788

 ハーマン・メルヴィルが好きというわけではないのだが、ほとんど全部読んできた。
 『白鯨』の「エイハブ」に見られるドストエフスキー的というか、グノーシス的な認識に衝撃を受けたからだった。しかし、メルヴィルについてはまったく書かなかった。書く機会がなかったせいもあるが、つよい畏怖に似た感情をもちつづけてきたので、たとえ書こうとしても書けなかったと思う。

 ただし、メルヴィルの専門家ではないから平気で書けるのだが、私が楽しく読んだのは『白鯨』ではなかった。むしろ、『タイピー』や『オムー』だったことも白状しておこう。
 この理由はすぐに想像がつくだろう。
 『白鯨』ほどおそろしい小説ではなかったからである。ヌクヒヴァ島の原住民たちの暮らしが、私にとっては、空想的なものではなく、はるかに現実的なものと見えた。
 当時、『タイピー』は翻訳がなくて、『オムー』の翻訳を読んで『タイピー』を知ったため、ずいぶん苦労して探しまわった。こんなところにも、戦後にはじめてアメリカ文学を読みはじめた若者の、ひたすらアメリカ文学にのめり込んで行った姿の滑稽さ、いじらしさが見られるのだが、ヌクヒヴァ島から脱出した主人公の捕鯨船の生活が先にあったので、『タイピー』を読んだときは、ほとんど羨望に近い思いさえあった。
 メルヴィルにかぎらないが、手あたり次第に本を読んできたので、こんなおかしな読みかたをするのはしょっちゅうだった。
 どんな作家も、大学の研究者に研究されるために書いているわけではない。私のように、追っとり刀で作家に肉迫してゆく三ン下批評家の読みかたで、どこがわるいのか。

 はじめからメルヴィルの専門家にはなる気などさらさらなかった。
 多島海に漂流した主人公が、原住民の娘、「イラー」と恋をする『マーディ』は、途中まで読んで投げ出してしまった。正直、メルヴィルにうんざりした。
 これを読んだ頃には、もう、『洞窟の女王』や、『ターザン』を読んでいたせいかも知れない。

 少年時代に『タイピー』を読んだことは、私の記憶に大きく残っている。戦後の混乱の日々に、アメリカ文学を読みつづけていたことになつかしさをおぼえる。
 ふと、「島」の魅力にとり憑かれていた自分が、それから逃れるために、ヘミングウェイ、さらには、ヘンリー・ミラー、アナイス・ニンに遭遇したのかも知れないと思う。

787

 カルミネ・ガローネという監督がいた。イタリアの無声映画からの監督で、歴史もののスペクタクルで有名だった。戦後、日本の新人女優、八千草 薫を起用して、全編オペラの「蝶々夫人」を撮っている。
 そのガローネがジュール・ヴェルヌの『ミッシェル・ストロゴフ』を映画化した。戦前に「大帝の密使」として作られた映画のリメイクということになる。これに、クルト・ユルゲンスが主演している。

 ロマノフ王朝に反乱を起こしたダッタン族に、イルクーツクが包囲される。
 そこで、モスクワから、イルクーツクの守備隊に皇帝の密使がつかわされる。身分をかくすために、ひとりの可憐な美少女が妻という名目で同行するのだが、これがジュヌヴィエーヴ・パージュ。
 この映画でも、クルト・ユルゲンスは堂々たる押し出しで、圧倒的な演技を見せていた。重厚なクルト・ユルゲンスに対して、ジュヌヴィエーヴもわかわかしく、魅力もあふれていたから、映画がおもしろくならないはずはない。
 ところが、この映画、まるっきりおもしろくなかった。

 カルミネ・ガローネの大時代な演出もこの映画をひどくつまらないものにしていた。日本での公開もおそらくコケたのではなかったか。
 この時期、すでにフエデリーコ・フエリーニの「道」が登場している。同時に、ベルイマンの「夏の夜は三度微笑む」も。カルミネ・ガローネの映画が見劣りしたのも当然だろう。私もこの映画には失望したが、それでも、インキジノフと、ジャック・ダクミーヌが出ていたので、この映画を見てよかったと思った。
 インキジノフは無声映画の大スター。私は見たことがなかった。デュヴィヴィエの「モンパルナスの夜」公開当時、私は5歳ぐらい。評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、偶然、BS11で「カザノヴァ」を見た。ジュヴェの恋人だったマドレーヌ・オズレイが出ていたので、この映画を見たのは大きなはげみになった。
 ジャック・ダクミーヌは、戦後(1951年秋)、エドウィージュ・フゥイエールが「エーベルト劇場」でやった芝居に起用された新人だった。どういう俳優なのか見ておきたかった。

 私の場合、その映画一本を見ることで得られるものは多かった。
 その映画が暗黙のうちに見せているもの、あるいは、ちょっと見ただけではわからないもの、ときには見えないものを「見る」こと。
 ・・・・うれしかったのは、まだ世界的なスターになる前の、新人女優、シルヴァ・コシナが出ていたことだった。(ユーゴスラヴィア出身の女優である。シルヴァ・コシナが好きだった常盤 新平も、おそらくこの映画、「皇帝の密使」のシルヴァは見ていないだろうと思う。)

 私は、つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味だった。つまらない映画を見ても、いろいろ考えることはできる。
 たとえば、クルト・ユルゲンスという俳優は、どうしてこんなつまらない映画に出るのだろう? しかも、ほかの俳優がまるでダメなときでも、彼だけはどうしていい芝居をしているのだろうか。
 私は、そんなことばかり考えていた。

 映画について、とくにその映画に出ている俳優、女優について考えることは、私にとって、芸術について考えることにほかならなかった。
 そして、芸術について考える私について考えることだった。

 だから、マリリン・モンローについて私なりのモノグラフを書いた。ルイ・ジュヴェの評伝を書いた。

786

クルト・ユルゲンスは名優といっていい。
 戦後のドイツの俳優のなかで、いちばん存在感があったひとり。
 ハリウッド映画にたくさん出ているが、いまの私がまっさきに思い浮かべるのは、「深く静かに潜航せよ」ぐらい。ドイツ海軍の潜水艦の艦長。この潜水艦を捕捉して、執拗に爆雷攻撃をつづけるアメリカ海軍の駆逐艦の艦長が、ロバート・ミッチャム。

 ロバート・ミッチャムは、ずっと後年の「さらば、愛しき女よ」で「フィリップ・マーロー」をやったが、はじめからハリウッドの映画俳優だった。この映画では、クルト・ユルゲンスとぶつかるシーンもない。だから、この映画では芝居で勝負していない。
 一方、クルト・ユルゲンスは、狭い潜水艦の内部だけの芝居なので、演技はだいたいクローズショットが多くなる。当然、顔(フェイシアル)の芝居になる。老練、不屈のドイツ海軍の艦長が、全力をあげて敵の爆雷攻撃をふり切って逃げようとする。冷静な艦長がはじめは敵にして、圧倒的な自信をもっていながら、その軽蔑に似た思いが、やがて呪詛、さらには焦燥、怒り、敗北感に代わってゆく。
 これが、期せずして、ロバート・ミッチャムの芝居とすばらしいコントラストになっている。

785

 ときどき昔の名優たちを思い出す。

 たとえば、『悪魔と神』(サルトル)の「ゲッツ」をやった尾上 松緑。戦後のサルトルへの関心から見たのだが、ほんとうは、戦後、ルイ・ジュヴェが演出した戯曲なので見に行ったのだった。日本ではジュヴェの演出が失敗したという評判だけがつたえられていた。もし失敗したとすればどういう理由によるものなのか。失敗はどこの部分においてだったのか。
 ジュヴェは、その後まもなく亡くなっている。ジュヴェの芝居を見るわけにはいかない。だから、日生劇場に行くことになった。(1965年だったか。)
 松緑の芝居は、戦前、前後と、とびとびながら見てきた。松本 豊の頃から、母がひいきにしていたせいで、戦前からこの俳優のことは知っていた。父の幸四郎から菊五郎(六代目)にあずけられたためか、うまい役者、将来性のある役者と聞かされてきた。
 松緑になりたての頃、不人情な役者という評判が立っていたときでも、私の母は松緑を褒めていた。若手のなかでも、「船弁慶」の「静御前」や、「南郷力丸」などがすばらしい、といっていた。
 私は松緑も好きだったが、兄の染五郎(のちの幸四郎)も好きだった。

 戦後、しばらく歌舞伎を見なかったので、久しぶりに、「ゲッツ」の松緑を見て驚嘆した。むろん、松緑の芝居をいくらかでも継続的に見てきたせいで、こういう驚きがやってきたのだろうと思う。「ヒルダ」をやった渡辺 美佐子が可憐に見えたぐらいで、ほかの(劇団「四季」の)俳優たちの存在までがかすんでしまった。

 ずっと後年、福田 恆存の『明智光秀』で幸四郎を見た。このときの幸四郎もすばらしかった。
 私は幸四郎、松緑によって名優のもつ力の凄さを知らされたような気がする。

784

 暇をもてあます、ということはない。
 ほんの二、三分、誰かの句集を開いて、そのページに出ている句を読む。(短歌はあまり読まなくなった。歌集までとても手がまわらない。)詩集は一度、眼を通しておいて、あらためて読みはじめる。そうしないと頭に入らない。

 こんなものを見つけた。

     鎌倉の かぢのむすめ
     日本の天下の しゃれおんな
     しゃれおんなに 油をつけて
     オヤ 十五夜の 月を
     シャ 鏡にしょ

 鎌倉時代の民謡という。
 むろん、曲はわからない。メロディーはわからなくても、鎌倉時代の男の眼を惹きつけた「日本の天下のしゃれおんな」の姿。
 まさか十五夜のお月さまを鏡にしてその女を映してみたい、とは思わないけれど、鎌倉の鍛冶の娘は、きっと、きりりとした美しい娘だったにちがいない。

 合いの手の「オヤ」も「シャ」も感動詞。「シャ」は、さげすみ、あざけりの含意でつかわれることがあるが、ここでは感嘆だろう。あるいは接続の「さて」なのか。

 女につけるあぶらがどういうものかわからない。しかし、私としては「あぶら月」を連想する。そう見てくると、いい歌詞だと思う。

 春になったら鎌倉に行って、小林 秀雄、澁澤 龍彦、磯田 光一の墓に詣でようか。鎌倉を歩いたところで、鍛冶の娘がいるはずもないが、「日本の天下の しゃれおんな」の二、三人は見かけるだろう。

783

 外国語の小説を読むことが少なくなってきた。
 外国の小説を読んで感心することがなくなってきた、というのは、こちらの感性がにぶくなったせいだが、さりとて翻訳を読まなくなったわけではない。

 ときどき昔の作家のものを読む。

    「過去二十年、私はおびただしい短編を書いてきた――少なくとも、この本におさめたものの三倍も書いている。ある作品は愛のために書いたし、お金のために書いたものもある。怒りをぶちまけるために書いたり、共感や悲しみを、ときには絶望から書いたものもある。こうした作品を書いた動機が何であれ、いつも一つ、共通していたことがある。私はこの小説たちを書きたかったのだ。

 こう書いたのは、女流作家のケイ・ボイル。

 寝る前に1編を読む。とてもいい作品が多い。いい作品を読むと、ぐっすり眠れる。朝、眼がさめたとき、ストーリーの内容をだいたいおぼえていれば、その作品は私にとっていい作品なのである。
 忘れてしまったら、たいした作品ではなかったと思えばいい。
 どうせ、もう二度と読まないのだから。

782

 
 私にしても、何度も「助六」を見てきた。戦時中に見た、羽左衛門の「助六」、吉右衛門の「意休」は、いまだに眼に残っている。

 今の団十郎の「助六」を見ながら大昔の団十郎(九代目)の話を思い出した。(ただし、この役者を、昭和生まれの私が見ているはずがない。)こっちの団十郎は、養父、河原崎権之助にみっちり仕込まれた。
 この権之助は、明治元年、今戸で、凶賊に襲われて横死した役者。(戦後すぐに起きた、仁左衛門殺しに似ている。思えば、敗戦直後は、すさまじく殺伐な時代だった。)権之助殺しも幕末から明治に移った時代の混乱のなかで起きた悲劇だったが、その断末魔のうめきが凄まじいものだった、という。
 それを二階にいた団十郎が聞いていた。後年、「湯殿」の長兵衛で、これを芝居(演技)にとり入れた。この長兵衛の打たれで、肺腑をえぐるよえなうめき声の迫真に、満場、戦慄したという。ちなみに、このときの水野十郎左衛門は河原崎権十郎。

 「助六」を見ながら(実際には、見たこともない)大昔の団十郎を連想するような私の意見だから、当たっているとはいえないが・・・

 パリから戻ってきたあたりから、団十郎もようやくいい役者になってきた。

781

 マンガ家の安西 水丸が、歌舞伎を見て、
 「紫の病鉢巻(普通は左側に結ぶのがきまりだが、助六は、これが当時の江戸っ子というのか、今見ると奇妙な男だ)。この芝居は何度か見ているが、いつも退屈してしまう。正直に書くとどこがおもしろいのかわからないのである。――」
 と、書いていた。
 正直でいい。もともと「助六」は、退屈で、どこがおもしろいのかわからない芝居なのだ。

 初演の「助六」は、一幕で半日かかったという。これでは、いくら江戸っ子だって、たいてい退屈してしまう。なぜ、そんなに時間がかかったのか。ようするに「演出」の問題と理解していい。
 大道具を一杯に飾る。今なら裏方の技術も高度なものになっているし、各自の分担も手順よく細分化されている。劇場によっては、舞台転換もコンピュータ処理ができるけれど、昔の劇場(こや)では一度飾ったら、むやみに装置をバラせない。
 そこで、作者先生も一杯の道具のなかに、いろいろな要素を盛り込む。
 かんぺらや、朝顔、白酒、みんなコミックな要素をもっている。それが、長いあいだに、俳優の工夫も重なってどんどん整理され、今のかたちに昇華してきたと見てよい。

 竹田 出雲からあと、宝暦あたりから、上方、関東、いずれも台本の恰好がおなじようになったのも、秋成、源内、南畝、あるいは『柳多留』の登場した時代を反映していたのか。

 安西 水丸のことばから、あらぬことまで考えてしまった。

780

 森田 たまは、戦前から名随筆家として知られていたが、この程度の随筆家は、今の同人雑誌にいくらでも見つかるだろう。
 たとえば、「孤独の尊さ」という文章があった。日中戦争が始まる直前に書かれたらしいが、この随筆家か見つめた「孤独」はどういうものだったか。

    孤独ほど耐へ難いものはない。しかしまた孤独ほど尊いものはない。誰が太陽を二つ見たか、誰が月を二つ見たか。・・・一国の中に君主はいつも一人ときまってゐる。さすれば一家の中にただひとり生れいでた愛娘は、その親にとつて君主であり、月であり、太陽であると云つても過言ではないでありませう。一人娘はそれ程まで恵まれた星の下に生れてきてゐるのです。人知れぬなやみの多く深きこと、また当然としなくてはなりますまい。

 これが書き出し。あきれた。こんなぞろっぺぇな文章を書いて名随筆家なのか。本人が名随筆家気どりだったのだから、始末にわるい。

 森田 たまはつづける。

      ながき夜の灯に結ぶ丁字の
      燭涙となりたまるを見れば
      今はた知りぬ世のことはりを
      時めける人うれひしげしと

    これは佐藤春夫先生の著はされました車塵集の中にある訳詩で、原句は「夜半燈花落、液涙満銅荷、乃知消息理、栄華憂患多」といふのですが、まことにこの詩のとほり、世にすぐれ持てはやされてゐる人ほど、それに比例してなやみも又多いものと思はねばなりませぬ。森の中にぬきんでた樹は風あたりが強いやうに、美しく生まれた人に哀話が多いやうに、一人娘もまた人から羨まれる境涯であるだけにかへって、ひそやかな憂ひの涙に、かはかぬ袖の又しても沽れることが多いでありませう。

 森田 たまを読みながら、ふと、梶井 基次郎の短編、「冬の蠅」を思い出した。
 自分の人生の「先がどうなるか」まったくわからない。ほんとうに『お先まっ暗』な若者が、よぼよぼと歩いている蠅、指を近づけても逃げない蠅をじっと見ている。この梶井 基次郎に、私はいいようのない孤独を読む。
 梶井 基次郎の文章には森田 たまなどが、ついに知ることのなかった孤独が吹き荒れている。
 こうした無間地獄のような孤独と、森田 たまの「孤独」などはまったく別のものだろう。

 「孤独の尊さ」だと。冗談じゃねえや。

779

 森田 たまは、戦前から戦争中にかけて、名随筆家として知られていた。

 作家の素木 しづのことを調べていて、森田 たまの随筆にぶつかった。「素木 しづさんの思ひ出」という文章で、『随筆 貞女』(昭和12年/中央公論社)に収められている。
 この『随筆 貞女』にこんな文章がある。

    花柳章太郎さんの随筆集「べに皿かけ皿」を読んで、何か感想をのべてみたいと思つてから最早まる一年も経つてゐる。そのあひだじゅう一度も忘れたことがなく、いつも心に思ひながら一年経つてしまつたのだから、われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質だともおもふ。さうしてどうやら、このあつさりしてゐるやうで、なかなかねつい、性急のやうで気の長い性質は花柳さんもよく似てをられるやうな気がするのである。おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家で、と私は日頃から自分で考へてゐる自分の性質を、そのまま花柳さんにあてはめてもまちがひはないやうに思ふのだけれど、ひょつとすると、それは私の希望の影にすぎないのであるかもしれない。好きな人や崇敬する人物の中に、つねに自分とおなじものを見出したいとねがふ人間の本性にたがはず、私もやはり、花柳さんの中に己れを見出さうと、しらずしらず願つてゐるのかもしれないのである。

 こういう文章が名文だったのか。それはいいとして、森田 たまはこの文章のいやらしさに気がついていない。ご本人がまるで気がついていないところが不愉快である。

 「われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質」という女性が、すぐに「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」は、「好きな人や崇敬する人物」たる花柳さんもよく似ているような気がする、という。
 これは、自分をほめるのにじつに便利ないいかただと思う。
 「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」だとさ。たいていの女性は、自分のことをその程度には見ているだろう。

 私だって、「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」のひとり。
 「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」でもなければ、もの書きなんぞやってられっか。

 森田 たまの素木 しづ回想を読んで、ひどく不快なものを感じた。

778

 
 晩年の芥川 龍之介が、後輩の久保田 万太郎に、自作の俳句を見せた。久保田 万太郎は、すでに傘雨宗匠として知られていた。

    うすうすと曇りそめけり 星月夜

 傘雨宗匠はこの句をよしとした。

 数日後、龍之介先生は句をあらためて、

    冷えびえと曇り立ちけり 星月夜

 これを傘雨宗匠にしめした。傘雨宗匠は頭をふって、「いけません」といった。

 龍之介先生は後句を捨てなかった。万太郎は、ついにこの句を認めなかった。

 前句と後句のどちらがいいか。私には判定がつかない。「冷えびえと」のほうは、晴れから曇りにうつろう時間の経過を詠み込んだ感じがいいが、「曇り立ち」では理がかちすぎるような気がする。一方、「うすうすと」の句は、宛然、傘雨宗匠の世界で、それがかえって気に入らない。
 みなさんはどう思うだろうか。

777

 私の読書遍歴。
 いろいろなものを読んできたけれど、あまり読まなかったのはドイツ文学だった。ドイツ語を勉強する気がなかったせいもある。

 ゲーテ、クライスト、ケラー、ヘッベルなどは読んだ。
 やがて、メーリケ、シュティフター、グリルパルツァーなどを読む。シュティフターの描く少年時代の淡いロマンス、そして挫折などは、私にもわかりやすいものだったに違いない。
 こうした作家を読むことが、やがてランケ、モムゼンなどの歴史学者を読むことにつながった。ただし、これとて系統的に読んだわけではない。
 ブルックハルト、ランブレヒト、ディルタイなどの文化史、精神史なども、私の視野に入ってきたと思う。
 今の私はブルックハルトに批判的だが、彼に敬意を忘れたことはない。

 戦後すぐに、当時まだ現存していたランケの『ドイツの悲劇』を読んで、ヒトラーの独裁を経験しなければならなかったドイツ人の痛切な反省を知って感動した。
 この本と、第一次大戦の「戦後」に書かれたオットー・バウムガルテンの『大戦の人倫的反省』が、戦後、私の魂を揺さぶった。

 好きなドイツの文学者は、ツヴァイク、ホフマンスタール、エリッヒ・ケストナーなど。だれも翻訳しないけれど、オイゲン・ヴィンクラー。私は、この人の「島」という短編がいちばん好きなのである。
 ほかに好きな作品は、フォン・クライストの「チリの地震」。

 自分で翻訳してみたかったのは、ルイーゼ・ウルリッヒ。
 この名前に聞きおぼえはないだろうか。「未完成交響楽」(ウィリー・フリッチュ監督)に出ていた可憐な少女。彼女は、戦後、作家になっている。ただし、ドイツ語の読めない私は彼女に関して何も知らないのだが。

776

私の読書遍歴。
 いろいろなものを読んできた。残念ながら、こちらに基本的な理解力がないために(つまり、頭がわるいせいで)、読んでもほんとうに理解できないことが多い。残念だが、もうとり返しがつかない。

 「文学講座」をはじめたのも、自分の知識がどうにもあやふやで、あらためて勉強してみたかったからである。

 学生の頃、たとえばモンテスキューの『法の精神』を読んだ。当時の私に理解できたはずもないが、モンテスキューの明晰な思考が、私にとっては一つの目標になった。
 ローマの共和政治に関して、いくらかでもはっきりした考えをもつことができたのは、イタリアの著作家たちよりも、むしろ『法の精神』を読んだおかげだった。祖国愛とか、平等といった観念が、政治的な徳性とむすびついたものであることも、モンテスキューからまなんだことの一つ。

 スタンダールに対する尊敬と、ヴァレリー(とくに『ダ・ヴィンチ』。これは、ある日、野間 宏からもらった)と、モンテスキューへの関心が、私をルネサンスに向かわせたような気がする。今になって、なんとなくそんな気がするだけのことだが。
 ただし、モンテスキューからすぐにルネサンスに推参したわけではない。はるか後年になって、やっとルネサンスの人たちについて勉強をはじめたのだから。

 ところで、『法の精神』が出版されたのは、1748年。

 日本の文学としては、芭蕉の『奥の細道』が、1702年。
 大近松の『曾根崎心中』が、1703年。『心中天網島』が、1720年。
 新井 白石の『読史餘論』が、1720年。
 室 鳩巣の『駿臺雑話』が、1731年。

 してみると・・・芭蕉、近松、白石、鳩巣たちは、モンテスキューと同時代人と見ていい。

 若き日の私は、なんとかモンテスキューを理解しようとした。しかし、当時の私は、芭蕉、近松、白石、鳩巣たちを読むことがなかった。ずっと後年になってから、これは作家として恥ずかしいことではないのか、と思いはじめた。
 それまでにも、自分にわかる範囲で、少しづつ江戸の文学を読みはじめていたのだが。
 それが、現在の「文学講座」につながっているような気がする。

775

  『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。
 私がこんなことをけっしていわない理由がおわかりだろうか。

 アフリカ南部、ジンバブエ。
 国家経済が破綻している。中央銀行は、昨年11月の時点で、インフレーションの年率が、2万6476に達したと発表した。(’08.2.1)
 昨年9月の時点で、インフレ率は、年間、7982パーセント。単純計算でも、2カ月で、3倍。これが現在進行形でつづいているのだから、もはや天文的な数字に達しているだろう。

 今年1月中旬には、パン、1斤が300万ジンバブエ・ドル。(公定レート換算で、日本円で1万円相当)。ガソリン、1ガロン、1500万ジンバブエ・ドル。(5万3千円相当)。ジンバブエは『お先まっ暗』どころではない。

 超インフレーションのおそろしさは、第一次大戦後の、敗戦国ドイツに見られた。
 1923年10月の紙幣流通高は、1913年のじつに4億1300万倍。金額にして2505兆弱という数字になる。
 戦前、2マルク60ペニヒだったバタ、1キロが1922年10月には、3500マルク。1923年6月には、じつに3万300マルク。ドイツのいたるところで、略奪と暴動が起きる。

 現在の中国の躍進に重なっている異常な物価高騰が、1989年のインフレーション再現の導火線にならなければいいのだが。
 インフレーションがおそろしいのは、かならず人間性の頽廃、堕落をともなうことで、テロや犯罪が多発することになる。敗戦後の日本でも超インフレーションは起きたが、これは円のモラトリアムによってなんとか切り抜けられた。

 ジンバブエはどうなるのだろうか。
 これからどうなって行くのか、誰ひとり見通しが立たない。誰もがはっきりした打開策も見いだせず、何をどうしていいかわからずに茫然としている状態だろう。
 ジンバブエのインフレーションは、国家のすべての機能を麻痺させ、あらゆる分野に壊滅的な打撃をあたえている。
 1980年から、ムガベ大統領が独裁者として統治してきた。ジンバブエは対外的に戦争をしているわけでもないし、内乱が起きているわけでもない。しかし、これは最悪のインフレで、大統領の責任はきわめて重いがこの独裁者は退陣しない。まさに、『お先まっ暗』といってよい。

 『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 なるべくなら、『お先まっ暗』よりは、せいぜい『お先まっ青(マッツァオ)』ぐらいのほうがいい。

774

 養老 孟司先生が、宮崎 駿という映画監督と対談なさっている。
 そのなかで、宮崎先生が、

    先がどうなるかわからない、それこそが生きるってことですよね。(中略)そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね。

 とおっしゃる。これを受けて、養老先生が、

    『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 私は平凡なもの書きなので、お二人のことを批判するわけではない。ただし、ここから別のことを考えはじめた。
 「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」ということに関連して、私は映画スター、クラーク・ゲイブルのことば(1932年)を思い出した。

     ハリウッドにきてから、たった2年しかたっていないが、映画界に関するかぎり、2年というのは、じつに長い時間だ。にもかかわらず、私は映画に関して、ごく一部についてさえ自分の意見をもとめられたことはない。(中略)ある日、セットに入ると、私がジョン・マルバートに代わって「紅塵」(ジーン・アーサー主演)に出演することになっている、と告げられた―― 私は、どの役をやりたいかと相談されたことは一度もない。私は自分の考えをもたないことで、金をもらっているのだ。

 クラーク・ゲイブルのような大スターなら、「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」と覚悟しても生きて行ける。しかし、いくらハリウッドのスターでも、クラーク・ゲイブルのような人ばかりとは限らない。
 1930年代、ハリウッドの黄金時代のスターたちを一本の映画からつぎの映画にかりたてて行った圧力の凄まじさを考える。当時のハリウッドで、酒や、ドラッグ、セックスに溺れて破滅して行ったスターたち、スターレットたちの物語が無数にころがっている。(今だって、あまり変わらない。)

 先がどうなるかわからない、それこそが生きることに違いないが、えらい人は別として、そう、あっさりと口にはできない。

     『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 ほんとうに、『お先まっ暗』と思ったとき、なおかつ、この世をおもしろいと達観できる人がどれだけいるだろうか。
 養老 孟司先生のように、脳の大学者で、人生で挫折など経験したこともナイばかりか、たてつづけにベストセラーを出すような人は別として。

773

ずいぶん昔(1960年代)、アメリカ人、日本人、インド人の食料摂取量の比較を読んでいて、アメリカ人1人の消費量が、インド人、50人分にあたると知った。当時、日本人1人の消費量が、インド人、20人分にあたると知って、アメリカ人は日本人の倍以上も食べているのか、と驚いた記憶がある。

 つい最近、ヴァーチャル・ウォーターなるものをはじめて知った。(「読売」08.1.22)。
 たとえば、おコメ、野菜、ウシの飼料になる穀物などを作ったりするのに、水が必要になる。その水を「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)という。

 ウシ、ブタのエサになる穀物の栽培には大量の水が必要になる。
    トリ肉、1キロに 4・5トン
    ブタ肉、1キロに 6トン
    牛肉、 1キロに 20トン
 の水が使われている。東大の「水文学(すいもんがく)」の沖 大幹先生の推計。

 すごい数字だなあ。

 「食事メニューごとに必要な「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)1人分の量は、
    牛丼(並)     1887リットル
    ハンバーグ     1859リットル
    スパゲッティ・ミートソース 1397リットル
    ポテト・チーズバーガー 1099リットル
    カレーライス    1095リットル
    ごはん        238リットル
    バター・トースト   231リットル
    オレンジ・ジュース  168リットル
 この試算によれば、牛丼(並)1杯は、お風呂(180リットル)に換算して、なんと10杯分になるそうな。知らなかった、というより、そんなことは考えもしなかった。

 この沖 大幹先生の研究グループが、日本、アメリカ、中国、ケニアの家庭の、ある一日の食事に投入されているヴァーチャル・ウォーター(仮想水)の量を調べた。

    アメリカの家庭1人あたりの(仮想水)は、 2489リットル
    中国  の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1954リットル
    日本  の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1611リットル
    ケニア の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1351リットル

 こういう記事から、いろいろなことを考える。

 日本は資源に恵まれないのだが、水資源だけは豊富らしいこと。それでも、いつか、貴重な水資源が枯渇する可能性があるらしいこと。
 ヨーロッパの尖端科学でも、「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)の研究は進んでいるのだろうか。もし、研究しているとすれば、どこの国においでさかんなのだろうか。
 いずれ、「戦略水」から降水発電戦略、「雲流るる涯」から気象資源争奪などという思想、競争概念も出てくるかも知れないなあ。

772

最近、人気の映画、レンタルDVDのリスト。

 1)「ラッシュアワー 3」
 2)「ファンタスティック・フォー」
 3)「タクシー 4」
 4)「トランスフォーマー」
 5)「ダイハード 40」
 6)「パイレー・オヴ・カリビアン」
 7)「オーシャンズ 13」
 8)「ウィッカーマン」
 9)「アーサーとミニモイの不思議な国」

 私はなんと1本しか見ていない。今後もおそらく見ることはない。
 たいして理由はないのだが、こちらが時代からズレてしまったせいで、これらの映画を見る必要がない。どうせ、ろくでもない映画ばかり。
 ハリウッド製のブロックバスター映画は、公開後、10年ばかりたってから見るとなかなかおもしろい。

 映画は毎日のように見ている。最近見た映画をあげておく。

    1)「悲劇の皇后」(1985年)/ 2)「ホテル」(1986年)/3)「画魂 愛、いつまでも」(1992年)/ 4)「新 野いちご」(1992年)/ 5)「キャラバン」(1999年)/6)「ペパーミント・キャンディー」(1999年)/ 7)「柳と風」(1999年) 8)「ドリフト」(00年)/ 9)「わすれな歌」(02年)/ 10)「マーサの幸せレシピ」(02年)/11)「ブラウン・バニー」(04年)/12)「スイーニー・トッド」(08年)/

 ほとんどが、ビデオ、DVD。ずいぶん昔、一度見たっきりで、すっかり忘れていて、この際、もう一度見直したものばかり。昔見た映画をあらためて見直す。忘れているシーンも多い。けっこうおもしろい。が、もう、二度と見ることはないだろう。
 「マーサの幸せレシピ」(02年)は、サンドラ・ネトルベック監督。マーサ・マルティナ・ゲデック主演。アメリカのリメイクを見て、あらためてハリウッド映画の衰弱を感じた。
 昔、デュヴィヴィエの「望郷」をハリウッドがリメイクした「アルジェアーズ」(邦題・「カスバの恋」)を見て、すっかり軽蔑したことを思い出す。主演のシャルル・ボワイエ、これがハリウッド・デビューになったヘディ・ラマールのふたりが、まるっきりのアホに見えたっけ。

 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかったというのが私の趣味なので、愚作映画を忘れたところで困らない。ただ、軽蔑は残るのだ。

771

松 たか子が、「読売演劇大賞」の、最優秀女優賞をうけた。

 『ひばり』、『ロマンス』の演技で。

 笹本 玲奈が『ウーマン・イン・レッド』で、杉村春子賞を受けた。

 ともに慶賀すべきことだと思う。
 松 たか子は、数年前にテレビ・ドラマで「金子 みすず」を演じたが、このあたりから、大きく変わったと思う。
 ただし、『ミス・サイゴン』の松 たか子が意欲的にミュージカルに挑んだことは認めるけれど、もともと声質もミュージカルにむかなかったし、結果的に魅力が出せなかったと思う。その点、今回、「読売演劇大賞」でもミュージカル専門の笹本 玲奈のほうがずっと安心して見ていられた。

 野田 秀樹の舞台(『贋作罪と罰』)の松 たか子は、四角い舞台を一所懸命走りまわっていたが、まだ役が光り輝くところまで行っていなかった。おそらくは演出家も、芝居のなかで、彼女の天性の魅力がおのずと輝き出すと見て、あまりダメを出さなかったのだろう。あるいは彼女のひたむきさにダメダシを遠慮したか。

 しかし、松 たか子は、やがて名女優と呼ばれるにふさわしい舞台を見せてくれるだろうと思う。

770

 映画監督の市川 崑が亡くなった。

 記録映画「東京オリンピック」は彼の代表作。
 この映画は日本の「戦後」を描いたものといってよい。前半、オリンポスの聖火が日本の各地のランナーにうけつがれて、東京に向かう。その聖火を見つめる人々の胸にあったものは、映画のなかでじゅうぶんに表現されていた。

 ところが、完成したこの映画の試写を見た、当時、五輪担当だった河野 一郎が激怒したという。
 ようするに、記録映画は、スポーツの勝敗を記録すべきものであって、映画芸術であるドキュメントである必要はない、という意向だったらしい。
 市川 崑は、河野 一郎に会って、説明や弁明をしたという。

 私は、政治家、河野 一郎をいささかも尊敬していない。

 もう少し前には、谷崎 潤一郎の『鍵』を、猥褻として告発しようとした世耕某というクズがいた。
 また、戦後、カンヌ映画祭に日本映画が出品されるようになって、日本の女優たちも映画祭に出席するようになった。このとき、ファッションのつもりで黄八丈、黒繻子の帯で出席した若い女優を下品だといって罵倒した大野某といったやからが、政治家としてハバをきかしていた。

 私は世耕某、大野某といった連中にいささかも敬意をもたない。現在、世耕、大野、河野などといった連中など誰もおぼえていないだろう。私はよくおぼえている。

 私は、ドキュメント「東京オリンピック」を日本映画の誇りと思っている。

769

1942年(昭和17年)、六代目(尾上 菊五郎)が、三日間、芝居を休んだ。小さなニュースだったが、六代目が芝居を休むというのは、当時、歌舞伎ファンのあいだでは、いろいろととり沙汰されたものである。
 私は、中学二年生。このときのことは、いまでもおぼえている。もう、太平洋戦争が起きていた。
 六代目のやっていた「お軽」は家橘、「吾妻」は菊之助がかわった。

    此間(このあいだ)臍の横へにきびの大きい位な腫物が出来て、それに黴菌が入って、急に大きく腫れ上がったが、あれには驚きましたね。何でも蜂窩織炎とかいふ非常に性質(たち)のわるいものだそうで、これを放って置くとあの恐ろしい命取りの敗血症になるといふことですから、すぐに手術して貰ったんですが、黴菌てやつア却々(なかなか)こはいものですね。

 菊五郎のことば。インタヴューに答えて。

 私も、蜂窩織炎をやったことがある。私は、ある劇団で講義をしながら、翻訳の仕事をする。1冊ミステリーを訳すと、すぐつぎに別のジャンルのものを訳す、その合間に演出をする、といった日常だった。
 かなりハードなスケデュールがつづいていた。

 腰骨の上に小さな腫れものができたが、みるみるうちにふくれあがってきた。痛みがひどくて、二日二晩、まるで眠れなかった。
 ちょうど、ある長編の翻訳をしていたが、原稿は一枚も書けなかった。

 けっきょく、近くの外科の診察をうけて、すぐに手術してもらった。
 メスで切ったところにピンセットを突きたてて、グイッと病巣を引きずり出す。ブドウ状球菌の塊りをひっぱり出したが、長さが20センチ以上もあって、不思議な植物のように見えた。

 手術したあとも足をひきずって歩いた。
 ある編集者が、私のようすを見るなり、ニヤリと笑って、
 「出ましたね」
 とヌカした。

 その後しばらくして、この編集者は亡くなった。ある大出版社の名編集者だったが。
 何かのことで、からだじゅう黴菌だらけになったという。

 このとき「黴菌てやつア却々(なかなか)こはいものですね」と実感した。