928

 
 「後期高齢者」ということばに、私は心のなかで「くそGG」とルビをふる。最近は、「特定高齢者」ということばもあるらしい。
 役所がアンケート用紙を送りつけてくる。いろいろな質問が並んでいるのだが、たとえば「バスや電車で一人で外出していますか」というのが最初の質問。(どうも、日本語として語感がよくないね。)
 「階段を手すりや壁をつたわらずに昇っていますか」とか、「半年前に比べて固いものが食べにくくなりましたか」などという質問がつづく。(ご親切はありがてえが、薄ッ気味がわるいぜ、まったく。)
 こうした質問に答えて、返送すると、しばらくして「お役所」から判定のプリントが届けられる。基本的なチェックを判定した結果、あなたは介護予防をはじめる必要のある「特定高齢者」ということになりました、というプリントだそうな。
 私は、この「特定高齢者」ということばに、「くたばれGG」とルビをふることにしよう。

927

 
 好きな女優はたくさんいる。
 たとえば、(昭和)60年代の「キャッツ」に出ていた保坂 知寿。最近、ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」に出ていた柚希 礼音。
 舞台やスクリーンを見ていてゾクゾクするほどエロティツクな女優は多くない。私の場合、たとえば、カティー・ロジェ。
 誰も知らない、誰の記憶にもないような女優さんだが。
 アラン・ドロンが、冷酷(というより非情で、どんな事態にも冷静)な殺し屋になっていた、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の「サムライ」(1968年)という映画。
 ストーリーはじつにシンプルで、殺し屋がナイトクラブの経営者を殺す。たまたま、黒人女性のピアニストに目撃されてしまう。ただちに非常線が張られて、殺し屋も検挙されるが、彼は巧妙にアリバイを用意していた・・
 殺し屋は釈放されるが、警察は有力な容疑者と見て、盗聴、盗撮で、ひそかに彼の行動を監視する。一方、殺し屋は、黒人ピアニストに証言させないために、ふたたびナイトクラブに潜入しようとする。こうして、パリの地下鉄を舞台に、動き出した殺し屋を警察が全力をあげて追跡する。・・

 映画監督は、アメリカの作家、ハーマン・メルヴィルを尊敬して、ジャン・ピエール・メルヴィルと名乗った。戦時中、抵抗運動に参加したこともあって、映画監督としての処女作、ヴェルコールの『海の沈黙』(1948年)の映画化で知られている。私たちはコクトオの「オルフェ」に出たジャン・ピエールを見ている。その後、「ギャング」(66年)、「サムライ」(67年)、「影の軍隊」(69年)、「仁義」(1970年)といったフィルム・ノワールで自分の世界を築いた。
 私は戦後のフランス映画では、ジョルジュ=クルーゾォ、ロベール・ブレッソンなどよりも、ジャン・ピエール・メルヴィルのほうが好きだったし、ヌーヴェル・ヴァーグの映画よりも、当時、まったく評判にならなかったマルセル・アヌーンの「第八の日」のような映画のほうがずっとすぐれている、と見た。
 現在でも、クェンティン・タランティーノや、徐克(ツイ・ハーク)の映画のほうが、ゴダール、ルイ・マルよりもよほど高級な映画作家だと思う。
 ようするに、ものの見方のひねくれた映画批評家だったが、女優の好みも大方のファンとはまるで違っているかも知れない。

 カティー・ロジェは、当時のフランス映画ではまだめずらしかった黒人女優だった。そして、私の知るかぎりでは、「サムライ」(67年)に出ただけの女優だった。
 はるか後年、ハリウッドでも、ジェニファー・ビールス、アイリーン・キャラ、(まるっきり美少女どころではないが)ウーピー・ゴールドバーグ、(こちらは美少女だが)ハル・ベリーなど魅力的な黒人女優がぞくぞくと登場する。
 その私にとってカティーは、もっとも魅力的な黒人フランスの女優なのだった。

926

 
 宝塚星組公演、ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」は終っている。だから、これは劇評ではないし、ただのひとりごと。気楽に書いている。

 「スカーレット・ピンパーネル」の原作は、いうまでもなくオルツィ(オークシイ)男爵夫人。ミュージカルの脚色、作詞はナン・ナイトン、音楽はフランク・ワイルドホーン。
 星組のメイン・キャストは、「パーシイ」が安蘭 けい、「マルグリート」が遠野 あすか、「ショーヴラン」が柚希 礼音。
 ずいぶん昔の事だが、私の訳した『紅はこべ』を脚色して、宝塚が上演したことがある。これは見なかった。理由がある。宝塚側は上演料も何も、まったくの頬かむりで押し通した。芝居の世界ではよくあることなので私は何もいわなかったが、このことがあってから、ずっと「国際劇場」を贔屓にしたのだった。

 今回の星組の公演は、私にとってはじつに久しぶりだったし、ミュージカルということもあって興味をもった。昭和元禄時代といわれた60年代、「コーラスライン」、「ガイズ、アンド・ドールズ」、「ラブコール」、「チタ・リベラショー」など、日比谷、銀座界隈にかかったミュージカルをのきなみ見て歩いた頃から、ミュージカルのアフィシオナードを気どっていたほどである。
 当時、ご贔屓は保坂 知寿。「キャッツ」に出ていた。「コーラスライン」では「ヴァル」をやっていたっけ。小柄で可愛い女の子だったが、キュンとひきしまったからだから勁いエネルギーが発散されて、「チズちゃん」が踊りだすだけで舞台の色彩が一変するようだった。私は小柄で可愛い女の子が好きなのである。
 そういえば、その後の「チズちゃん」はどうなったのだろう?
 「レ・ミゼラブル」も、「ミス・サイゴン」も、「オペラ座の怪人」もまだ、ミュージカルの地平に姿を見せていなかった時代だった。

 ところで、今回の「スカーレット・ピンパーネル」は、ミュージカルとしては涼風 真世の出た新作「マリー・アントワネット」よりもできがいい。ストーリーの展開が、もともと通俗的なサスペンス・スリラーのせいもあるだろう。主人公(「パーシイ」)は、安蘭 けい。美貌といい、ジェストといい、まったくあぶなげのない大スター。
 ただし、この女優さんは、あれほど大きな器量をもっているのだから、エロキューションに気をくばる必要がある。おそらく、あまりに大きな存在なので、演出家も何もいわないのだろう。ほんのわずか修正するだけで完璧に近づく。
 遠野 あすかの「マルグリート」も、魅力のある女優。オペラでいえば、佐藤 しのぶに近い。
 私としては、柚希 礼音の「ショーヴラン」が気に入った。星組でももっとも将来性のある女優のひとり。原作の「ショーヴラン」は、もっと老獪で、もっといやらしい人物だが、このミュージカルの「ショーヴラン」は、かつて「マルグリート」とともに革命に参加したという設定なので、まさに宝塚的なメナージュ・ア・トロワになる。ということは、安蘭 けいに対抗できるだけのポジションになるわけで、柚希 礼音が、それだけの重みをもち得たということになる。
 私は柚希 礼音のいくつかの特質に注目している。たとえば、エロティシズム。まだ、それについて書くことはないが、またいつか、この女優さんの舞台を見たいと思う。
 星組全体としていいところは、ガヤのひとりひとり、いつも(演技的に)なんらかの工夫をしていること。そういう工夫が舞台に張りをもたらすものだ。バックのひとりひとりの動き、踊り、ミミックリーまで。

925

 ジャンセンの描く少女たちは、特別な女性である。ひたすら清らかで、イノセントで、ふれれば、いまにもこわれてしまいそうな、ガラスのように脆い。
 その気になれば、彼女をとらえて、犯すことさえ許されそうな気がする。
 しかし、そんな想念はすぐに消えて、彼女を世にも貴重なたからもののように守ろうとする。

 ジャンセンの描く少女は、カッセニュール、テレスコヴィッチ、さらには、ジャック・ボワイエたちと共通している。美少女たちだが、どこかネフロティック(神経症的)なものを感じさせる。

 まだ幼いわき腹のくびれから、腰のふくらみまで、しっとりと弾むような手応えもふっくりしているだろう。
 なにもかも自分の意のままになる、素直で、ただパッシヴな存在であるジャンセンの少女に手をさしのべたくなる。
 ジャンセンの描く、輪郭線のせいだろうか。そのドローイングは、けっしていっきには描かれない。正確な線なのだが、少女の内面のゆらぎのように、少しの距離で立ちどまり、おののき、また気をとり直すように走り出す。たちまちこの少女の運命そのもののようにその線の流れが、少女の姿をとらえる。それは、少女が、自分では少しもかかわりのない、深い孤独のように。少女はそれを少しも理解していないか、気がつかないのかも知れない。

 ジャンセンの描く少女と、ルノワールの描く少女とは、まるで別の世界に生きているようだ。ルノワールの少女は、いずれ、成熟した女性になる。私たちは、たとえかすかにせよ、それを予感する。しかし、ジャンセンの少女たちにおいて、時間は、あくまで静止していよう。そこに見られるのは、少女の肉体という時間なのだ。それは、けっして動かない。彼女はまだ男を知らない。とすれば、過ぎ去った歳月が、この繊細なからだにどんな跡を残してきたというのか。

 私は、けっして届かない虚空にむかってまなざしを向けている。

   「バレリーナを描く ジャンセン展」
     ギャレリー「ためなが」(’08.9.16.~ 10.11)

924

 ある芸人(アーティスト)のエピソード。

 1920年代の終わり。(調べればすぐにわかるはずだが、そんな気もない。) 見るからに田舎者らしい若者が、何かを大事にかえてブロードウェイをうろつきまわっていた。音楽専門の出版社を探していたのである。
 そうした出版社の一つ、「ジャック・ミルズ」を探しあてた彼は、主人に会いたいと店員に告げた。
 こうした出版社がどういうものか、「アメリカ交響楽」、「ブロードウェイのダニー・ローズ」、「レイ・チャールズ」などの映画を見れば見当がつく。

 ミルズは心おきなく若者を迎え、さっそくピアノの前にすわらせて、彼が大切にもってきた曲を弾かせた。
 それまで聞いたことのないメロディーとリズムのテューンだったが、ミルズは気に入って、その場で楽譜の出版をきめた。

 当時はいわゆるジャズ・エイジで、チャールストンが流行していた時代。この新作の楽譜はまったく世間の関心を惹かなかった。結果として、その後、4年間、倉庫に眠ったままだった。

 若者は安酒場のピアノ弾きで、その日暮らしの生活を続けていたが、4年たって、もう一度、「ジャック・ミルズ」に行ってみた。こんどは、その店のポップス・マネジャー、ジミーが楽譜を見た。
 ジミーは、この曲のホット・ジャズ的なトーンに感心せず、メロディーはそのままで、ムーディーな、哀愁を帯びたものに直した。このピアノを聞いた若者は、カンカンになって怒った。二度と、この楽譜出版社に足をはこぶ気はない、と決心して店を出て行った。
 しばらくして、ジミーはこの曲をラジオで放送した。これがきっかけで、この曲は大ヒットして、「ジャック・ミルズ」の楽譜の売り上げでトップになった。たいへんな評判になった。

 その後、ジミーは映画にも出演して、そのなかでこの曲を何度も弾いている。
 顔のまんなかに大きな鼻がついているので「シュノッズル」というあだ名で呼ばれた。 ジミー・「シュノッズル」・デューランティ。私が見た映画のジミーは、初老にさしかかっていて、半白の髪はまる刈り、ひどいガラガラ声で歌う。洒脱な人柄は、いかにもニューヨークの裏町育ち。まるっきり品がないが、芸人としては一流だった。
 曲は「スター・ダスト」。作曲は、ホーギー・カーマイクル。

 有名なエピソードらしく、戦後まもない1950年代に何かで読んだ。背景は大不況。「ワンス・アポンナタイム・イン・アメリカ」。いかにもアメリカ人がよろこびそうなサクセス・ストーリー。アメリカ人の「機会」と「夢」、そして思いがけない「成功」がやってくる。
 こんなエピソードをもとにして短編がいくつも書けそうな気がする。たとえば、ディモン・ラニョンふうに。

 古いね。(笑)

923

 
 たくさんの美女が私の内面に棲んでいる。誰も知らない美女たちが。

 夢のヒロイン。詩のなかの女性。たとえば、ホラティウスによってうたわれ、はるかに時をへだてて、アーネスト・ダウスンが愛した「まぼろしの恋人」。
 シナラ。

 さらに、トーキー映画草創期を飾るキング・ヴィダーの「シナラ」。

 中年の弁護士夫妻(ロナルド・コールマン/ケイ・フランシス)と、若く美しい女性(フィリス・バリー)の三角関係。

 フィリス・バリーは、ジョン・テイリーの一座のダンサーから出発して、ファンチョ・マルコスの劇団などで、ミュージカルの舞台をふんだ。
 やがてトーキーが、映画を一変する。
 サミュエル・ゴールドウィンが、フィリスの舞台を見て、エディー・カンターの喜劇「闘牛士カンター」に抜擢しようとした。
 ところが、ほとんど同時に、キング・ヴィダー(映画監督)が「シナラ」に起用した。
 フィリスは、素直な演技、わかわかしいエロティシズム、チャーミングなエロキューションで、ゆたかな才能と素質にめぐまれた女優として登場した。
 その後のフィリスを知らない。

 映画の世界で挫折したのか。それとも、草創期の映画よりも、もっと着実でしっかりした表現ができるミュージカルの舞台に戻ったのか。

 現在、DVDで見ることのできるキング・ヴィダーの「シナラ」。
 フィリスも私の「まぼろしの恋人」のひとりなのである。

922

 
 人生をふり返って幸福だったと思えることが少しある。
 たとえば、通勤ラッシュをほとんど知らずに過ごせたこと。

 中央線/快速の「モハ」型の車両の定員は136人。ところが、この車両に、640から650人もつめ込まれた記録があるという。
 こうなると、押しあいへしあい、どころのさわぎではなくなる。

 酸素消費量などによって調査したエネルギー消費量は、60分←→70分の通勤で、平均190~200カロリー。
 一日8時間の労働で消費するエネルギーは、1300カロリーといわれるが、電車の通勤ラッシュで、一日の労働の一割から二割のエネルギーを消耗することになる。

 私は、週に二度、千葉から総武・中央本線で新宿に出て、大学に通った時期がある。
 杉並の和田にあった大学のキャンパスに通ったのだが、やがて、大学は神奈川県相模大野に移った。
 私は千葉から新宿に出て、(所要時間/1時間15分)、さらに小田急線で、相模大野まで出る。ざっと2時間半はかかる。さらに、相模大野からバスで20分。
 大学にたどり着いて、2コマの授業を終わると疲労をおぼえた。

 押しあいへしあいの通勤ラッシュを経験したのも、これがはじめてだった。

 なんとか解決する方策はないものか。
 けっきょく、西新宿の安アパートに入って、地下鉄で新宿に出て、相模大野まで通勤するようになった。早朝6時には電車に乗ったので、なんとかすわれたし、それほどひどい通勤ラッシュにあわずにすんだ。
 早朝から大学で制作するらしく大きなキャンバスをかかえた女の子が、私を見かけて驚いたような顔でお辞儀をする。そんなときは、ほんとうにうれしかった。

 冬の朝、しらじら明けで門も開いていないので、大学の近くの森や、低い丘などを散歩することもあった。
 誰もいない研究室に入って、しばらく原稿を書く。しばらく本を読む。ときには翻訳を1冊仕上げたこともあった。
 仕事にあきると、階下の「芸術学部」の研究室に行く。私はこの学部にまったく関係がなかったが、助手の吉永 珠子、寝占 優紀たちが、コーヒーを入れてもてなしてくれるのだった。

 私にとっては、この大学ですごした頃がいちばん幸福な時間だった。

921

 
 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。私も同感する。

 オヴィディウスは「恋愛術」のなかでいう。

 いまから来たるべき老いの日々を心にとめておくがいい、さすれば、そなたたちにとって、時は些かも無為に過ぎ去ることはない。

 ここから、オヴィディウスはかなり残酷なことにふれる。

    悲しいことだが、なんと早くからだにシワができて、たるんでしまうばかりか、つややかな顔色も消え失せてしまうことか。娘の頃からの若白髪だとそなたがいい張る白髪も、たちまち頭ぜんたいにひろがりつくす。(中略)人の身の美しさは逃げ去って、こればかりはなすすべもない。花は摘みとるがいい。摘みとらずにいれば、おのずと醜く枯れてしぼむ。さらに、出産も、若い盛りを一層早く老けさせる。たえまなく収穫をあげていれば、畑だって老け込む。(中略)人間の女たちよ、女神たちのお手本に従うがよい。そなたたちがもつよろこびを、愛に飢えた男たちに拒んではならぬ。

 いいこというなあ。(笑)

920

 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。そう思う人は55%で、そう思わない人は39%という。(「読売」’08.8.27)
 1978年の調査では、女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる、と考える人は26%で、これに反対の人は50%だった。
 この30年で、結婚の意識が大きくかわってきたことになる。

 ただし、人は結婚したほうがいい、と思う人は65%なのに、かならずしも結婚しなくてもいい、と考える人は33%。

 5年前(’03年)には、結婚したほうがいい、と考えた人は54%だったので、じつに11%もふえている。つまり、結婚は望ましいと考えるようになっている。

 私は、こうした調査にさして関心がない。ただ、社会的な格差がひろがっていて、経済的にむずかしい状況のなかで、こうした変化を見ることは興味深いと思う。
 実際に、未婚率が男女ともに増大しているのだから、高齢化、少子化のすすむ日本の前途がきびしいことも見えてくる。

 私は、前に書いたように、人はできるだけ結婚しないほうがいい、という考えをもっている。ただし、女性は、できるだけ一度は結婚したほうがいい、と考えている。
 いずれにせよ、今後の結婚観の変化は、いずれ性観念の大きな変化を惹起すると私は考える。

 確実なことは――今後の一世代にすぐれた女性作家がぞくぞくと登場してくること。

919

ハリウッド女優/出演料ベスト10 (「ハリウッド・リポーター」)

      1   リース・ウィザースプーン
      2   アンジェリーナ・ジョリー
      3   キャメロン・ディアス
      4   ニコール・キッドマン
      5   レニー・ゼルウィガー
      6   サンドラ・ブロック
      7   ジュリア・ロバーツ
      8   ドリュー・バリモア
      9   ジョデイ・フォスター
     10   ハル・ベリー

 いずれも美女ばかりだが、名女優と呼べるのは、せいぜいジョデイ・フォスターぐらいか。ただし、私が好きなジョデイは「トム・ソーヤーの冒険」、「アリスの恋」、「ダウンタウン物語」、そして「タクシー・ドライバー」。
 「他人の血」や「シェスタ」の頃のジョデイは、女優としてたいしたことはない。
 「羊たちの沈黙」はアンソニー・ホプキンスの映画だったが、「ウデイ・アレンの影と霧」、「マーヴェリック」あたりから、ほんとうの女優に見えてきた。

 このリストのなかに好きな女優はいる。たとえば、レニー・ゼルウィガー。キャメロン・ディアス。
 しかし、このリストに出ていない女優たちに、好きな女優は多い。たとえば、メグ・ライアン。グウィネス・パルトロウ。ナタリー・ポートマン。

 きらいな女優は、ドリュー・バリモア。もっときらいな女優はアンジェリーナ・ジョリー。

 少し失望しているのは、ハル・ベリー。「ダイ・アナザー・デイ」の彼女は、よくがんばっていたが、まあミス・キャストだったなあ。

 というわけで、このランキング・リストの女優たちの映画は見るつもりがない。

918

 長年知りたいと思っていながら、手がかりもないまま、とうとうわからずじまいになってしまう。そんなナゾの一つやふたつ、誰にもあるにちがいない。

 1812年、ナポレオンはついにモスクワから撤退した。このとき、おびただしい金塊をはじめ、貴重な宝石、骨董などを略奪した。これは間違いのない史実という。
 ところが、このロシアの財宝をどこに隠したのか。

 いくつかの通説がある。
 クトゥーゾフ麾下のロシア軍に追跡されたナポレオンは、この年11月2日、軍用の行嚢につめこんだ財宝を、スモレンスク近郊の小さな湖底に沈めて敗走した。

 その後、旧ソヴィエト時代(1967年)、ロシア帝国/外務省の未公開文書が発見されるまで、ナポレオンの秘宝はまったくナゾにつつまれたままだった。

 その古文書に、プロシャ帝国首相、エンゲルハルトが、プロシャ皇帝に贈った所感がある。(1815年10月21日付)。
 この手紙には・・・ロシア戦線から復員したフランス軍の士官ふたり(当然、フランス軍の最高級クラスの軍人と見てよい)が、エンゲルハルト邸に泊まり、エンゲルハルトと雑談したが、たまたま財宝隠匿の目撃談がとび出した。

 ふたりは、コブノ市(リトワニア/カプナス)郊外の、とある教会付近で、作業中のフランス砲兵部隊に出会った。そのとき、約80万フラン相当の秘宝の入った頑丈な木箱を地中に埋めたことを聞かされた、という。

 その後、1823年、生き残ったドイツの傭兵の証言にもとずいて・・・このとき埋められた(とされる)金塊、4樽を発掘する一隊が編成され、旧ミンスク(白ロシア)/ボリソフ市のベレジナ川の流域をくまなく調査した。このときは、何も発見できなかった。
 旧ソヴィエト時代、ナポレオンの秘宝は伝説化した。1939年から40年に書けて、大創作がおこなわれたが、このときも成果はなく、ヒトラー・ドイツの侵略によって、「大祖国戦争」に突入してゆく。

 財補遺の隠匿場所も、リトワニア/ビリニュス、白ロシア/ドロゴブージ、白ロシア/オルシア、ロシア/スモレンスクといったふうにわかれている。

 ナポレオンは敗走中、これらの秘宝をいくつもの行李に分散して、担当の士官に護送を命じたが、すさまじい飢えと寒さ、ロシア軍の追撃のなかで、士官から兵士、さらには外国の傭兵の手に移され、ついには遺棄されたり、ひそかに隠匿された。

 私は、トルストイの『戦争と平和』(マニュエル・コムロフ編)を訳したことがあって、「ナポレオンの秘宝」のことを知った。当時は、まったく関心もなかったが、ナポレオン個人の行嚢が、ロシア/ウェージマから39キロに位置するストカーチュエ湖に投げ込まれたという説を知った。当局が調査したはずだが、結果は知らない。

 小説を書くようになって、何かに使えるかも知れないと思ってノートしておいたが、けっきょく何の役にも立たなかった。
 今でも、ちょっと気になる。

 どなたかご存じの方がいらしたら教えて頂けないだろうか。

917

 ジャン・コクトォのことば。

 もし、礼儀がそれを必要とするなら、立ったまま死ぬことができなければならぬ。

 少年時代のコクトォは、母からそう聞かされていたらしい。

 このひとことだけでも、私はコクトォを尊敬する。

916

 自分が一年前のことをおぼえている、などというのは、まるで信じられない。なにしろ「後期高齢者」だからねえ。(この「後期高齢者」には、「クソGG」か「くたばれご長寿」とルビをふること。)自慢じゃないが、いまや、私はなんでも片ッ端から忘れてしまうのが特技。(笑)
 どうかすると、いきなり過去の1シーンが、ゆらりと立ちあがってくる。

 1年前の8月、やたらに暑い日だったが・・・横浜の「そごう」で「キスリング展」を見た。キスリングは好きだが、ほんとうにいい作品はわずかしかない。このときの印象は、HPに書いた。
 最近、キスリングのヌードが頭のなかに立ちはだかってきた。

 暗い色彩の花模様のクッションに、放心したようなまなざしの若い娘がつややかな裸身をさらしている。
 その瞳は、何を訴えているのか。
 この絵を見ただけで、この絵を見にきてよかったと思った。

 アルレッテイ。

 「天井桟敷の人々」、「北ホテル」、「悪魔が夜来る」の女優。

 戦後はじめて「天井桟敷の人々」の「ガランス」を見たとき、あまり関心をもたなかった。それほど美貌とは思えないし、なによりも中年にさしかかっていた。

 キスリングがアルレッテイのヌードを描いている!
 それも、20代のわかわかしい裸身だった。ベッドに寝そべっているだけのポーズで、顔、とくに眼が、まるっきりキスリングの美女まるだしだが、まさに「戦後」(1920年代)のおんなが、ベッドにデンと寝そべっている。
 おなじキスリングが、もう一つの「戦後」(1950年代)に描いた女優、マドレーヌ・ソローニュ(川端 康成が買ったため、日本にもたらされた)が、どこか憂愁を漂わせているのに、アルレッテイのヌードは、清潔な肢体に、どこか奔放なエロティシズムがあふれている。このヌードはすばらしい。

 もう一枚は「赤毛のヌード」。
 このポーズも、アルレッテイのヌードとほとんどおなじだが、これがまたすばらしい。あとで「カタログ」の解説を読んだが、通りいっぺんのものであきれた。

915

 
 女の印象は、ほんのしばらくでも時間をおくと、まるで変わって見えることが多い。
 とくに、少女が成熟した「おんな」になっている場合には。

 敗戦後、アメリカ映画が公開されるようになった。最初に上映されたのは「春の序曲」と「キューリー夫人」の二本だった。もう、こんなことをおぼえている人もいないだろう。
 「春の序曲」と「キューリー夫人」という選定にもアメリカ占領軍の占領政策が見えるのだが、戦時中は上映されなかったアメリカ映画が公開されるというだけで、戦後の日本に押し寄せてくる巨大な変化が実感できるようだった。
 「春の序曲」はデイアナ・ダービン主演。私は、戦前、「オーケストラの少女」を見ていたので、デイアナ・ダービンがすっかり成熟した女性になっていることに驚いた。
 映画のなかで大きなショートケーキが出てくるシーンがある。観客のどよめきが場内からわきあがった。戦後すぐのひどい食料難で、ショートケーキなど見たこともなかったし、誰もがケーキの大きさに度肝をぬかれた。(今なら、どこでも売っているやや大きめのサイズだった。)

 「春の序曲」でデイアナ・ダービンがオペラのアリアを歌う。「オーケストラの少女」のダービンがすっかり成熟したシンガーになっていることに驚いた。
 後年になって聞き直してみると、リリー・ポンス、ジャネット・マクドナルドといったハリウッド女優に比較して、けっしてすぐれてはいない。
 このことは、デイアナ・ダービンが「オズの魔法使い」の最終段階で、ジュデイ・ガーランドに主役をゆずってハリウッド・ニンフェットから消えて行ったことをつよく思い出させる。

 戦前、「オーケストラの少女」を見た室生 犀星が、当時の映画雑誌に、デイアナ・ダービンの舌の厚み、そのみずみずしい赤みを随筆に書いていた。少年の私は、この短い随筆に、犀星独特のまなざしを感じて驚いたが、戦後の「春の序曲」を見て、私はまるで女というもののあらたな発見がひそんでいるかのように、ケーキを口にはこぶデイアナ・ダービンの舌の厚みを見ていた。

 ひょっとすると、私の「戦後」は、デイアナ・ダービンの舌から始まっているのかも。(笑)

914

 
 もともと、おっちょこちょいで、がさつで、口がわるい私は自分の周囲にいる女の子をつかまえて、うっかりおまえ呼ばわりをすることもある。
 「おめッチの本、読んだ。ずいぶんイイと思ったナ。だけど、おめえ、・・・・ンところは、ありゃぁ何だい。あの程度ッきゃ書けねえのカヨ。もソッと、イキのいい文章じゃねえと、いただけねえなあ」

 私としては、種彦流に「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えるように書いてほしい、という意味なのだが。

 おめえよばわりにおそれをなして逃げてしまった女の子も多かった。

913

 
 「駿河台文学」の終刊号は、作家、豊島 与志雄の特集で、私は短い「豊島 与志雄論」を書いた。そのなかで唐木 順三にかみついた。唐木は、私よりもずっと先輩で、当時、まだ文学部の教授だったはずである。
 小川 茂久は何もいわずにそのまま掲載してくれた。

 その後、小川と私のあいだで「駿河台文学」が話題になることは二度となかった。

 はるか後年、私はある作家の本を出してくれる出版社をさがしていた。小川に相談したところ、当時、坂本 一亀がやっていた出版社を紹介してくれた。この話は坂本 一亀が了承してくれたため、すぐにまとまった。5分もかからなかったと思う。
 作家は編集の打ち合わせがあるので、その場で別れたが、帰り際に小川が訊いた。
 「おい、中田、これからどうする?」
 「おまえといっしょなら、(行き先は)きまっているじゃないか」
 私は答えた。

 あとになって、その作家は、
 「中田さんが羨ましい」
 といった。
 「どうしてですか」
 「お互いに、おれおまえで通じる友人がいるからですよ。私には、そういう友人がいませんので」

 なぜか胸が熱くなった。小川 茂久とは半世紀におよぶつきあいだった。
 戦争中は、工場労働者の服に戦闘帽、ゲートルを巻いて、毎日、川崎の石油工場に通っていた。小川は、いつも分厚な鴎外全集の一冊をかかえて、通勤の往復に読みふけっていた。戦争が終わった直後に、同級の覚正 定夫(柾木 恭介)が撮ってくれた写真が残っているが、私も小川 茂久も、まるで戦争で身寄りをなくした孤児のような、うす汚れた少年だった。
 50名の同級生のうち、戦死、戦災死、病死、自殺、ヤクザに切り殺された1名をふくんで26名が死んでいる。つまり、戦後に生き延びた24名のなかで、私と小川は親友として過ごしてきたのだった。
 その歳月の重みが、いきなり堰を切って押し寄せてきた。

 だから、「お互いに、おれおまえで通じる友人」といっても、フランス語の「チョトワイエ」などではなかった。

912

おなじ大学を出て、いちおうおなじような知性をそなえて、おなじ大学で教えていた。似たようなことを続けていれば、黙っていてもお互いの意志の疎通もスムーズにゆく。
 小川 茂久とは、親しい友だちなので、相手のささいな心の動きまでわかっている。黙っていても、相手の心がつたわってくる。
 大学の事務室で会って、
 「あとでナ」
 といえば、それからの予定はきまっていた。

 桜木 三郎(「集英社」の編集者)が、明治の旧文芸科の出身者だけの文学雑誌を出そうとして私に相談にきた。彼の心づもりでは、「早稲田文学」や「三田文学」が出ているのだから、明治もおなじような雑誌を出すべきだという。
 私は小川 茂久が「やろう」といえば、どこまでも協力しようと答えた。私は明治出身者だけの同人雑誌などというものに少しも幻想を抱いていなかったが、これが「駿河台文学」という雑誌のはじまりになった。
 創刊号を編集したのは、私だった。
 「駿河台文学」の創刊号を編集することになったが、まるっきり経済的な基盤がなかった。なんとか雑誌を出す費用を捻出しなければならない。
 そこで、翻訳のアンソロジーを作って、その印税を雑誌の費用にあてようと考えた。
 これが『ミステリーをどう読むか』(三一書房)という本になった。訳者に明治の出身者を集めたが、ドイツのブロッホを入れることにしたので、これだけは友人の深田 甫(慶応大/教授)に翻訳を依頼した。
 深田君に事情を話して、稿料は半分だけで勘弁してもらうことにしたが、あとの訳者たちのぶんは、全額、「駿河台文学」に寄付というかたちをとった。
 ずいぶん強引なやりかただったが、ほとんどの訳者がこころよく応じてくれた。

 「駿河台文学」の創刊号は出せた。しかし、雑誌の内容をめぐって、さまざまな悪評が起きたのだった。小川 茂久は、私に対する批判を一身にひきうけてくれたようだった。もともとそんな同人雑誌に幻想を抱いていなかった私は、これで熱意がさめた。
 結果として「駿河台文学」は4号を出して終わったが、最後の号を編集したのは、小川 茂久だった。
 小川 茂久は、いい出しっぺの私が手を引いたため敗戦処理のクローザーというかたちで、「駿河台文学」の終刊号の編集を引き受けたのだった。
     (つづく)

911

友人から手紙をもらうほど、うれしいことはない。
 小川 茂久は、ほとんど手紙をくれたことがなかったし、手紙をくれるときはいつもハガキだった。なにしろ毎週、2回は会っていたのだから、お互いに手紙を書く必要がなかった。その彼のハガキが出てきた。

    佐々木基一『昭和文学交友記』読了。だいぶ以前、佐々木氏が『東京』紙上で回想記を書いていることを耳にしたことはあったが、これほど長く、まとまったものとは思っていなかった。戦前の共産主義運動を経験した方と、戦前は幼く戦中の小中教育ではすなおに学び、大学ではどたんばの時を迎えて、生をあきらめ軍隊に入った私のような者との違いがひしひしと感得された。君の写真はいつごろのものだろうか、いい目つきをしているね。覚正、関口の名も出てきて、昔のことを思い出し、興味深い。佐々木氏はきびしいがやわらかい、するどいがやさしい心の持ち主だ。
 消印は1984年1月8日。

 佐々木基一の『昭和文学交友記』は、小川が書いているように「東京新聞」に連載された回想。
 覚正 定夫も私の友人で、戦後、小川 茂久、関口 功とともに、明治大学文学部の助手として残り、共産党に入った。柾木 恭介というペンネームで映画評論を書いた。
 私はその後、柾木 恭介とは、まったく疎遠になった。
 後年、小川 茂久は明大仏文科の教授、関口 功は英文科の教授になった。

 ここでふれられている私の写真は、戦後、何かのことで「東京新聞」文化部にわたしたもの。

 小川 茂久はフランス語の先生だったし、私はもの書きが本職で、明治では別の科の講師だったので、大学でのつきあいはなかった。お互いに、授業のあとは以心伝心、行きつけの居酒屋、酒場に足を向ける。山形/庄内の酒が飲める「弓月」か、ママさんが鹿児島ガ阿久根出身の「あくね」。行き先がきまっているので、小川にかならず会えるのだった。
(つづく)

910

 
 シェイクスピアの『リア王』が、ハリウッドで映画化されるらしい。

 「リア王」は、アンソニー・ホプキンス。三人の娘たちは、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイ。

 監督は、「スウィング・ヴォート」が公開されたばかりの、ジョシュア・マイケル・スターン。

 最近のハリウッド映画にほとんど関心をもたない私でも、つい期待したくなる。「リア王」がアンソニー・ホプキンスでは、およその見当がつくので見たくもないが、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイたちは、ぜひ見ておきたい。

 はじめてアンソニー・ホプキンスを見たのは「冬のライオン」だった。
 ピーター・オトゥールの「王」と、キャサリン・ヘップバーンの「王妃」が、三人の息子の誰をつぎの国王にするかで、モメている。このとき、ろくでなしだが、いちばん度胸のいい息子が、ほかの兄弟にむかって宣言する。
 「おれはつねに兵士にして、ときに詩人、将来は国王になる!」と。
 のちの獅子心王、「リチャード」。
 アンソニー・ホプキンス、ときに31歳。今思い出しても、凄い役者だと思った。
 その後のアンソニーは、まさに名優といっていいのだが、「羊たちの沈黙」、「ドラキュラ」、「日の名残り」と見てきて、最近のアンソニー・ホプキンスのシェイクスピアものなら、だいたい想像がつく。
 アンソニーの器量では、昔のジョン・ギールガッド、ローレンス・オリヴィエ、ラルフ・リチャードソンなどにはおよばない。

 そういえば、シャネルの「ココ・マドモアゼル」のCMに出ていたキーラ・ナイトレイにかわって、エマ・ワトソンが起用されたとか。
 おやおや。
 あの可愛らしい「ハーマイオニー」が、もう、そんなお年頃なのか。

909

 アメリカの、コーヒー戦争が激化して、スターバックスがマクドナルドに追い越されて、はじめての赤字に転落。サブプライム問題によるアメリカ経済の低迷の影響という。ふーん、そうなのか。経済学にうとい私は、こういうニューズを読むと、その因果関係を考えようとする。むろん、私にわかるはずもないのだが。

 スターバックス。4月から6月の純利益で、670万ドル(約7億3千万円)の損失。消費者が、1杯4ドル(約432円)のコーヒーの価格を割高に感じはじめたらしい。
 そこで、スターバックスは、アメリカ国内の600店舗、従業員の7パーセント(1万2千人)を削減する予定。ほら、すぐにこうくる。
 こういう経営者側の対応に、アメリカ経済の先行きがますます気になる。

 私にいわせれば、600店舗、1万2千人の従業員を削減する前に、まだやることがあるじゃないか、といいたくなる。
 従業員の大幅な削減よりも、経営側が退陣すべきだと思う。自分たちの失敗を、従業員の削減で切り抜けようとするのは許せない。トップの交代と同時に、コーヒーの価格を半分に抑え、幹部たち、各店舗の店長たちの給料を一律に10パーセント削減すれば、スターバックスの再建はすぐにも具体化するのではないか。

 アメリカに行ったことがある。アメリカのマクドナルド、ドトール、スターバックスのコーヒーは、だいたいおいしかった。
 現在、マクドナルドの純利益は、約11億9千万ドル。昨年同期の7億3千万ドルの赤字から大きく改善した。
 マクドナルドの国内価格は、コーヒー1杯が1ドル(約108円)。
 スターバックスのコーヒー、4ドルは高すぎる。

 日本でも、マクドナルドはコーヒーの品ぞろえを拡充しているが、ドトール、スターバックス・ジャパンは、今年に入って来店客数が激減している、という。
 ただし、私は、日本のマクドナルド、ドトール、スターバックス、いずれもほとんど立ち寄ったことがない。
 コーヒーがおいしくないから。