848

 長谷川 如是閑はえらいジャーナリストだが、私はほとんど読んだことがない。
 古本屋にころがっていた如是閑の作品集を買ってきた。戯曲があったから。「フランス髯」、「馬鹿殿評定」、「両極の一致」、「ヴェランダ」、「五条河原」といった一幕ものが並んでいる。
 はっきりいって、まったくおもしろくない。そもそも戯曲などと呼べるシロモノではない。つまり、戯曲になっていない。さりとて、レーゼ・ドラマなどというものでもない。
 「両極の一致」は、大昔、蒲田あたりの活動写真をおもわせるファルス。実際にどこかの劇場で、誰かが上演したのだろうか。

 「如是閑語」というアフォリズムから、いくつか引用しておく。これとて、百数十のうち、今でも通用する(と思われる)ものは、せいぜい十ぐらい。

    古(いにしえ)は神、人を作り、今は人、神を作る。
    産るべき理由ある人は少なく、死すべき理由ある人は多し。
    男子は結婚によって女子の賢を知り、女子は結婚によって男子の愚を知る。
    お姫様の恋はスペキュレーティヴなり、ややもすれば独断に陥る。芸者の恋はエキスペリメンタルなり、ややもすれば懐疑に陥る。
    少女の恋は詩人なり、年増の恋は哲学なり。
    生きて孤独なるものは不幸なり、死して孤独なるものは更に不幸なり。
    純なる結婚は年少者の空想なり、純なる情死は戯作者の空想なり。
    吠ゆる犬は噛まず、噛む犬は吠えず。

 引用するのが少しアホらしくなってきた。

 長谷川 如是閑はいう。
 「元来、私のユーモアは理屈つぽくて骨つぽくて喰ひ難ひといふものがあるが、さういふ連中は、本屋へ行って私の本を購ふ代りに、鰻屋へ行って鰻を喰ふがいい。さうすれば骨のない油こいやつがいくらでも喰へる。」
 さすがに年季の入った人の啖呵だね。

 如是閑さんにならっていえば・・・「中田 耕治ドットコム」などを読むかわりに、きみはどこに行って何を食えばいいだろうか。

 どこに行ったって、食うものなんかねえ。(笑)

847

 すばらしいことばを見つけると、つい自分の仕事に使えないものかなどと考える。ちょっとさもしい気がする。

 子どもの頃、銭湯に行くと、背中いっぱいに倶利迦羅龍王の御姿を彫りつけた、いなせな爺さんが一人や二人いたものだった。

 倶利迦羅紋紋。くりからもんもん。これは死語になっている。

 「からだに我慢まであって」。むろん、これも死語だろう。

 『夏祭浪花鑑』で、「團七九郎兵衛」のセリフに出てくる。戦時中、市村 羽左衛門がやったとき、六代目(菊五郎)が「三河屋義平次」だった。

 AVを見ていたら、若い女の子のからだに我慢まであって驚いたことがある。

846

 
 ときどき、すばらしいことばを見つける。なぜか、うっとりしてしまう。正確にその意味がわかるわけではない。いつか自分の仕事にこういうことばが使えないものか、と考える。

  「こは、たそ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」

 『枕草子』(一三七段)。
 「おどろおどろしい」は今でも使われている。「きはやかな」ということばはまったく聞かない。今の表記では「きわやか」になる。
 「こは、たそ」は、「え、あなた、誰なの?」という意味。

  ものもいはで、御簾(みす)をもたげて、そよろとさし入るる、呉竹なりけり。
 というシチュエーション。この「そよろとさし入るる」もいいけれど、これはちょっと使えないだろう。

 私のHPのエッセイは、さして、おどろおどろしくないが、できればきわやかに書いてみたい。女性の心の御簾(みす)をもたげて、そよろとさし入るような。

 無理だな。(笑)

845

 
   (つづき)
 私自身、リーヌ・ノロを見たといっても、「望郷」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)のあと、戦後に「田園交響楽」(ジャン・ドラノア監督)で見ただけである。

 「望郷」は、犯罪者としてアルジェに逃げ、カスバにひそんでいる主人公、「ペペ・ル・モコ」が、たまたまパリから観光にきたブルジョア女に心を奪われて、ひそかにパリにもどろうとする。リーヌ・ノロは、それを知って嫉妬にかられて警察に密告する現地妻をやっていた。この一作で、リーヌ・ノロは、私たちに強烈な存在感をあたえた。
 当時、舞台女優としてのリーヌ・ノロは、ルイ・ジュヴェの劇団で、ジロドゥーの芝居に出ていたし、「コメデイ・フランセーズ」の准幹部(パンショネール)になっていた。これだけでも、すぐれた舞台女優だったといえるだろう。
 戦後の私たちは、「田園交響楽」で、美女のミッシェル・モルガンの健在を知ったが、ワキの、それも村の老女を演じていたリーヌ・ノロに注目した人は、ほとんどいなかったはずである。

 評伝、『ルイ・ジュヴェ』で、私はリーヌ・ノロにふれた。この評伝は出版にこぎつけるまでずいぶん時間がかかったが、当時、私は「作家のノート」といったものを書いていて、偶然、リーヌ・ノロに言及している。(1997年8月)

    『望郷』で嫉妬に狂うアルジェ女をやっていたリーヌ・ノロは、自殺している。
    自殺という行為にはなにがなし哲学的なところがある。自殺は、最後のぎりぎりの人間愛の表現友受けとれるふしがないでもないのだが、私ときたら、およそ哲学、形而上学などと縁がなかった。そもそも自殺の意味など考えたことがなかったし、自殺すべき理由もない。とすれば自殺などできようはずもない。私などはつたない運命の波間に浮草のように漂うくらいがせきの山であろう。
    ただし、死は私にとってきわめて親しい観念だった。どういう死にざまをさらすのか、じぶんなりに好奇心がある。にんげん心臓がとまれば死ぬらしいが、ほんの一瞬、まだ脳髄が生きているとき、死に対してどういう感想をもつだろうか。おのれの未来に驚きが待っているとすれば、そんなことぐらいだろうから。

 リーヌ・ノロの自殺にふれたのは、この評伝の最終章、もうひとりの女優、(この評伝の主要な登場人物だった)ヴェラ・クルーゾーの自殺の伏線として、とりあげておいたのだった。
 この評伝の最後の最後に、ヴェラ・クルーゾーの自殺をとりあげた。少女時代にジュヴェの劇団で認められ、戦時中、ラテン・アメリカ巡業で、最後まで、ジュヴェと苦難をともにした。
 映画監督、ジョルジュ・クルーゾーの映画史に輝く「恐怖の報酬」に出たヴェラは、この映画で世界的な名声を得ながら、自殺という手段を選ばなければならなかった。

 私が書きたかったのは彼女たちに対する憐憫であり、ひそかなレクィエムだったといってよい。

 香港の俳優、張 國榮が自殺した時、私はつよい衝撃を受けた。つづいて、女優で、一流のシンガーだったアニタ・ムイが病死した。
 2005年に、韓国女優のイ・ウンジュが亡くなっている。その後、日本のポルノ女優が自殺したり、昨年は韓国のシンガー、ユニの自殺につづいて、女優、チョン・ダビンが自殺した。私はそれぞれの人の死につよい関心をもちつづけてきた。
 私が「死は私にとってきわめて親しい観念だった」と書いたのは、じつはこうした人びとの死を見つめてきたせいだった。そしてそれこそが『ルイ・ジュヴェ』の大きな主題の一つになった、と考えている。

 いま、私はリーヌ・ノロや、ヴェラ・クルーゾーより前の世代の女優の評伝を書いてみようかと思っている。
 時間があるかどうかわからないが。

844

 (つづき)
 リーヌ・ノロは、残念ながら岸田 国士のエッセイを知ることがなかった。
 知らないのが当然だろう。当時の日本の劇作家の片々たるエッセイが、フランスの演劇ジャーナリズムに紹介されるはずもなかったからである。

   「僕が特に「新劇女優」と呼ぶ所以は、彼女が、その驚くべき舞台的成長にも拘はらず、毫も芸人的「粉飾」によって自らを目立たしめようとしてゐないからである。言ひ換へれば、その扮する人物の、厳粛素朴な構成を最高度に生命づける「芸術的演劇」の精神が、彼女の前進に漲ってゐるのを感じたのである。」

 もし、これをリーヌ・ノロが読んでいたら、どんなにうれしく思ったことか。
 さすがに一流の劇作家らしく、この女優の本質をみごとにとらえている。と同時に、「文学座」をひきいた岸田 国士が思い描いていた「新劇女優」のタイプが、どういうものだったか。そのあたりも想像できるだろう。
 そして、このエッセイの背後にもう少し重要なことが読みとれる。
 岸田 国士は、リーヌ・ノロに、「よき環境に置かれ、よき指導者を得、彼女は遂にこれまでになったのだ」という手放しの賞賛の背後に、「よき環境」もなく、「よき指導者」もいない日本の「新劇」の状況に対する憂慮である。
 昭和12年(1937年)に、岸田 国士は、岩田 豊雄、久保田 万太郎とともに「文学座」を創設する。

 リーヌ・ノロは、その後の日本の俳優、女優たち、とくに演劇関係の養成所、研究所といった機関が整備されるような「よき環境に置かれ、よき指導者を得」られる環境作りに貢献したといえるかも知れない。
       (つづく)

843

 戦後の私にとって、大きな衝撃になったできごとの一つに、フランスの女優、リーヌ・ノロの自殺がある。

 私が評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかでふれた女優、リーヌ・ノロは、もはや誰の記憶にも残っていないだろう。まして、彼女について書くような人はいるはずがない。

 戦前のリーヌ・ノロについて、岸田 国士がエッセイを書いている。
 『現代演劇論』(白水社/1936年刊)を読み直していて、思いがけず「女優リーヌ・ノロのこと」というエッセイを発見した。いまさら不勉強を弁解してもはじまらないが、このエッセイに気がつかなかったのは、岸田 国士がルイ・ジュヴェに言及していないからだった。
 このエッセイを知らなかった私は、評伝、『ルイ・ジュヴェ』でリーヌ・ノロにふれている。
  〔『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第九章)〕

 岸田 国士のエッセイについてふれておこう。

 1934年、ゾラ原作を映画化した「居酒屋」を見た岸田先生が、ヒロイン、「ジェルヴェーズ」を演じていたリーヌ・ノロを見て、それに触発されて書いたエッセイ。

   「が、何よりも僕を感動させたのは、この物語の女主人公ジェルヴェエズに扮するリイヌ・ノロといふ女優が、十三年前、巴里ヴィユウ・コロンビエ座の学校で、一緒にコポオの講義を聴いていた一研究生であり、その少女が、今、スクリインの上で、この大役を堂々としこなして、天晴れな成長ぶりを見せてゐることだった。
    彼女はたしか、僕の識ってゐる期間に於ては、平凡な一研究生として、二三度、ヴィユウ・コロンビエの舞台を踏んだことを記憶してゐるが、過分な役を振られて胸をおどらし、コポオの噛みつくやうな小言を浴びながら、臂を左右に張って、おろおろと台詞を吐き出してゐた。」

 やがて、岸田 国士は日本に帰国する。帰国して翌年(大正13年)、『チロルの秋』で劇作家として登場する。そして、「ヴュー・コロンビエ」の解散を知るのだが、その後のリーヌ・ノロをはじめ、いろいろな人たちの消息をしらないままに過ごした。
 「文学座」をひきいた岸田 国士は、このエッセイを書いた翌年、昭和10年(1935年)には『澤氏の二人娘』を書いている。
 もう一度、リーヌ・ノロについて書いた部分に戻ろう。

   「この映画に現れた彼女は、僕の観るところ、定めし「よき修行」を重ねたに相違なく、再会の喜びを割引するとしても、当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆を認めさせるものであった。」

 私たちはゾラ原作の「居酒屋」を見たが、これはマリア・シェルが「ジェルヴェーズ」を演じたリメークだった。マリア・シェルも、戦後の名女優のひとりだったが。
    (つづく)

842

ある時期、芝居の世界にかかわった私にとって、大きな衝撃になったできごとがいくつかあった。
 その一つは、戦後すぐに登場した新人女優、堀 阿佐子の自殺であった。

 彼女は、「文学座」の研究生として出発したが、やがて「俳優座」に移った。当時、新人として注目されたのは、「文学座」の荒木 道子、丹阿弥 谷津子、「俳優座」の楠田 薫、東 恵美子、「民芸」の阿里 道子といったいろいろな女優がいっせいに開花したような印象があった。いずれも、「当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆が認め」られたといえよう。その中で、堀 阿佐子はトップをきっていた。当時の劇作家は、この新人に注目していた。

 「東宝」本社前、日比谷映画劇場の左奥にへばりついているように喫茶店があった。ここには、「東宝」関係の俳優、女優がいつも立ち寄っていたが、「東宝」で仕事をするようになっていた私も、しょっちゅうここに入りびたっていた。
 ある日、ここに若い女優さんがあらわれた。戦後すぐに登場した映画女優の、派手なメークの、めざましい美貌とはちがって、むしろおとなしい日本的なおもざしだった。ところが、身のこなし、動き、ひいては挙措に、ふつうの映画女優と違った存在感があって、店に入ってきただけで、あたりの空気が一変するようだった。
 ただのスターレットではない。その場に居あわせた誰もがそう感じたに違いない。「東宝」関係の女優ではないと見て、いっせいに視線が集まった。そのなかを、ごく自然な足どりで、彼女は私たちの席に寄ってきた。
 今ふうにいえば、オーラがまつわりついている。そんな感じだった。
 はじめて私が見た堀 阿佐子だった。

 それから数カ月後に彼女は自殺した。

 どういう人の自殺も悲劇的にちがいないが、堀 阿佐子の死は、敗戦後の混乱のなか、演劇界の大きなうねりのなかで起きた。当時の演劇界は、今と違って狭い世界だっただけに、誰の胸にも驚きといたましさを喚び起したと思われる。
 堀 阿佐子のデビューが鮮烈なものだっただけに、一部からは嫉視や羨望の眼で見られていたことは間違いない。
 堀 阿佐子の自殺からそれほど経っていない時期に、劇作家、内村 直也は、劇団の幹部女優にむかって、堀 阿佐子の死を悼むことばを述べた。この女優はその劇団を代表する有名な女優である。たまたま私は、その場に居合わせたので、このときのことはよく知っている。

 その女優は、蔑むような一瞥というか、冷然たるまなざしを内村さんに向けただけで、何も答えなかった。内村さんはすぐに別の話題に移ったが、この女優は、私にまでぎらりと突き刺すような一瞥をむけた。
 このときのことは忘れない。
 あの反応は何だったのだろう? その女優の見せた反応から劇団内部の大きな衝撃を感じたのだった。

 あとになって、内村 直也は私にむかって、
 「ああいうこと(おなじ劇団の女優の不慮の死)になると、冷たいものだねえ」
 と、私に語った。

 もっとずっとあとになって、堀 阿佐子が死を選んだ理由をほぼつきとめたが、ここに書く必要はない。ただ、こういう些細な経験がいくつもあって、のちに演劇人の評伝を書く動機の一つになった。

841

日本のポップス。歌詞に、ベイビーということばが使われているだけで、私はそのシンガーを軽蔑する。
 たしかに、英語圏では、愛情表現の一つとして、「ベイビー」が使われる。子どものとき、母親がそういう呼びかたをしていたから、愛する対象を「ベイビー」と呼ぶ。

 フランス映画「バルニーのちょっとした心配事」(ブルーノ・シッシュ監督/2000年)のなかで、さえない中年男の主人公「バルニー」(ファブリス・ルキーニ)とベッドをともにした若い娘(ナタリー・バイ)が、英語で「愛しているわ、ベイビー」という。
 「どうして、ベイビーなんていうんだ?」
 「だって、あなた、子どもなんですもの」

 フランスの男が「ベイビー」なんていわれたら、頭にくるワな。

 ところが、日本のポップス・・・・赤ンぼうのとき、母親からベイビーと呼ばれたこともない(だろうと思う)日本のタレント歌手が、歌のなかで「ベイビー」などといいはじめると、からだじゅう、かゆくなってくる。

 うざい、死ねェ。そう叫びたくなる。
 「こんなやつとおなじ空気を吸っているだけでも死ぬーッ」。

840

 目下、あたらしい仕事の準備にかかっていて、いろいろ資料を読んでいるのだが、ふだん、考えたこともないようなことが、ひょっこり心に顔を出す。ときには、資料と無関係に昔のことを思い出す。

 これもボケた証拠かも。

 たとえば、『権三と助十』を見た思い出。
 アメリカ相手の戦争がはじまるほんの少し前のこと。私は中学生になったばかり。夏休み、歌舞伎座につれて行かれた。
 このとき見たのが『権三と助十』で、ミステリー仕立ての話だった。これに若い娘の悲劇と、大岡越前のお裁きが絡んで、最後にはカゴかきの権三と助十の活躍で万事解決。
 岡本 綺堂の原作だが、金子 洋文が脚色したもの。

 「権三」は猿之助。「助十」は寿美蔵。
 ふたりのカゴに乗ってくるのが、大工の娘、「お千代」。これが訥升。ところが、悪者があらわれて、「お千代」はさらわれる。「権三」も「助十」も逃げてしまう。脚色がよくないのか、芝居のメイン・プロットがゴタついて、中学生の私には話の内容もよくわからなかった。

 ただ、訥升を演じた娘が綺麗で、悪人どもにつかまったら何をされるかわからない、落花狼藉(らっかろうぜき)の意味が中学生の胸に押し寄せてきた。いまのことばでいえば、「キュン死に」しそう。(笑)。

 この若い娘が引ったてられたあと、「権三」と「助十」が、現場にこわごわ戻ってくる。とたんに、
 きゃッ、人殺し!
 と、悲鳴があがって、またまた「権三」と「助十」は腰をぬかす。
 「おい、相棒、おれゃぁ、人殺しが大嫌いなんだよ」
 「人殺しの好きなヤツが、どこにいるもんか」
 「権三」が「助十」を抱き起こすと、裏木戸から犯人がスーッと出てくる。すぐ近くの用水で匕首にべっとりついた血を洗いながして、闇のなかに消えて行く。
 この犯人が八百蔵。

 芝居ってものハおもしろいなあ。これまでとは違った眼で芝居を見るようになった。
 いつか、ほんものの役者がやれる脚本(ほん)を書いてみよう。やってくれるならどこの小屋、どんな役者でもよかった。

 ときに昭和15年。(1940年)。

839

ようす。
 ようすする。
 男女を問わず、なんとなく異性を意識して、ふるまうようす。ようすするは、動詞。
 あの野郎、ようすしやがって。

 あのひと、ようすしぃやわ。

 丸谷 才一は、いい文章を書こうとするには、少し気どって書け、といった。
 少し気どって書けるくらいなら、「文章読本」など誰が読むものか。

 ようすしぃだなあ。

838

 芸術家の運命といったことを考える。考えたところで、たいした結論は出てこない。
 さして長くない生涯で、いろいろな才能と運命が、思わぬ時と所で、重なりあい、あるいは反発しあい、むすぼれたかと思うと、いつか離れてゆく。
 有為転変は世のならい。滄海変じて桑田となる。

 おもしろいのは、広重は国芳とおない年。豊国の門下に入ろうとしたのも、文化8年(1811年)、当時、15歳。
 ところが、豊国は門人が多くて、とても教える時間がないという理由で、広重の入門を許さなかった。
 おない年の国芳は、豊国の門下に入っている。

 広重はやむを得ず、おなじ歌川派ながら、豊国とは画風も制作の姿勢も正反対の豊廣の門に入った。
 豊国は門人が多くて、とても教える時間がなかった。国芳も入門できなかったはずだが、それが許されたのは、豊国は国芳の才能を認めたと思われる。
 はたせるかな、国芳は入門後わずか三年で、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。
 広重のほうは、入門後、じつに9年たって、ようやく処女作を発表する。

 ところが、国芳の合巻ものの評判はあまり芳しくなかった。

 私が評伝という文学形式につよい関心をもつのは、一方に充実した幸福な人生があれば、他方に、悲運にあえぐ生涯もあって、その巧まざる対比が、芸術家の運命を私につよく考えさせるからである。

 林 美一は国芳の作品を比較しながら、あまり人気のなかった頃の挿絵のほうが格段にいいとする。そして、人気とは所詮そう云うものなのだ、という。そういい切った表情を想像する。
 私は、林 美一の仕事にいつも敬意をもってきたひとり。

837

 林 美一の『国芳』を読んでいて、こんな一節にぶつかった。

     しかし、由来、人気と、大衆の好みとは、その芸術家の持つ実力としばしば相反するものである。この時代の国芳が既に人気のあった天保二年刊行の人情本『和可色咲(わかむらさき)』二編の挿絵と比べて見ると、むしろこの時代の作品の方が格段に上手く、情熱に溢れている。人気とは所詮そう云うものなのだ。

 国芳は、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。同13年には、当時のベストセラー作家、山東 京伝の新作に、先輩の国貞、兄弟子の国直と合筆で挿絵を描いている。私は見たことがないのだが、国貞、国直と区別のつかないほど達者な作という。

     がそれはとりも直さず、国芳自身の絵に特色がないと云うことにもなるわけで、これならば何もわざわざ国芳に頼まずとも、人気絶頂の豊国、国貞はじめ、国直、国丸、国安、国満など豊国門だけでも絵師は幾らでもいるのだから注文のこないのは当然であろう。

 と、林 美一はいう。この研究家は、文政の頃の広重もおなじだろうという。
 広重は、『東海道中五十三次』を出すまでは、何の特色もない歌川派の絵を描いていた画家で、名前もろくに知られていなかった。
(つづく)

836

(つづき)
 彼は語った。
 少年時代、サンクト・ペテルブルグの陸軍士官学校の生徒だった。ある日、学校に哲学者、ベルジャーエフが招かれて講演した。その内容はすばらしいもので、少年の彼は感激したのだった。いまでも、その内容は心に残っている。その後、異郷のパリで、くじけずに生きてこられたのは、このときのベルジャーエフの思想が自分の内部に生きているからだ、というのだった。

 私は熱心に彼の話を聞いていた。士官学校の講堂で、困難な時代におけるロシアの運命について、さらには若い士官候補生たちにむかってロシア人としての使命を諄々と説いていた哲学者、ベルジャーエフの姿が眼にうかぶようだった。
 この講演には、ツァーの代理として、皇弟、イポリートが出席していたという。

 この老人と話した時間は、おそらく十五分か、せいぜい二十分程度だったのではないか、と思う。
 私は、この老人の話になぜか感動していた。彼が私に嘘を語ったはずはない。まったく縁もゆかりもない東洋人を相手に、それ以来のベルジャーエフに対する親炙と、心からの敬意を語ったところで、何の得にもならないのだから。

 もう、40年も前のことである。最近になってそんなことを思い出したところで、あまり意味はない。この初老のタクシー・ドライヴァーとの出会いが、その後の私の生きかたになんらかの作用をおよぼした、とは考えられない。
 だから、あまり意味もないと承知の上でいうのだが、この夜の私は幸福だった。おそらく、タクシーの運ちゃんも、私とおなじように幸福だったのではないかと思う。
 パリを見物にきている日本人の若い旅行者が、まったく偶然にロシアの哲学者のことを論じるなど、まずあり得ないことだろう。おなじように、革命のとばっちりで、若くしてパリに亡命したロシア人が、偶然、自分の車に乗った旅行者を相手に、士官候補生だった頃から尊敬してきた哲学者の話をするなどということは、まずあり得ないことだろう。

 こういう幸福が、どういう性質のものだったのか分析したところで、何が見つかるものでもないが、お互いに親しい友人のことを熱心に語りあったようなような気がする。

 彼の名前も知らない。むこうも私の名前を知るはずもない。ただ、それだけのことだが、私にとってのパリは、この初老の運転手の思い出に重なっている。

835

 
 パリでタクシーに乗った。
 どこで乗ったか、どこに行こうとしていたのか、もうおぼえてもいない。

 タクシーの運転手は、初老の男だった。おきまりの会話からはじまった。どこからきたのか。
 日本から。
 どのくらい旅行しているのか。

 私のフランス語よりはずっといいが、スラヴ訛りのつよいフランス語だった。ロシア革命で亡命したという。
 私がロシア文学にいくらか通じていることがわかったらしい。
 ベルジャーエフを知っているか、と私に訊いたのだった。
 「知っている。彼の「ドストエフスキー」を読んだ」
 タクシーの運転手の顔に驚きが走った。
 パリで、ベルジャーエフを知っている日本人に会おうとは思ってもみなかったらしい。
 私は、ベルジャーエフの「ドストエフスキー」を読んでいたが、あまりくわしくなかった。まして、フランス語でベルジャーエフの哲学を少しでも論じることなどできるはずがない。

 彼は通りの横にタクシーをとめてしゃべりはじめた。あたりは暗かったが、ブールヴァールには明るい光が散乱していた。「テアトル・フランセ」の近くで、車の流れが多かった。パリが華やぎをましてくる時間だった。
   (つづく)

834

いまの団十郎を見ながら、昔の、明治の団十郎のことを考える。むろん、私は見たことはない。

 今は、まったくきかなくなったが、昔の役者の職業病の一つに鉛毒があった。
 役者ではないが、画家のルノワールが、晩年、鉛毒のため、絵筆がもてなくなって、右手に筆をくくりつけて描いていた。
 役者の鉛毒については、舟橋 聖一の『田之助紅』にくわしい。先代の歌右衛門も、若い時分から鉛毒におかされていたし、先々代の団十郎も鉛毒だった。
 戦後になっても、エノケンが鉛毒で苦しんでいたことが知られている。

 団十郎は女形ではなかったから、鉛毒がよくなってからはあまり白塗りをせずにすんだが、歌右衛門はそうはいかない。無鉛の白粉(おしろい)を選んで使ったらしい。それでも、やはりからだによくなかった。
 化粧については、役者それぞれに好みがあって、化粧法も千差万別だが、若い頃の団十郎は鉄の鏡を使っていた。
 歌右衛門がわきからのぞいて見ると、曇ったようにぼんやりしている。

 「おじさん、こんなに曇っていて見えるんですか」
 と訊いた。団十郎は、
 「あんまり明るいと、化粧しても果てしがないから、このくらいでちょうどいい」

 後年、団十郎も、ガラスの鏡に変えたが、それでも化粧は荒いほうだったという。
 昔の舞台は照明の輝度も低かったから、お化粧も簡単ですんだらしい。

 『ルイ・ジュヴェ』を書いた時期、ジュヴェがモリエールの『ドン・ジュアン』を演出した章で――モリエールの「パレ・ロワイヤル」の舞台はローソクが百個ばかり、これに対して、ジュヴェの舞台は、照明の光度、輝度だけで、五百倍だったことにふれた。
 私はふれなかったが、この時期から、フランスの俳優、女優のマキアージュ(メーキャップ)の方法も違ってくる。

 そんなことを考えているうちに、「コメディー・フランセーズ」の名優だったマックス・デアリーが、晩年苦しんでいた病気は鉛毒ではなかったのか、と思いあたった。

 ここに書く必要もないけれど、このまま忘れてしまうのも惜しいので書きとめておく。

833

 若い頃、いちばん痛烈な(と思われた)批判は、

  「・・・・なんか文学じゃないよ」

 といういいかただった。ひどく便利な批評用語で、たとえば「永井 荷風の『勲章』なんか文学じゃないよ」というふうに使う。どうして文学ではないのか、また、(その人のいう)文学がどういうものなのか、まったく説明はない。こういう批評が「文学」の名に値するかどうか、そうした検証もない。

 ここに見られるものは、じつに単純な概括であり、その背後にひそむ軽蔑と、ひどい傲慢である。それがカッコよく見えたものだ。

 私は、こういうことを口にしない。むろん、こういう発言をしたくなることはある。
 そういうときは、

  「・・・・なんかいまの文学じゃないよ」

 といえばいい。これまた便利な批評用語のひとつ。

  「中田 耕治なんかいまの文学者じゃないよ」

 ときどき考える。おれって、ひょっとすると、江戸のもの書きのなれの果てじゃねえかなあ。

832

 ルイ・ジュヴェはモリエールを多く上演している。『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期、私がモリエールを熱心に読んだのは当然だろう。
 ジュヴェは「コメディー・フランセーズ」に乗り込んだとき、コルネイユを上演した。そのあたりの事情を書く必要があって、コルネイユも読んだ。ずいぶん熱心に読んだつもりだが、勉強にはならなかった。
 あまりピンとこなかったというのが実状だった。わからなかったといったほうがいい。(モリエールがわかった、というわけではない。)

 コルネイユは『ぺルタリト』の序で、

     二十年におよんで労作をつづけてきたが、今の世にもてはやされるにしては、私はあまりに老いたと気がつきはじめている。

 と書いている。いたましい告白だった。
 この芝居に失敗したコルネイユは、これ以後、劇作家として衰えを見せる。

 いま、私は久しぶりにあたらしい評伝を書きはじめる準備にとりかかっている。

 まったく自信はない。ただ、あたらしい評伝を書きはじめるといっておいて、書かなかったら、引っ込みがつかない。だから、そういっておく。

 もともと才能のないもの書きなので、コルネイユのように悲痛な告白をする必要がない。何十年におよぶ労作をつづけてきたわけでもないし、世にもてはやされるようなものは一つも書けなかった。むろん、これからも書けるはずがない。
 こんどの評伝も芝居者にかかわるものだが、さて、どうなることか。

831

 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味。われながら、つまらんぼうである。

 では、どういうふうに、つまらないものをつまらないと見るのか。

 たとえば、アリッサ・ミラーノ。嫌いな女優さんではなかった。歌だって嫌いではなかった。今だってCDをもっている。
 「娘役」(ジュンヌ・プルミエール)として、そろそろ通用しなくなってきたアリッサが、人気が落ち目。そうなると、人気を回復するために出る映画のジャンルもだいたいきまってくる。
 「ポイズン・ボディ」というC級ソフトコア。よくいえば、お色気サスペンス。アリッサ・ミラーノ初ヌード。

 もうストーリーだっておぼえていない。女子修道院で起きる連続殺人。若い修道女たちが裸になってからみあう。若くて綺麗な尼僧のアリッサ・ミラーノだって、裸にひん剥かれて縛られてしまうのだから、期待は裏切られない。
 ところが、殺人連鎖に立ちむかう綺麗な尼僧がじつは探偵で、サスペンスとして見てもいいのだが、これかなんともアホらしい作り。
 せっかく、拝んだアリッサ・ミラーノ初ヌードのありがたみも消えてしまった。

 これほど、つまらない映画になると、試写室を出た瞬間に、出演者も、ストーリーも、まして監督の名前も忘れてしまう。だから、暇つぶしに見ただけで、こちらの精神衛生にはいちばんいい。

 この映画が、女子修道院をフル・ショットでとらえる。さあ、こわくなるんだよ、という演出。これは「悪魔の棲む家」だなあ。殺されそうになる少女が必死に森のなかを逃げる。これは「サスペリア」だぜ。若い女の子が殺されるシーンは、「13日の金曜日」だね。いよいよクライマックスの儀式に、むごたらしい死体がズラリと勢ぞろいさせられる。おやおや、「誕生日はもうこない」かヨ。

 つまり、「ポイズン・ボディ」は、70年代から80年代にかけて流行したホラー映画が、90年代に突然変移的に出現したものと見ていい。お色気サスペンスとしてはB級。ミステリーとしてはC級。ホラーとしてはD級。
 「ポイズン・ボディ」とおなじ時期に、香港映画「香港犯罪ファイル」(「沈黙的姑娘」)というスリラーを見た。金城 武、アニタ・ユンが出ている。
 この映画もミステリーとしては見おわったあと、すぐに忘れるようなC級映画。しかし、アニタ・ユンのファンとしては見逃すわけにはいかなかった。

 アリッサ・ミラーノも、アニタ・ユンも、もう消えてしまった。それでも、「ポイズン・ボディ」のアリッサが美しい裸身をさらしながら、迫りくる犯人の魔手から逃げようとして身もだえていた。
 「沈黙的姑娘」のアニタは、「金玉満堂」や「金枝玉葉」とはちがった、みずみずしさを見せていた。

 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味。試写室を出た瞬間に、その映画を見たことさえ忘れてしまうのだが、ずっとたって、(だれひとり、そんな映画があったことも知らない時期に)、なぜ、ああいうつまらない映画が作られたのか、と考えるのが楽しい。悪趣味かも知れないけれど。

830

 1872年。福沢 諭吉が『学問のすすめ』を書いている。

 福沢 諭吉とは無関係だが、翌年(1873年)、アレクサンドル・デュマは『クロードの妻』の序で、

  「気をつけるがいい、きみは今、困難な時代を通過しつつあるのだ……」

 と警告している。フランス人は、昔日の過失の代償として高いツケを払わされることになった、といって。

  「今は、機知や、放縦や、皮肉、懐疑、戯れに終始している時代ではない。こうしたすべては、少なくとも、いましばらくは無用のものである。神、自然、労働、愛、子どもたち、これらこそ、真剣な、しかも重大な問題であって、しかも、いままさに、きみの目の前に厳として立っているのだ。こうしたすべてを、みごとに生かすか、しからずんば、きみにとっては死があるばかりなのだ。」

 アレクサンドル・デュマは大作家だから、こういう高飛車ないいかたをしても、カッコいい。サマになっている。私などに真似はできない。

 ところで、南極海で、日本の調査捕鯨船めがけて、アメリカの環境保護団体「シー・シェパード」から、薬物入りのビンが投げ込まれた。
 中国の国防費が、前年実績比、17.6パーセント増、4177億6900万元(約6兆744億円)で、この20年連続で2ケタの伸びを見せている。
 ロシアでは、プーチンにかわってメドベージェフが(得票率、70.28パーセントで)大統領になったが、プーチンが首相に就任する。

 こうなると、「気をつけるがいい、きみは今、困難な時代を通過しつつあるのだ……」程度のことは私だっていえるのである。

829

 
 ジョニー・デップ。

 今の俳優のなかで、ジョニー・デップは私が名優と呼んではばからないひとり。

 はじめて映画で見たのは「エルム街の悪夢」だった。このときから、ジョニー・デップに注意した――わけではない。ろくにおぼえてもいない。ヒロインの恋人として登場するけれど、たちまち殺されてしまう。
 「プラトーン」にも出ていた。まるで目立たなかった。あとになって(ジョニーがスターになってから)もう一度見直して、へえ、あのG.I.だったのか、と気がついたくらい。

 そして「シザーハンズ」。ティム・バートンの映画であった。

 この俳優の存在が気になりはじめたのは、「妹の恋人」からだった。ひゃあ、この若者はキートンを狙っているのか、と驚いた。こういうタイプの俳優はめずらしい。
 「アリゾナ・ドリーム」。初老になったジェリー・ルイスと、おババになりかけのフェイ・ダナウェイが主演。ジョニーは、空を飛ぶことを夢見ているおババに恋をするヘンな若者をやっていた。いい芝居をするなあ、と思った。
 「ギルバート・グレイプ」。これは、ディカプリオの映画だったので、ジョニー・デップに感心したわけではない。
 つぎに「エド・ウッド」。ティム・バートンと組んだ第二作。これで、イカれた。

 私は、ものごとにこだわらない(と、自分では思っている)。それでも、こだわりはある。
 関心をそそられると、いつまでも心のなかで追い続ける。ただし、しつっこく考えつづける、コンパルシヴな追求ではない。ただ、折りにふれて、その人のことを思い出している。それが楽しい。
 ジョニー・デップは、なぜ名優と呼んでしかるべきか。
 このことは、私が――ロバート・デニーロ、トム・ハンクスを、才能のある俳優、すぐれた俳優と見ていながら、現在、かならずしも名優と呼ばないことにかかわってくる。 アンソニー・ホプキンスなど、私は「名優」と呼ばない。

 これは、花衫(ホアシャヌ)の名優として梅 蘭芳、尚 小雲をあげても、正旦(シャオタン)の程 硯秋を名優と呼ばないことに似ているかも知れない。

 いつか、ジョニー・デップについて何か書こうか。むろん、書かないまま終わるかも知れない。