948

 紅白歌合戦などというものがなかった時分、下町の大晦日は、どこの家でも夜通し起きていた。夜になってから、借金とり、掛けとりがきたり、正月のお料理の仕度をしたり、掃除が終わっていなかったり、けっこう忙しい。子どもたちは、年越しそばを食べたあと、火鉢に手をあぶりながら、みかんを食べたり、カキ餅を網に乗せて焼けるのを待っている。

 初夢は一月一日の晩に見るものと思っていたが、いつ頃からか、二日の晩に見る夢ということを知った。七福神が乗っている宝船の刷りものを、朝から売り歩く男がいて、縁起ものだから、これを枕の下に敷いてねるのだった。
 ただし、少年の夢には、一富士、二鷹、三なすびなど一度もあらわれなかった。翌朝、眼がさめて、いつもがっかりしたものだった。

    ふく神を乗せた娘の宝船

 という川柳がある。この「ふく神」は、明治時代から富貴紙という名前で売られていたらしい。やわらかい上質の和紙。これ以上、説明する必要はない。

947

 
 2009年を迎えた。
 みなさんに心からおよろこびを申しあげる。今年が、みなさんにとって、よい年になりますように。

 誰もが感じているように、私もまた、世界的なパラダイム・シフトが起きていると思っている。かんたんにいえば、社会全体の価値観の移り変わりである。こういう事態は、そう何度も起きることではないので、これからの推移はまさに注目すべきだろう。
 私は大正の関東大震災を知らないのだが、その後の不況の影響は知っている。それに、1941年に開始された日米戦争の推移と、敗戦後の日本を見てきた世代である。この時代が、日本の戦前・戦中と、いわゆる戦後の決定的な境界で、人心も生活も一変する。これを、パラダイム・シフトとして見ることはできるだろう。

 世界史的には、パックス・アメリカーナの時代が、別のパラダイムに移行しつつあると見ていいかも知れない。最近のロシアの動き、とくに大統領の任期の延長の決定や、石油、ガスなどの資源を武器にした近隣の諸国に対する姿勢には、紛れもなく大ロシア主義への回帰と、きたるべき資源戦争への準備が認められる。
 中国は、国内に大きな反体制の動きが生じているが、対外的にはますます強大な発言力をまして行く。これに対して中東の産油国は、今世紀末には現在の地位を失うだろう。
 アフリカ諸国は、国家形態の再編成が大きな条件だが、独裁者たちの恣意的な統治が、民族の合意形成をさまたげる。
 グローバル化が進むということは、戦争の危険がいつも存在するということなのだ。このまま事態が悪化しつづければ。いつ、どこで戦争が起きてもおかしくない。私はそう思っている。

 1937年に日中戦争が起きた。連日、出征兵士のために、千人針を、さかり場の道行く女性か縫っていた。手拭いほどの布地に、千人の女性が手づから赤い糸を縫いつける。それが千人針で、その布を肌身につけていれば、兵士は戦死しないと信じられていた。
 私は、街頭で千人針を縫いつけていた女たちを心から尊敬する。ほんとうに、いとしい女たちだったと思う。だが、その千人針を肌身につけていた兵士の多くも戦死した。そのことを心に刻みつけておきたい。

 非正規の労働者が今年の3月までに、約8万5千人が失職するという。再就職先が見つかった人は、そのうち1万7千人の10パーセント強にとどまる。
 2009年は、世界経済の危機と重なって、急速な景気減速、将来がまったく見えない深刻な貧困を作りだしている。だが、もっと困難な時代の到来を予想すべきかも知れない。
 つい先日(つまり、昨年の歳末)に、ホンダがFIから今季かぎりで撤退すると発表した。世界ラリー選手権では、スズキ、スバルが撤退するそうだが、たてつづけに有力企業が撤退する事態をだれが予想したろうか。
 一部のチームのように、年間2億(約180億円)も使いつづければ、いつかは破綻がやってくる。2004年にジャガーが撤退したときに、ホンダが撤退すれば、こんな非運を見なかったかも知れない。
 今年は、もっときびしい年になることは覚悟しておこう。

 こういう、くそおもしろくもない時代に生きるのは、私もきみもおもしろくない。そこで、少し見方を変えれば、これほどおもしろい時代はない。しっかり見届けておくことだ。困難な時代を乗り切るために、何をすればいいのか。その困難を見据えることしかない。

 今年の「中田 耕治ドットコム」では、これまで避けてきたアクチュアルな問題に関しても少し発言しようと思う。もう少し視野をひろげて、今年見たドラマや映画、芝居について書いてみようか。老いのくりごとと受けとられたくないけれど。

 これが私の年頭所感。

946

 歳末の寒さが身にしみる。

「句はさびたるをよしとす。さび過たるは骸骨を見るがごとし。皮肉をうしなふべからず」

 天保期の俳人、田川 鳳朗の説。この「皮肉」はアイロニーではないが、私は勝手に、自分の書くものに「皮肉をうしなふべからず」ときめている。

 さて、年の瀬にわれと我が身をふり返る。誰にもあることだろう。私は、あまりわれと我が身をふり返らない。私には、2008年がまことにつまらない年だったという思いがあるのだが、反省したってはじまらない。
 景気もしばらく回復しないし。
 どうせ、このままオヤマカチャンリンさね。

   我が寝たを 首上げて見る 寒さ哉    来 山

 上五がどうもよくないが、冬の寒さがそくそくと身に迫ってくる。ゾクゾクでもいいけれど。
 このまま寝ていれば、もうすぐお正月。

 「中田 耕治ドットコム」につきあって下さった皆さんに心からお礼を申しあげ、いよいよ2008年に別れを告げる。
 まだ、年賀状を書いてない人は、いまからでも遅くはない、私にあててハガキをチョーダイ。
 よいお年を。

945

 
 歳末である。

 年の瀬を詠んだ句は、いくらでもあるけれど、名句といえる句は少ないのではないか。むろん、私が知らないだけのことだが。

     世に住まば 聞けと師走の 碪(きぬた)かな    西 鶴

 きぬたは、衣板(きぬいた)からきたことばという。女が木のツチ(きづち)で、布を打って、やわらかくしたり、つやを出したりする。その布を置く木、または石の台をいうらしい。私は見たことがない。ただ、「冬のソナタ」で、チェ・ジウが、洗濯をするシーンがあって、彼女が布を叩いているのを見た。きっと、昔の日本人も、ああいうふうにして、布を打ったのだろうと思った。

 「きぬた」は秋の季語らしい。もし、秋の季語とすれば、師走が冬だから、季重リだが、西鶴はそんなことを無視している。むしろ、この句に、さびしみ、またはアイロニーを読むことができよう。
 いろいろと忙しい年の瀬になって、女がきぬたを打っている。もっと早く、やっておく仕事なのに。あわただしいことで、いよいよ押し迫ってから、きぬたの音を立てている女のあわれが感じられる。これが一つ。
 年の瀬が迫ってきている。それなのに、師走の夜を懸命にきぬたを打っている。やすまずに働きつづける女の殊勝なふるまい。これがひとつ。
 「聞けと」という言葉に、師走に聞くきぬたの音のかなしさも響いている。

 「世に住まば」は、世間に住んでいれば、という意味だが、そうではなく、かつがつの暮らしぶりをしていても、このきぬた打ちの音を聞いてください、貧乏なんぞに負けていませんよ、というけなげな心根さえ聞き届けられよう。

 歳末のいい句だと思う。

944

いまから半世紀前に、どんな映画を見たのだろう?
 誰がもっとも輝いていたのか。

 私が思い出すのは、イタリアのロッサノ・ブラッツイ。「旅情」で、キャサリン・ヘップバーンの相手をやっていた。あるいは、ミッツイ・ゲーナーを相手のミュージカル、「南太平洋」をおぼえている人がいるかも知れない。
 日本では、「トスカ」ではじめて知られた。ジューン・アリソン、エリザベス・テーラーの「若草物語」や、アンナ・マニャーニの「噴火山の女」。「裸足の伯爵婦人」、「愛の泉」、「雷雨」といった映画に出ていた。

 洋画では、ヘミングウェイの「日はまた昇る」が、映画化された。ヘンリー・キング監督。タイロン・パワー、エヴァ・ガードナー。エロール・フリン、なんとジュリエット・グレコ。ただし、ひどい駄作。当時、私は、ヘミングウェイを翻訳しようと思っていたので、この映画を見てあきれたことを思い出す。

 ルネ・クレールの「リラの門」。マリリン・モンローの「王子と踊り子」。
 日本では、美空 ひばりの「競艶雪之丞変化」あたり。
 市川 右太衛門が「富士に立つ影」、長谷川 一夫が「雪の渡り鳥」で、「鯉名の銀平」を。マキノ 雅弘の「一本刀土俵入」、衣笠 貞之助の「鳴門秘帖」、稲垣 浩の「女体は哀しく」。
 「富士に立つ影」では、北大路 欣也が出ていた。
 佐伯 清の「佐々木小次郎」。この「小次郎」は、東 千代之介だったっけ。女優陣は、花柳 小菊、大川 恵子、三条 美紀、千原 しのぶ。
 吉村 公三郎が島田 清次郎の「地上」を、中平 康が三島 由紀夫の「美徳のよろめき」を、中村 登が井伏 鱒二の「集金旅行」を。
 松林 宗恵が石坂 洋次郎の「青い山脈」のリメイクを。千葉 泰樹が林 芙美子の原作を、三船 敏郎、山田 五十鈴で「肉体の悪夢」。後年の「蜘蛛巣城」の三船、山田よりもずっといい。
 新人たちは・・・前田 通子、泉 京子、筑波 久子、万里 昌子。中原 ひとみ、江原 真二郎。水野 久美、田村 高広がそろそろ出てくる。
 1957年12月。
 日本映画が活力にあふれていた時代。

943

 歳末。
 別に何かすることもない。

 退屈なので、映画でも見ようと思った。何がいいだろう?
 私が選んだのは、「戦場にかける橋」(デヴイッド・リーン監督)だった。なんと、半世紀も昔の映画である。
 イギリスの俳優、アレック・ギネス、ジャック・ホーキンズ。ハリウッドのウィリアム・ホールデン。日本の早川 雪州。1943年、ビルマ国境に近いタイのジャングルのなかに作られた日本軍の捕虜収容所。ここにニコルソン大佐(アレック・ギネス)のひきいるイギリス軍兵士の一隊が送り込まれる。捕虜収容所の所長、「斉藤大佐」(早川 雪州)は、タイとビルマをつなぐ泰麺鉄道を完成させるために、クワイ河に橋をかけるため、捕虜を使役する。「ニコルソン大佐」は抵抗するが、やがて「斉藤大佐」の説得に応じて、部下に架橋作業への参加を命じる。日本軍に協力することを拒否したアメリカの海軍少佐「シャース」(ウィリアム・ホールデン)は、脱走に成功する。・・
 いま見ても、いい映画だった。

 この映画が作られた時期、ジョゼフ・スタンバーグが「ジェット・パイロット」を監督していた。ハワード・ヒューズの製作、ジョン・ウェイン、ジャネット・リー。
 ベーリング海峡の哨戒にあたっている「シャノン大佐」(ジョン・ウェイン)のひきいるジェット戦闘機隊は、不法に越境したソ連のジェット機を追尾する。空港に不時着したソ連のジェット機から降りたのは、以外にも女性の空軍中尉(ジャネット・リー)で、過失のため銃殺されそうになったため、空路、亡命をはかったのだった・・。
 これは、かつてディートリヒとともに、「モロッコ」をはじめ、数多くの名作を撮ってきたスタンバーグが再起をかけた映画だったが、彼はまったく映画的な創造力を失って、没落して行く。

 私は、このときのスタンバーグ、そして、「アナタハン」という愚作を撮ったスタンバーグを見て、ある芸術家が、どうして失速したり、すぐれた才能を失ってゆくのだろうか、と考えたのだった。

942

 
 歳末。
 殊勝にも、この1年をふり返ってみる。私にとって、ろくなことのなかった1年。
 もっとも、いまさらろくなことの、ありえようはずもないのだが。
 子どもの頃、CO2 など、考えたこともなかった。

 つい、最近、アメリカのシカゴ大学の研究チームが8年におよぶ測定の結果を発表した。
 ワシントン州沖のタトゥーシュ島で、2000年から、毎年、夏に、30分ごとに、水質を検査してきた。総計、2万4519回におよぶ測定値を分析した。
 その結果、酸性度をしめすPH(水素イオン指数)の平均値は、年々、低下しつづけている。その割合は、1年に0・045。はじめに予想していた年に0・0010を大きく越えている。

 これは、海水の酸性化が、一般の予測より10倍も早くすすんでいることを意味する。
 その理由は、大気中にふえた二酸化炭素が海水に溶け込んだことが原因という。

 私は科学的な知識がないので、ただ、2008年の歳末に届いたもっとも警戒すべきニューズのひとつとしてあげておく。
                      

941

 
 私の内部に巣くっている一種の固定観念がある。それは芸術家の運命に関する見方だが、他人の眼から見て、たわいもないことかも知れない。
 ある人は自分の運命にしたがって新しい仕事にのぞみ、うまく成功する。ところが、別の人は一度そこで経験したことにおぞ毛をふるって寄りつかなくなったり、あるいは、今度こそ事情は違っているかも知れないと期待に胸をはずませながら、失敗する。ときには何度も何度も性懲りもなくくり返して、最後には幻滅しながらあきらめてしまう。それはなぜなのか。

 抽象的な議論ではない。きわめて具体的なこと、あえていえば、芸術を志す人間の生きかたに関して。
 この問題は・・・ある人には才能があって、別の人にはその才能がないということにかかわってくる。なぜ、ある人は才能に恵まれているのか。それにひきかえ、なぜ、私はそういう才能をもっていないのか。

 私は、いつもこういう問題を考えつづけてきたような気がする。

940

 (つづき)
 いまなら、ビデオやDVDで、キャストをたしかめることができるかも知れない。しかし、まったく無名のマルレーネ・ディートリヒの名がキャストに出ているだろうか。

 その後、ガルボの伝記、ディートリヒの伝記を読んだ。しかし、どういう本を読んでも、『喜びなき街』にディートリヒが出たという記述はなかった。
                                         そのため、私自身、自分が見たガルボとディートリヒがすれ違うシーンは、ひょっとすると、私の錯覚かも知れないと思った。むろん、「戦後」のドイツに、ディートリヒによく似た娘が歩いていたとしても不思議ではない。しかも、当時の私は、スクリーンのディートリヒを一度も見たことがなかった。だから、無名のドイツ娘が、ディートリヒだという確証はない。ガルボだってはじめて見たのだった。
 まったくあり得ない妄想だったのかも知れない、と思うようになった。

 だが、ガルボが別の娘とすれ違った一瞬のカットは、当時、17歳の私の心に深く刻まれたのだった。

 それから、何十年という歳月が過ぎた。
 ある日、オットー・フリードリク著、『洪水の前 ベルリンの20年代』(1985年/新書館)という本を読んだ。
 そのなかに、若き日のディートリヒについての記述があった。

     G・W・パプスト監督の名作、『喜びなき街』でちょっとした役にありついた。その映画の中で、グレタ・ガルボと一緒に闇市の肉屋の前の行列に並んだのである。

 私はこの2行を見たとき、茫然とした。私は間違っていなかった!
 戦争が終わったばかりに・・・何ひとつ予備知識なしに見た映画、G・W・パプスト監督の『喜びなき街』で、ガルボが一瞬、別の娘とすれ違う。その娘が、まさしくマルレーネ・ディートリヒだった、という喜びだった。
 あれは、白日夢ではなかった。私の直観はただしかった!
 そして、長年、心にひっかかっていた疑問が解けた。
 たが・・・もう一つ、別の疑問が胸にひろがってきた。
 あの映画の中で、マルレーネ・ディートリヒはグレタ・ガルボと一緒に闇市の肉屋の前の行列に並んだのか。私の記憶では、ディートリヒはガルボとすれ違うだけである。敗戦後のウィーンの雑踏のなかで、お互いに顔を見合わせるわけでもなく、ただ、一瞬、すれ違う。
 ガルボはからだにぴったりフィツトした、黒い堅苦しいスタイル。画面右からよろめくように雑踏に出てくる。疲れきっている。
 と、左から、安っぽいプリント模様、白いワンピースの娘が歩いてくる。一瞬、肩がふれあいそうな距離ですれ違う。むろん、お互いに眼をあわせることもない。
 ディートリヒは「ちょっとした役」ともいえない、ただの通行人だったのではないか。
 どなたか教えてくださる方はいないだろうか。

939

 1945年8月15日、戦争が終わった直後、私は、敗戦の大混乱のなかで、毎日のように映画を見て歩いた。
 戦災で家を焼かれ、私が通っていた工場も空襲でやけて、勤労動員も解除ということになってしまった。母親は栃木、妹は埼玉に疎開したまま、父親は失業、私の大学は授業再開も未定という状態だった。召集されて軍隊に入った友人たちも、まだ、誰ひとり復員していなかった。
 私は、まるで浮浪児のように浅草をうろついていた。戦争が終わって、大混乱のさなか、大学は再開のめどもたっていなかった。浅草をうろついて映画でも見る以外、ほかにすることもなかったから。

 何もかも大混乱だった。終わるはずもない戦争が終わったという虚脱状態で、誰もが歓楽街に押し寄せたのではないだろうか。敗戦の翌日には、三方に柱を建てて、ぐるりとヨシズを張っただけのバラックが並びはじめ、闇市(ブラック・マーケット)が形成されはじめた。フカシイモ、スイトン、雑炊など、おもに食料が中心だが、それまで見かけたことのない日用品、雑貨、古着などの衣料、並べたそばから飛ぶように売れた。

 1945年8月15日以後、日本映画の製作はすべてストップした。それまで国策映画、戦意昂揚映画を撮っていたスタジオは、戦後、どういうことになるかまるで見当もつかなかったはずである。
 当然ながら、それまで、国策映画ばかり上映していた映画館の大半はブッキングがとまったので、ガラガラ。ただし、敗戦の翌日には、戦争が終わったドサクサにまぎれて、どこから見つけてきたのか、戦前の映画、それも活動写真、戦前公開されたままおクラ入りだった外国映画などを上映する映画館がぞくぞくとあらわれた。
 浅草はただひたすらごった返していた。
 このとき私が見た映画では、マキノ 正博の「雪之丞変化」、ソヴィエト映画の「愉快な連中」や、G・W・パプストの「喜びなき街」など。

 『喜びなき街』(1925年)は、グレタ・ガルボがはじめて出た外国映画である。監督はG・W・パプスト。
 若い娘が「戦後」に惨憺たる生活をつづけ、彷徨する暗い内容だった。
 敗戦直後の日本で、第一次大戦の「戦後」ウィーンを描いた映画を見る、などということは、いまの私には途方もなくファンタスティックなことに思える。

 この映画のラスト・シーンに私は衝撃をうけた。

 敗戦後のウィーンの街角。わずかな肉の売り出しに、人々が殺到する。その群衆のなかをあてどもなくガルボがさ迷い歩く。その一瞬、別の若い娘が彼女とすれ違う。お互いに顔を見合わせるわけではない。ただ、すれ違うだけである。その娘を見た時、私はアッと驚いた。見覚えがあった。どこかで見た覚えがある。誰だったろう?
 思い出した! マルレーネ・ディートリヒだった。      (つづく)

938

 
 私は「文学講座」を続けているのだが、そのなかで鴎外、漱石に言及するときは、きまって鴎外先生、漱石先生というくせがある。日頃から、鴎外さん、漱石さん。むろん、鴎外先生、漱石先生に面識はない。
 「戦後」の浅草で「荷風さん」を見かけたことがあるけれど、だいたいは荷風。荷風先生とは呼びにくい。
 個人的にどうのこうのというわけではないし、文学的に影響を受けたというわけでもない。つまり、こういう使いわけには特別な理由もないのだが。

 内村 直也、植草 甚一のおふたりは「さん」。
 五木 寛之も「五木さん」。
 澁澤 龍彦は「渋沢くん」。

937

 
 1931年、映画女優、ルイーズ・ブルックスが映画に出なくなった。彼女はそのまま忘れ去られた。(実際には、その後も映画には出ていたのだが。)
 彼女のことを忘れない人もいた。
 大岡 昇平。
 彼はルイーズ・ブルックスについて、いくつも重要なエッセイを書きつづけた。
 その後、フランスで、ルイーズ・ブルックス再評価の機運が起こり、老齢に達していたルイーズ自身も自分の回想を発表して、あらためて彼女がどんなにすばらしい女優だったか、私たちに思い出させた。そして、現在、筒井 康隆の「カナリアが殺されるまで」、四方田 犬彦の「パンドラ・コムプレックス」のように、世界最高のルイーズ・ブルックス論などがある。

 「世界猟奇全集」というシリーズものの1冊から、ゆくりなくも、ルイーズ・ブルックスのことを連想して・・・私はしばらく幸福だった。
 なぜ、ルイーズ・ブルックスを思い出したか、これは別のこと。

936

 
 昭和初期、いわゆるエログロ・ナンセンス盛んなりし頃、川端 康成の『浅草紅団』が出ている。私は川端 康成の傑作と見ているのだが、おなじ頃、「世界猟奇全集」という、ちょっといかがわしいシリーズものが出版された。そのなかに「世界スパイ戦秘話」という1冊がある。昭和6年(1931年)12月刊。

 こんな記述がある。

    墺洪国皇室には、不絶(たえず)呪っているものでもいるように、不吉な宿命がつきまとっていた。古いことではあるが、フランシス・ジョゼフ陛下が、王位に昇られた第一年には、洪牙利(はんがり)の一無頼漢の為に、行幸の途中を襲撃され、幸運にも凶漢の銃火を脱れた。その後皇后陛下が、無名の伊太利(イタリ)無政府党員の為に、ジェノアで射撃され、遂に薨去された。次いで唯一人の皇子は、病原不明の奇怪な急病に襲われ、俄に世を去られた。気の毒な皇帝は、引き続く悲しい不幸の後、甥に当るフエルヂナンド大公を皇太子に選ばれた。

 このフエルディナンド大公が、1914年6月28日、サラエヴォで暗殺され、世界大戦が勃発する。
 ハプスブルグ帝国のルドルフ皇太子が、男爵令嬢、マリー・ヴェッセラと情死した事件は、当時、厳重に秘匿されていた。「病原不明の奇怪な急病」という表現に注意しよう。

 ルドルフ皇太子が、男爵令嬢、マリー・ヴェッセラと情死した事件が私たちに知られたのは、戦後になって、フランス映画、「うたかたの恋」が公開されたからだった。
 ハリウッド黄金期の大スター、シャルル・ボワイエと、当時フランス映画最高の美女だったダニエル・ダリューの主演。原作はクロード・アネ。

935

 「プレイボーイ」の「終刊前号」に、過去のインタビューのいくつかが抜粋されている。これがおもしろい。
 ロバート・デニーロがいう。

   『PLAYBOY』インタビューとシェイクスピアを一緒に読むやつはいないよ。

 それはそうだと思う。しかし、私は「プレイボーイ」インタビューとシェイクスピアを一緒に読んできたのだ。そういうヤツもいることは、いる。

 私は初期のディズニー・アニメを、かなり熱心に見てきた。たとえば「牡牛のフェルディナンド」、「ファンタジア」、「白雪姫」といったアニメは、今でもすばらしいと思う。しかし、「ダンボ」以後のディズニー・アニメにはほとんど関心がなくなった。

 おなじように、「プレイボーイ」に毎号掲載されているアメリカのヌードにも、まったく関心がなくなってしまった。あんなものよりも、日本のAVに出てくる女の子のほうが遙かに美しい。いつかそう思うようになった。不謹慎だろうか。

934

 東京株式市場(’08.10.27.)で、「日経平均」が、一時、7486円を割り込んだ翌日、雑誌の「プレイボーイ」(日本版)が届いた。
 「終刊前号」という。33年の歴史が、ここに終りを告げようとしている。

 「プレイボーイ」(日本版)は、1975年5月、創刊された。43万8千部。全国の書店で、発売後、3時間で売り切れた。このため、2万2千部が増刷されたという。
 この年、サイゴン陥落。ヴェトナム戦争が終わった。
 金子 光晴、林 房雄が亡くなっている。
 アメリカ、ソヴィエトの宇宙船がドッキング。

 創刊号から、毎号、かならずアメリカン・ビューティー(プレイメイト)のヌードが掲載された。たしか、マリリン・モンローのヌードが、創刊号を飾ったのではなかったか。 そのほか、マドンナのヌード、シンデイ・クローフォードのヌード。
 ナオミ・キャンベルのヌードなんか、「ハスラー」誌で見た黒人女優の性器ほどの衝撃もなかった。

 ある日、植草 甚一さんが私に訊いた。
 ・・・中田さんは「プレイボーイ」を読みますか。
  はい、目ぼしい記事はだいたい眼を通していますが。
 ・・・「プレイボーイ」がお好きなのですか。
  別に、好きな雑誌というわけではありませんが。
 植草 甚一さんは、私の顔を見ずに、
 ・・・私はきらいですね、ああいう雑誌。

 それ以後、植草 甚一さんは二度と「プレイボーイ」のことを話題になさらなかった。
 なぜ、植草さんは「プレイボーイ」がおきらいだったのだろうか。

 植草さんが「プレイボーイ」がおきらいだった理由はわからないが、なんとなく納得できるような気がする。げんに、この「終刊前号」で「最もセクシーな世界の美女50人」という特集があって、アンジェリーナ・ジョリー以下、50人の美女たちが登場しているが、アジア系の箇所は、43位に、チャン・ツィイーが選ばれているにすぎない。
 私はこういうセレクションにひそかな軽蔑をおぼえる。

933

 現在、私たちは未曾有の不況に見舞われている。(麻生首相にいわせれば、「みぞゆう」と読むらしいが。)
 100年に一度の非常事態という。(グリンスパンの発言という。)私のように、世界の金融、経済の動きに無関係な人間でも、100年に一度の金融危機ならば、大きな関心をもってもおかしくない。
 さる10月27日、テレビで市況を見ていた。
 凄いね。何も知らない私の眼にも、この日の株式市場の暴落は、ただごとならぬものに見えた。「日経平均株価」は、取引開始直後、あっさり最安値を更新した。うわぁー、なんだなんだ、なんなんだ! 一時、7486円を割り込んだぜ。
 私はマラソンの中継が好きで、かならず見ることにしているのだが、マラソンを見ているよりも、ずっとおもしろかった。この日、バブル崩壊期(’03.4.28)の最安値、7603円を割り込んでしまった。1982年11月以来、26年ぶりの水準という。 おいおい、冗談じゃないぜ。どうなるんだい。
 昔のSF映画、「禁断の惑星」に出てくる、わけのわからない怪物が、人類に襲いかかるシーンを見るような気がした。(ついでに書いておくと、この映画はSF映画のプロトタイプのひとつ。ウォルター・ピジョンが、アカデミー賞なみのいい演技をしていた。アン・フランシスは、少し肥り気味だったが、若くて肉感的だったなあ。)
 けっきょく、この日は、前の週末の終値から80円72銭安。

 この日、外国為替の円相場は、アメリカ、ヨーロッパの景気減速を警戒して、円高が急伸、1ドル=93円63 64銭で取引されている。
 ゲッ、円高だってさ。ほんまかいな。本気かよ。
 わけもわからずに、円がやたらに高く高く高くなっちまった。

 昭和初年、いわゆる「大不況」の余波を受けて、父が失業したことを思い出す。彼は三日間、東京じゅうをかけずりまわって仕事を探したらしい。当時としてはめずらしい英文の速記者(ステノグラファー)だったので、面接に行った「ロイヤル・ダッチ・シェル」にひろわれた。やがて地方支店の速記者、翻訳者になった。本人にすれば、都落ちの思いがあったに違いない。

 幼年時代の私は、何度も「不況」(デプレッション)ということばを聞かされて育った。何だかわからないが、「不況」というおそろしい生きものが私たちのすぐうしろに立っているような気がした。幼い私にとって「不況」は落語の「ムル」のようなものだった。この「不況」を私なりに翻訳すれば、「ムル」になる。
 虎、狼よりも「ムル」がこわい。

 最近の金融不安は、私のようなノン・ワーキング・プア(ルンペン・プロレタリア)には関係がないが、この1カ月、中国、香港の株式市場の低落ぶりをじっくり見ていた。

 つい数カ月前まで、資産総額が1211億元で、中国のトップだった女性実業家は、資産がなんと181億元に縮少したという。
 おなじく個人資産、430億元(約6020億円)で、今年の富豪のトップが、株価の違法な操作で司直の捜査を受けているそうな。
 いやぁ、「ムル」はこわいなあ。

 「ルンペン・プロレタリア」ということばはなくなったが、「ムル」はこわい。私流に翻訳すれば、さしづめ(貧富の格差)になる。

932

 たとえば、最近の金融不安について、私は何を考えたか。何も考えなかったわけではない。むしろ、いろいろなことを考えた。私が経済学者だったら、1編の論文を書くこともできたはずである。
 たとえば、トラックを秋葉原に乗りつけて、ダガーナイフをふるって、つぎつぎに通行人を殺傷した男について、私はなんらかの意見をもたなかったか。
 31年前に保健所にイヌを処分されたという理由で、かつての厚生省事務次官夫妻を殺害し、さらに隣県に住む別の元事務次官の夫人も襲った犯人について、私は何も考えなかったか。
 テレビを見ると、現実に起きているさまざまな事件、事象について、いとも明快に解説してくれる人々がいる。
 だが、それを見ながら、私は逡巡する。私はそれほどスムースに自分の考えを述べることができるだろうか、と。何かについて、なんらか誤りなく言及することは、私などのよくするところではない。

 トークを聞いている私の内部には、したり顔で、えらそうに言及なさるコメンテーターに対する不信、あるいは、ひそかな侮蔑が渦巻いている。
 そうしたコメンテーターの「コメント」は、その場その場ではいかにも正しいように聞こえるけれど、こちらが心のなかでたどり直してみると、じつはたいしたことを語っているわけではないことに気がつく。私がひそかな侮蔑をおぼえるのは、それを「良識」、ないしは「常識」として自認しているらしいところなのだ。
 彼らはしばしば、私たちの判断を別の方向に向けようとする。
 私は、冷たい怒りをおぼえながら、そういう人物を見ている。

 いつか、私はそういう連中に対してフィリピクスを試みるかも知れない。
 渾身の力をこめて。

931

 
 ある日、トルストイがチェーホフに向かって、こんなことをいったという。

 「君はなかなかいい人間で、私も君が好きだ。君も知っての通り、私はシェイクスピアってやつが、我慢がならぬ。それでも、あいつの戯曲は、きみの芝居よりはましだ。」

 このエピソードを知って、一日じゅう愉快な気分になった。
 トルストイが、チェーホフのどの戯曲に言及しているのか知らないが、かりに『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』をくさしたとしてもこの話はおもしろい。
 チェーホフは、どんな顔をしたのだろう?

 かりに、私がえらい作家にとっつかまって、

 「君はなかなかいいやつで、私も君が好きだ。君も知っての通り、私はルネッサンスという時代が、我慢がならぬ。それでも、マキャヴェッリの芝居は、きみの書く評伝よりはずっとましだ。」

 といわれたら、どうしようか。
 どうもすみません。ペコリと頭をさげて逃げ出すだろう。

 「君はろくなやつではないし、私は君が嫌いだ。なにしろ、私は芝居も役者も、我慢がならぬ。それでも、団十郎の芝居は、きみの書いたルイ・ジュヴェ評伝よりはずっとましだ。」

 こんなことばを浴びせられたらこっちもキレる。さて、どうなるか。
 日頃はおとなしい男だが、ほんとうはやたらと短気なのだ。

930

 
 しばらく前に、BS11で、香港映画、「アゲイン 男たちの挽歌 3」(「夕陽之歌」)を見た。(’08.10.1)。香港映画、黄金期の映画。
 監督は徐 克(ツイ・ハーク)。周 潤発(チョウ・ユンファ)、梅 艶芳(アニタ・ムイ)、梁 家輝(レオン・カーウァイ)、日本の俳優、時任 三郎が出ている。
 映画のなかで、「香港返還は、20年も先のことだ」というセリフが出てくる。
 徐 克(ツイ・ハーク)は、私の好きな映画監督のひとり。

 忘れないようにメモしておいた。
 ストーリーの背景は、ベトナム戦争のさなか、サイゴン陥落までのヴェトナムの華僑社会。ウォーターゲート、ニクソン辞任。戦火から脱出しようとするボートピープルが、香港に押し寄せている。
 周 潤発(チョウ・ユンファ)は、サイゴンでのしあがってきた華僑/黒社会の一員。梅 艶芳(アニタ・ムイ)は、凄腕の女ヒットマン。ほんらい逢うはずのないふたりが、ヴェトナム戦争下に運命的な出会いをもつ。

 「夢は大きければ大きいほど、失望もふくらむ。だから、俺は多くをのぞまない」と、主人公(チョウ・ユンファ)がつぶやく。

 この映画を見ながら、私はサイゴンを思い出していた。作家として、2作目の長編が失敗したため、気分転換のつもりで、ベトナム戦争のさなか、サイゴンに行ったのだった。映画のなかで、私の知っている旧サイゴン(西貢)の風景(とくにレ・ロイの通り、カトリック聖堂、タンソンニュット空港など)が出てきてなつかしかった。
 さらには、ヴェトナムで知りあった十代の歌手、マリー・リンや、これも若い娘だったブ・ニャットフォン(武 日紅)のことが、アニタ・ムイの「キット」に重なってきた。
 このブログ(No.929)で、作家として、2作目の長編(『暁のデッドライン』)で失敗したと書いた。
最近になって、この長編が戦後のミステリー、99本に選ばれていることを知った。
 このコラムを読んでくれた「雨の国の王者」が教えてくれたのだった。

    『暁のデッドライン』を、中田 耕治探偵小説の最高作と見る向きは多いようで、たとえば探偵小説専門誌(幻影城)では、日本推理小説ベスト99の一つに、選出しているし、(中略)
    わたくしは、両方とも、好きだが、どちらかと言えば、天衣無縫(わるくいえば八方破れ)な『暁のデッドライン』よりも、端正で、みずみずしい『危険な女』の方をかうが、あくまでも、それは好みの問題だ。

 私は「雨の国の王者」に感謝している。

 『暁のデッドライン』が失敗した大きな理由・・・天衣無縫(わるくいえば八方破れ)なものになった理由は、外からいろいろと指示されて書いたことによる。かけ出しの新人だったから、担当の編集者が、いろいろとアドヴァイスしてくれるのにしたがったのだが、結果的に、はじめ私の書こうとしていたものと違った主題になった。

 この失敗は、私の最初の挫折。

929

 
 本を読んでいて、こんなことばを見つけた。

    われわれの最初の50年は、錯誤のうちに過ぎ去る。それからは一歩踏み出すことさえためらうようになる。自分の弱点があまりにも眼につくからだ。そして、さらに20年、いくたの艱難辛苦をすぎて、ようやく身のほどを心得るようになる。ここにきて、やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる。だが、そのときにはもうこの世を去らなければならない。

 エドワード・バーンジョーンズ。

 思わず笑い出した。
 身につまされたからではない。複雑な思いがあった、というわけでもない。むしろ、この芸術家と私の、あまりの懸隔(違い)に苦笑、失笑しただけである。
 私は、1946年、「戦後」すぐにもの書きになったが、最初の50年は、まさに錯誤のうちに過ぎ去って行った。というより、たてつづけにやってくる打撃と挫折のなかで、いつもいつもアップアップしただけである。
 作家としては2作目の長編(『暁のデッドライン』)で失敗したのだった。

 エドワード・バーンジョーンズはえらい画家だが、私ときたら、「いくたの艱難辛苦をすぎて」、現在の私自身をかえり見て、「やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる」どころではない。まあ、オレはアホやからなあ、と思ったけれど、そういう思いに自己憐憫はない。

 いつも一歩踏み出すことをためらったわけではない。理由は簡単で、一歩でも踏み出さなければ、オマンマにありつけなかったから。
 自分の弱点が眼につくどころか、はじめから弱点だらけ、ろくに才能もないので、もの書きとしては苦しいばかりだった。それから、さらに30年、一条の希望の光がさすどころではなかった。ごらんの通りのていたらくである。

 エドワード・バーンジョーンズ。私は、この画家にほとんど関心がない。

 クェンテイン・タランティーノの映画、「パルプ・フィクション」に出てくることばのほうが、ずっと身につまされる。
 この映画で、しがない三流ボクサー「ブッチ」(ブルース・ウイリス)は、ギャングのボスに八百長を命じられる。

    いいか、ブッチ、今のおまえは腕が立つ。だが、おそろしいことにお前はもう峠を越えてしまった。つらいことだが、現実は認めなければならぬ。(中略)
    おまえの周囲のやつらはクズばかりだ。自分は年とともに熟成するワインだと思っている。ほんとうは酢っぱくなって行く奴ばかりさ。おまえは、あと幾つ、戦える? せいぜい二つだ。いまさら、トップに立つなんて、無理なんだよ。

 「ブッチ」はギャングを裏切って、リングで相手の選手を殺したため必死に逃げる。ことのついでに、追跡してきたギャングの殺し屋(ジョン・トラボルタ)も殺してしまう。 (この映画で、死ぬやつは8人。タランティーノのスプラッター映画。)
 ブルース・ウイリスは、どんな映画に出ても大根だが、この映画の「ブッチ」はいい。
 映画女優、ロザンナ・アークェットが撮ったドキュメント、「デブラ・ウィンガーを探して」(2004年)のラストで、デブラがロザンナに語っている。

    期待が大き過ぎると、失望も大きくなるわ。だから、私は何も期待せずに仕事をつづけてきただけ。

 この映画のデブラ・ウィンガーこそ、「年とともに熟成するワイン」のような女性だと思った。