私が最初にドストエフスキーを読んだのはいつ、またどの作品だったか。
はじめてドストエフスキーを読んだのは、1942年。中学3年のとき。
彼の作品が私の人生を変えた、などとはいえない。ただ、小説というものは、ここまで暗鬱な人間を描くものなのか、と思ったことをおぼえている。この衝撃はあとまで心に残った。結果的に・・・成績が落ちてしまった。
「世界なんか破滅したって、おれがいつもお茶がのめればいい」ということばに少年の魂がふるえた。戦争中だったし、日本が破滅に向かっていることが、少年にもひしひしと感じられていた。やがて、お茶をのむどころか、日々の糧もなくなってくる。そういう時期にドストエフスキーを読みつづけたのは(いまの私には)信じられない。しかし、空襲警報が出たとき以外は、ドストエフスキーを読みつづけていた。
『地下室生活者の手記』の章の副題が「みぞれまじりの雪降る夜に」で、冬になると、このフレーズがよみがえってくる。
戦時中、ひたすらロシア文学を読んでいた。ドストエフスキーだけを読んだわけではない。私が関心をもったのは、クープリン、アルツィバーシェフ、数は少なかったがソログープなど。当時の言葉でいえば「傾向のよくない」作家ばかり。
ロシア文学が私の内部につちかったものは大きかったような気がする。
後年、『ゴーゴリ論』を書いたのもそのあらわれだろう。
さらに後年、当時のソヴィエト作家同盟の招待でロシアを訪れたことは、生涯忘れないできごとになった。旅行中、ソヴィエト体制にはげしい嫌悪の眼をむけていたが、ロシアの精神性といったもの、ロシアの市井のひとびとの姿に心をつよく動かされていた。
ドストエフスキーの墓の前に立ったときは感動した。それに、ドストエフスキーの生家が荒れ果てていて、横の路地に脱糞のあとを見たときの、いい知れぬ思いを私は忘れない。ドストエフスキー記念館で、彼の机に置かれていた幼い子どもの書いたノート。
後ろの壁に、ラファエルの聖母の絵が掛けてあった。ヤスナヤ・ポリアナのトルストイの別荘に掛けてあった別のラファエルの聖母の絵。そして、その別荘を立ち去る直前まで、トルストイが読みふけっていた『カラマーゾフの兄弟』が、粗末なテーブルの上に途中のページが開かれたまま残されていた。・・
「NEXUS」46号に、ドストエフスキーを脚色して、戯曲にした『ペテルスブルグのおばあさん』を掲載したのも、私のドストエフスキーへの関心からだったと思う。