608

 最近は、「お笑いブーム」だそうである。
 そういえば、若手の喜劇人がぞくぞくと登場して人気を集めている。ほとんどが、吉本系の芸人で、テレビに出るようになって人気が出て、テレビのバラエティで活躍している。
 若手の、素質のいい落語家も登場してきた。

 「お笑い」を考えるとき、流行語を見れば、その性質が直ぐに見えてくる。
 たとえば……わざと、お古いところをあげるのだが、

 「ウハウハ」、「ハヤシもあるでよ-」、「ん、やめて!」、「おぬし、やるな」。
 これは「アッとおどろく為五郎」や、「オンドリャー」、「アサー」の時代。
 翌年(1971年)になると、「シラケる-」、「メタメタ」、「フィーリング」。
 「古い奴だとお思いでしょうが」、「ウーマン・リブ」、「がんばらなくちゃ」に重なってくる。
 そして、「若さだよ、ヤマちゃ-ん」、「ワレメちゃん」、「総括する」時代。
 「あっしにはかかわりのねえことで」、「流れを変えよう」ということになる。
 そして、1973年になると、「じっと我慢の子であった」、「いったい日本はどうなるのであろうか」、「狭い日本、そんなにいそいでどこに行く」という不安がひろがってくる。

 私たちは、いつの時代にも、笑いに飢えている。だから、いきのいい芸人がたくさん出てきたほうがいい。
 芸人もたくさん出てくれば、当然ながら淘汰される(消える)やつも、たくさん出てくる。すでに、消えてしまった連中も多い。

 私は、ここでも「古い奴だとお思いでしょうが」、ある女優のことばを思い出す。

 「誰も書かなくなっちゃったわ――真劇を。(舞台に)出てくるのは、くだらないギャグばっかり」

 バーバラ・スタンウィック。ハリウッド黄金時代の大女優のひとり。
 1953年、映画ジャーナリズムの大御所だったヘッダ・ホッパーのインタヴューで。
 彼女のことばに苦い感慨がこめられているのだが、笑いをもとめる一方で、こうした苦さは、たえず私たちの内面にひろがっているのだ。

 近頃は、「お笑いブーム」だそうである。

 おあとが、よろしいようで。

607

 1974年。

   あたしは自分でお金を稼いで自分で使っているのよ。今の女性にはそういうひとが多いわ。なぜ、結婚しない女だけが差別されなければいけないのかしら……結婚しない男は差別されないのに。

 ダイナ・ショア。
 1974年4月16日 ロサンジェルス・タイムズのインタヴュー。

 当時、彼女は離婚していた。ダイナ・ショアほどの歌手でも、性差別を感じていたことがわかる。

 1974年。
 日本はどんな時代だったのか。
 「あっしにはかかわりのねえことで」
 「流れを変えよう」
 日本人はみんな「ぐうたら」か、「じっと我慢の子だった」。

 この年、ソルジェニーツィン、国外追放。
 「ハヴ・ア・ナイス・デイ」で「ちょっとだけよ」。
 「ワレメちゃん」が「ひそかに情を通じ」、「未婚の母」になっても、「いいじゃないか」。
 「総括」すれば、「いったい、日本はどうなるのだろうか」。「狭い日本、そんなにいそいでどこに行く」。「日本沈没」。
 なんだか、いまの日本人もおなじことを考えているんじゃないかナ。

 ダイナ・ショアのことばから、こんなことを思い出して、「しーっれいすました。」

606

 ソフィスティケート。日本語にうまく訳せない。

   セックス・シンボルは、いつの時代にも残るものよ。でも、ソフィスティケーテッドな女なんて、じきに、昔の帽子みたいになっちゃうわ。

 ロザリンド・ラッセルのことば。(1974年3月、ロサンジェルス・タイムズ)

 美貌だった。あまり好きな女優さんではなかったけれど。

605

 友人の画家、小林 正治君が亡くなった。(07/6/4)享年、70。

 おもえば長いつきあいになった。
 小林 正治には、私の著書『ルクレツィア・ボルジァ』(集英社)、『マリリン・モンロー・ドキュメント』(三一書房)の装丁を描いてもらった。ほかにも、『ブランヴィリエ侯爵夫人』(自家版)の表紙。私の企画した「マリリン・モンロー展」に出品してもらった。その意味で、彼にはずいぶんお世話になったのだった。

 女性の裸身の魅力を描きつづけた。彼の描くヌードは、いつも優美で、典雅で、ほんとうにエロティックだった。その背景は、すみきった深い青い空。ときには、ヨーロッパの古城の城壁。ときには、海のひろがり。
 女たちは手をひろげたり、指先をひらめかせたり、片膝を立ててすわったり。ときには大きく股をひろげている。

 はじめて小林 正治の絵を見たのは、京橋の小さな画廊の個展でだった。美しいヌードが並べられていた。女の裸身、とくに白皙といってよい肌の美しさ。のびやかな肢体。
 私がとくに心を惹かれた一枚があった。しかし、すでに売約済だったので、それに似たポーズの一枚を買った。
 たまたま、あるホテルで仕事をしていたので、翌日、画家自身がわざわざその絵を届けてくれた。私は、自分が買えなかった一枚のすばらしさと、私が入手した一枚の、微妙な違い、優劣、さらに画家自身の、その絵を描いた制作上の姿勢の違いを、いちいち指摘した。
 私としては、いちばんいい絵が買えなかった、次善の作品を手に入れた、という思いもあって、ことさらそんなことを指摘したようだった。
 その指摘を、小林君は素直に聞いてくれた。彼の誠実な人柄に、私は心を打たれた。
 これが小林 正治との出会いになった。

 しかし、いやらしさはまったくなかった。むろん、どのヌードにも、エロスは匂いたっているが、女体が芸術作品そのものだった。
 このことは、小林 正治の対象が、ほとんどの場合、破瓜期の少女、ティーンの少女が多く、成熟した女性の裸身はあまり描くことがなかったからだと思われる。
 もう一つ、大きな特徴としては、彼の描いたヌードに顔がなかったこと。おそらく美貌に違いないのだが、容貌がまったく描かれないので、見ている私たちの想像にゆだねられている。
 どういう絵画でも、私たちの美的な体験は、それを見ることで、いわば完結する。ボッティスチェッリ、ラファエッロの美女の裸身に、ひたすら賛嘆のまなざしを向けても、その鑑賞のつぎに、東郷 青児、石本 正の美少女に心をうばわれれば、それで満足する。
 しかし、内面には、ボッティスチェッリ、ラファエッロの美女によってかきたてられたエロスへの欲求は、まるで埋み火や、灰の底にかくれた澳火のように、燃えつづけるだろう。
 小林 正治のヌードは、そういうエロスを秘めていた。彼の描くヌードを見る人は、その美しさに驚く。それを見た瞬間から、この画家はなぜ顔をえがかないのか、という疑問にとらえられる。それは、人面獣身のスフィンクスがなげかける問いのように、私たちの心のなかでひろがってゆく。

 小林 正治の絵には(その場でただ一度見ただけの印象ではわからないもの)、こちらがゆっくり時間をかけるうちに、ゆっくりと熟成してゆくワインのような味があるのだ。 その酔いのなかで、小林 正治という画家がどうしてこのヌードを描くようになったのかという画家の想像の秘密をさぐりはじめる自分に気がつくだろう。
 たとえば、彼の絵には、男性がまったく登場しない。はじめから、この世に存在しないかのように。

 たとえば、スズキ シン一も、生涯、女性のヌードを描きつづけた。しかし、彼の描くヌードは無数の<マリリン・モンロー>だった。そのマリリンたちが、どんなに可愛らしかったか。ときには、男の腕のなかで、苦しそうにあえぎながら、いつも信頼しきったまなざしをもっていた。
 小林 正治も、スズキ シン一も<男>を描かなかった。だから、このふたりの絵を見る私たちは、偶然にすれちがった、ゆきずりの美しい女たちと、すばらしい、しかし、明日のない、一夜をすごすような気がするだろう。
 静かな非現実の世界から、ミスティックな<風景>にあらわれたヌードの女たちは、現実を超えた美しさを失うことなく、ひっそりと小林 正治の孤独に戻ってゆく。
 画家は美しい女性のヌードを描くことで、ひたすらおのれの孤独に向かって行く。いってみれば、彼の絵はあくまでおのれの孤独からやってくるのだ。
 だから、彼の孤独は顔をもたない。

 小林 正治は、昨年、川越で大きな個展を開いた。このとき、『ルクレツィア・ボルジァ』、『マリリン・モンロー・ドキュメント』の原画や、「マリリン・モンロー展」に出品した作品も展示されたという。
 小林 正治の代表作は、山梨県立美術館にある。

 おそらく晩年の作品と思われるが、小林 正治の作風はかなりの変化を見せていた。その一枚は、青をバックに、横顔を見せた若い女のヌードだった。まるで逆光線のヌードといってもいいもので、全身ブラックで描かれている。
 小林 正治はその絵を私に贈ってくれたが、これを見た私は画家の孤独をまざまざと見るような気がしたのだった。
 今の私は新しい仕事に手をつけているのだが、この本の装丁は彼に依頼する心づもりだった。だが、それももはやかなわぬことになってしまった。

 小林 正治の訃報は、令息が電話でつたえてくれたのだが、その電話のあと、いろいろな思い出が堰をきったようによみがえってきて、私はしばらく茫然とした。
 まだ気もちの整理もつかないまま、こんなかたちで哀悼の文章を書いている。一週間後、一月後、一年後、古い友人として、私がひかえめながら、どんなに小林 正治の死を深く悲しむかわからない。

 芸術家はいつも自分自身の死に向かって歩みつづける。芸術家の仕事は、いつもそうしたものなのだ。そのことを彼によって教えられたような気がする。合掌。

604

 私がたいせつにしている「フランスの伝統色」という色見本(カラー・ガイド)がある。
<Nuances actuelles des couleurs tradetionaire francais>  (大日本インキ化学)

 フランス人は、その自然や、生活習慣のなかから、季節の色をひろいあげ、その色調からいかにもフランスらしいエレガンス、単純さ(サンプリシテ)を生み出す。
 たとえば、バラ色といっても、「インディアン・ローズ」、「ローズ・イビス」、「ローズ・パール」、「ローズ・ペーシュ」、「ショッキング・ローズ」、「ローズ・タンドル」、「ローズ・ソーモン」といったさまざまな変化する。そして「ルージュ」に移ってゆく。
 この見本を見ながら、ルノワールの少女の頬のいろ、マリー・ローランサンの女たちのバラ色、ヴァン・ドンゲンのソワレの女たちの肌のいろ、ピカソの「恋人」、マリー・テレーズのヌードを思い出す。

 私にとって興味があるのは、この「色見本」には、紫系統の色(ヴィオレ、プルプルなど)がきわめて少ないことだった。日本人の眼には、紫という色彩はじつに多様で、微妙な変化を持っている。こんなことにも、日本人とフランス人の国民性の違いというか、美意識、感受性の違いを見てもいいだろう。
 (エゴン・シーレに半裸の女性を頭上からとらえた水彩画があって、この一枚が日本にある。この女が身につけているシフォンの紫がじつに鮮烈だった。この絵はめったに展示されないし、シーレの研究家もほとんどとりあげない。)

 現在の私は油絵も描かない。「油一」(ゆいち)も使ってみたいが、そんな機会ももうないだろう。
 私がたいせつにしていた色見本(カラー・ガイド)ももう必要がなくなった。どなたかほしい人がいたら、よろこんでさしあげるのだが。

603

このほど東京芸術大学は、創立120周年を記念して、芸大ブランドの油絵具を販売した。(’07/5/8)「油一「(ゆいち)という。
 大学の技法材料研究室と、「ホルベイン」が5年かけて開発したもの。

 東京美術学校に西洋画科が設立されたのは、1896年。
 当時、黒田 清輝は、日本人の頭脳で調合した絵具を、日本の画家が使って、はじめて日本人の油絵ができる、と考えたが、これは実現しなかった。
 ある時期まで、たいていの画家は「ルフラン」を使っていたはずである。

 私は、ある時期、絵を描いていた。むろん、絵と呼べるほどのものではない。
 小説を書いたり、評伝を書いていると、どうしても気分転換が必要になる。絵もその一つ。
 絵とはいえないようなものを描くだけでもたのしかったので、つぎからつぎにデッサンやクロッキー、はては油絵、アクリル画を描いた。描いては棚に放り込んでおいた。それっきり忘れてしまった。かなり経ってひっぱりだしてみたところ、驚いたことにほとんどの絵に亀裂が入っていた。
 油絵具について何も知らなかったせいだった。くやしいので、絵は全部焼き捨てた。それからは、登山に熱中したため、油絵を描く時間もなくなって、たまに水彩を描くようになった。

 絵具は、その国によって色彩がずいぶん違う。私は、一時、中国の水彩絵具を愛用したが、青、赤などの色が、私の色彩感覚とはまったくちがっていた。
 そんなことから、中国の絵画にも関心がひろがっていった。

602 Revised

 
 こういう考えがある。

   男女の関係というもの、性欲とか結婚というものは、ほんらい人間の快楽のために存するものではない。(社会の)役に立つ人間を増やして、その国土をよくするためにすることだ。だから、悪い子供を産むのはいけない、肉体も精神も、これならという人間だけに限って結婚をさせ、子供をうませる……その他の人間には、結婚して子供を産むことは許さない。

 どこかで聞いたことのある優生学的な理論のような気がする。

   男子は二十一歳から、女子は十九歳から、性交が許される。二十七歳まで童貞を守れば名誉として表彰される。
   一方、性交年齢に達しないうち、どうしても性欲に堪えられない早熟者には、かねてその旨を定めている媼(ばあ)さんなり、役人なり、或いは医者なりに申し出ると、これもかねて選定してある石女――すでに妊娠中の女を提供してその満足に供する。
   十九歳以上の女子、二十一歳以上の男子、身体、精神ともに健全で、出産の有資格者は、週に二回だけ同衾が許される。その際には男女ともに沐浴して、『すこやかにして美しき子を与えたまえ』と神に祈らなければならぬ」

 このままナチスの優生思想をつよく連想させるが、じつは中里 介山の『大菩薩峠』の終章に近い「農奴の巻」に出てくる。
 興味があるのは、この優生論が出てくるすぐ前の章で、盲目の剣士、「机 龍之助」は「お雪さん」と小舟に乗って、潮に流され、死にたいと願う「お雪さん」の首を平然と絞めるシーンが置かれている。

『大菩薩峠』は、明治45年に書きはじめられ、継続的に発表されたが、昭和9年に、中絶している。その後、事実上の最終章になった「椰子林の巻」を介山が書き終えたのは、対米戦争が起きる半年前だった。
 介山がカンパネッラを読んだことから、日中戦争のさなかに、こうした結婚観、性関係論に関心をもっていた(と私は想像する)ことはおもしろい。

 ただ、私はこれを読んだとき、ゴダールの映画、『男と女のいる舗道』や、(題名を失念したが)これもゴダールの映画――ある全体主義国家の旅行者が、空港からホテルに直行したとたんに、美貌だが、まるでロボットのような「娼婦」(国家公務員)がスケデュール通りにあてがわれて、性的な処理を「配給」してもらうシーン。アラン・シリトーの逆ユートピア小説、『ニヒロンへの旅』を思いうかべた。

 ウシシシ。

601

私はあまり退屈しない。退屈したときは、なにかしら消閑の手段を考え出すから。
 どうしても退屈したときは、へたな絵でも描けばいいし、CDをつぎからつぎに聞きつづける。もし若かったら、私はテレビゲームにハマっていたに違いない。
 ほんとうに退屈したとき、本を読むことはない。そんなときに、本を読んでも退屈するだけだから。退屈したときは、誰かしらの退屈なセリフを思い出すようにする。

 たとえば「諸君、この世は退屈だ」とボヤくのが私には似つかわしい。「フレスターコフ」のセリフ。
 だが、一方で、

 「誰だ、この世が退屈だなんてヌカすやつは!」

 といい放ってみたい気もする。
 アルセーヌ・ルパンのセリフ。

☆600☆ Revised

「コージー・トーク」をはじめたとき、どうせ誰も読まないだろうと思っていた。ところが、少数ながら熱心に読んでくれる人がいる。これは驚きだった。
 メールで近況をつたえてくれた人もいる。私の書いたミステリーに関して、精細な質問をしてきた人もいる。昔、私がラジオで放送したプログラムを、CDにして贈ってくれた人もいる。ときには、自分の書いたものを読ませてくれた人もいる。私は、いつも感謝したのだった。

 私の「コージー・トーク」は、いつもある人を相手の対話なのである。自分の心づもりではいつも特定の相手、つまり、きみにあてて書いている。
 私にとっては表現のひとつのありようで、お互いに相手のことを心にとめて、自分と相手のあいだに、いきいきとした関係性を作って行く。そこから何かがうまれないはずがない。そう思っている。

 翻訳家を志望している人たちのための勉強をつづけてきた時期がある。私のクラスからたくさんの翻訳家が登場した。当時、よく聞かれたものだった。翻訳家を育てるコツみたいなものがあるんですか。
 冗談じゃねえや、そんなもの、あるわけねえだろ。
 私は、何時もその人の「翻訳」を見て(読んで)きたのだ。どうすれば、翻訳がうまくなるのか。そんなことは考えたこともない。

599

 
 女のゆかしさ。こんな一節を見つけた。

   後朝(きぬぎぬ)に、階段の下までようやく送りに出ながら、わきを向いて「また、きてくださいね」などと挨拶する。
   それだけならまだしも、夜更けに、若い衆が客を門から送り出すとき、客が出たとたんにカラカラとくぐりを閉めて、ピンと錠をおろす。なんともすげない音。
   そうかと思えば、客を見送りに階段の下まて降りながら、
   「じゃあね」
   などと声をかけて、客が外に出るのも待たず、バタバタと二階にかけあがるような、つたないやりかたでは、客がまたきてくれるはずもありません。
   こうしたことを、よくよく考えて、客をとりあつかうべきでしょう。
   客がお帰りになるときは、表まで出て、その行方を見てあげる。じっとうしろ姿を見つめていれば、表まで見送られた客も気もちよくふり返って、お女郎が立って見送っている姿に、心もうきたってお宿に帰るものです。その姿が眼に残って、しばらくしてまた遊びにきてくれるものです。
 
 これが女のゆかしさ。「三浦屋」の花魁、「総角」のことば。
 いまどき「総角」のような女がいるはずもないが。

 いまの女は後朝(きぬぎぬ)のふぜいなどということばさえ知らないだろう。

 「是等のことをよくよく思ひやり取扱ふべき事也」。この、本人の心構えがゆかしい。つぎに、同輩、後輩に対する気くばりがゆかしい。

598

 昭和初期。
 保田 与重郎にいわせれば――「昭和初年より数年にわたる期間の情態は、破壊といへない崩壊であり、慰戯ともならぬ浅薄な甘さへの堕落」の時代ということになる。

 そこで「慰戯ともならぬ浅薄な甘さへの堕落」の例として、新興芸術派の作家たち、龍胆寺 雄、中村 正常、吉行 エイスケなどを読んでみた。べつに「破壊」も「崩壊」も見られなかったし、「浅薄な甘さへの堕落」といったところで、なんとも可愛らしいものだった。
 そこで、もっと通俗的なものとして、大泉 黒石、生方 敏郎、奥野 他見男などを読んでみた。保田 与重郎はこうした作家たちを読んだこともないだろう。

 ある長編の書き出しのシーン。銀座のまんなかで、ある作家が若い女性に「ピタリと逢った」。

   「ヨー春ちゃん」
   「あらッ」
   「暫くだねえ」
   「ほんとに久濶(しばらく)、どちらへ?」
   「なァに銀座の夜の気分を味はひにさ、君は?」
   「あたし? 矢っ張り左様(そう)よ、買物旁々(かたがた)」
   「女の夜遊びは曲者だぞ」
   「大丈夫よ、私だから」
   「その私があんまり綺麗だから危険だて」
   「他見男さんは私の顔さへ見ると綺麗だの美しいだの仰言(おっしゃ)るけれども駄目よ私も。二十二ぢゃお婆さんぢゃないの」

 この「春子」さんは、今年、女子大学英文科二年生。「麗質玉の如く鮮かに且つ美しい」らしい。

 ほう、「昭和初年より数年にわたる期間」の先端的な女性は、(内心ではそう思っていないのに)22歳で「お婆さん」という自意識をもっていたのか。
 むろんジョークだが、むしろ、これは若い娘のコケットリー、あるいは羞恥として見たほうがいい。

 保田 与重郎などが読んだところで何がわかるはずもない。

597

 ある日、詩人のリルケはワイマールを訪れた。
 彼が泊まったのは、いかにも古風な趣きで、昔のワイマールふうのたたずまいをもっていたなんと「象」とい名のホテルだった。同行したのは、バイエルンの王家につながる名流の公爵夫人。
 ホテルからの散策に、ふたりは「ゲーテ・ハウス」をえらんだ。そこまで行って、ゲーテの園と呼ばれるひろい公園に出る。

 ところが、一天にわかにかき曇り、はげしい風が起きた。暗い並木が突然のあらしに揺れて、奇怪な姿に見え、くろぐろとした影になって、ぼうっと灰色の光のなかに浮かぶ。空は巨大な雲がちぎれちぎれに疾走して行く。しかも、リルケたちの周囲に、もうもうとした白い霧が立ちこめてきた。リルケたちは、森のなかで迷って、ワイマールに引き返す道がわからなくなった。

 さらに、はげしい夕立が降りはじめたので、途方にくれたとき、近くにぼうっと人の姿が三人を認めた。リルケは、いそいでその三人にめがけて走って行った。

 まもなく、リルケはあきれたような顔で戻ってきた。
 「われわれは、どうもキツネに化かされたらしいんだ」リルケは叫んだ。このとき貴婦人はギョッとしたに違いない。

 「てっきりワイマール人だと思って、ひとり目の男に近づいてみたら、黄色い顔に、切れ長の眼があらわれてきた。声をかけても返事をしない。ふたり目の男を向くと、こっちもやっぱり黄色い顔で、これまた口をきかない。三人目の男に近寄ってゆくと、これまた、まぎれもない日本人なんだ。それで、道を聞いたら教えてくれたけれど、いったいこの日本人たちは、ワイマールで何をしようっていうんだろう。木立は、あんなに妖異な姿をしているのに、幽霊のような彫像がたった一つ立っているだけのこの庭園の霧のなかで、生きているものといえば自分たちだけなのに、どうしてあんな人たちが突然あらわれてきたのだろう」

 タクシス公爵夫人の回想では…… 
 自分たちの生活にかかわりのない、異国人の夢のなかに私たち(リルケとタクシス夫人)がうっかりまぎれ込んでしまったのだ、という。
 その異国人の夢というのは--どうやらヨコハマで深い眠りについているサムライの夢だろう。
 リルケは笑いだしたが、いくら夢でも、ワイマールと遠い日本では、場所柄も雰囲気も違いすぎる、と反論したらしい。

 こんな話から、当時のヨーロッパ人の日本理解の程度がうかがえるのだが、このときリルケがことばをかわした日本人は誰だったのだろうか。

 じつはこの三人、ドイツ留学中で、ひとりはのちに世界的にしられ、アフリカで黄熱病でたおれた人物(私たちも紙幣で彼を見ている)、もうひとりは、後年、日本ではじめて物療内科をはじめた偉大な学者、もうひとりは栄養学が専門で、これも世界的な発見をした学者になる。……

 ……という短編を書こうと思ったが、私の力ではとても書けなかった。

596

 もう、誰もおぼえていない映画。
 ニール・サイモンの「スーパーコメディアンと7人のギャグマンたち」(原題「23階のお笑い」/2000年)。テレビの草創期にあったアメリカ芸能界の小味なインサイド・ストーリー。映画の背後に、マッカーシズムの恐怖がある。このあたりに、ニール・サイモン喜劇らしい、スジの通しかたがある。

 若き日のニール・サイモンは、シド・シーザーのギャグを書いていたから、いわば「私小説」と見ていい。ただし、日本ではまったく評判にならなかった。私も映画批評を書かなくなっていたから、どこにも書かなかった。

 1950年代、NBCで圧倒的な人気を誇っていたコメディアン「マックス・プリンス」(ネイサン・レーン)は、7人の台本の構成作家(ギャグマン)を使っている。しかし、人気に翳りが見えはじめている。局の上層部は、視聴率の低下におびえ、90分の番組を1時間の枠に落とす。放送内容にもきびしい制約がのしかかってくる。
 人気の低迷にくるしむ「マックス・プリンス」は、酒と薬物漬けで、食事中に眠ってしまうような状態。
 ハリウッドに吹き荒れたマッカーシズムは、テレビにも影響をおよぼし、「マックス・プリンス」のリハーサルにも、稽古内容を逐一チェックする要員が配置される。
 おそろしい監視社会の姿が重なってくる。
 二流、三流の俳優ばかり集めて一流の舞台を作ることは、けっして不可能なことではない。しかし、二流、三流の俳優ばかり集めて一流の映画を作ることは、おそらくむずかしい。

 この映画の主役に、たとえばジャック・レモンやウォルター・マッソーをつかっていたら、まったく違っていたはずである。ただし、この映画のような「低額予算」のプロダクションでははじめから不可能なプランだが。
 50年代なら、さしづめミルトン・バール、バール・アイヴズ。
 みるみるうちに、映画の厚みが増してくるだろう。

 もう、誰もおぼえていない映画を見直して、(空想で)自分の好みのキャストでリメイクする。私のアホらしい悪徳のひとつ。

595

 (つづき)
当然ながら、このレィディーはどぎもを抜かれた。
 「まあ、そうなんですか! で、それはなぜでございましょう?」
 「それはですな、奥さま」先生は答えた。「バイロンは男色でして」

 青天の霹靂だった。レィディーは思わずナイフをとり落とし、(モームの表現によれば)この先生をたしなめるかのように、
 「あら、まあ。そんなこと、絶対にございませんわ」
 狼狽しきった彼女は、右側の最高権威に、とりすがるように、
 「そんなことって、ございますでしょうか。間違いですわね?」

 最高権威は沈鬱な声で、
「いや、まったくその通りでございまして。ご質問には、はっきり男色者とお答えしなければなりませんな」

 レィディーは、この夜のパーティーがめちゃめちゃになったため、ただ、もう、「あら、まあ」とか「おや、まあ」とつぶやくばかり。

 左にすわっていた先生は、自分の発言がレィディーを狼狽させ、うろたえさせたことを見てとって、彼女の腕にふれながら、
 「でも、ご安心ください。晩年のバイロンは、過去のあやまちをつぐないました」
 かすかな微笑がレィディーの唇にゆらめいた。
 先生はこうつけ加えた。
 「バイロンは、自分の妹と熱烈な恋愛に陥りましたから!」

 私は、このエピソードがとても気に入っている。こういう話にも、モームらしい辛辣さと、するどい人生観察が見えてくる。モームはこの話を、ずっと後輩の劇作家、ガースン・ケニンにしている。
 私は、こういう話を後輩に聞かせているモームが好きなのである。きっと、苦虫を噛みつぶしたような顔で、おもしろくもなさそうに話していたのではないだろうか。
 オチがいい。

 「楽しく思い出せるディナーパーティーというのは、こういうやつだね」

594

 
 ある日、サマセット・モームは、さる貴婦人のパーティーに招かれた。
 このご夫人は、ロンドンきっての名流夫人で、格式の高いサロンを開いていた。そのサロンは、毎回、ご夫人みずからテーマをお決め遊ばされる。たとえば、大都市のスラムを一掃する計画だったり、猛獣のハンティングだったり。その道の権威とされる人ばかり、十人から、二十人ばかりが招待される。
 レィディーは、パーティーのさなかに適切なタイミングで、いかにも見事な質問をなさる。それに対して出席者の誰かれが答えると、彼女自身もご自分の見解を述べるのだが、それがまた肯綮せしむるようなものだった、という。

 モームが招かれた日のテーマは、大詩人、バイロン卿だった。モーム自身は、自分がなぜ招かれたのかわからない、という。バイロンについては書いたこともあるし、いろいろな機会にしゃべったりもしているが、研究しているわけでもないし、とても権威などとはいえない。このレィディーだって、モームをバイロンの権威とは思っていなかったらしい。客の席順は、その晩のテーマについての権威、専門知識の程度によるもので、モームは末席に列していただけであった。

 このレィディーの右にすわっていた最高権威が、いちばんよくしゃべった。彼女としても、バイロンについて最高権威と見なされている人物にいろいろと質問することで、列席しているお歴々に、自分の教養の深さをご披露できるわけだし、名だたる人々の称賛をほしいままにできるだろう。

 パーティーの雰囲気がたけなわになった頃、このレィディーは左にすわっている、もうひとりの最高権威が、まったく発言しないことに気がついた。この先生は、ほかの人々の発言に耳をかたむけながら、つぎつぎに出される豪華な食事にも熱心に興味をもっていたらしい。
 レィディーは、しかるべきタイミングで、この先生を会話に誘い込もうとして、
 「先生のご意見をまだうかがっておりませんけれど」
 先生は顔をあげた。
 「私の話など、お耳に入れないほうがよろしいでしょう。わたくし、バイロンには、まるで関心がごさいませんのでして」
                            (つづく)

593

 (つづき)
 舟橋 聖一としては、私の訪問が迷惑だったにちがいないが、しばらく私を相手に雑談してくれた。
 現実の文学者に直接会って、こちらがいろいろ勝手な質問をしてもそれに答えてくれたのだった。このときの印象はいまでも心に残っている。蔵を改造した仕事場に、志賀 直哉のみごとな書が衝立にしつらえてあった。

 彼は小説を書くうえで、いくつかのことを話してくれた。私が程度の低い質問をしたのだろう。そのとき伺った話は私の心に残ったが、ほんとうのことをいえば流行作家の小説観、その方法論を聞いて仰天したのだった。
 舟橋 聖一が語ってくれたことのいくつかは、後年、小説を書くようになって、私にもようやく理解できたことが多かった。(これは別の機会に書く。)

 なにしろ礼儀知らず、傍若無人の学生だった。教室で講義を聞いたこともなかったが、高名な文学者に直接会って、いろいろ勝手な質問をしても、作家がそれに答えてくれている。彼は、私が批評を書いていることを知っていた。
 舟橋 聖一がなぜ、私にいろいろなことを話してくれたのかわからない。私の幼稚な質問に答えてくれただけのことだったかも知れない。自分の制作上の苦心を語ることで、何もしらずに批評めいたものを書きはじめていた私に、現実に文壇で活躍する作家の姿を見ておけ、ということだったのかも知れない。
 私に好意をもってくれたせいもあったと思われる。
 礼儀も常識もわきまえない学生の話を聞いてくれた舟橋 聖一に、いまの私はほんとうに感謝している。

 「今月は、小説を29編、書くんだよ」
 いくらカンのにぶい私でも、多忙をきわめている作家が、貴重な時間を割いてくれていることはわかった。月に29編といえば、一日に1編は書くことになる。いくら流行作家でも、そんなこともできるのだろうか。
 失礼な訪問のタイム・アップを示唆していることはわかった。私はあわてて辞去した。
 廊下まで見送ってくれながら、舟橋 聖一は、ここにある本でほしい本があったらあげるよ、といってくれた。
 信じられないことばだった。私は舞いあがった。案内されたときに、眼をつけていた本を手にとった。
 堀口 大学の署名入りのジッド、小林 秀雄の署名入りの「おふぇりや遺文」、中島 健蔵の献呈サインの入ったヴァレリーをもらった。
 あとで気がついたのだが、舟橋 聖一は自分の気に入った本の隅に、鉛筆でアルファベットをつけていた。彼なりの評価らしい。私がもらった本についていたサインは、全部、おなじだった。
 それから判断すると、この作家にとってあまり価値のない本、つまり読み返す必要のない本を分けていたらしい。

 教室にもろくに出たことがないのに、毎日、研究室に遊びに行っている学生だった。舟橋邸からそのまま大学に戻って、斉藤 正直先生に会った。彼は助教授でフランス語を教えていた。(ただし、私は斉藤 正直のクラスに出なかった。)斉藤 正直に、平野 謙のことで舟橋 聖一にお願いに行ったとつたえた。
 戦時中、勤労動員で、斉藤 正直は、大木 直太郎といっしょに私たちの監督をつとめていたから、毎日のように工場で話をしていた。だから、大学の先生と学生というよりも、もっと特別な、いってみれば戦友のように親密な関係が生まれていた。
 いまの学生には考えられないことだろうが、先生と学生のつながりはふつうよりずっと親しいものだったと思う。
 大木先生は、誰よりもよろこんでくれて、さっそく教授会に出してみようと答えてくれた。

 平野 謙は明治大学で教えることになった。

 もうひとつ、これも時効だから書いておく。
当時、斉藤 正直は「近代文学」の同人になりたがっていた。斉藤 正直を佐々木 基一、埴谷 雄高に紹介したのも私だった。その後、「近代文学」の同人が拡大されたとき、私は安部 公房、関根 弘たちといっしょに同人になったが、斉藤 正直もこのときいっしょに同人になった。

 遠い遠い昔のことである。

592

 
 ある日、平野 謙が私にいった。

 「明治(大学)の文学部で、先生、やらせてくれないかな。きみ、学校に行って聞いてみてくれないか」
 「ええ、いいですよ」

 当時、荒 正人は「第二の青春」で、一躍、戦後のジャーナリズムの売れっ子になっていた。平野 謙は、その荒 正人といっしょに、中野 重治の批判にあっていた。平野 謙は島崎 藤村論などを書いていたが、今から考えると、それほど原稿を書いてはいなかった。荒 正人ほど活躍する機会はなかったと思われる。そこで、大学の講師のクチでもいいから定期的な収入を確保したかったのではないか、と思われる。
 当時の私はそんなことなど考えもしなかった。平野 謙のようなすぐれた批評家が、大学にきてくれれば、学生にとってはこれほどありがたいことはない。
 誰に相談すればいいだろう。大木 直太郎先生なら話しやすい。しかし、先生は世田谷区に住んでいる。行くだけならいいが、帰りの電車賃がなかった。
 もっと近くに住んでいる先生に相談しよう。
 まっすぐ目白の舟橋 聖一のところに行った。舟橋 聖一は戦時中から戦後にかけて、明治大学で教えていたからである。戦後は、エロティックな作品を書きつづけ流行作家になっていた。
 戦後まもない時期で、公衆電話もなかった。だいいち電話をかけることも考えなかった。相手の都合もたしかめずにいきなり作家の自宅を訪問することが、どんなに失礼で、相手に迷惑なことか。私は何も考えない阿呆な学生だった。
 いきなり学生が訪問したので、舟橋 聖一も驚いたに違いない。美しい女性が用向きを聞いてくれて、仕事場に行ったらしく、また戻ってくると応接間に通してくれた。
 舟橋先生は、小説を書いている途中だったらしい。作家なら誰でも、知らない人物の不時の訪問で仕事を中断されたくないのは当然だろう。私はそんなことも考えずに、のこのこと応接間にあがり込んでいた。

 やがて美しい女性が先生の仕事場に案内してくれた。仕事場まで長い廊下になっている。外付けの長い廊下だが、腰板が作りつけの書棚になっていて、長廊下がそのまま書庫になっていて本がぎっしり並んでいる。

 蔵を改造した仕事部屋に、和服の先生がいた。
 戦後すぐから、私はいろいろな作家を「見た」(会ったとはいえない)が、自宅を訪問したのは、土岐 善麿につづいて、舟橋 聖一が二人目ということになる。

 挨拶もそこそこに、平野 謙が明治大学の文芸科の講師になりたいと希望していることを告げた。先生は、私が別の用件で訪問したものと思ったらしいが、平野 謙のことは考慮すると答えてくれた。
     (つづく)

591

私の朝食。こんがり焼いたパン1枚。焼いている途中でバタをのせる。だからバタがよくしみ込んでいる。好きなのはマーマレード。ゴマのペースト。ほんとうはイングリッシュ・マフィンのようにしたいのだが、うまく焼けない。(バークレーに行ったとき、私ははじめてイングリッシュ・マフィンのおいしさを知ったのだった。)

大森 みち花訳の「記憶のなかの愛」を読んでいたら、後朝(きぬぎぬ)のヒロイン、「グレース」がベッドにトレイを運んでくる。メニューはイングリッシュ・マフィン、コーヒー、スクランブルド・エッグ、ベーコン。
羨ましいシーンだった。愛する女性とはじめてベッドをともにして、イングリッシュ・マフィンとコーヒーを運んでもらう「ニック」に反感をおぼえたくらいである。

ついでにいっておくと、大森 みち花訳は、とてもすばらしい。いままで、私が読んだロマンス小説の訳のなかで、最高の訳といっていい。

朝食にベーコン・エッグ。「フィリップ・マーロー」も自分で焼いていたっけ。
コーヒー。ブラジル、モカ、いろいろなコーヒーを飲んでいたが、けっきょく、インスタントになってしまった。なにしろ面倒なことがいやになっている。
コーヒーは何杯も飲む。オスカー・レヴァントのように。私とはまるで違ったタイプのアーティストだが。

オスカーはコーヒーを飲まないときは酒を飲んでいた。コーヒーや酒を飲んでいるときもタバコを喫っている。食事はとらない。本職はピアニスト。
背が低くて、顔色がどすぐろく、ぶおとこで、ふてくされた顔をしていた。いつもタキシード。あまり、しゃべらない。しかし、ときどき辛辣なことばをボソッという。しかし、他人を傷つけるようなことはけっしていわない。誰からも一目置かれていた。
いつも人生なんてつまらないものだ、という顔をしていたピアニスト。完全な夜行性。ナイトクラブ、パーティー、ときどきコンサート。ときどき映画に出ていた。ある晩、パーティーで酒をのんでいて心臓発作で死んだ。

食後。冬場はミカン、最近はトマト。まるかじり。私の朝食はこれだけ。「記憶のなかの愛」のカップルは、またセックスをする。そのあとでフレンチ・トーストを食べる。
ほんとうに羨ましい。私は、「グレース」のような女性にイングリッシュ・マフィンとコーヒーを運んでもらうような幸運についぞめぐまれなかった。人生なんてつまらないものだ。

「記憶のなかの愛」スーザン・メイアー 大森 みち花訳
ハーレクイン・イマージュ 680円

590

ときどき、おもしろいことばを見つける。そのときはおぼえているのだが、じきに忘れてしまう。

現代女性のオーガズム発見は(現在の避妊とむすびついて)、女が男性支配という棺桶を爪でバリバリ突き破ってやったことなんですよ。
エヴァ・フィジズ。1972年。
この女性については知らない。ドイツ系イギリス人の作家という。エレイン・モーガンの本に出ていることば。

ふ-ん。女性がオーガズムを「発見」したのはこの時期からだったのか。
そのとき、すでに「男性支配という棺桶」the coffin of male dominance があって、女たちが爪を立てていたことは知っていたのだが。

この短いことばから、じつにいろいろなことを考える。むろん、まずは女性のオーガズム。(これは別の機会に書く。)
1972年。沖縄が本土に復帰した。
この年、川端 康成が亡くなった。私は何も書かなかった。浅間山荘事件。私は何を考えたか。
男性支配。ウーマン・リブ。あの時代に輝いていた「アマゾン」たち。
この場合、「棺桶」はどういう形だったのか。
女の爪。爪のかたち、あるいは美しさ。闘争のトゥールとしての爪。まだ、ネイル・アートは流行していなかったことはたしかだが、もしネイル・アートがあったら。サイケデリック・デザインだったろうか。
有吉 佐和子の「恍惚の人」、北 杜夫の「酔どれ船」、山崎 正和之「鴎外 闘う家長」。私は何をしていたか。

考えることはいくらでも出てくる。
忘れないうちに書きとめておこう。

589

「亀忠夫句集」を読む。

その句は、長年にわたる修練を思わせて、作者の澄みきった心境がかたられている。
ひといきに句を読んで、しばし作者の心境を思うべきものも多い。

花冷えの 石庭にをり 一人旅
文書きつ 文待つ 三寒四温かな
探梅や 晩年の恋 胸の底
花吹雪 妻と散歩の 余命かな

おだやかな作風だが、読むひとの心に響いてくる。この俳人の句作は、長い、孤独な道をたどる旅人の行程だったのかも知れない。
句集の序文に、自分がどうして作句に向かったかをのべている。

私は当時十代の終わりだったが、既に評論家としてデビューしていた小学校の同級生、中田耕治氏の影響で、ドストエフスキーやカミュなど西洋文学をよく読んでいたせいもあって、桑原氏の論旨に賛同して、俳句から離れることになった。

後年、「杉」、「鶴」、「沖」、「NHK俳壇」などで句作にはげんだ。

大病の癒えつ 余寒のつつきけり
冬の虹 道ならぬ恋 ありしこと
菜の花や 故郷の色 恋の色
すき焼きの 葱を好みし 母のこと
駅を出て 野分の中を 行きにけり
晩年に 出会い人よ 冬桜

かくべつ解釈を必要としない句ばかりだが、この俳人の歩みのありがたさを思う。

何にもさまたげられないこうした心境や、老いてもひそかに抱く異性への思慕、こうした作に華やぎがある。

道一つ 命も一つ 秋の暮

これは、芭蕉を仰ぎ見ての絶唱というべきだろう。