1107

(つづき)
「週刊朝日」(1945年3月18日号)。定価、二十銭。

短歌の選者は、斉藤 瀏。戦時中に威勢がよかった歌人。

自転車の姑娘続くうららかさ北京の春は今さかりなり

これは中支派遣軍の兵士が寄せたもの。

隊長の机の上に戦友等つぎつぎ置き去る遺言の包

これは傷病兵が詠んだもの。
俳句の選者は、富安 風生。

菊咲いて日本晴のビルマかな

これも傷病兵が詠んだ俳句。

連載小説は、山岡 壮八の『寒梅賦』。南方の前線基地で、航空隊の特攻を指揮した海軍の提督、有馬 正文中将伝。見開き、2ページ。

この号の映画広告は、2本。
黒沢 明の「続 姿三四郎」。前作、「姿三四郎」とキャストはおなじだが、比較すべくもない凡作だった。広告の大きさは、タテ 4センチ2ミリ、ヨコ 6センチ6ミリ。
もう1本は、佐々木 康監督の「乙女のゐる基地」。松竹映画。近日封切。
笠 智衆、佐野 周二、東野 英治郎、原 保美、水戸 光子ほか。
「大空の下 愛機の整備に打込む 戦ふ女性の凛烈の気迫! 決戦女性の生活指標を描く!」
広告のサイズは、タテ 6センチ、ヨコ 8センチ。

私はこの映画を見ていない。3月10日の空襲で焼け出されたため、まったく無一物のまま、学徒動員で川崎の工場に通わなければならなかった。生きるのがやっとという状況で映画を見るどころではなかった。

紙質がひどくわるい週刊誌を手にする。ひたすら敗戦にむかって崩れ落ちてゆく時期の日本の姿が透けてみえる。
この週刊誌を手にする私の内面には、けっして消えることのない思いがえぐりつけられている。

1106

最近、ある週刊誌を見つけた。2冊。いずれも戦時中の「週刊朝日」。わざわざこんなものを見つけ出して読むのは、私だけだろう。

1冊は「週刊朝日」(1945年3月18日号)。A4判、22ページ。

表紙は、小磯 良平。若い飛行兵ふたりが手紙か何かを見ている。題は「基地出発」。当時の読者は、特攻として出撃する予科練の若人を想像したはずである。
戦後の小磯 良平が、若い女性の姿を描きつづけたことを知っている人は、このデッサンに深い感慨をもよおすだろう。
ことわっておくが、私は小磯 良平が戦争に協力したなどというのではない。まして彼を非難するつもりはない。

1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による空襲で壊滅した。この空襲による死者は十万人を越えた。

この「週刊朝日」は、大空襲の直後に出た週刊誌だろう。というのは、前号(3月11日号)が無事に出たとしても、3月18日号は、編集の途中で3月10日の大空襲にぶつかったはずである。これほどの大空襲に見舞われるとは編集部の誰も予想していなかったと思われる。
小磯 良平の表紙も、おそらく空襲より前に依頼されて描かれたものと見ていい。

3月18日号に掲載されている時局に関する記事。
当然ながら、国民の戦意昂揚を目的とするものばかりだが、西田 直二郎(京都帝国大教授、文学博士)の、「今ぞ戦争完遂の神機 大化改新・祖先の功業に偲ぶ」というエッセイが巻頭をかざっている。

今や昭和の大御代(おおみよ)となり、大東亜聖戦のただ中に大化改新より一千三百の歳月をここに向へたのである。大化改新の精神は長い歴史を経て却って強くも此の年に際りて輝きて生き来ったと言へる。

こういう空疎な文章が氾濫していた時代だった。

陸軍航空本部、森 正光中佐が、「敵の航空作戦を暴く 夜間の大編隊都市爆撃は必至」という論文を書いている。厚生省の医師、瀬木 三雄は「集団疎開 本土戦力の急速強化ヘ」をとなえる。
「週評」というコラムでは、「敵機何するものぞ 見よ焼跡に不屈の闘魂」といさましい記事。

「決戦大臣あれこれ談義」というインタヴューでは、大達内相の「頼もしきかな 罹災者の戦意」という記事。記者は、津村 秀夫。なにしろ、娯楽用の映画フィルムがなくなって、ろくに映画も公開されなくなったため津村 秀夫がこんなインタヴューを担当したらしい。

今の読者に教えておけば――津村 秀夫は、戦後も「Q」というサインで映画批評を書いていた映画批評家。著書も多い。
(つづく)

1105

(つづき)
ゲイリー・クーパーについて・・・・

日本流に数へて二十九歳の好青年。とはいつても昔風な優男一点張りでないことは勿論。情があって、それでゐて男らしい。身長だって六尺二寸といふ大男だ。
たとへば皆さんの中でもこの青年を嫌ひだといふキネマ・ファンは絶対にないと思ふのですが、いかがですか? 髪は褐色、瞳は清澄な青色。
まだ独身です。舞台経験はない。出演映画の主なものは「つばさ」、「ライラック・タイム」等等。

まだ「モロッコ」が封切られていなかったことがわかる。

ゲイリー・クーパーは、1926年、「バーバラ・ウォースの勝利」に、エキストラとして出演してから、1960年、アカデミー賞、特別賞を受け、翌年亡くなっている。
戦前の代表作は、「モロッコ」(30年)だが、{武器よさらば」(32年)、「生活の設計」(34年)、「マルコ・ポーロの冒険」(38年)など。
私たちは、戦後になってあらためて、「誰が為に鐘は鳴る」(43年)、「サラトガ特急」(44年)から「真昼の決闘」(52年)まで、ハリウッドを代表する大スター、ゲイリー・クーパーを見直すことになったのだった。

彼は、いつも「平均的なアメリカ人・ジョー」を演じつづけた。ミスター・ジョン・ドウの典型である。彼の信条は、じつに単純なものだった。
アーサー・ミラーの『セールスマンの死』について、

たしかに、ウィリー・ローマンみたいなやつはいるよ。だけど、そんな連中のことを芝居にする必要はないさ。

アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。

この顔ぶれは、昭和初年の日本女性に人気があったスターだったのだろう。いずれも「天分と容姿」に恵まれたスターたちだが、現在、彼、彼女たちの映画を見ている人がいるだろうか。
この時期、中国では「上海摩登」(モダン)が登場する。チーパオを着たクーニャンが颯爽と歩いていた。日本で公開されない映画も上海では見られた。

小さな投書から、私の連想はつぎつぎにひろがってゆく。ときどき、自分でも収拾がつかなくなるのだが。

1104

こんな投書を見つけた。ある婦人雑誌(昭和4年12月号)から。

今年四月高女を卒業したもの、映画女優志願。家にいて手続できますか。金は沢山入用ですか。会社は。   (滋賀県、京子)

「婦人立身相談」。回答者は答えている。

本欄としては初めての御質問です。これは天分と容姿の問題で、私が会社側の立場としていへば、身長五尺二寸以上、容姿普通以上、健康にして労働を厭はず演芸に趣味を有し研究心ある者ならば合格線に近いわけです。ただ単なる憧憬なら不賛成。家人によく相談して御覧なさい。会社にして堅実なるものは日活、松竹共に第一流ですが入社は困難でせう。かうした会社で時々臨時雇を募集することあり、その節テストに応じて見こみがなかったら諦めることです。

映画スターを夢見た京子さんは、きっと美人だったのだろう。ただし、「天分と容姿」ということになれば、ごくありきたりの「美人」では通用しない。
京子さんは「家人によく相談した」のだろうか。「ただ単なる憧憬なら不賛成」どころか、その不心得を説諭されたにちがいない。

容姿に関して、身長五尺二寸というのも、当時の女性の平均をこえていたレベルなのだろう。体重は? 私としては知りたいところだが。
さて――日活、松竹のその後を知っている私たちには、露槿すでに秋を傷(かな)しむ思いがある。
金は沢山入用ですか。これには返答のしようがない。だから答えていないのだろう。

この1929年、サイレント映画はまさにトーキーと交代しようとしていた。
一つの芸術の決定的な消滅と、別の表現形式の登場だったが、その衝撃の大きさにまだ誰も気がつかない。
当時、最高の人気を誇っていたメァリ・ピックフォード、コリーン・ムーア、グローリア・スワンソン、ビリー・リリー、クララ・ボウといったスターたちも、はげしい運命の転変を経験しようとしている。

「婦人世界」は、ハリウッドのスターたち、13名を紹介している。

アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。                   (つづく)

1103

ある晩、私は酒場「あくね」で飲んだあと、お茶の水に向かっていた。たまたま明治大学の正面前から歩いてきたふたり連れがいた。ふたりとも、いいご機嫌のようだった。
作家の田中 小実昌と、翻訳家の山下 諭一だった。

「中田さん、マリリン・モンローのスリー・サイズをおしえてください」
田中 小実昌がいった。

こういう質問には警戒してかかる必要がある。
田中 小実昌は、すっかり出来あがっていて、いいご機嫌だったから、私を見かけて、たちまちとっぴょうしもないことを切り出して、困らせてやれと思ったのかもしれない。
だから、悪意があってのことではない。

マリリン・モンローのスリー・サイズは、
39 24 37
37 23 38
36 26 36
どれも、よく知られている。

女性の人生の時期によってスリー・サイズが変化するのは当然だろうが、私はマリリン・モンローのスリー・サイズに関心はなかった。そんなことはどうでもいい。ある時代、ある場所にひとりの女が生きたということは、それだけで孤立してとらえるわけにはいかない。
女のスリー・サイズを知ったところで、その女の美しさをどれほども説明できるものでもない。

田中 小実昌が、いきなりそんなことをいい出したのは、私がマリリン・モンローの評伝めいたものを書いていたからである。そんな仕事をしながら、身すぎ世すぎのために雑文などを書いている。
田中 小実昌は、ミステリーの翻訳家として知られていたが、この頃からすぐれた短編を書きはじめていた。作家として知られてきただけに、マリリン・モンローなどに入れあげている私をからかってやろうとしたのだろう。
山下 諭一はニヤニヤしていた。

私は、「36 26 36だと思います」
そう答えた。

そのまま、ふたりと別れたが――あとになって、田中 小実昌と、山下 諭一がいっしょになって、私のことを大笑いしているだろうな、と思った。

なんでもない話である。しかし、私の内部には何か澱のような気分が残った。

1102

歴史上、すぐれた業績をのこした人は、ほとんど例外なく読書家だったという。
そうだろうなあ。

なかには、常識では考えられないほど大量の書物を読みこなしている人もいる。
トーマス・アルバ・エディスンは、自分の読んだ本を1冊、2冊と数えなかった。本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といっていたとか。

少年時代に、沢田 謙という人が書いた『エジソン伝』(新潮文庫)を読んだ。
これがじつにおもしろかった。小学生向きに書かれた伝記ではなかったが、なによりもまず、少年時代のエディスンの生きかたに心を奪われた。少年なのに、新聞を創刊したり、無線電信の技手になって、州議会の投票の電化を考えたり、なんでも「発明」したり。
私は、はじめて伝記のおもしろさに夢中になった。
沢田 謙の『エジソン伝』は、愛読書になった。私は何度も何度もくり返して読んだ。

その後、つとめて沢田 謙の書いたものを探すようになった。世界の感動美談といった、いまでいうノン・フィクションを書いていたが、『エジソン伝』ほどおもしろいものではないので、夢中になって読むこともなかった。
おなじ伝記でも、ただおもしろいだけでなく、もっと深く人間性を追求しているものがあることに気がつきはじめた。

沢田 謙や、野村 愛正、加川 豊彦、吉田 甲子太郎(朝日 壮吉)といった人の書く伝記ものは、どこかウソっぽい感じがあった。
あまり才能のない、たいして想像力に恵まれていないもの書きでも、偉人や、有名な人物の伝記でも書いていれば、けっこう文学者のような顔をしていられるらしい。そんなことをぼんやり考えたような気がする。

エディスンは、自分の読んだ本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といったという。偉人伝にありがちな伝説と見てもいいが、実際にエディスンは、多読を可能にする速読法を身につけていたのかも知れない。
若い頃の私だって、読みやすくて、内容もさしてむずかしくない新書版、文庫程度なら、毎日5冊、10冊と読みとばしていた。別にむずかしいことではない。

モームが嘆いていた。若い頃に、読書についてきちんとした指導を受けていたらずいぶんよかったに違いない、と。けっきょく、自分にはあまり役に立たなかった本に多くの時間をついやしたことを思うと、ためいきが出る、という。
私は、モームのような読書家ではないので、くだらない本にあまりにも多くの時間をついやしたことを後悔しない。ただ、ある国の社会を理解するには、おびただしい、二流、三流のミステリー、三文小説を読むのがいちばんいい、と思ってきた。
私は、博学多識など、すこしも敬意をもたない。
京都町奉行の神沢 与兵衛の『翁草』正続二百余巻よりは、上田 秋成の『癇癖談』、平賀 源内の『放屁論』一巻のほうが、はるかにおもしろい、と思っている。

まだ、読んでいない本のことを考えると、ためいきが出る。

ただし、あわれなことに、いまや、私の読書のスピードは落ちている。というより、早く読む必要がなくなっている。気ままに本を読み散らしているので、昔読んだ本をもう一度読み直してみたり。
若い頃に読んですごい傑作だと思ったものが、いま読んでみると、たいしたものではなかったり、逆に、若いときにはよく見えなかったものが、老いぼれて、やっと見えてきた、なんてこともあったりして。(笑)

1101

ある劇作家がいう。

先輩の劇作家で、人気が衰えてからも劇作をつづけた例をあまりにも多く見てき
たものだ。時代が変わったことに少しも気づかず、気の毒にも、おなじような芝
居をくり返し書いているのを見てきた。また、当世ふうの好みをなんとかとらえ
ようと必死にがんばり、その努力を物笑いにされて、しょげている先輩を見た。
以前は、芝居を書いてくれと支配人に懇願されていた人気の劇作家が、おなじ支
配人に脚本をわたしても、相手にされなかったのも見たものだ。
俳優たちがそういう先輩たちを軽蔑的に、あれこれとあげつらうのも聞いてきた。
先輩たちが、今の観客が自分たちを見限ったことに、やっと気がついて、戸惑い、
呆れ、くやしがるのを見てきた。
かつては、有名な劇作家だったアーサー・ピネロ、それに、ヘンリー・アーサー
・ジョーンズが、だいたい似かよったことばで、「おれはご用ずみらしい」とつ
ぶやいた。ピネロは、むっつり皮肉をきかせて、ジョーンズは、途方にくれなが
らも、ムカッ腹をたてて、そういった。

サマセット・モームの回想。
さすがにいうことがちがうなあ、一流作家は。

私にしても、いろいろな先輩の作家や、評論家の生きかたを見てきたものだ。
1950年(昭和25年)、岸田 国士の提唱で、文壇と演劇界が大同団結して、あたらしい運動を起こすことになった。具体的には、「雲の会」の発足になった。
私は芝居に関してはまったく無縁で、どこの劇団にも関係はなかったし、将来、自分が劇作、演出などを手がける可能性など考えもしなかった。それでも、このとき、矢代 静一といっしょに、最年少のメンバーとして参加したのだった。

「雲の会」のメンバーは、半数以上が文学者だったが、メンバーにならなかった人たちは強い反感をもって見ていたと思われる。

ある日、私は、たまたま、先輩の演劇評論家、劇評家、戯曲専門の翻訳家たちの集まりに同席した。このとき、その席にいたのは、茨木 憲、西沢 揚太郎、遠藤 慎吾、尾崎 宏次ほか数名。
ひとしきり各劇団のレパートリー、俳優、女優の誰かれの話題で盛り上がっていたが、やがて若い劇作家、演出家の月旦に移った。当然ながら、私はこの人たちの話に興味をもった。
当時、すでに劇作家として登場していた福田 恆存、三島 由紀夫、加藤 道夫、中村 真一郎、矢代 静一、八木 柊一郎の仕事などに対して、みなさんの手きびしい批評がつづいて、黙って聞いていた私はおぞけをふるった。はっきりいえば、ふるえあがったといっていい。
劇評にはけっして書かないような、激烈なフィリピックスが、ごく内輪の、こういう場所では、辛辣、無遠慮におもしろおかしく語られているのか。

このとき私は考えたのだった。
このひとたちが、後輩に対してこれほどきびしい批判を浴びせるのは――じつは、自分たちが、いつの間にか、劇壇の主流からはずれて、いまや、むっつり皮肉をきかせて後輩を語るか、途方にくれ、ムカッ腹をたてて、そんなふうに当たりちらしているのではないか、と。

時代がすっかり変わったことに気づかず、いつもおなじような主題をくり返し書くようになってから、後輩に対してきびしい批判を浴びせるようなことがあってはならない。自分がみじめになるだけだ。
いまも、この考えは変わらない。

1100

いくらいい翻訳論を読んでも、翻訳がうまくならないように、演出論といったものを読んでも、実際の演出にはあまり役に立たない。

何かの本で読んだ、ジョン・ウェインのエピソードを思い出す。

彼は、顔を洗いながら、セリフを一行いうことになっていた。そのセリフは――「あんたの行くところなら、どこだってついて行くよ」という一行。
ところが、顔の洗いかたが、監督の気に入らなくて、何度も撮り直しになった。ジョン・ウェインは、監督の気に入るように、いろいろとやってみた。
ところが、監督は承知しない。
とうとう、最後に、監督が、

顔をピシャピシャやるな。顔を洗うこともできんのか!

と、どなりつけた。
ジョン・ウェインは、自分ではきちんと顔を洗う演技をしているつもりだったので、監督に怒鳴られたことにいささかおかんむりだったらしい。

あとになって、ジョン・ウェインは考えたという。

このシーンのつぎのカットは、その映画のいちばん大事な、いわばハイライト・シーンになっている。監督はそのハイライト・シーンを撮影する前に、俳優を緊張させるために、さして大事ではないシーンで、叱りとばしたのではないか、と気がついた。
そのハイライト・シーンの撮影では、まるで赤んぼうのように、やさしくあつかわれたらしい。

この監督は、いうまでもなく、ジョン・フォード。

こういう演出は、まともに語られることがない。まして、こムズかしい旧ソヴィエトの映画論、演出論などには絶対に出てこない。
ジョン・ウェインは、ハリウッドの黄金期の大スターだったが、役者としてはたいしてうまいひとではない。まして、名優などといえたものではなかった。
それでも、西部劇では不朽の名声を得た。はじめて、ジョン・フォードに出会った「駅馬車」、彼自身がはじめてプロデュースした「拳銃の町」、大スターになってからの「リオ・グランデの砦」などを見ておけば、ジョン・ウェインの「いい映画」はひとわたり見たことになる。「グリーン・ベレー」などは見る必要がない。

ジョン・フォードは、ジョン・ウェインがたいしてうまい俳優ではないことを知っていた。しかし、自分の映画に出てもらう以上、誰よりもいい俳優に見えなければならぬ。そういう、きわめてプラグマティックな計算から、さして大事ではないシーンなのに叱りとばしたのではないか。
ただし、その「演出」に気がついただけジョン・ウェインは名優かも。

1099

’09年3月30日、日本の人口は、1億2707万6183人。前年比、1万5人増。増加は、2年連続。
5人というところがうれしいね。両親と、若いカップルと、子どもがひとり。そんな家族を想像して。

海外からの転入、帰化などにともなう社会増加数は、昨年、4万1826人。今年は、5万5919人。してみると、1万4093人の増加ということになる。
ところが、出生者数から死亡者を引いた自然増加数は、4万5914人。
過去最大の減少という。人口の落ち込みがはっきりしてきた。
そして、帰化した人が、1万数千。

出生者数は、108万8488人。前年比、7977人減。この減少は、3年ぶり。

死亡者数は、113万4402人。過去最高。

以上、総務省の発表(’09年8月11日)による。

私が、酔狂にも、こんなことを記録しておくのは――ここに、亡国の翳りを見るからである。
社会増加数が、1万4093人も増加している、といって、喜んではいられない。海外に進出した企業が、世界的な不況でぞくぞくと撤退している事態が見えてくる。

帰化した人が1万数千というのははたして喜ばしいことなのか。

新聞記事の引用だけでは気がきかない。ついでに、おもしろい統計を並べておく。
亨保17年、日本の人口統計。

武家人数  2億3698万7950人
内 女 16万1610人
男 惣合  2億3606万6827人
女 惣合  109万4948人
男女惣合  2億3716万1775人

凄いね。おなじ統計で、江戸の町人数は、52万5700人

内 男 30万5110人
内 女 22万0590人

坊主   2万6000人
山伏     3075人
弥宜(神主)   90人
比丘尼    6750人
川原者    3250人
新吉原人数  8960人
内 男    2962人
内 女    5998人

『甲子夜話』(文化12年)の統計では、

江戸町人数  53万2710人
出家   2万6090人
山伏     3081人
新吉原人数  8480人
総数  57万4261人
武家人数  2億3658万0390人

こいつはいいや。’09年3月、日本の人口が、1億2707万6183人。江戸の武家人数が、2億3千万というのだから、ノーテンキな話さね。

時代遅れの Cranky GGとしては、総務省の統計を見て膚に粟を生ずる思いだった。江戸の統計を書きとめておくのはショックアブザーヴの冗談。(笑)

1098

 こんなことは書かなくてもいいのだが――ひょっとして、気がつく人がいるかも知れない。

評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた頃、私はジャーナリズムから離れていた。ごくたまに原稿を書いたが、それもルイ・ジュヴェのことを書く程度だった。

「キネマ旬報」に頼まれてエッセイを書いたが、これも、もはや忘れられている俳優、ルイ・ジュヴェについて書いたものだった。
編集部が「女だけの都」(ジャック・フェデル監督/1935年)の写真を掲載したが、ルイ・ジュヴェは出ていない。どうやら「太公」のジャン・ミュラーと、ジュヴェの「従軍僧」を間違えたらしい。
私は、訂正を申し込むこともしなかった。高級な映画雑誌の編集者でさえ、ジュヴェを知らないのだから、訂正したところで意味はない。

『ルイ・ジュヴェ』が出版された頃、「映画史100年ビジュアル大百科」というムックが、継続的に出版された。たとえば、1910年は、フローレンス・ローレンスという女優が、カール・レムルのトリックで、アメリカ映画最初のスターになった、とか、1917年は、女優セダ・バラが大作「クレオパトラ」に出演、バスター・キートンがスクリーンに登場、といった記事が満載されている。
出版社は、こういうシリーズをつぎからつぎに企画しては出してゆく、「デアゴスティーニ」。

その1920年号に、ヴィクトル・シェーストレームの映画、「霊魂の不滅」がとりあげられている。この原作は、セルマ・ラーゲルレフで、山室 静さんが訳していたはずである。
この映画の1シーンが出ている。

よく見ると、ヴィクトル・シェーストレームの「霊魂の不滅」ではない。
ジュリアン・デュヴィヴィエがリメークした「幻の馬車」(1939年)の1シーンで、主人公のダヴィツド(ピエール・フレネー)が事故で倒れて、魂が離脱している。その幽体離脱を凝視している「馭者」は、なんとルイ・ジュヴェなのである。

編集者は、ヴィクトル・シェーストレームの「霊魂の不滅」も、デュヴィヴィエの「幻の馬車」も見たことがなくて、ステイル写真を見て、1920年号の「霊魂の不滅」と思い込んだに違いない。

こんな間違いはどうでもいいのだが、将来、この「映画史100年ビジュアル大百科」を信頼して、ルイ・ジュヴェの「馭者」をヴィクトル・シェーストレームの「馭者」と間違える人が出てくるかも知れない。

それに対して、私が異議を申し立てていたことは記録しておこう。

1097

この夏、アメリカの「リーダーズ・ダイジェスト」が、16億ドルの債務を株式化することで、主な債務者と合意した。つまり、連邦破産法の適用を申請することになった。(’09,8.18)

ようするに、広告収入や、販売部数の落ち込みがつづいて、経営の建て直しができなくなったらしい。

戦後、日本でも「リーダーズ・ダイジェスト」日本語版が発行された。薄い雑誌なのに、そのときそのときのベストセラーや、いろいろな雑誌、新聞の記事の要約などが満載されていた。
はじめのうちはものめずらしさもあって驚異的な売り上げを見せたが、やがては飽きられて、1986年に日本語版は廃刊された。
私はこの雑誌をほとんど読まなかった。
どのページを読んでも、まったくおなじレベルで、ごく平均的な、わかりやすい文章がならんでいる。したがって、嫌悪の眼をむけていたといっていい。
「リーダーズ・ダイジェスト」なのだから、読者は、日頃、多忙な生活を送っていて、本を読む時間のない人なのか。そういう人が、その時その時に読まれている本の内容を手っとり早く理解できるようにダイジェストしてある。
そのかわり、その文章に、いきいきした感じ、あるいは真実味といったものは、まったくない。
どんな本も、のっぺらぼうな顔つきで、せっかくいいことが書いてあっても、それぞれの内容に感動することがなかった。
どのページを読んでも、アメリカの低いレベルのプラグマティズムを見せつけられるような気がした。そして、これまた低い次元の、保守主義の偽善がどのページにも立ち込めている。

21世紀のアメリカは、アフガニスタン攻撃から、イラク戦争、そしてこの「戦後」を経験してゆくなかで、「リーダーズ・ダイジェスト」が読まれなくなって行ったのは当然ともいえるだろう。そのイデオロギーが、時代の流れとズレてきた雑誌は、かならず没落してゆく。

日頃、多忙な生活を送っていて、本を読む時間のない人に、そのときどきに読まれている本を紹介する。これは必要なことかも知れない。
しかし、「リーダーズ・ダイジェスト」のように、ダイジェストしたものを読む必要はない。
もし、「リーダーズ・ダイジェスト」を読むのとおなじ程度の時間的な余裕がある人は、本屋に行って、ベストセラーを手にとって、1ページでもいいから、立ち読みすることをすすめる。

「リーダーズ・ダイジェスト」には申しわけないが、ダイジェストされた本からは、ほんとうのおもしろさはすべて落ちていると思ったほうがいい。ベストセラーは、かならずおもしろいことが書いてある。そして、著者は、読者の興味をそそったり、効果的な要点をみごとにとらえている。
ベストセラーの作者はいきいきした書きかたをしている。活気がある。

だから、書き出しの数行を読むだけでもよい。その本のおもしろさは、冒頭の数行を読めばわかる。つぎつぎに、ベストセラーを手にとって、数行を読むだけでは、まったく意味がないけれど――その数行を、それぞれ比較してみるだけでも、頭の訓練になる。

そうすれば、きみは、さしあたって読む必要のある本か、読まなくてもいい本なのか、自分で判断できるようになる。

そして、ベストセラーは、少なくとも一年以上経ってから読む。

「リーダーズ・ダイジェスト」破産のニューズから、私が考えたこと。

 

1096

(つづき)
戦後の日本で、いちばん最初に公開された映画が、「春の序曲」と「キューリー夫人」だった――というのは、じつは正しくない。

戦後の大変動のなかで、各地の映画館も混乱していたのではないか。
戦後すぐの浅草で、サイレント映画の「喜びなき街」(G・W・パプスト)を見ているが、六区(浅草)の映画館は、どういうルートから流れてきたのか、いっせいに古いフィルムをかけていた。キートン、ハロルド・ロイド、ローレル・ハーデイの喜劇もあったし、戦前に公開されたソヴィエトの喜劇、はては誰が出ているのかわからないサイレント映画までがあふれていた。
戦後、私がいちばん先に知った化粧品は、ヘリオトロープの香水だったが――実物を見たわけではない。トーキー初期のミステリーには、きまってヘリオトロープの香水をつけた美女が出てくるからだった。
敗戦直後の浅草に氾濫した映画のなかには、川田 芳子主演の、大楠公桜井の別れ、などという文部省推薦の珍品もあった。無声映画のスターだった川田 芳子は、この映画で「楠 正行」の母親役だったが、すっかり老女になっていた。やはり、無声映画のスターだった英 百合子や浦辺 粂子が、戦後まで女優として生きぬいたことを思いあわせると、そぞろ哀れをもよおす。
もっとも、当時の私は何も知らずにひたすら映画を見ていただけだった。

敗戦直前に動員先の工場が空襲で焼けてから、毎日あてどもなく東京を歩いていた。友人たちは、みんな応召していた。大学に学生の姿はなかった。
東京じゅうどこも、焼け跡、疎開跡ばかりで、真昼も廃墟と化していた。
古本屋を探したが、そんなものがあるはずもなかった。まだ焼けていない住宅地では、空襲の被害を少なくするために、密集した家屋のなかから何軒か間引く作業が続けられていた。撤去の指定を受けた不運な家族は、急いで引っ越さなければならない。
その家の蔵書や家具などが、道に投げ出されている。すぐに、人だかりがして、本をひろってゆく人もいた。私も思いがけない本を見つけることがあった。

そして、戦争が終わった。戦後の激動と狂乱のさなか、「ユーコンの叫び」(1938年)という映画が公開されている。(1945年12月)
戦前に封切られる予定だったのが、戦争でオクラ入りになったのだろう。「リパブリック」のアラスカもので、画面がひどく荒れていた。主演は、戦前に人気のあったリチャード・アーレン。
私は焼け残った場末の映画館で見たが観客がつめかけて超満員だった。

つづいて、翌年のお正月に「ターザン」が出た。これも、戦前(1935年)のストックもので、ターザンもジョニー・ワイズミュラーではなかった。
それでも、ターザン映画なので、観客がひしめいていた。戦争が終わった、という気分と、アメリカという国を理解しようという気もちもあったのだろう。巷では、「日米会話手帳」という、ペラペラの小冊子が、とぶように売れていた。
ターザン映画なのに、観客に子どもたちの姿はまったくなかった。戦争の被害を避けて強制的に、田舎に疎開させられていたためだろう。

そして、その2月に、戦後の日本で、最初に「春の序曲」と「キューリー夫人」が公開された――ということになる。これが歴史的な事実。

例によって、私の「あおとく」。つまらないトリヴィア。

1095

(つづき)
戦前、「オーケストラの少女」でディアナ・ダービンを見た。可愛い少女スターだった。(当時、室生 犀星が随筆で、ディアナ・ダービンの舌について書いていた。それを読んだ子どもの私は、この作家の眼に驚愕したことがある。)戦後の「春の序曲」で、ディアナはすっかり成熟した美少女に変身していた。

ケーキのシーンも忘れられないが、もう一つ、この映画の1シーン。これも、忘れられない。

ディアナ・ダービンがたずねて行ったのは、年齢の離れている兄。さる富豪の豪邸で、執事をやっている。演じたのは、パット・オブライエン。
ふとい葉巻をくわえたパット・オブライエンが、ひろい部屋に入って、口から、まるく輪になった煙を吐き出す。別にめずらしい場面ではない。
煙はそのまま前方の壁にむかってまっすぐ進んでゆく。壁までの距離は数メートル。

煙はそのまま少しづつワッカの大きさをひろげて、前方の壁にむかって進んでゆく。
カメラは、部屋のまんなかに固定されていて、このシーンを撮っている。

ここまできて、(映画の観客は)タバコの煙がどこまで飛んで行くのか、興味をもつ。煙は空中でわずかに揺らぎ、ワッカの大きさをひろげながらも、そのまま部屋の壁にむかって進んでゆく。
2メートル。そして3メートル。

恰幅のいい俳優だったパット・オブライエンは、よほど肺活量が大きいのだろう。葉巻の煙はほとんどもとのかたちのまま空中で揺れ、からみあい、少しづつ崩れて、大きくなってくるけれど、それでもそのままの勢いで進んでゆく。
4メートル。ついに、5メートル。
(映画の観客は)息をのんで、このスタントを見つめている。

最後に、タバコの煙は直径1メートル程の大きさのまま、壁につき当たって、空中に消えてしまう。その距離は、7、8メートルはゆうにあるだろう。
これが、ワン・カットで撮影されていた。

「春の序曲」は、戦時中のアメリカとロシア(当時は、むろんソヴィエト連邦だが)の協調がたくみにアピールされているのだが、こうしたテーマとかかわりのない、パット・オブライエンの葉巻のシーンに私は驚かされた。
戦後、最初に公開されたハリウッド映画にこんなシーンがあったことなど、もう誰も知らない。誰も知らないことをいつまでもおぼえている、というのもおかしな話だが。

タバコの煙でワッカを作る。これはすぐにできるようになったが、私の吐き出す煙は、せいぜい数十センチしか飛ばない。いくら練習しても、パット・オブライエンの葉巻のシーンのようにはいかないのだった。
(つづく)

1094

戦後になって、最初に見たアメリカ映画は、「春の序曲」His Butler’s Sister(フランク・ボゼージ監督/1943年)だった。アメリカ占領軍が対日占領政策の手段として、ハリウッド映画の公開を押し進めたからである。
当時の私は、アメリカ映画が見られるというだけでうれしくなって、占領軍の占領政策の一環などということは考えもしなかった。

「春の序曲」といっしょに公開された映画は、「キューリー夫人」Madame Curie(マーヴィン・ルロイ監督/1943年)だった。原作は、キューリー夫人の娘、イーヴ・キューリーが書いた伝記。
グリアー・ガースン、ウォルター・ピジョンの主演で、私たちは、戦後、はじめてグリアー・ガースンという美女を見たのだった。

アイルランド生まれで赤髪とくれば気が強いのが通り相場だが、その気の強さを
内に秘めての演技が努力して初志をつらぬく女性の役にぴったりだったわけで、
同じアイルランド産の赤髪で強気を表面に出して人気をえたモーリーン・オハラ
といい対照である。

と、双葉 十三郎が書いている。(「美男美女変遷史」1976年)

この2本の映画は、1946年2月28日に同時に公開された。

アメリカ占領軍の指令が、つぎつぎに軍国主義国家「日本」を解体して行った時期で、治安維持法、特高警察が廃止され、兵役法も消えた。女性解放、学校教育の民主化。とにかく、ありとあらゆるものが激動にさらされていた。
そういう時期に、アメリカ映画の「春の序曲」と「キューリー夫人」が公開されたのだから、娯楽に飢えた民衆が殺到したのも当然だろう。
「春の序曲」と「キューリー夫人」については、当時、じつにたくさんの人が感想を書いている。

「春の序曲」のなかで、ディアナ・ダービンが、ショートケーキを食べる。そのケーキのデコレーションの綺麗なこと、ケーキの大きさに、観客は息をのんだ。
当時の観客たち誰ひとり見たこともない種類の食べものだった。
そのケーキを若い娘がペロリと食べている。劇場じゅうがどよめいた。

私たちは娯楽に飢えていた。が、それ以上に食料に飢えていた。
敗戦国民の哀れな姿を――きみたちは想像できるだろうか。
(つづく)

 

1093

この夏、私はまるで勉強しなかった。ろくに勉強しないのではない。まったく勉強しなかった。もっとも、いまさら勉強したって遅いせいもある。

いつしか秋となりにけり。自分で勉強したわけではないことをとりあげておく。はじめから、私の理解のおよばないことだから、わかったような顔をしてもはじまらない。

現在の「ブルーレイ」の25倍以上の記憶容量をもつ、次世代光ディスクの開発をめざして、2012年に実用化が計画されている。
この記憶容量は、1テラ・バイト。すなわち、1000ギガ。

この次世代光ディスクは、特殊なレーザー光線で立体画像を記録、再生するホログラム技術を応用する。これは、おもしろい(だろうと思う)。

次世代光ディスクの実用化で、消費電力の削減効果も見込まれるという。

さて、ここからが私の意見。ただし、はじめから、何ひとつ理解てきないボケGサンのいうことだから、何の意味もないのだが。

この次世代光ディスクは、この日本において必ず実現する。
これは期待ではない。私たちが近い将来、確実に成果を手にすると見ていい。
ただし、これだけはいっておく必要がある。

この研究、開発の途中で、それが実現できると判断できたとき、ただちに世界各国の特許の許認可を、しらみつぶしに徹底的に申請して、その全部を確実に国際法上の保護のもとに置くこと。
それこそ、巾着切りのような連中が、虎視眈々と、横どりを企んでいるのだから。

かつてのトロン開発をはじめ、携帯電話、ベータとVHS、DVDにいたるまで、日本が先鞭をつけた技術的な「発明」や「発見」は、例外なく外国の思惑にふり回され、模倣され、プライオリティーを奪われてきたではないか。

戦前、日本の科学者が、世界ではじめてテレビの送受信の実験に成功したが、誰の理解も得られなかった。数カ月後に、アメリカは、テレビ放送に成功し、定時放送を始めている。
日本の科学技術がどれほど優秀であっても、研究者、研究機関がいつも孤立無援で、結果としては、後発の外国に煮え湯を飲まされてきた。今後は、おなじようなことを許してはならない。

2004年、すべての国立大学は「国立大学法人」に移行した。教育への市場原理の導入によって、「産官学」三位一体のシステムができあがったように見える。その結果、いちばんたいせつな基礎研究が、まるっきり冷や飯をくわされることになった。
こうした事態を招いた原因は、ことごとく政府の無知、無責任、そして経済、産業、財政当局の無理解と怠慢によるものではなかったか。

私は次世代光ディスクについて何も知らない。私の仕事は、クラウド・コンピューティングなどとはまったく関係のないものだから。
それでも、「空白の十年」と呼ばれた時期から、科学の分野にかぎらず、世界経済、外交、すべての分野で、日本の対応がいつも後手々々にまわったことを見せつけられてきた。はじめはおくれをとっていた巾着切りどもに最後になってマンマとアブラゲをさらわれる。
すぐれた「発明」が、他国の巾着切りどもによってむざむざ漁夫の利をさらわれる光景を見せられるのは、日本人として腹にすえかねるのである。

 

 

1092

この夏いろいろと読み散らしていて、こんな記事を見つけた。

東京音楽学校の主任教授たるアウグスト・ユンケル氏は、今回、普国政府よりプ
ロフェッサーの称号を授与せられたり。王国楽長が、氏の日本に於ける功績に対
し此の表彰をなしたるは、真に其の当を得たるものにして、元来ユンケル氏は、
独逸音楽を日本に紹介し、之が普及に与(あずかっ)て力ある人にて、今現日本
に於ける外国音楽中、独逸音楽が最も流行せるは、全の氏の功績という謂はざる
べからず。而(しか)して吾人の見る所にすれば、殆ど見込なき日本人の音量を
助成し、且つ彼らに難解なる独逸音楽を巧に教授せる技倆は、実に驚嘆に値すべ
きことなり。目下、東京音楽学校には氏の外に、尚ほ二名の独逸人、及び一名の
独逸婦人、教鞭を執り居り、彼等の催す声楽、並に器楽演奏会は、啻に日本在留
の外人に歓迎せらるるのみならず、実に我独逸本国に於ても模範的のものに匹儔
せるものなり。猶ほ近時数名の日本人は音楽研究のため独逸国に留学し、多くは
伯林(ベルリン)に滞在して、吾人には殆ど音楽と認むること能はざる日本音楽
と欧州音楽、特に独逸楽譜とを結合して、両国人に興味を以て迎へらるべき和洋
折衷楽を構成せんと企てつつあり、ユンケル教授も之れに関し大に貢献する所あ
りたり。

原文は、ドイツの新聞記事。明治44年9月。

普国政府とあるのは、プロシャの政府。
「吾人には殆ど音楽と認むること能はざる日本音楽」というあたりに、アジアに対するヨーロッパの侮蔑が響いているだろう。ここでは不問に付してやるが――ユンケル教授や、当時、音楽研究のため独逸国に留学した「数名の日本人」たちが、今年の夏、小沢征璽の音楽塾のプロジェクトを聞いたら卒倒するかも。

小沢 征璽は、この夏、音楽塾のプロジェクトとして、フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』を各地で巡演した。
彼自身も、はじめてこのオペラを指揮したらしい。
おなじ、この夏、「サイトウ・キネン・フェステイヴァル」では、ベンジャミン・ブリテンの『戦争レクィエム』をふった。この曲を指揮したのは24年ぶりという。

明治44年(1911年)から百年。日本人の音楽家が外国の曲を指揮して、いささかも遜色を見せない。私たちも、そのことをすこしも不思議に思わない。
そんな現実が、私にとってはたいへんにありがたいことに思える。

1091

指揮者の小沢 征璽は、オペラの指揮をつづけて、今年で40年になるという。2002年から、ウイーン国立歌劇場の音楽監督をつとめていることは誰でも知っている。
この9月からのシーズンが、最後になるとか。
チャイコフスキーの『スペードの女王』、『エフゲニー・オネーギン』をつづけて指揮する。
来年には、『フィガロの結婚』を上演してから、また『エフゲニー・オネーギン』を指揮して、ウイーンに別れを告げるとか。
最近のインタヴューで、

ウイーンは大変だけれど、オペラはすごくおもしろい。もっと早く始めれはよか
ったと後悔している。

と語っている。
なんでもないことばだが、私は感動した。

ウイーン国立歌劇場の音楽監督という仕事が、どんなに「たいへん」なものか、私たちの想像を絶しているだろう。そのことに感動したのではない。
ウイーン国立歌劇場の音楽監督として、「オペラはすごくおもしろい」といい切っている。はじめて、ザルツブルグでオペラをふって、すでに40年のキャリアーをもっている。「もっと早く始めればよかったと後悔している」ということばに、「思想」の成熟を読むことはできよう。しかし、あれほどの成果を実現しつづけた大芸術家が、(たとえ、半分ふざけていたとしても)「もっと早く」おのれの資質に気がついていたら、と慨嘆している。小沢 征璽のことばに、きみは何を見るだろうか。

小沢 征璽は語っている。

オペラの指揮は、とにかく勉強。チェコ語など得意でない言語のオペラをふると
きは、数カ月前から、毎朝、30分から1時間は歌詞を勉強する。

やっぱり、本当の芸術家は違うなあ。

私の感想だが――こんなふうにいいかえることができるかも知れない。小沢 征璽とは何か。

小沢 征璽、音楽のすべてをオペラに収斂する思想。

1090

自分でも気がついているのだが、最近、私の書くもののサイズが長くなってきている。

老人性言語下痢症のあらわれ。なるべく短くしよう。

古今のことを付会して、時世(ときよ)違いの話をすることを、青特というらしい。江戸の俳諧の宗匠の俳名から。たいしてえらい宗匠ではない。

ほんとうの読みは「せいとく」だが、私流に、これは「あおとく」にしよう。何かの、青い特別チケットみたいに聞こえるところがいい。
「あ」はアナクロニズム。「お」は烏滸の沙汰。「と」はとんでもない。「く」はくだらない。いいねえ。(笑)

昔の梅幸の「戻り橋」で――常磐津の松尾太夫は、「西へまわりし月の輪の」というひとくさり、「ほととンす」と結んだという。
「ほととンす」は、ホトトギス。
ほんの一字のいい替えで、唄が、イキになったり、ヤボになったり。これは、翻訳だっておなじこと。

「コンカツ」などというゲスなことばがはやる世の中。
アチシは、今後とも「あおとく」で参りやしょう。

1089

早川 麻百合さん。お手紙、ありがとう。うれしかった。
つぎつぎに、新しい翻訳を出しているきみから、手紙をいただくと恐縮する。
ところで、手紙のなかで、きみは書いている。

「毎日のように先生の「コージートーク」の更新をたのしみに、拝見しております。が……先生の書かれた内容が時々、ムツカシクてついてゆけず……などと言ったら、しかられそうですね。」

え、「コージートーク」の内容がムツカシいって。
まいったナ。ムツカシいことなんか、1コも書いてないんだけど。
しかし、きみのような才女に、「コージートーク」の内容がむずかしいといわれると困っちゃうナ。
むずかしい内容のものを、できるだけやさしく書く。もの書きとしては、たいせつな心得だね。とくに、私の「コージートーク」のように、一方的に勝手なことを書いている場合は。

いつも自分の読者を考えて書いているつもり。これは、長年、ものを書いてきた習性というか、経験にもとずいているんだ。
むずかしい、てノは、そんなものを書いたヤツの頭がわるいせいだよ。中田 耕治がヤボでアホだから。やつぱし、文章技術がなってないせいだヨなあ。(笑)

老人性言語下痢症(ロゴレア)がひどくなってきて。だから、くだらねえことばかり書いているんだヨ。おまけに、ひねくれている、ときた。
古今のことを付会して、時世(ときよ)違いの話をすることを、青特(せいとく)というそうな。さる俳諧の宗匠の俳名から。
なるべく「あおとく」で行こうとおもっているんだ。「あ」はあきれる。「お」はおっちょこちょい。「と」はとんま。「く」はくだらない。あるいは、娃、汚、妬、苦でもいいや。(笑)

心に浮かぶよしなしごとを気ままに書いている。書いておく価値もないこと、書く必要もないことばかり。しかし、つまらないことでも書いておけば、誰かの心に届くかも知れない。ずっと時間が経ってから――そういえば、あの頃、中田 耕治が、あんなことをいっていたっけ、と思い出してくれるかも知れないよね。

きみが毎日のように、「コージートーク」を読んでくれている。私のいいたいことをきちんと聞いてくれる人がいる、と思うとうれしくなった。
むろん、私は読者の顔色をうかがって書くことはない。何か質問してくれれば、できるだけ答えるつもりだけど。
以前、男親ひとりで息子さんを育てあげ、その子が無事に高校を卒業、就職して、社会に出たことを知らせてくれた人がいる。なんでもない報告だったが、私は感動した。息子さんを育てあげ、実社会に出したという無量の思いが、短いメールの文面にあふれていたから。私は返事も書かなかったが、この父子の幸福をおのれの身とひき較べて、わが身のいたらなさを考えないわけにはいかなかった。

ブログのような自由な形式だからこそ、そんな身辺のことも気がるに知らせてもらえる。私が本や雑誌に何か書いても読者の顔が見えないのとちがって、「コージートーク」では自分でも思いがけないアンティームな交流がうまれるようだった。
こんな「あおとく」であっても、お互いに心を通わせることができる――ような気がする。

ところで、きみの手紙を読んで、ふと、私の内部に思いがけないことが浮かびあがってきた。
何だと思う? 作家の晩年というムツカシいテーマなんだ。ギャハハ。(笑)

 

 

 

1088

鴈治郎の話が出たのだから、ことのついでに団十郎といこう。

「悪七兵衛景清」を演じた。
大太刀に鎖帷子(くさりかたびら)、顔は渥丹(あか)、おそろしい憤怒の形相で、舞台に出るところだった。

たまたま、見物にきていた、ひとりの巨漢が、どういうわけかにわかに発狂した。腰の刀をぬき放ち、舞台めがけて駆け上がり、舞台に出ている誰かれなく、ただただ無性(むしょう)に斬りかかろうとした。
見物席は総立ちになって、あれよこれよと大さわぎ。

団十郎も不意のこととて、せん術(すべ)もなかったが、すぐさま舞台にあらわれて、
「おのれ、推参者、ござんなれ。目にもの見せてくれようぞ」
大声あげて、呼ばわった。
その眼を怒らせ、ハッタと睨みつけた。
このため、乱心者は、ヒョロヒョロとあとずさりして、その場に悶絶した。

見物人は、舞台の状況を見て、割れんばかりの拍手を送った。

二代目、団十郎の話。

こういう話は、時代をへだてた私にしてもおもしろい。ただし、この種のアネクドットでは、この乱心者がどうなったのかわからない。どうして乱心したのか、私としては知りたいところだが。
さらには、この乱心者が巨漢だったことはわかるのだが、その身分、住所、収入、係累なども知りたい。

もっとも、何もわからないほうが想像をたくましくすることができる。この話から、たちどころに芝居の一本、二本は書けるだろう。