708

1993年、ロシアの状況は混乱をきわめていた。政治的にも経済的にも。
 それまでまったく「存在しなかった」西欧の文化がどっと流れ込んできたのだから、芸術の分野も混乱や動揺がひろがっていることは想像がつく。そのなかで芸術家たちが何を考えているのか。

 ある日、ロシアの若いミュージシャンのロックを聞いた。
 「モスクワ・天使のいない夜」(UPLINK/1993年)、英語のタイトルは<Dog’s Bullshit>。「モンゴル・シューダン」というグループ。
 ロシア語がわからないのだから話にならないのだが、この若者たちにとって、ロックは、ジェフ・ベックであり、ミック・ジャガーであり、セックス・ピストルズなのだ。それは、混乱のなかで、はっきり手につかむことのできる価値であり、破滅であり、ロシアの現状に対する全否定なのだ。ゴルバチョフ、エリツィンはもとより、ハズブラートフ(最高会議議長)や、ルイシコフ(市長)や、はてはジリノフスキーのような愚劣な国粋派に対する反抗だったにちがいない。
 ロックは、一度死んで、また生き返ろうとしているスラヴの声なのだ。そして、ロックは、あの愚劣な絶対不可侵の無謬性に蔽われたロシアという、不可能の壁に対する果敢な挑戦だった。

 「ルーシシュ・シュヴァイン」で彼らは歌う。

   貧しくて汚い 悪臭ふんぷんたる わがロシア
   きさまの息子や娘たちは いまやクソまみれ
   きさまは いろんな連中を 育てやがった
   アナキスト 共産党 悪党ども 酔いどれ 変態 なまけもの
   おれたちは けだもの同然
   そこらじゅうに クソをヒリ出す
   互いに争い どこででも オマンコする
   ヨーロッパのようには 暮らせない
   何もかも どうでもいいや
   おれたちみんな どうせそのうち 精神病院にブチ込まれるさ
    (太田 直子訳)

 ルーシシュ・シュヴァインというドイツ語は、大戦中、ドイツ兵がロシア人を呼んだ蔑称、ロシア豚。

 敗戦後の日本の惨憺たる状況を見てきた私には、なぜか、彼らの歌はロシアの若者のほんとうの叫びに響いた。
 リーダーのワレーリ・スコロジェッドは、中学のとき、学校に火をつけて、警察に逮捕されたという。
 夜間学校に通学している友だちができた。あとになって、そのダチコウが、KGBの手先で、ワレーリのことを洗いざらい報告していたことがわかった。
 共産主義国家という、密告と監視のうえにきずかれていた体制が「モンゴル・シューダン」のようなグループを育てたことがわかる。

 いま、ロシアはふたたび繁栄を見せている。
 「モンゴル・シューダン」のようなグループは現在どうしているだろうか。

707

万能の人。ルネサンスに、ダヴィンチや、ミケランジェロのような万能人がいたことはまちがいない。

 万能の人という理念をはじめて展開したバルダッサーレ・カステイリオーネによれば、完全な宮廷人は、戦闘、舞踊、絵画、歌唱、作詩に長じて、君主のよき相談相手でなければならない。
 これだけで、私などは失格である。
 私の戦闘能力はゼロ。
 ダンスは踊れない。
 たまに水彩のごときものは描くけれど、人さまに見せられるようなものではない。まして油絵を描く才能も時間もない。
 カラオケにさえ行ったことがない。
 俳句をひねることはあっても、川柳にもならない程度。詩を書いたことはない。
 だいいち、宮廷人ではない。

 フィレンツェのフマニスタ、パルミエーリは、

  人間は多くのことをまなぶことができるし、多くの技芸に秀でることによって万能の人になれる。

 という。
 アルベルテイや、ブルネレスキのような人は、多くのことをまなんで、多くの技芸に秀でていたから「万能の人」といってよい。
 私はチンパンジーなみの計算しかできない。
 建築は、トンカチでクギ一本打つのさえやっと。五寸クギとなったら、もう私の手にあまる。
 天文学の知識は皆無にひとしい。星座どころか北斗七星さえ見分けがつかない。

 私がルネサンスの宮廷にいたら、せいぜい道化師か、下働きの園丁ぐらいだな。
 「万能の人」どころか「無能の人」の典型なのである。

706

(つづき)
 ことの起こりは、当時、東京一の大劇場だった「新富座」の十月興行。菊五郎(五代目)が、実録、「伊勢音頭」という新作を出すことになった。これに、東京各地の芸者さんがこぞって出演したという。

 出しもの(レパートリー)がすごい。
 一番目が「妹背山」。団十郎(九代目)が初役の「お三輪」。中幕が「矢口の渡し」。 二番目は、黙阿彌の「千種花音頭新唄」(ちぐさのはな・おんどの新唄)ときて、このなかで、東都の名だたる芸者衆の伊勢音頭を見せようという企画。プロデューサーは座主の守田 勘弥。
 勘弥が交渉したのは、柳橋、新橋の二ケ所だったが、話が大きくなって、霊岸島、新富町、葭町、日本橋、下谷、講武所の芸者衆が総出で応援することになった。
 出演料はなし。そのかわりアゴ、アシつき。
 芸者衆にしてみれば、あこがれの役者たちに接近できるのだから、いなやはない。しかも、それぞれの土地を背景に、芸でひけをとってはならぬ女の意地がからむ。
 花柳界は、この踊りのお稽古に熱中した。
 この興行については、葭町の米八と家橘(のちの羽左衛門)のロマンスから大騒動になるのだが、ここではふれない。
 興行は大ヒットした。

 このときの「伊勢音頭」で、「ヨイヨイヨイ」が使われる。たとえば、後年の「東京音頭」の・・・ヤットナァ、ソレ、ヨイヨイヨイも、この亜流。

 ここからが私の想像ながら、上方の「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ」は、この東京の「ヨイヨイヨイ」に対抗するものではなかったか。
 東京で流行ったものを「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ」と受けてみせた、とすれば、別のものが見えてくるのではないかと思う。

 明治20年、『浮雲』が登場する。翌年は『あひびき』、『めぐりあひ』。
 鴎外の『於母影』、露伴の『露団々』が書かれた時期に、芸者衆はヨイヨイヨイと踊りながら、女の意気地を見せていた。かたや、庶民はヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘと浮かれていた、という構図。

 おもしろい。

705

(つづき)
 ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘということば。
 それっきり忘れていたが、芸能史を読んで、明治20年代に、上方、とくに神戸の寄席で、いたるところ「ヘラヘラぶし」が流行したと知った。当時、西門筋の橘亭という美人ぞろいの席亭では、三年間、ぶっつづけでこれをやった。大阪からも女ヘラヘラの重尾一座が乗り込んで、美人の手踊りで評判をとった。なにしろ、連日、押すな押すなの札止めで、たいへんな人気だったという。
 重尾は「ヘラヘラヘッタカ」と詠ったらしい。
 この重尾姐さんが千日前で演じたときは、赤い襦袢に三千円の纏頭(はな)がついたというから、たいへんな熱狂ぶりだった。
 これ以上くわしくは書かないが、この踊りで何が見えたのか。

 してみると、エノケンの「法界坊」のヘラヘラぶしは、江戸風俗からきたものではなく、むしろ明治の流行をとりいれたものと見たほうがいい。ただし、エログロ・ナンセンスからエロティシズムぬきで。

 しかし、もうすこしちがう想像もできるような気がした。
 明治16年、東京の花柳界で、たいへんに流行したものがある。それは、「よいよい、よいやさ」であった。
    (つづく)

704

 子どもの頃に耳でおぼえたことば。意味もわからないまま過ごしてきて、ずっと後になってからハタと思い当たる。誰にでもあることだろう。

 映画「エノケンの法界坊」のなかで、「ヘラヘラヘ」という奇妙なことばを知った。むろん「法界坊」という軽薄な坊主が何か失敗したり、いいかげんなことをいって失敗をごまかすときに、首をすくめて、ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘという。
 子どもたちのあいだで流行した。その人気は今のお笑い芸人のキャッチフーズどころではない。
 子どもも大人もエノケンの真似をして、両手を小さく前に寄せ、背をかがめて、ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘとふざけて、ヒョコヒョコ歩いた。
 戦争がすぐ眼の前に迫っていることも知らずに。

 江戸時代に「しんぼ幸大寺」という俗謡が上方から江戸にかけてはやったが、それがヘラヘラぶしだったという。歌舞伎の「法界坊」もこれから派生した。内容が猥雑なものだったことは想像がつく。

  おたけどん、おたけどん、
  おまえのはながいね、唐までとどくね。
  ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ

 「法界坊」のエノケンは、当時の江戸風俗からヘラヘラぶしをとってきたのだろうと思った。
 「しんぼ幸大寺」の「しんぼ」はわからない。
  (つづく)

703

 女性の会話で、間投助詞というのか、語尾につけられる「わ」や「ね」ということば。あれはいつ頃から使われるようになったのか。
 国語学者に聞けばすぐに教えてもらえるだろうが、長年、誰にも聞く機会がなかったので、なんとなく気になっていた。
 為永 春水の『春色梅児誉美』では、

 「ナウお蝶、よもや藤さん其様な事はありもしまいねぇ」(巻之十)

 ザァマスことばは『春色梅美婦弥』に頻発するが、「あります」と、過去形の「ありました」という例も『春色梅児誉美』で見つけた。

 「だうりで知れないはずでありましたねぇ」(巻之八)
 『梅暦』の続編、『春色辰巳園』(しゅんしょく・たつみのその)のなかで、深川芸者の「米八」を「丹次郎」がひき寄せて、キスしようとする。「米八」は、それをふせいで、

 「アレサ、マア、私もお茶を呑むわね、と丹次郎の呑み欠けしちゃをとって、さもうれしそうにのみ、また茶をついで・・

 というシーンがある。「お茶を呑むわね」という語尾が印象に残った。
 おなじ春水の『英対談語』には、

 「オヤオヤおもしろい事を書いた本でございますネェ」(巻之七)

 「誰がいはずとも、自然(ひとりで)に知れますわ。それにはじめをいつて見ますと、其のおいらんの所へお出の途中で、雨が振ったのが、私の僥倖(さいはい)になりきとたのだから、柳川さんの方が、縁が先手(さき)でございますわ。」(巻之十一)

 「オヤ嬉しい、お前はんがいつもの様に、肝癪(かんしゃく)をおこさないで、左様仰しやるとまことにモウモウ、安心いたしますわ」(巻之十一)

 『浮雲』が発表されて、文語体の表現が小説から消えたのは明治41年という。
 しかし、日常のなかでは、はるか以前から女性の話の語尾が変化してきたらしい。

 もっとも今の女の子のしゃべっていることばは男と変わらないのだから、小説でかきわける必要はない。
 春水が生きていたら、どんな顔をするだろう。

702

 秋の雨が好きでも、雨の日はあまり気勢があがらない。
 漢詩を読む。

 閻 選。「河伝」。

  秋雨。秋雨。      秋の雨。秋の雨。
  無昼無夜。滴滴霏霏。  昼となく夜となく。しとしとピッチャン
  暗灯涼箪怨分離。    ともしび暗く 床は冷え 別れをうらみ
  妖姫。不勝悲。     うつくしい 姫君は かなしみにたえない

  西風稍急喧窗竹。    西風はややつよくして 窓の竹をさわがせ
  停又続。        吹きやんでは また つづく
  膩臉懸雙玉。      頬は 涙がながれる
  幾廻邀約雁来時。    いくたびか季節にたがわず 雁のくるときを迎え
  違期。雁帰人不帰。   時にたがい。雁は帰っても 恋人は帰らない

 『花間集』。花崎先生訳をもとに、私が勝手に訳したもの。

 この詩集にあらわれる美姫たちはまさに妍をきそい、紅欄に人を戀し、雲雨の夢をむすび、別れては枕になみだする艶冶の姿を見せている。

 若い頃の私は古典を知らず、中国の詩文に眼をくばることがなかった。外国語の勉強にいくらか時間をついやしていたためもある。
 いまさら後悔してもはじまらないが、その後、ようやく関心をもつにいたった。むろん、ときすでに遅い。

701

 秋雨。
 私は蕭条たる秋の雨が好きである。
 中国語を教えてくれた若い女性がロンドンにいる。ヴォルテールが「悪しき風」と呼んだロンドンの東風はどうであろうか。

 ヨーロッパも今年は異常気象に襲われたという。さなきだに、ミストラルや、フェーン、シロッコといった風は、そこに住む人々に、苦しみや悲しみをあたえると聞く。

 「私は大荒れの三日前から、息ぐるしくなり、乾燥は私の血脈を灼き、雪が降れば、すっかり弱ってしまいます。太陽が地平に消えるとき、なんともいえない不快なものがこみあげます。秋になると、木の葉のように生気がなくなり、三月、最初の日ざしが灰色の雲のドームをつらぬくと、私の血は血管のなかで植物の汁液のようにたぎりたちます。」

 セヴリーヌ夫人が書いている。

 いま、関東地方に雨が降っている。セヴリーヌ夫人なら寝込んでしまうかもしれない。

☆700☆

ブータンの国王が2008年に退位すると宣言した。
 国民の「幸福」を国是としてきた国王は、昨年、テレビ、インターネツトを解禁した。 突然、全世界のニューズが押し寄せてきたのだから、国民の意識が急激に変化した。それは国王のねがう「幸福」とは背馳したものだったに違いない。
 日本のテレビの取材に答えているブータンの小学生(女の子)を見ているうちに、自分の小学生の頃を思い出した。

 学校から帰ってランドセルを投げ出すと、すぐに台所に飛んでゆく。
 「ただいま」と声をかけて、
 「何かないの」
 と聞く。
 「オセンベがあるよ」
 母が答える。
 せいぜいオセンベが2枚。ビスケットなら5、6枚。何もないときはムギコガシ。当時の子どもたちのオヤツは、せいぜいそんなものだった。
 オヤツをバクつきながら、また家から走り出す。
 「早く帰ってくるんだよ」
 という声も聞いていない。

 私の家のすぐ前に、愛宕橋があった。
 橋のたもとに、梁川 庄八/首洗いの池がある。梁川 庄八は、浪人の身で、伊達藩の首席家老、茂庭 周防守を青葉城の外に待ち伏せ、その首級をあげ、血のしたたる生首をかかえて逃走した。逃げる途中、小さな池があったので、仇敵の首を洗ったという。講談に出てくる。
 史跡はそのままの池が残っているのではなく、大谷石で四方、一間幅の長方形に囲んだ小さなみずたまりになっていた。手入れもしないので、まわりは低い灌木と雑草が繁っている。昼でも薄気味のわるい場所だった。

 橋の下、首洗いの池から崖をつたって広瀬川のほとりに降りる。水際が迫っているので、足をすべらせると危険だった。そこをわたると、すぐ先に放水路の流れがつづいて、そこから、浅瀬をわたって小さな砂州になる。
 そこが私の王国だった。

 ガマや青ダイショウはいなかった。
 トンボ、バッタ、ときにはイナゴも見つかる。川面に、ハヤやアユの群れが動いている。板切れか棒の先にクギを二、三本、打ちつけただけのヤスで、岩にひそんでいるドンコを刺したり、フナの稚魚を石のあいだに追い込んだり。
 そんな遊びにあきると、草むらに寝そべって雲を眺める。まだ、新しい号が出ていない「少年クラブ」を読み返す。もう何度も何度も読んでいるので、懸賞に当選した全国の少年たちの名前まで読むのだった。

 「遅かったねえ。どこに行ってたの。お使いを頼もうと思っていたのに」
 母がかるく睨む。
 「わかった、すぐにお使いに行くよ」

 夜はラジオを15分だけ聞く。村岡 花子先生の「子供の時間」だった。毎晩、このラジオを聞いた。花子先生はわかりやすい綺麗なことばで、いろいろなニュースをつたえてくれるのだった。

 ブータンの小学生(女の子)が、日本のテレビの取材に答えていた。
 「テレビがきてから、家のなかで会話がなくなったの」

 自分の小学生の頃を思い出す。テレビもインターネットもなかった時代。
 少年時代、私はほんとうに幸福だったような気がする。

699

人生をふり返って、男女をとわず、親しい友人がいたことを考える。

 しかし、ほんとうに親しい仲間だった友人が、自分より先に鬼籍に入ってしまったり、ある時期、お互いにかけがえのない友情をもちつづけていたはずの、友人たちと、あまり関係がなくなる。たとえば文通がだんだん間遠になって、お互いに会うこともまれになる。ときには、あれほどにも堅固にお互いをしっかり結びつけていた絆が、それぞれの身辺の事情や、仕事の性質から、いつしか力を失ってゆく。
 若い頃の友情などは、中、高年になってしまえば、気恥ずかしいものとして忘れてしまったり、思い出すにしても、どういうものか、ある程度の悔恨さえともなう。
 誰にでも経験のあることだろう。

 たいていの場合、友情は長つづきしない。
 友情とは、恋愛とおなじくはかないものなのか。
 恋愛で苦渋をなめたあげく、失恋でうちのめされたりする。しかし、だからといって、その恋を気恥ずかしいものと思ったり、悔恨をともなうだろうか。
 恋をしているときは、相手の存在が、みるみるうちにめくるめくような力をふるう。それは自分の人生の未知の部分が開示されるような気がするからだ。つまりは、この世で、自分とはちがう別なものを認識する唯一のチャンスだが、友情は、それとはちがって、年をとるにつれて、成熟したり衰えていったり、なんらかちがった姿になってゆく。だから、それぞれの時期に友人ができても、たいていの場合、長つづきしない。

 私の不幸はたいせつな時期に、たいせつな友人たちとつぎつぎに別れなければならなかったこと。

698

老年になって、あまり小説を読まなくなった。
 むろん、例外はある。ジャネット・アンダーソンの『さくらんぼの性は』や、『灯台守の話』や、ニコルソン・ベイカーの『もしもし』や、『フェルマータ』のような小説は別。こういう小説はなんといってもおもしろい。それに、岸本 佐知子の訳がすばらしいから。
 しかし、最近になって、あまり小説を読まなくなったことは事実である。
 これまでの私はいちおう批評家だったので、たくさんの小説を読むことが仕事だった。それこそ手あたり次第に読みふけってきた。いってみれば、作品という死体をむさぼり食うグール(食屍鬼)のようなものだった。
 その頃の私は、舌の感覚も無視して、ひたすら美味をむさぼる餓鬼のように、ただもう食べることに夢中だった。
 グール(食屍鬼)にだって夢はある。私が批評家としての夢に憑かれていたといっても、そう見当違いではないだろう。

 その私があろうことか、美味珍味にあきあきしたグルメのように、小説にあきてしまった。私が、「ハリー・ポッター」や、「グラディエーター」や、「バイオハザード」といった映画を見るよりも、「恋する惑星」や、「マルコヴィッチの穴」や、「チョコレート工場」といった映画に興味をもつようになったことに似ている。
 ついでにいうと・・・似ている(ライクネス)と好き(ライキング)は、おなじだそうである。

 小説を読まなくなった私が好きになったのは、歴史、それもごくかぎられた時代に生きた人々だった。たとえば、ルネサンスの人々。
 それもダヴィンチ、ミケランジェロといった天才たちではなく、歴史の流れのなかに浮かんでは消えてしまった人々が、好きになってしまった。
 その人々は、いろいろな資料にちらっと顔を見せるだけだが、どうかするとその時代の雰囲気を強烈に感じさせたり、その時代の体臭を身につけている。それぞれの人が、私のひそかな夢をすでにみごとに実現しているような気がした。
 とくに女性には、彼女のことを考えていると、自分のまわりに知らない時間が流れて、自分がローソクを手に、彼女の部屋に通じている階段を、そろりそろりとしのび込むような気がした。彼女たちは、ビアンカ・カッペロとか、ヴィットーリア・アッコランボーニという名前の女たちで、ときには、いともやすやすと私にいのちを投げ出しているくせに、なかなかからだをゆるさない。私の腕に抱かれても、まるで感情をみせない女もいた。それがまた、古代の処女のようなコケットリーにさえ見えるのだった。それぞれに歴然たる程度の差はあったけれど。
 そういう人の生きかたを調べたり、わからなければわからないなりに、自分の内面で再現してみたい。
 それも作家の仕事といっていいのではないだろうか。私はそう考えたのだった。

 私は評伝というかたちで、いつも興味ある人間だけを描こうとした。
 評伝で書こうとしたのは、その人物ととことんつきあうことだったし、ときには格闘したことで、史伝などとは関係がない。むろん、関係がないといいきるのは間違いだが、あえていえば、彼、彼女と手をたずさえて、その時代をひたすら走り抜けるよろこびといおうか。

 中国古代、楚の詩に、

   子 手をまじえて 東に行き
   美人を 南浦に 送る (河 伯)

 という情歌があるが、私の評伝はそんな気分のものにすぎない。

 八十歳、私のさしあたっての文学的総括である。

697

 11月5日、私は80歳になる。別に感想はない。

 今日(11月3日)、安東 つとむ、田栗 美奈子、真喜志 順子が発起人で、私のために知人、友人たちが集まってお祝いのパーティーを開いてくれた。たいへんな盛況だった。参加してくれた人々は約50名。ほとんどが女人ばかり。
 自宅で安静にしていなければならない浜田 伊佐子は、わざわざ手紙をくれた。仕事で忙しい人たちも電話や手紙で、お祝いのことばをつたえてくれた。
 心からありがたく思っている。

 80歳になって、つまらぬ感想を述べるくらいなら、好きな詩の一節でも引用したほうがいい。少しは利口に見えるだろう。

   牽拙謬東シ
   浮情及西コン

 戯訳。
   わかき日を 才なく うかれすごしけり
   うかれうかれて いまは じいさま

 原詩は中国古代の詩人、沈 約。

 「少年老い易く 学なりがたし」よりも、どこか覚めているところがいい。

 他人のことばを借りておのれの現在を語るというのは「才なき」証拠だが、他人のことばにおのれの及びがたいものを見ることも老年の楽しみのひとつ。

 アメリカの名女優、タルラ・バンクヘッドのことば。

   もし、人生をもう一度生きるとしたら、おなじ誤りをそのままくり返すわ。
   ・・・もう少し早い時期にね。

 さすがは名女優。宮本 武蔵の「我が事において後悔せず」ほどにもすばらしい。
 やはり、私など及びもつかない。

 ここで少し補足しておけば、ありがたいことにこの11月の集まりが、人生最後のパーティーになる。
 今後、私はこうした集まりに出ることはない。

696

戦後、衣食住のすべてが逼迫していた。

 戦災に会わなかった友人の椎野 英之の家に、私と同期の小川 茂久が間借りをしていた。小川は、七月に入って招集されて、陸軍の最後の二等兵になったが、翌月、終戦で、すぐに復員した。やがて、世田谷に移ったので、その部屋が空いた。そこに、中村 真一郎が移ったのだった。
 私は、毎日のように、椎野の家に遊びに行っていたので、椎野が紹介してくれたのだと思う。私はすでに「近代文学」の人々と会っていたから、中村 真一郎が、戦後、最初に会った文学者というわけではない。
 ある日、遊びに行った。誰もいなかったので、二階の椎野の部屋に入った。襖戸ひとつで仕切られているとなりが、中村 真一郎の部屋だった。
 六畳二間ぐらいの部屋だった。部屋の片側に作りつけの書棚が並んで、そこにぎっしりとフランス語の本が並んでいた。驚嘆した。
 東大仏文の出身で、たいへんな博識の文学者だということは知っていた。その蔵書の量の多さに度肝をぬかれた。しかも、すべてフランス語だった。
 中村 真一郎の読書量はこんなにも多くて、しかもこの原書を読みこなしている!
 眩暈のようなものを感じた。

 このことは私に大きな影響をおよぼした。
 (1)とにかく外国語を習得しよう。中村 真一郎ほどの勉強家にはおよびもつかないが、せめて、一つだけでも語学を身につけよう。
 (2)しかし、中村 真一郎とおなじ語学を勉強するのはやめたほうがいい。とても追いつけるものではないから。
 つまり、フランス語はやらないほうがいい。中村 真一郎、加藤 周一、福永 武彦のような秀才にかなうはずがないのだから。
 (3)それでは、別の語学を勉強しよう。

 まったくもって、あさはかな考えだった。

695

 私の好きなことば。たくさんある。

 そのひとつ。

   私はすべてのものに勝った。だが、最後に敗れた。
   目的には達したが、いま、ここに倒れる。
   運命は私より強かった。・・
   私の愛したひとは、もはやいない。私も死ぬ。

 アルセーヌ・ルパン。

 私も、せめてこの1/10ぐらいの実質をもったことばを残して死にたい。

 アルセーヌ・ルパンはこの遺書を残して、みごとに逃げてしまうのだが。

694

 さる良家のお嬢さんが、お見合いをなさった。
 いまでも、お見合いという儀式が行われているのか。世事にうとい私は、にわかに興味をもった。お見合いをなさって、二、三日後に、話を聞かせてくれた。

 その日の彼女は和服をお召しになった。しずしずと控えの間にお着きになる。相手の男性が、つぎのつぎの間にひかえている。彼女はここで大きな姿見の前で、わずかにほつれたおくれ髪を直したり、メークをお直しになって、ややうつむいてお母さまのうしろにしたがって、お見合いの間にお入りになる。
 相手の男性は、一流大学を出て、これも有名な商社に勤務している。
 お互いの挨拶が終わって、お嬢さんも顔をあげた。
 男性は、もう三十代で、いわゆるイケメンではないが、いそがし過ぎて結婚相手が見つからなかったらしい。
 「どちらの大学(をご卒業)でしたか」彼が聞いた。
 そんなことは、とっくに知らされているのに。
 「はい、XXの・・」
 あとが出ない。
 「ご趣味は・・」
 「はい、茶道、お花、ピアノも少しばかり」
 あとがつづかない。お互いに沈黙している。シラケた気分。

 私は笑った。いまどき、こんな古風なお見合いがあるのだろうか。

 「それで、どうなったの?」

 彼女が笑った。
 「きまってるじゃないの」
 「え?」

 彼女のほうから誘ったらしい。

693

 女優のジェーン・ワイマンが、カリフォーニア、パームスプリングスの自宅で亡くなった。(’07.9.10.) 享年。93。
 つい数年前に、シモーヌ・シモンが、92歳で亡くなっている。この世代の女優たちではジェーンも長寿といえるだろう。

 彼女の代表作としては「失われた週末」(45年)と、「子鹿物語」(46年)が思い浮かぶ。「ジョニー・ベリンダ」で、アカデミー賞を受けている。
 40年に、二流の俳優、ロナルド・レーガンと結婚したが、48年に離婚した。離婚しなかったら大統領夫人になっていたはずだが、ジェーンとしては、ナンシーを羨望するようなことはなかったと思われる。

 彼女の訃を知って、ヒッチコックの「舞台恐怖症」(Safety Curtain)を見た。マルレーネ・ディートリヒの主演。ヒッチコックとしては、後年の「劇場殺人もの」に発展してゆくミステリー最初の布石といっていい。ディートリヒとしては、後年の「情婦」に発展してゆくミステリー最初の映画。
 妖艶なディートリヒに対して、清楚で、おとなしいタイプのジェーンが配置されているわけだが、ジェーン・ワイマンがヒッチコックのお気に入りのタイプだったかどうか。

 ジェーン・ワイマンは、それほど美貌ではなく、ガマグチ・ワイマンとあだ名をつけられていた。おなじように、それほど美貌ではなかったが、演技的にしっかりしていたドロシー・マッガイア、ナンシー・ヘールなどとおなじように、映画のなかでしっかりとした存在感を見せるタイプ。
  役柄はありきたりのアメリカ中産階級、ごく平均的なハウスワイフ・タイプの女性といった感じだった。「失われた週末」では、アルコール依存症の無名作家を立ち直らせようとして献身的につくす婚約者。「子鹿物語」では、貧しく、苦しい辺境の生活に耐えながら、忍従のなかでいつしか夫や子どもにも心を閉ざしてしまう開拓者の妻。
 「ジョニー・ベリンダ」では、当時の厳格な検閲ではまったく表現されることのなかった、非性的(アセクシュアル)な女、あるいは、不感症(フリジッド)的な女をみごとに演じていた。

 ジェーンのひたむきさが、映画にどこかあたたかみを与えていた。別の女優の例としては、「シェーン」のジーン・アーサーがこれに近いだろう。
 ヒッチコックは、ジェーンの眼、とくに恐怖に直面したときの眼に注目していたのではないかと思う。いわゆる眼千両である。ヒッチコック映画に出た女優たち、イングリッド・バーグマン、ジェーン・フォンテン、ティピー・ヘドレン、ドリス・デイ、キム・ノヴァク、ヒッチコックはジェーン・ワイマンのような眼のクローズアップ・ショットを撮っていない。(「めまい」で、キム・ノヴァクの眼のクローズアップは出てくるが、これは演出上の意味がちがう。)

 ガルボ、ディートリヒ、ノーマ・シァラー、ジョーン・クロフォードの時代が去ったあと、どちらかといえば小粒なスターが輩出する。
 こういう比較はあまり意味がないような気がするけれど、アイダ・ルピノ、アレクシス・スミス、スーザン・ヘイワード、ルース・ローマン、ナンシー・ヘールといった二流のスターたちのなかで、ジェーン・ワイマンはいつもつつましやかで、輝かしい存在だった。
 彼女たちのすぐうしろに、エリザベス・テーラーと、マリリン・モンローの時代がつづいている。

 ロナルド・レーガンと離婚したあと、ある作曲家と再婚したジェーン・ワイマンは、当時まだ無名のマリリン・モンローと知りあった。マリリンは撮影所で音楽を担当していたフレッド・カーガーと恋愛していたが、スターレットとも呼べない大部屋の女優だった。
 ジェーンは無名のマリリンと親しくなって、いろいろと世話をした。ジェーンは、無名のマリリンに何を見たのだろうか。
 ワイマンはすでにアカデミー賞をうけた女優だったが、この時期からハリウッドから遠ざかってゆく。マリリンはこの直後からスターダムにのしあがって行く。

 お互いの人生で、一瞬、交錯しただけのかかわりだったはずだが、ジェーンはマリリンに好意をもっていた。マリリンもジェーンに感謝の気もちを忘れなかった。
 ハリウッドという地獄にはこういう関係もある。

 合掌。オム・タラ・トゥ・タレ・トゥレ・ソハー。(ある本でおぼえたお経の一節)。

692

 昔、宋の時代のおじいさんの話。名は、陳 脩。73歳。

 「解嘲」の詩を詠んだ。

   読尽詩書五六担  読みつくす 詩書 五六たん
   老来方得一青衫  老来 はじめて得たり 一青衫(せいさん)
   佳人問我年多少  佳人 我が年の多少を 問わば
   五十年前二十三  五十年前 二十三

 私は、『詩経』、『書経』はもとより、ありとあらゆる思想、哲学書から稗史小説まで、車に五つも六つも積まれたほども読んできた。
 ヨボヨボのおじいさんになってから、科挙の試験に受かって、やっとお役人になれた。 美人に、ねえ、お年はいくつときかれたら、ああ、五十年前は、二十三だったよ。

 「解嘲」の詩は、他人のあざけりに対して、弁解するもの。
 可哀そうな陳脩先生。いまの私そっくり。いや、私はもっと老いぼれている。

 このおじいさんをあわれにおぼしめした天子は、後宮のなかからひとりの美女を選んで妻として賜った。彼女の名は、施氏、三十歳。

 チェッ、うまくやりやがったなあ。

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 冬虫夏草。
 漢方医療にくらい私でも貴重なクスリと知っている。

 新華社通信の報道では、「冬虫夏草」の乱獲が深刻化して、原産地の一つ、青海省では、価格が30年前の1000倍以上に高騰している、という。

 チベット自治区、青海省の集中生育地帯の生産量が25年前と比較して、10パーセントに落ち込んでいる。全国の生産量も、2~3.5パーセントにまで減少している。
 中国科学院の専門家の現地調査による。

 07年5月、青海省で、500グラムあたり、3万5000元(約52万5000円)だった価格が、8月には5万元(約75万円)にあがっている。

 小さな記事だが、私の関心を惹いた。
 価格が1000倍!
 冬虫夏草が、昔の不老不死の仙薬、九転丹のようなものだとしても、眼のくらむような高騰で、戦後すぐの物価の大変動を知っている私でもこれほど激烈な高騰は知らない。

 もし、青海省当局が、冬虫夏草に関して緊急物価対策の要綱といったものを出しているなら、読んでみたい。あるいは、中国科学院の報告があるなら、読んでみたいと思う。あいにく私は中国語が読めないのだが。
 私はこの記事を読んで、ファルスのようなものが書きたくなった。

 いつもいつも、書く題材に困っていたゴーゴリに聞かせてやったら、たちまち『検察官』や『死せる魂』に劣らない作品を書いたにちがいない。
 創作力が枯渇しているせいか、そんなことしか考えない。

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 常盤 新平が選んだギャングのベスト10は・・・・
  (1) アル・カポネ
  (2) ラッキー・ルチアーノ
  (3) マイヤー・ランスキー
  (4) フランコ・コステロ
  (5) ジョゼフ・ボナンノ
  (6) ジョゼフ・バラーキ
  (7) ジョン・ロツセリ
  (8) バグシー・シーゲル
  (9) ジョン・ディリンジャー
 (10)ベビー・フェイス・ネルソン

 このリストだけでも、常盤 新平の博識とマフィアに対する造詣の深さがわかる。
 たとえば、マイヤー・ランスキーはジュイッシュ・マフィア。マネー・ロンダリングを考えた最初の人物。
 お互いにかけだしの翻訳者だったころ、常盤 新平といっしょに、ニューヨークや、シカゴのシンジケートの誰かれのことを語りあったことを思い出す。

 後年、映画の「ネイキッド・タンゴ」をノヴェライズしたときにジュイッシュ・マフィア「ツヴィ・ミグダル」について、いくらかくわしくなった。

 なにごとにまれ、少しでも知っていれば、それなりに自信をもって書くことができる。評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いたとき、ラテン・アメリカ巡業に出たジュヴェの劇団に、ユダヤ・マフィアが眼をつけていた事情もなんとなく想像がついた。

 作家や演出家はなんでも知っておいたほうが仕事のうえで役に立つ。

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 アメリカ文学を勉強していた時期があった。1920年代から戦後まで、ベストセラー上位の作品の半数以上を読んでいることに気がついた。自分でも驚いたが、それほどベストセラー作品に魅力があったのか。

 たまたま「週刊読売」が、アメリカのベスト10を特集した。私は、小説のベストセラーをあげたのだった。
 私が選んだベストセラーのリストは・・・・

  (1)「風とともに去りぬ」(マーガレット・ミッチェル)
  (2)「誰がために鐘は鳴る」(アーネスト・ヘミングウェイ)
  (3)「地上より永遠に」 (ジェームズ・ジョーンズ)
  (4)「裸者と死者」   (ノーマン・メイラー)
  (5)「ライ麦畑でつかまえて」(サリンジャー)
  (6)「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)
  (7)「ロリータ」    (ウラジミール・ナボコフ)
  (8)「ラヴ・ストーリー」(エリック・シーガル)
  (9)「怒りの葡萄」   (ジョン・スタインベック) 
 (10)「紳士は金髪がお好き」(アニタ・ルース)

 どう見ても古色蒼然としたリストだと思う。いまでも読まれているのはサリンジャーぐらいだろうか。
 こうした作品を熱心に読んできた。このリストに、「かもめのジョナサン」や「ラヴ・ストーリー」をあげているのは、このアンケートに答えた頃のベストセラーだったから。スタインベックの「怒りの葡萄」、アニタ・ルースの「紳士は金髪がお好き」は、戦前のベストセラーだが、これほど極端にちがう作品も、読者に読んでほしいと思ったから。「紳士は金髪がお好き」はマリリン・モンローの映画でしか知られていないが、フラッパー・エイジを知ることができる。

 ここではとりあげなかったが、これ以外に私のベストセラー・リストに、キンゼイの「人間女性における性行動」と、マスターズ、ジョンソンの「人間の性反応」を選んだ。

 このとき、常盤 新平は、ギャングのベスト10を選んでいる。
    (づづく)