888

 「早川書房」にいた宮田 昇が、ある日、私のところにやってきて、
 「何かおもしろい小説を読んでいたら、教えてくれないか」
 といった。
 私は、たまたまミッキー・スピレーンを読んでいた。
 「これなんか、出したらきっと売れるよ」

 私は、ミッキー・スピレーンの小説を説明してやった。宮田 昇は、黙って聞いていた。彼が関心をもったことは、私にもわかった。
 宮田 昇はその日のうちに、「タトル」に行って、翻訳権の取得に動いた。当時、ミッキー・スピレーンは、5冊出ていたが、宮田 昇は2冊しか翻訳権をとらなかった。とれなかったというべきだろう。スピレーンの処女作と、最新作のペイパーバックだったが、この2作を選んだのも「早川書房」に資金的な余裕がなかったためという。
 その一冊(最新作)の翻訳を、恩師の清水 俊二さんにお願いして、もう一冊を私のところにもってきた。
 「きみがいい出したのだから、きみが訳してよ」
 宮田 昇はいった。

 その後、紆余曲折があって、これが「ハヤカワ・ミステリ」の出発になった。
 「ハヤカワ・ミステリ」は、ポケットサイズにするときめられて、とりあえず清水訳をNo.1、私の「裁くのは俺だ」をNo.5にすることになった。          
 2冊はきまったが、No.2、3、4、がなかった。
 ここでも、いろいろと紆余曲折があって、もう1冊を、植草 甚一さんにお願いすることになった。一方、宮田 昇は、同僚の福島 正美といっしょに「飾り窓の女」を訳すことにして、とりあえず「ハヤカワ・ミステリ」が出発することになる。

 「飾り窓の女」は、フリッツ・ラングか映画化したサスペンス・スリラーで、ヒロインの「飾り窓の女」の女」は、グローリア・グレアムだった。

 そういえば・・・「ハヤカワ・ミステリ」の新聞広告には、いつも、女の片目が大きくデザインされていた。ある映画女優の眼なのだが、もう誰も知らないだろう。

887

 当時、私はある映画会社でシナリオを書いていた。というより、シナリオ化する前段階、ストーリーのシノプシスを書くライターだった。こうしたシノプシスは、毎月、50本以上、集められる。地方紙に連載されている長編通俗小説のレジュメなども含まれていた。そういう仕事は、会社の脚本部に所属する人たちの仕事で、外部の書き手だった私には関係がなかった。

 ある日、製作本部の意向で、「立体映画」の企画が緊急の課題になった。私なども、このとき、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というものを、ストーリーにどう反映させたらいいか、頭をひねったおぼえがある。

 さて、その当時の女優たちの身長、体重、そしてスリー・サイズをあげた理由が、みなさんにも理解していただけたのではないか、と思う。

 ロンダ・フレミング  身長=5・5フィート  体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/26  ヒップス/36半

 ローズマリー・クルーニー 身長=5フィート6半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/24  ヒップス/34

 ベテイ・グレーブル  身長=5フィート3半  体重=112ポンド
    バスト/36  ウェスト/23半  ヒップス/35半

 ローレン・バコール  身長=5フィート6半  体重=119ポンド
    バスト/34  ウェスト/23  ヒップス/35

 なつかしい女優たち。

886

 それまでの白黒映画がカラーと交代したときに、もっとも大きな問題になったのは、女優のからだをどこまで美しく撮影できるかというテクニカルな問題だった。
 これは、高性能レンズ、照明、メークの驚くべき発展で解決したが、立体映画となると、まるで未知の領域だった。
 映画「サンガリー」で、アーリン・ダールが起用されたことも偶然ではない。
 アーリン・ダール   身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/36  ウェスト/27  ヒップス/36

 当時、アーリン・ダールは「テクニカラー女優」という異名があったほどで、美貌と、からだの美しさは抜群だった。ただし、会社(「パラマウント」)が、あわてふためいて企画し、くだらないシナリオで、急遽製作したことが歴然としていた。つまり、映画はまったくの愚作。
 アーリン・ダールはインターヴューで語っている。

    「立体映画」に出る時は、自然に返れという姿勢がたいせつだと思うわ。ライトがきつくて、大げさなメークは禁物なの。こまかいところまで、くっきり撮られるから、あくまで自然のままのほうがいいの。それに、撮影のために、ダイエットして10ポンド落とすなんてこともなくなるわね。これまでの映画だと、からだが、平べったく写るので、実際以上にデブって見えたりするけど、「立体映画」だと、ありのままに写るのよ。

 つまり、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というわけ。
 ただし、この言葉には・・・おそろしい含意(インプリケーション)があって、これまで、メークや、カメラ、ワークで美しく撮れていた女優たちには恐怖の時代がやってくる。
 たとえば、ヴェラ・エレン。身長=5フィート4半  体重=105ポンド
      バスト/33  ウェスト/21  ヒップス/33

 つまり、ヴェラ・エレンは、肉体的に不適格ということになる。なぜなら、スクリーンのワイド化もまた必至と見られていたからだった。
   (つづく)

885

 グローリアは、「戦後」の美女のひとりだが、グローリア・グレアム程度の美女はいくらでもあげられよう。
 しいて特徴をあげれば、二重まぶたの眼が、すっと冷酷な光を帯びると、いかにもあばずれといった感じになる。
 すれっからしの莫蓮女らしい、下品で、蓮ッ葉な女だが、どこかほかの女にない翳りがたゆたってくる。「人生模様」のマリリン・モンローにも、これはない。「欲望という名の電車」のアン・マーグレットにはとても出せない。

 ほしいままに春を枕籍にひさぐ娼婦の役、ギャングの情婦といった役を若い女優がやると、だいたいはほかの役のときよりもずっと輝いて見えるものだが、なかでもグローリア・グレアムは出色だった。もともと平凡な「娘役」をやったことがない。
 ある映画評論家が書いていた。

 ところで、これはどんな映画ファンもほとんど同じ思いだったと思うのだが、四〇~五〇年代のモノクロ女優のなかで、だれの裸をいちばん見たかったかといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない・・それはグローリア・グレアムだった。

 残念なことに、私はグローリア・グレアムの裸を見たおぼえがない。だれの裸を見たかとえば、マルティーヌ・キャロル、ジャンヌ・モローといったフランスの女優たちを思い出す。グローリア・グレアムといえば、(以下すべて、1958年の資料による。)

 マリリン・モンロー  身長=5・5フィート半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/23半  ヒップス/37半

 ジェーン・ラッセル  身長=5フィート7  体重=135ポンド
    バスト/38半  ウェスト/25  ヒップス/38半

 エレン・スチュアート 身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/34  ウェスト/24  ヒップス/36

 ドリス・デイ     身長=5フィート5・3/4 体重=116ポンド
    バスト/36  ウェスト/25  ヒップス/36

 デブラ・パジェット  身長=5フィート2  体重=104ポンド
    バスト/33  ウェスト/25  ヒップス/36

 リタ・ヘイワース   身長=5フィート6  体重=120ポンド
    バスト/35  ウェスト/25  ヒップス/35

 こんなことを書きとめておくのは、いささか悪趣味だが。
 しかし、私にとっては、こうした女優のスリー・サイズを見届けておくことにはもう少し別の意味がある。

 じつは、この1958年当時、シネマスコープばかりではなく、3D(スリー・ダイメンション)も登場していた。つい昨日までは、そんなことばも存在しなかった世界がどこに行っても聞かれるようになって、カメラ、照明、ひいては演出のメトドロジーも変わるだろうと予想された。3D(スリー・ダイメンション)では、ポラロイド眼鏡などという、誰ひとり考えもしなかったアクセサリまでがあらわれた。
 ちなみに、当時、ピンナップの女王と呼ばれていたのはヴェジイニア・メヨ。
 「我らの生涯の最良の年」で、前線から復員した兵士(ダナ・アンドリュース)を裏切った不倫な人妻。「死の谷」で、愛するガンマンと国境を越えようとして、追手の銃弾に倒れる原住民の女。ヴェジイニア・メヨをおぼえている人がいるだろうか。

884

 
 グローリア・グレアムという女優がいた。もう誰もおぼえていないような女優さん。ビデオ、DVDでも「地上最大のショウ」ぐらいしか見られないだろう。この映画で、グローリアはアカデミー賞(1952年)の助演女優賞をとっている。
 ただし、アカデミー賞なんか、まるで関係のない「悪女」型の女優だった。

 一九五〇年代、私は英語がいくらか読めるようになっていたので、手あたり次第にアメリカの文学作品、通俗小説を読んでいた。雑誌、「サタデー・イヴニング・ポスト」なども読んでいたが、この雑誌に連載されていた小説が映画化された。
 監督はフリッツ・ラング。
 戦前すでに「激怒」、「暗黒街の弾痕」といったアクション・スリラーで一流監督だったフリッツ・ラングは、戦後の私には「扉の蔭の秘密」、「飾り窓の女」の映画監督だった。

 ある巡査の死に疑問を抱いた警部が動きはじめたとき、上司から捜査の中止を命じられる。このことから、警察内部を牛耳るマフィアの動きを知った警部は、車にギャングが仕掛けた爆発で妻が殺され、職も奪われる。復讐のために、警部はマフィアの動きをさぐって、ギャングの情婦に接近してゆく。

 この警部をやっていたのが、「ギルダ」、「カルメン」のグレン・フォード。
 非情なギャングの実態を知って復讐に協力する暗黒街の女。この「情婦」を、グローリア・グレアムがやっていた。

883

  しばらく前にこんなニューズを読んだ。(’08.7.16.)

 ストレスによって記憶力が低下することは、よく知られている。
 日本医大の太田 成男教授のグループは……水素が活性酸素をとり除き、脳梗塞による脳障害を半減させることを確認した。

 認知症は活性酸素などによって神経細胞が変性する病気とされるが、太田 成男教授はマウスの実験で……水素が大量に溶け込んだ水を飲ませたマウスと、ふつうの水を飲ませたマウスの比較から……水素水を飲まなかったマウスの海馬には、活性酸素によって作られた物質が蓄積していた。水素水が活性酸素によって低下した神経細胞の増殖能力を回復させ、記憶力の低下も抑制したと考えられる、という。

 こういうニューズはうれしいかぎり。

 北京オリンピックの開催間近に、BSで「東京オリンピック」をやった。
 これを見ながら、市川 昆のことをいろいろ思い出していて、はて、「愛人」は見たはずだったが、どんな映画だったっけ、と考えあぐんだ。オリンピックでいえば、ロサンジェルスから、マドリード、ソウル、ぐるっと地球を一周するくらいの時間がかかって、やっと森本 薫の『華々しき一族』の映画化だったことを思い出した。
 森本 薫も思い出せなくなっているのか。これはショックだったが、あの映画は、コーチャン(越路 吹雪)の映画だったなあ、などとへんに納得する始末。

 当時、私は映画の仕事をしていたせいで、この頃のことはわりによくおぼえている。

 市川 昆の「愛人」が公開された時期、「大映」は衣笠 貞之助の「地獄門」を出してきたはずで、「愛人」では長谷川 一夫、京 マチ子には敵わなかったなあ。あの映画の「清盛」は千田 是也だったが、千田 是也の映画としてはましなほうだったな、などと考える。
 外国ものでおぼえているのは、アルベルト・ラットゥアーダの「アンナ」ぐらいか。「アンナ」はシルヴァーナ・マンガーノだったっけ。
 そういえば、エリア・カザンの「綱渡りの男」もこの頃に出た。
 エリア・カザンとしてはめずらしいサスペンス。旧ソ連圏のチェッコから、必死に脱出しようとするちっぽけなサーカス団の話。反共映画だが、脚色が、ロバート・E・シャーウットだった。アメリカ有数の劇作家。映画は駄作だったが、私としてはテリー・ムア、グローリア・グレアムが気に入っていた。

 すっかりボケて何もおぼえていないくせに、好きな女のことは忘れない。(笑)

882

 昼間、小川 茂久と会うことはめずらしかった。たいていは、どこかの喫茶店にもぐり込んで、いそぎの原稿を書いたり、暇さえあれば古書店を歩いていた。昼間、小川の研究室に顔を出したこともない。だから、昼間、キャンパスで偶然に出会うこともなかった。
 一度、文学部の事務室で、偶然に彼を見かけた。
 昼間なので、行きつけの酒場も居酒屋も開いていない。

 「メシにしようか」
 「うん、そうするか」

 「弓月」の近くの寿司屋に行った。小川の行きつけの店だった。
 あるじは、大柄で、江戸前の寿司が自慢らしい不敵な面がまえだった。
 けっこういいネタだった。
 小川が、店のあるじに私を紹介した。
 「このひとは、マリリン・モンローの研究家なんだよ」

 あるじは、私を見ずに、ふてぶてしい口調で、
 「あっしは嫌いだね、ああいう淫売みてえな女」

 私は黙って立ちあがると、
 「すまねえが、先に帰らしてもらうよ」

 店を出た。不愉快な気分を顔には出さなかった。小川があとを追って出てくることはわかっていた。そのまま神保町に出て、私の行きつけの店であらためて小川と寿司を食べた。このとき、マリリンのことは話題にしなかった。
 たかが、寿司屋のあるじ風情が、マリリン・モンローを嫌っていても、小川にもおれにも関係はない。ただ、客の顔を逆撫でするようなセリフを浴びせるのが、江戸っ子の心意気だなぞと思い込んでいる根性が下司であった。
 神田は猿楽町に住んでいやがっても江戸っ子の風上にも置けねえ野郎め。

 その店には二度と行ったことがない。

881

 小川 茂久と会うのはたいてい夜の9時過ぎで、お互いに黙ってキャンパスを出て、駿河台下に向かう。
 小川の行きつけの旗亭がいくつかあって、酒場なら「あくね」、居酒屋なら「弓月」ときまっていた。
 「あくね」には、いつも小川のご到来を待っている客がいた。おなじ明治大学の先生、職員たちばかりではなく、近くの中央大学の教授たち、あるいは本郷の東大の仏文の諸先生がた、「岩波」、「筑摩」といった出版社の編集者たちが小川の顔を見ると、いっせいにうきうきする。
 酒席の小川は、それほど人気があった。
 大人の風格があって、誰とでも気さくに話をする。話がおもしろくなってくると、ケッケッケッ、と笑う。この笑いが独特だったが、じつは、恩師にあたる佐藤 正彰先生の影響をうけて、こんな笑いかたが身についたようだった。

 小川とちがって、まったく社交的ではなかった私は、カウンターの隅っこに陣どって、店の女の子たちを相手に、なんとなく世間話でもしながら飲みしこるのが常だった。
 私は小川と飲んでいられれば幸福だったのだが、小川が紹介してくれた知人たちのなかでも、何人かの人とは心おきなく話ができるようになった。
 例えば、小野 二郎。
 私とは、まるで思想も教養も違う小野も酒豪だった。お互いに酔っぱらっているのだから、めいめい勝手なことをわめいているわけで、論理的にかみあわないことが多い。それでも、何かの論点についてはお互いに譲らなかった。
 小野 二郎が貸してくれたので、マルクーゼを読んだ。内容はむずかしかったが、なんとか読んで、つぎに「あくね」で会ったとき、マルクーゼについて小野君と論争になった。
 小川は、まったく口を挟まず傍観していたか、私はめったに論争することなどなかったから、ほんとうは心配していたのかも知れない。
 「あくね」や「弓月」のことも、そろそろ書き残しておこうか。

880

 『インセスト――アナイス・ニンの愛の日記≪無削除版』1932~1934』アナイス・ニン著 杉崎 和子訳(彩流社/2008年) ∴  『医学が歩んだ道』フランク・ゴンザレス・クルッシ著 堤 理華訳(ランダムハウス講談社/2008年) ∴『映画都市(メディアの神話学)』海野 弘著(フィルム・アート社/1981年) ∴『演芸画報・人物誌』戸板 康二著(青蛙房/1970年) ∴ 『艶書 覚後禅 肉蒲団』原 一平訳(東洋書林/1954年) ∴『オプス・ピストルム』ヘンリー・ミラー著 田村 隆一訳(富士見書房/ロマン文庫/1984年) ∴『オペラ館サクラ座』宇野 千代著(改造社/1934年) ∴ 『銀幕のいけにえたち』(ハリウッド★不滅のボディ&ソウル)アレグザンダー・ウォーカー著 福住治夫訳(フィルム・アート社/1980年) ∴ 『孤独なアメリカ人たち』アースキン・コールドウェル著 青木久男訳(南雲堂/1985年) ∴ 『婚姻の諸形式』ミューラー・リアー著 木下史郎訳(岩波文庫/1934年) ∴ 『宿命の女優』(「シネアスト4「映画の手帖」/1986年) ∴ 『スクリーン・デビュー--あの名優・名監督の最初の映画』ジェミー・バーナード著 柴田京子訳(講談社・+@文庫/1995年) ∴ 『スクリーン・モードと女優たち』秦 早穂子著(文化出版局/1953年) ∴ 『スター』エドガール・モラン著 渡辺 淳・山崎 正巳訳(法政大学出版局/1976年) ∴ 『性への自由/性からの自由(ポルノグラフィの歴史社会学)』赤川 学著(青弓社/1996年) ∴ 『世界映画人名事典 監督編』(キネマ旬報/1975年) ∴ 『世界の映画作家全集’67』(キネマ旬報/1967年) ∴ 『セックス・シンボルの誕生』秋田 昌美著/青弓社/1991年) ∴ 『ヌードの歴史』ジョージ・レヴィンスキー著 伊藤 俊治・笠原 美智子訳/パルコ出版局/1989年) ∴ 『ハリウッド殺人事件』Hollywood R.I.P. 中田 耕治編・監修(ミリオン出版/1987年) ∴ 『ハリウッド黄金期の女優たち』淀川 長治著(芳賀書店/1979年) ∴ 『本当のところ、なぜ人は病気になるのか?』ダリアン・リーダー&デイヴィッド・コールフィールド著 小野木明恵訳(早川書房/2008年) ∴  『無声映画名作アルバム』編著者 無声映画愛好会(鱒書房/1954年) ∴ 『変愛小説集』岸
本 佐知子編・訳(講談社/2008年) ∴ 『The World of Musical Comedy』スタンリー・グリーン著(ニューヨーク・A・S・バーンズ刊/1960年) ∴

 いま、私の机に置いてある本。すぐ手にとれる位置に置いてある。それぞれの本を気ままに手にとって、必要な部分だけを読んでは別の本に移って行く。つまり、ほとんどが仕事に関係のある本ばかりだが、つぎつぎに入れ代わってゆく。1週間後には、大半が私の机の上から消えているだろう。
 生々流転である。

879

 
 アレクサンドル・ソルジェニーツィンが亡くなった。(’08.8.3。日本時間では4日朝)死因は、心不全。享年、89歳。

 ソルジェニーツィンの作品はだいたい読んでいるはずだが、作家としての彼にそれほど関心はない。

 旧ソヴィエトの作家同盟の招待で、ロシアを旅行したことがある。ブレジネフの時代だった。
 ある日、モスクワで、若いロシア人と文学の話をした。まだ、『収容所群島』がロシアで公開されていなかった時期、つまりソルジェニーツィンは国禁の作家だった。
 お互いにたどたどしいイタリア語、フランス語で話をしたが、私は、たまたまアンドレイ・ベールイ、アレクサンドル・ブローク、はてはレーミゾフ、ブーニン、ザイツェフなどを話題にした。彼はびっくりしたようだった。
 私が名をあげた人々の作品は、当時のモスクワではほとんど入手できないのだった。闇の古本市のようなものがあって、読者たちがひそかに連絡しあう。物々交換のシステムだったらしい。十九世紀の作家、詩人のものはなかなか出ないし、出たとしても現代作家の本何冊かと交換で、やっと手に入れるという。

 若者は外国人(それも日本人)の私がソルジェニーツィンを読んでいることに驚いていた。
 彼は残念そうに、
 「きみはいいなあ、自由にソルジェニーツィンが読めて」
 といった。
 やがて、若者は雑踏のなかに消えて行った。あきらかに外国人とわかる私と話しているところを見られるのがいやだったらしい。ソヴィエト旅行にはそんな思い出がある。

 ソルジェニーツィンの死について別に感想はない。あとになって、たとえば、ソロヴィヨフ、ベルジャーエフなどの系譜につらなる思想家としてのソルジェニーツィンについて考えてみたいと思っている。
 新聞で訃報を読んだすぐに、わずかな蔵書のなかでソルジェニーツィンの本を探したが見つからない。まるで関係のないアルツィバーシェフを読み返した。

    大きな明るい月が、黒くてお粗末な物置のかげから顔をのぞかせた。はじめ、庭のたたずまいをうかがっていたが、どうやら別にこわいものもないと見たらしく、少しづつまろみをまして、ゆるやかに登りはじめた。黄色っぽくまんまるい、にこやかな顔で屋根に乗ったものである。
    庭のなかはたち皓々としらんだが、塀や物置の下には、かぐろくミステリアスな影ができた。夜気が涼しく、かろやかに、すがすがしくひろがる。暑くて、眼がくらむような夏の一日がやっと終わって、はじめて胸いっぱいに深呼吸できるといったようすである。

 ある短編のオープニング。有名なロシア文学者の訳を私が勝手に手を入れたもの。

 ソルジェニーツィンのことを考えるとき、すでにロシア人たちに忘れられているに違いない作家たち、たとえば、クープリン、アンドレーエフ、アルツィバーシェフ、ソログープたちのことを思い出すだろうと思う。
 ソルジェニーツィンについて考えるとき、私は、エイゼンシュタインや、ピリニャークや、ナターリア・ギンズブルグなどと重ねあわせて考えるだろう。

 私はそういうひねくれた読者なのだ。

878

 八月になった。北京オリンピックが開催される。
 夏休みなので、本を読むつもりだが、こう暑いと本も読めない。
 手もとにある歌集、句集をひもとく。川柳でもいい。
 むろん、全部読むわけではなく、ところどころ目にとまったものを、掌にころがすようにして眺める。だから読書というより、気ままな暑気払い。

 8月1日。八朔(はっさく)である。

     八朔の 雪見もころぶところまで。

 おもわずニヤリ。
 もっとも、これを読んで、ただちに白無垢の小袖を連想する人はいないだろう。私だって、戦前の「なか」を見てはいるが、この習慣を実見しているわけではない。

     八朔の雪 物尺でつもる也

 これはむずかしい。ちょっと考えて、ニヤリ。

     一里づつ 行けば木へんに夏木立

 街道筋に道標としてエノキの木が植えてあったらしい。

 その頃、文屋という職業があったらしい。飛脚は、遠方に手紙を届けるのだが、文屋は近場に手紙などを届ける。

     文使い うそもまことも ひとつかみ

 この「文使い(ふみづかい)」も文屋のこと。

 私はもの書き。たいしたもの書きじゃないが、文章を書くことでたつきを立ててきたのだから(誤用を承知で)自分を「文使い(ふみつかい)」と称している。だから、このHPに書く文章は、「うそもまことも ひとつかみ」。

877

「文芸家協会ニュース」を見て、6月6日に、作家の氷室 冴子、10日に作家の田畑 麦彦、映画解説者の水野 晴郎が亡くなったことを知った。
 この方々が亡くなったことをまったく知らなかったので、ちょっと驚いた。それぞれの人の死に驚いたわけではなく、自分がしばらく何も知らずに過ごしていたことに気がついて驚いたのだった。

 私は、作家の訃を知ったときは、できるだけその人の本を探して読むことにしている。追善の意味もあるのだが、面識はないにせよ、もの書きとしておなじ時代に生き得たことのありがたさを思うからである。

 氷室 冴子という作家のものは読んだことがなかった。ぜひ読みたいと思って、本屋に行ったが見つからなかった。コバルト文庫、56冊、2千万部の人気作家だった。私は「コバルト文庫」で、S・E・ヒントンの3冊、青春小説のアンソロジーを1冊出しただけで、総部数は20万部そこそこだったから、私などとははじめから比較にならない。 
 
 氷室 冴子、享年、51歳。
 私のクラスを出てから作家になった高野 裕美子も、同年で、今年亡くなっている。
 そんな薄弱な理由もあって、氷室さんの作品も読んで見たかったのだか、見つからないのでは仕方がない。

田畑君とは面識もあった。
 例えば「嬰ヘ短調」といったひどく前衛的な作品を書いていた。育ちのいい文学青年だったが、書くものは高踏的すぎて、私にはあまりよく理解できなかった。
 彼の本も探すのはむずかしいだろう。ただ、私は彼から送られた本をもっていたので、読み返すことができた。
 むずかし過ぎて、よく理解できなかったのはおなじだった。

 水野 晴郎とは、テレビの映画番組で、二、三度、何かの映画について対談したことがある。テレビではない場所では、「紀伊国屋ホール」でマリリン・モンローのことで、対談した程度。
 誰にも好かれるようなお人柄で、映画解説者として人気があった。
 彼の著書も私はもっていなかった。探すのはやめて、DVDで、ジョルジュ・クルーゾーの「悪魔のような女」を見た。
 たまたまシャロン・ストーンのリメークが、公開された時期で、水野 晴郎は、ハリウッド郊外で、クルーゾー映画の解説をしていた。

 私の見た「悪魔のような女」は、なんとアメリカ版の吹き替えで、シモーヌ・シニョレも、ヴェラ・クルーゾーも、アメリカ語をしゃべっているのだった。映画も、なんとなくクルーゾーらしい、ネチっこさが消えている。
 いちばん笑ったのは、子どもたち(私立学校の生徒たち)が、いともみごとなアメリカン・スラングをしゃべっていることだった。
 監修者の水野 晴郎は何も気がつかなかったのだろう。

876

 日曜日、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている。宮崎 あおいのファンなので。
 いずれ公武合体の話から、皇女和宮が登場してくるだろう。どんな女優がやるのだろうか。
 金剛 右京の「能楽芸談」を読んでいて、おもしろいエビソードを見つけた。
 明治になって、能楽に衰退のきざしが見えていた頃の話だろう。金剛 氏重(右京さんの大伯父にあたる)が、黒田侯の屋敷で「融(とおる)」の袴能をつとめた。このとき、春藤 六右衛門がワキをつとめた。

 この能に、名所教(めいしをおしえ)というところがある。さしづめ、シテのサワリというべき部分。

    音羽山 音に聞きつつ 逢坂の 関のこなたに とは詠みたれども 彼方にあたれば 逢坂の 山は音羽の峯に隠れて この辺よりは 見へぬなり・・

 これを、六右衛門がすっかり謡(うた)ってしまった。ほんらい、シテの謡(うた)うところである。
 地謡、囃子かたは、もとより、居並ぶ貴顕のかたがたもこれにはおどろいて、さて、この場をどう収拾するのか、シテの金剛 氏重にいっせいに注目した。
 氏重も六右衛門の失策に仰天したには違いないが、すかさず、

    のうのう、御僧、それはこなたにて 申すことに候。

 と、ふっておいて、

    仰せのごとく 関のこなたに とは詠みたれども・・

 とつづけた。これで、こんどは六右衛門も自分の失策に気づいて、赤面したらしい。当時、幼かった右京はこれを見て、六右衛門のようすは今でも気の毒に思うと書いている。
 舞台で、相手のセリフと自分のセリフをとりちがえる、そんなトチリをずいぶん見てきた。自分の演出した舞台では、じたんだを踏んでも間にあわない。

 この氏重でさえ、生涯ただ一度失敗したことがある。
 幕末、皇女和宮が、徳川 家茂に御降嫁のみぎり、「摂待(せったい)」の能が出た。 シテは、金剛 唯一。氏重は、ツレの「兼房」をつとめたが、なにしろ前代未聞のもよおしに緊張したのか、氏重はシビレを切らせて、席から立ちあがれなかったという。

 私はこんな話を読むのが好きなのである。

875

 ここで私がとりあげる本は、『変愛小説集』(講談社)。

 ある家庭の主婦。ある夏の午後、とても素敵な男の子が庭の芝生を刈りにきてくれる。彼女は、その男の子を追いかけて、キスをする。彼の舌を吸ったが、吸いかたが強すぎて彼が声をあげはじめても、ますます強く吸って、彼を呑み込んでしまう。
 ジュリア・スラヴィンの「まる呑み」。

 これは凄い!

 私はこれまで、自分でもたくさん小説を読んできたが、こんなにおかしな短編を読んだことがない。私には、女という生理の外貌がはじめて私の内面にあたらしい姿をあらわしたのを見たような気がした。まさしく、ここには女の肉体の内側が語り、ときには泣き出したり、怒りを見せている。
 なにしろ、呑み込んだ相手は、いくら追い出そうとしても居すわってしまうのだから。しかも、彼女は妊娠してしまう。

 エロティックな行為をふくめてひとりの男と女の交渉が、あらゆる「恋愛」の基本をなしているとすれば、このおかしな短編の「愛」は、まさに「変愛」の現実的形態にほかならない。
 私は、この短編を前にして、批評的な評価を絶した数瞬間をこころゆくまで彼女とともにすごした。思わず、笑い出したくなるのをこらえながら。
 なんといっても岸本 佐知子の訳がすばらしい。
 こういう作品をこれほどおもしろく訳せるのは、たいへんな才能だと思う。岸本 佐知子はエッセイストとして有名だが、彼女の翻訳にも、なんともいえない、トボけたおかしみ、それでいて、みごとに語学的なきらめきが輝いている。
 私が『変愛小説集』の周辺をめぐって気ままに歩いてみたいといった理由は、これに尽きる。

 『変愛小説集』については、また、あとでふれることにしよう。

874

 
 私が書くのは岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』の書評ではない。

 アンソロジストとして、こういう作品ばかり選んで訳している岸本 佐知子の感性に敬意をもっているのだが、この『変愛小説集』の周辺をめぐって、しばらく気ままに歩いてみたいと思う。

 ずいぶん昔、あたらしいミステリーに、それまで存在しなかったストーリー・テリングの妙、意外な展開、しばしば想像もつかないオチをもった短編が登場してきた。これを、江戸川 乱歩が概括して「奇妙な味」と呼んだことがある。たとえば、ロアルド・ダール、あるいはチャールズ・ボーモントなどの作品がこれにあたるのだが、『変愛小説集』のどの一編をとりあげても「奇妙な味」どころではない。
 ここにとりあげられている作家たちは、自分の想像力の赴くままにふる舞っている。作家たちは、自分の描くシチュエーションが「変」なものとは思っていないので、それぞれが自分の思考のバイアスを見定め、それをいわば圧縮して、そのかたちの「変」性をさだめるためにしか書かない。これは、すごいとしかいえない。
 私小説を最高の文学と思っているような連中には、おそらく何も見えてこないだろうと思う。これはもう「奇妙な味」どころか、それぞれが比較しようのない味としかいいようがない。
 私は、この短編集をいっきに読みつづけるのがもったいなくて、毎日1編づつ、たいせつに読みつづけた。まるで、おいしいケーキを、一個づつ食べるようにして。
 毎日、かなり多数の本を読みつづけてきた私が、こういう読書法をはじめて自分に強制したことでも、この『変愛小説集』がどんなに特別な作品集かわかってもらえるかも知れない。

873

 過去の思い出などというものは、できることなら、ふり捨ててしまいたい。不実な女の思い出などは、いま思い出しただけでも、つらいばかりだし、女が去ってしまったあとの空虚な日々など、思い出したくもない。
 同時に、人生のなかでいちばん楽しかった思い出などというものも、どうにも始末に困るのである。たしかに楽しかったには違いないが、なぜ、あんなにも楽しかったのか、思い出せば思い出すほど不可解なものに見えてくる。
 因業なことにもの書きという職業には、何かを思い出すというのが、いちばん大切な職能の一つ。何かを書く。そのストーリーにぴったりの人物、情景、時間と空間などをたちどころに思い出す能力がないと、小説ひとつ書けない。そこで、私小説を最高の文学と思っているような連中の頭は、いつもそんな思い出がいっぱいつまっていて、重宝に思い出せるらしい。
 私は、私小説を最高の文学と思っていないので、過去に生きた自分の姿など、まったく信用してはいない。すぐれた作家たちは、自分の過去からそれぞれみごとに逃げつづけている連中にかぎられる。

 こんなことを書くのも、岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』というアンソロジーを読んで、ひたすらおかしくて、それでいて、おそろしい短編ばかりなので、驚愕したからだった。

872

 私の好きなことば。

    世人ノ情、楽ヲネガヒ、苦ヲハイトヒ、オモシロキ事ハタレモオモシロク、カナシキ事ハタレモカナシキモノナレハ、只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道也、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシ、好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、(中略)実情ヲアラハサントオモハハ、実情ヲヨムヘシ、イツワリヲイハムトオモハハ、イツワリヲヨムヘシ、詞ヲカザリ面白クヨマントオモハハ、面白クカサリヨムベシ、只意ニマカスベシ、コレスナハチ実情也

 本居 宣長。

 和歌というものは、政治的な効用を目的として詠むものではない。ほんらいは、もののあはれを詠むものだという宣長の論理は、「只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道」という姿勢をもっていた。
 だから、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシという。好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、といういいかたに逆説を読む必要はない。
 ただし、これは平凡な歌論ではない。ひどく静かないいかただが、なぜか宣長が激しているようなすさまじい緊張を感じる。

 ここから先は、私の平凡な感想。
 ときどき絵を描きたいと思う。実際にへたな絵を描く。どうかすると、アンクローシャブルなものになることもある。だからといって恥じる必要はない。好色ノ心ニテ描けば、好色ノ絵を描クベシ、と思うから。

 もののあはれを描くとすれば、どうあっても男女の恋を描くにしくはない。

871

 マイケル・ジャクソンの「スリラー」は、全米アルバム・チャート、37週連続トップ。売り上げ枚数、1億枚。
 私も買ったひとり。

 映画「ボデイガード」のサウンドトラックが、4200万枚。
 これも買ったっけ。

 イーグルスの「ホテル・カリフォーニア」や、ピンク・フロイドの「ザ・ダークサイド・オヴ・ザムーン」ももっている。

 映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックも。

 売れ行きベスト5まで。
 私は、エボナイト、LP、テープ、CDと、無数の音楽を聞きつづけてきた。私から音楽をとったら、あとに何も残らない――ほどではないにせよ、たいして残らない。

 私の処女作は、「ショパン論」だった。クラシックを聞いていたのだが、途中でジャズに移って、やがてロックというふうに変わった。ついにはアジア・ポップス、エスニックと、われながら無節操につぎつぎと変わってきた。小人は虎変する。
 おのれの軽佻浮薄をさらけ出すようだが、それぞれの時代のヒット・チャートに浮かんだ曲の半分はおそらく聞いている。つまり、その程度に熱心な、そしてなんとも軽薄なファンだった。

 あるジャンルに気をとられると、ひたすらのめり込む。それはかなり長く続くのだが、どういうものか、ある日、突然に離れる。そのときから、そのジャンルのものをまったく聞かなくなる。MTVも見なくなるのだった。

 クラシックも、オペラまで。好きな音楽と、そのときそのときに飲んでいた酒の好みがなぜかパラレルにならんでいるような気がする。

 ひょっとして――もうひとつの好みも。(笑)

870

 人生には、ひそかに願っていても叶わぬことが多い。

 『四谷怪談』の「穏亡堀」、戸板返しの実際の動きを見たかった。むろん、舞台は見ている。しかし、「伊右衛門」と「直助権兵衛」のやりとりのあいだに、奈落の黒子がどう動くのか。今の劇場ならコンピューター処理で、何もかもできるのかも知れない。

 「や、わりゃお岩、さては血迷うたな」

 大ドロドロで、戸板がひっくり返される。
 このあと、「旦那さま、クスリ下せえ」。
 「伊右衛門」が、「またも、死霊の・・」

 ドロドロに重なって、昔ならシューッと白いけむりになる。掛け煙硝。

 私がひそかに願っていたこと。
 戸板返しの実際の動きを奈落から見たかった。できれば、一度でいいからこういう芝居を演出してみたかったから。

 私はたくさんのことを実現できずにくたばるだろう。残念だが仕方がない。

869

 スクールガール・クラッシュ。
 女の子が学校の先生に抱く愛情。映画女優が共演した相手に惹かれるときも、このことばが使われる。
  Was it true about ”Elizabeth’s school-girl crushes on her co-stars?”というふうに。

 エリザベス・テーラーが共演者にいつもお熱、といのはほんとうだろうか。
 「ジャイアンツ」を撮影中に、ロック・ハドソンと「親密」になって、たちまち噂になった。当時、エリザベスと結婚していたマイケル・ワイルディングは、ロケ地のテキサスに飛んだ。このとき同行したのは、ロック・ハドソンの婚約者、フィリス・ケーツだったとか。

 この映画に出たジェームズ・ディーンが、突然、亡くなる。リズはこの知らせに打ちのめされた。ジェームズ・ディーンの葬儀に、リズは蘭の花を送った。ただひとこと、「ラヴ・エターナル」ということばを添えて。

 モンゴメリ・クリフトが、自動車事故で重傷を追ったとき、リズは必死に車の残骸からクリフトのからだを引きずり出して、それから1時間、クリフトの頭を膝にのせて救急車を待っていた。

 やがて、エリザベスはマイケル・ワイルディングと離婚する。

 エリザベス・テーラーが「ジャイアンツ」を撮影中、マイケルはジョーン・コリンズと親しくなっていた。あるレストランで、リズと口論しているところが目撃されている。
 つづいて、マイケルはアニタ・エクバークと親しくなった。
 エリザベス・テーラーと破局が迫ってきた時期には、マルレーネ・デイートリヒ相手の浮気がとり沙汰された。さらに、スウェーデンで映画に共演したアン・シェリダンと、親密になる。

 この映画の題がいい。「失恋」だった。

 舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多くても、いっこうにかまわない、と私が考えるようになったとしても責められるべきだろうか。(笑)