ハーマン・メルヴィルが好きというわけではないのだが、ほとんど全部読んできた。
『白鯨』の「エイハブ」に見られるドストエフスキー的というか、グノーシス的な認識に衝撃を受けたからだった。しかし、メルヴィルについてはまったく書かなかった。書く機会がなかったせいもあるが、つよい畏怖に似た感情をもちつづけてきたので、たとえ書こうとしても書けなかったと思う。
ただし、メルヴィルの専門家ではないから平気で書けるのだが、私が楽しく読んだのは『白鯨』ではなかった。むしろ、『タイピー』や『オムー』だったことも白状しておこう。
この理由はすぐに想像がつくだろう。
『白鯨』ほどおそろしい小説ではなかったからである。ヌクヒヴァ島の原住民たちの暮らしが、私にとっては、空想的なものではなく、はるかに現実的なものと見えた。
当時、『タイピー』は翻訳がなくて、『オムー』の翻訳を読んで『タイピー』を知ったため、ずいぶん苦労して探しまわった。こんなところにも、戦後にはじめてアメリカ文学を読みはじめた若者の、ひたすらアメリカ文学にのめり込んで行った姿の滑稽さ、いじらしさが見られるのだが、ヌクヒヴァ島から脱出した主人公の捕鯨船の生活が先にあったので、『タイピー』を読んだときは、ほとんど羨望に近い思いさえあった。
メルヴィルにかぎらないが、手あたり次第に本を読んできたので、こんなおかしな読みかたをするのはしょっちゅうだった。
どんな作家も、大学の研究者に研究されるために書いているわけではない。私のように、追っとり刀で作家に肉迫してゆく三ン下批評家の読みかたで、どこがわるいのか。
はじめからメルヴィルの専門家にはなる気などさらさらなかった。
多島海に漂流した主人公が、原住民の娘、「イラー」と恋をする『マーディ』は、途中まで読んで投げ出してしまった。正直、メルヴィルにうんざりした。
これを読んだ頃には、もう、『洞窟の女王』や、『ターザン』を読んでいたせいかも知れない。
少年時代に『タイピー』を読んだことは、私の記憶に大きく残っている。戦後の混乱の日々に、アメリカ文学を読みつづけていたことになつかしさをおぼえる。
ふと、「島」の魅力にとり憑かれていた自分が、それから逃れるために、ヘミングウェイ、さらには、ヘンリー・ミラー、アナイス・ニンに遭遇したのかも知れないと思う。