作家、ソール・ベローがノーベル賞をうけたとき、私はある新聞にたのまれて、いそいでエッセイをかいたことがある。夜中に新聞社から電話があって、翌朝、原稿をとりにくる、といった仕事だった。原稿はその日の夕刊に掲載される。
ファックスも、メールもない時代だったから、こういう仕事を引き受けて、確実に間にあわせる、重宝なもの書きは少なかったのだろう。
なぜ、ソール・ベローなのか。
この問いは、まさにアメリカの戦後文学の核心につきあたる。サリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクといった、すぐれた才能がひしめきあっているなかで、ソール・ベローはほとんど孤高といってよい存在だった。
1915年、カナダ、ケベック州ラシーヌ生まれ。ユダヤ系ロシア移民の子だった。
幼年時代をモントリオールの貧民街で過ごし、少年時代からシカゴで過ごした。
ソール・ベロー自身「生粋のシカゴ育ちと考えている」作家だった。シカゴが、アメリカの文学的空間、文学史的な時間のなかではたした役割を見れば、ソール・ベローがシカゴ派の作家らしい特質をもっていることに気がつく。
少なくとも、シカゴ育ちという自覚、ないし、潜在意識は、ソール・ベローの世界の基調といってもいいだろう。
初期の作品、『犠牲者』は、脅迫(ブラックメール)を主題にした心理的なドラマだが、ここではユダヤ系とアングロ・サキソン系の違い、ユダヤとしての自意識、と同時に、被害妄想が語られている。その背景には苛烈としかいいようのないアメリカの現実の息苦しさがひろがっているのだが、ソール・ベローは、ときとしてサリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクたちが見せるようなソフィストケーテッドな姿勢を見せない。
ドストエフスキーは、自分の内面的な欲求から、作中人物を処罰する作家と見ていいが、ソール・ベローは、自分の内面の衝動から、作中人物をつぎからつぎに苦難に追いやる作家といえる。彼の主人公は、いつも受難者の顔をしている。だから、ソール・ベローを読んでいて、主人公の苦しみや悩みが、そのままこちらの苦しみや悩みになってくるような気がする。私などは、悲鳴をあげたくなるのだが、ベローはすかさず、救いを与えてくれる。『犠牲者』の「レビンサール」もその例だろう。
現実に、あまりにも肥大化しながら物質的な繁栄をひたすら謳歌しているアメリカの内面、そこにすでにきざしている崩壊の予兆に、ソール・ベローは眼を向けている。そういう社会のなかで生きることの意味は、何なのか。
処女作「宙ぶらりんの男」は、徴兵通知を受けながら、いつまでも入隊させられない若者の日記。こういう不安定な猶予(シュルシ)にも、生きることの意味の問いかけがあり、そこに苦悩がまつわりついている。もはや、回復しがたいところまで追いつめられながら、なおも必死に生きようとしている状態が、ソール・ベローの描く「猶予」にほかならない。
たいへんな長編作家で、三作目の『オーギー・マーチの冒険』、六作目の『ハーツォグ』などは、質量ともに大作で、こういう長編に対する欲求は、アメリカ作家に特有なものかも知れない。
たとえば、トム・ウルフに見られる、驚くほど執拗な自己追求、自己解析は、作風はまったく違うけれど、ソール・ベローにも共通している。
『雨の王ヘンダーソン』の主人公が、自分でもわけのわからない欲求にかりたてられて、アフリカの奥地にもぐり込みながら、執拗に自分を追いつめてゆく姿にも、こういう原衝動がある。
ある日、神保町の路上で、アメリカの本をたくさんかかえた植草 甚一さんに会った。すぐに立ち話をなさるのだった。
「やあ、中田さん、いいところでおめにかかりました。この作家を読みましたか」
私の知らない作家の原書だった。
「いいえ、存じません」
通行人が、私たちを見ながら通って行く。若い人たちは、たいてい植草さんをしっているらしく、その植草さんと親しそうに話をしているオジサンは何者なのか、という好奇心を見せているようだった。
私はその原書のフラップを見た。
知らない作家の本だった。私にかぎらず、この作家に注目した人はいなかったのではないか、と思う。
植草 甚一さんは、その本を私の手にわたして、
「これ、あげましょう。中田さんが、読んだほうがいい」
その場で本を下さった。
ソール・ベローだった。