728

 私が最初にドストエフスキーを読んだのはいつ、またどの作品だったか。

 はじめてドストエフスキーを読んだのは、1942年。中学3年のとき。
 彼の作品が私の人生を変えた、などとはいえない。ただ、小説というものは、ここまで暗鬱な人間を描くものなのか、と思ったことをおぼえている。この衝撃はあとまで心に残った。結果的に・・・成績が落ちてしまった。

 「世界なんか破滅したって、おれがいつもお茶がのめればいい」ということばに少年の魂がふるえた。戦争中だったし、日本が破滅に向かっていることが、少年にもひしひしと感じられていた。やがて、お茶をのむどころか、日々の糧もなくなってくる。そういう時期にドストエフスキーを読みつづけたのは(いまの私には)信じられない。しかし、空襲警報が出たとき以外は、ドストエフスキーを読みつづけていた。
 『地下室生活者の手記』の章の副題が「みぞれまじりの雪降る夜に」で、冬になると、このフレーズがよみがえってくる。

 戦時中、ひたすらロシア文学を読んでいた。ドストエフスキーだけを読んだわけではない。私が関心をもったのは、クープリン、アルツィバーシェフ、数は少なかったがソログープなど。当時の言葉でいえば「傾向のよくない」作家ばかり。
 ロシア文学が私の内部につちかったものは大きかったような気がする。
 後年、『ゴーゴリ論』を書いたのもそのあらわれだろう。
 さらに後年、当時のソヴィエト作家同盟の招待でロシアを訪れたことは、生涯忘れないできごとになった。旅行中、ソヴィエト体制にはげしい嫌悪の眼をむけていたが、ロシアの精神性といったもの、ロシアの市井のひとびとの姿に心をつよく動かされていた。
 ドストエフスキーの墓の前に立ったときは感動した。それに、ドストエフスキーの生家が荒れ果てていて、横の路地に脱糞のあとを見たときの、いい知れぬ思いを私は忘れない。ドストエフスキー記念館で、彼の机に置かれていた幼い子どもの書いたノート。
 後ろの壁に、ラファエルの聖母の絵が掛けてあった。ヤスナヤ・ポリアナのトルストイの別荘に掛けてあった別のラファエルの聖母の絵。そして、その別荘を立ち去る直前まで、トルストイが読みふけっていた『カラマーゾフの兄弟』が、粗末なテーブルの上に途中のページが開かれたまま残されていた。・・
 「NEXUS」46号に、ドストエフスキーを脚色して、戯曲にした『ペテルスブルグのおばあさん』を掲載したのも、私のドストエフスキーへの関心からだったと思う。

727

テレビのドキュメント。(10チャンネル/’07年10月21日・夜)
 キャスター、堺 正章。サブに、えなり かずき。あとは高橋 克典、押切 もえといったタレントがならぶ。たいして期待もせずに見た。

 アフリカ、ウガンダ奥地の小学校の子どもたちは、絵を描きたくても紙がない。
 日本の和紙職人が現地で、バナナの葉、ワラ、ワラ灰、野菜のオクラなどを使って紙を作る。素材がコウゾではないので、おそらく良質の紙ではないが、子どもたちに紙漉きの技術がつたえられる。クレヨンもないので、炭を砕いてアブラを加え、画材にする。
 村の子どもたちが、生まれてはじめて絵を描く。はじめて描いた絵をプレゼントされて涙ぐむ若い母親。

 つづいて、東チモールの山村。独立を巡っての内戦で荒廃した村。村人たちは燃料も買えない。幼い女の子が、毎日、四、五往復、山から木の枝を運んでいる。その山も、伐採でほとんどはげ山になっている。
 日本のカマド作りの職人が、三つ口のカマドを工夫する。燃料は三分の一ですむ。煮炊きの効率が飛躍的に向上する。職人は、村のポンプが非衛生的なので、排水や下廻りをセメントで作る。
 村人たちのたっての願いで、彼はセメントに自分の名前をサインする。

 カンボジア。水質のわるい池の汚水しか飲んだことのない少女。この池で女たちは洗濯したり、子どもたちが泳いだり。子どもたちの7人に1人は5歳までに死亡するという。
 日本から井戸掘りの職人が行く。現地の地質を調べ、竹を組んで、上総掘りの技術で井戸を掘りはじめる。途中で岩盤に当たって工事は難航するが、最後にポンプから清潔な水があふれてくる。その少女は、生まれてはじめて清水をのんで、おいしいとつぶやく。

 材料はすべて現地調達。気候も生活条件も、何もかも日本とは違っている。職人たちは、なれない環境で苦労しながら、それぞれ、みごとに成果をあげていた。
 自分が人生でつちかってきたものを、見知らぬ土地の人々にわかつ。それは、テレビのためではない。日本の職人の腕を誇るためでもない。まして、ヒューマニズムといったものでもない。長い歳月をかけて自分が身につけてきた腕や、工夫を、自分にできる範囲で隣人にわけてやるだけのことなのだ。
 職人の生きかたを私は尊敬している。

 日本人が忘れようとしているものが、やがて、ウガンダ奥地や、東チモールの山村、カンボジアのつぎの世代にうけつがれてゆくだろう。社会の本質的な豊かさは、こうした人々の生きかたがどれだけうけつがれてゆくかできまってくる。
 思いがけず、アジア、アフリカの貧しい村人に、日本の職人の創意や工夫、技術がつたえられて行く。それが伝統というものになる。

726

早稲田大学では、新入生を対象にした「日本語の文章講座」をおこなう方針をきめた。(’07年10月19日)早稲田のような超一流の大学でさえ、学生の、読み書き、話す能力に危機感をもっているということになる。
 私は早稲田の「日本語の文章講座」に賛成する。敬意をこめて。期待もある。

 学生たちの日本語の理解、読解力、文章表現がいちじるしく落ちたのは、いまにはじまったことではない。私も大学で講義をつづけた経験があって、学生のリポートを無数に読んできたが、理路整然とした文章を書くことができない学生がふえてきている実感があった。

 その責任は、すべて当時の文部官僚の失態にある。学校群、ゆとり教育、場当たりの思いつきを導入することで、教育を劣化させてきた連中の責任はあまりにも重い。
 同時に、当時の中学、高校の国語教師にも責任はあったはずである。この時期、英語教育はいくらか充実したかも知れないが、これは会話中心のレベル・アップを目的としたもので、外国語の理解、読解力、文章表現が向上したとは思えない。
 数年前、小学校から英語教育を導入させようとしたのは、当時の与謝野文相だった。教育のグローバル化という理由づけがあった。だが、基礎学力のいちじるしい低下があらわれたため、これは否定されて、あらためて国語教育が見直されている。
 ようするに、読書量も足りないし、メールのやりとりなどで、短い文章を書いてすませる、よくいって機能的、わるくいえば日本語の語感に対する麻痺が進行している。

 私は、フランスの小学生がラ・フォンテーヌを暗唱していることを羨ましいと思う。中国、雲南省の幼稚園で、幼い子どもたちが唐、宋の詩を嬉々としてそらんじるような教育をうけている。そのことを知って驚嘆した。
 日本の小学生はこういうふうに古典を暗唱することはない。いまでは、桃太郎、花咲爺、猿蟹合戦といった民話さえ知らない子どもが多い。

 神話も教えるべきだと思う。「記紀」を教えることは反動教育ではない。
 万葉、古今、新古今を教えることは、「日本語の文章講座」に必須のものだと思う。

 早稲田大学では、来年度は、二、三千人の新入生に「日本語の文章講座」を開始する。数年後には、約1万人の新入生全員を対象に実施するという。
 目に見えて成果があがる、というものではない、しかし、数年後から数十年後にわたって、早稲田の歴史にあたらしい輝きをあたえるだろう。

 ほかの大学でもおなじことが試みられればいいのだが。

725

 
 人生相談。40代の女性。
  最近、離婚しました。原因は私の不倫のため。高校生、中学生の子どもは連れて出ることはできませんでした。
  夫はまじめで、物足りなさは感じながらも、ずっと一緒だと思っていました。しかし、仕事で知り合った20歳年下の男性に心のよりどころを求めるようになったのです。不倫発覚後、夫は私が戻るのを待ってくれました、私も努力したつもりですが、家庭に徐々に居場所がなくなりました。
  男性は今も、私との結婚を真剣に考えてくれています。彼の両親は彼の気持ちが覚めるのを静かに見守っているようです。年齢差を考えると、結婚は難しいのではと自分でも思います。
  自分の心の弱さゆえ、すべてを失ってしまいました。毎日、後悔して暮らしています。
  子どもとは制限なしに会えますが、申し訳ないという思いです。一緒に住めない子どもに、私ができるのは働いて金銭援助をすること。そのため彼との関係をきっぱり解消しようと考えても、気持ちは決まりません。

 土井 幸代(弁護士)が答えている。
 不倫の非はあるものの、離婚に至った経緯を分析・反省している手紙から、あなたが真摯に身を処してきたことがわかる。それでも悔いが残るのは、子どもたちと一緒に住めない寂しさからでしょうか。
 土井 幸代の答えは、条理をつくしたものだった。論点は、だいたい二つ。
 1) 子どもも、高校生、中学生ともなれば、親の行動の善悪を冷静に判断する。母親が第二の人生を充実して生きる姿を見れば、親の離婚を貴重な人生経験として、成長の糧としてくれるだろう。

 2) 彼との縁は、結論をいそがず、成り行きにまかせてはどうか。結婚するかどうかは別として「素直な気持ち」で、彼との愛がほんものかどうか見守ったほうがいい。
 私ならどう答えるだろうか。

 私も、この女性が離婚に至った経緯を冷静に書いていると判断する。
 だが、高校生、中学生の子どもたちが、母親の行動を冷静に見ているかどうか。夫が傷ついたように、子どもたちも(口には出さないにしても)傷ついている。
 子どもたちがずっとあとになって、「離婚するなんて、ひどい母親だったよなあ。でも、あのときは母親としてもどうしようもなかったのだろう」と思うようになるかもしれない。しかし、母親をそう簡単に許すかどうか。
 きみは、夫を傷つけた。それにもまして子どもたちを傷つけた。むろん、自分自身も傷ついている。
 私の見方では・・・「自分の心の弱さゆえ、すべてを失ってしまいました。毎日、後悔して暮らしています」というのは無用の反省なのだ。

 きみはほんとうにすべてを失ってしまったのか。
 彼との愛がほんものかどうか、などと反省する必要はない。ほんものの愛なのだ。だからこそ、彼はきみとの結婚を真剣に考えている。
 ただし、結婚はしないほうがいい。
 「彼との縁は、結論をいそがず、成り行きにまかせてはどうか」というのではない。成り行きまかせというのは、ずるずるべったりに現在の関係を続けてゆくだけのことだ。
 そうではなく、はっきり結婚しないという意志的、ポジティヴな生きかたを選択する。どうしても結婚したいと思ってから結婚届を出せばすむ。
 年齢差を考えると結婚は難しいのではないか、などと考えないこと。
 あと20年もたって、夫がまだ40代、その夫にとってかけがえのない魅力ある女性でいよう、と考える。このほうが、ずっとむずかしい。そのむずかしさをわれと我が身にひきうける。それが、すべての人の傷を癒すだろう。
 不倫などと考えないこと。くよくよと年齢差から結婚は難しいのではないか、などと考えてどうするのか。
 レイモンド・チャンドラーのように、年齢のちがう女性と結婚して、生涯、忠実だった人もいる。夫人が、どれほど魅力があったか。アナイス・ニンのように、70代になっても、事実上の夫、ポールと琴瑟相和しながら、別の「恋人」とも愛しあっていた女性もいる。それは、不倫などというものではない。

 熟年離婚は新しい一歩なのだ。愛する者はみな孤独。そう覚悟すれば少しも後悔する必要はない。

724

「小説を書きたいのですが」
 と彼女がいった。
 「いいね。ぜひ、書いてみなさい。読ませてもらうよ」
 「でも、どういうふうに書いていいのかわかんなくて……」

  海はだだっぴろく、白茶けた色でひろがっていた。薄陽が射しているのだが、空も白茶けた色をしていて、空と海との境界はあいまいである。
  その海に沿って、埃っぽい道が投げ出された帯のようにつづいており、その尽きるところに鼠色の灯台があった。
  風景全体が、色褪せ、うっすらと埃に覆われているようだった。
  「いい景色だな。とりとめがなくて、押しつけがましくないところが、いい」
  と、彼が言った。

 「ある短編の、ごく一部分だけど、これを読んでごらん。読むだけだから、一分もかからない」
    ・・・・・・
 「これだけ読めば、小説を書くことがどういうものなのか、少しは想像できるだろう。わずか数行。この作家は、いつもこういう眼の働きをもっている。つまり、主人公の心の動きは、これだけでもよくわかるね」
 「(先生の)おっしゃっていることがわかりません」
 「もう一度、読み返して見なさい」        
    ・・・・・・ 
 「誰の文章ですか」
 「そんなことはどうでもいい。いや、そういっても仕方がないか。では、教えてあげよう。吉行 淳之介の『海沿いの土地』。短編だよ」
    ・・・・・・     
 「きみは、小説を書きたいといったね。それなら、この一節を読むだけで、自分がどういう小説を書きたいのか、よくわかってくるだろう」 
 「(先生の)おっしゃっていること、やっぱりわからないわ」
    ・・・・・・  
 「いまに、きっとわかってくるさ」

723

(つづき)
 作者の書きかたがわるいので、読者はよく考えて読まないと、わかりにくいところがあるかも知れない。私(為永 春水)の小説作法では、発端に書くべきプロットを、あとになって出してくるのが常套手段なので、そのあたりはどうか心得て読んでいただきたい。
 ストーリーに作者自身が登場する小説はめずらしくない。
 発端に書くべきプロットを、あとになって出してくるという方法も、伏線と見れば異とするにあたらない。
 『梅暦』を第三編まで出したとき、その序文で、

  今三編に到って首尾まったく整ひ、かく綴りし言の葉に、花の作者の毫(ふで)すさみは、悉く意気にして賤しからず、且わかりよくして優なる所あり、実に奇々妙々といひつべし

 とある。「首尾まったく整」ったはずなのに、書きつづけるうちに人気が高くなったため、この11編では作家がストーリーの重心をシフトして、続編の展開に新工夫を迫られはじめたとも想像できる。

 私が驚くのは、春水が「作者のつづりがあしきゆゑ、わかりがたかるくだりもあるべし」と書いたこと。
 ここに作家の謙虚、または傲慢を見るのではない。
 むろん、文学的な弁明ではないし、自己卑下でもない。

 自作が、婦女子に淫行を教えるものと非難され、「もとより代が著はす草紙、大方、婦人の看客をたよりとして綴れば、其の拙俚なるは云ふに足らず、されど婬行の女子に似て貞操節義の深情のみ」と反論しているのと、おなじ姿勢である。

 のうのうと人情本を書きつづけた春水の堂々たる自負を私は見る。

722

 
 為永 春水の『春色梅児誉美』(『梅暦』)第十一巻のオープニングは、いまは、牛島に住まいをさだめている「お由」のところに、四十あまりのおかみさんが訪れてくる。
 妹ぶんの「お蝶」が出ると、千葉の大和町からはるばる出かけてきた、と挨拶する。
 千葉と聞いて、「お由」が部屋に迎え入れると、「内儀はなにやら眼に涙。」

 お内儀は、昔蒔絵の織部形、三つ組の懐中盃を出す。それを見て驚いた「お由」は、自分の手箱から、書き付けを出して開こうとする。お内儀は、それを見るなり、涙声で、それを書いたのは私です、という。

 お由は聞いてびっくりし、「エエそんなら、わちきが五つの歳、お別れ申した、母御(おっか)さんでございますか」
 内儀「サァ。アイと、返事もできにくいわたしが胸を推量して、邪見な母(おや)と思はずに、堪忍して」と、泣きしづむ。
 お由もワット声をあげ、むせかへりつつ寄り添ひて、
 「イエイエ、何のもったいない、堪忍どころじゃございません。親父(おとっ)さんの存生(たっしゃ)な節(とき)さへ恋しかったおっかさん、まして常々気にしても、尋ねる当もないおまへが、とうして、わちきの在宅(ありか)が知れて、モシマア夢ぢゃぉ有りませんか」
 と取りすがりたる親と子の、道理(わけ)さへしれぬ愁嘆に・・
 というシーン。
 さすがに春水、冒頭、愁嘆場から読者の興味をいっきにつかんで小説を展開してゆく。
 このお内儀は、「お由」を生んだのが十六歳の暮れ。二十一歳のとき、また女の子を生んだが、生活難で、亭主と協議離婚。夫は、「お由」をつれて田舎の親戚を頼って去った。妻は、乳呑み子を里子に出し、しばらく乳母などをしているうちに、「藤兵衛」という者の囲い女になった。・・

 里子にだした女の子こそ、いま深川に全盛の芸者、「米八」という。

 このあとすぐに、作者、為永 春水がしゃしゃり出てくる。

  よくよくかんがへ読みたまはねば、作者のつづりがあしきゆゑ、わかりがたかるくだりもあるべし。すべて予が作為の癖は、発端にいふべきすじを、のちにしるすが常なれば、高覧をねがふのみ。

 すごいねえ。さすがは為永 春水。
         
    (つづく)

721

 「もう、わたしを好きじゃないのね。いちども愛したことはなかったのね」
  「おれはもう、女を好きになるわけにはいかない。もうすぐ旅に出るのだから」
   奔流のような涙。嗚咽。痙攣。喘ぎ。死の苦悶。死。またひとつ、柩。
   女たちは死んでしまった。遠くにいるドラは、どんな暮らしをしているのだろう?

   もう、うんざりだよ。女たちは死んでしまった。女たちにとって、彼は死人なのだ。

 ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』、第三部の終章。あと、数行でエピローグに入ってゆく。
 この部分、私はゾッとしながら読んだ。悲しい恋愛だなあ。こんなにも苦しい小説を書いていたのか。ドリュのいたましさが、読んでいる私にもつたわってくる。
 ドリュは好きな作家ではない。むろん、心のどこかでドリュはすごい作家だったな、という思いはあった。
 戦前のフランス・ファシスト、親ナチ派だった。しかし、その姿勢は、戦時中の、日本のファシスト、蓑田 胸喜などとは比較にならない。
 政治的にまったく立場の違うマルローは、ドリュをそれまでに出会ったもっとも高潔な人物のひとりと見ていた。ナチ占領下にあって、ゲシュタポの厳重な警戒のさなかに、パリに潜入したマルローは、わざわざドリュと会っている。
 ドリュはパリ陥落直後に自殺している。

 遠い未来、二〇世紀の文学史があらたに書かれるとして、ドリュについては何行か書かれるに違いない。

720

 
 先日、柄にもなく李白のことを書いた。
 少時(若いころ)、漢詩をずいぶん読んできたが、李白については、ひたすら酒を愛し、胡蝶の夢を見て、縦酒遨蕩(じゅうしゅ・ごうとう)の一生を過ごした詩仙という程度の理解しかもたなかった。

 なにしろ、「月下の独酒」のなかで、

  三月咸陽城   三月 咸陽城
  千花晝如錦   千花 晝 錦のごとし
  誰能春獨愁   誰かよく 春 ひとり愁う
  對比徑須飲   これに対して すべからく ただちに(酒を)飲むべし
 というくらいだから、お酒が好きで、いつも酔っぱらっていたらしい。

 しかし、ずっとたって李白を読み直してみると、彼の詩には、いいようのないメランコリー、あえていえば、depressiveness がただよい、流れ、あふれているような気がした。ときにはボードレールの<憂愁>に近いものさえ感じられる。あるいは、『獄中記』以後のワイルドの悲痛な叫びに似たものが響いているかも知れない。

 暗澹たる心情をまぎらわすために、李白さんはひたすら酒に沈湎したのではないか。そう思って読むと、落魄不羈の酔翁と見るよりも、もっとちがった相貌をもっていたのではないか、と思えてくる。

 もう少し考えてみよう。

719

ある日、神保町の喫茶店で、植草 甚一さんがいった。
 「日本で、いちばん最初にジロドゥーを紹介したのが誰だったか、ご存じですか」
 誰だろう?
 岸田 国士さんか、「劇作」の人たちの誰かだろう。もし、そうだとしたら、原 千代海さんあたりか。いや、植草さんがいたずらっぽく訊いたのだから、意外な人にちがいない。岩田 豊雄ではないだろう。ひょっとして、久生 十蘭だろうか。

 「じつは、私が翻訳して上演したんです」

 驚いた。まさか、植草さんがジロドゥーを上演したとは知らなかった。

 まだ学生だった植草さんが訳して、とにかく上演までもっていったという。その舞台に出た女性の名前を教えてもらった。後年、私も見ている女優さんだった。
 学生演劇なので、まったく注目されなかったらしい。ただ、まだ誰もジロドゥーを知らなかった時代、昭和の初期に、はやくもジロドゥーの戯曲を読んで、さっそく舞台にかけた学生がいた。そのことに私は驚愕した。
 むろん、植草さんはうそをつく人ではない。

 植草 甚一さんは、私にとってはありがたい先輩のひとりだった。

718

夜明け、宿を出た。
 暗い山道を歩きつづける。
 ようやく登山道の入口にたどりついて、朝食を作りはじめた。前日に買っておいた駅弁を食べるだけなので、コッヘルでスープを作る程度。もう一つ、携帯のカップでテイー。固形燃料一個ですむ。こんなものをもっている登山者を見たことがない。私だけが愛用している便利なトゥール。これさえあれば、味噌汁でも、ミルクでも、コーヒーでも歩きながら沸かして飲める。
 食事の途中、中型のイヌがこちらのようすをうかがっていることに気がついた。
 褐色の斑をつけた雑種犬。たいして特徴のないイヌだった。
 「おい、腹がへってるんだろう。おれの(弁当を)食うか」
 声をかけると、すぐに寄ってきた。私が与えるものをすぐにペロッと食べるのだった。早朝だったから、空腹だったらしい。私の朝食が少なくなるが、頂上に着いたら昼食にするつもりだったので、半分ぐらいはイヌにわけてやってもよかった。
 かんたんな食事を終えて、ザックを肩にかけながら、
 「おい、いっしょについてくるか」
 イヌに声をかけた。
 イヌは全速力で走り出して、30メートルほど先に行ったところで、さっと身を翻して、また私をめがけて戻ってきた。私のそばを走り抜け、こんどはまた30メートルばかり走りつづけ、おなじように反転して、私のところに戻ってきた。
 人間のことばがわかるのだった。

 登山道からコースを、ずっとイヌといっしょに歩いた。登山者といっしょに歩くのになれているらしい。根まがり竹に覆われて道がわからない場所でも、イヌが先に立って案内してくれるのだった。
 イヌは敏感に私の心の動きを読む。
 途中、大きな岩が立ちはだかっている。足がすくむような難所だったので、私がひるんでいると、先に立ったイヌがさっと戻ってきて私を見あげる。
 なんだ、このぐらいで、ギブアップするのか。
 犬の眼がそういっている。
 「バカにするな。おれは、おまえがついてこれるかどうか考えているんだ」
 私は岩にとりついた。けっこう手ごわい岩を相手に汗をかいた。
 気がつくとイヌは見えなくなっていた。

 やっと難所を越えて、また歩きだした。すると、いつのまにか、イヌが私の前を歩いていた。
 どこをどうやって、あんなところを越えてきたのか。
 こいつ、おれが苦労しているのをみて、内心、バカにしやがったな。
 「おまえ、よく、あそこを越えてきたなあ」
 イヌに声をかけた。イヌはさっと私の近くに戻ってきた。

717

 荒 正人は私をいちばん最初に認めてくれた批評家だった。私は18歳。
 その意味で私にとっては内村 直也とともに恩人といってよい。

 その荒 正人の著作に『評伝 夏目漱石』がある。

 「あとがき」のなかで荒さんは、

   夏目漱石は、私のもっとも愛する作家である。(中略)他にも好きな作家は二、三あるが、愛するという言葉は、夏目漱石にしか使うことができない。
 という。
 荒さんと漱石先生から離れて、自分のことを考えてみた。
 たくさんの作家にめぐりあった。その時期その時期に、ある特定の作家を愛してきたことはたしかだろう。もとより漱石先生は、もっとも尊敬する作家のひとり。しかし、「もっとも愛する作家」とまではいいきれない。

 これが、相手が異性の場合はおなじではなかった。
 はじめて眼にしたときから、自分の内面で、はじまりのことを幾度となく思い出し、また、その相手が去ってしまったあと、いつまでも思い出すような愛。あのまなざしに心をうばわれ、あのほほえみを見るためなら、どんなに時間がなくても、ただそのことだけで会いに行くような愛。
 たとえば、Aと会った・・。そして、Bと・・。さらには、Cと・・。数えあげてゆけば、F、Gあたりまではつづくだろう。愛するという言葉は、それぞれの時期に、それぞれの相手にしか使うことができなかったのに。

 さて、私には「漱石は私のもっとも愛する作家である」といういいかたのできる作家がいたのか。
 たとえば、チョーサーを愛した。だが、ボッカチオもまた、私のもっとも愛する作家だった。劇作家としてのマキャヴエッリ、物語作家としてのマキャヴエッリもまた、私のもっとも愛したひとりだった。

 好きな作家をあげるとしたら、とても、二、三にとどまらない。

 荒 正人を尊敬しているが、こういう根本的なところでは荒さんの影響をまったく受けなかったような気がする。

 嫌いな作家はいない。嫌いなヤツのものは読まない。したがって、私の内面には存在しないわけである。
 むろん、私が心から憎んでいる作家はいる。
 ここに書く必要はない。

716

香港返還は、当然ながら香港の映画スター、シンガーたちの運命に大きな影響をおよぼした。
 もっとも悲劇的な例は、張 國榮(レスリー・チャン)の自殺と、梅 艶芳(アニタ・ムイ)の病死だった。

 返還後、アニタのアルバム『梅艶芳没話説』(1999年)が出た。アニタの歌のコレクションだが、ケースに使われたアニタに驚かされる。前途に希望を見いだせないアーティストのうつろなまなざし、暗鬱な表情がいたいたしい。

 このアルバムで、アニタはマリリン・モンローの「帰らざる河」のテーマを歌っている。(「大江東去」)歌としてはマリリンよりもうまいけれど、どこかなげやりで、かつての梅 艶芳の魅力が感じられない。
 フェイ・ウォンを3曲、カヴァーしていることも意外だった。アニタほどの歌手ならフェイ・ウォンの曲を選ぶ以上、どこかでフェイ・ウォンを越えるものがあって当然だろう。そう感じられる部分はある。しかし、全体としては、梅 艶芳の輝きは薄れている。
 身辺のスキャンダルも、彼女の不壊の Fame を傷つけた。精神的にも追いつめられたのではないだろうか。

 かつて梅 艶芳は美しく、挑発的で、情熱的で、いつも勝気で、誇り高い女だった。彼女の歌は香港のミュージック・シーンをリードしていた。彼女の前では、徐 小鳳(ポーラ・ツォイ)でさえ蒼ざめたにちがいない。
 まして、当時人気のあった孟 庭葦、龍 飄飄、毛 阿敏など、はじめから比較にならなかった。フェイ・ウォンが登場してから、アニタは徐々にトップを退いてゆく。

 このアルバム『梅艶芳没話説』は、彼女の全作品のなかでは、もっとも程度の低いものだと思う。聞いていて、いたましささえおぼえる。
 だが、梅 艶芳はふたたびもとの魅力をとり戻してゆく。

 みずからの死を見つめながら、最後のコンサートにのぞんだ梅 艶芳に、私は中国の烈女の姿を重ねて見る。

715

 
 菊地 寛が、あるエッセイで、

   中車は、最も歌舞伎役者らしい歌舞伎役者だった。歌舞伎劇の持つ長所も、欠点も兼ね備えた人だった。中車の芸は、年と共に枯れて、淡白な洗いさらした結城木綿のやうなよさにまで達した。

 と書いていた。

 残念なことに、私は中車を見ていない。
 ただ、菊地 寛にかぎらず、谷崎、芥川などの世代には、歌舞伎役者のなかに、何か特別なものを見ていたような気がする。
 江戸時代、それも末期の、ねっとりしたもの、時代の爛熟がもたらした頽廃や、激動する息吹の翳り、暗鬱なもの。具体的に、どうこうというのはむずかしいが、たとえば、谷崎が、沢村 源之助に見たもの。

 年と共に枯れて、淡白な洗いさらした結城木綿のやうなよさ。いまなら、又五郎のような役者がそうだろうと思う。

 もう一つ。
 「ねっとりしたもの」と「洗いさらした結城木綿」。
 こういうことばで批評的に理解しあえた時代。私にはそれがうらやましい。

714

プラサ・デ・トーレス(闘牛場)の前に長い行列ができていた。ダフ屋が何人も眼についた。そのひとりが、私のところに寄ってきた。私は手をふった。
 「ノ・ハブラ・エスパニョル」(スペイン語、話せない)

 ついさっき、外にいた8歳ぐらいの少年が、私におずおずと笑いかけたとき、どうせ買うならこの子からティケットを買ってやろうと思った。
 色のあさぐろい、すばしっこい感じの子どもだった。おそらく、ヒターノの血がまじっているだろう。
 少年はまさか私が自分のティケットを買ってくれるとは思わなかったらしい。
 値段を訊くと、さっきの男の半額以下だった。
 ダフ屋が法外な値でティケットを売っているのに、どうしてそんなに安く売るのだろうか。
 その疑問から、この少年がどうしてこのティケットを入手したのだろうと思った。ひょっとすると、すれ違いざま誰かのポケットから、すばやく紙入れをせしめたのか。
 その紙入れのなかに、ティケットが1枚、挟み込んであったのかも知れない。

 私はオンブレの席についた。反対側は、太陽の照りつける席で、観衆の大半は男たちばかり。その男たちがうごめいている。あちこちに強烈な原色の衣裳を着飾った女たちの姿が見えた。注意して見ると、オンブレの席にいる女たちのなかにも、黒いレースに純白のショールをまとい、スペインの民族衣装に丈の高いかぶりものをつけた美女が、二、三人、それぞれ離れた席についている。それぞれご贔屓の闘牛士を応援しているのか。恋人なのか。
 しばらく眺めているうちに、それぞれがおめあての闘牛士を張りあっている恋仇らしいことがわかってきた。観客たちもそれを知っているようだった。
 管楽器の音楽が流れて、場内がざわめき、劇場の開幕前のような、うきうきするような明るい緊張感がひろがってくる。

 遠く、山並みが見えた。日本の山とちがった荒々しい岩肌、しかも上の部分がナイフで削ぎ落としたように平らな山々。植物はない。麓のあたりから、コバルト・グリーンに近い色彩の樹林がひろがっている。

 ラッパが高らかに吹きならされて、ゲートから美々しい服を身につけた闘牛士たちが入場する。
 場内の大歓声が雪崩落ちる。若い闘牛士が、手をあげて声援にこたえる。

 私は、この席を選ぶことのできた幸運に感謝したい気もちで、いっぱしのアフィシオナードのように拍手していた。観衆がどよめく。
 日に灼けた、剽悍な表情の若い闘牛士の姿に、あの少年のはにかんだような笑い顔が重なってきた。

713

CDを整理していて、おもしろいものを見つけた。「ハリウッドは歌う」Hollywood Sings/ASV 1982年)。30年代初期のスターたちの歌のコンピレーション。20曲。

 ポール・ホワイトマン、アル・ジョルスンからはじまって、グロリア・スワンソン、マレーネ・ディートリヒ、ジャネット・ゲイナー、ジョーン・クロフォード、エディ・カンターまで。グルーチョがなんとゼッポ(マルクス兄弟)といっしょに歌っている。

 いまではまったく消えてしまった歌唱法で、声もハイ・トーン、リズム、テンポ、何から何までちがう。女性はいわゆるあまったるい「トーチソング」ばかり。
 風格が感じられるのは、モーリス・シュヴァリエ、ヘレン・モーガン。
 美声だと思うのは、ジャネット・マクドナルド、ローレンス・ティベットだけで、大半は歌手としてほとんど問題にならない。

 いちばん古い録音は、ルドルフ・ヴァレンチノの「カシミール・ラヴ・ソング」(1923年)。彼の人気の絶頂期にあった。三年後に、ヴァレンチノは急逝する。
 残念ながら歌詞がまるでわからない。美声でもないし歌もうまくない。

 ジャネット・ゲイナー。トビ色の髪に、淡褐色の瞳。ひどく小柄で、それがまた彼女を可憐に見せていた。1907年、フィラデルフィア生まれ。日本でも人気があった。
 歌は・・・

 フレッド・アステアの<I Love Loisa>は、映画「バンドワゴン」から。 この歌から、後年の名ダンサー、さらには渋い演技を見せていたフレッドを想像することはむずかしい。
 フレッドの相手役だったジンジャー・ロジャース。<We Can’t Get Along>(30年)は、映画「オフィス・ブルース」のサウンドトラック。当時のジンジャーは、まだフレッドのパートナーとして登場していない。
 <シュノズル>ジミー(ジミー・デュランテ)が、<Can Broadway Do Without Me?>を歌っている。ジミーの<スターダスト>を絶品と思っている私にとってはなつかしかった。
 ハゲで、鼻が大きく、ダミ声で、義理にも美声とはいえないのだが、芸人としては、スッとぼけた味があって、どこか粋で、洒落っぽくて、少しも下品ではなかった。こういうタイプの芸人は、もうアメリカにもいなくなっている。
 おもしろいのは、ジェームズ・ステュワート。プリンストン在学中にブロードウェイの舞台に登場したが、無声映画からトーキーの転換期に、ハリウッドに移った。<Day After Day>は、スクリーン・デビュー作のもの。(70年代の映画「ザッツ・エンターテインメント」で、当時のジミー、このCDのオリジナルを見ることができる。)
 このCDのスターたちの姿は思い出せるけれど、このコンピレーションに使われた映画はほとんど見ていない。

 1928年7月にオール・トーキーが登場して、それまでのスターが没落して行く。たとえば、ウィルマ・バンキー、リチャード・バーセルメス、ジョン・ギルバート。
 このCDには、トーキーが登場した直後のアメリカ映画の対応、というかリアクションが、なまなましく刻みつけられている。その意味では貴重な資料といっていい。
 もうひとつ。このCDは別の意味でも貴重な資料なのだ。アメリカにラジオが普及したこと。放送芸術ともいうべきあたらしい分野が姿をあらわす。ポップスもこれによって急速に発展してゆく。

 現在の若い人たちがこんなポップスを聞くはずもない。
 映画史、またはポップスの歴史に、よほど関心がなければ、こんなポップスに興味をもたないだろう。
 さて、どうしようか。
 東京のどこかに映画史資料館、あるいはポップス・アーカイヴスでもあれば寄付してもいいのだが、この「文化国家」にはそんな奇特なものもない。

 このまま時の流れに朽ちて埋没してゆくのも仕方がないか。

712

 最近は中国映画を見る機会がない。たまに映画雑誌でスターたちの消息を読む。

 徐 静蕾の記事。少女の頃から父に聞かされていた言葉があるという。

  腹有詩書気自華  腹に詩書あらば おのずから華やぐ
「詩書」は、詩集や書道という意味ではない。日頃、すぐれた詩や、すぐれた本を読んでいれば自分の内面がゆたかになる。そうすれば、われから輝きをましてゆく。そういうことだろう。
 いいお父さんだなあ。

 最近の私のご贔屓女優は、範 冰冰、李 冰冰。
 ふたりとも美貌だし、おなじ名前なので間違えそうだが、範 冰冰は、ロングヘアー、ハリウッディーなアイメーク。このまま外国映画に出ても通用するだろう。
 李 冰冰のほうは、かつての<チャイルド・ウーマン>といった可憐な小女人。

 こういういいかたがはじめから無理だが・・・徐 静蕾は、藤原 紀香タイプ。範 冰冰はカサリン・ゼタ=ジョーンズ/タイプ。李 冰冰は、さて、どういったらいいか。
 一昔前なら、<female female>といった女優さん。

 美しい映画女優の写真をながめながら、うろおぼえの漢詩を思い出す。

  影中金鵲飛不滅  影中の金鵲(きんじゃく) 飛びて 滅(き)えず
  台下青鸞思独絶  台下の青鸞(せいらん) 思い ひとり 絶えつ
 以下、拙訳。映画雑誌のブロマイドのスターたちは、私から飛び去っても、スクリーンから消えることはない。美しい女たちのことを追っている私の孤独な思いはやまない。

 李白先生はニヤニヤなさるだろうな。

711

歌舞伎役者が舞台でそばを食う。
 先代の猿之助が「弥次喜多」で、二階の屋根に身を乗り出して、下で喜多さんの差し出すそばを食う。じつにおいしそうだった。これを見たときからそばを食う役者に関心をもった。

 「直侍」が雪の畦道から出てくる。そば屋がある。誰かいるかと思ってのぞいてから、すっと入る。火をもらって股火をする。
 浅草から入谷田圃まで、一里ばかり。これから女に会いにゆく。雪にまみれて歩いてきた。その寒さがゾクゾクッとくる。すぐに、そばがくる。さもさもうまそうに食う。酒を呑む。盃にチョイと浮いているゴミかなんぞをつまみとる。
 先代の羽左衛門で見た。

 幕あきで、岡ッ引きがそばを食う。うまそうに見えない。じつは、あとで「直侍」がうまそうに食う。これが演出上のコントラスト。中学生の私の胸にもこの理屈がストンと落ちた。

 翻訳を勉強している女の子たちに教えた小説のコントラストも、じつはおなじ。

 いまは亡き猿之助も、羽左衛門も、まだくっきりと眼に残っている。その頃の延若、福助、蓑助などもおぼろげながら頭にうかんでくる。
 もう、この人たちを見た人もほとんどいないだろう。

710

浄瑠璃『太平記忠臣講釈』を読んでいて、おもしろい計算を見つけた。
 原作は、近松 半二。「忠臣蔵」の台本の一つ。

 鹽冶判官(えんやはんがん)の弟、縫殿之助(ぬいのすけ)は、「戀のはじめも浮橋に、つい仇惚れも誠となって」、相手の浮橋太夫も「ほんの女夫(めおと)になりたいと、思ふ思ひも儘ならず」手に手をとって死出の旅路に出ようと心にきめる。これを知った廓の亭主、治郎右衛門は、高師直(こうのもろなお)の家来、薬師寺に浮橋太夫の身請けをもちかける。

 薬師寺に身請けされては、縫殿之助に添うことはできないと知った浮橋太夫は、脇差しを抜いて自害しようとする。
 治郎右衛門は、浮橋にいう。(愛する相手に)死んで逢おうとする極楽に、道がなんぼあると思うか、という。

 お経にさえ、十万億土という。一里が十万億倍の道。一日に十里歩いたとしても、日数からいって、日本の始まり、神武天皇の時から歩いて、やつと今(現在)に着くか着かないほどの距離になる。
 さて、この道中の費用が、宿賃から昼食(ちゅうじき)をいれて、およそ110万8千貫目ほどかかる。
 ワラジ代が、銭で、15万5千50貫。
 通し駕籠にのれば、1116万9580貫目。

 「是だけなければ極楽には行かれぬ」。この10分の一もあれば、この世で結構な世帯(しょたい)ができる。だから、心中などという思いつきは、ママママ、よしになさんせ、というロジック。

 笑ったね。こういう計算はおもしろい。

 このあと、廓に大星 力弥がきあわせて、敵の斧 定九郎と斬りむすぶ。薬師寺に首尾を報告に行った治郎右衛門が戻ってきて、びっくり仰天、こは何事と「おどぶるふ」。
 おどぶるふという動詞は、たぶん、お胴震う、だろう。

 たまにこういうものを読むと、なかなか楽しい。

709

とても刺激的なことばを見つけた。

   ホピというインデイアンの種族の言語は、英語とおなじくらい高度に洗練されているにもかかわらず、時制というものがない。過去、現在、未来の区別が存在しないのだ。このことは時間について何を物語っているのだろう?

 ジャネット・ウィンターソンの『さくらんぼの性は』(岸本 佐知子訳)の、冒頭のエピグラム。この一節が眼に飛び込んできたとき、私はしばらく茫然とした。

 この一節をエピグラムにしたジャネット・ウィンターソンという作家に興味をもった。むろん、この作家を訳した岸本 佐知子にも感謝しなければならない。

 ホピというインデイアンの種族を知らない。その言語についても知らないので、たちまち私の考えはさまざまな方向に拡散して(行く、行った、行くであろう)・・
 この種族にも、おそらく口承の民話は(あった、ある、あるであろう)・・
 だが、ひとつのフレーズ、それにつづく別のフレーズ、それが聞き手のこころに届くときに、continium という詩神のまなざしは欠けてしまうのだろうか。

 ホピの男女が愛を語りあうとき、どうするのだろう。
 お互いに愛しあって、ふたりだけの小さな共同体をきづきあげようとする。
 そのあいだに、かならず誰かがいる。エロテイックなことは、すべてそのまなざしのなかで演じられる。しかし、時制がなければ、愛した、愛している、愛するだろうことが、どうやって認識するのだろう。

 恋人たちは愛する人のために歌うだろう。だが、この種族の歌唱はどうなるのか。(歌われた、歌われている、歌われるだろう)・・
 この種族はどういう土地に住んでいるのか。その土地になんらかの地名がつけられている場合、それが自分たちの支配する(親しみのある)土地の名辞であるとして、それは歴史という背景をもつものかどうか。ひいては、唄が民謡として成立(した、している、するだろう)・・か。

 高度に洗練されているにもかかわらず、時制というものがない言語。
 過去、現在、未来の区別が存在しないのだから、当然、discontium もない。したがって、詩は存在しない。
 詩が存在しないということは、文学も存在しないということだろう。

 なんというすばらしい種族だろう!
 ことわるまでもないが、私は皮肉をいっているのではない。(笑)
 とにかく、すっかり気にいってしまった。

 ジャネット・ウィンターソンは、過去、現在、未来の区別が存在しないような書きかたをしているとさえ思える。むろん、時制がなければ書けるはずはないが、ときどき、この作家はインデイアンの種族から力をかりて、その純粋性、深遠さをたくみにパラフレーズしているのではないか、とさえ思える。
 こういう作品の魅力は、岸本 佐知子訳でなければ出せないだろう。