828

 影勝団子(かげかつだんご)。

 こんなものを見たことのある人は、もういないだろう。かんたんにいえば、街角でお餅をついて売るお団子屋さん。それもキビダンゴ。
 半纏姿の若い衆が三、四人で、屋台(やたい)車に大きな臼と竈(へっつい)を乗せて、威勢のいいかけ声をかけながら走ってくる。街角のちょいとした広場に車をとめる。舵棒に、支えの台をあてがって、荷台を平らにする。
 荷台に飛び移った若い衆が、サビのきいた声で、ご近所に口上を述べる。

 その口上を聞きつけて、母親からもらった銅貨をにぎりしめ、大八車にとんで行く。
 私は桃太郎サンのお団子と信じていた。

 若い衆がいっせいに声をそろえて、大きな蒸籠(せいろう)から蒸しあがったキビをいっきに臼に移す。所作も動きもきびきびしている。スピードもある。若い衆たちが、小ぶりの杵で、これまた威勢のいい掛け声をかけあって、臼のまわりを踊りながら、たちまちお餅をつきあげる。
 つきたての餅を小さくちぎって、竹串に突きさして、キナ粉をまぶして、わたしてくれる。一銭で、二、三本。量の少なさからいえば、けっこう高値だった。
 つきたては熱いので、口でフウフウ吹きながら頬張るのだが、甘味がほんのりひろがってくる。

 このお団子は、享保(1716=1736)のころからあったという。その後、いったん廃れたが、安永(1771=1791)あたりにまた復活したらしい。
 この若い衆の踊りが「影勝踊り」として、歌舞伎に残った。もとのフシは富本だったが、あまりウケないので常磐津でやったとか。残念ながら、私は歌舞伎の影勝踊りを見たことがない。昔の三津五郎、半四郎(五代目)がやったらしい。
 今の半四郎は(昔、私と同窓だったが)もう影勝踊りをやれるはずもない。

 幼い私は桃太郎サンの「お腰につけたキビダンコ」が食べたかったので、母にねだって買ってもらったのだが、その後、影勝団子を見たことがない。ごくふつうのキビ団子は食べたけれど。

 昭和初期、私が四歳か五歳の頃のこと。若い衆の踊り、いでたちは眼に残っている。
 私のもっとも古い記憶の一つ。

827

 
 老年になって、ネットで阿呆な文章を書くなど夢にもおもわなかった。
 どうしてこんなものを書いているのか。

 DJをやっているようなものですヨ。
 DJといっても、テクノのDJもいるし、DJ=OZMAもいる。ポピュラリティーからいえば、私の書くものなどOZMAサンとは較べものにならない。
 なにしろPCリテラシーがない。クラブで本格的にレコードをまわすようなわけにはいかない。あまり人の知らないコトをHIP=HOPみたいに、ズラズラ書いているワケ。HIP=HOPは、いろんな音楽のコラージュみたいなところがある。
 私のHPは短いものだけ。つまり、なんでもアリ。(笑)。

 先日、ある友人が「先生の博覧強記に驚かされます」と書いてきた。わるい冗談だヨ。心にうかぶ、よしなしごとをゾロッペェに書いているだけのことだから。

   われ民間に育ち、人におもてを見知られぬをさいわいに……

 おもわずつぶやく。自然に頭にうかんできたから。「われ民間に育ち」なんて、いいじゃありませんか。『本朝廿四孝』四段目。

 すぐに連想がはたらく。
 
   行く水の流れと人の蓑作が姿見かわす長上下、悠々として一間を立ち出で……

 つまりは武田 勝頼の出場(でば)。奥から悠々と登場してくる。
 「行く水の」で、水が流れているような気分。そこから、チン、チン、チン。三味線が入ってから、ハルブシの「流れと人の」とつづく。
 このあたりの呼吸のむずかしさは、じつは私にはわからない。何もわからずに人形芝居を見てきただけで、博覧強記どころではない。

 歌舞伎の勝頼は二枚目。文楽では、むしろ武将らしい役。おなじものを見ても、ずいぶんとちがう。
 役者によっても違ってくる。いい翻訳と、それほどでもない翻訳の違い。イヒヒ。

826

 「助六」は、見ているぶんにはおもしろいが、脚本としてはあまりできのいい芝居ではない。桜田 治助のせいなのか。当時の劇場のマネージメントのせいなのか。
 助六のお茶番が、いまではまったく通じないので、シャレがシャレにならない。団十郎をもってしても、というのではなく、今の団十郎ではなおさらという感じだった。
 股くぐり、キセルの鉢巻き、足で出すキセル、ゲタを乗せて嘲弄するのが、あまりおもしろくない。どうも理不尽ないいがかりにしか見えない。

 そうなると、お目当ては「助六」の江戸ッ子らしい姿とタンカだけだが、昔の羽左衛門、音吐朗々、「遠くは八王子の売炭歯ッ欠けじじい」のツラネが耳に残っているせいか、今の団十郎程度ではこの芝居のほんとうのおもしろさを期待しても無理というもの。

 「助六」の作者はおもしろいやつだったそうな。
 四代つづいた治助の初代目。桜田 左交。「助六」とおなじ花川戸に住んでいた。

 芝居小屋(劇場)が、日本橋、京橋にあった頃だから、花川戸では、ずいぶんと不便だったはず。じつをいえば、治助はすぐ近くの吉原が大好きだった。
 毎晩、吉原をひとわたり歩かないと気がすまない。

     仲の町を一遍通りて、両側の茶屋女房、呼びかけるを嬉しく思ひ、江戸町より三丁目、京町の格子で話して、馴染みの女郎、あちらからも爰(ここ)からも左交さん左交さんと云はれたく・・

 という次第。いまどきの三文文士には羨ましいかぎり。

 ある年の暮れ、この吉原の「鶴屋」という店に新顔が出た。治助は、どうかして「物を云ひかけられたい」と思った。その正月に、造花の梅の枝に、手紙をかいてくくりつけ、ラヴレターの心で、花魁の名を書きとめ、こまごまとしたためて、格子の隙間からぽんと投げ込む。その晩は帰ったが、あくる晩もまた格子に立つと、

    その女郎来て、もし昨夜(ゆうべ)の御返事をと云はれ、逃げ出せしもおかし。

 ということになる。

 江戸の劇作家は、こんなことに憂き身をやつしていたらしい。これがまた、私には羨ましい。

 「助六」のなかに、いろいろな悪態が出てくる。みんな、治助が足と耳で集めたものだが、自分で「発明」したものも多い。いい時代だなあ。自分の作品に、ありったけ悪口雑言をつめ込む。
 今は、ネットで匿名、いじめ、いやがらせのメールを送りつけるような、あさましい根性のやつばかり。江戸ッ子の風上におけねえやつら。
 やっぱり「助六」でも見るしかねえか。

825

(つづき)
 レックスと、リリーのあいだに男の子が生まれる。ケァリー。この子は、イギリスで教育を受ける。
 「私が受けられなかった教育を受けさせたかった」と、レックスは語っている。

 だが、この幸福な時期は、不意に暗雲に閉ざされる。理由は想像がつく。レックスとリリーの仲がみるみるうちに悪化してゆく。

 「はっきり直視すべきよ」
 とリリーはいう。
 「イギリスの男は、女が好きじゃないのよ。少なくとも、イタリアやフランスの男の女好きみたいにはいかないのね。イギリスの男は、まともに女を見やしない。レックスが、私に対して払ってくれた最大の敬意は、私といっしょにいると、友だちといっしょにいるような気がするんですって。あの人って、おとこのなかの男ってコト。つまり、イギリスの男なのよ」
 なかなか辛辣な意見だった。

 レックスは、リリーと離婚したあと、イギリスの女優、ケイ・ケンドールと親しくなる。当時、ケイは彗星のようにブロードウェイに登場していた。『ジュヌヴィエーヴ』がデビュー作。5フィート8の長身で、もともとミュージック・ホールの芸人一家の育ち。ステージ・ダンサーだっただけに、優美な身のこなし、リリーとおなじ典型的なイギリス美人。
 その後のレックス、リリー、ケイについては、もはや演劇辞典の記述にまかせよう。

 1956年、私は小さな劇団を率いて、悪戦苦闘していた。
 外国の演劇雑誌を手あたり次第に読んでいたので、実際には見たこともない外国の俳優、女優の消息、それもロマンスまで、ことこまかに知っていた。
 いまの私には、信じられないことだが。
 『一千日のアン』も発表されてすぐに読んだが、詩劇。背景はエリザベス朝、史劇なので、はじめから上演を考えるはずもなかった。ただ、「現代演劇講座」(河出書房)で、私はマックスウェル・アンダースンを紹介した。
 ジョン・ヴァン・ドルーテンは、上演を考えた。これも夢物語で実現しなかった。はるか後年、私のクラスで、ドルーテンの芝居を読んだことがある。

 私の仕事は外から見るとまるでバラバラに見えるらしい。しかし、私自身には、どれもこれもみんなスジが通っていて、何かのキッカケがあって、そこからバラバラにいろいろな根が出ている。細い地下根がひっそりとのびて、のびて、どこまでものびて行って、いつの間にか、おかしな実をつける。へんてこな実しかつかなくても誰にも文句はいえない。そんなものなのだ。

824

 ウイーンの女優だったリリー・パーマーと「わりなき仲」になったとき、レックス・ハリソンは、コレット・トーマスという上流の女性と結婚していた。
「女に惹かれるとイギリスの男はやたらに自意識的になるものだけれど、レックスもそうだったわ」とリリーはいう。

 レックスはコレット・トーマスに離婚されてしまった。1945年、レックスと、リリーは結婚した。戦争が終わって、「戦後」の平和がやってきた時代。
 コレット・トーマスとの離婚では、レックス・ハリソンも、リリー・パーマーも、離婚訴訟に巻き込まれたあげく、やっと離婚が認められた。
 ふたりは、ハリウッドに向かった。しかし、「戦後」のハリウッドはレックス・ハリソンに、まったく将来性を見なかった。
 「カリフォーニアの気候は単調、刺激がなくて、崩れそうな豪勢さ、仕事の話は最低だった」とレックスはいう。ここで別のトラブルに巻き込まれる。
 リリーは彼を残して、ニューヨークに移った。

 レックスは、ハリウッドでキャロル・ランディスという女優と親密になる。だが、この女優は自殺した。当然、警察の調べをうける。レックスは精神分析医にかかる。キャロルの自殺の理由にとり憑かれて鬱に陥ったが、最終的な結論としては、キャロルは死の衝迫にとり憑かれていた、ということになった。

 レックスはハリウッドを去って、リリー・パーマーと舞台に専念する。
 やがて、マクスウェル・アンダースンの『一千日のアン』で「ヘンリー八世」を演じる。これは、当代の名演だった。しばらくして、リリーと共演するが、この舞台が、ジョン・ヴァン・ドルーテンの『ベル、本、蝋燭』であった。
 この頃から、ふたりは、ラント夫妻(アルフレッド・ラント/リン・フォンテン)いらいの名コンビといわれるようになった。
 イタリアのリヴイラ、ポルトフィノに豪華な別荘をかまえた。
    (つづく)

823

 五月雨。こんな句を見つけた。

   五月雨はただ大黒の世界かな   徳 窓

 わからない。
 大黒さまが、七福神のひとりで、仏教の守護神、それも戦闘、憤怒、厨房の三つも兼任する自在神ぐらいのことは私も知っている。
 打ち出の小槌を片手に米俵の上に立って、小判を巻いている図を思い浮かべた。
 しかし、米俵の大黒さまと、五月雨がどこまでも「大黒の世界」というのが、野暮な私にはわからない。五月雨はオバマ、ヒラリーの世界かな。いっそのこと、ただプーチンの世界かな。これでも、けっこうおもしろい。

 しばらく考えた。あ、そうか、これは「大黒(おおぐろ)」と読むのかも知れないな。なるほどねえ。思わず、合点した。

 おおぐろ。千 利休の命名による名器。
 句意は、五月雨といっても、しとしと降りではなく、どしゃ降り。あたりか、陰々たる黒さになる。それが、あたかも名器「おおぐろ」の肌を思わせる、というのであろう。

 ちぇっ、つまらねえ。

 もっとも別のいたずらが頭にうかんだ。

   五月雨はただ大黒の世界かな

 私のいうおおぐろは、大黒 摩季。いいアーティストだった。最近は、あまりCDも聞かなくなってしまったが。

822

 いささか旧聞に属するが――2年前(’06年11月)、日本性教育協会の調査が発表された。

 1974年から、6年ごとに「青少年性行動調査」を行っているが、’06年の調査は第六回。
 12都道府県の、1万1千名の中高生、大学生を対象に、調査した。その結果、性交を体験している男子大学生は、63パーセント。6年前の調査と変わらない。
 性交を体験している女子大生は、62パーセント。前回の調査より11パーセント上昇している。

 高校生で、性交を体験している男子は、27パーセント。女子は、30パーセント。6年前の調査より6パーセント上昇している。
 性交を体験している高校生の比率の上昇は、90年代から見られ、1993年には、男子は、14パーセント。1999年には、27パーセント。
 1993年の女子では16パーセントだったのが、1999年には、24パーセント。
 これがキスになると、大学生では70パーセント以上。高校生では50パーセント前後。中学生では、20パーセント以下。

 私がこんなことを記録しておくのは・・・中高生、大学生の「ゆとり教育」の時代と、性行動の変化になんらか相関関係があるかも知れないと見るからである。
 中高生、大学生が本を読まなくなったこと、古典リテラシーの低下も、性行動の変化に関係があるかも知れない、などとしたり顔をしているけれど。(笑)

 ほんとうのことをいえば、今の中高生、大学生が羨ましいからだろう。(笑)

821

昭和15年(1940年)、私の父、昌夫は「石油公団」に移籍した。このため、私の一家は仙台を引き揚げて、本所で住宅を探すことになった。
 私の叔父、西浦 勝三郎が小梅二丁目に空き家をみつけてくれた。

 戦前、大不況のあおりを食らって廃業した小さな銀行の小さな支店。二階建て。外側は、どこでも見かける西洋館だが、そのまま「明治村」に移してもおかしくない古風な建物だった。もともと銀行だった建物なので、住宅に転用することもむずかしい。地権者は、この廃屋をとり壊して更地にする費用を考えて、そのまま放置しておいたのかも知れない。
 近くの製薬会社が借りて、薬品原料を保管する倉庫に使っていた。(注)

 この建物の横からうしろに、まるでへばりつくようなかたちで住宅が建てられていた。L字型の家という、まことに奇妙な構造の家だった。
 当時、住宅が払底したが、どういうわけか、一戸建てなのにこの家は空き家で借り手がなかった。たまたま空いたので、私たち一家が住むことになったのだった。

 とにかく、へんな造りで、玄関からすぐに三畳、その先に六畳、ここから右手に階段。階段をあがってすぐに横に三畳、その先が四畳半。その左に三畳(これが、玄関の上にあたる)。

 あとになって意外なことを知った。この家は、賭博専門に作られた家という。
 外から見れば、なんの変哲もない仕舞家(しもたや)だが、玄関の上にある三畳は、いわば見張りのための部屋。不審者や警察が玄関先から襲っても、二階の連中は、どこからでも逃げられる。

 当時も、住宅は払底していた。この家はたまたま空き家のままになっていたものを、叔父の西浦 勝三郎が見つけて、すぐに借りてくれた。私たちは、鉄火場とも知らずに入居したのだった。

 私の考えかた、生きかたが世間さまのそれと違うのは、子どもの頃からこんな家に住んでいたせいかも知れない。(笑)

820

 ジャック・ニコルソンが、「おれはねっから暗い人間だよ」といったことから、まったく違う役者を思い出した。白猿である。昔の役者。

 寛政五年、名跡を息子にゆずっている。
 ある日、彼のもとを訪れた山東 京伝、弟の山東 京山、狂歌仲間の鹿都辺 真顔にむかって、

    昨日もおしろいつけさせつつ涙をおとし候。それはいかんとなれば、御素人様ならば伜へ家業をゆづり隠居をもすべき歳なり。然るにいやしき役者の家に生れし故、歳にも恥ぢず女の真似するはいかなる因果ぞと、しきりに落涙いたし候。役者としてここに心づきては芸にもつやなく永く舞台はつとまらぬものなりと、嘆息して語りけるに、はたして二三年の後寺島村(あざな向じま)に隠居せり。

 京山が書いているのだから信用していい。

 「いやしき役者の家に生れ」たという自覚は、逆に、書きたいことを書き散らして、風雅に生きる芸術家の姿勢につながる。

    何ことも古き世のみぞしたはしき。今様は無下にいやしくこそなりゆくめれ。
    いにしへは車もたげよ、火かかげよといひしを……今時はもちやげろ、かきたてろもすさまじいじやあねへじやあねへかゑ。

 白猿は、五世、市川 団十郎。向島須崎に隠居、反古庵というペンネームで、「日々の楽(たのしみ)はただ筆をとりてそこはかとなく反古の裏に書(かき)つづりて」気のあった友だちにあたえたという。
 今だったら、HPや、ブログをやっているかも。

 戦前、須崎は私の家から歩いて五、六分。少年時代の堀 辰雄が住んでいたあたりはもう少し遠く、あと二、三分ほどの距離。
 この団十郎は私が見るはずもない江戸の役者だが、もの書きとしての反古庵にはひそかな敬意をもっている。たとえば、「一きは心うきたつは春のけしきにこそ」と前書きして
    鶯に 此頃つづく朝寝かな

 さすがは、白猿さん。なかなかのものですなあ。

819

ある時代にあらわれた人物をしっかり見据えておく。とはいえ意外なことを聞かされれば、まず疑ってかかるのが人情だろう。
 ある俳優が、こんなことをいっていた。

    おれはねっから暗い人間だよ。
    何の憂いもなくて、自己嫌悪や恐怖感と、まるで無縁の一日を過ごしたのは、いったいいつのことだろう。

 ジャック・ニコルソン。

 私は「イージー・ライダー」から、この俳優を(だいたい継続的に)見てきたが、あるインタヴューで、このことばにぶつかってちょっと驚いた。
 ほう、「ねっから暗い人間」なのか。ジャック・ニコルソンがそんなタイプの俳優だとは信じられなかった。
 俳優はしばしば強烈な自己顕示欲を見せることがある。そのありよう、あらわれかたはとりどりだが、ことさら卑下して見せながら、逆にそのことで自分の優越をアピールしするようなしたたかな役者もいる。
 相手が女優さんで――「あたしって、ほんとうは暗い人間なのよ」などと聞かされたらすぐ逃げ出したほうがいい。眉つばだと思う。

    おれの思うに、あらゆる有名人のなかで、人前にでると、いちばん落ちつかなくなるのが、おれなんだよ。

 ふーん、ジャック・ニコルソンて、そういう役者なのか。

  この俳優は、多分ほんとうに「暗い人間」なのだろう。
 自分の出た映画で、とくに気にいった作品があるかと聞かれて、
 「べつにないね。おれは、自分の出た映画はみんな好きになる。いつもいつも大満足ってわけにはいかないが、これはまあ、たいていの人の場合がそうだろう。おれは、いっしょに仕事をした連中や、そいつらがそのときそのときにやってくれたことを、すごく誇りに思っているんだ」という。

 私が好きなのは「愛の狩人」、「郵便配達は二度ベルをならす」あたりで、「黄昏」とか「恋愛小説家」なんか、あまり感心しない。

818

 
 ハーバート・フーヴァーは、戦後すぐに、特使として来日している。
 当時の新聞記事(1946年5月7日)によれば、

   ハーバート・フーヴァー氏一行は五日午後一時廿五分、厚木飛行場着、日本の食料問題を主宰する連合軍最高指令部、経済科学部長、マークワット少将、マッカッサー元帥の政治顧問で連合国対日理事会/アメリカ代表であるアチソン氏、連合軍最高司令官軍事秘書官、並びに対日理事会事務総長フェラース大佐らの出迎えを受け、直ちに東京のアメリカ大使館へ向かい、マッカッサー元帥と午餐を共にして後、連合軍最高司令部に入った。
   なお同特使は六日宮城前広場で騎兵第一師団の歓迎分列式を閲兵した。

 当時、敗戦国日本は激動のさなかにあって、毎日のように、衝撃的なニューズがあふれていた。その激動のさなかのフーヴァーの来日は、それほど注目されなかったのではないかと思う。
 この日の新聞には、鳩山一郎(自民党総裁)の追放による政局の混迷や、「ポツダム宣言」受諾(勅令542号)にともなって、軍国主義教育、皇国思想を推進した教職員の除去(公職追放)、就職禁止の命令、訓令が出ている。
 連合軍最高司令部においても、日本での連立内閣の可能性が論議され、自由党に対して全面的に社会主義政策への協力をもとめる(その一つに、共産党を入閣させることさえ含まれていた)ことをめぐって、はっきり対立がうまれはじめていた。

 当時の私は、フーヴァーの来日にまったく関心がなかった。というより、連合軍の占領政策についても何ひとつ知らなかった。知識がなければ関心も生まれない。
 個人的なことだが、この4月、私は「近代文学」の人々と知りあって、批評家になろうと決心をしていた。

 私は神田の「文化学院」の二階にあった「近代文学」の事務室に毎日のように遊びに行った。荒 正人、佐々木 基一、埴谷 雄高、本多 秋五、山室 静、平野 謙といった人々の話を聞くだけでもたいへんな勉強になった。
 この人たちは私がどんなに幼稚な質問をしても、まともに答えてくれたのだった。十代だった私には教養も知識も決定的に不足していた。とにかく、勉強することは山のようにあった。
 当時の私が、フーヴァーの来日にまったく関心をもたなかったのは不思議ではない。

 戦後すぐのフーヴァー来日の目的は、逼迫していた日本の食糧問題に関連していたと理解している。

 政治家としてのフーヴァーは、今の私にとってはけっこうおもしろい人物に見える。若き日のフーヴァーは、鉱山技師として清国の鉱山を調査していた。まさにその時期に義和団事件に遭遇したことも私は知っている。
 むろん、私はフーヴァーについて何か書くことはない。しかし、マケインを相手に、クリントン、オバマ両候補の激烈な争いが続いているのを見ながら、ウィルソン、クーリッジ、はてはフーヴァーの「アメリカ」について考えるのも、私の趣味なのである。

 回顧趣味ではない。ある時代にあらわれた人物をしっかり見据えておけば、別の時代に生きる別の人々の考えだって、手にとるように見えてくるのだ。

817

アメリカ、大統領予備選挙で、民主党のクリントン、オバマ両候補のはげしい争いが続いている。
 史上まれに見る接戦と理解している。

 ところで、リンカーンからの大統領について調べてみると、フーヴァーまで、共和党から12名が大統領になっている。これに対して、民主党から大統領になったのは、クリーヴランド、ウィルソンのふたりだけ。

 ウィルソンは民主党の候補者として、2回つづけて当選した。クリーヴランドも2回選挙にのぞんだが、一度はハリソン(共和党)に敗れ、4年後、もう一度指名されて、こんどは当選した。
 1912年、ウィルソンがはじめて大統領になった選挙では、共和党の内部ではげしい対立が起きていた。タフト派と、ルーズヴェルト派だった。これに乗じたウィルソンが、漁夫の利をしめたらしい。(ちょっと、今のヒラリー vs オバマの大接戦を横で見ている共和党のマケインという恰好だね。)
 1916年には、世界大戦のさなかの選挙だったため、民主党のウィルソンの続投をもとめる世論が高まり、僅差でウィルソンがヒューズを破った。

 1928年の選挙では、すでに二期をつとめたクーリッジが出馬しなかった。

  I do not choose to run for President in 1928.

 この”choose”ということばが、アメリカのみならず、ヨーロッパでもさかんに論議されたという。クーリッジの真意をさぐろうとして。
 この年、ニューヨーク州知事だったスミスが、マッカドゥと争って共倒れになった。共和党のディヴィスが、うまく大統領をさらってしまった。今回のクリントン vs オバマの熾烈な指名争いを見ていると、そんな歴史のくり返しを見せられているような気分になる。
 ところが、スミスは、444×87で、共和党のフーヴァーに惨敗している。

 まるで自分が見てきたことを書いているようだが、1928年、私は1歳。

 なにかにつけて歴史をふり返る。私の悪癖。すでに決着のついた勝負の棋譜をたどって、どの一手が失着だったのかつきとめるようなおもしろさに魅せられて。

 今年の大統領選挙になぜ関心をもっているか、これには別の理由がある。
 私の友人が、今年の大統領選挙をテーマに本を書いたからだった。この夏に出る。

816

 私の訳した『虎よ、虎よ!』の冒頭に、ウィリアム・ブレイクの詩が引用されている。

  Tiger,tiger,burning bright
  In the forest of the night,
  What immortal hand or eye 
  Could frame thy fearful symmetry?

 ――Blake:Songs of Experience.

   虎よ、虎よ! ぬばたまの
   夜の森に燦爛と燃え
   そもいかなる不死の手 はたは眼の
   作りしや、汝がゆゆしき均整を

 この詩から「虎よ、虎よ!」という題がとられている。

 フランスの詩人、アメリカの詩人はいくらか熱心に読んできたが、イギリスの詩人はひとわたりざっと読んだ程度。ブレイクは好きな詩人のひとり。

  The moment of desire!
  The moment of desire!
  The Virgin
  That pines for man shall awaken her womb to enormous joys
  In the secret shadow of her chamber.

 学生の頃読んだ「アルビオンの娘たちなる乙女」の一節が、いま老作家の口にのぼってくる。
 エロティックなイメージが心に刻まれたらしい。

  足駄穿かせぬ 雨のあけぼの       越 人
  きぬぎぬや あまりか細く あでやかに  芭 蕉

 いまの私には、この句のほうがもっとエロティックに見えるけれど。

815

 最近、映画をあまりごらんにならないようですね。
 はい、ほんとうに映画を見なくなりました。
 たとえば・・・・・

   LOVERS       張 芸謀監督
   テイキング・ライブス   D・J・カルーソー監督
   ハイウェイマン      ロバート・ハーモン監督
   堕天使のパスポート    スティーヴン・フリアーズ監督
   IZO          三池 崇史監督

 こうした映画をおぼえている人がいるだろうか。
 つい、三、四年前の映画ばかりである。
 「LOVERS」のオープニング、チャン・ツイィーの太鼓打ちの舞いのシーンは、映画史に残る美しさだと思っているが、張 芸謀の映画は、ひどい駄作だと思っている。
 アンディ・ラウなんか、なんで出てきたのかわからない。
 「堕天使のパスポート」は、オドレイ・トォトゥーが出ているから見ただけ。
 あとの映画は、もう思い出すこともない。

 映画批評を書いていた時期、年間、平均して200本から250本は見ていた。しかし、映画批評を書く機会がなくなってから、見る本数は激減した。
 最近は、やっと10本見る程度。
 それでも好きな俳優、女優が出ている映画は、なるべく見るようにしている。
 たとえば・・・・シャーリーズ・セロンが、やたらババッちいメークで出ていた「モンスター」や、イザベル・アジャーニが大芝居をみせる「ボン・ヴォヤージュ」。
 ジョニー・デップを見ているうちに、原作(スティーヴン・キング)のつまらなさなどどうでもよくなってくる「シークレット・ウインドウ」。
 少年と年上の女のアヴァンチュールを描きながら、なんとも無残な感じのする「なぜ彼女は愛しすぎたのか」で、エマニュエル・ベアールを見たほうがいい。

 この映画のリストからも、私が映画を見なくなった理由は想像できるだろう。

 とにかく映画を見なくなった。

814

 1945年、敗戦直後から日本人は、毎日が、激烈な混乱の坩堝に生きていた。
 当時、すべての物資が統制されていて、とくに紙が払底して、新聞でさえ一枚(つまり、裏オモテ、2ページ)でやっと発行されていた。
 その一方で、「日米会話手帳」といった薄っぺらな小冊子が本屋に並んで、たちまちベストセラーになった。私もこの小冊子を買ったが、実際にはなんの役にも立たなかった。
 戦後すぐに、私は匿名批評のようなものを書きはじめた。これが私の文学的な出発になったが、いま考えても貧しい出発だったと思う。しかし、当時の私たちには同人雑誌を出すことなど考えられなかった。

 はじめて私の書いたコラムが出たのは、1946年2月11日だった。
 この日付を覚えているのは、この日、私がひそかに尊敬していた小栗 虫太郎が亡くなったからだった。

 はじめて活字になった自分の文章を眼にしたとき、私はうれしかった。私の書いたものなど誰も読むはずがない。ただ、その新聞を母に見せた。
 母は私がそんなものを書くとは夢にも思っていなかったらしい。

 私の書いたものは、いくらか評判になったらしい。ある日、知らない読者から葉書が届いた。荒 正人という人からのものだった。
 コラムを書かせてくれた椎野 英之のすすめで、私は荒 正人に会いに行くことにした。母の宇免は、それを知って――
 耕ちゃんもこれから、いろいろな人に会うようになるわね。そんなとき、恥ずかしい思いをしないように。
 といって、最後までとっておいた和服と、古着の背広を交換してくれた。

 その背広を着て私は荒 正人に会いにいった。

813

 国破れて山河あり。

 1945年9月、まだアメリカ占領軍が上陸していない時期。敗戦直後の日本では混乱のなかで、人々は虚脱したように右往左往していた。
 このときから数カ月、すべての日本人はまったく経験したことのない激変にさらされつづける。

 私たちを恐怖のどん底にたたき込んだ空襲はなくなったが、土浦の海軍航空隊の戦闘機が、戦争継続を訴えるビラをまいたり、夜道で強盗が出没したり、陸軍が崩壊して、脱走兵や、軍を離脱して故郷にむかった兵士たちが、なだれをうって列車に乗ったり、ほんとうに物情騒然としていた。明日はどうなるのか誰にもわからなかった。
 アメリカ占領軍の上陸は9月12日だったが、アメリカ兵が何をするかわからないというウワサがみだれとんで、女たちはおびえていた。それよりも先に食うものがなかった。飢えがどういうものなのか、私たちは知ることになる。食料の配給さえ遅配がつづき、三度の食事どころか一日一食さえおぼつかない。
 敗戦の翌日には闇市が出現した。有楽町、新橋、上野の駅前、浅草、田原町から国際劇場まで、葦簾張りや、焼け跡からひろってきたトタン屋根などの、店ともいえない規模の店がごった返していた。
 物々交換で何でも手に入るようになったが、私たちは二度も焼け出されたため、食料と交換するための品物もなかった。
 母が疎開しておいた和服なども、たちまち食料に化けてしまった。当時のことばで「タケノコ生活」という。筍の皮を剥ぐように、自分の持ちものを1枚づつ剥ぐようにして、別の物品に換えて暮らすこと。
 母のもっていたものなど、あっという間に消えてしまった。

812

はじめて、アメリカのグラフィック・ポルノを見たのは、戦争の末期だった。とても信じられないことだが、これは事実である。

 戦時中、学徒動員で、私は川崎の石油工場で労働者として働いていた。隣りに、「日本鋼管」の工場が続いて、そこの一角に、竹矢来で囲んだバラックが建てられて、アメリカの兵士たちが収容されていた。ここに収容されて、「日本鋼管」で働かされていた捕虜は、おそらく50名程度だったと思う。
 私たちは昼休みに、その付近に出かけて、アメリカ兵たちにタバコをくれてやったり、カタコトの英語で話しかけたりするようになっていた。
 むろん、警戒に当たっている憲兵の眼をおそれて、ほんの数分、接触するだけだったから、たいしたことを話したわけではない。

 ある日、私は作業中に指先に怪我をしたので、工場から歩いて15 分ばかり離れた医務室に行った。
 処置を終わって工場に戻る途中で、私たち学生(40人ばかり)の指揮をとっていたS、副長のIが、地上に何かひろげて眺めていた。たまたま通りかかった私は、二人によって行った。
 アメリカの捕虜に配給のタバコをわたしてやったお礼にくれたという。

 「ライフ」とおなじサイズのグラフ雑誌で、全編、モノクロームだが、男女の性行為の写真と、短いキャプションがついていた。白人の男女がさまざまな体位で交わっている。そのときの私は、白人の「女」たちを「醜い」uglyとは思ったが、その性交を撮影したグラヴュアを「汚い」dirtyとは感じなかった。
 むろん、男と女の行為が撮影されていることに驚かされたが、それよりも、きわめて厳重な身体検査を受けたはずの捕虜たちがどうやってこんなものを収容所に持ち込んだのか、そのことにはるかに大きな驚きをおぼえたのだった。

 川崎の石油工場で働いていた時期のことは、長編『おお、季節よ、城よ』に書いたが、戦争の末期にアメリカのグラフィック・ポルノを見たことは書かなかった。
 その後、私はアメリカで多数のポルノを見たし、クロンハウゼン夫妻をはじめ、モラーヴィア、スーザン・ソンタグ、ジョージ・スタイナーなどの「ポーノグラフイー論」を訳した。そのかぎりにおいて、低いレヴェルではあったが、研究者のひとりだったといえるかも知れない。

811

 ノーマン・ドイジ博士は、ネットポルノ中毒は比喩ではないという。つまり、耐性ができるのであって、アディクトは、さらなる刺激を求めて、満足を得ようとする。ということは、それを自制しようとしても、薬物の中毒とおなじで、禁断症状が待ちうけている。

 なぜ、ポルノ・サイトが、それほどに関心を喚び起こすのか。
 ドイジ博士によればドーパミンの放出によって脳に可塑的な変化が起こる。ドーパミンは、性的な興奮によっても放出される。男女両性のセックスに対する欲求を高めて、オーガズムを得やすくする。つまり、脳の快楽中枢を活発にする。ゆえに、人はポルノに夢中になる。

 私は(私程度の頭では)、この論理に反対意見を提出できない。しかし、これは、単純な三段論法ではないのかという(漠然とした、だが批評家としてはかなり確信的な)オブジェクションがある。
 この程度の、そして、こうしたかたちで提出されるポルノ・アディクトという論点は、いかにも浅薄なプラグマティックなものに過ぎないような気がする。

 これについては、もう少しあとで考えてみよう。

810

 竹迫 仁子が訳したノーマン・ドイジ著『脳は奇跡を起こす』(講談社インターナショナル/’08.2月刊)は、私にとってはじつに刺激的な本で、いろいろと考えることができた。
 著者は精神科医、精神分析医で、コロンビア大学の精神分析研究センターに勤務、さらにトロント大学の精神医学部に勤務しているドクターがいうのだから間違いはない。
 このドクターは、作家、エッセイスト、詩人で、カナダの「ナショナル・マガジン・ゴールド・アワード」を4度受賞している。

 私の頭では、とてもこのむずかしい本の書評は書けないので、ごく一部、その1章、「性的な嗜好と愛」を読んで教えられたこと、それに触発されたことを書きとめておく。

 性的な嗜好は、あきらかに文化や経験によって影響され、後天的に獲得され、脳にコネクテッドされる。(その通り。)
 ただ「嗜好」といった場合は、先天的なものをきすが、「獲得された嗜好」といえば、学習によって得られた嗜好をさす。(これも、その通り。)
 だから、最初のうちは無関心だったもの、ないしは嫌いだったものが、あとになって快いものと感じられるのが、「獲得された嗜好」ということになる。

 ポルノに関心をもつのも、性に対する嗜好が後天的に獲得できることをはっきり示している。

 私の関心を惹いたのは――ポルノを見れば、「獲得された嗜好」の変遷がはっきりわかるという指摘だった。

    三十年前は、「ハードコア」ポルノといえば、性的に興奮した男女が性交している様子を、性器まで見せて、はっきりと撮影してあった。「ソフトコア」ポルノは女性の写真で、たいていはベッドやトイレ、あるいき色気のある場面設定で、女性があられもない肢体をさらけ出している。胸をあらわにしているが、どの程度まで見せているかはさまざまだった。(P.128)

 著者は、インターネットが急速に普及して、多数の男性がポルノを嗜好するようになった反面、一方では困惑し、嫌悪感を抱いていると見る。その結果、性的な興奮のパターンがおかしくなって、男女関係や性的な能力にまで影響がではじめた、という。

 私は、ポルノ・サイトを見たことがない。関心がないというとウソになる。関心はあるのだが、AVや、「ハードコア」ポルノといったジャンルのものはビデオ、DVDで見たほうがいいと思っているから。
 それに、インターネット・リテラシーがないから。

 私自身は「ハードコア」ポルノを見ても、困惑したり嫌悪感を抱くことはない。
 ただし、拙劣なカメラワーク、あきらかに犯罪的なシチュエーションのものには嫌悪感を抱く。
   (つづく)

809

この3月、アーサー・C・クラークが亡くなった。
 福島 正実が訳したので、はじめてこの作家を知ったことを思い出す。福島 正実のおかげで、当時、私はアルフレッド・ベスター、フイリップ・K・ディックなどを訳したのだった。

 アーサー・C・クラークとは何も関係がないのだが・・・その二、三日後に、アンドロメダ銀河の、「アンドロメダの涙」についての研究が発表された。

 アンドロメダ銀河から、巨大な星の群れがまるで川のように流れている。
 「アンドロメダの涙」というそうな。
 これが、8億年前に、アンドロメダ銀河と衝突した別の小さな銀河の残骸がひろがったものという。

 専修大の森 正夫准教授らが、筑波大のスーパーコンピューターを使った模擬実験であきらかにされた。

 銀河と銀河の衝突なんて想像もできない現象だが、森先生の解析では、アンドロメダ銀河の400分の一という小さな銀河が、アンドロメダ銀河の中心に向かって北側から衝突すると、遠くまで飛ばされた星の集団が、「アンドロメダの涙」をかたち作ったという。(「読売」’08.3/25.夕刊)

 私はこうした宇宙の現象について、まったく理解する頭脳がない。しかし、このニューズに知的な昂奮をおぼえた。宇宙には無数に銀河系が存在するとして、その小さな一銀河系に、さらに小さな銀河が衝突する。これだけでも、一つの宇宙は崩壊する。しかも、その残骸が涙のように流れて、一銀河系の引力圏にあふれている。
 涙というのは、うまい「命名」だなあ。
 8億年前か。宇宙にとっては、ほんの一瞬前のことだろうなあ。

 亡くなったアーサー・C・クラークは、「アンドロメダの涙」について何か書いているだろうか。