908

 最近、中央線は事故で運転中止が多い。そこで、すかさず、

    中央線のトンネルは 水がわき

 ろくな連想ではない。私のどこかに、幕末から明治にかけて流行した芝居ばやしのリズムや、メロディーのかけらが残っているのかも知れない。えへへへ。

 千葉の方言に気に入ったものがある。
 いいご機嫌で人と別れる。このとき、「アントネェ」と声をかける。

 語源的には「安堵にね」ぐらいの意味だろう。

 かるく鼻にかかった声でいうと、まるでフランス語のように聞こえる。すこし、サビをきかせると、なにかスラヴふうに響く。(笑)
 千葉でももうほとんど使われていない。ぜひ、これを復活させよう。
 みなさん、「アントネェ」。

907

 いつ、どこで、どうして、こんな言葉をおぼえたのかわからない。

 原稿を書きあげると、「ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ」などとあらぬことばを口走り、三枚の短い原稿を書きあげると、ついうれしくなって、

    いんちょ にんちょ ちょちょんが 長三郎

 などとうかれる。

 マージャンであがったときは、ロンと声をかける。ところが、実際には、ドカン、どしん、デンなどと口走るやつがいる。「ほれ、デタデタ」などというのもある。
 リーチで、イッパーツ。エーイ、あがっちゃえ。

 あれとおなじで、まあ、私が、ろくなもの書きではないことがおわかりだろう。
 いつも鼻唄まじりで原稿を書き上げるわけではない。けっこう、あぶら汗をかいているので。だから、原稿を書きあげるとうれしくなる。書きあげた原稿をまるめて、鉦をたたくように、チーンチーン チンチンチン などと唱えたり、トントントン トントントン と、ずり足をしながら茶封筒に入れる。さっそく宛名書き。郵便局にもって行く。

    浅間山には けむりが絶えぬ おいらの胸には 苦が絶えぬ

 などとつぶやきながら原稿を発送してしまえば、あとは野となれ山となれ。(笑)

 「やれやれ、これでシューハミョー、おれの原稿、ポコミョーミョー」などと唱えて、さっそくなじみの酒場に直行したものだった。むろん、トラになるために。(笑)

906

赤塚 不二夫のマンガ、「おそ松くん」のキャラクターたち。
 「イヤミ」のシェーッ。レレレのおじさん。ドジョーウナギ。ハタぼう。
 赤塚 不二夫のキャラクターは、はやし言葉めいたフレーズを奇声とともに発するのだが、これがいい。

 私は、全国各地の民謡のはやしことばのかずかずに興味がある。
 たとえば・・・・

     ケンソン ケンソン ケンペロリン
     スイポウ チンカン チャチャラカペン

 浦賀の虎踊り。これに、「レゲール」といった踊りがつく。

     レゲール カンロンオース エンエン ブツブツ フルルレオース
     ウタント クワント シゼント メエレンニク テレキン
     ニンニョーニョー オケラケン

 虎踊りの「チャラチャラ」になると、奇妙キテレツ、まったくわからない。

     チャチャーラ チャチャーラ チンカラ ケンプリ オケケンケラケン
     ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ。
     バンニャ カクサン キンナイロー ペッペケ キンナイロー ジョユ
     シューハミョー オンチカロクシン キュー シンポコポコ ポコミョーミョー
 ナカナカサカリキ エスエーエ エース エススリャ オンリャコッチュー 
チーヤッチ オンリャコッチュー

 さながら呪文のつらなりだが、歌は和藤内の虎退治にまつわるもの、その背後になにやらエロティックな暗喩が隠されている・・・ように見える。

905

テレビで、ホラー映画「ハイド・アンド・シーク」(’05年)を見た。
 ダコタ・ファニングという子役女優を見たかったから。この女の子は、まさに「ハリウッド・ニンフェット」のひとり。
 彼女は、やがてハリウッドの「現在」を代表する女優になる可能性を秘めている。
 ただし、少女スターだったマーガレット・オブライエンのような例もあるので、私の期待だけに終わるかも知れない。もっと美少女だったリンダ・パールとか。「ダウンタウン物語」で、ジョデイ・フォスターと共演した美少女、フローリー・ダガーとか。

 この映画のイントロダクションで、ヒロインの母親が、浴槽で手首を切って自殺する。なんと、エミー・アーヴィングだった。おぼえている人がいるかどうか。「キャリー」の女子高生。「デランシー・ストリート 恋人たちの街角」で、とても善良な男、ピーター・リガートを愛してしまう女性。エミーが誰と結婚したか、ここには書かない。残念なことに、エミーはそれほどいい女優になれなかった。

 自分が「後期高齢者」(ルビ/くそGG)になっているのだから、かつてスクリーンではじめて見た女優が年齢を重ねても不思議ではない。それをわかっていながら、リンダ・パールは消えてしまったし、エミーがいい女優になれなかったことは残念な気がする。

904

 
 かつて名人と呼ばれた歌舞伎役者に、中村仲蔵がいる。
 はじめ、秀鶴といった頃は、芸も未熟で、俗にいうペイペイ役者だった。あるとき、並び大名で舞台に出たが、顔(メーク)は赤く隈どり、着ている衣裳は糊のきつい麻の素袍(すほう)。二日、三日と舞台をつとめれば、糊が落ちてシワが出る。
 クタクタになって見ぐるしいのに、役者たちは、楽屋に入っても、付き人に衣裳をまかせっきり。たたみもせずに、衣裳棚にあげておいて、翌日も、そのままおなじ衣裳で舞台をつとめる。だから、ひどく見ぐるしかった。
 秀鶴ひとりは、衣裳を人手にかけず、その衣裳を水のしする。(麻は汗を吸い込むので、脱いだあと水にさっとつける。そのうえでピンと渇かす。これを水熨斗という。)
 きれいにたたむ。毎日、こういうふうに丁寧に始末しておく。翌日、その衣裳を着て舞台に出て、列座の役者たちとならぶと、ひときわすぐれて、りっぱに見え、いかにも上手らしく見えたので、観客の注目を浴びた。
 そのため、劇場の経営者も眼をつけて、
 「あいつには一器量がある。つぎの狂言(レパートリー)には、これこれの役が似つかわしい。その役に抜擢してみよう」
 同輩の役者たちのなかから、秀鶴を起用すると、その役も相応につとめたので、次第しだいに、いい役をつとめるようになった。役者としての位もあがってくる。やがては名人といわれて、今にその名を残した。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 ということになる。
 (つづまやかという表現は美しいが、死語になっている。)

 仲蔵のアネクドートは、種彦の書いたものを私が忠実に訳したもの。

903

 
 柳亭 種彦(1783~1842)が亡くなったのは、天保13年7月18日。享年、60歳。水野越前の天保の改革で死ぬことになった作家である。

 辞世の句に、

    散るものに さだまる秋の柳かな

 おのれの死を見つめての作なので、軽々に批評すべきものではないが、

    源氏の人々のうせ給ひしも大方秋なり
    秋も秋 六十帖をなごりかな

 この句のほうがずっといい。種彦の内面がつたわってくる。

 種彦は「田舎源氏」が絶版を命じられた。いわゆる天保の改革で、この結果、作品は中絶し、作者は心痛のうちに死んだ。(ついでに書いておくが、私は歴代の江戸幕閣で水野越前守、その下僚どもをもっとも唾棄すべき連中と見ている。)

 種彦については、あまりよく知らない。小林 秀雄が一度だけ種彦の名をあげたことがあって、小林 秀雄がとりあげている以上、ぜひ種彦ぐらいは読んでおこうと思った。
 当然、『田舎源氏』は読んだほか、ほかには初期の怪談、『近世怪談霜夜星』とか『浅間嶽面影草紙』、『逢州執着譚』などを読んだ。出てくる登場人物がそろっていい加減で、出てきたと思うとあっという間に死んでしまったり、やたら偶然に出会ったりするのに辟易した。こういうご都合主義というか、偶然の頻発を見ると、江戸時代の作家が羨ましくなる。
 『浮世形六枚屏風』は、英訳があるそうな。英訳をさがす気もないので、種彦の原作を読んでみたが、主人公がイヌをめがけて石を投げたとき、うっかり懐中にした百両を投げてしまう。途方にくれて、死ぬ気になった男が、腹いせに犬張り子に八つ当たりをする。なんと、そのなかから百両の包みがころがり出して、めでたしめでたし。
 あまりのアホらしさにいささかあきれた。

 それでも、種彦の創作観を知って興味をもった。
 種彦は、名人といわれた俳優、中村仲蔵のエピソードにふれながら、
 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」という。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 これでわかるように、種彦の創作論は、平凡だが、かなりきびしいものだったといえるだろう。(仲蔵のエピソードは、あとで紹介する。)
 ずっと後年の紅葉あたりまで、種彦の創作論は継承される。

 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」

 たしかにそうだよ。谷崎 潤一郎、三島 由紀夫などの登場を見れば納得できる。
 おなじことはたぶんほかのジャンルでも共通で、翻訳でも、お笑いでも、芝居の役者でも、「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えないといけない。

 「画わりにも工夫を凝らすべきか」という意見は、アニメーション、マンガ作家にそのまま聞かせてやりたいね。
 これもついでに書いておくと、種彦のイラストは、はじめのうちこそ北斎、重政などだが、のちに圧倒的に国貞が多くなる。
 作家とイラストレーターの幸運なめぐりあい。

902

 
 「プレイボーイ」(’08・10月号)に、マリリン・モンローの記事と写真が掲載されている。有名なイラストレーター、アール・モランのモデルになったときの写真で、わずか2枚だが、久しぶりにマリリンに会えた。
 まだ、まるっきり無名のモデルとしての修行時代のマリリン。

 アール・モランの短い説明がついていた。

 無名のモデルだったマリリンは、はき古した靴をはいていた。あまりボロボロだったので、前にきたモデルの靴を与えたという。
 その後、マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」(ヌード・カレンダー)のスキャンダルをきっかけにスターへの階段をかけ登ってゆく。
 やがて、マリリンは「アスファルト・ジャングル」で使った衣裳を、アール・モランに贈ったという。

 おそらくほんとうのことだろう。いい話だ。ただ、ここには、おそらくアール・モランが気づいていないことがある。

 私は、このみじかい「説明」から、マリリンの人生に関して、いくつかのことを考え、かつ、(私にとって)興味深いことを想像する。
 当時、無名のモデルだったマリリンは、毎日、ボロボロにはき古した靴をはいていたこと。なにしろ貧乏だったから買えなかった。誰でもそう思うだろう。
 私はもう少し別のことを想像する。自分が日常はいている靴がボロボロになるまではき古しても、気がつかなかったか、気にとめなかったか。靴がボロボロになっても使えるあいだは平気ではいていた、というノンシャランな姿勢。

 若い女が、ボロボロになるまで靴をはき古しても、気がつかなかったとは考えられないだろう。しかし、当時、マリリンは、イタリアの名女優、エレオノーラ・デューゼの評伝を読んで感動していた。そのデューゼに私淑していたマリリンが、無名の頃の名女優・デューゼが、それこそ食うや食わずで切磋琢磨していたことに心を動かされていた、と見てもいい。
 私としては、当時のマリリンはもう少しあっけらかんとしていたかも知れないと思う。自分のはいている靴がボロボロになっても、そのうち誰かが買ってくれるだろう、ぐらいに考えていたとしても不思議ではない。マリリンには、そういういい加減さ、図太さ、わるくいえば自堕落なところがある。そこが、マリリンの可愛らしさでもあるのだが。

 「プレイボーイ」に出た写真のマリリンはわかわかしい。アンドレ・ド・ディーンズの写真よりはあと、トム・ケリーの写真よりは前。その1枚は、めずらしいスナップショット。マリリンが、ちょっと口を尖がらせている。こうした sulky な表情のマリリンはめずらしい。といっても、怒っているわけではない。もっと幼いシャーリー・テンプルが、よく見せる不機嫌な表情に近いもの。むろん、マリリンはハリウッド・ニンフェットではない。

 アール・モランが何も気づいていないこと。
 ――「アスファルト・ジャングル」の衣裳を、アール・モランに贈ったという一節に私は注目する。むろん、感謝の心をこめて贈ったはずだが、はたして、自分がスターレットとして「アスファルト・ジャングル」の大きな役をつかんだという報告のために贈ったのか。

 マリリンが恋人だったフレッド・カーガー、アーサー・ミラーの父親、イシドア・ミラー、あるいはイヴ・モンタンに贈ったものを思い出してみると、これはなかなかおもしろい。

901

 
 俳優、ルイ・ジュヴェは、何かむずかしい問題にぶつかると、さっそく誰かれなく、その問題について知っていそうな人のところにとんで行ってお伺いを立てる。
 むろん自分でも徹底的に考えるのだが、自分が到達したところと違う答えが聞けるかも知れない。ジュヴェはそう思うのだった。

 ある日、劇作家のトリスタン・ベルナールに会いに行った。ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい階段の上にあった。
 ふたりが何を語りあったのか。残念ながら、私は知らない。

 ベルナールは、フランスきっての喜劇作家なのである。ルイ・ジュヴェは、熱心なカトリックだった。

 帰り際に、ジュヴェは大真面目な顔で、ベルナールにいった。
 「先生、注意してくださいよ。この階段、二段ばかりカトリックじゃありませんよ」(つまり不信心でぐらぐらという意味だろう・中田注)

 「ああ。だけど、おれだって違うからね」

 後日、友人にこの話をしたジュヴェは、途中でたいへんなことに思い当たったように、気の毒なほどうろたえて、
 「ひょっとして、劇作家先生、気をわるくしたんじゃないだろうか」
 友人はにやりとして、
 「まさか! そんなことで気をわるくするトリスタンじゃないさ」
 「ああ、よかった! 安心したよ」

 いまにも泣きそうな顔で、胸をなでおろすジュヴェを見ると、つい、いってやりたくなるのだった。
 「まったく、ルイときたら・・つまらないことにこだわるからなあ」

 このエピソードを私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でつかわなかった。しかし、ジュヴェの「心配症」がよくわかる。
 名優なのに、人づきあいが下手で、不器用で、他人からひどく剛腹な人間にみられて、いつも無用の誤解をうけていた男のかなしさ、おかしさが、こんなエピソードからもよくわかる。

☆900☆

「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。
 「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」
 いかにもモームらしい辛辣な意見だが、私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。
 ジュヴェもまた傷ついたに違いない。だが、けっしてわるびれることなく生きた芸術家なのである。悪戦苦闘をつづけてきたジュヴェの生きかたをたどりながら、私の内面にジュヴェの姿が浮かびあがってきた。少し時間がかかりすぎたが、八年という歳月はさして長いものではない。書けないときは仕方がない。花をデッサンしたり水彩で描いたり写真を現像したりしながらジュヴェのことを考えつづけていた。

 この評伝を書きながら私がいつも思い出していたことばがある。
 「この世には、短時日では学べないことがいくつかある。それを身につけるには、私たちがもっている唯一のものである時間というツケをたっぷり支払わなければならない。ひどく単純なことだが、それを知るには一生かかってしまうので、一人ひとりが人生から手に入れるわずかばかりの知識はやたらに高いものにつく。それだけが、後世に残すただ一つの遺産なのだ」と。
 ヘミングウェイのことばである。

899

 地方の小都市の駅前に立ってみよう。荒涼とした風景がひろがっている。
 商店街は軒なみ昼間からシャッターを閉めて、まるで活気がない。まるで死んだような土地が多い。生活必需品はコンビニで買うにしても、その土地名産の和菓子などの店も元気がない。「美しい日本」などどこにもないし、「安全実現」もない。
 数年前までは、たとえば古本屋の一つふたつ、ほそぼそながら商売をしていたものだ。しかし、いまでは小都市にかぎらず、大都市の古本屋までが、量販専門の大型ブックショップに駆逐されてしまった。

 大多数の日本人は、古典はおろか、明治、大正、昭和前期の文学さえ読むことがなくなっている。直接には国語力のいちじるしい低下によるが、そうした教育を推進してきた教育の責任も大きい。
 むろん、文学作品などは読まなくても生きていける。
 日本赤軍のリーダーだった永田某という女性は、古典にかぎらず、およそ文学作品などは読まなかったという。あれほど陰惨な「総括」を行ったこの女性が、文学作品などは読まなくてもいいと思っていたことは間違いないが、革命家として、先天的に何かが欠落していたはずである。
 秋葉原で無差別殺人を起こした加藤某は、どんな文学作品を読んだのか。幼い少女をつぎつぎに殺した宮崎某は何を読んだのか。ぜひ知っておきたい。

 こういう荒廃は直接には誰に責任があるのか。

 免疫学者の多田 富雄先生は、その原因の一つに、経済効率を優先して、地方文化を無視した行政改革で強行された、無秩序な市町村合併をあげている。

    古い伝統ある地名が、惜しげもなく捨てられ、ききなれない珍奇な名前に変わった。地方文化は破壊され、愛郷心は失われ、住民のアイデンティティーはなくなった。それは故郷を奪い、国を愛する心を失わせる行為であった。

 その無秩序な市町村合併を推進したのは、小泉内閣だった。そして、大型店舗の地方進出をバックアップしたのは、中曾根内閣だった。
 小泉 純一郎、中曾根 康弘の名を忘れないようにしよう。

898

 
 福田首相が突然辞任して(’08.9.1)、麻生新内閣が発足した。いずれ総選挙ということになって、蝸牛角上の争いがつづいている。

 私の「文学講座」は、いよいよ戦後にさしかかってきた。私流の「文学史の書き換え」なのである。
 この夏、ろくに本も読めなかったので、少しづつ本を読みはじめている。

 話は違うが・・・私などにも、いろいろなひとが著書を送ってくださる。ありがたく頂戴して読みはじめる。同人雑誌で、すでに作品を発表している女性作家のものは、なまじ文学的なグループに参加しているだけに、いかにも書き慣れた作品が多い。そして、主宰の著書は読んでいても、古典も、外国の作家もほとんど読んだことがない(と、判断する)。
 ほとんどの作品は、自分の書きたいことをまとめただけで、ものを書くという緊張はない。だから、せっかく頂戴しても大概の作品に感心しない。

 著者にはかならずお礼のハガキを書く。
 そういう作品を読むことで、じつにいろいろな問題を考えることができるから。
 チャットやネットで、しごく簡単におなじ趣味をもつ仲間を探すことができる時代に、顔も見たことのない私に、わざわざ本を贈ってくださるのだから、お礼を申し上げなければ罰があたる。

 いま、たまたまこんな文章を読んでいる。

    秋のけはひの立つままに土御門殿の有様、いはんかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの叢、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艶なるに、もてはやされて、不断の御読経の聲々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 ある作家の日記のオープニングだが、わずか数行ながら、秋の季節の訪れを感じている作者の内面の動きがみごとにとらえられている。
 そして、何をおいてもまず緊張がある。

 私は考える。作品を書くということは、こういう文章に、せめてひとすじ、どこかでつながることではないだろうか。

897

 私の好きな俳句。

    初恋や 灯籠によする顔と顔    太祇

 この「灯籠」(とうろう)は、もともと常夜灯の謂(いい)だが、7月朔日から晦日ごろまで、盂蘭盆にどこの家でも新仏(しんぼとけ)のために飾られる。ペール・ブルー、ないしはエメラルド・グリーンを基本にした美しい飾り灯籠。(とうろ)と呼んでもいいらしい。私は、わざと(ひかご)と呼んだりする。
 この灯(ほ)かげに、顔と顔を寄せあって恋をささやいている。
 あるいは、何も語らずに、お互いに眼と眼を見つめあっているのか。

 初恋だから、エメラルド・グリーンの灯(ほ)かげがいい。

 炭 太祇、江戸中期の俳人。島原の妓楼の宗匠だったせいか、あまり人気がない。蕪村とはとうてい比較にならないマイナー・ポエットと見られている。

 蕪村の

    水鳥や 提灯遠き西の京 

 に対して、太祇の

    耕すや むかし右京の土の艶 

 を並べても、さして遜色はない。

    ふりむけば 灯とぼす関や 夕霞

 これは旅の一句。
これもいいけれど、「初恋や」のほうがいい。私としては、この人の俳句に好きなものが多い。

 ところで、「広辞苑」で、太祇(たいぎ)を引いたところ、

太祇(たいぎ) 炭 太祇。

 とあった。これだけである。「たん・たいぎ」の記述はない。
 「広辞苑」でさえこうなのだから、太祇はもはや忘れられた俳人と見ていい。しかし、「広辞苑」に記述がなくとも、太祇のすぐれた俳句は心に残る。

896

 大植 英次という指揮者のことば。

    指揮者は作品を通じて、モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日付きあえる。こんな幸せな職業がほかにあるとでしょうか。

 いいことばだと思う。

 私は批評家として、じつにいろいろな作家を読んできた。むろん、私といえども、作品を通じて、ドストエフスキーやヘンリー・ミラーのような天才と毎日つきあってきた。しかし、私は天才ばかりとつきあってきたわけではない。
 その意味で、批評家なんてちっとも幸せな職業ではない。

 いろいろな作家を読んできたことは、それだけいろいろな運命を見つめてきたことでもある。
 モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえても、かならずしも幸運ではない。私は、もっとずっと平凡な才能たち、あるいは、もっとずっと俗悪な連中ともつきあってきたし、うんざりするほど才能のない連中も見てきた。

 それでいい。そのことに悔いはない。

 私の内面にどっかり腰をおろしている、ひたすらなる混沌は、才能もないのに文学の世界に飛び込んだせいだろう。しかも私は、そのことをいささかも後悔していない。モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえなくても、それはそれでいいのだ。

895

(つづき)
 国運をかけた戦争をしている最中に、こんなことがあっていいのか。眼がくらむような気がした。
 そういう考えのうしろには、私がまだまったく知らない女たちのなまぐさい生理の匂いをかぎあてたからではなかったか。若い娘たちは、戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸になって、自分の性器に男のペニスをうけいれたがっている。

 私は、そういう娘たちが灰田 勝彦に抱かれるところを想像した。少しも実感はなかった。中学生が、かりにそういう娘たちを相手にして何かが起こることを期待していたとは思わない。しかし、自分の知らない世界が、いきなり眼の前につきつけられたことにひどく狼狽したのだった。

 四谷は意外に起伏が多く、暑い日ざかりに自転車で郵便物を配達するのは、中学生にはきつかった。四谷見附から大木戸にかけての新宿通りはゆるやかな鞍部になっているが、北の荒木町、舟町、愛住町といった地域は、靖国通りに向かっての下り坂。
 東南は赤坂に向かっての谷。
 外苑からあがってくるのは、安珍坂。
 四谷の名前にふさわしい風景がひろがる。

 私は、四谷の町が好きになっていた。後年、『異聞霧隠才蔵』という時代ものを書いたとき、四谷の左門町あたりを思いうかべて書いた。
 左門町から信濃町に向かって行くと、お岩稲荷がある。後年、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を読みふけったのも、この頃、四谷を歩きまわったせいだろうと思う。

 それはそれとして・・・若い娘たちが、逢ったこともない男に裸身をさらして悔いない、と知ったときの驚きは、私の心のなかで、別のかたちで発展して行った。

 この驚きは、いまの私のエロティシズムの研究までつづいている。

 いまの私は・・・戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸身を投げ出そうとまで思いつめていた娘たちに感嘆する。むろん、論理的にうまく説明はできないのだが。
 彼女たちは戦争についても、自分のセックスについても、まったく言挙げしなかったが、逢ったこともない男に裸身をさらしてでも女としてのスポンタネ(生得的)な権利を主張していたような気がする。それを非難する権利は男にはない。

894

 ある年の夏の日ざかり、中学生の私は、毎日、四谷区内を自転車で走りまわっていた。
 勤労動員で、四谷の郵便局に配属された。全学年のうち、三年生が都内各地の郵便局にそれぞれ配属されて、私のクラスは、四谷の郵便局を担当したのだった。
 私たちの作業は、その日に投函されたハガキを集めて、機械で消印を押す。封書は、台の上に並べて、片手で木槌のようなスタンプを打つ。簡単な作業で職員が手本をやってみせたが、中学生には半分の能率もスピードも出せなかった。

 郵便物をあつかっていると、社会のさまざまな動きが眼に見えるようだったし、戦争についても、意外な事実が分かるのだった。私たちには、その存在さえ秘密にされていた戦艦「大和」の乗組員にあてた手紙があったり、中国大陸からの軍事郵便があったりして、漠然と戦況が想像できるのだった。

 その郵便物を都区内、全国各県別にわける。当然、全国からも四谷あての郵便物が殺到してくる。四谷区内あての郵便物は、それぞれの町名でわけられて、50名ばかりの中学生が、赤い自転車に乗って配達する。
 いまでいうArbeitだが、この配達は楽しいものだった。

 新宿が管轄区域だった。

 当時、歌手、映画スターとして、たいへんに人気の逢った灰田 勝彦が、新宿第一劇場に出ていた。
 毎日、ファンレターが殺到してくる。午前の最初の集配で、ビリヤード台ほどの大きな台にうず高いファンレターの山ができる。
 これを、仕分けるのも私たちの仕事で、新宿の劇場に届けるのは、局員の仕事だった。クラスのなかに不良少年がいて、そのファンレターを何通ももち出して、昼休みになると、仲間どうしで開封した。
 私は外まわりの配達ばかりやらされていたので、その手紙を盗み読む機会はほとんどなかったが、不良どもが読みふけっているところに戻ってきて、肩ごしに何通か読んだ。

 若い娘たちが書いた手紙というだけでも好奇心をそそるにじゅうぶんだったが、その手紙を読んで、ファンの心理を知った、というより、いきなり若い娘の生理を眼の前につきつけられたような気がした。
 大部分は、純真なファンらしい手紙だったが、いい匂いのするレターペーパーに、口紅のキスマークをつけたものなどがあった。
 そのなかに、やはり口紅で花か何かのプリントを押しつけたものがあった。しばらく見ているうちに、私はやっと理解したのだった。あえていえば、その美しさに茫然としたといってよい。
 そのなかに、中学生の私の内面を震撼させた内容のものもあった。それは、灰田 勝彦に面会をもとめたり、処女をささげたい、といった露骨なもので、悪童たちを驚かせた。
 娘たちは、こんなことばかり考えているのだろうか。
 私はひどいショックをうけた。
     (つづく)

893

 
 (つづき)
 昭和二十年十一月二十九日という日付から、私の内面にさまざまなイメージがかけめぐった。
 戦火に焼けただれた街にアメリカ兵が颯爽とジープを走らせている。戦争が終わったばかりの都会には、おびただしい数の浮浪者があふれていた。いまでいうホームレス。そして、浮浪児たちの群れも。
 若いGI(兵士)をめあてにあらわれるパンパンと呼ばれる街娼たち。女たちはGI(兵士)をホテルなどにつれ込まない。路上に駐車しているジープ、夕暮れのビルの屋上、焼け残った公衆便所、皇居のお堀端の土手、地下鉄の階段、防空壕の盛り土、女たちのベッドはいたるところにあった。
 夜更け、焼けビルにつれ込まれて強姦される女たちの悲鳴。
 こうした混乱と頽廃が、あわれな敗戦国の現実だった。

 山口 茂吉は、敗戦直後の日々に、この歌集『あづま路』の選を続けていたはずである。だが、この歌集には戦時中の生活の苦しみ、あるいは、敗戦という衝撃はまったくうかがうことはできない。しかも、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)にかけての作歌だけを選んでいる。つまり意識的に戦争を排除したと見ていい。ここには再出発にあたって敗戦直後の日々を生きていた歌人の、静謐な心境などはない。むしろ、いいがたい動揺を私は見る。
 山口 茂吉の「あとがき」は、戦争が悲惨なかたちで終わったことに関してまったく言及がない。だから、自選歌集『あづま路』には、そもそも戦争の翳りなどさしていない。このことに歌人の動揺を私は見る。
 昭和二十年十一月二十九日夜半。すでに、連合軍の占領がはじまっている。時代の激変のなかで、歌集の歌を選ぶにあたって「みづからの心に期するところがあって、これを一気に選び了へることができた」という。
 日本の将来さえ見えていない時期に、山口 茂吉がのうのうとして歌集を編んだわけではないだろう。だが、「みづからの心に期するところがあって」という感懐には何があったのか。
 「戦後」の斉藤 茂吉のはげしい懊悩を、山口 茂吉はどこまで気がついて、理解していたのか。

 いま、歌集『あづま路』(1946年)を手にして、敗戦直後の歌人が語らなかった、あるいは語ることのできなかった痛みを思い描く。

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 暇なので、歌集をひもとく。川柳ばかり読んでいるわけではない。

 歌集『あづま路』(1946年)を手にとってみよう。

 山口 茂吉(1902~1958)は、「アララギ」系の歌人。生涯をつうじて、斉藤 茂吉に師事した。この『あづま路』は、戦後最初の自選歌集。

    六層の階下るとき正午(ひる)を告ぐるサイレンの音しばらく鳴りぬ

    陸橋の下の舖道に冬の日のふかく差せるを見つつ通りぬ

    新しき年の来むかふ夜のほどろ眼を病みたまふ母しおもはゆ

    銀座にてきぞの夜逢へるをとめごは貞操のことなどを語りつ

 「冬の日」から。暑いので、わざと冬の歌を選んだ。
 山口 茂吉は斉藤 茂吉のお供で石見に旅行したとき(斉藤)茂吉が病気になったらしい。

    石見のくに行きつつ君は旅ぐせの下痢に一夜をなやみ給ひし

    夜中すぎ下痢をもよほし起きたまふ君がけはひに覚めてかなしむ

    旅にいでて下痢をすること癖のごとくなりつつやうやく君老いたまふ

 斉藤 茂吉に対する深い敬愛がうかがえる。
 しかし、旅先で下痢をしたことまで詠まれては、先生としてはツラいだろうなあ。私は、高村 光太郎を思いうかべた。
 おなじように東北の厳しい風土に隠遁しながら、斉藤 茂吉における山口 茂吉のような弟子をもたなかった高村 光太郎のいたましさを。

 ところで・・・この自選歌集『あづま路』は、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)の作歌、518首を選んだもの。作者、二十五歳から三十四歳の時期。
 「あとがき」に山口 茂吉は書きつけている。

    時雨のあめの降りそそぐ寒い庭に対つてこの集の歌を選びながら、幾たびとなく斉藤茂吉先生の居られない東路の寂しさをおもはぬ訳には行かなかつた。私はみちのくへ疎開して居られる先生の上をはるから偲びつつ先生の御幸福を切に祈つてやまないものである。昭和二十年十一月二十九日夜半、東京麻布にて、山口 茂吉しるす。

 この一節に、私の胸に複雑な思いがあった。昭和二十年十一月。
 日本が敗戦の苦痛と、再建へのわずかな希望にのたうちまわっていた時期である。
                            (つづく)

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夏の菓子はくず饅頭、水牡丹、水仙ちまき、芋羊羹、葛やき等々、すべてくず製のものを最上とする、という。万葉学者の沢瀉 久孝博士が書いていた。(「菓子三昧」昭和26年)
 沢瀉先生は和菓子がお好きだったらしく、「菓子放談」(「菓子三昧」昭和26年)の一節に、

    夏は夏らしく、冬は冬らしく、名を聞いてゆかしく、見た目に美しく、指につまんでやはらかく、ほのぼのとうるほひがあり、唇ざわり、舌ざはりなめらかに、歯にくっつかず、とろとろと溶けて、あはあはと消え行くものが私には最も好ましい菓子だと思ふ。

 と書いている。
 沢瀉先生にしてみれば、ぜんざいは困る。つぶあんはお気に召さない。「あはあはと消えて行かない」から。
 菓子は調進して三時間ばかりたったときが食べ時だという。

    わらび餅が翌日になると、その手ざわりに弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになり、唇に纏はりつくやうな、ぴりぴりとはずむ力がなくなって、わらび餅の魅力は消える、とかつても書いた事があるが、それ程でなくともすべて生菓子の宵越しを意としないのは菓子ごのみの人のわざとは申し難い。世は定めなきこそいみじけれ。缶詰にならぬところに和菓子の良さがある。(「関西大学学報/昭和26年)

 日ましのわらび餅が、手ざわりの弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになるという表現に、思わずにんまり。

 戦後、来日した詩人のエドマンド・ブランデンが、漢字制限と「かなづかひ」の混乱を見て、「美しいものがなくなってゆくのは見ていてイヤなものです」と嘆いたという。沢瀉先生はこれにふれながら、

    かういふ低俗蕪雑な世の中に、くぬぎの薪でたいた餡でつくった蒸菓子などをすすめるのはむだなことで、和菓子の色付にはならぬ毒々しい口紅をつけた女と缶詰でも開いてダンスでもおどって、空缶は道ばたへ捨てておいたらよいのかと思ふけれども・・。

 私は、夏の和菓子では葛まんじゅうが好きなので、沢瀉先生のエッセイを読んでうれしくなった。そして、考えた。沢瀉先生が、いまの和菓子を召し上がったらいかが思し召されるだろうか、と。

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 この夏、テレビで北京オリンピックを見た以外は、英語の小説はたった1冊しか読まなかった。(むろん、未訳)。夏の一夜、暑気払いに、したしい友人たちと集まって、ビールを飲んだのも1回だけ。
 とにかく暑いので、せいぜい歌集、句集をひもとく程度。

    庭のままゆるゆるおふる夏草を分けてばかりに来む人もがな

 「庭のまま」は、庭のかたちのままに、という意味らしい。築山とか池とか、いろいろなきまりにしたがって作られた庭なのだろう。その庭が、いまは夏草がゆっくり、だがしどけなく伸びてきている。そのしげみを踏みわけて、私をおとずれる人はいないのだろうか。
 作者の和泉式部と、敦道親王の恋を重ねてみれば、夏の季節に、「ゆるゆるおふる」状態で萌える、女人のエロティックな内面、女人の生理までいきいきと感じられる。

    山をいでて暗き道にをたづね来し 今ひとたびの逢ふことにより

 この歌は、和泉式部にしては傑作ではないらしいが、私にはこの女性のやさしさ、おののき、よろこびが感じられる。と同時に、自分が歩いてきた山々の印象を勝手に重ねて、好きな歌のひとつにきめている。
 この一首、なぜか「暗き道にを」の助詞が異様に思われる。
 彼女の日記では、

    山を出でて暗き道にぞたどり来し今ひとたびの逢ふ事により

 となっている。「暗き道にぞ」という強調。「たづね来し」が「たどり来し」になっている。そして「今ひとたびの逢ふこと」と「今ひとたび」愛する人と「逢ふ事」のはげしい違い。

 私としては、「こんなに暑いと山へ行き度くなる」という思いがあって、前の歌のほうがいい。むろん、勝手な思い込みで読んで、勝手なことを連想しているにすぎない。
 山を下りて、長いルートをたどって夜になってしまった。東京に帰る夜行列車にぎりぎり間に合うかどうか。もし、遅れた場合は、駅の近くのとどかで一泊しなければならない。それでも、またいつかこの山に登れればと思いながら、疲れた足どりで暗い道を急いでいる。そんな自分の姿を重ねている。

 ごめんなさい、和泉式部さま。

889

 
 いやぁ、まだ暑いね。まいりましたな。
 「猿蓑」の附合(つけあい)に、「暑し暑しと門々の聲」というのがあるが・・・今年の7月は猛暑がつづいた。
 京都などでは、31日間、連続で「真夏日」。これは、1994年以来という。
 千葉だって、「真夏日」は23日間もつづいている。こうなると、「暑し暑しと悶々の聲」だよ。

   「暑い! いつもガンガン照りつけるならばまだ辛抱も出来る物の、どんよりとして何だか圧しつけられる様に、どうしても癪に触る暑さである。いつその事あばれてしまへと云ふ、やけくそで、コートヘと飛出してラケットで当り散らかせば、二セット目には、あれあれ! シャツからズボンまで、づつくりと水の中から出て来た様で、眼と云はず鼻と云はず滝流しである。一風呂浴びて、少しは風でも出たかと思へば、是は又どうした事かそよとも云はない。晩飯の膳に向かっても、あれほど運動したのに扨て食ってみたい物は冷(ひや)ぞうめん位な物である。
   こんなに暑いと山へ行き度くなる。」

 辻 二郎の『西洋拝見』(岩波書店刊/昭和11年)から。どうやら1936年(昭和11年)の夏も暑かったのだろう。
 辻先生は、寺田 寅彦に似て、科学者、随筆家。科学者として、当時最高の名誉だった恩賜賞を得た。随筆はおもに登山の思い出、アマチュア写真家としての観察など。
 この『西洋拝見』は、小説仕立てのヨーロッパ渡航の記録。
 残念ながら小説としてはおもしろくない。この本の後半(つまり、小説以外)は昭和9年までに書かれたエッセイ。私が引用したのは、「山とりどり」という随筆の一節。

    こんなに暑いと山へ行き度くなる。

 ほんとうにそんな気がしてくる。

 昭和初期、辻先生は、松本や大町まで、むし殺されるような夜行列車に乗って、アルプスに向かう。

    ・・重いリュックサックに登山靴を引きづりながら、歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処ばかりだと思ふと一寸うんざりする。其歩くのが又楽しみでもある訳だが、いつも帰ってくると、愉快な事ばかり覚へて居てつらかった事は忘れてしまふ様な物の、実は山登りは、なかなかもってえらい労働である。座ったまんま槍ケ岳の肩位まで行ける様になったらさぞ便利だらうと思ふ。そんな事を云ふと、山の冒涜だ等と云っていきり立つ手合もあるかも知れないが、十年後か廿年後か早晩さうなるにきまってゐる。又早くそうした方がいい。ほんとに歩きたい人間は其から先を歩けばよい訳である。

 現在では、昭和初年の辻先生の予想はほとんど実現している。「むし殺されるような夜行列車」どころか、冷房のきいたコンパートメントで、千葉から松本まで直行の特急が走っている。たいへんに便利になった。登山技術も、装備も、昭和初期とは比較にならないほど高度で、洗練されたものになっている。

 2008年7月、東京都は、近郊の低い山のハイキングコースの案内板に、番号つきの識別標をつけている。遭難者が出た場合、その識別標の管理番号を連絡すれば、ただちに所轄の消防署のヘリが出動して、遭難者の救助にあたるシステムらしい。

 登山者がしっかりしていれば遭難するはずもない山々に、番号つきの識別標をつけるなど、地方の僻地の医療に財政支援を行うこととは、まるで次元の違うことだと思う。
 厳冬の北アルプスならいざ知らず、奥多摩、奥秩父あたりで、識別標の管理番号を連絡すればすぐにヘリが出動する体制をとるなど、どうも感心しない。
 東京近郊の山々だから、こういうシステムが考案され、実施、運営されるのだろうが、むしろハイキングする人たちに、奥多摩だって「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」というふうに、考えさせるほうがいい。

 だが、昨年(2007年)だけで、1808人も山で遭難し、200名以上が死亡しているような事態など、辻先生も予想なさらなかったに違いない。
 「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」がどこにもなくなってしまった不幸までは辻先生も予想しなかったはずである。