808

 
 六代目(菊五郎)が語ったという。
 若い役者を育てるのは、植木をそだてるのとおなじ。

 いい種子をいい土壌に播いて、細心の注意を払って育てあげれば、各自もちまえの花だけは咲かせることができる。

 ある日、五木 寛之が訊いた。
 「中田さんは、若い作家を育てたことがおありですか」
 「作家を育てたといえるかどうか。ほんの二、三人ですね。翻訳家なら、いくらか育てたといえるかも知れません。六、七十人はいると思いますが」
 五木 寛之は眼をまるくした。
「私が見つけた作家は、ひとりぐらいです」
「ほう、誰ですか」
 その名前を聞いたとき、こんどは私が眼をまるくした(と思う)。しんじられない作家の名を聞いたのだから。
 ここには書かないが。(笑)

807

 談林から出発した芭蕉の句を読む。
 芭蕉の作かどうかわからない句も多いらしいが、真作とされている百句ばかりに、あまりいい句がないという。
 たいていの芭蕉研究でも、この時期の、とくに真作かどうかわからない句はまったく埒外に放棄してかえりみられない。

 私は研究家ではないので、この時期の芭蕉の句も、けっこうためつすがめつしながら読む。楽しい。

    年は人にとらせていつも若夷
    春やこし年や行けん小晦日
    文ならぬいろはもかきて火中哉
    町医師や屋敷がたより駒迎
    けふの今宵寝る時もなき月見哉
    天秤や京江戸かけて千代の春
    武蔵野や一寸ほどな鹿の声
 
 芭蕉、30歳から33歳の句。
 句のよしあしよりも、38歳の宗旦、14歳の鬼貫、そして芭蕉の弟子の其角が、23歳で『虚栗』を出したことを思いうかべると、芭蕉の遅い出発、あっちこっちウロウロしている感じがいい。

 芭蕉ほどの人でも、世に出たばかりはこうだったのか。

806

 文字あまり。「長発句(ながほっく)」という。

  踊子に穴あらば数珠につないで後生願はんものを
                  --百丸

 おそらく芸妓が舞台で踊っているのだろう。その踊り子に穴があったら、数珠につないで、来生の極楽往生を願いたいものだ、ということ。むろん、これは表面だけ。「踊子に穴あらば」という仮定法がいやらしい。当然、踊子と一夜の歓をつくして、極楽往生をとげたいものだという意味になる。
 この作者の放埒な工夫は、女体の「竅」と数珠の数を割ってみるとわかる。

 別の異形(いぎょう)の句。

  大西瓜何値段わずかに八分百よりはやすし 
                  --青人

 近在の百姓がかついできた大きな西瓜を買うつもりで、値をあたる。値段がひどく安くて「わずかに八分」というのではなく、百文よりはほんの「わずか」しか安くない。
 百姓に足もとを見られたか。そういう意味だろうと思う。

  あたご火や江戸鬼灯めせところてんものまいれ
                   --同

 私にはむずかしい一句。この「あたご火」がわからない。伊丹から京都はそう遠くないので、おそらく上嵯峨の愛宕神社の鎮火祭をさすのではないか。その縁日に、境内に出た店の女が、江戸で流行している「ホウヅキ」市からとり寄せた「ホウヅキ」を買って頂戴、「心太」(ところてん)も召し上がれ、と呼びかける、という光景だろうか。ただし、よく読むとなにやらエロティックな季節感がまつわりついている。

  女郎花立てり禅僧指断村薄     --鸞動

 これまた、私にはよくわからない。女郎花(おみなえし)は秋の七草の一つ。淡い黄色の小さな花がびっしり密生する。
 どこかの原っぱに女郎花が群生している。通りかかった禅僧が、ふと女郎花に眼をとめた。誰も気がつかないが、村のススキより、この可憐な女郎花のほうに、ずっと秋の風情があるではないか、と悲憤慷慨しているのか。禅僧の野暮をからかっている。
 「指断村薄」は、禅僧、指断ス、村ススキ、と読むのかも知れない。作者の工夫は、「禅僧」のゼ、ソ、「指断」のシ、「村薄」のスス、というサ行の音の執拗なくり返しと、「禅僧」のゼン、「指断」のダンの重なりにある。ようするに押韻の試みと見てよい。
 いくら工夫したって、つまらない句に変わりはない。

 さて、談林から出発した芭蕉はどうだったか。
   (つづく)

805

 
 このところ、暇を見ては、芭蕉や、その周辺の俳人を読み直している。何を書くわけでもない(書けるはずもないが)。ただ、楽しみのために読む。

 芭蕉が談林から出発したことはよく知られている。
 それまでの貞徳が代表する古風の俳諧が衰えて、宗旦、鬼貫を中心とする伊丹ふうの俳諧が起きる。その程度のことは私も知っている。
 そこで、宗旦に眼を向ける。

 宗旦、性はなはだ酒を愛し、しばしば門人をあつめ、老荘の書を読み、長明、兼好の文を説く。延宝二年(1674年)、京都から伊丹に移った。元禄にかけて、伊丹にいた俳人は、じつに77人の多きにおよんでいる。そのなかに鬼貫がいた。

   こいこいといえど蛍が飛んで行く

 鬼貫、八歳の作。

 今の私は別に感心はしないけれど、それでも鬼貫の才気のあらわれを見る。

 宗旦が伊丹に移った延宝二年、宗旦、38歳。鬼貫、14歳。二年後の鬼貫はどうなったか。

   かくて十六歳の比(ころ)より、梅翁老人の風流花ややかに心うつりて又其当風をいひ習ひ、猶其のりをもこえ侍(はべ)りて、文字あまり、文字たらず、或は寓言、或は異形、さまざまいひちらせし比(ころ)……

 伊丹の俳人は、先輩の宗旦が談林ふうの新風に転向したらしい。そこで、鬼貫をはじめ、木兵、百丸、鉄幽などが、いっせいに談林化してしまう。
 こういう雪崩現象は昔も今も変わらない。
   (つづく)

804

 
 女優の魅力。なかなかつたえにくいものの一つ。(私が言及しているのは、映画雑誌にあふれている記事のことではない。)

    (前略)最後に荒木道子のヘードイッヒを推賞して此稿を結びたい。荒木道子は、演劇芸術について、どういう経歴を有つ人か筆者は一向に知らないが、ヘードイッヒに扮し、この公演に於ける第一の功労者であったことを特筆したい。殆ど原人の姿を呈し、可憐で、神秘的で、父親思いのいじらしい娘を心にくいほど表現してゐた。十四歳の役としては幾分ませたところも見えたが、其一挙一動悉く快い感じを与へる演技で、そこには少しもワザとらしいものがなく、自然で、純真で、そして寂しい影のまつはるような娘であった。人の親として、此子の為ならば一命をも惜まないと思はせるほど親想ひの情も溢れてゐた。全く良きヘードイッヒである。筆者はかつて酒井米子のヘードイッヒの可憐な事に注目したが、今回荒木道子の之を見て、演出演技の進歩したことと同時に此女の秀抜な芸に目を瞠つたのである。

 これは、1940年(昭和15年)、「文学座」が上演したイプセンの『鴨』(今は、一般に『野鴨』で知られている)の劇評の一節。筆者は、安倍 豊。
 劇評で新人女優がこれだけ賞賛されれば、やはりうれしいに違いない。日本がアメリカと戦争する前に、荒木道子がもっとも将来性のある新人として期待されていたことがわかる。
 私は中学生だったが、この芝居をわざわざ見に行っている。内幸町の角にあった劇場で、狭苦しい階段をあがってゆくと、いきなり客席という小劇場だった。
 イプセンについて何も知らなかったが、新劇の芝居を見たかった。
 当時、「文学座」の研究生として、賀原 夏子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子たちがいたが、荒木道子はその先頭を切っていた。

 彼女が女優として大きく発展するのは、やはり戦後の季節からだった。
 私は「文学座」の芝居を見るたびに、飛行館の芝居を思い出したものである。

 その後、私は、偶然のことから、NHKの連続放送劇のスタッフに起用されたため、スタジオでも荒木 道子と口をきくようになった。私の眼には荒木 道子が大女優のように見えた。
 このドラマに出ていた「文学座」の南 美江(戦前の「宝塚」のスターだった)は別格として、私と同世代の、七尾 玲子、加藤 道子(放送劇団出身)や、「民芸」の新人で、この連続放送劇のヒロインに抜擢された阿里 道子たちのなかで、女優、荒木 道子はいつも一歩先んじているようだった。

 ある日、ある集まりで、どうしたわけか芥川 比呂志がしきりに私にからんできた。思いがけないとばっちりだった。その内容は、銀と緑は、色彩としてけっして両立しない、といったことだったが、暗に、私がひそかに好意を寄せていた女優と、まったく才能のないもの書きでは不釣り合いだということを諷刺したらしい。
 このとき、そばにいた荒木 道子が芥川をたしなめるようにドイツ語で何かいった。
 あとになってそのことばの意味を知ったが、「こんな子どもを相手にするのはよしなさい」という意味だったらしい。
 私の内部で何かが壊れた。芥川 比呂志に対する怒りではなく、荒木 道子に対するファンとしての親近感が。

803

 サクラの季節が終わると、いっとき華やいだ気分も消えてしまう。

   目の星や花をねがひの糸桜   芭蕉

 これは、じつは夏の句らしい。
 おや、今日は、糸桜の花が願いの糸に見える。糸桜は、しだれザクラ。
 七夕の夜、竿に願いの糸をかける風習があった。五色の糸。「ねがひの糸」と「糸桜」をかけてあるのが趣向。目の星というと眼の病気みたいだが、瞳のこと。これは「七夕」の連想から。芭蕉に叱られそうだが、この句、少女マンガみたいで好きだな。

   雨の日や世間の秋を堺町    芭蕉

 これは秋。
 雨がしとしと降っている。さみしい。
 ところが、そんな世間と違って、堺町だけはにぎやかなのだ。なにしろ、日本橋の芝居町なのだから。脂粉の匂い。「雨」のア、「秋」のア、「世間」のセ、「堺町」のサが響きあう。しかも「世間の秋」には、日常に倦きて芝居や色町にくり出す、うきうきした気分が流れている。
 談林の頃の芭蕉の作も、けっこうおもしろい。

802

 2008年3月、文部科学省は、小・中学校の新学習指導要領を告示した。これは、愛国心を涵養するといった教育改正基本法(改正)と連動しているものだが、そのなかで小学国語に、「神話・伝承を読み聞かせる」という記述が追加されている。これも、総則のなかで、「伝統と文化を尊重」するということの実践と思われる。

 私は、これに賛成する。ただし、愛国心を涵養するといった教育的配慮ならやめたほうがいい。まさか、いまさら、神話を皇国史観に重ねるようなアホウはいないだろう。戦後、記・紀の研究も大きくすすんでいる。
 古代ギリシャでは、ミユトスは、ほんらいは物語であり、広義には話であった。明治時代に「神話」と訳されたことには、おそらく古事記、日本書紀の「神話」なり「伝説」への連想が働いたにちがいない。
 何をもって、人はある物語をもって「神話」とみなすのか。
 これは、おそらくこのことばの揺れ、ないし、発展にかかわるだろうし、その置かれた文脈にかかわる。

 古事記は、日本の歴史資料として、現存する、もっとも古い書物。712年に、太安麻呂の撰によって成立した。上、中、下の三巻にわかれる。その上巻が、神代巻(カミヨノマキ)として、日本神話が展開している。
 上巻は、天地開闢から、海幸、山幸神話。ホデリのミコトまで。
 中巻は、初代天皇といわれる神武の東征。第15代、応神天皇の秋山・春山兄弟のイヅシオトメ(伊豆志袁登売)との婚姻にまつわる話まで。

 下巻は、第16代、仁徳から、第33代、推古まで。歴史の資料としては、第23代、顕宗天皇までで、それ以後は、家系を中心とした略歴をならべたもので、文学として読むことはできない。

 天地開闢から、海幸、山幸神話。ホデリのミコトまで。記・紀が、日本民族の物語であり、「最古の伝承文学」、最高のファンタジーとして、子どもたちに受け入れられるのはうれしい。

801

 批評というものは、おもしろいものだ。批評家が、ある作家の作品を読み違える。当然、まっとうに評価できない。
 よくあることで、別にめずらしいことではない。

 サント・ブーヴは、スタンダールの『赤と黒』にさして高い評価をあたえなかった。
「ジュリアン・ソレル」について、家庭内の葛藤に巻き込まれたロベスピエールよろしく、卑劣で、忌まわしい「怪物」と見ている。「小説の人物たちはまったくイキイキとしたところがなく、ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)さながら」と酷評している。
 サント・ブーヴをフランス文学最高の批評家のひとりと見てきたが、こういう批評を読むと、さすがにあきれてしまう。

 ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)という批評から、こんな批評を思い出した。

    神のおつげと妻のさそいによって主君を殺し一城のあるじとなるが、やはり神のおつげどおりに人望を失ってしんでゆく侍の宿命をえがいた映画である。
    (中略)
    主人公の妻が狂うのも、千秋 実の役の死も必然性がない。三船(敏郎)、山田(五十鈴)らの演技はうまくてもこわいものみせたさのつくりものの感じだ。それにこの映画は大モッブシーンはあるが「七人の侍」のような合戦シーンがない。それが迫力を欠いている。
    (中略)
    この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ。それがまた映画のねらいであるとしても、何ものかにひき回されている人間をえがく場合、もつと人間の積極性を一面にえがいてみせたほうが皮肉がきいて宿命観がつよくひびくのではないか。黒沢(明)のはじめての哲学のない映画であり、気まじめすぎた凡作。

 試写室で「蜘蛛巣城」を見て、すぐにこの映画評を書いたらしい。(「デイリー・スポーツ」昭和32年1月)
 筆者はこの映画が、シェイクスピアの『マクベス』の翻案ということに気がついていない。少なくとも、そういうことをまったく考慮していない。しかし、「この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ」と見たなら、「黒沢(明)のはじめての哲学のない映画」と判断できなかったはずである。
 にもかかわらず、黒沢(明)らしからぬ「哲学のない映画」で、気まじめすぎた凡作、と評価した点に、この映画評のおもしろさがある。

 今のように、黒沢(明)が最高の映画人として崇拝されている時代には、誰も「蜘蛛巣城」を凡作などと切り捨てることはできないだろう。

 私は「蜘蛛巣城」を黒沢(明)の傑作と見ている。ただし、映画の傑作とは見ていない。オーソン・ウェルズの「マクベス」よりはマシだが。

☆800☆

 スタンダールはいう。

    自分の生きている世紀から完全に抜け出して、ルイ十四世の世紀の偉大な人たちの眼の前にいると考えること。いつも20世紀のために仕事をすること。

 ルイ十四世の世紀の偉大な人たちが、ここでは誰をさすにしても、作家としてのスタンダールは、いつもモリエールや、コルネイユ、ラシーヌたちを意識していた。
 いつも20世紀のために仕事をしてきたからこそ、19世紀の最高の作家と見られている。
 私はこういうスタンダールを尊敬してきた。

 かぎりなく無名に近い作家でも(心のどこかでは)自分の生きている世紀から完全に抜け出して、19世紀の偉大な人たちの眼の前にいると考えてきたはずである。
 きみたちもこれからはいつも22世紀のために仕事をすること。
                (私の好きなことば)

799

 
 ジュリエット・ビノッシュ。私にとっては名女優のひとり。日本の女優には、まともにインタヴューに答えられないバカが多いが、ジュリエットは違う。
 少女時代にアイドルはいたのかという質問に答えて、

    ニコラス・レイね。シェームズ・ディーンに、ジョン・フォード。マリリン。
    マリリンはわたしにとって、いちばん偉大な女優だわ。「バス停留所」にはびっくりしちゃった。彼女には、美しくありたいという、すごく強い気もちがあるの。彼女が、あんなにも美しいのはそのせいなのよ。彼女は工夫していたし、何もおそれなかったし、いろんなやりかたをためしていたわ。

 ジュリエット・ビノッシュは、それほど美貌というわけではない。ハリウッドのスター女優にはジュリエットよりずっと美女が多い。しかし、ジュリエットに比肩できるほど演技力のある女優は少ないだろう。戦後のルイ・ジュヴェによる「コメディー・フランセーズ」の「伝統」が、女優ジュリエットに生きている。少なくとも、彼女の基本を作り上げているような気がする。
 「コンセルヴァトワール」での彼女が、タニャ・バラショヴァの薫陶を受けていることから、私の想像はそれほど誤りではないだろう。若き日のタニャは、マルセル・アシャールと親しく、その関係で、いつもルイ・ジュヴェの身近にいた女優、脚本家で、のちに「コメディー・フランセーズ」の新人育成の専門家になった女性なのである。

 ジュリエット・ビノッシュが、ニコラス・レイをあげていることに驚いた。
 ところで――マリリン・モンローはじつに不思議な女優だった。
 スターになってからのジェーン・フォンダが、寝室の壁いっぱいの大きさ(絵でいえば200号以上のサイズ)の、マリリンの写真を飾っていた。ジェーン・フォンダもジュリエットとおなじように、マリリンはいちばん偉大な女優だったと語ったことがある。

 ジュリエット・ビノッシュが、マリリンを大女優と見ていることに、私としては彼女の女優観が見えたような気がする。

798

 ジュリエット・ビノッシュ。好きな女優のひとり。たいていのハリウッド女優より、ずっとずっとすばらしい女優。

 父親は彫刻家で、俳優。母親が女優。こういう経歴は、かなり特別に見えるのだが、フランスの女優ならさしてめずらしくもない。1964年、パリ生まれ。

 この女優さんの発想というか、考えかたがおもしろい。
 絵を見て泣き出したことが何度もあるという。

    ロンドンにいた頃、お金が全然なかったけれど、国立美術館にはかなり通ったわ。一日に、展示室を一つづつ見ることにしてた。展示室に行くたびに、前に見たものを全部、頭のなかで思いうかべる。4日目か5日目に、新しい展示室に入ったの。とたんに、ガツンとくるようなショックを受けたわ。まるでもう息ができなくなって。
    ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵があったの。
    涙がどんどん流れてきて、もうとまらないのよ。

 「とくに好きな絵がありますか」と訊かれて、

    ううん、特にってこと、ないわ。すごく美しくて、すごく心を打つ絵はたくさんあるけど。
    でも、よく思うの。絵にサインがなければいいのにって。作品に名前なんかなければいいのに。誰が作ったかなんて、知る必要ないじゃない。名前で評価がきまっちゃったりする。でも、わたしにとって大切なのは、最初からそこにあるものなのよ。
    自然は、最初から与えられているわ。空は、わたしたちに与えられている。だけど、自然にはサインなんかないわ。空にはサインしてないでしょ。

 私はこういうジュリエットが好きなのだ。 
  (つづく)

797

思いつくままに、私が関心をもっている女優をあげてみよう。

 池脇 千鶴、上戸 彩。加藤 あい、菅野 美穂、木内 晶子。菊川 怜。京野 ことみ。国生 さゆり。
 柴崎 コウ。鈴木 京香、田中 麗奈、中谷 美紀、西田 尚美。
 広末 涼子、堀北 真希。松 たか子、松嶋 菜々子、松雪 泰子。
 宮崎 あおい。宮沢 りえ、矢田 亜希子、優香。
 ほかに、いくらでもあげることができよう。
 このなかには、舞台でも見た女優も多い。

 それぞれの女優の魅力。ことばではつたえにくい。

 たとえば、クリスティーナ・リッチについて。

    ぼくがクリスティーナを好きな理由は、彼女が活動写真の雰囲気をもっていることなんだ。なんともいえないフワフワした感じ。この役には、クリスティーナがもっているはっきりしないクォリテイーが絶対に必要だったと、今でも思っている。彼女を見ていると、皆何かを感じるんだけど、それが何なのかわからない。ぼくにとっては、いや、この映画にとっては、それこそがすごーく大事な部分だったのさ。こういうクォリテイーはなかなかめずらしいもので、誰もがもっているものではない。これこそ、映画をマジカルにするクォリテイーだと思うんだ。

 ティム・バートンが「スリーピー・ホロウ」について語ったことば。
 「なんともいえないフワフワした感じ」では何の説明にもなっていないけれど、クリスティーナ・リッチという女優さんには、なぜかぴったりする。
 こういうことばは、語っている本人でもうまく説明がつかないのに、聞いているこちらがなんとなく納得してしまう、つまりは女優の魅力がはじめから論理的に説明しにくいからだろう。
 おなじ映画に出たリサ・マリーについて、ティム・バートンが何も語っていないことが気になるのだが、リサ・マリーについてはこんなふうにはいえなかったのかも知れない。そのあたり、私には別の興味がある。(こんなふうに考えるのが、批評家の習性なのである。)ウフフ。

 ある時期、ある若い女優に、「なんともいえない「香気」(フレグランス)がたちこめることがある。その「香気」(フレグランス)は、いわば一過性のものでもあって、その女優が演技的に向上するにつれて、いつしか「なんとなく」消えてしまうことも多い。

 たとえば、「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」のエミリー・ワトスン。
 私としては、できればそういう瞬間の女優について書いておきたいのだが、これがとてもむずかしい。

796

 我が家の庭で、冬の終わりからミモザがあざやかな黄色を見せる。

 そのつぎに、辛夷(こぶし)が春のきざしを告げるかのように咲く。ほのかなピンクを帯びた白い花である。堀 辰雄の『大和路・信濃路』に美しく描かれている。

 そして、梅。

 少し遅れて、海棠が花をつける。
 この海棠は、友人の小川 茂久が、亡くなる前日に私に贈ってくれたもの。
 私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きあげたばかりだった。小川の危篤を知らされて、いそいで川越、小仙波のマンションに向かったのだった。
 もはや死期も近かった彼は、私が長期間、書き続けてきた作品がやっと完成したことを告げると、声もなくうなづいてくれた。その眼に輝きがあった。
 その日、彼は形見の品をわたしてくれたが、病床に飾ってあった海棠の鉢も贈ってくれたのだった。

 一度、帰宅した私を追いかけて、小川の絶命が知らされた。私は、葬儀に出る支度をして、また川越に向かった。二月二十八日だった。

 あれから十年になる。
 海棠は、やがて鉢から庭に移した。今はずいぶん大きくなっている。毎年三月、私は海棠の花をみながら、小川 茂久という親友を得た生涯のしあわせを思う。

 海棠より少し先に白木蓮。
 咲きはじめたばかりの木蓮の白ほど美しいものはない。シクラメンの白など、比較にもならない。白木蓮の白は、たとえようもないほど豪奢な色彩といっていい。だが、この白の豪奢は、ほんの一日、せいぜい二日しかつづかない。
 またとない豪奢な白がみるみるうちにごくありきたりの白に変化する。散りしいた花びらは無残に散って、たちまち汚れ、褐色に褪せてしまう。
 清純な処女が、あわれ、たまゆらにその美を喪失してしまうよう。

    Every night and Every morn
    Some to misery are born:

 ふと、ブレイクの一節(「ロング・ジョン・ブラウン/リトル・メァリ・ベル」)を思い出す。

 それぞれの時代を彩った女優たちを連想する。

795

 ある古書店が廃業した。

 四街道には、一時期、友人の竹内 紀吉が住んでいた。私の住んでいる土地から、ローカル線で3駅。よく駅前で、酒を酌み交わしたものだった。その古書店も、そんなことから立ち寄るようになった。
 廃業すると知って、一度、本を見に行った。

 その週の日曜日にもう一度行ってみた。正午なのに、扉が閉まっていた。さては昨日いっぱいで閉店したのか。

 この古書店からずっと先に、こども向けのゲーム、CD、ビデオ、DVD、奥にアダルト・ビデオなどを並べた店がある。ここに行ってみた。むろん、買いたいものもない。

 しばらくして駅前に戻った。
 もう一度、「古本屋」の前に出た。
 おや、照明がついている。誰かいるのだろうか。

 中年のオバサンが、高校生らしい息子と、店の本を片づけているのだった。私は店内に入った。オバサンが私をみて、
 「もう、閉店しました」という。
 「いや、買いたい本があるので寄ってみただけ。見てもいいですか」
 オバサンは私を、別にあやしい者ではないと見たらしい。
 「どうぞ」
 といってくれた。

 見当をつけておいた棚に寄って行く。しかし、私が見つけた本はなかった。へえ。あんな本を買うやつがいるのか。
 仕方がない。何が別の本を買うことにしよう。
 「古語辞典」と、ある作家の小説を手にとった。

 「おさがしの本はありましたか」
 オバサンが訊いた。
 「いや、なくなっていました」
 自分の探していた本が買えなかったことが、急に残念な気がした。なぜ、買っておかなかったのか。
 「そのかわり、これをください」
 オバサンが、その本を手にとった。ちょっと見ていたが、
 「この本、もって行ってください。さしあげます」

 私は驚いた。
 「いや、いいですよ、お金は払いますから」
 「いいんですよ、さしあげますから、もって帰ってください」

 けっきょく、タダでもらうことになってしまった。
 オバサンは、私が日曜日にわざわざ閉店の店にやってくるほどの本好きと見たのだろうか。それとも、本をさがしているという口実で、何か記念に本を買っておこうとやってきたと思ったのか。

 オバサンの親切がうれしかった。タダで本をせしめた申しわけなさ、うしろめたさはあったが、まだ日本人の人情が残っているようで、いい気分だった。

794

 牧原 出という学者が書いている。
 この先生は、ロンドンで、いろいろとコンサートに行くようになった、という。

    もちろん最初の頃は、日本ではCDでしか聞くことができない演奏家のコンサートが続くので、演奏に心を奪われる思いだった。だが、いくつかコンサートに行くにつれ、演奏もさることながら、観客の様子を観察することもまた面白くなってきた。日本でクラシック音楽のコンサートといえば、外国の有名演奏家を拝むように聞く人たちか、さもしたり顔でミスがないかと身構えるマニア風の聴衆が目についたが、ロンドンの聴衆はもっと屈託がない。ロンドン在住の演奏家の場合は「ロンドンっ子」が演奏して、という感じだし、ヨーロッパ大陸から名だたる演奏家がやってくれば「よくぞ来てくれた」という雰囲気が漂っている。音楽を伝統の一部として日常的に受けとめているような聴衆の態度は、よくも悪くも舶来品を珍重する日本の聴衆の姿勢とは全く異質だった。

 この学者は、東大の「先端科学技術研究センター」の客員教授。

 これは、まったく同感で、私なども日本で音楽のコンサートで、よく経験したものだった。私なども「外国の有名演奏家を拝むように」聞いてきたひとり。しかし、そのうちに「したり顔でミスがないかと身構えるマニア」など気鬱(きぶ)っせい連中がいやでコンサートにも行かなくなった。

 芝居の観客も似ている。
 東京で「モスクワ芸術座」や、「コメデイ・フランセーズ」などを見た頃は、外国の有名な演出家の芝居を拝むようにして見ていた。「モスクワ芸術座」などを見て、スタニスラフスキー・システムを唯一無二の演技論とあがめ奉っていた連中がゴロゴロしていたから。
 こういう連中はルイセンコとか、ミチューリンをかついでいた連中と、おなじ顔をしていた。
 ついでに書いておく。私が見たい映画の1本は――アレクサンドル・P・ドブチェンコのドキュメンタリー、「ミチューリン」(1949年)。こんな映画に唯物論的な関心はまったくないが、旧ソヴィエト映画史的には興味がある。

 こんなゲテモノでもないかぎり、いまの私はもう舶来品を珍重する気もなくなった。

793

 神奈川県が、高校教育で日本史を教えることになった。
 学習指導要領では、「地理歴史」の教科で、世界史は必修、日本史と地理は選択科目になっている。
 神奈川県の計画では、世界史のほかに、
   1)日本史を履修する
   2)日本史と地理/歴史の2科目を勉強する
 新科目は、それぞれ1単位か2単位。年間、35コマ。

 私は、この計画に賛成である。理由は多数あるが、とりあえず、日本において歴史教育は必要である。

 神奈川県の県立高校の生徒の約3割が、日本史をまったく学習せずに卒業する。だから、日本がアメリカと戦争したことさえ知らない若者がいる。

 神奈川県の高教組の委員長がこれに反対している。反対する理由に、この必修化が、かつての皇国教育、軍国教育への逆行をもたらす可能性があるという。しかし、それはあり得ないたろう。日教組的な教育者が、日本史の必修がただちに皇国教育、軍国教育に直結すると考えるのはあやまりである。

 歴史はイデオロギーによって変化するものではない。戦時中の皇国教育、軍国教育が、共産主義国家の独善的な一党の支配と同根だったことは、もう誰もが知っていることだから。
 高校生の約3割が、国史をまったくしらずに卒業するような国は、けっして敬意をもって見られることはない。

792

 酒を飲みしこる。
 今どき、こんなことばを使う人はいない。私はわざと使う。ただし、エッセイで「酒を飲みしこる」と書くと、かならず「酒を飲みしきる」と書き直される。校正者がわざわざ訂正するらしい。

 「酒を飲みしこる」と、「酒を飲みしきる」は、おなじではない。校正者はおそらく、「しきりに」という副詞を連想するのだろう。しきりに酒を飲む。いかにも三文文士のイメージにぴったりかも。
 しかし、私は「酒を飲みしきる」とはいわない。断じて。
 「しこる」は、筋肉が張って固くなるしこりとおなじ。「酒を飲みしこる」となれば、ひたすら酒を飲むことであって、しきりに酒を飲むなどという、まあ、太平楽なものではない。
 酒を飲まずにいられない。たとえば、女にふられて、やりどない思いをまぎらすために酒を飲む。まあ、そういった気分のものである。

 こういう気分は、あうさきるさ、という。この「あうさきるさ」もいいことば。
 良寛さんの歌でおぼえた。
   むらぎもの心をやらむ 方ぞなき あうさきるさに 思ひみだれて

 むらぎもの、は、心のまくらことば。

 私流の訳で申しわけないが・・・こうして生きていると、あらぬことが心をかすめる。あれこれと心はみだれるばかり。
 良寛さんよりずっと前に、兼好さんが、切ない恋に、あうさきるさに思ひみだれて、眠れぬ夜を過ごすような男のあわれの深さをお書きになっている。

 私が、うっかり酒を飲みしこるのは、兼好さんのいう、切ない恋にあうさきるさに思ひみだれるからだったし、また、良寛さんのいう、むらぎもの心をやらむ方もないからであった。
 こうしたニュアンスを帯びたことばを、「酒を飲みしきる」などと校正で直されるのはうれしくない。だから、もう書かないことにしよう。

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 前に書いたのだが、いちばん先に小説にラジオを登場させたのは、菊地 寛という。
 では、SF(空想科学小説)以外で、いちばん先に小説にテレビを登場させたのは、誰か。これは、わかっている。中田 耕治である。
 まだ、影も形もなかったテレビをわざと書きとめておいた。テレビが、現実のものになると確信していたからだった。

 それでは、映画をいちばん先に小説に登場させたのは、誰か。これが、わからない。

 活動写真が、映画と呼ばれるようになったのは、トーキーが登場してからのことと考えていいのだが、現実に「映画」が小説に登場するのは、いつ、誰によってなのか。

 佐藤 紅緑の長編『半人半獣』に、

    朝彦は今まで活動写真を見たことは数へるだけしきゃなかった。一度彼は日本の写真を見て其(その)妖怪の様な顔、岩の様に硬い線、下卑た女優の表情、丁髷(チョンマゲ)を結って尻を捲った不作法な動作などに肝を潰した。

 とあって、「活動写真」は「写真」と表記されている。この「写真」は、新撰組の近藤勇が、勤王の志士と乱闘になる。つぎの写真は、侠客、国定忠治である。
 主人公が、つぎに見る映画は「ソドムとゴモラ」という「西洋写真」である。

 おなじ佐藤 紅緑の長編『愛の巡禮』に、

    露子さんは至って話材が乏しかった。彼女は食物や衣服や、映画役者の批評より他には何も語ることが出来なかった、自分の住んでいる映画界が全世界の様に思うて居る風すら見えた。 (『愛の巡禮』「骨肉!」)

 とあって、こちらでは「活動写真」の役者ではなく、「映画役者」、「映画界」という概念があらわれる。「骨肉!」は、第14章に当たるのだが、もう終結に近い「戀の亂射」では、

    彼女等は映画俳優の人気者浦田相州を覗いて居るのであった。

 となる。この連載が進行中に、「映画役者」が「映画俳優」に変化している。どうやら映画スターに対する崇拝(ウォーシップ)という「大衆状況」に関係があるのではないだろうか。

 「浦田相州」というネーミングには、早川 雪州のイメージがあるだろう。
 昔の小説を読んで、あらぬことまで考える。私の悪癖。

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「中田耕治ドットコム」のアクセス数が、3万に達した。

 はじめてHPに原稿を発表したときには、予想もしなかった数字である。そもそも、こんな個人的なHPを読んでくれる人はいないだろうと思っていた。読んでくれる人がいたとしても、ごく少数の知人たちが、最近の中田耕治は何を考えているのだろうと興味をもって、アクセスする程度だろう。
 それでも、ありがたいと思っている。
 わずかな読者を相手でも、自分の現在をつたえる、それは作家としてよろこびではないか。

 昨年亡くなった友人、亀忠夫は、私が彼の句集の感想を書いたとき、はじめて、このHPを知って「毎日のように、こういう文章を書いているエネルギーにおどろいている」と書いてきた。

 こんなものでも毎日書きつづけていると、それなりに傾向、方向性といったものが見えてくるはずだが、いろいろな時期に、まるで勝手なことを書きつづけているにすぎない。
 心にうかぶよしなしごとを気ままに書く。さして苦労ではない。文章を書くエネルギーどころか、毎回々々、出たとこ勝負のようなものなのだ。
 毎回、何かの視点をきめて書く、ないしは、意識して書くというわけでもない。私の内部に、ある程度の傾向、バイアスといったものがあって、それが思わず知らず出てくる、それはあるだろう。

 今は、ブックレヴューもさかんだし、読書ブログだって、いくらでもある。そんななかで、私は人があまり書きそうもないことを書く。
 ネットで探しても、めったにぶつからないこと、もう、あまり知られていないようなことを書く。思い出したときに書いておかないと、すぐ忘れてしまうので(笑)。

 たとえば、「パルプ・フィクション」や「マルコヴィッチの穴」については書いてみたい。その頃、何も書かなかったから。ただし、これももうよくおぼえていないのだから、うまく思い出せるかどうか(笑)。

「パッチギ!」の監督の「指あそび」を思い出す。山本 晋也を見ながら、きみの「好色透明人間・女湯のぞき」だっておぼえている、とつぶやく。
 思い出したからといって書くつもりはない(笑)。

 私は、あくまで自分が関心をもつことを書こうと思う。自分が関心をもつことを書いて、関心のない人に読んでいただく。そのために、できれば短く、おもしろく書く。

 これが「中田耕治ドットコム」のベーシックなのである。

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作家、ソール・ベローがノーベル賞をうけたとき、私はある新聞にたのまれて、いそいでエッセイをかいたことがある。夜中に新聞社から電話があって、翌朝、原稿をとりにくる、といった仕事だった。原稿はその日の夕刊に掲載される。
 ファックスも、メールもない時代だったから、こういう仕事を引き受けて、確実に間にあわせる、重宝なもの書きは少なかったのだろう。

 なぜ、ソール・ベローなのか。
 この問いは、まさにアメリカの戦後文学の核心につきあたる。サリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクといった、すぐれた才能がひしめきあっているなかで、ソール・ベローはほとんど孤高といってよい存在だった。

 1915年、カナダ、ケベック州ラシーヌ生まれ。ユダヤ系ロシア移民の子だった。
 幼年時代をモントリオールの貧民街で過ごし、少年時代からシカゴで過ごした。
 ソール・ベロー自身「生粋のシカゴ育ちと考えている」作家だった。シカゴが、アメリカの文学的空間、文学史的な時間のなかではたした役割を見れば、ソール・ベローがシカゴ派の作家らしい特質をもっていることに気がつく。
 少なくとも、シカゴ育ちという自覚、ないし、潜在意識は、ソール・ベローの世界の基調といってもいいだろう。

 初期の作品、『犠牲者』は、脅迫(ブラックメール)を主題にした心理的なドラマだが、ここではユダヤ系とアングロ・サキソン系の違い、ユダヤとしての自意識、と同時に、被害妄想が語られている。その背景には苛烈としかいいようのないアメリカの現実の息苦しさがひろがっているのだが、ソール・ベローは、ときとしてサリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクたちが見せるようなソフィストケーテッドな姿勢を見せない。
 ドストエフスキーは、自分の内面的な欲求から、作中人物を処罰する作家と見ていいが、ソール・ベローは、自分の内面の衝動から、作中人物をつぎからつぎに苦難に追いやる作家といえる。彼の主人公は、いつも受難者の顔をしている。だから、ソール・ベローを読んでいて、主人公の苦しみや悩みが、そのままこちらの苦しみや悩みになってくるような気がする。私などは、悲鳴をあげたくなるのだが、ベローはすかさず、救いを与えてくれる。『犠牲者』の「レビンサール」もその例だろう。

 現実に、あまりにも肥大化しながら物質的な繁栄をひたすら謳歌しているアメリカの内面、そこにすでにきざしている崩壊の予兆に、ソール・ベローは眼を向けている。そういう社会のなかで生きることの意味は、何なのか。
 処女作「宙ぶらりんの男」は、徴兵通知を受けながら、いつまでも入隊させられない若者の日記。こういう不安定な猶予(シュルシ)にも、生きることの意味の問いかけがあり、そこに苦悩がまつわりついている。もはや、回復しがたいところまで追いつめられながら、なおも必死に生きようとしている状態が、ソール・ベローの描く「猶予」にほかならない。

 たいへんな長編作家で、三作目の『オーギー・マーチの冒険』、六作目の『ハーツォグ』などは、質量ともに大作で、こういう長編に対する欲求は、アメリカ作家に特有なものかも知れない。
 たとえば、トム・ウルフに見られる、驚くほど執拗な自己追求、自己解析は、作風はまったく違うけれど、ソール・ベローにも共通している。
 『雨の王ヘンダーソン』の主人公が、自分でもわけのわからない欲求にかりたてられて、アフリカの奥地にもぐり込みながら、執拗に自分を追いつめてゆく姿にも、こういう原衝動がある。

 ある日、神保町の路上で、アメリカの本をたくさんかかえた植草 甚一さんに会った。すぐに立ち話をなさるのだった。
 「やあ、中田さん、いいところでおめにかかりました。この作家を読みましたか」
 私の知らない作家の原書だった。
 「いいえ、存じません」
 通行人が、私たちを見ながら通って行く。若い人たちは、たいてい植草さんをしっているらしく、その植草さんと親しそうに話をしているオジサンは何者なのか、という好奇心を見せているようだった。
 私はその原書のフラップを見た。
 知らない作家の本だった。私にかぎらず、この作家に注目した人はいなかったのではないか、と思う。
 植草 甚一さんは、その本を私の手にわたして、
 「これ、あげましょう。中田さんが、読んだほうがいい」
 その場で本を下さった。

 ソール・ベローだった。