本を読んでいて、こんなことばを見つけた。
われわれの最初の50年は、錯誤のうちに過ぎ去る。それからは一歩踏み出すことさえためらうようになる。自分の弱点があまりにも眼につくからだ。そして、さらに20年、いくたの艱難辛苦をすぎて、ようやく身のほどを心得るようになる。ここにきて、やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる。だが、そのときにはもうこの世を去らなければならない。
エドワード・バーンジョーンズ。
思わず笑い出した。
身につまされたからではない。複雑な思いがあった、というわけでもない。むしろ、この芸術家と私の、あまりの懸隔(違い)に苦笑、失笑しただけである。
私は、1946年、「戦後」すぐにもの書きになったが、最初の50年は、まさに錯誤のうちに過ぎ去って行った。というより、たてつづけにやってくる打撃と挫折のなかで、いつもいつもアップアップしただけである。
作家としては2作目の長編(『暁のデッドライン』)で失敗したのだった。
エドワード・バーンジョーンズはえらい画家だが、私ときたら、「いくたの艱難辛苦をすぎて」、現在の私自身をかえり見て、「やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる」どころではない。まあ、オレはアホやからなあ、と思ったけれど、そういう思いに自己憐憫はない。
いつも一歩踏み出すことをためらったわけではない。理由は簡単で、一歩でも踏み出さなければ、オマンマにありつけなかったから。
自分の弱点が眼につくどころか、はじめから弱点だらけ、ろくに才能もないので、もの書きとしては苦しいばかりだった。それから、さらに30年、一条の希望の光がさすどころではなかった。ごらんの通りのていたらくである。
エドワード・バーンジョーンズ。私は、この画家にほとんど関心がない。
クェンテイン・タランティーノの映画、「パルプ・フィクション」に出てくることばのほうが、ずっと身につまされる。
この映画で、しがない三流ボクサー「ブッチ」(ブルース・ウイリス)は、ギャングのボスに八百長を命じられる。
いいか、ブッチ、今のおまえは腕が立つ。だが、おそろしいことにお前はもう峠を越えてしまった。つらいことだが、現実は認めなければならぬ。(中略)
おまえの周囲のやつらはクズばかりだ。自分は年とともに熟成するワインだと思っている。ほんとうは酢っぱくなって行く奴ばかりさ。おまえは、あと幾つ、戦える? せいぜい二つだ。いまさら、トップに立つなんて、無理なんだよ。
「ブッチ」はギャングを裏切って、リングで相手の選手を殺したため必死に逃げる。ことのついでに、追跡してきたギャングの殺し屋(ジョン・トラボルタ)も殺してしまう。 (この映画で、死ぬやつは8人。タランティーノのスプラッター映画。)
ブルース・ウイリスは、どんな映画に出ても大根だが、この映画の「ブッチ」はいい。
映画女優、ロザンナ・アークェットが撮ったドキュメント、「デブラ・ウィンガーを探して」(2004年)のラストで、デブラがロザンナに語っている。
期待が大き過ぎると、失望も大きくなるわ。だから、私は何も期待せずに仕事をつづけてきただけ。
この映画のデブラ・ウィンガーこそ、「年とともに熟成するワイン」のような女性だと思った。