1067

(つづき)
この1927年、レナード・シルマンが、ブロードウェイ・ミュージカルに登場する。シルマンは、前年、バサデナのショーをプロデュースしていた。
彼は、リー・シューバートの推挽で、ブロードウェイに進出する。(リー・シューバートは「シューバート劇場」の経営者、大プロデューサー。女優、エルジー・ジャニス、映画スター、メァリ・ピックフォードのパトロンだった。)

いろいろな曲折があって、レナード・シルマンが、ブロードウェイで「ニュー・フェイシズ」New Faces というショーを出す。

キャストは、24人。
主演の一人に、イモージェン・コカ。彼女は、1925年に登場しているので、「ニュー・フェイス」ではなかったが、「エルフィン」(小妖精)の「役」がぴったりだった。

ほかの出演者は、作曲、シンガーの、ジェームズ・シェルトン、ダンサーのチャールズ・ウォルターズなど。
さらには、歌手のルイーズ・テデイ・リンチ。のちに作家になった女優、ナンシー・ハミルトン。(彼女は、この時期、キャサリン・ヘップバーンの『戦士の夫』のアンダースタデイをやった。だから、この「ニュー・フェイシズ」では、キャサリン・ヘップバーンのモノマネをやってみせる。)

オーディションを受けにきた役者で、最後の最後まで残ったふたりの若者がいた。ふたりとも、才能はあるし、役柄もぴったりだった。
どちらを残すかきめかねたプロデューサー、レナード・シルマンは、とうとう、ふたりにコイン投げで、採用、不採用をきめることにした。

結果は――ヘンリー・フォンダが採用された。
落ちたのは、ジェームズ・スチュアート。

ヘンリー・フォンダは、『水曜日にきみを愛した』というドラマで、ハンフリー・ボガートのアンダースタデイをやったあと、まっすぐにこの「ニュー・フェイシズ」のオーディションを受けたのだった。

後年、このふたりはハリウッドの大スターになる。

つい最近、トニー賞の受賞式の中継(’09.6.28)を見ながら、ふと、そんなことを思いうかべていた。

1066

ときどき思いがけない話を知って驚くことがある。

1927年、作曲家のヴァージル・トムスンが、ガートルード・スタインに訊いた。

オペラの台本を書いてみる気はありませんか。

ガートルード・スタインは、すぐに強い関心をもって、オペラの台本を書いた。アビーラの聖テレーザ、聖イグナチゥス・ロヨラが登場するオペラで、『四人の聖人』4 Saints という台本だった。
当時、ガートルード・スタインはスペインに旅行して、すっかりスペインに魅了されたらしい。ガートルードのスペイン熱は、友人のピカソの影響や、ヘミングウェイの『日はまた昇る』に刺激されたせいかも知れない。

ヴァージル・トムスンは、宗教音楽を書いてみたかったので、「聖人」が祈りをささげ、聖歌を歌い、奇跡を起こしながら、各地を遍歴するというドラマが気に入った。
第四幕、エピローグの、「聖人」たちが「汝、これを見て我を思い出すべし」という合唱曲を書いた。
このミュージカルは(ヴァージルのアイデイアで)オール黒人キャストで、上演された。

「ヘラルド・トリビューン」の劇評家が書いている。

ヴァージル・トムスンはバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)であるマンネンロ
ウ(ローズマリー)であるアリス・B・トクラスであるトクラス、トクラス、ト
ック、ガートルード・聖スタインの三、四、五幕のいい、きよらな楽しみきよら
な楽しみきよらな楽しみの最後で最後ではない・・・というのが事実である。

むろん、ガートルード・スタインの「バラはバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)である」のパロデイ。つまり、ヴァージル・トムスンの作曲は、ガートルード・スタインふうだが、うまくいっていない、という意味。アリス・B・トクラスは、ガートルード・スタインの秘書で「恋人」だったレズビアンの女性。
意地のわるい劇評家が、せいぜいキイたふうなことをヌカしたつもりだったのだろう。

私はガートルード・スタインをあまり読んでいない。ガートルードの書くものはむずかしいので読めなかった、というのがほんとうのところ。
ガートルードがオペラを書いたと知って、ほんとうに驚いた。
この驚きは――ガートルード・スタインに対する驚きと、同時に、この時期のブロードウェイ・ミュージカルが、新しい方向性を模索していたことに対する驚き、これが重なりあっている。
(つづく)

1065

あるテレビ・ドラマ。高校2年の「飛鳥」は、周囲からは「男の中の男」と一目置かれている。ところが、ほんとうは女性的な趣味をもった「オトメン」(乙男)だった。
ある日、「飛鳥」のクラスに、愛らしい転校生、「りょう」があらわれる。ところが、彼女は……

最近のテレビ・ドラマには、こうした性的なトランスフューズ、あるいは、トランスマイグラントをテーマにするものが良く見られる。
その基底には、おそらく美少年、美少女に関する私たちの観念の変化がひそんでいる。
「イケメン」などといういい加減な概念がうごめいている。

ふと、大正期の美少女を思いうかべた。

環は不思議にも妖しき美しさをもつ少女だった。母を幼くして失ったまま、後は父と子とたたぜふたのありのみの境遇のせいか、環そのひとには世の常の少女と異なって、どこかに雄々しい凛々しさが、姿形の中に現れていた。眉の濃く秀でたのも、眼に張りのあるのも、口許の締め方も、すべてが、そして美しく快い・・・・級の誰かが戯れて言うた。「環さんは、まるで早川雪州とモンロー・ソルスベリーと伊井蓉峰を臼の中でつき混ぜて、お団子にして、その上へ福助の女形の柔らか味の黄粉を仄かに振りかけたような感じのする方ね」と。その評のもし的を射たものとすれば、環は美少年といふのが、ふさわしいかも知れない、けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、環は少女だった、少女だった。

吉屋 信子の『花物語』、その一編「日陰の花」の少女の紹介である。

「早川雪州」と「伊井蓉峰」は私も見ている。しかし、私の見た雪州は、せいぜいが「戦場にかける橋」だったし、伊井にしても、喜多村、小堀につきあっての舞台を見た程度だから話にならない。「モンロー・ソルスベリー」という映画スターはまるで知らない。
「福助」も見ているが、まさか『花物語』に出てくる「福助」ではないだろう。

しかし、ここには、作家のレズビアニズムがほの見えるのと、美少年に見まがう美少女の登場が語られている。

けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、美少女は美少女だった、美少女だった。
というようなナレーションは、すでに死に絶えてしまった。「イケメン」ということばも、いずれ死に絶えるだろう。

1064

あなたはイヌ派。それとも、ネコ派。
よく、そんなことを訊かれた。

私の場合はひどく簡単で、人生の前半分はイヌ派。後半は、ネコ派。

最後に飼ったイヌが思わぬ事故にあってから、ネコを飼った。その頃から、小説を書くようになった。当時、ハヴァナに住んでいたヘミングウェイが23尾のネコを飼っていると知って、23尾はとても無理だが、2、3匹なら飼ってみよう、と思った。
ある日、小川 茂久につれられて、中村 真一郎のところに行ったことがある。そろって大柄で美しいネコが、たくさんいたので羨ましい気がした。
そのうちにネコがふえて、最後には13尾も飼うことになってしまった。半分は、和ネコの雑種。半分はアメリカ産だった。

作家志望者はネコを飼ったほうがいい。オルダス・ハックスリがそういっている。私は、オルダスの意見に賛成する。
ネコというやつが、毎日、どういうふうに生きているか。というより、どういうふうに寝てばかりいるか。なぜ、そんなに眠ってばかりいるのか。とにかく、毎日、あきれながら、見ていてあきない。

動物学者の日高 敏隆先生が書いている。

「しかし、最近は、いってみれば「猫」を通じて環境を知ろうと言うような研究や教育のアプローチが盛んだ。それでいいのだろうか。大事なことはまず、猫はどんな動物か、犬とどう違うかを具体的に知ることではないだろうか。」

そこで、ネコはどうして「ネコ」なのか、そこが知りたかった。

「ねこまノ下略。寝高麗ノ義ナドニテ、韓国トライノモノカ、上略シテ、こまトモイヒシガ如シ。或云、寝子ノ義、まハ助詞ナリト、或ハ如虎(ニョコ)ノ音転ナドイフハ、アラジ」

大槻 文彦先生の「言海」から。

「猫(鳴き声に接尾語コを添えた語。またネは鼠の意とも)」

これは「広辞苑」による。在来種の和ネコは、奈良時代に中国から渡来したとされる。なるほど、これでは、日高先生のいうように、「猫はどんな動物か、具体的に知ること」が必要だなあ。
大槻先生の「言海」の説明によると、

「古ク、ネコマ、人家ニ畜フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠を捕フレバ畜フ、然レドモ、窃盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其睛、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ」

私はこういう漢文体の文章に畏敬の念をもっている。明治時代に、猫の研究をした人の本をぜひにも探して読みたいのだが。

1063

ブリジット・バルドー。
1952年、ある雑誌の表紙に登場したのをきっかけに、映画にデビューした。
代表作に「素直な悪女」(56年)、「裸で御免なさい」(56年)、「可愛い悪魔」(58年)、「私生活」(61年)など。

いつか、作家の結城 昌治が書いていた。

「アメリカ映画のほうでは、一足早くM・モンローがセックス・シンボルにまつりあげられて、その演じた役は無邪気でセクシーな可愛い女にちがいなかったけれど、私にはピントが合わなかった。彼女のコケットリー(媚態)、つまり男を異性として意識するポーズが気にさわっていた。意識された部分にハリウッド的な商業主義の匂いがした。
そういうモンローとの対比においても、バルドーの出現はショッキングで、すばらしかった。彼女は可愛い女などではないし、悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を越えて、存在自体が官能の美しさを誇示していた。」

バルドーの出現がほかの女優にましてショッキングで、すばらしかったことも知っている。彼女と同時代のヨーロッパの美女たち、ジーナ・ロロブリジーダや、ミレーヌ・ドモンジョ、ロッサナ・ポデスタたちと比較しても、バルドーの存在自体が、際立って官能的な美しさを誇示していたと見ていい。私は結城 昌治と違って、ブリジットにあまり関心がなかった。
たしかに、可愛い女などではないし、はじめから悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を超越していたことも、じゅうぶんに認める。
マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」の写真のモデルになったことと、最後の「女房は生きていた」のプールサイドで、ヌードになっただけなので、バルドーのように映画でフル・ヌードを堂々と見せることはなかった。

バルドーのような女優をひとことでどう表現したらいいのだろうか。
むろん、私などにはとても表現できないのだが、ある本でバルドーをさして、
Pulchritudinous French Actress と紹介していたので、感心したおぼえがある。こういう表現はマリリンには似合わない。

画家のヴァン・ドンゲンが、晩年にブリジット・バルドーを描いている。ヴァン・ドンゲンの芸術家としての衰えがはっきりわかるのだが、バルドーのような女優をカンバスでどう表現したらいいのだろうか、という迷いが見えた。こんなに、いたましい絵はめずらしい。逆にいえば、ブリジット・バルドーは、老大家のヴァン・ドンゲンを混迷させるほどの魅力にあふれていた、と見てもいい。

私の好きな映画は、「私生活」(61年)、「軽蔑」(64年)、「ビバ! マリア」(65年)のバルドー。あとは、まあ、どうでもいい。

私の好きなバルドーのことば。

どんな年代になったって、その年齢に生きてれば、うっとりするわ。

若かったブリジット・バルドーだからこそ、いえることば。

1062

恋文。

愛するおまえに。
たった今、お前の手紙をうけとった。
おれが書いた何通かの手はもう届いたと思う。
いつもいつもお前を愛している。
おまえのすべては、おれのものだ。おまえのため、ふたりの愛のためなら
どんな犠牲も払うつもりだ。
愛している。
ひとときだって忘れない。
おれがのぞむかたちで、おまえのものになれないのがつらい。
モナムール、モナムール、モナムール・・

こんなにせつない手紙があるだろうか。そして、こんなにも美しい手紙を書いたのは誰だったのか。

これは、1936年、「恋人」のマリーテレーズ・ワルテルに送ったピカソの手紙。

およそ虚飾のない手紙で、この短い内容に、ピカソの天衣無縫な姿と、男としての純粋な欲望、支配欲(リビドー・ドミナンデイ)が脈打っている。

ピカソとマリーテレーズの出会いは偶然だった。
ある日、彼は地下鉄の入り口で、可愛らしい十代の女の子とすれ違った。ピカソは、声をかけて呼びとめた。

彼はたまたま手にしていた日本の美術雑誌を見せて、自分を画家だと紹介した。当時、ピカソは40代だったが、すでに世界的な名声を得ていた。その女の子は、どうして画家が声をかけてきたのかわからずに、まぶしそうな瞳をむけた。この少女が、マリーテレーズ・ワルテル、十七歳だった。
ピカソはこの少女を愛するようになって、それまでの作風が大きく変わった。「青の時代」と呼ばれる暗鬱な世界から、ピンクを基調とする「桃色の時代」に入ってゆく。ピカソはマリーテレーズを愛した。マリーテレーズはピカソを愛した。そして、ピカソと結婚しないまま、ピカソの子どもを生んだ。この娘はマヤと名づけられた。

私は『裸婦は裸婦として』を書くために、マルセーユにしばらく滞在した。マヤに毎日会ってインタヴューをつづけた。
そのとき、この手紙を見せてもらったのだった。
この手紙はそれまで一度も公開されなかった。私は、マヤの許可を得て、この「恋文」を引用した。

マヤの話はとてもおもしろいものばかりだった。たとえば、マヤが娘だったころ、ピカソにつれられて、闘牛を見に行ったとき、ある映画スターがマヤに夢中になった。マヤは追いかけられてずいぶん困ったという。
このスターは私も映画を見て知っていた。だから、それほど驚きはしなかったが、まるでフランス映画を見ているような気がした。

後年、マリーテレーズ・ワルテルは自殺している。はじめてマヤからその事実を聞いて、私は衝撃をうけた。
マヤの許可を得て自分の作品に書いた。それまで知られていない事実だった。

1061

フランス。
パリの国立ピカソ美術館から、ピカソのデッサンがはいったスケッチブックが盗まれたという。(’09.6.9.)
被害は約800万ユーロ(約11億円)相当。

新聞に小さく出ていた記事なので、くわしくはわからないが、1917年から24年にかけて、鉛筆で描かれたデッサン、33点。

私はピカソを主人公にした読みもの、『裸婦は裸婦として』を書いたことがある。
このときの取材で、毎日、ピカソのお嬢さん、マヤにインタヴューした。マヤは気さくな女性で、私が聞くことに対して、じつにいろいろなことを話してくれた。
このときの話で、国立ピカソ美術館ができた裏話を聞いた。なにしろ莫大なピカソの遺産相続をめぐっていろいろと問題はあった。そして遺族に莫大な税金がかかることを考慮して、国家に現物の絵画を納付するかたちで、国立ピカソ美術館が建設された。このとき、残された作品が分配されたのだが、マヤは、ピカソの陶器のほとんどを相続したのだった。ここにも、ある理由があった。

たいへん興味のある話だったが、私はいっさい書かなかった。『裸婦は裸婦として』は、新聞の読者にピカソという画家の生涯をわかりやすく書くことを目的としていたからだった。

ある日、マヤはウイリアム・ペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を見せてくれた。
ウイリアム・ペンローズは、ピカソ研究の権威として知られる美術評論家。

その1ページに、ピカソ自身の手ではげしい斜線が書きなぐってあった。
ピカソは、怒りにまかせて、そのデッサンに「ニセモノ!」と書いていた。この絵を抹殺しようとするかのように。
若い女性の美しいヌードだった。

そのデッサンには見おぼえがあった。戦前の美術雑誌「アトリエ」で見た。解説は、当時の美術評論家、外山 卯三郎。そればかりではなく、戦後もそのデッサンを別の有名な美術雑誌で私は見ている。

マヤの説明では――「ペンローズはおれの研究家などとヌカしていながら、ホンモノとニセモノの見分けもつかないのか!」
とピカソは怒っていたという。
この話をしながら、マヤはいたずらっぽく笑ってみせた。

いつか、この「ニセモノ」を見つけたら、私のHPに掲載したいものだ。まさか著作権侵害にはならないだろうから。
万一、トラブルになったら、マヤのもっているペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を拝借しよう。さて、そうなると、こんどは、あのはげしい斜線が果してピカソのご真筆がどうか、鑑定しなければならなくなって……
やめとこう。

パリの国立ピカソ美術館から盗まれたデッサンのなかに――ウイリアム・ペンローズの選んだデッサンの1枚が入っていないことは確実だが。

1060

いまでは広く一般化しているけれど、いわゆる「ラ抜き」ことばを、私は使ったことがない。
どうやら、東京の下町ことばにはない表現らしい。

はじめて聞いたのは、戦時中で、私より少し年上の友人が、「見レナイ」ということばを使った。それまで一度も聞いたことのないいいかただった。そのうちに、彼が「食ベレナイ」、「起キレナイ」、「来レナイ」といった表現をすることに気がついた。彼は大連で育ったので、「外地」の人は、こういういいかたをするのだろうかと思った。

動詞、二段活用の変化をもたらした原因がどこにあるのか。私にはわからない。

ただ、文章を書く上で、私は絶対に「ラ抜き」ことばを使わないことにきめた。

この「ラ抜き」ことばは、やがて、<xx・レル>型の用法に変化して行く。
たとえば――起キレル、受ケレル、見レル、逃ゲレル といった表現が、圧倒的に増殖してきた。

小説を書く人たちのなかにも、こうした傾向がひろがってきたのには驚いた。

私は、かなり長い期間、小さな文学賞の審査をしてきたので、おびただしい応募作を読んできた。それで、この傾向の拡大を憂慮するようになった。ただし、この審査を辞退してからは、文学表現の「ラ抜き」ことば、あるいは、<xx・レル>型の動詞がどんなにひろがってもあまり気にならなくなった。黙って見て居レル。(笑)

江戸ことばから東京ことばへの変化が、いまや21世紀型のことばへの変化の過程にある、と見るべきなのか。あたらしいコロキアリズムの成立と見るなら、「ラ抜き」ことばを絶対に書かないというのはナンセンスになる。

ただし――稗節 伝奇 架空のこと。ただ情態を写し得て。且(かつ) 善を勧め悪を懲すを 作者の本意となせるなり。などと書くお江戸の曲亭老人のものを。たまに読みふけっては楽しんでいる。私もまた老們だから。いまどきのものが見レネエとしても。知ったことじゃねえ。(笑)

1059

伏羲、神農の時代以前に戦争はまったくなかった。
軒轅・黄帝の御世に、乱が起きた。黄帝は風 后をさしむけて、これを破った。これより、はじめて兵戈(へいか)をもちいることになった。

五帝の頃には征戦があった。
三代、春秋の時代には、互いに取りつ取られつ。

東夷西戎(とうい・せいじゅう)、南蛮北狄(なんばん・ほくてき)>
なかでも、匈奴(きょうど)は、その人馬の勇猛をもって知られる。
しばしば、中原に進入してくる。
秦の始皇帝は、万里の長城をきずいて、胡をふせいだ。

だが、秦はほろびた。

漢が興って、文帝の御世となる。この帝は二十三年、帝位にあったが、いつもいつも匈奴(きょうど)に攻められつづけた。
その十四年目、数十万の匈奴(きょうど)が攻め込み、国運ここに急を告げる。

文帝、ついに詔を発して、軍勢を募る。……

長くなるので、ここでとめよう。
じつはこれ、明代の小説集、『雨窓欷枕集』の、「漢の李広 世に飛将軍と号せらるること」のオープニングを、私流に書き出したもの。
この短編集の成立は、西紀1541=1551年頃。日本では、種子島に鉄砲が伝来した頃。マキャヴェッリの『君主論』(1532年)、ラブレーの『ガルガンチュア 第一之書』(1534年)の時代。

最近、新彊ウィグル自治区、ウルムチで発生した大規模な暴動(’09.7.7)は、中国の民族間の対立、抗争をまざまざと見せつけている。

こんな歴史があるのだから、かんたんにケリがつくはずはない。

1058

いささか、艶冶な詩だが、あいも変わらず私流の自由訳で。
原題は「半睡」。私の訳では、「夢うつつ」。

きみは眉をひそめている
もはや消えそうな 灯(ともしび)に

ふさやかな髪の毛の片方を
枕のかどに 沈めつつ

からだごと 思いきり 私にあずけて
いまはただ 声を殺してしのび泣き

つやのある 綾絹にみだれて
うつつと知らず 夜具をもみしだく

晩唐の詩人の作。
青楼の老鴇子舍に屏居して、夏の天明を迎えるような気分になってくる。

どんな民族も、長い歳月をかけて、ゆっくりと、その女性像のひとつの原型 archetype を作りあげてゆく。これも、中国の美女の一つの典型。

1057

佐藤 紅緑の長編、『愛の巡礼』(「危機」)に、こんな一節があった。

「昔は髪の毛の長さで女の美醜を判別したものだが、いまでは髪が短いほどモダーンとして愛賞される。其れと同じく貞操なるものも今では何人(なんぴと)も価値を認めなくなった。」

断髪。短く切った女の髪形。肩のあたりで切りそろえたり、後頭部を刈り上げにしたタイプもある。
ボブ・ヘアー。

女優、ルイーズ・ブルックスが、断髪美人の先がけと思われている。ほんとうは、コリーン・ムーアのほうが、ずっと早く断髪にしていた。コリーン・ムーアの自伝、『サイレント・スター』(’68年)に、そのあたりのことが書いてある。

ルイーズ・ブルックスの映画が日本にはじめて紹介されたのは、1926年だが、コリーン・ムーアは、エドナ・ファーバーのベストセラー、「ソー・ビッグ」(1926年)に主演している。(日本では、1934年に<バーバラ・スタンウィック主演のリメイクが公開されている。)
この1926年には、コメデイー、「微笑の女王」が公開されているので、コリーン・ムーアが、大スターだったことがわかる。

佐藤 紅緑は、いうまでもなく、詩人のサトウ ハチロー、作家の佐藤 愛子の父にあたる。私が読んだ『愛の巡礼』は、活動写真から「映画」になった時代の映画界のインサイド・ストーリーとして読める。ただし、あくまで通俗小説。
『愛の巡礼』といっしょに、『半人半獣』という、やや短い長編が入っている。

佐藤 紅緑は、ある時期まで演劇人といっていい経歴をもっている。この『半人半獣』も、大正時代の「新劇珍劇トンチンカン劇」という芝居の世界のインサイド・ストーリーといってよい。
この『半人半獣』という題名に、大正時代初期の岩野 泡鳴あたりの影響を見てもいいのだろうか。そんなことを考えた。
たまたま、この1926年に、キング・ヴィダーの「半人半獣の妻」という活動写真が公開されているので、案外、そんなあたりから着想したのではないか。

例によって、私の当てずっぽうに過ぎないのだが。

一つの死語。たちまち思いもよらない連想に私をさそい込む。

1056

飯沢 匡(いいざわ ただす)という劇作家がいた。内村 直也先生と同年だから、私にとっては先輩の作家である。

戦時中、「文学座」が上演した『北京の幽霊』(昭和18年初演)、『鳥獣合戦』(昭和19年初演)を見ている。
はるか後年、飯沢 匡のご指名で、「文学座」のパンフレットにエッセイを書いた。その程度のご縁だった。

飯沢さんの人形劇、『赤・白・黒・黄』を見た。新宿/紀伊国屋ホール。作/演出・飯沢 匡。1969年(昭和44年)12月。
人形劇団「指座」の旗揚げ公演で、もう1本、江戸川 乱歩作・筒井 敬介脚色の『芋虫』の二本立て。演出・古賀 伸一。

開幕前に私は挨拶したが、こういうときの演出家の忙しさ、そして、芝居がうまく行くかどうか、じりじりするような不安と焦燥は、私もよく知っていたから、すぐに失礼したが、このときの飯沢さんのことばはいつまでも心に残った。

やあ、中田さん。この芝居、じつはあなたのご本の盗作です。

飯沢さんは笑った。私も笑った。たったこれだけのやりとりだったが、お互いにそれだけでじゅうぶんだった。私は飯沢さんの優しさを感じたし、飯沢さんも私の心からの敬意を受けとってくれたのではないかと思う。
当時、私は『忍者アメリカを行く』というアホらしい時代小説を書いていた。幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリー。こういうゲテものは、アイディア勝負というか、アイディアにプライオリティーがあるので、誰かに先をこされると、あとから似たようなものを書けばどうしても二番煎じになる。
ところが、飯沢さんは私の作品を読んだ上で、あえて、幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリーを芝居にしたのだった。
なまなかな自信では書けるはずがない。

私は、飯沢さんがわずかでも私を意識して芝居を書いたことをうれしくおもった。と同時に、私も芝居を書けばよかったなあ、と思った。

この『赤・白・黒・黄』は、人形劇でなくても、りっぱに舞台にかけられる芝居だったが、その後、どこかで上演された話をきかない。

「指座」は、筒井 敬介、川本 喜八郎、古賀 伸一たちが結成した人形劇団だったが、その後の活動は知らない。1971年、私は、テネシー・ウィリアムズの芝居の衣裳デザイナーに、この劇団にいた古賀 協子を起用した。
このときの公演は、新宿の小さな洋風居酒屋のフロアで、ノー・セット、ノー・カーテンで演出した。衣裳デザインを担当してくれた彼女は、その後フランスにわたって、フランス人と結婚した。

飯沢さんは私がいつか喜劇を書けばいいと思っていたのではないか。そんな気がする。
あいにく、私には戯曲を書く才能がなかった。

いまでもひそかに感謝している先輩作家のひとりが、飯沢さんだった。
もうひとりは和田 芳恵。和田さんのことも、いつか書いてみようか。

1055

ファラ・フォーセットの訃報につづいて、カール・マルデンの訃がつたえられた。
本名、ムラーデン・セクロヴィチ。1913年生まれ。享年、97歳。老衰で亡くなったという。

まるっきり美男ではない。何かの球根をくっつけたような鼻。どこといって特徴のない顔。しかし、俳優としていつも真摯な演技をつづけてきた。演技、存在感、それだけでもすばらしい役者。まさに名優といっていい数少ない役者だった。

映画俳優(または、本職は舞台だが、映画に出る俳優、女優)の場合、そのスクリーン上の「役」に、俳優としての内面をさぐるとか、俳優術の進化のようなものを見届けることは――ほとんどが無意味だろう。しかし、それでも、ごく少数の俳優、女優にあっては、いつもおなじような発現――へんなことばだが、まあ、presenceとか、ある種の bliss ぐらいのつもりで使っている――を見せる。演技の原型ともいうべき状態を確実に身につけていることがわかる。
最近のいい例では――フランク・ランジェラ。リタ・ヘイワースの遺作になった「サンタマリア特命隊」(72年)などの愚作に出たあと、「ドラキュラ」(79年)に主演しただけで、ブロードウェイに戻った。いまや老齢に達した彼は、舞台の名優になっている。

もっと具体的にこれこれと指摘するのはむずかしい。たとえば、「ピアノ・レッスン」のハーヴェイ・カイテルと、「パルプ・フィクション」のハーヴェイ・カイテル。まったく違った「役」なのに、ある瞬間に全身から発する「迫力」。これは、おなじ「パルプ・フィクション」でも、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・トラボルタ、ましてブルース・ウィリスなどがまったくもたないもの。
いい俳優は、その生涯のほんの一時期、ほかの誰も見せない「芝居」をやっている。

カール・マルデンはいい俳優だった。いろいろな「役」を演じてきたが、それぞれの「役」を演じわけるのではなく、いつもおなじような発現の仕方をする、「人間」のある状態、ときには抑圧に内訌しながらはげしい怒りとしてあらわれる「動き」を見せる。
ある役者が、ドラマで、怒りをぶちまける。そんな場面は、いくらでもある。たいていの役者が、そんな演技はらくらくとやってのける。しかし、カール・マルデンの芝居はそんな程度のものではなかった。
もっとも初期の「マドレーヌ街13番地」(46年)、「ブーメラン」(47年)、「ガンファイター」(50年)といった映画に端役で出ていたが、「欲望という名の電車」(52年)の「ミッチ」は、俳優、カール・マルデンの存在をアピールした。彼の芝居が、どんなにマーロン・ブランドを、そしてヴィヴィアン・リーを引き立てていたか。
こういう役者はめずらしい。(比較するわけにはいかないが、「パン屋の女房」でレイミュが、若いジネット・ルクレルクを引き立てていた。)

いろいろな「役」を演じて、けっしてミス・キャスティングにならない。それだけに、ハリウッドは、いつもカール・マルデンの使いかたに困っていたように見える。あるいは、使いこなせなかった、というべきか。

「波止場」(54年)、「ベビードール」(56年)、「シンシナティ・キッド」(65年)。どの映画でもカール・マルデンが出てくれば、その場面はかならずいきいきとしてくる。しかし、どの映画もカール・マルデンという個性的な俳優を決定的に使いこなしていたとはいえない。
ここに、カール・マルデンの悲劇があった。

私はすぐれた俳優の栄光と孤独といったものを、いつもカール・マルデンに見ていた。カール・マルデンのような役者がほんとうに輝くとすれば、ウディ・アレンの「ブロードウェイのダニー・ローズ」のような映画だろう。むろん、ウディがカール・マルデンを使うはずもないけれど。

マイケル・ダグラスと共演したTVシリーズ、「ストリート・オヴ・サン・フランシスコ」(72―76年)は見ていない。マイケル・ダグラスなんか、見る必要もない。
カール・マルデンは名優といっていいほどの役者だが、ほんとうはもっと違う映画に出てほしかった。どういう映画に? といわれても困るけれど、私の勝手な空想では、フランク・キャプラのコメディーとか、マイケル・ダグラスよりも、ステイシー・キーチか、ジーン・ハックマンあたりといっしょにブロンクスを歩きまわるしがない刑事とか。

1989年から92年まで、アメリカ映画アカデミーの会長をつとめた。
「ドライビング・ミス・デイジー」、「ダンス・ウィズ・ウルヴス」、「羊たちの沈黙」、「許されざる者」の時代。カール・マルデンは、どんな思いでこうした映画を見ていたのだろうか。

俳優は死ぬのではない。ある場面に出ていて、ふっとどこかに消えるのだ。マイケル・ジャクソンが、得意のムーンウォークで、どこか遠くのネヴァーランドに消えて行ったように。たまたま、スポットが消えて、その出口にぼうっとライトがついて EXIT と出ているだけなのだろう。
そんな思いが、はかない無常のなかにただよっている。

1054

マイケル・ジャクソンが亡くなった日に、女優のファラ・フォーセットが亡くなった。(’09.6.25.)1947年生まれ。「戦後」の女優だった。

ファラ・フォーセットも、もう、誰もおぼえていないだろう。

いちばん最初にファラ・フォーセットを紹介したのは、私だった。その頃、「日經」が出していた雑誌にエッセイを連載していたので、たまたまアメリカでいちばん人気のある女優としてとりあげた。たしか、1973年頃ではなかったか。
TVの「グレート・アメリカン・ビューティー・コンテスト」あたりの評判を聞きつけて、この女優に関心をもったのだろう。いまでは、自分でもわからなくなっている。

当時の彼女は、ファラ・フォーセット・メジャーズだったが、私はあえて「ファラ・フォーセット」で紹介したのだった。このあたりの意味、理由はわかってもらえるだろう。私は――遠からず、いずれ彼女は離婚するものと見たのだった。

ファラは美貌だった。あまりに美貌の女優は、どうも成功しないもので、たとえば、「薔薇のスタビスキー」で登場したシドニー・ロームのような美女も、一時期スターにはなったが、女優としての生命は長くなかった。
同じように、ファラと前後して登場したイスラエルの女優、ブリジット・バズレン(1944―)も、セシル・B・デミルの「キング・オブ・キングス」では「サロメ」を演じ、リチャード・ソープの「ガール・ハント」(ともに1961年)では、スティーヴ・マックイーンと共演して、圧倒的な美しさを見せながら、すぐに消えている。
サイレント映画の、マッジ・ベラミー、メァリー・ブライアン、エラ・ホール。
みんな美貌の女優たちだったが、いずれも途中で消えている。

ファラ・フォーセットも、後年「チャーリーズ・エンジェルズ」のめざましい成功で注目されたが、残念ながら女優としてはほとんど記憶に残らなかった。

今年の5月、末期ガンと闘うファラのドキュメントがアメリカで放映された。
あれほど美貌だった女性が見るかげもなく衰えながら、必死に病気と闘っている姿に誰もが感動した。日本では放送されていない。かりに放送されても、私は見ないだろう。むしろ、ファラが輝いていた「2300年未来への旅」(Logan’s Run)(76年)を見たい。この映画のヒロインは若いジュニー・アガターで、ファラは残念ながらワキにまわっているのだが。
しかし、美しさではジュニーをはるかに越えていたと思う。

俳優のライアン・オニールとは男の子をもうけたが、やがて関係を清算した。その後も友人として交際をつづけ、死ぬ3日前にライアンの求婚を受け入れたという。

胸を打たれた。

1053

(つづき)
たとえば、富田 孝司先生は、現在の金融危機について――

金融危機で日本はダメージを受けたが、実は良い処が顕在化した。国内企業や大学の高度な技術と品質は日本の特長で断トツである。これは再生可能エネルギーや電力等の分野にも当てはまる。実は日本の材料技術と民族性が基礎となって、
優れた変換効率の発電装置を生む。仕事の基本が出来ているので結果的に大きな成果につながる。世界が気付かないこの基本を我々は再認識しないといけない。

こういう一節から、いろいろなことを考えることができるだろう。
富田 孝司先生は、東大の先端科学技術研究センターの客員教授。ご専門は「超効率太陽電池」という分野の権威。
この先生のエッセイのおもしろいところは、さらに別のところにあらわれる。国際化(グローバリゼーション)に関して、

確かに日本の発電機、省エネ機器は最高水準である。しかし国や地域間を連絡する送電線網は極めて脆弱である。当然、電力マネージメント技術は発展しない。
競争原理の中で商品の水準を追求するのはいいが、日本の携帯電話のようにガラパゴス島化する危険性がある。ジャパラゴスだ。むしろ渋谷のデコデンの方が国際的かもしれない。

私はここから、別のことを類推する。日本の文学なども、いまやJ・ブンガクなどという範疇で考える人があらわれている。つまり、現代文学などは、すでにガラパゴス島化している。私などは、もはや死滅寸前の大トカゲ化しているもの書きなので、富田先生のエッセイからいろいろな示唆をうける。
富田先生は寿司についても、きわめてユニークな発想を展開している。

銀座の寿司もいい。欧米でも凄い寿司ブームである。回転寿司も普及している。
だが並んでいるものは趣向や感性が違う。従来のように日本の寿司チェーンの全国展開もいい。だがいっそ寿司のレーティングする機構をつくってもいいのではないか。伝統の寿司文化を守り、ユーザに高い品質を提供するためを名目に世界寿司認証機構を設立してはどうか。工業製品の国際標準化も重要だが、文化や必需品の分野も日本の得手とする処である。

これは、おもしろい。

私が、「先端研ニュース」のエッセイが好きなのは、こういう部分に、私なりに文学的な問題を重ねあわせて考えるのが楽しいからでもある。

1052

毎月、愛読している雑誌がある。
「先端研ニュース」という。

科学専門の小冊子を頂戴している。東大の先端科学技術研究センターが発行している雑誌で、現在の日本の、まさに先端的な科学技術の専門家が、それぞれの研究の一端を要約したり、紹介している。
それぞれの研究室の公開テーマを見ただけで、レベルの高さが想像できるのだが、私にはまったくわからない分野の研究ばかり。
たとえば、「MEMSとバイオナノを綜合した製造技術」とか、「イメージングとエビゲノム創薬」とか、「低炭素社会構築にむけたエネルギー技術」といったテーマは、私などにわかるはずがない。

こういうむずかしい雑誌がどうして私のような、無学なもの書きに送られてくるのか、わからない。だいいち、どなたのご好意によるものなのか、見当もつかない。
ところで、私はただの読者として、毎号、熱心に眼を通している。むろん、ここに掲載されている個々のテーマに関して、私は全く理解できないのだが。
たとえば――ディペンダブルネットワークオンチッププラットフォームの構築。
私の頭では、理解できるはずがない。

太陽電池の研究開発。タンデム・無機系・有機系の太陽電池の開発の現況。
こんなテーマが、私にわかるはずがない。

ところが、私は毎月、この雑誌を愛読している。
じつは、毎号きまって、みごとなエッセイが掲載されているからである。

たとえば――「先端研」でイスラム思想史を研究する。池内 恵先生の報告。

こういうエッセイは、私のまったく知らない分野の専門家が、現在、何をめざしているかを想像させてくれる。
ときには、ご専門を離れて先生がたが気楽に書いていらっしゃるエッセイもあるので、私などにもよくわかる。そういう先生のお考えをたどることから、私なりにその考えを検討してみることもできる。これが、なかなか楽しい。
(つづく)

1051

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古い雑誌を見つけた。1950年、「映画世界」。
50年代の私には読む機会がなかった。こんな雑誌が出ていたことも知らなかった。
この雑誌の観客世論調査という記事。外国人気男女優ベストテン。(1950年11月15日号)。

1. ゲイリー・クーパー    ・ 1. イングリッド・バーグマン
2. ジャン・ギャバン     ・ 2. グリア・ガースン
3. クラーク・ゲイプル    ・ 3. ジューン・アリソン
4. タイロン・パワー     ・ 4. テレサ・ライト
5. ロバート・テイラー    ・ 5. エリザベス・テイラー
6. ジョン・ウェイン     ・ 6. マーナ・ロイ
7. ジャン・マレー      ・ 7. ラナ・ターナー
8. ヴィクター・マチュア   ・ 8. キャスリン・ヘッブバーン
9. ルイ・ジュヴェ      ・ 9. ゲイル・ラッセル
10.スペンサー・トレイシー  ・ 10.ヴィヴィアン・リー

このベストテン、俳優の9位にルイ・ジュヴェ、女優の9位にゲイル・ラッセルが入っている。いやぁ、驚きましたね。
ルイ・ジュヴェは、この時期、「犯罪河岸」(ジョルジュ・クルーゾー監督)、「真夜中まで」(アンリ・ドコワン監督)が公開されたため、このリストに入ったと思われる。
ゲイル・ラッセルが入っているのは、おそらく「桃色の旅行鞄」が当たったせいだろう。いまでも、彼女をおぼえているファンがいるだろうか。

個人的なことで恐縮だが――後年の私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いた。1950年、映画の観客世論調査で、ベストテンに入っているとは知らなかった。
女優のゲイル・ラッセルについても、短いモノグラフィー(「エロスの眼の下に」(桃源社/所収)を書いている。彼女がこんなベストテンに入っていることも知らなかった。

1949年から50年にかけて、それまでの空隙を埋めるように、優れた外国映画がぞくぞくと公開された。
ベストテンにあげられている映画を列挙してみよう。

「大いなる幻影」(ジャン・ルノワール監督/37年)
「戦火のかなた」(ロベルト・ロッセリーニ監督/48年)
「ママの想い出」(ジョージ・スティーヴンス監督/48年)
「恐るべき親達」(ジャン・コクトオ監督/48年)
「ハムレット」(ローレンス・オリヴィエ監督/48年)
「平和に生きる」(ルイジ・ザンパ監督/47年)
「裸の町」(ジュールズ・ダッシン監督/48年)
「犯罪河岸」(ジョルジュ・クルーゾー監督/47年)
「しのび泣き」(ジャン・ドラノア監督/45年)
「黄金」(ジョン・ヒューストン監督/48年)

このほか、このリストには入らなかったが、「ニノチカ」、「らせん階段」、「ミニヴォー夫人」、「子鹿物語」、「バラ色の人生」といった映画が公開されていた。

こうした映画を思いうかべるだけで、たちまち戦後のさまざまな風俗や事件が重なってくる。ゲイル・ラッセルをおぼえているファンがいないように、こんな映画のリストから戦後の風俗や事件をまざまざと思い出す世代も消え去っている。

1050

トーキー初期の、ジャック・フェーデルの名作といわれる「ミモザ館」(1935年)を見た。ビデオで。むろん、これまでに何度も見ている。

少年時代に母がよくフランソワーズ・ロゼェの話をしていたので、なぜか「ミモザ館」という題名をおぼえた。
私がこの映画を見たのは戦後になってからで、フェーデルの作品は、「外人部隊」(1933年)、「ミモザ館」(1934年)、「女だけの都」(1935年)と見ることができた。

評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかで、マリー・ベル、ジョルジュ・ピトエフに関連して「外人部隊」をとりあげた。ジュヴェのもっとも初期の出演作品として「女だけの都」をくわしく論じている。しかし、「ミモザ館」についてはふれなかった。

なぜ「ミモザ館」を見直す気になったのか。なつかしさもある。昔の活動写真を見たいのだが、なかなか見る機会がない。そこで、トーキー初期の映画を見るのだが、記憶力の減退がひどいので、これまで何を見てきたのかという思いもあった。

1930年代のフランス映画がもっていた独特の雰囲気、あるいはその時代に漂っていた空気、そしてそういう時代に生きていた女の匂い。フランソワーズ・ロゼェを見ながら、あらためてそうしたものをさぐろうとしていたのかも知れない。

この映画にリーズ・ドラマールが出ている。当時、「コメデイ・フランセーズ」の女優で、「ラ・マルセイエーズ」(ジャン・ルノワール監督)で、「マリー・アントワネット」を演じていた。「背信」(ジャック・ドヴァル監督)では、借金のせいで、東洋人に暴行されそうになる女性。ついでに説明しておくと、この「背信」は、ダニエル・ダリューの「背信」(マルセル・レルビエ監督)とは別の映画。
「ミモザ館」のリーズは、やや豊満な肉体で、ギャングのボスの情婦をやっている。

ちょっと驚いたのは、この「ミモザ館」に、若き日のアルレッテイが出ていることだった。いうまでもなく、「天井桟敷の人々」(マルセル・カルネ監督)の「ガランス」である。まだ、スターになる前のアルレッテイ。

この映画はスタヴィスキー事件のあとで作られている。
この年代のフランス映画がもっていた独特の雰囲気、あるいは時代に漂っていた空気が、「ミモザ館」に直接、反映しているわけではない。しかし、この映画を見ながら、スタヴィスキー事件や、左翼とフランス・ファッショの激突を重ねあわせてみると、やはりこの時代に漂っていた空気に、暗いものがまつわりついていたことがわかる。
この映画を見直してよかった。少なくとも、この時代に生きていた女の匂いは、まぎれもなくフランソワーズ・ロゼェ、リーズ・ドラマール、アルレッテイに見られるような気がするから。

フェイデルの映画を見たついでに、「戦後」のデュヴィヴィエを見よう。私が見たのは「アンリエットの巴里祭」。残念ながら、デュヴィヴィエの才能の枯渇をまざまざと見せつけられた。ダニー・ロバンも、「娘役」としては、「恋路」(ギー・ルフラン監督)のほうがずっといい。おなじ、アンリ・ジャンソンのシナリオなのに、「アンリエットの巴里祭」にない厚味がある。
この映画はルイ・ジュヴェの遺作だが、ジュヴェの様な俳優が出ているのと出ていない差が、若い女優の魅力にも影響しているのか。

このあたり、うまく説明するのはむずかしいのだが。

1049

(つづき)
キミの愛しているカレがキミに見せていない、つまり隠された性格を知って、キミは悩んでいるわけだ。なるほど。だけど、キミ、恋愛しているとき、カレの弱点を知るってノはとてもたいせつだよ。それにサ、カレシィのほうだって、キミの気もちを理解しているようだけど、ときどき、思いがけないことをするだろ。それで、キミは幸福になったり、不幸になったり。そんなんじゃ、とても結婚したって、うまくいかないヨ。

こんなことをしゃべるわけ。女の子はすっかり信用して聞いてくれる。むろん、別のいいかただってできる。

カレの愛しているキミがカレに見せていない、つまり隠していることがある。カレがこれを知ったらどうなる? カレ、悩むだろうなあ。だけど、恋愛しているとき、キミの弱点、というか、キミの過去のモニャモニャを知ってムニャムニャなんてノは許せないんだろ。だけどサ、キミだって、カレの気もちを理解してあげなきゃ。キミが思いがけないことをする。それで、カレは幸福になるかねえ。不幸になるだけだヨ。とても恋愛なんて、うまくいかないヨ。

ごらんの通り、こうしたロジスム、ブラガドッチオ、ないしはレトリックを使いわければ、「銀座のオバサン」や「新宿のお母さん」なみに通用する。

私にいわせれば――手相を見てほしい女の子は、自分自身にとってあらまほしい自分を見たいのだ。つまり、おのれの正当化をもとめている。
恋愛にあこがれている、あるいは、げんに恋愛している女の子たちは、性をふくめて自分の行動をほかの女の子の行動、方法に準じて、それに適合させようとする。
アンジェラ・アキの「旅立ちの歌」のなかに、
自分の心を信じて行けばいい
という一節があるが、「銀座のオバサン」や「新宿のお母さん」たちの占いだって、その程度の人生観、おのれの正当化をもとにして、女たちの期待に答えているにすぎない。
古代中国、天下に最初の王たる、伏犠(フウシィ)は、民に佃漁の法をおしえて犠牲をやしなわしめた。犠牲というのは家畜をさす。
この皇帝は、犠牲を養いて包厨食膳(ほうちゅう/しょくぜん)に充つることをおしえた。そして、左右二相を立て、初めて八卦(はっけ)を畫(かく)したという。
私は易の歴史を思った。
その後、ルネサンスを勉強しているうちに、占星術の勉強もするようになった。やがて、都市国家の支配者たちが占星術によっておのれの生きている時代の運命を占ったのも当然という気がしてきた。

ことわっておくが、女子学生相手の人生相談は無料だった。食事をする時間がなくなって困ったけれど。

最近は暇になったのでまた易者をはじめようか。ただし、女性にかぎる。(笑)
見料はコーヒー一杯。おれがおごるんじゃない。キミにおごってもらうんだヨ。(笑)

1048

ある時期、ある女子大の先生だった。けっこう人気のある先生だったらしい。
昼休みに女子学生の「人生相談」にのってやった。「人生相談」というより、相談にきた女の子の手相や人相を占った。
たまたま二、三人を占ってやったのだが、これが評判になって、昼休みの学食で、ひとりで食事をとっていると、女の子が寄ってくる。私の前に立って、
「あのう、お願いがあるのですが……」
もじもじしながら、声をかけてくるのだった。

私の占いはじつに単純な思想にもとづいている。
キミの運命は変わらない。ならば、姿勢を変えること。

女子学生の相談は、兆域にいたらず、ことごとく現在進行形の恋愛か、または近い将来の婚姻の吉凶にかぎられているので、こんなに楽な卜占(ぼくせん)はない。
門前雀羅(もんぜんじゃくら)をなす。中田先生の昼食時間は、易者の出張所になってしまった。ことわっておくけれど、私は相術をよくするものではない。ただ、私の卜定(ぼくてい)は、よろしきことしかつたえなかった。
評判がいいのもあたりまえだろう。

私が見てやった女の子は、二百人以上。
(つづく)