1882

エルンスト・グレーザーの小説を読む気になったのは、第1次世界大戦が起きた時代の、ドイツ側の状況を知りたかったからだった。
緒戦の高揚した気分がさめると、少年たちの世代にだんだん厭戦気分がひろがって、それがユダヤ人種に対する差別や迫害に形を変えて行く。
現在の新型コロナウイルスの感染拡大にそのまま重なるような部分もあった。

戦争のことなど殆ど忘れてしまった。戦死者のおそろしい数字にも慣れてしまった。当然のことだと思ふようにもなった。
ハムを略奪することは、ブカレストの陥落よりも、もっと面白かった。そして一俵の馬鈴薯は、メソポタミアでイギリス軍を全部捕虜にしたよりも、もっと大切になった。

戦死は依然として私達の町を襲っていた。牧師は戦死の光栄を歌いつづけた。私達は沢山な寡婦を見るのも慣れてきたが、彼等に会うと、丁寧にお辞儀しながら、その数が増してゆくのにおののいた。
また、一人の婦人が、守備よく夫の死骸を戦地から迎えて、町の墓地に埋葬するような場合には、私達は沈黙と真面目さを装って柩車の後についていった。
私達は個別に訪問して、使い残した僅かばかりの新しく発行された戦時公債に応募するように勧誘状をくばったりした。婦人達はそれに応募した。公債の応募が多ければ多いほど、夫達も早く帰国してくれるだろうと思ったのである。

戦争というものは、恐ろしい災厄だということがずっと前からわかっていた。戦線の兵士たちでさえ、負傷したときはうれしがった。もはや、人々の間には、一致団結というものがなくなっていた。飢餓がそれをきれいに破壊してしまった。

誰も彼も、隣人が自分よりも食料品を沢山もっていないか、疑い深い目で詮索した。出征をまぬがれるためにあらゆる手段を用いたものは、ごまかしやと言って嘲られた。けれども、彼等自身がやはり生きていたいからそうしただけだ。

この小説が私の関心を喚び起こしたのは、これが1930年に書かれていることにある。やがて――ドイツに、ナチスが出現する。ヒトラーが、1933年の総選挙で第一党になる。フォン・ヒンデンブルグ元帥は、ヒトラーを首相に任命する。

ミュンヘン・プッチ(一揆)から10年、ヒトラーが合法的に政権を握る。

2020年は、おそらく歴史的に大きな転形期、社会的な激変の時代、気候の変化もふくめて文明の危機さえ予想される時代のはじまりとなる。

エルンスト・グレーザーの小説など、もはや誰も読まないだろう。(ドイツ文学の優秀な翻訳家が改訳して、小説のタイトルを変えれば、まだ読まれる可能性はあるだろうが、そんな人はいないだろう。)

1881

書庫に残っている本をさがして、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を見つけた。ほかによむものもないので読みはじめた。1920年代の、ドイツ反戦小説。ルマルクの「西部戦線異常なし」とほぼ同時期に書かれたもの。

ルマルクの「西部戦線異状なし」は、昭和4年(1929年)秦 豊吉訳で、中央公論から出た。たしか、翌年、ベストセラーになったもの。翌昭和5年(1930年)には、当局の忌避にふれ、反戦小説として発禁になった。
グレーザーの「1902年級」は、ルマルクの小説がベストセラ-になったので、すかさず翻訳されたと思われる。清田 龍之助訳。昭和5年6月、萬里閣書房刊。7月には6版が出ているので、ベタセラ-になったのか。

この小説は、20世紀初頭に、固陋な学校教育をうけた世代、この時代にティーネイジャーだった世代を描く。
カイザー・ウィルヘルム2世のドイツ帝国の繁栄のかげに、ユダヤ人に対するはげしい差別、蔑視がひろがっている。「私」はユダヤ人の少年と親しくなって、国家、社会の矛盾に目覚めはじめる。この部分はドイツ的な教養小説と見ていいが、おなじ世代のツヴァイクの遺作、「昨日の世界」のほうがずっとすぐれている。

小説の後半は、第1次大戦の体験。西部戦線、ヴェルダン、ヴォーズで、英仏連合軍と死闘をくりかえし、国内には飢餓と爆撃の恐怖から厭戦気分がひろがってゆく。「私」は、恋人の少女の空爆死を見届ける。

 この小説について、トーマス・マンは、

非凡な作だ。真理を愛する心と人生を洞察する力とが一貫している。

という。おなじく、エリヒ・マリア・ルマルクは、

洞察力の鋭さはただに文学として価値あるのみならず、我らが時代の歴史として大切な記録だ。

そうな。また、アルノルト・ツヴァイヒは、

この一巻を通読した者はみな一様にいふであらう。何故今までこれを読まないでいただろう。

この本の箱(ブックケース)に印刷されたものをそのまま記録したのだが、私はこの人たちの推薦を妥当とは見ない。作品自体が残念ながらもはや死んでいる。

私がそう思ったのは――日本語訳で読んだせいかもしれない。清田 龍之助の翻訳(昭和5年)がよくない。あらためて、ある時代の文学作品の翻訳のむずかしさについて考えさせられた。

ほとんどの翻訳は、よくいって10年から15年しかもたない。鮮度が落ちる。
読者層も変わってくる。

時代によって、小説の読者の好みが変化すると見ていいのだが、ある時代の一般的な教育レベルによって読者の趣味がどこまで変化するか。
私は、ゆとり教育などという教育方針によって、読書力が低下したと見ている。そういう教育を受けた世代は小説を読む習慣をもたないし、かつての良識ある、よき趣味(ボン・グウ)に目もくれないのは当然で、それまでの読者層が失われたと思う。

チャイナ・コロナウイルスの世界的な感染のさなかに、1920年代の、ドイツ反戦小説を読む。まったく偶然だが、これからの小説、翻訳の可能性まで考えてしまった。

1880

これは、前に書いたと思うが、コロナ・ウイルスの感染拡大で、ヨーロッパが大きな被害を受けはじめていた4月、テレビで見たわずかな光景が心を打った。

イタリア・ミラーノ。外出禁止令が出たために、市中には誰ひとり姿をみせていない。

私が、イタリアで見たのは、まったく違うミラーノだった。誰ひとり市民の姿がない。絵ハガキのようなショットのなかに、ただひとり、有名な歌手が立っている。

ボッチェッリだった。

まるで、死の街と化したようなミラーノ。
だれひとり観客のいない大聖堂の広場で、ボッチェッリが「アヴェ・マリア」ほか5曲を独唱した。それをニューズとして流している。

時間としては、ほんの数分だろうと思う。
久しぶりにボッチェッリを見たが、容貌はすっかり老人で、別人のようだった。
私は、そのボッチェッリの姿に、感動した。歌よりも何よりも、ボッチェッリがまったくの無観客の広場に立っている。そのことに胸を衝かれた。このとき、ボッチェッリの胸に何がよぎっていたのか。

これもテレビで見たのだが、「封鎖都市・ヴェネツィア」。2月、カルナバーレで賑わうヴェネツィアは、コロナ・ウイルスについて誰ひとり知らない。この時期の感染者、ゼロ。死者、ゼロ。
だが、突然、コロナ・ウイルスの感染爆発が起きる。カルナバーレも、あと2日を残して中止される。こんな事態は、ヴェネツィア人のかつて知らない異常な事態だという。

ボッチェッリのシークェンスにつづいて――南米コロンビアで、男女の外出禁止。これもコロナウイルスの感染拡大を防ぐため。ボゴタ市内のショット。公園の広場、男たちが2、3人、ベンチでぼんやりしている。
ボゴタ在住で、私のブログを読んでくれた日本人がいた。なつかしい思い出のひとつ。

2020年4月。日本人女性で、ミュージカル、「ミーン・ガールズ」の舞台に立っていたリザ・タカハシの証言。
ブロードウェイは、「アラジン」、「プロム」などを公演していた劇場すべてが中止。2月には、まだオーディションが2,3あったが、3月から皆無になった、という。

私は、ブロードウェイで、ストレート・プレイやミュージカルを観に、夜の雑踏のなか劇場までいそいだことを思い出した。そのブロードウェイに、ほとんど人の姿がなかった。私は暗然とした。

ブロードウェイでさえこうなのだから、西海岸の劇場、公共劇場、各地を動いているトゥアー公演も、ほとんどが公演中止に追い込まれているだろう。
こういう状況で、いちばん先に生活に困るのは、いつも多数の舞台関係者、芸術家たちなのだ。
その後、感染はますますひろがって、大統領選の1カ月前に、トランプ大統領も感染するような事態を迎えた。
2020年10月10日、ブロードウェイの劇場は、すべての公演中止を、来年5月30日まで、延長することが決定された。今年3月中旬にはじまった劇場閉鎖は、ついに1年以上におよぶことになった。

ブロードウェイの関係者は、およそ9万7千人。経済効果は、年に148億ドル。日本円にして、約1兆5600億円。
この災厄は、アメリカ演劇史に残るだろう。

1879

「モンテーニュ通りのカフェ」(ダニエル・トンプソン監督)を見た。
ひょっとして、「日経」の記者だった吉沢 正英といっしょに見た映画だったかも知れない。

先輩の宮 林太郎さんはこの映画を見なかったと思う。
パリが好きで、私を相手にパリのことを倦むことなく語りつづけた人だった。そういう人にこそ、この映画を見せたかった。

エッフェル塔、ジョルジュ・サンク、シャンゼリゼ。私は、オテル・リッツからヘミングウェイ、アヴェニュ・モンテーニュからジュヴェの「シャイヨの狂女」を想像しながら見た。
この映画に出ている俳優、女優たちを私はまったく知らないのだが、ヒロインの「ジェシカ」をやったセシール・ド・フランスがいい。それに、女優の「カトリーヌ」のヴァレリー・ルメルシェが、映画のなかで舞台劇のフェイドーをやっている。これで、セザール賞の助演女優賞。アメリカの映画監督、シドニー・ポラック、ノン・クレジットで、ミシェル・ピコリが出ている。ついでながら、ジュリエット・グレコが、再婚した相手。

この映画に出ているクロード・ブラッスールは、父がピエール・ブラッスール、母がオデット・ジョワイユー。これだけでも、私にはうれしい映画。

テレビで美少女を見た。トラウデン直美という日独ハーフ。京都生まれ、京都育ち。引っ込み思案の美少女が、13歳からグラヴィア・モデル。父は京都大でドイツ語、文学を教えている。14歳、同志社国際高校に入学。引っ込み思案で英語がしゃべれなかったのがコンプレックス。慶応、法科に入学。「CanCan」の専属モデル。ファッション・モデルになる。スキニー・パンツが苦手。報道系の番組のキャスターとして登場する。ネットで買ったバッグ。消せるボールペン1本。イヴ・サン・ローランの口紅1本。リップ・クリーム。クロエの財布。コストコのカード。所持金、3万円。質実な性格。「くろ谷さん」の絶景。花柄の古着。キラキラしているようで、しっとりした感じ。値段も半額。食レポ。
「天下一品」のブタ重。そして、マッシュポテトをおかずにして白飯にまぜるドイツふうの和食。
こういう番組はあまり見ないのだが、この少女のキャラクターがおもしろい。
午後、これも美少女、アリーナ・ザギトワのドキュメント。ザギトワは、19年12月、突然、選手活動を休止すると発表した。私も残念に思ったひとり。当時、15歳のアンナ・シェルバコワ、アレクサンドラ・トルソワ、16歳のアリョーナ・コストルナヤが登場して、ザギトワはふるわなかった。日本では、浅田 真央引退のあと、やはり17歳の紀平 梨花が登場している。
ザギトワは、かるがると4回転をこなす年下の選手に敗れて、12月のグランプリでは最下位に沈んだ。平昌の冬季オリンビックで優勝したザギトワとしては、屈辱的な敗北だったに違いない。

久しぶりにテレビで見るザギトワは美少女だった。内面の苦悩は見せないが、自分でも明るくふるまっている。それが、かえっていたいたしかった。メドベージェワのようにカナダに移ってスケートをつづける選手もいるが、若いだけに、輝かしい未来が待っているだろう。人生はスケートだけではない。といより、スケートから始まった人生と思えばいい。

1878

礒崎 純一著、「龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝」を読みはじめた。
すごい大作で、読み終えるのに、3日もかかってしまった。思いがけないことに、私の名前は7カ所出ている。澁澤君と同時代に生きただけに、少年時代から「戦後」すぐの彼の環境に、どこか重なりあうような気がした。むろん、私の身勝手な思い込みだが。

私が澁澤君の交誼を得たのは「血と薔薇」からだが、礒崎 純一は、

それまでの澁澤の交友関係からみてめずらしい部類に入るのは、植草甚一、中田耕治、堀口大学、杉浦明平、高橋鐡、川村二郎、倉橋由美子、野坂昭如、武智鉄二といったところか。特に、中田耕治と植草甚一を執筆者に選んだことを、澁澤は得意に思っていたらしい。  (P.277)

と書いている。
わずかな記述だが、これだけでも、「血と薔薇」の時代がよみ返ってきて、感慨をあらたにした。なつかしい澁澤君。

私は、ある時期からまったく文壇のひとびとと交遊しなくなった。(できれば、いつか、その事情についてブログに書くつもりだが)。

いつも孤立していた私などは、澁澤君の交友関係からみてめずらしい部類に違いない。逆に、澁澤君が、私を「血と薔薇」に誘ってくれたおかげで、この評伝に登場する種村 季弘、松山 俊太郎、加藤 郁也といった当代きっての特異な文学者たちを知ることができた。

今や、これらの人々のことごとくが鬼籍に入っている。

1877

コロナ・ウイルスの災厄が拡大の一途をたどっていた2020年夏。

ミレッラ・フレーニの訃報を知った。84歳。

オペラ歌手としても異例の高齢で、70代になっても歌いつづけていたひとり。

私はミレッラよりもテバルデイやコソットのほうが好きだったが、それでもミレッラはよく聞いた。「ラ・ボエーム」の「ミミ」だけでも10回は聞いた。

ミレッラはマリア・カラス以後のオペラを代表し得たと思う。ともあれ、こうして私たちの生きている船の航路からまたひとりの芸術家が姿を消した。

このブログを書きはじめた頃の私は幸福だったし、けっこう多忙だった。頭の中にはいろいろと書きたいことがいっぱいあった。
ところが、コロナ・ウイルスの感染者数が、世界的にひろがるにつれて、もの書きとしての自分の過去、たいした作品も書けなかった自分の思い出ばかりが気になるようになった。
妻と死別したあと、それに続くごたごた、さらに、私が作家としてなんとかやっていけるようになるまで、私と亡妻、百合子をいつも応援してくれた義姉、小泉 賀江が他界したこと、こうした思い出がひしめきあって押し寄せてきた。
大げさにいえば、寝てもさめても心にひしめきあっているようだった。

いつもそんな状態だっただけに、「SHAR」の仲間たちや、渡辺 亜希子から、ヴァレンタイン・チョコレートをもらったのはうれしかった。

先月、寒中見舞で安東さんのことを知り、本当に驚きました。
安東さんと初めてお会いしたのは、先生の授業の時でした。
大学卒業後はネクサスのイベントでお会いする程度でしたが、前のイメージのままだったので、今回のことは言葉を失いました。中田先生はどれたけショックだったろうと思い、心配しています。(後略)

ありがとう、亜希子さん。本人も不治の病と覚悟していただけに安東君の訃にショックを受けたわけではない。ところが私は安東君追悼の文章も書けなくなっている。

このことのほうがショックだった。

なにしろ老齢の作家なのだから、創造力が枯渇するのは当然というもので、それは仕方がない。しかし、ブログを再開したとき、自分の書くものが、やたらに長いものになっていることにあきれた。かつての集中力がなくなっている。

それに気がついたせいか、このブログも書けなくなってしまった。われながら不甲斐ない次第としかいいようがない。この文章もその例。

毎日、コロナ・ウイルスのニューズを気にしながら、音楽を聞いたり、DVDで、昔みた映画を見直したりしていた。そのため、このブログも、音楽や古い映画のことが多くなっている。

何しろ、新刊の本が読めない。行きつけの古本屋は廃業してしまった。図書館も閉鎖されている。
そんなとき、岸本 佐知子が贈ってくれた、ショーン・タンの絵本や、リディア・ベルリンの短編集、エッセイ集、「ひみつのしつもん」を、何度も読み返した。おなじ著者のおなじ本をこれほど熱心にくり返して読み返したことはない。

ミレッラ・フレーニが亡くなったので、CDを聞いて彼女を偲ぶつもりだが、今日はビデオもCDも探せないので、せめて明日、「椿姫」を聞くことにしよう。

1876 東山 千栄子(4)

俳優の「芸談」を読む。
「戦後」、いろいろな女優が「芸談」を残している。たとえば、水谷 八重子(といっても現在の水谷 八重子ではなく、守田 勘弥<十四世>の夫人だった水谷 八重子の)「ふゆばら」という随筆。杉村 春子の「楽屋ゆかた」、高橋 とよの「パリの並木路を行く」、柴田 早苗の「ひとりも愉し」、映画スターだった入江 たか子の「映画女優」といった随筆。
もう、誰も知らない女優たちの著作で、おそらくゴーストライターの書いたものも含まれている。内容的には、読むに耐えないものもある。

そのなかで、東山 千栄子の「新劇女優」は、自分の手で書きつづった文章で、この女優の誠実さが感じられる随筆だった。
何度かくり返して読んだ。

私たちのうちのある型の俳優は、役をうけとったときに、どの場処をどう生かしてどのように効果をあげるべきかということを敏感に計算して、そこから出発します。ある型の人たちは、まず自分の方に役をひきよせます。自分の持っている個性的な素材でいかに処理して行くかというところに表現の出発点をおくのです。けれども、私はそのどっちのみちからもはいっていけないやっかい(傍点)な型に属しているらしく、いつでも永字八法からのお手習いです。
全体を全体としてうけとり、全体として処理して行く――それが、私の不器用な、唯一の方法です。
私は、私としてもっとも誠実な道を進んで行くほかはないのです。劇場というところは、誠実をわかち合うための場処――そう私は信じています。今日、私たちにもっとも必要なものの一つではないでしょうか?

私は、こういう東山 千栄子が好きだった。こういうことばは、やはりたくさんの舞台でたくさんの「役」を演じてきた女優のたじろがない自負心、と同時に、三十なかばになって、はじめて舞台女優をめざしながら、いつも初心を忘れなかった東山 千栄子の孤独さえ感じるのだ。

このブログを書いているときに、女優、竹内 結子の訃を知った。このとき、私は、東山 千栄子のエッセイの結びのことばを思い出した。

今度の稽古中の悲しい出来ごとは、公演を九日前にひかえての堀阿佐子さんの突然の自殺でした。あの方がはじめて舞台を踏まれた時から私は文学座で存じ上げていますだけに、私は悲しさをひしひしと感じるのです。どうぞこの「フィガロの結婚」が成功してせめてあの方の霊を慰めてあげることが出来たならば……そう心にいのりながら私は毎日の舞台を踏んでいるのでございます。

1949年5月、ボーマルシェの「フィガロの結婚」がピカデリー劇場で上演された時期に書かれた。堀 阿佐子は「文学座」の若い女優で、「戦後」もっとも属目されていた女優であった。私は堀 阿佐子と直接のかかわりはまったくなかったが、彼女が自死を選んだ若干の事情は知っていた。むろん、ここには書かないが。

「戦後」、まだまだ混乱が続いていた時期で、毎日のように悲惨で、陰惨な事件がつづいていた。そうした混乱のさなかに自殺した堀 阿佐子の死を「俳優座」の東山 千栄子が悼んでいる。

いまさらながら東山 千栄子の誠実に胸を打たれる思いがあった。

コロナ・ウイルスという災厄のなかで、私たちは、三浦 春馬、藤木 孝、竹内 結子の死を知らされた。このひとたちが、東山 千栄子を知っていたら。

もとより、愚かな思いと承知している。だが、私はひそかにつぶやくのだ。
俳優や女優は、「役」として以外に死を選んではならぬ、と。

 

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1875 東山 千栄子(3)

はじめて東山 千栄子が復活したのは、戦後すぐ(1945年12月)の「桜の園」だった。東山 千栄子の「ラネーフスカヤ」である。戦後の私は、3度の戦災で、ひどく窮乏していたから、「桜の園」東劇公演の印象は、まるではじめて「宝塚」でも見たような、まるで夢でも見たような気がする。その後の「桜の園」の印象と重なりあったせいか、全体の印象もぼうっとしているが、東山 千栄子のラネーフスカヤだけは、あまり何度も見たせいか、照明のゼラチン・ペーパーを何枚も重ねたように、その印象がくっきりと浮かびあがる。

そうなると、たとえば、岸 輝子の「カーロッタ」はどうだったか、とか、何幕何場の楠田 薫はどうだったか、三戸部 スエとは、ここでどう動いていたっけ、などといろいろと思い出す。

戦後の翌年の3月、ゴーゴリの「検察官」の東山 千栄子もよく覚えている。それも、へんなことで。

幕があがって、市長夫妻が町の名士たちと登場する。和気藹々とした雰囲気でそれぞれが大きな食卓につく。ここで、皇帝陛下の「検察官」が、何の前ぶれもなく、この小さな街の視察にやってくることが知らされて一同に衝撃が走る場面だが、食卓にむかって、10人ばかりが腰をおろす。

最後に若い俳優が席につくのだが――椅子がない。
大道具方の手違いだったのか。
その俳優は自分の居どころがわからないので、ウロウロと椅子の位置に目を投げる。
みんなが着席しているのに、若い俳優ひとりが立ち往生している。出トチリである。

若い俳優がうろたえているのは、観客にもわかった。はじめは、誰しもそういう演出なのだろうと思ってみている。しかし、1秒、2秒、3秒と、時間がたって、さらに数秒も過ぎれば、この役者がなんらかの事情でトチったばかりか、そのトチリで芝居の流れがとまったことぐらい、観客にも見えてくる。
ありえないトチリだった。
観客席の私は、自分までがあわてふためいて椅子をさがしている役者になったように、息をのんでみていた。同情する、とか、軽蔑するといった感情ではなく、この役者がどうしていいか、冷や汗をかきながら必死にうろたえている姿を見ていた。「必死にうろたえている」というのもおかしな表現だが、私自身が「必死にうろたえて」いた。

さらに数秒たった。
と、食卓の中央に座った東山 千栄子(市長夫人)が、席から立ちあがって、その役者に優雅に会釈しながら、羽飾りのついたやや大ぶりの扇を動かした。隣りにいた俳優が、腰を動かして、若い俳優を着席させた。つまり、一つの椅子にふたりが着席したことになる。この役者は、若い役者より先輩だが、まだ中堅俳優ともいえない永井 智雄だった。

ようやく、ドラマが動きはじめた。とりとめのない思い出だが、私の内面に、この舞台の東山 千栄子の姿が刻みつけられている。

コロナ・ウイルスのニューズの氾濫している新聞に、東山 千栄子を詠んだ俳句が載っていた。この俳句から、これまたとりとめのないことを書く。

1874 東山 千栄子(2)

東山 千栄子は、明治23年、千葉生まれ。

父は、千葉地方裁判所の所長だった。のちに、朝鮮の京城高等法院長になる。
千栄子は、10歳のとき、母方の寺尾家の養女になる。養父は、当時、東大で、国際法の教授だった。
明治36年、千栄子は、麹町の富士見高等小学校2年のとき、学習院の入学試験を受けた。1年の合格者のなかに千栄子の名前はなく、2年に編入された。千栄子を1年に合格させたのでは、学力があり過ぎて、他の生徒がこまることを心配して、とくに2年に編入されたという。

当時の学習院は、下田 歌子が校長だった。

学習院女学部は、上流の子女ばかりで、小笠原流の作法、西洋料理の食べ方、ダンスなどをきびしく躾けられた。母の希望で、フランス語、華道、琴などを習った。

18歳で結婚。貿易商だった夫にしたがってモスクワに移る。20代の8年間に、帝政ロシアの最後の日々を過ごしたことは、その生涯に決定的な意味をもった。モスクワ芸術座の芝居や、オペラ、バレエ、イタリアの絵画などに親しむ。小山内 薫を知る。

帰国して、「築地小劇場」の「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー/大正13年)を見て、女優になろうと決心する。36歳。小山内 薫に相談して、研究生に合格する。同期に、滝沢 修、伊達 信、岸 輝子(のちに、千田 是也夫人)、村瀬 幸子がいた。

東山 千栄子は、ほかの女優と違ったところがある。女優になりたいと思って「築地小劇場」の研究生になったのが、そろそろ中年に近い年齢だったこと。その前に、ロシアのモスクワで、たくさん芝居を見ていたこと、フランス語、ロシア語に堪能だったこと。
体型が大柄で、ややでっぷりしていたこと。生まれつきアルト系の、どちらかといえば、甘ったるい、歌うような声だったこと。
こういう女優は、岸 輝子や、村瀬 幸子などのもたないものだった。

女が女優として生きることが恥ずべきことと思われた時代に、はじめから別格の、名流夫人の登場といった感じがあった。それだけに、ヨーロッパ、アメリカの芝居を、東山 千栄子ほど多数演じた女優はいないだろう。

オニール、ボーマルシェ、シェイクスピア、イプセン。

「築地小劇場」の観客は、東山 千栄子の芝居を見ることによって、かなりの程度、外国の劇作家の仕事を勉強してきたはずである。その意味で、東山 千栄子は、彼女より前の世代の女優たち、松井 須磨子、藤沢 蘭奢、沢 モリノなどより、ずっと有利な条件で女優として出発している。
なにかのことで、ふと東山 千栄子を思い出すことがある。
そういうときの私の内面には、千田 是也、小沢 栄(栄太郎)といった幹部たちよりも、少し格下の松本 克平、信 欣三、永井 智雄、浜田 寅彦、田島 義文たち。女優としても、岸 輝子、村瀬 幸子よりも、赤木 蘭子、楠田 薫、三戸部 スエたちの思い出がよみ返ってくる。
いつもその中心に東山 千栄子がいた。まるで東山 千栄子を触媒にして、つぎつぎにほかの人たちを思い出すようだった。

なつかしい俳優たち、女優たち。もう、誰もこの人たちのことをおぼえていないだろう。だが、こういう人たち、それぞれが舞台のうえでかがやいていた。その思い出の中心に東山 千栄子がいるのだった。

1873 東山 千栄子(1)

 

 

新聞にこんな一句が載っていた。俳人の長谷川 櫂の解説がついている。

東山千栄子のやうな 衣被(きぬかつぎ)

今井 聖

チェーホフ「桜の園」のラネーフスカヤ、小津 安二郎「東京物語」の母親。
たたずめばグランドピアノ、歩けば白い帆を張った帆船のように優雅だった。
衣被(きぬかつぎ)を前にして往年の名優を懐かしんでいるのだ。句集「九月の明るい坂」から。

衣被(きぬかつぎ)は、里芋の子を茹でたもの。指をそえて、少し力をいれると里芋の皮がつるりと剥けて、白い実が飛び出してくる。季語としては、秋。

女優の名前がそのまま俳句に詠み込まれているめずらしい例。女優が愛されて、ここまで表現されていることに感動した。
ゆくりなくも、この句とは関わりなく東山千栄子のことを偲んだ。

1952年(昭和27年)、私は「俳優座」養成所の講師になった。内村 直也先生の推輓による。当時、日本は講和条約が成立して、日本人の海外旅行も自由になったばかりだった。ラジオ・ドラマの「えり子とともに」で、人気を得ていた内村さんは、1TI(国際演劇協会)の日本代表として、リドで開催される「劇作家会議」に出席することになった。ひきつづいて、「ユネスコ」の「世界芸術家会議」に日本代表として出席するため、後任の「俳優座」養成所の講師に私を推薦したのだった。内村さんは、主にアメリカ、イギリスの現代劇をとりあげて講義なさっていた。
この頃、イギリスのプリーストーリーの「夜の来訪者」を訳していたはずである。これも、内村さんの代表作のひとつになる。

一方、私は、「戦後」すぐに批評を書きはじめたが、まともな批評家にもなれず、ミステリーの翻訳をしたり、民間放送の仕事、ラジオ・ドラマや録音構成というドキュメンタリーや雑文などを書きつづけていたが、まるっきり才能のない文学青年だった。
芝居はよく見ていたが、現実の舞台については何も知らない。「俳優座」で知っていたのは、青山 杉作だけで、それも私のラジオ・ドラマを演出した演出家というだけの関係だった。要するに、私は何も知らないまま、「俳優座」養成所の講師になったのだった。
何も知らないだけに、「俳優座」養成所で、若い俳優志望者にどういう訓練をするのかぜひ見ておきたかった。(このときの経験は、後年、大学や「バベル」で教えるエデュカチュールとしての私を作りあげたと思っている。)

講師になってすぐに、東山 千栄子に紹介された。紹介してくれたのは、千田 是也だった。

当時、御殿場に住んでいた東山さんは、劇団には週に一度、顔を出す程度だったのではないか。この日は、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の稽古があって劇団にきたのではないかと思う。
「こちらは、今度、養成所で講義をお願いした中田先生です」
千田 是也が紹介すると、東山 千栄子はにこやかな微笑を見せて、
「若い先生でいらっしゃいますのね。養成所のほうでいろいろお世話になりますが、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
私はあわててお辞儀をした。このときの私は、ほんとうにラネーフスカヤ夫人に会ったような気がしたのだった。

「俳優座」養成所で、若かった私は、臆面もなく、イギリスの風俗喜劇から、アメリカの30年代のミュージカル、「戦後」のアーサー・ミラー、テネシー・ウィリアムズあたりの戯曲について「講義」をつづけた。

残念ながら東山 千栄子とは、舞台や放送の仕事でつきあう機会はなかった。

1872

2020年9月23日、歌手のジュリエット・グレコが亡くなった。
93歳。
南フランス、モンペリエの出身。あるいはコルシカ島の出身。レジスタンスに参加。母と姉は、ドイツのラータフエンスブリュック強制収容所に送られた。

このことは、ジュリエット・グレコの人生に大きな影響をあたえたと思われる。少女の身で一家離散の悲劇を経験したこと。戦後、誰もがレジスタンスに参加していたような顔をしたとき、戦時中に身をもってレジスタンスに参加した若い女性だったことは、ジュリエット・グレコの内面に深く刻まれている。

「戦後」、セーヌ左岸で、シャンソンの女王と呼ばれた。サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ。ジャン・ポール・サルトル。ボリス・ヴィアン。シモーヌ・ド・ボーヴォワール。

コクトオの映画、「オルフェ」に、女優として登場する。
カフェ「詩人の家」の前で一人の若者が車に撥ねられて死亡する。冥界の女王(マリア・カザレス)が、事故の目撃者として、居合わせた詩人「オルフェ」(ジャン・マレェ)を黄泉(よみ)の国につれて行く。「オルフェ」の妻(マリー・デア)は失踪した夫の捜索を警察に依頼する。「詩人」は帰宅するが、運転手は自殺した学生「ウルトビーズ」(フランソワ・ペリエ)である。「オルフェ」は、ふたたび姿をあらわした冥界の女王を追って「黄泉の国」につれ去る。

この映画で、ジュリエット・グレコは、ジャン・マレー、フランソワ・ペリエ、マリア・カザレス、マリー・デアにつづいて、ビリング/5だが、女優としてはまったく見るべきところがない。(この映画が、当時、ルイ・ジュヴェ演出でジャン・ルイ・バローが舞台に立った「スカパン」の装置を作ったクリスチャン・ベラールに捧げられている。クリスチャン・ベラールは、「スカパン」の稽古中に劇場で倒れた。心臓発作で亡くなっている。この映画を見て、コクトオがこの映画をクリスチャン・ベラールに捧げた意味が分かったような気がした。)

ただし、この時期のジュリエットは、女優として成功するとは思えなかった。女優としては、やはり「恋多き女」、「日はまた昇る」(57年)よりも、「悲しみよこんにちは」(58年)までまたなければならない。

ジュリエット・グレコのキャリアーは、はっきりいって、80年代までだったのではないか。サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの時代が去って行くにつれて、ジュリエット・グレコの時代も終わろうとしていた。

日本には20回以上来日しているが、私が見たのは、ジュリエットが引退する前、東京公演だった。87歳で、東京でリサイタルをする予定だったが、急遽、キャンセルした。体調をくずしたからだったと思う。

翌年、ジュリエットが引退する前の東京公演を見た。親しい女友だちと。
2014年9月26日、渋谷。

ステージのジュリエットは黒いドレスだった。戦前のダミアのように。

あのファッションに、しなやかなからだと、するどくとぎすまされた知性が隠されている。そして、もはや引退も間近な高齢なのに、聴衆の心をかきみだす何かがある。
はじめは、かつて世界的な名声を得た芸術家が身につけている特有のオーラなのだろうと思ったが、どうやらそうではなかった。あきらかに動きがにぶくなっているし、高音が出せない。しかし、衰えは感じさせない。
それでいて、私が見たものはジュリエットの、何に対しても心を開くような透明感のある誠実さ、としかいいようのないものだった。

シャンソニエにおける誠実さ(サンセリテ)とは何か。音楽学者なら、そのあたりうまく説明してくれるだろうが、ただの観客にすぎない私には、うまく説明することができない。ただ、ジュリエットのシャンソンは、「セーヌ左岸の女王」という光栄に包まれてステージに立って身につけてきた輝きと、いまや老齢に達して、ときに音程もおかしくなっている自分のあるがままとの、一種の置き換え(トランスポジション)にある。
当然、この日の観客たちも、それに気がついたと思う。

はるか後年に、ソヴィエト崩壊後に、来日したリューバ・カザルノフスカヤのリサイタル形式の「サロメ」を聞いた。おそらくキエフからの長旅の疲労のせいだろうが、リューバが高音のピッチを外したのを聞き届けた瞬間、私はジュリエット・グレコの歌を思い出した。

このときのリューバに、オペラ歌手が、みずから演じる誠実さ(サンセリテ)のドラマを私は見たように思った。それは、ジュリエットの誠実さ(サンセリテ)とは違うものだったが、私はリューバに感動したのだった。

これも余談だが、ジュリエットは、フィリップ・ルメールと離婚したあと、映画スターのミッシェル・ピコリと再婚している。(66年~77年)。私はミッシェル・ピコリにはあまり関心がなかったが、その後、ジュリエットと離婚した彼の回想を読んだ。この回想はおもしろかったが、ジュリエットの誠実さ(サンセリテ)にピコリは気がつかなかったのではないか、と思った。
ジュリエットは、ビコリとし離婚したあと、アメリカのジャズ奏者、マイルズ・デイヴィス相手のロマンスが伝えられた。

このロマンスについては、何も知らない。

マクロン大統領は、9月23日、ジュリエットの死を知って、

グレコの顔と声は、私たちの人生とともに生きつづけるだろう。サン・ジェルマン・デ・プレのミューズは永遠なのだ。

とツイッターに書き込んだ、という。

1871

2020年5月。世界経済は悪化の一途を辿っていた。ユーロ圏19カ国のGDPは、前年比、7.7%減の予測。1996年以降、最大の落ち込み。

私は、毎日、おなじような日々を過ごしていた。
本も読むには読むのだが、なにしろ根気がなくなっているので、なかなか読み進められない。
書庫に残っている本をさがして、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を読みはじめた。1920年代の、ドイツ反戦小説。ルマルクの「西部戦線異常なし」とほぼ同時期に書かれたもの。

ルマルクの「西部戦線異状なし」は、昭和4年(1929年)秦 豊吉訳で、中央公論から出た。たしか、翌年、ベストセラーになったもの。翌昭和5年(1930年)には、当局の忌避にふれ、反戦小説として発禁になったはずである。
この「1902年級」は、ルマルクの小説がベストセラーになったので、すかさず翻訳されたと思われる。清田 龍之助訳。昭和5年6月、萬里閣書房刊。7月には6版が出ているので、ベタセラーになったのか。

この小説は、20世紀初頭に、固陋な学校教育をうけた世代、この時代にティーネイジャーだった世代を描く。
カイザー・ウィルヘルム2世のドイツ帝国の繁栄のかげに、ユダヤ人に対するはげしい差別、蔑視がひろがっている。「私」はユダヤ人の少年と親しくなって、国家、社会の矛盾に目覚めはじめる。この部分はドイツ的な教養小説と見ていいが、おなじ世代のツヴァイクの遺作、「昨日の世界」のほうがずっとすぐれている。

小説の 後半は、第1次大戦の体験。西部戦線、ヴェルダン、ヴォーズで、英仏連合軍と死闘をくりかえし、国内には飢餓と爆撃の恐怖から厭戦気分がひろがってゆく。「私」は、恋人の少女の空爆死を見届ける。

この小説について、トーマス・マンは、

非凡な作だ。真理を愛する心と人生を洞察する力とが一貫している。

という。おなじく、エリヒ・マリア・ルマルクは、

洞察力の鋭さはただに文学として価値あるのみならず、我らが時代の歴史として大切な記録だ。

そうな。また、アルノルト・ツヴァイヒは、

この一巻を通読した者はみな一様にいふであらう。何故今までこれを読まないでいただろう。

この本の箱(ブックケース)に印刷されたものをそのまま記録したのだが、私はこの人たちの推薦を妥当とは見ない。作品自体が残念ながらもはや死んでいる。

私がそう思ったのは――日本語訳で読んだせいかもしれない。清田 龍之助の翻訳(昭和5年)がよくない。あらためて、ある時代の文学作品の翻訳のむずかしさについて考えさせられた。

この小説を読んだのは、第1次世界大戦が起きた時代の、ドイツ側の状況を知りたかったからだった。緒戦の高揚した気分がさめると、少年たちの世代にだんだん厭戦気分がひろがって、それがユダヤ人種に対する差別や迫害に形を変えて行く。
現在のチャイナ・コロナウイルスの感染拡大にそのまま重なるような部分もあった。

戦争のことなど殆ど忘れてしまった。戦死者のおそろしい数字にも慣れてしまった。当然のことだと思ふようにもなった。
ハムを略奪することは、ブカレストの陥落よりも、もっと面白かった。そして一俵の馬鈴薯は、メソポタミアでイギリス軍を全部捕虜にしたよりも、もっと大切になった。

戦死は依然として私達の町を襲っていた。牧師は戦死の光栄を歌いつづけた。私達は沢山な寡婦を見るのも慣れてきたが、彼等に会うと、丁寧にお辞儀しながら、その数が増してゆくのにおののいた。
また、一人の婦人が、守備よく夫の死骸を戦地から迎えて、町の墓地に埋葬するような場合には、私達は沈黙と真面目さを装って柩車の後についていった。
私達は個別に訪問して、使い残した僅かばかりの新しく発行された戦時公債に応募するように勧誘状をくばったりした。婦人達はそれに応募した。公債の応募が多ければ多いほど、夫達も早く帰国してくれるだろうと思ったのである。

戦争というものは、恐ろしい災厄だということがずっと前からわかっていた。戦線の兵士たちでさえ、負傷したときはうれしがった。もはや、人々の間には、一致団結というものがなくなっていた。飢餓がそれをきれいに破壊してしまった。

誰も彼も、隣人が自分よりも食料品を沢山もっていないか、疑い深い目で詮索した。出征をまぬがれるためにあらゆる手段を用いたものは、ごまかしやと言って嘲られた。けれども、彼等自身がやはり生きていたいからそうしただけだ。

この小説が私の関心を喚び起こすのは、これが1930年に書かれていることなのだ。
やがて――ドイツに、ナチスが出現する。ヒトラーが、1933年の総選挙で第一党になる。フォン・ヒンデンブルグ元帥は、ヒトラーを首相に任命する。

ミュンヘン・プッチ(一揆)から10年、ヒトラーが合法的に政権を握る。

私は、新型コロナウイルスの世界的な感染のさなかに、のんきに1920年代の、ドイツ反戦小説、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を読んでいたのだった。

1870

何かやり残したことがあると気になって仕方がない。昨日、市立美術館に行ったが、休館日だった。たしかめてから出かけるべきだったのに。

翌日、美術館にたどり着いて、「初期浮世絵から北斎・広重まで」を見た。アメリカ人、メアリー・エインズワースのコレクション。
オバーリン大学・アレン・メモリアル美術館所蔵。メアリー(1867~1950)が集めた1500点のなかから、今回、200点を展示したもの。
浮世絵に関して、ほとんど知識のない私にとっても貴重に思える作品があった。あらためて、春信、歌麿の女たちの魅力に惹かれた。

ほかにすることもないので、サッシャ・ギトリの「あなたの目になりたい」(1933年)を見た。サッシャ・ギトリ、ミア・パレッリ。ジュヌヴィエーヴ・ギトリ。そしてマルグリート・モレノ。

じつは、拙著、「ルイ・ジュヴェ」のなかで――現在、マルグリート・モレノの映画を見る機会はほとんどないと書いた。当時は、そんなことを書いたのだが、マルグリート・モレノの映画がDVD化されたのでこの映画が見られるようになった。
ミアは、コクトオの「美女と野獣」に「サンドリオン」の姉の役で出ているが、33年当時は、「娘役」(ジューヌ・プレミエール)だったことがわかる。もう一つ、映画の途中、キャバレのシーンに物真似芸人が出てくる。あっと思った。

この芸人が、なんとルイ・ジュヴェの詩の朗読をパロディーしている。ジュヴェそっくり。物真似されるくらいだから、逆に、ジュヴェの人気が高かったことがわかる。この芸人はさらに、シャルル・デュラン、ミッシェル・シモンの物真似。おそらく、サッシャ・ギトリがこの三人のピエ・ド・ネェをやってみせたのか。この芸人の名はわからない。

こんなつまらないシーンを見て、当時のことをいろいろと想像する。

私の好きなTVの番組の一つは、「世界 なぜそこに日本人」。

今回は――アフリカ、マリ共和国、北部の寒村、マフェレニ村。電気も水道もない村に、村上 一枝という老婦人が住んでいる。78歳。

1940年、岩手県に生まれた。父は歯科医。無医村に巡回して無料で診察する医師だった。父の影響で、1958年、日本歯科大に入学。卒業後、結婚、歯科医になった。

38歳のとき、異常な激痛に襲われ診察を受けて、結核性子宮内膜炎、卵巣結核と診断され、子宮、卵巣を全摘。子どもの産めないからだになった。やがて、離婚した。

44歳で、小児歯科専門の医院をはじめ、年収、4000万円。

年に1度、海外旅行に出かける。たまたまサハラ砂漠観光に行ったとき、マリ共和国に立ち寄った。ここで――子どもが重い病気なのに病院に行くことができず、ただ死を待つばかりの現実を見た。
当時、マリの幼児の死亡率は高く、4人に1人が死亡していた。これを知った村上さんは、自分の診療所を売却、単身、マリにわたった。

これまでに、小学校、中学校を20校設立、助産院を11棟、設立した。現在、子どもの死亡率は、9人に1人になっている、という。

こういう日本人を見ると、私は感動する。こういう人生もあるのだ、と思う。むろん、おのれの人生とひき較べてだが。

この夜、寝る前に、新しいイヤフォンで、キャサリン・マクフィーを聞く。「I fall in love too easily」。ずっと印象がよくなった。前に聞いたときは、クラシック・ジャズのアレンジとして、それほどデキはよくないような気がした。久しぶりに聞きなおして、なぜキャサリンがジャズ・クラシックの歌唱法に戻ったのか少しわかったような気がする。

1869

(つづき)

こんな雑文にも、私なりの工夫はある。

読者の大多数は、私のあげた「世界の名作」を、おそらく読んでいない。私のエッセイを読んで関心をもった人もおそらくいないだろう。
ただし、そういう人でも、「世界の名作」が映画化されれば、映画を見て、原作を読んだ気になるか知れない。少なくとも、その作品のプロットぐらいは記憶にとどめるかもしれない。むろん、そんな可能性も低いだろうけれど。

こういう雑文を書く目的は、じつはそういう読者がひとりでも多くなることへの期待がこめられている。

1968年。アメリカでは、共和党のリチャード・ニクソンが、僅差で、民主党のリベラル派の候補を破って、大統領になる。ヴェトナム戦争は泥沼化していた。
ミュージカル、「ヘアー」の時代。ウディ・アレンの「ボギー 俺も男だ」。そして、シャロン・テートの惨殺事件。

吹けば飛ぶような雑文家業でも、そうした心意気がなかったら続けられるものではない。これは、ブログを書くときもおなじ。

さて、長ったらしいブログもこれでおしまい。

1868

自分のことを語るのは気がひけるのだが――60年代の私は、批評家として少しづつ変容の兆しをみせはじめていたような気がする。
マリリン・モンローの急死をきっかけに、私は評伝めいたものを書きはじめる。
一方、この64年、吉川 英治論を書いて、この翌年、小栗 虫太郎の「成吉思汗の後宮」解説、横溝 正史の「鬼火」解説などを書いている。かんたんにいえば、大衆文学のイデオローグへの変貌であった。
その頃の私は、ジャズにのめり込み、コールマン、ディジー・ガレスピー、ボブ・ディランなどについて書いている。ある週刊誌で、ほぼ4年にわたって、映画批評を書き続けていた。やがて、吉沢 正英との出会いから「日経」の映画批評を書くことになった。

たいして才能もない作家で、いっぽうでミステリーを書いたり、時代小説に手をつけたり、そうかとおもえば、ジャズやポップスについて、したりげに意見をのべたり、ようするに、うさんくさい物書きのひとりだった。

この頃、よく「映画化された世界の名作」といったエッセイを依頼されることが多くなった。
自作、それも未熟なエッセイをあらためて披露するのはおこの沙汰だが、耄呆(ボウボウ)の身なれば、あえてお許しいただく。

*   *   *   *   *   *   *

世界の名作

文学作品で、世界の名作といわれるものは、ほとんどが映画化されている。
サイレント映画の歴史をしらべると、「ファウスト」、「復活」、「レ・ミゼラブル」、「マクベス」、「ロミオとジュリエット」、「モンテ・クリスト」といった映画がならんでいる。「アンナ・カレーニナ」、「ハムレット」のように、何度もリメイクされて、いずれもその時代の優れた作品にあげられるものもすくなくない。
なぜ、世界の名作が、映画化されるのか。
これには、はっきりした理由がある。
たいていの名作は、けっこうむずかしい内容をもっている。だから、ほとんどの読者は、名作のタイトルは知っていても、実際にその本を手にとることは少ない。ところが映画は、難しい原作を読まなくても、スクリーンを見るだけで、原作の内容がわかるので、観客は、こうした映画を歓迎する。
だから、「世界の名作」というと、普通の映画作品よりも高級なもののようにありがたがるのは無邪気な錯覚といってよい。

そのため、世界の名作の映画化などという作品を、はじめから軽蔑する人も多かった。
これも、ほんとうは無邪気な錯覚といっていい。

たしかに、世界の名作の映画化には、原作の筋(プロット)や、原作の香気も意味も無視した紙芝居のような作品が多かったことは事実だが、たとえばフランコ・ゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」と、その前に、私たちを感動させたカステラーニの「ロミオとジュリエット」を比較すれば、その現代性、映像のあたらしさ、さらに
原作への肉薄ぶりから見て、やはりゼフィレッリに高い評価を与えられる。フランコ・ゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」と、その前に、私たちを失望させたカス
テラーニの「ロミオとジュリエット」を比較すれば、どちらがいい映画なのか、はっきりわかる。そういう比較ができることも、世界の名作の映画化を見る楽しみのひとつ。この2本の映画の間に、おなじシェイクスピアをミュージカル化した「ウェストサイド物語」を置いてみると、世界の名作の映画化が、いまやたんなる原作のダイジェストにとどまらないことがわかってくる。

映画化しやすい作家の小説

世界の名作でも、何度もくり返して映画化されるものと、ながらく映画化が希望されながらなかなか映画化されない作品、または、せっかく映画化されても、映画としてはたいして評判にならなかったものと分かれる。
たとえば、小さな罪を犯して苦役ののちに、ふたたび盗みをはたらくが、神の慈悲によって改心するジャン・バルジャンの物語も何度もくり返して映画化されている。
戦前、アリ・ボールが主演した「レ・ミゼラブル」(レイモン・ベルナール監督)が記憶に残っているが、戦後では、ジャン・ギャバン主演の(ジャンポール・ル・シャノワ監督)があった。これは残念ながら愚作もいいところで、ジャン・ギャバンも生彩がなかった。けれど、ジェラール・ドゥパルデュー主演の「レ・ミゼラブル」などは、映画化された「レ・ミゼラブル」のなかでも、屈指の作品になっている。
おもしろいことに、19世紀の名作といえば、エミール・ゾラがいちばん映画化されて成功するらしく、「ジェルミナール」、「居酒屋」、「女優ナナ」など、いずれも映画史上に残るような作品で、ゾラほど映画化に向いている作家はいないように見える。

  *    *   *   *    *   *   *

 同時に、ゾラほど映画化に向いている作家はいないと書いたとき、私は映画の歴史を思い出していた。例えば、ジャック・フェデルの「テレーズ・ラカン」(1927年)や、ジュリアン・デュヴィヴィエの「女性の幸福に」など。「テレーズ・ラカン」は、ドイツの資本で作られた。それまでのフェデルのフランス的なエスプリに、ドイツ的な重厚さ、映画の造形性を加えた。この「テレーズ・ラカン」の成功で、ハリウッドに招かれて、グレタ・ガルボの最後のサイレント映画、「接吻」を演出する。ジュリアン・デュヴィヴィエの場合は、サイレントから脱却して、サウンド版で撮影した。こうしてデュヴィヴィエは世界的に知られて行く。)
しかし、私はそれを書かなかった。なぜなら、「文化クラブ」の読者たちが、私があげたかったジャック・フェデルや、ジュリアン・デュヴィヴィエに関心をもつとは思えなかったからである。

この雑誌の読者たちが関心を寄せる「世界文学の名作」といえば、せいぜい「風と共に去りぬ」程度だろう。私のエッセイが、ハリウッド映画よりも、フランス映画をとりあげていることがおもしろい。

  *    *   *   *    *   *   *

マリア・シェル主演の「居酒屋」のジェルヴェーズのみごとさも忘れられない。
おなじマリア・シェルで、モーパッサンの「女の一生」が映画化されているが、やはり原作の魅力が大きいだろう。
ジェルヴェーズの娘がナナだが、「女優ナナ」を撮った直後に自殺したメキシコ出身の女優、ルーペ・ペレスのことも忘れられない。ジェニファー・ジョーンズの「ボヴァリー夫人」は、映画化に成功しなかった。

女の一生

スタンダールの「赤と黒」は、クロード=オータン・ララ演出。
主人公「ジュリアン・ソレル」を、ジェラール・フィリップ。「レナール夫人」を
ダニエル・ダリュー、「マチルド」が新人だったアントネッラ・ルアルデイという
魅力あるキャストだった。「ジュリアン・ソレル」という野心に満ちた青年という永遠のタイプを芸術的に描きだしたオータン・ララの演出のすばらしさ。

「赤と黒」は、1920年に、イタリアの俳優、マリオ・ボナルトが、文芸映画として撮影した。これは、イタリアの文芸映画の路線を世界的にした。

これに対して、おなじジェラール・フィリップが主演したスタンダールの「パルムの僧院」などは、ただの通俗的な映画に終わっている。

通俗もの

デュマの「モンテ・クリスト伯爵」や「三銃士」などは、何度、映画化されたかわからない。
たとえば、「ファントマ」のシリーズ。「ハリー・ポッター」のシリーズ。
「ミッション・インポッシブル」のシリーズ。

こうしたシリーズは、サイレント活劇の原型にもなっていて、「名金」、「鉄の爪」から、現代の「007」のシリーズ、「ハリー・ポッター」のシリーズ。「スター・ウォーズ」のシリーズ。どのシリーズにも共通した、追いかけ、血湧き肉躍る冒険が、いつの世でも観客たちを楽しませている。

なぜ、シリーズ化されるのか。
旧ソヴィエトは、自国の大作を映画化することで有名だが、たとえば、「戦争と平
和」が大きな話題になった。演出は、これも有数の大作だった「人間の運命」のセルゲイ・ボンダルチュク。
1818年、ロシアに遠征したナポレオンに対して、ロシア側はモスクワを炎上させ、ボロジノで反撃してナポレオンを敗走させた。その150周年を記念して映画化されただけあって、俳優も豪華だったし、規模も巨大なものだった。

「戦争と平和」は、ハリウッドでもオードリー・ヘッブバーンの主演で映画化されている。オードリーの「ナターシャ」もすばらしかったが、リュドミラ・サベーリェワの「ナターシャ」も深い感動を残した。
ボンダルチュクは、「アンナ・カレーニナ」を撮っているが、フランスのデュヴィ
ヴィエが、イギリス女優、ヴィヴィアン・リーで「アンナ・カレーニナ」を撮った。

ドストエフスキーの場合

ドストエフスキーの映画化もさかんに行われている。1931年に、ソヴィエトで
「罪と罰」(ゲ・シローコフ監督)が公開されたが、スターリンの大粛清が、この年からはじまっていることと重ねあわせると、こんな映画にも別の見方ができる。
フランスの「罪と罰」(ピエール・シュナール監督)、戦後のロベール・オッセンの「罪と罰」がある。
「白痴」は、ソヴィエトのイ・ブイリェフのものと、日本の黒沢 明が翻案したものがある。
「カラマーゾフの兄弟」は、マリリン・モンローが「グルーシェンカ」の役をやりたがっていたが、マリア・シェルの「グルーシェンカ」で撮影された。

最後の結論

かつて、「嵐が丘」(ウィリアム・ワイラー監督)は、ヒースの生い茂る荒涼とし
た風物のなかで、はげしく、不幸な恋愛のすがたを描いた。この映画では若き日のローレンス・オリヴィエが「ヒースクリフ」を演じていた。

愛や死を通して、自分たちを取り巻く因習的な社会に反抗して生きようとする若い
人たちの姿を描いたD・H・ロレンスの「息子たちと恋人たち」の映画化は、ジャック・カーディフの演出だった。
親と子の世代の違い、そこにひそむクレディビリティー・ギャップ、性の解放といったテーマはやはり永遠の主題といえるだろう。

アメリカ論

アメリカの古典としては、いまやスタインベックの「怒りの葡萄」や、ヘミングウェイの「武器よ さらば」などが、なにがなしロマンティックな追憶を誘う。
私も、過去にずいぶんいろいろな名作をみてきたものだ。平凡な感想だが、ふと、
そんなことに感慨をおぼえる。

 *   *   *   *   *   *

ハリウッドで、映画を10本とれば、1本はヒット、2本はとんとん、あとの残りは、残念ながらフロップ。その映画に出た俳優、女優は、蒼くなって、次の映画を探し回る。
その映画を撮った映画監督は、たいていは、失業して、まともな映画も撮れなくなる。
そんな現実があるから、「世界の名作」の映画化が企画される。
なにしろ、原作者がどんなに有名でも原作料を払わずにすむ。

これで、私のエッセイはおしまい。

(つづく)

1867

2020年8月、コロナ・ウイルス・エピデミックの感染状況が拡大している。

先進国では、ワクチン開発をめぐってはげしい競争がおこなわれている。
アメリカは、中国の総領事館(テキサス・ヒューストン)に対する閉鎖命令を出した。中国の総領事館員が、コロナ・ウイルス・ワクチンの情報を窃取する活動に関与した疑いがあるという理由だった。

その手口は、総領事館員たちが、アメリカの大学に研究員として在籍する中国人の協力者たちに対して、窃取すべき機密情報を直接指示していたという。
これに対して、中国政府は、対抗手段として、武漢のアメリカ総領事館の閉鎖命令を出した。

こうなると、アメリカと中国の対立は、決定的なものになってくる。

私は、少年時代に、ヒトラー、ムッソリーニvsチェンバレン、ダラディエのミュンヘン四者会談で、世界じゅうが戦争の予感におびえた時代や、砲艦「パネイ号」の誤爆事件から、日米関係がひたすら悪化の一途をたどり、日毎に緊張の度がはげしくなって行った時代を知っている。
野村海軍大将が、特命全権大使としてワシントンに派遣され、日米関係がいくらかでも改善されるかのように、私たちは期待した。だが、いわゆるハル・ノートをつきつけられて、ついに真珠湾攻撃、太平洋戦争の勃発にいたった時期の、息づまるような悪化の日々を知っているだけに、現在のアメリカと中国の対立に深い懸念を抱いている。

それにしても、アメリカと中国の対立が、コロナ・ウイルス・エピデミックと、シンクロナイズしているというのは、なんという歴史の皮肉だろうか。

*   *   *   *   *   *   *

 そんなこととは関係がないのだが、コロナ・ウイルスの感染が拡大していた時期、私は身辺の整理をはじめた。

いろいろな原稿が出てきた。読んでみた。いやはや、どうにも挨拶に困るような原稿だった。われながら赤面のいたり。(笑)

こんなものを書いていたのか。まるっきり、意味もない雑文だなあ。よくこんなものを書きとばしていたものだ。
高齢者は、思い出に生きるといわれる。ところが、私の場合、雑文を書きとばしていたということ以外あまり思い出すことがない。だから、昔書いた自分の文章が出てきたりすると、地層のどこかに埋もれていた化石のかけらでも見つけたような、何か異様なものを眺めるような気もちになる。

半世紀以上の歳月をへだてて、かつての自分が書いた、くだらない雑文を読み返すなど、やはり正気の沙汰ではない。

破り棄てるか焼き捨てるほうがいい。

そう思った。

*   *   *   *   *   *   *

 ところで――
そんな原稿の中に、「文化グラフ」という雑誌に発表したエッセイがあった。「文化グ
ラフ」(1968年12月1日号)から切りとったもので、タイトルがわからない。まさか、ノン・タイトルということはないだろうから、多分、「映画化された世界の名作」とかなんとか、そんな依頼があって書いたものらしい。

「文化グラフ」という雑誌ももうおぼえていない。どんな雑誌だったのか。

なにしろ貧乏作家だったので、執筆を依頼してきた雑誌、新聞の原稿はかならず書くことにしていた。今と違って、携帯はもとよりファックスもスマホもなかった時代だから、大学その他で講義をする日に、大学の隣りのホテルのロビーか、映画の試写を見る日にかならず立ち寄った有楽町の「ジャーマン・ベーカリー」の2階に編集者にきてもらって、原稿をわたすことにしていた。

「文化グラフ」という雑誌の原稿を依頼してきた編集者のことも忘れている。

ただし、68年12月1日に掲載されているのだから、11月初旬には原稿を渡しているはずで、編集者は歳末のあわただしさを見越して、「映画化された世界の名作」などという当たりさわりのないテーマで原稿を依頼してきたと思われる。

このエッセイを読んだとき、拙劣な内容にあきれたが、ふと、現在の老人の目から見て、当時、気がつかなかった論点を見つけ出してみよう、と思いついた。

1866

たった一度だけだが、ファッション・モデルになったことがある。

「面白半分」1976年9月号。開高 健 編集。

雑誌のタイトルのように、面白半分で、写真を撮ってもらった。

雑文つきで。

 パリを歩いていると、やはり眼につくのはパリジェンヌの美しさだった。むろん、美女も多いのだが、それほど美貌でなくても、服装の感覚がすばらしい女たちも多い。
こういう感覚は、シックなもので、ああいう洗練を見てしまうと、どうしてああもみごとな着こなしができるのだろうと不思議な気分におそわれる。男のおしゃれも、本質的におなじだろう。自分のよさをわるびれずに表現すること、そこに男の個性がにじみ出す。

imageもともと、男のファッションなど、まったく無縁に過ごしてきた。およそ無趣味で、せいぜい山歩きぐらい。それも、誰もがめざす有名な山よりは、わざわざ誰も知らない山を探して歩くような、ヤボな登山者だった。
山をおりてきたとき、村人が私に、
「営林署の方ですか、ご苦労さんです」
と、挨拶されたことがある。

開高 健が面白半分にファッション写真のモデルにそんなワースト・ドレッサーを選んだのだった。

あの頃はヤボはヤボなりに楽しかったな、と思う。

 

 

1865

1928年の映画「フィルム・デイリー」のベスト・テン。

ついでに、1928年のベスト・テンもかいておく。
せっかくしらべたのだから。

「愛国者 」  パラマウント
「ソレルとその子」 ユナイテッド・アーティスト
「最後の命令」 パラマウント
「四人の息子」 フォックス
「街の天使」   〃
「サーカス」 ユナイテッド・アーティスト
「サンライズ 」  フォックス
「群衆」    MGM
「キング・オヴ・キングス」 パラマウント
「港の女」  ユナイテッド・アーティスト

1864

幼い頃から映画を見ている。
むろん、内容もおぼえていない。
後年、母、宇免から聞いたところでは、エディ・カンターの喜劇を見た私は笑いころげたという。

母は、いろいろな映画を見たが、私をつれて行くときは、きまって喜劇映画ばかりだった。
幼い私は、ハロルド・ロイド、バスター・キートン、ローレル/ハーデイ、そしてグルーチョ/ハーポ/チコ/ゼッポのマルクス兄弟の名前を知っていた。

自分が生まれた時代を想像するのは、むずかしい。

1927年の映画を調べてみた。「フィルム・デイリー」のベスト・テン。
「ボー・ジェスト」
「ビッグ・バレード」
「栄光」
「ベン・ハー」

ただし、これは、1927年に公開された映画だけで、投票した人がこの年度中に各地で公開されたもの。なにしろ、アメリカは広いから。

「肉体の道」  パラマウント
「第七天国」  フォックス
「チャング」  パラマウント
「暗黒街」   〃
「復活」    ユナイテッド・アーティスト
「肉体と悪魔」 MGM

こういうブログを書いている時は楽しい。

1863

私が少年時代を過ごしたのは、東北の都市、仙台市だった。

仙台市は伊達 政宗の所領で、現在も居城、青葉城址がある。なだらかな丘陵に沿って大きく蛇行しながら、市内を一級河川、広瀬川が流れている。さして水量は多くないが、雨期に入ると、水勢がつよくなって、対岸の越路(こしぢ)あたりは氾濫する危険があった。 私の一家が住んだのは、広瀬川にかけられた橋の一つ、あたご橋のたもと、当時、土樋(つちどい)という地名で、崖の上の家だった。門構えともいえない貧弱な門がついていた。その門のとなりに、梁川庄八首洗いの池という立て札があって、二畳ほどの長方形に大谷石で囲んだ池があった。緑青色によどんで、薄気味のわるい池だった。
立て札の由来は、梁川庄八という下級武士が、伊達家の家老、茂庭周防守(すわのかみ)を青葉城下に邀撃(ようげき)、その首をはねて逃げた。逃げる途中で、橋のたもとの池で血のしたたる周防の首を洗ったという。この実録は戦前の講談で知られている。
小学校の同級に、茂庭周防守の子孫にあたる少年がいた。私とおなじ背恰好だったので、仲良しになった。後年、柔道五段で、宮城県の柔道界の重鎮になったという。

少年時代の私は、よくこの橋をわたって地名にわかりのあたご山にのぼった。石段がつづいて、頂きに無人のあたご神社があり、そのあたりは鬱蒼と樹がしげっている。この頂から仙台市内が一望できるのだった。

このあたご山から、さらに奥の向山(むこうやま)、八木山(やぎやま)まで歩く。ハイキング・コースといってもいい距離だった。途中、伊達家の菩提寺のある経ガ峰も、青葉山のつらなりの一つで、ツツジの咲く季節がいちばん美しかった。