さんの天衣無縫ぶりは、「日記」のかなりの部分が、自分の好きな作家のこと、各地の友人たち(そのほとんどが、各地の同人雑誌作家たちだった)の手紙の全文の引用、そして、自分の好きな作家(特にヘミングウェイ)の文章、その伝記からの引用にあらわれている。
引用の多さは、常軌を逸していた。
この引用はまことに臆面もないもので、うっかり手紙を書こうものなら、たちまち宮さんの「日記」に転載されてしまう。日頃、よほど親しい友人にさえ手紙を書かない人間なので、宮さんを訪問することはあっても、手紙は書かなかった。

しかし、「無縫庵日記」を読むのはけっこう楽しかった。

宮さんの引用は、よくいえば、さながらアテナイオスの随想録、「食卓の賢人たち」を読む様な趣きがあった。この随想録には、つぎからつぎにいろいろな人の意見や詩、エピグランマが出てくる。いたるところに、同人作家仲間の手紙や、宮さんの作品に対する諸家の批評が並んで出てくる。将来、宮さんの「日記」を読む人は、誰も知らない同人雑誌の作家たちのあれこれを教えられることになるだろう。

私もまた宮さんの「日記」に登場することになったが――じつは、宮さんの最晩年の中編小説、「幽霊たちの舞踏会」に、作中人物としての「中田耕治」としても登場している。
この中編小説には――コクトオ、ピカソなどいろいろな人物が登場するのだが、マリリン・モンローも出てくる。この登場人物はみんなが「幽霊」で、この「幽霊たちの舞踏会」に、主人公(宮さん)が、若い友人の作家、「中田耕治」を誘って出席するという話だった。
この小説の「中田耕治」は、まことに頭のヨワい作家で、「マリリン・モンロー」に会えるというだけで雀躍して同行する。
私自身、頭のヨワい作家なので、どう描かれても仕方がないのだが、宮さんの「いたずら」はどうも感心しなかった。せめて辛辣なパロディとして書いてあればおもしろくなったと思われるのだが、「マリリン・モンロー」も、コクトオ、ピカソも、まるで生彩がなかった。

私たちはお互いにヘミングウェイや、パリのこと以外にほとんど話題にしなかったが、宮さんは私の訪問をよろこんでくれたと思う。
宮さんはパリの街の美しさ、パリの女の美しさを語って、倦むことがなかった。
(再開 13)

1830

こうして、私も宮さんの「日記」に登場することになったが――ひとまわりも年下の私が宮さんに親しくしていただいたのは、宮さんの敬愛する芸術家たちに私もまた、敬意と親しみをもっていたからだった。

ここで、宮さんのあげている芸術家たちを思い出してみよう。

トーマス・マン、ヴァルター・ベンヤミンについては、残念ながら、私はそれほどよく知らない。アナイス・ニンは当然よく知っている。
ジェイムス・ジョイス、T・S・エリオット、ガートルード・スタイン。
「ユリシーズ」は、私にはむずかしい。ガートルード・スタイン。いずれもむずかしい作家だが、私もヘミングウェイに関連していちおう読んできた。
エズラ・パウンド、リルケ、ナボコフ、カフカ。このあたりも、なんとかわかるつもりでいる。
モーム。この作家は、ほとんど全作品を読んだ。おなじように、スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、これも全部読んだ。シルヴィア・ビーチは、パリに行ったとき、何度も通った。今でもそのとき買えなかった本のことを思い出す。ピカソ、モジリアーニについては、何度も書いている。シャガール、イサドラ・ダンカン、ストラヴィンスキーたちについては書く機会がなかった。
それでも、宮さんと語りあうには、いちおうじゅうぶんな知識をもっていたと思っている。

宮さんも、私と語りあうことで、好きな話題がたくさん出てきたので、日記にせっせと書きつづけたのだろう。
(再開 12)

1829

宮 林太郎さんの「日記」には、いろいろな知人たちのことが出てくる。
ある時期の私自身も、宮さんの「日記」に頻出する。他の人に迷惑がかかるといけないので、私(中田 耕治)にかかわりのある部分だけを引用する。

               1995年9月12日
「ジャン・コクトー展」見学の会は、すばらしい会になった。ぼくは嬉しい。中田さんが彼の恋人を十数人引き連れて出席していただいたのには、まったくもって参った。みんな美しい人たちばかり。それで会はもっと盛りあがった。ぼくは惨めなものになったらどうしようかと夜も眠れない始末。でも、まずよかった。
「全作家」の連中も熱心に会場を回っていた。ジャン・コクトーは、現代の我々にとっては失われてしまった時代のルネサンス運動ともいうべきものではないだろうか。モダニズムという考えは一九一〇年あたりからの現象であるが、現代の日本にはまだ均整がのさばっている。それはいろいろな作家たちの書いたものを読めばわかる。思考がまるで古いのだ。それに本物のモダニズムがどんなものかということもわかっていない。それは叡智とエスプリの問題なのだ。
だが、それにも関わらず、われわれはそのあと生ビールを飲んでみんなで楽しく心配していた会が良い午後になったのはぼくにとってはほんとうによかった。ぼくは隣のマルゼンの洋書店でブリジット・バルドーの本を一万円で買って帰った。輸入ものにしては値段が高い、がこれは素晴らしい。骸骨のような肉体美というと彼女に失礼だが、彼女の野性的な美しさに惹かれるわけだ。カメラで十枚ぐらい複写した。それをマリリン・モンロー一辺倒の中田さんに送ろうと思っている。バルドーの魅力はマリリンとはちがう。そこを中田さんに認めさせるためである。でも、だめかな? ……中田さんとも久しぶりで会えてよかつた。
それから会場で中田さんからトティ・ダル・モンテ(Toti dal Monte)のCD盤をいただいた。これは有難い贈物です。とたんに嬉しくなった。
まだ聴いていないが、落着いてから彼女の美声を聴くことにしよう。

 

その3日後(9月15日)の「日記」。

それにしても、「ジャン・コクトー展」へ中田さんが沢山のキレイナ女の方をお連れになってご出席いただいたことは、ぼくにとっては大変嬉しいことでした。
みなさん知的な目をしておりました。ぼくは知的な目をもった聡明な女が好きです。(後略)

この集まりに、私は「沢山のキレイナ女の方」、当時、「バベル」の生徒たちをつれて行った。宮さんは、驚いたにちがいない。
さらに、9月17日には、

中田さんから「コクトー展」で頂いた「トティ・ダル・モンテ」のCDを聴く。すばらしい声だ。1926―9年に録音されたものだが、なかなか録音状態がよくて、ダル・モンテの声が美しい。聴き惚れて、今、ぼやぁとしている。
こんなレコードをいただいて中田さんに感謝しております。

宮さんが外出もできないご高齢と知って、あまり社交的でない私は宮さんを訪問するようになった。私たちはヘミングウェイや、宮さんが愛していたパリのこと以外、ほとんど話題にしなかったが、私の訪問をいつもよろこんでくれたと思う。

(再開 11)

1828

もう少し、宮さんの「日記」を引用してみよう。

 1995年5月3日。

六月号の女性雑誌「Marie claire」というのを買ってきた。「異邦人のパリガイド」という特集号で、「エトランジェが発見したパリの魅力」というのが副題である。それは二十世紀初頭の一九一〇年代にかけてパリを彷徨していた芸術家たち――アナイス・ニン、トーマス・マン、ヴァルター・ベンヤミンやジェイムス・ジョイス、T・S・エリオット、ガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、リルケ、ナボコフ、カフカ、モーム、スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、シルヴィア・ビーチ、ピカソ、モジリアーニ、シャガール、イサドラ・ダンカン、ストラヴィンスキーたちで、いわゆるパリのボヘミアンの群れと、パリのアメリカ人たちの群れであった。
中でもヘミングウェイ、ジェイムス・ジョイス、ガートルード・スタイン、ヴァルター・ベンヤミンについては、各々そのパリとの結びつきが詳しく書かれていて興味深く読んだ。

若い頃の私はヘミングウェイを訳したり、そのヘミングウェイに私淑して回想を書いた編集者の本などを訳したことがある。宮さんもヘミングウェイに私淑していたので、そんな私の仕事に関心を寄せてくれたのだった。

さて、宮さんはガートルード・スタインについてふれながら、ガートルードが死ぬまでパリに暮らしていたのに、「カフェ」に近づいていない理由を考える。

アメリカのニューヨークでは「カフェ」を探しても見つからない。それは「何もしないでカフェに長い間坐っていることは、一種の「悪徳」と考えられているからであり、カフェは、怠惰の象徴であり、非生産性を助長する……」というのである。なるほど、そういう考え方もあるのかなあ、と反省してみた。

東京でもカフェは発達しなかった、と宮さんはいう。

「カフェ文化」が起こらないのは、真のボヘミアン精神が成長しないか、育たないか、存在しないかの違いである。つまり、パリの街の魅力のような自由なボヘミアニズムがないからである。

そして、東京ではどこもかしこも落ちつく場所がない、と宮さんは嘆いている。

東京で「カフェ文化」が起こらないのは、パリの街の魅力のような自由なボヘミアニズムがないから、というのは、失礼ながら、いささか単純ないいかたで、思わず笑ってしまった。これが宮さんの「天衣無縫」ぶりなのである。

(再開 10)

1827

宮 林太郎さんのことを思い出す。

本名、四宮 学。1911年(明治44年)生まれ。本業は、医家で、一時は画廊も経営していた。同人雑誌作家の雄として知られていたが、作家としての仕事はほとんど知られていない。残念ながら作家として有名だったわけではない。
著作には「遙なるパリ」、「パリ詩集」、「タヒチ幻想曲」、「幽霊たちの晩餐会」など。
晩年は「無縫庵日記」という日記を書きつづけていた。
老年になってもはや創造力も枯渇した作家が、同時代のすぐれた作家たちの言葉をひたすら引用して、「日記」に書きとめておく。これも、それなりにわかる。現在の私は、宮さんとおなじ老齢に達しているのだが――今にしてようやくこの老作家の孤独な心情を理解できるような気がする。

自分の老醜ぶりをさらけ出しても、書きたいことは書いておく。作家の執念のようなものが宮さんの「日記」にみなぎっている。私は――やたらに引用ばかり多い「日記」を書きつづけた老作家をいささかも軽蔑しない。そんなことを考えるのは――不遜ではないか。

宮さんの「無縫庵日記」には、いちじるしい特徴がある。宮さんがこの「日記」を書きつづけていた時期、さまざまに重大な事件(例えば、阪神大震災、 オウムの地下鉄サリン事件)が起きていた。
宮さんは、そうした事件に対して忌憚なく感想を述べたり、そんな時期に読んださまざまな本の感想、とくに宮さんの敬愛するヘミングウェイをめぐって、いかにも宮さん流の感想、批評などを書きつづけていた。いちじるしい特徴としては、たくさんの同人雑誌作家仲間からの手紙が引用され、それぞれに対する宮さんの返事などが、それこそ天衣無縫に並べられている。

当然ながら、宮さんの「タンドル・コネッサンス」(やさしいお相手)の「回想」や、医師として観察した女性の性徴についての蘊蓄も語られている。ただし、つぎのようなアポロジイが添えられているけれど。

それにしても、「女に関するあからさまな真実を語るのは難しい。棺桶に片足を突っこんでからにしよう。それから、話してしまったら、大急ぎでもう一本の足も突っこんで、蓋をしてもらうつもりだ」と、ロシアの文豪トルストイが言っている。
とにかく、女について真実を書こうとすることは難しい。真理はいつも、(女ばかりではなく、男の欲情の側にもあるが、それを書こうとすることは)トルストイが言ったように、棺桶へ片足を突っこんだときにのみ書くべきであろう。あまり露骨に真実を書くと君は闇討ちに遭う危険がある。人間の世界では恐るべき無知な物語が山ほどある。人は本当のことを言うことを避けようとするし、「どうでもええや、おまへんか」と言う人間もいる。ぼくはいつでもそう思う。自分の考えを喋ってはならん。そう思いながら喋ってしまうのがぼくの癖であるが、紙とベンとワープロという悪魔がいるので仕方がない。

宮さんはそのときその時に「考えたこと」を遠慮なく、楽しそうに「無縫庵日記」に書きとめている。

(再開・9)

1826

私のブログが、レトロスペクティヴなものになるのはやむを得ない。

ある時期、私が親しくしていただいた先輩を思い出す。そのひとりが宮 林太郎さんだった。むろん、私の勝手な連想で、宮さんには、何の関係もないのだが。

こんなことばを聞いたことがある。

「どうして、お宅の息子さんは発明なもんだ。下駄屋の息子さんには惜しいものさね」
「なあに、あいつは変わり種でさあ。こまっしゃくれたことばかりいいやがって、から
役には立ちませんや」

落語に出てくるセリフのようだが、「発明」という言葉に、別の使われかたがあると知
ったのだった。英語でいう Sagacity の意味だが、辞書には、「汝が発明らし
き貌して」(「武家義理物語」)や、「女郎芸者に発明なる者はあれども」(「梅児誉美
」)といった例が出ている。私の少年時代、こんな言葉が日常的に使われていた。

「から」は、からきしの略。「からきし何も知りやせん」という例が「膝栗毛」にある。

「この界隈じゃ、おめえの考えるような、シラ几帳面なことはありやしねえ」

この「シラ」はよくわからないが、かるい推測にいう。

セクハラで追求されて、シラを切る。あの「シラ」とは別物。

(再開・8)

1825

コロナ・ウイルスの感染拡大で、まだ緊急事態の宣告にいたっていない。(編注:この記載のあと間もなく緊急事態宣言が発令された)
こういう時期にブログを再開したのはよかったかどうか。

これまで勝手に何かのテーマをとりあげては何か書いてきたのだが、この1年、どういうものかブログを書く気力がなくなって、ただぼんやりと過ごしてきた。

そんなとき、親しくして頂いた先輩たち、あるいは、私と同時代の作家、詩人たちのおもかげが、ふと頭をかすめる。その人たちはすでに幽明世界を分かっている。

たとえば、澁澤 龍彦。

個人的に澁澤さんと親しかったわけではない。

昨年、礒崎 純一という人の「龍彦親王航海記 澁澤 龍彦伝」(白水社)が出た。著者は、晩年の澁澤 龍彦の担当編集者。このタイトルは、澁澤さんの最後の作品、「高丘親王航海記」にちなんだもの。
500ページの大冊で、澁澤 龍彦に関して最高の評伝といってよい。

この本の中に、私の名も出てくる。むろん、名前だけだが。
私は、澁澤さんが編集にあたった「血と薔薇」の執筆者のひとりだった。

それまでの澁澤の交友関係からみてめずらしい部類に入るのは、植草 甚一、
中田 耕治、堀口 大学、杉浦 民平、高橋 鐡、川村 二郎、倉橋 由美子、
野坂 昭如、武智 鉄二といったところか。特に、中田 耕治と植草 甚一を執筆
者に選んだことを、澁澤は得意に思っていたらしい。前衛歌人の塚本 邦雄が
小説に手を染めたりも、「血と薔薇」での澁澤の執筆の依頼がきっかけだった。
「龍彦親王航海記 澁澤 龍彦伝」 P.277

これだけの記述から、「血と薔薇」の編集会議のようすや、デューマの「ルクレツィア・ボルジア」上演(村松 英子が主演した)後、赤坂の旗亭で、めずらしく澁澤さんと、親友の松山 俊太郎がはげしい論争をくりひろげたことがよみがえる。
このとき、龍子夫人が同席したが、私はその後、作家になった若い女性を同伴していたのだった。観劇後、酔余に澁澤さんと松山さんがはげしい文学論争をはじめるなど想像もしなかった。

ただし、そのあとは、澁澤さんが戦時中の歌を謡いはじめ、松山さんも、私も合唱することになって、和気あいあいとした酒席になった。

そんなことが、とりとめもなく私の心によみがえってくる。

(再開 7)

1824

2020年、私は友人たちに手紙さえも書かなくなっていた。何かを書こうという気力がなくなったことは事実だが、それと同時に、記憶力がひどく衰えたような気がする。(あるいは、それが原因かも?)
よく知っているはずの人名が出てこない。

知っている漢字が書けない。

3月11日。劇作家、別役 実(82歳)、マックス・フォン・シドー(90歳)、「宝塚」の真帆 志ぶき(87歳)の訃を聞いた。別役 実は、吉沢(正英)君が心服していた劇作家だった。私は「マッチ売りの少女」、「赤い鳥の居る風景」ぐらいしか知らない。マックス・フォン・シドーは、だいたい見ている。すぐれた俳優の一人。真帆 志ぶきは見たことはあるのだが、もう40年も前のことで、ほとんど印象が薄れている。

3月、妻の3周忌をすませたが、4月、思いがけない訃報を知った。

深田 甫氏 85歳(ふかだ はじめ)=慶応大名誉教授)3月26日、心不全
で死去。告別式は近親者で行った。喪主は長男、独(ひとり)氏。
専門はドイツ文学。「ホフマン全集」(全9巻11冊)の翻訳を手がけた。著
書に「詩集・沼での仮象(かしょう)」など。

短い記事だったが、驚きは大きかった。深田 甫が亡くなったのか。悲しみよりも、混乱が心に吹き上げてきた。同時に、映子さんのことが重なりあっていた。
深田君は英語も堪能で、グレアム・グリーンの「メキシコ紀行」の翻訳を依頼したのは私だった。当時の私は、小さな劇団をひきいてきわめて多忙だったが、深田君は慶応大の助教授としてドイツに派遣されたため、この本の校正を見たのも、解説を書いたのも私だった。その間、私は深田 映子さんと親しくなった。
その後、私は翻訳から少しづつ離れて、イタリアのルネサンスに目を向けはじめたが、おなじ時期に「翻訳家養成センター」という小さな教室で翻訳家志望の生徒たちを指導するようになった。
この教室はやがて「バベル」と改称して、学校としての体裁をととのえてゆく。
その「バベル」で、深田君はドイツ語のクラスを担当していた。
この時期、やはり友人だった常盤 新平、翻訳家の小鷹 信光も、「バベル」の講師だった。一時期、松山 俊太郎も、私の紹介で「バベル」の講師に招いたのだが、その頃の「バベル」は、いちばん輝いていたかも知れない。

ほんの一時期だが、深田君は美髯をたくわえていた。まるでトルストイじゃないか、とからかってやったことがある。
やがて、深田 甫とも疎遠になった。「バベル」での出講日は別の曜日だったから、お互いに会うこともなくなっていた。
最後に深田 甫に会ったのは、もう20数年も昔のことになる。

2020年、私はまた一人友人を失った。

(再開 6)

1823

何かを見ればいつも何かを思い出す。
そのできごと、人々とともに私自身に刻まれた歳月を思い起こすのは、それだけ私が老いたということでもある。しごく平凡な感慨にすぎないのだが、折りうし心にうかぶよしなしごとを書き留めてみよう。

その私は、毎日、ガクッガクッと人生の階段を下りるような感じで老いてゆく。老いはじわりじわりとやってくるのではない。毎日、かなりの速度で、体力、気力を失ってゆく。
安東 つとむ追悼も書けなくなっていた。おのれの不様が情けなかった。

直接は知らないにしても、自分が関心をもっていた芸術家や、俳優、女優たちの死さえも心に響く。

ダニエル・ダリューが、100歳で亡くなった。私は、DVDで「輪舞」や「うたかたの恋」を見た。タリューほどの大女優が亡くなったのだから、誰かが追悼するだろうと思ったが、私の知るかぎりでは、ダリュー追悼の記事も出なかった。

おなじように、昨年80歳で亡くなったマリー・ラフォレを偲んで、「太陽がいっぱい」を見た。

2月、カーク・ダグラスが亡くなった。103歳。「チャンピオン」を見たかったが、DVDをもっていないので、西部劇を見た。さらに、この3月、ジェームズ・リプトンの訃報。2日、ニューヨークで亡くなったという。享年、93歳。温厚な人物だったが、私より1歳上とは知らなかった。
BSで、リプトンのインタヴューを見てきたのだが、ジェーン・フォンダ、ジュリエット・ビノシュのインタヴューなどは今でも鮮明におぼえている。
(再開 5)