648

夏休み。
 夕方になると、子どもたちが横町の角に集まる。日ざかりで遊ぶのを避けていた。

 その時間に、紙芝居のおじさんがまわってくる。子どもたちにとっては、活動写真につ
ぐ楽しみだった。

 ある日、紙芝居がくる前に、その街角で、道端に見知らぬオジサンが休んでいた。修験
道の行者か修行僧らしく、異様な風体だった。おそらく六部だったのだろう。
 頭に六部笠。ぼろぼろで汚れた衣。素足にわらじ。赤銅色に日焼けした肌。
 道端に、笈(おい)が置かれて、子どもたちが外の扉をのぞき込んでいた。
その笈(おい)は、まわりに金網が張りめぐらされて、なかのものに手をふれることが
できないようにしてあった。
私も子どもたちのうしろからのぞいて見た。

 笈(おい)の扉が開かれて、そこにびっしりと何かが貼りつけてあった。どれもおなじ
サイズ。縦が2・5センチほど、横幅がせいぜい2センチの小さな写真。
 全部が、子どもたちの顔写真ばかり。その数、ざっと二、三百はあったような気がする。

 なかには、色が褪せて、黄色や褐色になっているものもあった。

 写真の子どもたちの表情は、どれもぼんやりしている。しかし、それぞれが子どもたち
の顔だということはわかった。しばらく見ているうちに、その子どもたちのなかに、女の
子らしい顔が見わけられるようになった。

 その写真の子どもたちは、みんな、行方不明になったのだった。人買いにさらわれたり、
家出をしたり。神隠しにあったのかも知れない子どもたちばかりだった。

私はいいようのない恐怖におそわれた。夏休みの期間、私はその横町に足をむけなかっ
た。家の近所に住んでいる友だちと遊んでも、あの六部笠にぼろぼろな衣の放浪の修験者
が、道端に、笈(おい)を置いて、私を見ているかも知れない。
 金網を張った厨子には、おびただしい子どもたちが無心にこちらを見つめている。

こわくてたまらなかった。

647

(つづき)
 ミケランジェロ・アントニオーニが亡くなった。ベルイマンは、スウェーデン南部のフェラ島の別そうで亡くなったが、おなじ日にミケランジェロ・アントニオーニがローマで亡くなっている。94歳。

 フェラーラ出身。少し強引な類推だが、ジョルジョ・バッサーニを読んでいて、なんとなくアントニオーニを思い出したことがある。むろん、ベルイマンを見ていてスティ・ダーゲルマンを思い出す程度の連想に過ぎないのだが。
 ベルイマンが「処女の泉」を撮っていたとき、アントニオーニが「情事」(60年)を撮っていたと思うと、私の内部に、すぐにあざやかな対比がうかびあがってくる。

 アントニオーニもほとんど全部見たと思う。
 しかし、彼の映画を高く評価しながら、なぜか惹かれなかった。「欲望」(66年)などは傑作と見ていいけれど、彼の思想が私に似あうか、または、彼の思想を生きることができるか、と考えたとき、私はいつも違和感を覚えてしまうのだった。(フェリーニ、パゾリーニに対しては、そうした違和感はなかった。)

 逆にいえば、私は、いつもアントニオーニ的なものを破壊するか、さもなければ放棄してしまうようだった。だから、彼の映画にあらわれる現代人の孤独感といったものに、私の内面はあまり照応しない、あるいは共鳴しないのだった。

 彼の映画に出てくるモニカ・ヴィッテイという女優も好きになれなかった。

 しかし、イングマール・ベルイマンと、たまたまおなじ日にミケランジェロ・アントニオーニが鬼籍に入ったことは、私を驚かせた。「奇しくも同じ日に」などとはいわない。たまたま偶然にこの世を去ったというだけのことだろう。
 それでも、パゾリーニ、ヴィスコンテイ、フェリーニ、ズルリーニ、ザヴァッテイとつづく葬列に、ついにミケランジェロ・アントニオーニが加わった、という思いがある。
 ベルイマンと、アントニオーニの死は、20世紀の映画芸術の終焉を象徴しているような気がする。
 われながら平凡な感想だが。

646

 映画監督のイングマール・ベルイマンが亡くなった。享年、89歳。(2007年7月30日)

 ベルイマンの映画はほとんど見た、と思う。当然、私なりに感慨がある。

 はじめて見たのは「夏の夜は三たび微笑む」(55年)だったが、スウェーデンの若い娘が白夜の湖畔にみずみずしい裸身をさらすシーンに眼をうばわれた。このときは、ただ青春映画の監督という印象しか受けなかった。当時、そんな映画がヨーロッパじゅうに氾濫していたせいもある。
 中世の騎士の遍歴を描いた「第七の封印」(56年)で、はじめてこの監督の資質に気がついた。それは、やがて私自身がヨーロッパの中世に眼をむける端緒になったといえるかも知れない。おなじ時期、ごく少数の人だけが試写を見たチェッコ映画(題名失念)や、修道院の若い尼僧を描いたポーランド映画なども中世への関心を喚びさましたが、ほんとうは「第七の封印」を見てから、私は中世に惹かれはじめたような気がする。
 私はスティ・ダーゲルマンの戯曲を訳したことがあるのだが、スウェーデンの小説や戯曲、ひいては北欧の文学に眼をむけるようになった。そして「処女の泉」(60年)に私は大きな衝撃を受けた。

 私が、五木 寛之に早くから惹かれたのも、彼の「北欧」に関心をもったからだったし、ヴィーゲランに心を奪われたのも、私の内部においてはいつもおなじ根から発していた。ベルイマンもそのひとり。私たちのはるか遠くへ投げられているそのまなざしの先に、光はふるえている。

 その後もベルイマンの映画はほとんど見てきた。ウディ・アレンが好きなのも、ベルイマン=ウディといったリーニュが私の内部に何か響いているせいかも知れない。

 だが、この日、もう一つの驚きが待っていた。
  (つづく)

645

 匂い。

   おまえの髪の熱い炉のなかに 私は嗅ぐ、阿片と砂糖といりまじった タバコの匂いを。おまえの髪の夜のなかに 私は見る、熱帯の蒼穹の 無限が 光り輝くのを。おまえの髪の うぶ毛のはえている岸辺に 私は酔う、瀝青と 麝香と 椰子油との からみあう薫香に。

 ボードレール。黒い「恋人」ジャンヌの匂い。

 こういう匂いなら、いくらかでも想像できる。
 だが、私たちは酒や、マリワナ、コケインの匂いを表現できるだろうか。むろん、できないことはない。だが、「雅歌」や、『巴里の悒鬱』のようにはもはや誰にも表現できないだろう。

 私たちは、もはや熱帯の蒼穹の無限が光り輝くのを見ることはないかも知れない。

644

 
 匂い。

 旧約聖書の雅歌のなかに「なんぢの衣裳の香気はレバノンの香気のごとし」とある。これは「わが妹、わが花嫁」について詠まれている。

「わが妹よ、わが花嫁よ、なんじは閉じたる園、閉じたる水源、封じたる泉のごとし。なんぢの園のなかに生い出づるものは、ザクロおよびもろもろの佳果、またコペル、ナルダの草、番紅花、ショーブ、桂枝、さまざまの乳香の木、さらに没薬(もつやく)、芦茴、いっさいの高貴な香物なり。なんじは園の泉水、生ける水の井、レバノンより出づる流水なり。北風よ起これ、南風よ来たれ、わが園を吹いてその香気をあげよ」

 きっと、すばらしい匂いなのだろう。

 最近のレバノン、さらにパレスチナ情勢を考えるとき、ふと、この雅歌の一節が心をかすめる。世界最古の匂いの表現という。

 コペル、ナルダの草とはどういう草なのか。どういう匂いなのか。

643

 
 戦争が末期的な状況になっている、誰もがそう思っていながら、口に出すことがなかった。

 長年、外国の商社ではたらいていた父の昌夫は、戦時中は「石油公団」に配属されて、戦局が悪化してからは、軍の上陸用舟艇のエンジン部門の技術者になっていた。帰宅時間は私より遅かった。
 私の場合は、工場は定時に終わっても私鉄をいくつも乗り換えるので、どうしても8時過ぎになる。帰宅しても、灯下管制で本を読むこともできなかった。それに、私には早く帰りたくない理由があった。

 いくら罹災者どうしであっても、二十歳ぐらいの娘とおなじ部屋で寝るというのは息苦しかった。お互いにまったくことばをかわさなかったが、若い娘の肉体がすぐ近くにあるというだけで、私は胸苦しくなるのだった。
 よそめには、無一物の家族が必死に寄りそって暮らしているように見えたかも知れないが、警戒警報が解除されるまで、外に出ていると、いつのまにきたのか、娘さんが私のとなりに立っていた。横浜あたりの空が赤くなっている。
 娘が黙って、私にしがみついてきた。からだのふるえがとまらなくなっている。
 私は、ふるえている娘さんに腕をまわして、黙って赤い空を見つめていた。
 その晩、父がなかなか帰ってこなかった。

 夜明け前に父が疲れきってもどってきたが、その娘さんが起きてきて、父を抱きかかえるようにして部屋につれていった。父は空襲で途中の駅で下ろされ、乗り換えの駅まで数時間かけて歩いたらしい。誰も口をきかなかった。まるで、芝居のだんまりのようだった。私は父のとなりに倒れるようにして眠った。
 私が眼をさましたとき、いつものように娘さんは出勤したあとだった。

 父の昌夫も私もひどい栄養失調だった。昌夫はげっそり痩せてきた。私はいつも飢えていた。父もおなじだったはずだが、そのことはお互いにふれなかった。
 闇で食料を買うにしても、職場ではどうにもならない。田舎に買い出しに行きたくても、工場を休むこともできない。
 戦争末期のあわれで、悲惨な日々。

 7月、私の工場(当時、皇国5974工場と呼ばれていた三菱石油川崎工場)は、爆撃を受けて壊滅した。このとき、九州の小学校を卒業してすぐに集団で徴用されてきた少年工が多数爆死、焼死した。
 私は、3月の大空襲でやられ、5月に渋谷で、6月に横浜で、7月に川崎で、空爆、機銃掃射をうけたが、なんとか生きのびてきた。私程度の経験はめずらしくもないだろう。
 だが、私はあまりにも多くの死を見てきた。そして、いつも飢えていた世代なのだ。

642

 テレビで、マンガ家のやなせ たかしが話していた。
 当時、中国戦線に配属されていたらしい。
 「戦争でつらかったのは、飢えたことだった。何も食べるものがありませんでした。つらい日々でしたね。」(07/7/6 NHK1 9:20am)

 1945年。私は学徒動員で川崎の石油工場にいた。3月の大空襲で本所で罹災し、まったく無一物になったあと、5月に渋谷でまた焼け出された。空襲の翌日、母は食料を確保するために栃木県に疎開した知人をたよって那須に行った。当時、渋谷の女学校に通っていた妹は埼玉に疎開した祖母にあずけられた。学業をつづけるために田舎の女学校に転校した。
 私の一家は、この空襲で、わずかな家財道具もすべて失って、ついに離散したのだった。

 父、昌夫と私は、当時の渋谷区の斡旋で、沼袋に移った。緊急に罹災者の宿泊場所が割り当てられて、私たちにあてがわれたのは、海軍の将官の屋敷の女中部屋だった。
 六畳間だったが、渋谷か三軒茶屋あたりで焼け出された家族と同居することになった。この人たちも着のみ着のままで逃げた母娘ふたりだった。
 母親は上品な初老の婦人だった。娘は私より年上で、はたちか二十一、徴用の女子挺身隊で丸の内かどこかに通っていた。私は17歳。中学を卒業せずに、明治の文科に進んだので、いちおう大学生だった。
 よそめには、まるで4人家族がそろって暮らしているように見えたかも知れない。

 同居している母娘は、私たちの帰りを待ってから、遅い夜食をとるようにしていた。これにも理由があった。3人がそれぞれ職場に出て行くのだから、昼間この部屋にいるのは老女だけなので、私たちの配給物資もいっしょに受けとってくれた。
 配給といっても、絶対量がきょくたんに少ない。なにしろほんの一升程度の大豆が、配給されるだけだった。私たちが帰宅してから、それをきっちり二等分する。
 つまり、少しでも不正に見られるのがいやだったらしい。
 老女が私たちにそこまで気を使わなければならなかったのは、食料の多い少ないでみにくい争いが起きるからだった。
 食事といっても、大豆を老女がゆでたものが、丼にはんぶんばかり。一滴の醤油もなかった。かすかに塩味がついていた。
 四人そろって、無灯火の、暗い闇のなかで小さなテーブルを囲む。お互いにほとんど話題はなかった。食事あと、お茶の一杯も出なかった。
 毎晩、敵機の来襲が知らされて、防空壕もない屋敷で、知らない他人どうし、父子、母娘が息を殺すようにして過ごす時間はつらいものだった。
 戦争でつらかったのは、飢えたことだった。何も食べるものがなかった。つらい日々だった。

641

 
 メキシコを舞台にした芝居(翻訳劇)を演出したとき、これを見てくれた外国人が感想をのべてくれた。いまでも忘れられない。
 とてもいい芝居だったけれど、女優さんたちがみんな可愛いので困ったね。

 私としては自信のあった舞台だけに、ちょっと動揺した。

 外国の芝居なのだから、舞台にあらわれる女として、日本の女性では肉体的な意味でつりあいがとれない。しかも、表現がまずい。女としての「色気」がない。
 つまり、芸の未熟ということになる。
 さらには、そのまま演出がよくなかったということになる。

 日本の女性と外国の女性の体躯の違いについては、どうしようもない。だから、これはどうすることもできない。当時の私はそう考えた……と思う。
 しかし、現在の女性は、一般的に、身長、体重、栄養状態、からだつき、動作からファッションまで、いちじるしく洗練されてきて、外国の女性にひけをとらない。
 舞台に出て、みごとな姿態を見せている女優さんたちも多い。
 これは女性美というものが、女としてのスポンタネ(生まれついて)の美が、自然にあふれ出すだけにとどまっているからではないだろうか。

 外国の舞台女優がかもし出す、それこそ名状しがたい「色気」、ちょっと表現できないうまさは、日本の舞台女優にはなかなか見られない。
 これは女優のもつフレグランス(香気)としかいいようがない。

 名女優たちの舞台を見てきた。

 たとえば、水谷 八重子(先代)、田村 秋子。
 市川 紅梅、筑波 雪子、森 律子、夏川 静江。

 残念ながら、舞台の岡田 嘉子は見たことがない。私は杉村 春子を映画の名女優と見ている。竹久 千恵子も映画の名女優のひとり。
 ガルボは今でもすばらしいが、ノーマ・シァラー、ジョーン・クロフォード、メエ・ウェストなどは少しも大女優に見えない。かえって、マール・オベロン、ジンジャー・ロジャース程度の女優のほうが輝きを失っていない。

 なぜ、ある女優にそれがあって、別の女優にはそれがないのか。
 私にとっていまだに答えの出ない難問の一つ。

 さらに、この問題は長い年月をかけて、私の内面でさまざまに発展して行った。もし、これが才能の問題とすれば、たとえば、ある芸術家に才能があって、なぜ、私には才能がないのか。

640

 夕涼み。
 路地に縁台を出して、浴衣の胸もとに団扇で風を送る。銭湯帰りに、酒屋の店先で、一合枡にたっぷり注いだ配給の酒をキュッとあおる。空襲がひどくなるまでは、そんな姿をよく見かけた。

   夕すずみ よくぞ男に生まれけり

 この句が其角の作ということは忘れられている。

 其角の句は、「洒落ふう」とよばれる、通俗的なものが多い。同時代の評判記、「花見草」は、其角を花魁の太夫に見立てて、「松尾屋の内にて第一の太夫也」という。
 琴、三味線、小唄、どれも特別に習ったこともないけれど、生まれつき器用な「品」があって、小袖の模様、ヘアスタイルまで自分で工夫してしまうほどの「いやなはなし」が身についている。「国々にても恋ひわたるは此の君也」という。つまり、一度はこの花魁と寝たり、見たこともないのにこの花魁にあこがれる男は各地にいる、という。

 おなじ芭蕉の門下、許六は、芭蕉と自分の作風は「俳諧をすき出る時、閑寂して山林にこもる心地するを」よろこぶのだが、其角の句は「伊達風流にして、作意のはたらき面白き物とすき出たる相違」がある、と批評している。「閑寂」は、わび、さびのことだろう。其角の句は、わび、さびよりも、発想のおもしろさを見るべきだという。

 其角の句は、無学な私にはよくわからない。そのかわり、其角の作なのに、

   これはこれはとばかりちるも 桜かな

 むろん、貞室の「これはこれはとばかり花の吉野山」のパロディー。

   雨蛙 芭蕉にのりて そよぎけり

 師の名句「かわず飛び込む水の音」を意識して、芭蕉門下の自分のありがたさを詠んだか、それともおのれのつたなさを卑下してみせたか。

   京町のねこ かよひけり揚屋町

 もともと「伊達風流」なのだ。通俗でどこがわるいのか。其角はそういっているような気がする。「鐘一つ売れぬ日はなし 江戸の春」も、私たちは其角の作と知らない。まさか、こんな句が後世に残るとは其角も想像してはいなかったろう。

 そういう其角が私は好きなのだ。

639

 
 1903年、エジプトの王家の谷で発掘された女性のミイラは、古代エジプト、第18王朝のハトシェプスト女王と判明した。(07/6/28)
 この女王は、在位、BC1502-1482年。女人ながら「ファラオ」を名乗った例外的な女王。古代エジプトとしては、最長の20年以上の在位期間で、前例のない権力をふるった。
 身長、165センチ。推定年齢、50歳。死因はガンらしいという。

 ミイラの頭蓋骨の写真を見たが、鼻梁が高く、眼の大きい美貌の女王だったのではないかと想像した。いいなあ。でも、きっと、こわい女王さまだったんだろうなあ。

 考古学、古代エジプト学について何も知らない。それでも、このニュースから、たちまち短編の二つ三つは書けそうな気がした。
 私が書くなら、短編ではなく芝居がいい。たちまち、頭のなかに装置(カザリ)、照明(アカリ)のプランがうかんできた。昔、「王家の谷」という映画があったっけ。内容もおぼえていないのだが、主演、スチュワート・グレンジャー、それに美少女、ジーン・シモンズ。それにしても、スチュワート・グレンジャーはへたな役者だったなあ。

 私が映画を撮るとして、ハトシェプスト女王は、ジーン・シモンズじゃないほうがいい。イギリスの女王だったら、これはもうヘレン・ミレンだが、中近東、エジプトの女王だからなあ。エリザベス・テーラーはダメ。「クレオパトラ」のイメージが強すぎる。それにうっかり彼女を使うと映画会社が破産してしまう。
 ハトシェプスト女王は50歳で死ぬのだから、年齢的に30歳前後で即位しないといけないだろう。まあ、20代の後半でいい。そうなると誰がいいか。鼻が高くて、美人となると、なかなかいないかも。
 ミイラのお顔から想像すると、ロザリンド・ラッセルあたり。眼つきがキツければ、アレクシス・スミス。少し低めなら、オルネラ・ムーテイ。
 もし、シナリオがすばらしかったら、コン・リーでもいいや。

 というふうに私の妄想はつづいて――
 私はこういうニュースが大好きなのだ。いろいろと妄想がうかんでくるから。暑さしのぎになる。

 暑い。

638

教室にきている人たちの写真を撮る。ただのスナップショット。
 写真はつぎに会ったときに進呈する。ただのスナップなので、ありがたみはない。撮られた本人としては記念写真にさえもならない。

 やがて時間がたって、アルバムの片隅にそんな写真を眼にしたとき、その頃のことを誰も思い出さないだろう。私のことも思い出すかどうか。

 しかし、私はそういう写真を撮ってはみんなにわたしてやる。趣味といってもいいのだが、自分では勝手に理由をつけている。

 戦時中、勤労動員で川崎の工場で働いていた。大学の授業はない。それでは可哀そうだというので、山本 有三、小林 秀雄が、わざわざ工場まできて講義をしてくれた。
 講義といっても質疑応答のようなもので、学生が何か質問すれば、先生が答えてくれるのだった。

 学生のひとり(むろん、私ではない)が、小林 秀雄に質問した。

 小説を書きたいのですが、小説を書く秘訣のようなものはあるのでしょうか。

 小林 秀雄は、どんな幼稚な質問を受けてもすぐに考えて答えてくれた。このときの答えは私の心に深く残った。いろいろ答えてくれたが、その一つ――あるイメージをいつでも心のなかによみがえらせる能力が必要だという意味のことを語った。(正確に小林 秀雄のことばを思い出しているわけではない。ここでは、私が彼のことばをどう受けとったか、ということになる。)
 こう語ったことは間違いない。
 暗闇のなかで、火のついたお線香をぐるぐるまわすと、まるい残像が眼に見える。あれとおなじことだ。自分の描こうとする人物が、いつでもいきいきと心に思いうかぶ。そういうことを作家は、倦むことのない鍛練で身につけてゆく。それは方法などではない。

 小林 秀雄が火のついたお線香と残像という比喩を使ったことをおぼえている。
 後年の私はこのことばを自分流にいろいろとパラフレーズして行く。

 はるか歳月をへだてて、私は自分のクラスにきている人たちのスナップ写真をとりはじめた。
 そんな写真になんの意味もない。しかし、時間がたって茶色に変色した写真の一枚を見たとき、彼女はそんなものから、ふと何か思い出すかも知れない。そこに写っているのは、教室や街路、近くの公園といったとりとめもないヒトコマだが、もしかすると、それは思いがけない残像を喚び起こすかも知れない。

 ただのスナップなので、撮られた本人にとっては記念写真にさえもならない。それを承知で私は写真を撮ってはみんなにわたしてやる。

637

 
 島崎 藤村の『夜明け前』の出版の祝賀会は、おそらく昭和11年(1936年)。私は小学生。

 戦後、もの書きになりたての頃、私もよく友人、知人の出版記念会や、いろいろなパーティーに出た。先輩の作家、評論家のお顔を眺めるだけでうれしかった。

 中村 真一郎のはじめての長編『死の影の下に』の出版記念会に、友人の小川 茂久といっしょに出た。このとき、中村 光夫がスピーチをした。これは、かなり手きびしい批判で、中村 真一郎はおもてを伏せて聞いていた。
 中村 光夫はこういったのだった。
 「中村 真一郎君は、この作品を筐底に秘めておくべきだった」と。
 つまり、出版すべきではなかった、という意味になる。『死の影の下に』は、中村 真一郎のデビュー作で、5部作の最初の長編だった。処女作といってもいい。中村 光夫としては、東大仏文の先輩として「どなたもほんたうの事を云って」やらないことにいらだっていた、と見てもよい。
 中村 真一郎は眼を伏せて黙っていた。会場の人々は粛然と静まり返った。いや、私の印象としては、誰の胸にも中村 真一郎に対する同情があって、中村 光夫の発言に対する無言の非難があったと思う。

 私といえども、中村 光夫の批評が徹頭徹尾、不当なものだったとは思わない。

 しかし、この発言は、中村 光夫の批評にひそむ侮蔑、少なくとも後輩に対する底意地のわるいまなざしを感じさせた。その後、私自身が中村 光夫の悪罵を受けたことがあって、中村 光夫に対していつも警戒するようになった。

 やがて、私は知人の出版記念会にもほとんど出なくなった。そういう場所で見てきた「文壇喜劇」に興味がなくなったから。

 おかしなひとを思い出した。『死の影の下に』の初稿はどこかの『近代文学館』に所蔵されている(はずだが、実見したわけではない)。これについても誰も知らない、喜劇があるのだがここには書かない。

636

 島崎 藤村の『夜明け前』の出版の祝賀会があったとき、そうそうたる出席者が祝辞を述べた。
 そうした人々のスピーチが終わって、藤村が謝辞を述べた。

    藤村は感慨に耽り込んだやうな、そのために少しぼんやりしたやうな顔付きで静かに立上がり、暫くうつむき加減に黙って立ってゐたが、やがて顔をもたげ、太い眉をきりりと上げて、そしてゆったりした口調でかう云ったのである。
    「わたしは皆さんがもっとほんたうの事を云って下さると思ってゐましたが、どなたもほんたうの事を云って下さらない……」
    そのまま又眼を伏せて暫く黙ってしまった。――人々は粛然と静まり返った。
 広津 和郎が書いている。

 藤村はつづけて――今日までやっとのことでたどってきた。自分でも、よくここまでやってこられたと思っている。さっき、徳田(秋声)君は、『暫く休息したら、又次の仕事にかかってもらいたい』といってくれましたけれども……いいえ、どうしてどうして、わたしはけっしてそんな鋼鉄のような人間ではありません。私はもうへとへとに疲れ切っています。わたしは、ゆっくり休みたいと思います、といった。

 私はこのときの藤村を想像して感動した。同時に、こうしたことを書き残してくれた広津 和郎に感謝したい気がした。
 ただし、すぐつづいての感想はもう少し違ったものだったが。

 『夜明け前』は、藤村一代の傑作である。昭和前期を代表する作品といっていい。それほどの作品の出版の祝賀の席で何がいえるだろうか。
 私は島崎 藤村の高潔さ、誠実に打たれながら、心のどこかで、ほんまにヤボなおひとやなあ、と舌打ちしたくなった。

 徳田 秋声が、「暫く休息したら、又次の仕事にかかってもらいたい」といったのは、友人としての心からのねぎらいだったに違いない。
 いずれ名だたる文士の集まる出版記念会の雰囲気で、「どなたもほんたうの事を云って下さらない」のは当然といってよい。まして『夜明け前』ほどの作者を前に何ほどのことがいえようか。
 まともな作品論を開陳したところで、それこそ誰も聞いてやしないだろう。
 そんな出版記念会で、心から祝辞を述べても主賓に「ほんたうの事を云って」ないと思われるのはたまらないだろう。
 作家がほんとうに「もうへとへとに疲れ切っている」とき、どんなことばも慰めにはならないのだ。
 私は島崎 藤村の誠実に打たれながら、「ヤボな」作家だと思っている。

 作者としてはそんな祝賀会のあと、ほんの数人の「仲間」と心おきなく杯をあげ、酒をくみかわしたほうがよほどうれしいだろう。
 藤村にはそうした「仲間」がいなかったのではないか。
  (つづく)

635

 子どものころから、おっちょこちょい。

 「耕ちゃん、お使いに行っとくれ」
 母の声がする。
 「はーい」
 つぎの瞬間、学校帰りに脱ぎすてたズックをつっかけて、外に出ている。二、三歩あるきはじめると、母の声が追ってくる。
 「どこへ行くの?」
 「だって、お使いに行くんだろ」
 「用事も聞かないで飛び出すなんて、そそっかしい」
 「ああ、そうか」

 じつは、お使いの帰りに駄菓子屋に寄って、アメダマ、ラムネ、オセンベなどを買うことだけは忘れていない。トシケという子ども相手のクジがあって、うまく当たればアンコ玉がもらえる。
 はじめから駄菓子屋に駆け込む寸法なので、お使いを頼まれるのがいやではなかった。
 「ほんとに、おっちょこちょいだねえ、おまえって子は」
 こんなことはしょっちゅうだった。

 小学校の帰り、友だちから借りた本に夢中になって、ときどき電信柱に頭をぶつけた。山中 峯太郎、佐藤 紅緑、南 洋一郎、たいていの作家は頭にゴチンときた。
 中学生のとき、人にぶつかったことがある。前が見えない。巨漢だった。眼をあげると、よく知っている顔があった。
 その頃、古川 ロッパの劇団にいた、デブのコメディアン、岸井 明だった。私は、彼の舞台も、映画もよく見ていた。
 チビの私は、彼の股間にもぐり込むようにしてぶつかったらしい。
 「ごめんなさい」
 私は帽子をとって、おじぎをした。
 岸井 明は不愉快そうな顔だったが、私をジロリと睨みつけて、ノッシノッシと去っていった。

 そのとき読んでいた本は、忘れもしない矢野 龍渓の『浮城物語』。

 いまの私はこれほどそそっかしくない。

 「お使いに行ってきてください」
 家人に声をかけられても、私は黙っている。
 近頃どういうものか耳が聞こえない。自分に都合のわるいことは聞こえない。特殊な「病気」、あるいは「超能力」が身についてしまった。(笑)

634

「彷書月刊」(7月号)の特集、「坪内祐三のアメリカ文学玉手箱」を読んでいたら、思いがけず私の名が出ていた。

    そのころある連載で、この本の訳者である常盤新平は、この文庫本についてこう書いていた。
    「学生時代に中田耕治氏に教えられて、私はペイパーバックのシグネット・ブックではじめて読んだ。すごい小説だと思った。それから十五年ほどして、これが映画化されたとき、私は幸運にも翻訳する機会にめぐまれたのである。(後略)

 常盤新平の文章は『ニューヨーク紳士録』に出ていたものらしい。
 この「本」は、ホレース・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』(角川文庫)である。

 戦後、私はアメリカ兵が読み捨てたペイパーバックをやたらに買いあさった。アメリカ文学についてまったく知らなかったので、とにかく何を読んでも、自分がいちばん先に「発見」したような気がした。
 『やつらは、廃馬を射殺するじゃないか』というのが、当時、私の頭にあった題名だった。はじめて読んだとき、私はしばらく茫然とした。アメリカの作家で、こんな小説を書くやつがいる! それからは、友人たちにホレース・マッコイを吹聴しては、しきりに読むようにすすめた。柾木 恭介(のちに左翼の映画評論家)も私のすすめで読んだひとり。まだ学生だった常盤 新平にもすすめたのだった。
 しばらくして、<NRF>の作家たち、とくにサルトルや、カミュが、私と同じ時期にこの作品を読んでいたことを知った。なんとなく自分の眼がただしかったような気がした。なまいきな文学青年だった。

 都筑 道夫はミステリーとSFが専門で、福島 正実はSFを専門に読んでいた。私はミステリーもSFも読んだが、このふたりにかなうはずがない。結果的に、ふたりが読まないものを手あたり次第に読みつづけたことになる。
 当時、ホレース・マッコイを読んでいたのは、植草 甚一さんぐらいだった。私は、ホレース・マッコイのほかの作品を探し出して、5冊ばかり読んだと思う。しかし、『彼らは廃馬を撃つ』を読んだときほどの驚きは消えていた。

 はじめて読んだときから、いつかこの小説を翻訳したいと思ったが、無名だった私に翻訳できるチャンスはなかった。

 ジェーン・フォンダの出た映画は何度も見た。ついでに書いておくと、この映画を見てからジェーンに関心をもつようになった。
 この映画の公開をきっかけに常盤新平訳で『彼らは廃馬を撃つ』が出たときはうれしかった。常盤の訳なら私が訳すよりずっといいはずだったから。

 ホレース・マッコイは、私の青春の一ページだった。もう一人、私が夢中になったのは、B・トレヴン。彼もすごい作家だった。

 評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかにこのふたりの名前を書きとめたのも、私なりの思いがあってのことだった。

633

 一茶の文章を読んでいて、こんな話を見つけた。(以下は、私が要約したもの)

 下総の国、藤代という里に忠蔵という貧しい百姓がいた。老母とともに暮らしていたが、やがて夫婦に子がめぐまれた。貧しい暮らしなので、子守を雇えるわけでもなく、この女の子は地べたを這いまわりながらそだった。
 ことし八つになったが、とういうわけか、この子が「ただならぬ身」となって、九月三日に、あの桃太郎のように、くりくりした男の子を出産した。乳の出がよく、大甕の栓を抜いたように、部屋のムシロの外までほとばしるほどで、百姓夫婦は大よろこび。
 近所の人々も、押しかけてきて、まだ「井筒のたけにもたりない」のに、こんなめでたいことは、いまの世にくらべるものもない。永録の昔を眼の前にするような気がする、とはやしたてた。このうわさは、村から村にひろがって、やがて殿様のお耳に達した。
 殿様は、この男の子の名前をつけてやろうと仰せになった。
 そんなことから、ますます噂はひろまるばかり。見物にくる人はひきもきらず、お祝いに産着を贈るひともあり、五十文、百文の「おひねり」をくれる人も多く、まるで雪が降ったように、部屋のところところに山になっている。
 この百姓夫婦は、長年の貧乏暮らしも忘れて、老母を養うことができた。
 おそらくは、この老母を救うために、救世観音さまが男の子になってあらわれたまもうたのでもあろうか。このことを思えば、大きな竹の節々を切ると、そこから黄金がこぼれ落ちたという昔の伝説も、けっしてウソではないだろう。
 これは、デマではない。市川の月船という男が、昨日、わざわざ現地に行ってみたところ、その娘は少しも恥ずかしがらず、おもちゃのお人形さんでも生んだように、人々に見せていたという。

 一茶の文章をできるだけ忠実に書き写した。
 殿様は、土屋 治三郎。藤代の百姓、久右衛門方、忠蔵。老母は、かな(57歳)、せがれ、忠蔵は39歳。妻、よの(30歳)、八歳の娘、とや。九月三日生、男子、久太郎。
 一茶は、ちゃんと氏名まで記録している。

 八歳の女児が出産することがないとはいえないだろう。昨年、ペルーで、たしか七歳の女児が、妊娠、出産したことが報じられていた。

 私の関心は別のことにある。

 俳人、一茶がこうした「奇瑞」を記録したこと。一茶の生活も、百姓、忠蔵の暮らしむきとそれほど違っていたわけではない。
 一茶は「救世観音さまが男の子になってあらわれたまもうた」のでもあろうか、と考える。私は観音さまに対する人々の素朴な信仰心をありがたいものに思うけれど、一茶が、八歳の娘を妊娠させた相手をまったく気にとめていないことに気がつく。
 あえていえば、一茶がこうした素朴な民衆の物語に、宗教的な説話以上のものを見たのは、なぜか。

 「井筒のたけにもたりない」というのは、紀ノ有常の娘が幼いころ、着物の丈をくらべあった相手の在原 業平と、のちに結ばれることをさす。しかし、「永録の昔を眼の前にする」というのは、私にはわからなかった。どなたかご存じの方がいらしたら教えていただきたいと思う。

632

 香港返還10周年の記事で、思いがけず、艾 敬(アイ・ジン)のインタヴューが出ていた。最近、「私の2007年」というアルバムを出したという。これは是非にも聞かなければ。アイ・ジンは私がもっとも好きなアーティストのひとり。

 1997年、中国への主権返還の祝典で、王 菲が中国国歌を歌った(はず)が、日本のテレビはその直前に別のシーンに切り換えたので、これは見られなかった。
 私はその瞬間の中国民衆の顔を見たかったし、アーティストとしての王 菲がどういうふうに歌うのか、つよい関心をもっていた。見られないのでは仕方がない。

 日本のテレビ報道のウスノロぶり、センスのなさにあきれた。おなじことは、その後の9・11でも、ロンドンのテロでも、いやというほど見せつけられてきたものだが。

631

 7月1日は、香港返還10周年の記念日だった。
 返還10周年を記念して、香港映画を見ることにした。

 「刀馬旦」はぜひ見たいし、王 家衛(ウォン・カーウァイ)も選びたいのだが、この「刀馬旦」と「重慶森林」は、スランプのときに見ることにしているので割愛した。
 そこで私がまず選んだのは、「覇王別姫」(陳 凱歌監督)。これは、張 國榮追悼の意味もこめて。それに、コン・リーがいい。
 つぎに、「風雲再起」(程 小東監督)を。「東方不敗」の続編だが、ストーリーのなかに葵の紋章の下に結集した日本の忍者群が出没する。その大将が「霧隠雷蔵」という。 さすがに徐 克(ツイ・ハーク)らしいゲテモノ。あまりのアホらしさに驚倒するが、私には、林 青霞(ブリジット・リン)と、王 租賢(ジョイ・ウォン)が出ているだけでいい。この時期のブリジットを見ていると元気がでる。

 もう1本はどうしよう。
 周 潤発の「上海灘」というわけにはいかない。劉 徳華の「新上海灘」も、返還10周年に見る映画じゃないし。ロザムンド・クァン、レオン・カーフェイの「愛よりはやく撃て」も、香港の「黒社会」を描いているので返還10周年の記念に見る映画じゃないなあ。レオン・カーフェイの「天上の恋人」なんか見たら、一日、暗い気分になる。

 ピーター・チャンの「金枝玉葉」もいい。私の好きな袁 詠儀(アニタ・ユン)がかわいいから。しかし、「覇王別姫」で張 國榮(レスリー・チャン)を見てしまったから、あらためてレスリーを思い出して悲しくなると困る。
 いっそ「甜蜜蜜」(陳 可辛監督)にしようか。「金枝玉葉」でレスリー・チャンとアニタ・ユンがキスする。この「甜蜜蜜」では、黎明(レオン・ライ)が張 曼玉(マギー・チャン)とキスする。ちょっと「また逢う日まで」みたいに。

 もう1本、周 星馳(チャウ・シンチー)。
 ただし、「少林サッカー」は返還後の映画なので、「チャイニーズ・オデッセイ」みたいな映画がいい。笑える。
 おバカ映画が好きな香港電影三級片迷の私でも、王 晶(バリー・ウォン)を見るほど耄碌してはいない。

 香港返還後、あまり香港映画は作られなくなった。製作本数も激減している。そのかわり海外に進出した有名スターが多い。それはそれでいいのだが、新作の映画はすぐに海賊版のDVDが作られて、その被害ははかり知れない。
 香港電影迷の私にしても、返還後に見たものではサム・リーの「凶女」ぐらいしか記憶にない。

 笑うしかない。

630

 冬はまるで爆弾をかかえたアナーキストのように襲いかかってきた。
 あらくれた眼つきで、すさまじい叫びをあげ、激しい息づかいをしながら、全市を冷気でつかみ、骨の髄まで凍らせ、心臓を凍らせた。

 エド・マクベインの『麻薬密売人』の書き出し。私の訳。
 これは「87分署シリーズ」の第三作にあたる。あとで、井上 一夫が、にやにやしながら、「中田さん、冬はまるで爆弾をかかえた虚無党員のように襲いかかってきた、と訳してよかったね」と皮肉をいった。私はにやにやした。

 夏のニューヨークはどうだろうか。

 殺人的な暑さだった。七月はその汗みずくの筋肉を引きしぼり、ゴールを見据え、ニューヨークをドロップ・キックして、夏といううだるスチーム風呂へ蹴りこんだ。ある者はほうほうの態で逃げ出し、冷たい飲み物をちびちびやり、潮風を受けながらテレリンクで仕事をこなそうと、水辺の別荘へ逃れた。またある者は、包囲された部族のように糧食をたっぷりたくわえ、エアコンの効いた家に閉じこもった。

 J・D・ロブの「イヴ&ローク」シリーズ15作、『汚れなき守護者の夏』(ヴィレッジブックス)の書き出し。訳者は、青木 悦子。’07/6/20刊。
 このシリーズは前作『イヴに捧げた殺人』につづくもの。このシリーズは、『この悪夢が消えるまで』、『不死の花の香り』、『死にゆく者の微笑』から、青木 悦子の訳したものを読んでいる。
 どれを読んでもサスペンスフルだし、ヒロインの「イヴ」が魅力的で、気に入っている。それに、青木 悦子の訳がいい。

 ところで、ニューヨークに行くならやっぱり夏か冬がいい。天の邪鬼のせいだろうか。

  J.D.ロブ著 イヴ&ローク<15>、『汚れなき守護者の夏』(ヴィレッジブックス)青木悦子訳 

629

 いちおうは英語の専門家として、ときどき気になることがあった。

 最近はあまり使われなくなったが、ひところ、「ムーディ」ということばがはやった。美しい室内に、綺麗なモデルが立っていて、「ムーディな着こなし」とあった。これには、さすがにおどろいた。
 このモデルさんは、にこやかに微笑しているのに。

   Moody(形容詞) 気まぐれな むら気な
       気むずかしい 不機嫌な 暗い気分の
 
 こういう誤用に気がついたときは、私でも「ムーディな気分」になる。

 うっとうしい。今の季節のように。