長谷川 如是閑はえらいジャーナリストだが、私はほとんど読んだことがない。
古本屋にころがっていた如是閑の作品集を買ってきた。戯曲があったから。「フランス髯」、「馬鹿殿評定」、「両極の一致」、「ヴェランダ」、「五条河原」といった一幕ものが並んでいる。
はっきりいって、まったくおもしろくない。そもそも戯曲などと呼べるシロモノではない。つまり、戯曲になっていない。さりとて、レーゼ・ドラマなどというものでもない。
「両極の一致」は、大昔、蒲田あたりの活動写真をおもわせるファルス。実際にどこかの劇場で、誰かが上演したのだろうか。
「如是閑語」というアフォリズムから、いくつか引用しておく。これとて、百数十のうち、今でも通用する(と思われる)ものは、せいぜい十ぐらい。
古(いにしえ)は神、人を作り、今は人、神を作る。
産るべき理由ある人は少なく、死すべき理由ある人は多し。
男子は結婚によって女子の賢を知り、女子は結婚によって男子の愚を知る。
お姫様の恋はスペキュレーティヴなり、ややもすれば独断に陥る。芸者の恋はエキスペリメンタルなり、ややもすれば懐疑に陥る。
少女の恋は詩人なり、年増の恋は哲学なり。
生きて孤独なるものは不幸なり、死して孤独なるものは更に不幸なり。
純なる結婚は年少者の空想なり、純なる情死は戯作者の空想なり。
吠ゆる犬は噛まず、噛む犬は吠えず。
引用するのが少しアホらしくなってきた。
長谷川 如是閑はいう。
「元来、私のユーモアは理屈つぽくて骨つぽくて喰ひ難ひといふものがあるが、さういふ連中は、本屋へ行って私の本を購ふ代りに、鰻屋へ行って鰻を喰ふがいい。さうすれば骨のない油こいやつがいくらでも喰へる。」
さすがに年季の入った人の啖呵だね。
如是閑さんにならっていえば・・・「中田 耕治ドットコム」などを読むかわりに、きみはどこに行って何を食えばいいだろうか。
どこに行ったって、食うものなんかねえ。(笑)