1047

(つづき)
進 一男の「行ってしまうんですか愛する人よ」という1編は、島唄の、

行きゅんにゃ 加那
吾(わ)きゃくぅとぅ忘(わし)りてぃ
行きゅんにゃ 加那
う立ちゃ う立ちゅてぃ
行き苦しゃ
ハレ 行き苦しゃ

詩人はこれを訳して、

行ってしまうのですか 愛する人よ
私たちのことを忘れて
行ってしまうのですか 愛する人よ
いいえ 出発するには しようとするのですが
どうにも行きにくいのです
本当に 行き苦しくてならないのです

さらに、詩人はこの本歌の変奏をつづける。

私たちのことを忘れて
行ってしまうのですか 愛する人よ
とは 私は言いませんよ
元気で行っていらっしゃい 私のことなど忘れて
私たち家族のことも 何もかも打ち捨てて
体に気をつけて 行っていらっしゃい
でも 島のことだけは 決して忘れてはいけませんよ

あなたの行く所は いい所で
人たちも皆 いい方ばかりとのことですから
私が心配するようなことは何もないと思いますが
昔 私が居た頃は まだまだ差別意識の特に強い所でしたけど
今の時代 まさか そのようなことはないのでしょうね
どんなことがあっても シゴトレと歯を食いしばって
決して負けないように キバランバ不可ませんよ

でも もしも どうしても我慢てきないことになったら
前に一度 私が話して聞かせたことがあったように
諸肌脱いで とまでは言いませんが お上品振ることはありません
片肌位は脱いだっていつ公にかまいませんよ
チヂンを打ち鳴らして 相手に分かろうが分かるまいが
シマグチでなく しっかりしたシマユムタで
ユミちらしてやりなさい
泣きを見せてはなりません それでも我慢てきない時は
思い出すことです どの様なときでも あなたには
あなたを優しく受け入れてくれる島のあることを

しかし何と言っても あくまでも大切なことは
あなたの周りのすべての人に 心から優しくすることです
私は思うのですが 平和とは一人一人の優しさなのですから
でも 本当に行ってしまうんですね 私のいとしい子よ

私はこの1編に心から感動した。人間の愛別離苦、そして母と子の愛が語られている。こういう純乎たることばを口にするとき、私のような「ミンキラウワア」の内面にも詩を読むことのありがたさがあふれてくる。

--この詩集を読みたいと思うひとのために--

注) 進 一男著  詩集『見ることから』(詩画工房/09.3刊・2200円)
〒894-0027 鹿児島県奄美市名瀬 末広町10-1

1046

(つづき)
進 一男の詩集、『見ることから』の30編、どの一編も、私にはみごとなものに思われるのだが、進 一男は別にむずかしいことを考えているわけではない。
格調の高い詩ばかりが並んでいるわけではない。詩人の夢と、いまは亡き父や、死者たちのこと、ハワイに行くよりも天国に行きたい、という少女や、部屋に飾った小品の「少女裸像」という絵のこと、(おそらく奄美の伝承だろうが)耳が切れた豚、「ミンキラウワア」のことが、美しいことばで、やさしく語られている。
「ミンキラウワア」は、ある種の妖怪で、こいつに股をくぐられると、たちどころに死んでしまうらしい。だから、詩人は、子どもの頃、そこを通るときは股をすぼめて、口をきかずに、急ぎ足で歩け、といわれたという。

しかし 股を潜られた人の話は 一度も聞いたことはない
まして潜られて死んだ人の話も まだ一度も聞かない

という。
きっと詩人も私も、誰も知らない「ミンキラウワア」に股をくぐられた人間なのだ。ほんとうは、たちどころに死んでしまうはずだったのだが、必死にことばを吐き散らして、なんとか遠い道と遙かな時をひたすら歩き続けているのだろう。私も股をすぼめて、口をきかずに、急ぎ足で歩いてきたのではないか。

私もまた、この詩人のように・・「遠い道のりを歩いてきた」のだ。そして「遙かな時間を通り過ぎてきた」(「旅の途中で」)ひとり。
さりながら・・・「過去が忌まわしい過去でないような」ありかたは、私にはない。
戦争という、くそいまいましい「ミンキラウワア」に股をくぐられたために、どうあがいても詩人にはなれない、哀れな人間なのだ。         (つづく)

1045

(つづき)
進 一男は、17歳のときはじめてリルケを知る。『マルテの手記』に、

僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいかしらぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく」

まず見ることから学んでゆく。このリルケの信条告白を、少年はそれを自分の内面で忠実に発展させてゆく。「まず見ることから」という詩人のみずみずしい決意が、80歳の詩人に結晶していることに私は感動する。

私には何時も過去だけがあったと私は書いた
今日も明日もすぐに昨日になってしまう
生きようと思うこと生きていることは
すぐに 生きたこと になってしまう
考えてみると すべてはそういうことになる
過去が忌まわしい過去でないような有り方

私が、みずみずしいと思うのは、こういう感性なのだ。
私たちが過去を思いうかべるとき、「今日も明日もすぐに昨日になってしまう」からだが、過去はぜったいにもとら戻らない。やがて年老いて死ぬことも、そのひと連なりの先にある。だから、過去をふり帰るときには、楽しいことも悲しいことも、いずれ感傷 をともなうだろう。詩人にはいつも過去だけがあった。
だが、「過去が忌まわしい過去ではない」というとき、そこには、やはり、勁い意志がはたらく。
いまの17歳たちは、いわば不安と抑圧から自由になっている。進 一男や私たちがその年齢だった頃、「過去が忌まわしい過去」だった時代には、まず、ぜったいにあり得なかったこと、まるで「生きようと思うこと生きていること」の、どうしようもない乖離(アンコンパティビリテ)のなかで、進 一男が詩をめざしたことに、私はかぎりない共感をもつ。
自分の「生きようと思う」世界から拒絶されていた少年のことを思うと、まず見ることから学んでゆこうとしたことがどんなにむずかしいことだったか、きみたちにも想像できるだろう。
当時の私もまた「まず見ることから学んでゆく」ことからはじめたような気がする。ただし、私が、現在の若者たちよりも、より多くを見てきたり、より多くを経験したのは、ただ馬齢を重ねてきたからではない。誰だって年を食えば、より多くを見たりより多くを経験する、というのは誤りなのだ。老人はより多く経験するどころか、むしろ何も見なくなるのが普通だろう。だが……

私は遠い道と
遙かな時を
ひたすら歩き続けている
(「旅の途中で」)

(つづく)

1044

日米戦争が開始される昭和16年、詩を書き始めた少年がいる。
その後、じつに70年にわたって詩を書きつづけた。
私家版の第一詩集を出したのは、大学を卒業した昭和23年。第二詩集を出すまで、14年かかったが、昭和43年に第三詩集を出してからは、順調に詩集を出してきた。
2009年、31冊目の詩集、『見ることから』(詩画工房/’09.3刊・2200円)が出た。
その詩は・・・・

見渡す限り 周囲は峨々たる岩山で
何らかの力が働いているらしく 少しずつ
岩は削り取られるかのようで その中から
何か形あるものが現れてくるようである
もちろん今は決して明確な形ではない

というオープニングをもつ。その「形」とは何なのだろう? 詩人はすぐにつづける。

得体の知れないその形ではない形は
日に少しづつ形を変えながら あるいは
形を明らかにする気配を感じさせながら
現れてきてはいるようなのであるが
何時になったらその形が明らかになるのか
一向に予想はつきそうにないのである

誰が彫っているのか、誰も見たことがない。詩人はつづけて、

具象的な何か あるいは 抽象的な何か
果して形象なのか それとも文字なのか
それらを見ていると感じさせられるのだが
それはこれまでには存在しなかったところの
ある何か新しいものでもあるのだろうか
しかしそれを言い現すべきことばも今は無い

詩人は、ここで、私たちにひとつの疑問を投げかける。

それならば私たちは 形と同時に言葉もまた
新しく発見し創造しんくてはならないのか
私の 私たちの 前に投げかけてくる この
磨崖の 何ものかである その何ものかよ

これが、「磨崖」という詩。
詩人は進 一男。奄美大島の詩人である。
彼の詩句の一行の真実は、読む人の胸にただちにひびく様な性質のものである。
近作の詩集、『見ることから』を読んで、私はこの詩人が、孤高といってよい詩境に達していることをよろこんだ。いや、むしろ驚きをもって見たといってよい。
(つづく)

1043

ある作家の回想。

彼がとても幼かった頃、年老いた料理女が、眼に涙をいっぱいうかべて、部屋に飛び込んできた。たまたま、その日、有名な女優が亡くなったと聞いて、悲しみのあまり、主人たちの部屋に走り込んできたらしい。
この料理女は、半分文盲で、一度もその女優の出ていた劇場に行ったこともなかった。つまり、名女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことがなかった。
シャルロッテは、偉大な国民的な女優としてよく知られていた。ウィーンでは、まるでウィーン全体の、ウィーン市民のたからものになっていた。だから、この女優の舞台を見たことのない人にとっても、その死は破局的(カタストロフィック)な事態としてうけとめられたらしい。

これはステファン・ツヴァイクの『昨日の世界』の、最初のほうに出てくる。このささやかなエピソードを読むたびに、一人の女優をこれほど愛したかつてのウィーンの市民たちに私は心を動かされた。

私たちの文化でも、一人の人気歌手や、芸術家が去って行くとき、しばしば国民的な悲しみが生まれる。例えば、明治期の団十郎、左団次の死や、戦争中の羽左衛門の死など。
だが、その女優の舞台を見たことのない人にとってさえ、女優の死が、とり返しのつかないカタストロフとしてうけとめられたことがあるだろうか。
つまりは、シャルロッテ・ヴィンターや、サラ・ベルナールほどの女優が存在したことがあったのか。

「ブルグ劇場」がとりこわされたときは、ウィーン全体の社交界が、まるでお葬式のような感動におそわれて、桟敷に集まった。最後の幕が下りるか下りないうちに、観客は我がちに舞台にかけあがって、それぞれがひいきにしていた芸術家の踏んだフロアの一片を、形見として家に持ち帰った。
何十年か後になっても、ある市民の家には、そんな、見ばえのしない木片が、りっぱな小箱におさめられて、たいせつにとってあったという。

作家は学生時代に、ベートーヴェンが臨終をむかえた由緒のある家がとり壊されることに反対して、請願や、デモや、新聞に投書したり、学生としてできるかぎりのことをして戦ったという。

「ウィーンのこれらの歴史的な建物のどれもが、私たちのからだから剥ぎとられる魂の一片だった。」

私は、女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことはない。ブルグ劇場も知らない。
しかし、私たちは、震災、戦災という二度の受難のあと、あまりにも多くの「魂の一片」を剥ぎとられなかったか。ただ利便性のためだけに、由緒ある地名がいとも無造作に変更された。もはや名もない道や坂に見えながら、じつはおびただしい歴史が残っていたはずの地域をブルトーザーが押しつぶしてしまったことを、あまりにも多く見てきたではないか。これをしも、文化の扼殺といわずして何か。

私はときどきツヴァイクを読み返す。敬意をもって。
同時に、彼の最後のいたましい姿を思い出しながら。

ウィーン、パリ、サンクト・ペテルブルグが、もっとも美しい都市として知られているように、東京が世界でもっとも醜い都市だったことを思い出したほうがいい。
永井 荷風の嘆きは現在の私たちの悲しみでもある。
もはやとり返しがつかないのだが、わずかながら、今からでも遅くないことがある。

 

 

 

8

1042

 自分では想像もつかない「発見」に胸をおどらせる。私の悪癖。

 中国/周口店の地層が、これまで考えられていたよりも、20万年から30万年も古く、約78万年前までさかのぼれる、という。南京師範大学と、アメリカのパーデュー大学の研究でわかった。
 中国/周口店の地層が、約78万年前までさかのぼれるということは、いわゆる北京原人が、これまで考えられていたよりも、ずっと早い段階から、中国の北方に生息していたことになる。

 北京原人の頭骨が発掘された場所の地層から、石英や、石英質の石器を最終して、宇宙線の照射で生じた放射性元素の含有量を調べる。そして、地中に埋もれていた年代を割り出した。
 研究の結果は、「ネイチャー」に発表された。(’09.3.12)

 78万年前という「時間」は私には想像もつかない。なにしろ、ほんの78時間前のことさえもおぼえていないのだから。
 しかし、このニューズは、私に不思議な感動をもたらした。すごい話だ。人類の歴史がいつからはじまったのか知らないけれど、これまで考えられていたよりも、約78万年前からはじまっている!

 なんだかすごく、とくしたような気になった。

 もっとも、別のことも考えた。
 これまでの計算よりも約78万年前に、人類の歴史がはじまっているとすれば、そろそろ滅亡してもおかしくない。そう思えば、最近、つづいている暗いニュースなど、どうってこともないやね。
 なにしろ、いまよか78万年も前に、人間は人間になったってンだからなあ。(笑)

1041

 女優のアン・トッドは、1940年代から「戦後」にかけて、イギリス映画の大スターだった。
 彼女の文章を見つけた。みじかいものなので紹介してみよう。

    この本に出てくる映画の題名、たくさんの名前、写真にたくさんの思い出がまつわりついていますし、たくさんの喜びを思いうかべます。
    30年代、40年代、50年代の初期――映画の魔法のような時代に生きた女たちなら――身につまされる涙や、ロマンスのスリルを誰が楽しまずにいられたでしょうか。
    感情に無害な「はけぐち」としての「女性映画」は、おもて向きは私たちの大多数にとっての精神的な癒し、抵抗できないものでしたが、もっと重要なことは、社会的な慣習、経済的な抑圧にあった多数の女たちにとって、こうした映画はいっとき現実を逃避する源泉だったことでした。
    傑作、凡作を問わず、こうした映画は、最近の数年を通じて、ふつうの女性の立場の大いなる前進のペースをたもってきたものなのです。
    現在の女性映画は、めずらしい現象です。
    私の仕事だけにかぎっても、かつてのベテイ・デイヴィスや、キャサリン・ヘップバーン、私の出た「第七のヴェール」、「情熱の友」のような大いなる役をあげましょうか。観客のみなさんが私たちを通じてこうした役を生きたのです。
    女優の役柄や、役の内面をつき動かした感情は、消しがたい思い出になって残るのです。40年もたっているのに、私は「第七のヴェール」の有名なシーンが人々の心に深く刻まれていることを思いしらされてきました。私がピアノを演奏しているシーンで、ジェームズ・メースンが、手にした杖を私の両手めがけてたたきつける・・ 一瞬のシーンですが、観客のみなさんはけっして忘れませんでした。
    最近、テレビでこの映画を見てくれたタクシーの運転手はタクシー料金を受けとりませんでした。料金をもらったりしたら、あの映画のイメージが消える、と説明してくれました。
    これが「女性映画」のパワーなのです。
    女性のための映画の黄金期、こうした瞬間に心をときめかしたみなさん・・今でもテレビでごらんになるみなさんがたは――この本が喚び起す歴史、時間に、共感とよろこびをおぼえるものと存じます。
    そして、ここにとりあげられた昔の映画にどっぷりつかっている著者を心から祝福したいと思います。

 アン・トッド。40年代から50年代にかけて、イギリスのトップ・リーディング・アクトレス。後年は、ドキュメンタリー映画の演出をしていた。ただし、私はアン・トッドの映画をそれほど見ていない。なにしろ、イギリス映画はあまり輸入されなかったので。
 マーガレット・ロックウッドや、パトリシア・ロックも。
 残念としかいいようがない。

1040

 
 私は筈見 恒夫を非難しているのではない。むしろ、いいたいことを心おきなく書いていた先輩の映画批評家に羨望の眼を向けている。

 こんな一節がある。

    十三歳のダニエル・ダリューが、デビューしたのはアナベラなどと殆ど同時代のことである。「ル・バル」というのが、その作品だ。(中略)この少女は、しかし、「ル・バル」以後めきめきと美しくなった。一作ごとに磨きをかけられて行った。その美しさに目をみはったのは巴里人だけではなかった。アメリカの製作者が、この巴里美人に目をつけて、ユニヴァーサルが契約した。(中略)巴里へ帰ると、ドコアンの監督で「背信」と「暁に帰る」をとつた。巴里へ帰つたダリューは、アメリカ映画に見られない美しさだが、(中略)爺くさく婆くさかつたフランス映画も、この時代になると、すつかり若返つてくる。美男美女はフランスから、とでも云いたいくらいだ。フランス中の美人たちが、自信をもつてスクリーンの前に立つようになつた。こうなると、土くさいアメリカの比ではない。女優発掘の名手として、まずデュヴィヴィエがあげられるだろう。

 アナベラは、アベル・ガンスのサイレント映画、「ナポレオン」(1927年)のラストにまったく無名の少女としてデビューしている。ダニエル・ダリューの「ル・バル」(1932年)はトーキー映画なので、私にはこのふたりが同時代にデビューしたという認識はない。たかが5年の違いだから、ほとんど同時代には違いないのだが。
 アナベラは先輩女優。ダニエル・ダリューは、アナベラを越えた女優。
 しかし、「爺くさく婆くさかつたフランス映画も、この時代になると、すつかり若返つてくる」というとき、胸をときめかせていたこの批評家の表情がうかがえよう。

 私は、先輩の批評家たちが残した映画批評にいつも敬意を払ってきた。(例外はある。津村 秀夫にはあまり敬意をもっていない。)その敬意には、こちらの知らない映画について書いているという羨望、くやしさが重なりあっている。
 先輩の映画評論家が書いている(書かれてしまった)ことの証明の不可能性もある。
 だからこそ、いろいろな映画史や、へんぺんたる映画批評までもありがたいものに思える。映画批評というものは、そこに書かれたこと、書かれなければならなかったことにおいてはじめて意味をもつジャンルなのだから。

1039

 
 筈見 恒夫が書いている。

    余談だが、私にはジェーン・ワイマンという女優のよさがてんで理解できない。牝ガマめいた容貌もさることながら、その演技だって巧いと思ったことはいちどもない。容貌が悪くても芸の巧い女優はいるが、容貌が悪いから必ず芸が巧いとはかぎつていない。ワイマンの人気には、こういう錯覚があるのではないだろうか。いや、こういうことは稿をあらためて書かなくては納得してもらえまい。

 『女優変遷史』にジェーン・ワイマンが登場するのは、この部分だけである。
 私がハリウッド映画を見るようになったのは戦後だが、ジェーン・ワイマンはBUSUの女優さんの代表で、「ガマグチ」ワイマンなどというニックネームで呼んでいた。
 こういう女優は、ジェーン・ワイマンにかぎらない。ほかに「容貌が悪くても芸の巧い女優」としては、サイレントのマリー・ドレスラーから、ザス・ピッツ、トーキーになってからの名女優、フローラ・ロブソン、エルザ・ランチェスター、ドロシー・マッガイアー、いくらでも思い出せる。むろん、「容貌が悪いから必ず芸が巧い」わけではない。

 だが、ジェーン・ワイマンという女優の「演技だって巧いと思ったことはいちどもない」といい切ってしまうのは、ワイマンに気の毒な気がする。
 「失われた週末」(45)、「夜も昼も」(46)から注目してきたが、「ジョニー・ベリンダ」(46)、そしてアカデミー主演女優賞をとった「イヤリング」などは、今見ても、ジェーン・ワイマンの落ちついた演技が眼にうかんでくる。とくに「イヤリング」は、いつもドヘタなグレゴリー・ペックが、ワイマンのサポートのおかげで少しはましに見えたし、全体に子役のクロード・ジャーマン・ジュニアが場面をさらっていたため、ジェーンはめだたなかった。しかし、ジェーンは、きびしい自然のなかで孤独に生きていながら、妻として愛情に飢えている女を見せていた。
 アメリカ開拓期のプロヴィンシャリズムを、ひとりの映画女優がこれほどみごとに表現したのははじめてとさえ見えた。(私のいうアメリカ開拓期のプロヴィンシャリズムは、サイレントのメァリ・マイルズ・ミンター、戦前の「麦秋」や、「シマロン」において、ひとつのピークに達する。戦後では「シェーン」で牧場主の妻をやったジーン・アーサーが、この開拓期プロヴィンシャリズムを見せていた。「帰らざる河」のマリリン・モンローもその例。ただし、オットー・プレミンジャーか開拓期プロヴィンシャリズムにまるで関心がないため、この映画のマリリンはただの淪落の女というイメージに終わっている。

 筈見 恒夫が『女優変遷史』を書いた時期のジェーン・ワイマンから、後期のジェーン・ワイマンは大きく変化する。現在、韓国の崔 智充(チェジウ)が「流涕女王」だが、50年代からのジェーン・ワイマンも、アメリカの「流涕女王」だった。
 たとえば、「All That Heaven Allows」(55年)や、「Miracle in the Rain」(56年)など。
 「イヤリング」からの発展としては「ポリアンナ」(60年)をあげておく。

 資料を読むときは、こういう――誤解とはいえないけれど、筈見 恒夫が見なかったことにも眼をくばる必要がある。

1038

 
 筈見 恒夫の映画女優史の一節に、ふと胸を打たれた。

    (前略)「アンリエットの巴里祭」にダニイ・ロバンの母親役として、マリー・グローリイが出ていた。このマリーは、デュヴィヴィエの出世作の一つになった「商船テナシチー」の可憐なヒロイン、テレーズである。港の雨は寂しい、あのアーヴルの波止場から、失意のセガールを旅立たして、バスチャンとの恋に失踪した宿屋の女中だ。サイレントの末期から、ゾラ原作の「金」や、「巖窟王」の娘役で売出していた女優だったが、テレーズの役は、彼女として一世一代の思い出の役であろう。二十年の歳月は初々しかったテレーズを、あんなに老いさせてしまったのであろうか。
    (『女優変遷史』1956年刊)

 私にしても、おなじ思いで映画を見てきた……かも知れない。
 歳月はあれほど初々しかった「彼女」を、あんなにも老いさせてしまったのか。つぎの瞬間に、自分もすっかり年老いてしまったことに気がつく。
 筈見 恒夫の一節に胸を打たれたのは、そういう感慨だけによるものではない。
 じつは――ここに書かれた内容が、もはや誰にも共有できないことなのだ。

 私はたまたま「商船テナシチー」を見ている。デュヴィヴィエの初期(サイレント時代から考えれば、中期)の作品。原作は、ヴィルドラック。舞台では、コポオの演出、ジュヴェの照明で、ヴァランティーヌ・ティッシェがヒロイン、「テレーズ」をやっていた。 映画では――浜辺で、マリー・グローリイがアルベール・プレジャンの「バスチャン」と抱きあって波打ち際にたおれ込むシーンがあって、いまでも鮮明に思い出すことができる。

 残念なことに、「金」や、「巖窟王」のマリー・グローリイを見ていない。こうした映画を見た世代ではなかったからである。
 だから、マリー・グローリイの「テレーズ」が一世一代のものだったといわれても、そうだろうなあ、と思うだけで、批評的に検証できない。ひとりの映画評論家がそう書いているというだけのことになる。これがさびしいというか、残念というか。

 「アンリエットの巴里祭」だって、もう誰もおぼえていないだろう。「戦後」はあまり高い評価が得られなかったデュヴィヴィエだが、晩年の傑作の一つ。この映画に、フランスの「戦後」を代表する美女、ダニイ・ロバンが出た。しかし、これももう見る機会はないだろう。

 私が、マリー・グローリイを知らないように、今の人たちがダニイ・ロバンを知らなくても仕方がない。
 たとえば、松井 須磨子の「サロメ」や、河村 菊江(「帝劇」の女優)の「サロメ」も知らないし、アラ・ナジモヴァ、セダ・バラの「サロメ」も知らない。
 「文学座」の「サロメ」、三島 由紀夫演出の岸田 今日子は見ているが、フランス映画(クロード・タナ/85年)のバメラ・サレムも、イギリス映画(ケン・ラッセル/87年)のグレンダ・ジャクソン)も見ていない。両方とも輸入されなかったから。

 それでも、私の内部に「サロメ」が生きていることは疑いをいれない。

 私たちは、それぞれの時代に生きていた俳優や女優たちに、そのときそのとき一瞬々々に別れをつげているのだ。
 映画女優史の一節を読んで、そんなことを思うのはあまりに奇矯だろうか。

1037

 私は夏が好きだった。どうして、夏が好きなのか考えてみると、この季節は女が美しく見えるせいで、暑さが好きというわけではない。

 あまり見かけなくなったが、面長で、目鼻だちのあざやかな明るい顔。すらりとした背丈、昔でいう小股の切れあがった女。浮世絵で見る江戸の美人の典型。
 最近の女優では、水川 ナントカ。 ご本人は和装したこともないらしいが、ほんとうはああいう女性が浴衣を着れば最高の美女になる。

 夏の美人といえば、髪あげをした襟あしの美しさ、薄衣の裾からもれる素足の美しさ。

 古い劇作家の木村 錦花が、こういう美人こそ夏の風物詩なのだという意味のことを書いていて、共感したことをおぼえている。

 江戸の芸者は、寒中でも、足袋をはかず、素足に紅をさしていたらしい。こうした江戸前の粋で、辰巳芸者が侠名をうたわれた。

 今の世の中では、足の指にまでネイルアートという女の子もめずらしくない。しかし、江戸前の粋なぞは、あり得ようはずもない。

 いまの私は夏があまり好きではなくなっている。

1036

 ルイ・ジュヴェが亡くなったのは、1951年だった。
 この俳優=演出家は、戦後すぐに、ドゴール大統領の要請をうけて、コメデイ・フランセーズの改革に尽力し、大きな足跡を残した。
 しかし、ジュヴェが亡くなって8年後、ドゴール派のアンドレ・マルローが文化相に就任して、またまたコメデイ・フランセーズの改革に着手した。これは、ジュヴェの改革を否定するものだった。

 かんたんにいえば--「リシュリュー劇場」、「リュクサンブール劇場」の二つに別れている「コメデイ・フランセーズ」の、それぞれの役割をはっきり区別しようとした。これが、ルイ・ジュヴェの「改革」だった。

 ところがマルローは、この二劇場分割制をやめることにした。そして、「コメデイ・フランセーズ」の総支配人に、チェコ駐在大使だったクロード・ボワサンジュを任命した。
 「リュクサンブール劇場」は、戦前からあった、もとの「オデオン劇場」にもどして、ジャン=ルイ・バローの劇団の常打ち小屋にする。
 一方、「国立民衆劇場」をひきいるジャン・ヴィラール、それに、作家のアルベール・カミュに、それぞれ劇場を引き受けてもらって、国立劇場に、新人作家の登場を促し、ヴィラールには、古典を中心に演出をしてもらう、という構想だった。

 当時、この改革に対して、賛否両論が活発に出されたが、ロベール・ケンプなどは、「コメデイ・フランセーズ」の一座統括に反対した。レパートリーに制約を生じて、新作の登場がむずかしくなる、という論点だった。

 誰も指摘しないことだが、後年のパリ革命の遠因の一つに、このときの強引な「コメデイ・フランセーズ」改革があったのではないか、という思いが私にはある。

1035

 享年。
 年ヲウケル。簡野 道明の『字源』には、郭有道碑『稟命不融、享年四十有二』という例文が出ている。
 おなじ意味の、行年を調べてみると――行は歴。経過せしよはひ。荘子の「天道」から、「行年七十」という例が出ている。

 私は、『ルイ・ジュヴェ』のなかで、

    一九五一年八月十六日午後八時十五分、ジュヴェは死んだ。享年、六十三歳。

 と書いた。
 このとき、「享年」と「歳」が重なるのではないか、と注意された。そんなことを考えたこともなかった私はそのままで押し通したが、ひょっとして「享年・・歳」といういいかたは誤りなのだろうか、と内心、疑懼した。

 ずっとたって、馬琴の『絲桜春蝶奇縁』を読んでいて、

    享年、ここに廿三歳。

 という表現をみつけた。
 馬琴が書いているのだから、間違いではなかろう。ホッとした。

1034

(つづき)
 3万5千年前のクロマニョン人の男の見たものは何だったのか。

 彼は、自分が彫りあげた女の乳房、その下に刻みつけた性器を、さまざまな方向から眺める。それは鑑賞というよりも、崇拝だったかも知れない。対象とするものが、たいらではない。単純であっても、プロポーションを無視したほどおおきな乳房や、性器をしめす大きな亀裂は、生きた光と影がたわむれあっている。
 それを見る角度や、季節、時間によって、彼のまなざしには、けっしておなじフォルムにはならない。これは、立体だけがもっている特有の美しさなのだ。

 この変化にとんだフォルムを、古代人の彼は自分の手の触感や、眼を通して、いつも存在している実態としてとらえていた。だからこそこのペンダントの女の乳房は大きく、その性器の刻みは深かったにちがいない。

 彼は、自分の部族、いや、もっと小さい単位で、出会った女たちや子どもたちのために狩猟をする。
 何日も獲物を追って、仲間たちと地の果てまでも歩きつづけたかもしれない。そのときどきに、自分の胸にかけたペンダントをまさぐって勇気を得た。

 まだ、ことばはなかった。だが、感動は彼をうごかす。
 彼の発する叫び、彼の喜びも悲しみも、いつもこの「ヴィーナス」像が受けとめてくれる。そのつややかな肌は、女のうめきであり、彼のオーガズムだったはずである。そして、何千年という果てしのない時間が流れてゆく。

 この「ヴィーナス」像は呪術に使われたかも知れない。呪術であれ何であれ、この偶像(アイドル)は、「彼」が生きるという問題を見る時の新しい観点であり、その解決におけるモーティヴであり、おのれが選択し得る様々な反応のありかたをもっているにちがいない。

 考古学者は、土器、陶器の破片から文明を発見する。わずかな破片の数個から、もはや失われた文化の日常生活の様式や、その技術のレベル、あるいは制度までも見ぬくという。私にはそんな能力はない。
 まったくちがう思いが、私の胸をかすめる。

 私は「彼」なのだ。3万5千年前のクロマニョン人は、はるかに悠久の時間をへだてながら、現在の私として生きている。そのことに私は感動する。

1033

 
 子どもの頃、海辺でひろった貝殻をたいせつにしていた。道で拾った小石をてのひらににぎりしめて、家に戻ってから、ためつすがめつ眺めた。そんな経験はだれにもあるだろう。
 道みち、ちぎった木の葉や、小枝でさえ、いろいろな角度から眺めて、思いがけない美しさに気がついたりする。ただし、そんな小さな心の動きはすぐに忘れてしまうけれど。

 ある男が、たまたまマンモスの角のかけらを掌にうけた。その美しさに心がときめいた。そして、尖った石をひろって、そこに愛するものの姿を刻みつけた。

 ドイツのチュービンゲン大学の考古学研究チームが、ホーレ・フェルス洞窟で、3万5千年前のものとみられる「ヴィーナス」像を発見した。
 高さ、約6センチ、幅、約3.5センチ、重さ、約33グラム。マンモスの牙を彫ったもので、人類最古の彫刻作品という。(「ネイチャー」’O9年5月14日号)

 これまで、私たちに知られている「ヴィーナス」像とよく似ている。人体のプロポーションを無視したような巨大な乳房、ずんぐりした胴の下に、性器をしめす大きな亀裂が彫りつけられている。
 この頃、ヨーロッパに進出していたクロマニョン人が作ったペンダントとされる。

 これまで、最古の彫刻作品とされてきたのは、おなじ洞窟から発見された水鳥や、馬の頭で、3万年から3万3千年程前のものという。

 これを作った男は、自分の手で石器を動かし、乳房や、それをかかえる両腕や、胴や、性器、手に比較すれば異様に短い両脚を彫りながら、よろこびを感じ、何ものにも換えがたい女体の美しさに感動していたのだろう。
 うつくしいものを現実に存在するものとして表現しようとする。そこに、彫刻の原初的な情動がある。
  (つづく)

1032

 
 毎日見かけたものだが、戦時中からまったく見かけなくなったシーン。今では、そんなものがあったことさえ知らない人が多い。

 私が子どもの頃は、近在の農家の人が牛車や、馬車を引いてやってきた。どこの家庭でも糞尿の始末をこの人たちにまかせていた。農民は市民の排泄する糞尿を、大きなヒシャク(肥えビシャク)で汲み上げ、黒いタールを塗った木のタルにつめて、牛車や、馬車にのせて運搬する。これが、オワイ屋さん。
 農家の栽培する野菜の肥料にするのだった。

 アスファルトの道路でも、未舗装の道路でも、朝から晩までたえずオワイ屋さんの車が往来していた。ちょっと買い物に出れば、オワイ車の二、三台にぶつからないことはなかった。

 タルには固くフタをしてあるので、糞尿がいっぱいつまっていれば音はしない。しかし、中身がいっぱいになっていないと、車の揺れで、タプンタプンと音がする。
 フタが緩んでいたりすると、車の動きにつれて、中身が路上にまき散らされたりする。あわや落花狼藉(じゃないが)、道路はクソマミレになる。

 オワイ車は臭いがひどい。
 女、子どもは、オワイ車を見かけると、急いで逃げ出したり、わざわざ大回りをして、なるべく近づかないようにしていた。

 1937年(昭和12年)、火野 葦平が芥川賞を受けた『糞尿譚』はオワイ屋さんを描いた名作。
 おなじ年から書きはじめられた島木 健作の『生活の探究』にもオワイ車の描写が出てくる。誰かの心ないイタズラで、空気銃の弾丸が命中して穴の開いた木樽から、黄色い液体が放物線を描いて迸っているシーンがある。

 日中戦争がはじまった年。

 ねえ、忘れちゃいやよ。前年、渡辺 はま子の歌が大流行したが、この歌手の「ねえ」という、鼻声がひどくエロティックに聞こえる、とう理由で発禁になった。
 この年、淡谷 のり子の「ああ、それなのに」が流行している。

 戦前の日本がそんな国だったことを、ねえ、忘れちゃいやよ。
 ああ、それなのに。(笑)

1031

 私たちは、はたして自分が何者なのか知らない。自分に何ができるのか、それがはっきり見えるまでは。

 長い歳月ものを書いてきて、やっとこんなことに気がついた。気がつくのが遅かったけれど。

 まあ、気がつかないより、ましだろうて。(笑)

1030

 私の周囲には、とても才能のある女性たちがいっぱいいる。
 そのひとり、森山 茂里は小説を書いている。すでに、長編を出して一部では注目されている。

 茂里に新作の進捗状況を訊く。彼女は、いつもおなじことをいう。

 あたし、書けないんです。どうしたら、いいんでしょう?

 あまり困った顔をしていない。だから私も心配しない。書けない書けないといいながら、きっちり作品を仕上げて、しっかり編集者にわたすタイプの作家なのだ。

 作家どうしのあいだで、こういう話題が出ることは少ない。だいたい、自分を隠して、内面的にどういうことを考えているか、めったに他人にうかがわせない人が多い。
 私が周囲にいる才能のある女性たちに、しょっちゅう新しい仕事や、新作の進捗状況を訊くのは、理由がある。この種の話題について、みんなが率直に話してくれるから。
 むろん、たぶん安全な話題だと思っているせいだろう。危険と感じられる話題については慎重であったり、話をそらせたりするはずである。
 ところが、私たちの場合、個人の親密さの深度がほとんどおなじなので、お互いに気楽に冗談をいいあったり、からかいあったりできるらしい。

 私がたまに何かを書くと、女の子のひとりは「先生、カッコイーイ」と声をかけてくれる。
 その「カッコイーイ」は、ほんものの「カッコイーイ」ではないらしい。「おっさん、ようやりまンな、ええ年して」といった、老作家に対する、かるい揶揄、かすかな嘲弄と、いささかのいたわりをこめた「カッコイーイ」だったにちがいない。

 こうしたひとりが、先日、私に手紙をくれたが、封筒の宛て名に、
    へんな作家  中田 耕治先生
 と書いてきた。郵便配達はびっくりしたにちがいない。私はうれしくなった。こういういたずらが大好きなのである。(笑)。

 森山 茂里は私のクラスで、長いこといっしょにいろいろなテキストを読んできたので、お互いに親しみをこめた、いわば知的なアフェクションといっていいものが流れている。

 書けないんです。私には、不可能なんだわ。

 どんなことだって可能だよ。それが、不可能だと証明されるまでは。だからさ、不可能なことって、不可能なだけなんだから、きみは可能なことをやればいいんだよ。
 つまり、書くしかない。
 むろん、彼女もそんなことは承知している。

 森山 茂里は、目下、4作目の長編にとりかかっている。

1029

 テオフィル・ゴーチェの娘、ジュディット・ゴーチェはたいへんな才女だったらしい。その才女ぶりについては、残念ながらジュディットの書いたものを読んだことがないので、ここに書くことができない。
 ジュディットには中国の詩を訳した著作があるというので、どういう詩人を訳したのか知りたいと思ってきた。どなたかご存じではないだろうか。

 1869年、コジマ・ワグナーが食事に招いている。このとき、コジマに招かれたのは、詩人のカチュール・マンデス、夫人のジュディット・ゴーチェ。同席したのは、ヴィリエ・ド・リラダン。眼がくらむような顔ぶれである。
 カチュール・マンデスは、作家、批評家。雑誌、「ルヴュー・ファンテジスト」の創立メンバー。ヴイリエ・ド・リラダンは、詩人、作家。
 ジュディットは、芳紀まさに19歳。カチュール・マンデスと結婚して、二年になっている。

 ホストは、ワグナーと、コジマ。

 食卓でどんな話題がかわされたのか。私のような想像力のとぼしいもの書きには見当もつかない。
 ジュディットは、異常なほど才能にめぐまれていた。言語に関して造形が深く、世界の文学を読破していた。中国詩を訳したほど外国語に精通していた。
 横顔がギリシャ彫刻を思わせる美貌で、ボードレールが、「ギリシャの美少女」と呼んだほどだった。
 ワグナーは、彼女がくるとすっかりご機嫌になって、自分の庭園のいちばん高い樹木の幹から、枝に足をかけて登ってみせた。家の高窓を越えるほどの高さだった。

 コジマは日記に書きとめている。

 「彼女(ジュディット)には常軌を逸したところがあって、突拍子もないふる舞いは私も手を焼いた――そのくせ、とても気立てがよくて、ひどく熱狂的。リヒ(ワグナー)にせがんで、ワルキューレや、トリスタンを歌わせた。」
 この記述は、1969年7月16日。

 翌日、コジマは日記でジュディットを「あの女」と書いている。

 その日のワグナー家の食卓でどんな話題がかわされたのか。私には見当もつかない。ただし、私は考えた。

 コジマのような女と出会わなくてよかった。コジマのような女を見かけたら、すぐに逃げ出したほうがいい。

1028

 新型インフルエンザの世界的な流行。
 1918年、ドイツのルーデンドルフ将軍は、「われわれは戦争に負けたのではない。スペイン風邪に負けたのだ」といった。

 その後も、新型インフルエンザは、10年から数十年おきに、人間におそいかかってくる。
 私たちの免疫は、それまで経験したことのない新しい病原体に対応できないため、大流行するらしい。

 そんな中で、役者の市川 海老蔵が、大阪松竹座で「にらみ」をやったという。
 この「にらみ」、襲名披露などでしか見せない。先年のパリ公演で、団十郎がやってみせたが、市川家伝来の芸である。

 劇場には、

    新型インフルエンザ蔓延につき、急遽、市川 海老蔵 にらみ相勤め申し候

 という看板が出た。(’09.5.3=10日まで)

 海老蔵が口上を申し述べて、ハッタと観客をにらみつけ、大見得を切って見せる。
 いいなあ。
 新型インフルエンザも、これで退散。

 外国の芝居には、こういう睨みのパーフォーマンスはおそらくあり得ないだろう。個人間のインターパーソナル・コミュニケーションにおいても、日本人には、睨みのパーフォーマンスがある。