1167

ヤツガレ、ご幼少のみぎり――なんて気どったところで、はじまらねえか。

夜が明けると、町を流して歩く売り声がひびく。納豆売り、シジミ売り、トーフ屋。

私の通った小学校では、おなじ小学校を卒業した大先輩で、海軍の提督になった斉藤 七五郎中将の少年時代が唱歌になっていて、毎日のように歌わされた。誰の作詞だったのか。そのなかに、

身は、幼少の納豆売り

という一節があった。私の少年時代(昭和初期)には――さすがに小学生の納豆売りは見かけなかったが、それでも自転車に乗って、ツト納豆を売り歩く若者を見かけた。
煮豆屋もかかさずまわってくる。これは、リヤカーを改造したクルマに、白木の箱が重ねてある。その箱の引き出しに、よく磨いた真鍮の把手がついている。引き出しの中には、フキマメ、ウズラマメ、クロマメなどが、いっぱい入っている。
町家のおかみさんが、ドンブリをかかえて煮豆屋を呼びとめる。
注文を聞いた煮豆屋が、朱塗りのシャモジで豆をしゃくって、ドンブリに入れる。

どこの家の朝飯もオカズはだいたい似たりよったり。
オミオツケ、煮豆、おシンコ。おシンコは、白菜の漬物やタクアンなど。
今からみれば、粗食というか、貧しい食卓だった。

昼のお惣菜は、イリドーフ、オカラ、ヒジキ、ゼンマイ、ツクダ煮、アサリ、ハマグリ、ミガキニシンといった献立で、たまに焼きザカナが出たりする。
肉ジャガなどは、めったに食べられなかった。そもそも、あまりジャガイモを食べる習慣がなかった。ルーサー・バーバンク種の「男爵」が、まだ普及していなかった。

仙台では、笹カマボコがおいしかったが、あまりサツマアゲは食べなかったような気がする。東京の下町では、カマボコ、サツマアゲの両方を食べたが、笹カマボコを食べることはほとんどなかった。

最近の中国のGDPは、日本を抜き、アメリカについで、世界第二位になる勢い。
それかあらぬか、かつてはナマザカナをたべる習慣のなかった中国人が、いまや寿司やおサシミをよろこんで食うようになっているとか。
おサシミ用のマグロの消費量は、2000年に、約二百トン。2008年には、約一万トン。ほぼ、50倍の伸びという。
海産物の消費量は、この10年で、約1000万トン。日本の約900万トンをかるく追い抜いた。

今の中国は、それでも発展途上国だそうな。つい最近、中国政府がそう言明していた。

友愛のおかげで、マグロどころかメザシも食えなくなるかも。(笑)

1166

たまたま古道具屋で「ハリウッドからの遺書」という1本のビデオを見つけた。このときの私は、関係のないことを思い出していた。

『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、神田の古書店の、ゾッキ本だけを並べた棚に、ジュヴェの著書が3冊並んでいた。いっしょに本を探してくれた田栗 美奈子が、まったく偶然に見つけてくれたのだが、私は眼を疑った。
私がずっと探していた本が、こんなところにあった! まさか、こんなところでジュヴェの本がころがっていようとは。驚きと同時に、天の配剤のようなものを感じた。

むろん、ただの偶然と見ていい。たまたまジュヴェの本を売り飛ばした人がいた。古本屋は、今どきこんな本を買う客はいないと判断してゾッキ本の棚に突っ込んだ。それだけのことだろう。たまたま私はルイ・ジュヴェの評伝を書きつづけていた。ウの目タカの目で資料をさがしていた私が、偶然見つけただけのことだろう。
しかし、この時の私は因縁のようなものを感じた。この本たちは、私に訴えている。『不思議の国のアリス』に出てくる Drink Me の呪文のように。
さっそくこの本3冊を買い込んだ。
私にとって至福のときであった。

私が見つけたビデオ、「ハリウッドからの遺書」は、1本、30円。私にとっては、まさに掘り出しものだった。さっそく電話で自慢すると、美奈子ちゃんもいっしょに喜んでくれた。

ビデオの「ハリウッドからの遺書」を見つけて、なぜこんなに嬉しがっているのか。いずれ、みなさんにもわかってもらえるかも知れない。

1165

ちょっと嬉しいことがあった。ここに書くほどのことでもないが、ちっとばかし嬉しいので、書きとめておく気になった。

近くの古道具屋で、1本のビデオを見つけた。「ハリウッドからの遺書」というラベル。あとは何もない。こんなビデオが古道具屋にころがっている。可哀そうな気がした。値段はあってなきがごとし。

帰宅して、そのビデオを見た。なんと、コメンテーターがローレン・バコール。(むろん、もう誰も知らない女優さん。俳優、ハンフリー・ボガート夫人。)すっかりオバァサンになっている。アメリカで、こんなドキュメントが作られても不思議ではない。だが、私はその内容に――驚かされた。
サイレント映画の時代に起きたファッテイ・アーバックル事件、ウィリアム・デズモンド・テーラー事件、ポール・バーン事件などが――つぎつぎに出てくる。
いまどき、こんな無声映画時代の事件に関心をもつ人はいないだろう。だが、私は――あの可憐なメァリ・マイルズ・ミンター、お侠なメイベル・ノーマンドたちのフィルムが出てくるだけでうれしくなった。
そればかりではない。メァリ・マイルズ・ミンターの「肉声」の録音も聞くことができた。そして、ヴァージニア・ラップが出た映画の1カットまでも。
この新人女優の怪死が、ハリウッドじゅうを震撼させた。その結果、頭に単純な思想を詰め込んだ、貧相な顔つきのヘイズ(当時、郵政長官をやっていた)が、ハリウッドに乗り込んで、検閲、規制、風紀の粛清に当たった。この人物のごりっぱなご託宣も見ることができる。
アメリカには、ときどきこういう Do-gooder があらわれる。しばらくたつと、その時代を代表する道化師に落ちぶれるのだが。

ヘイズの演説におもわず笑ってしまったが、このドキュメント自体にはほとんど茫然とした。各シーンに驚きがあった。ドキュメントとして、全体にそれほど高いレベルの作品ではない。しかし、ここには、自分たちの「過去」をひとつの文化として見ようとする姿勢がある。
私は大島 渚が監修した日本映画の100年史といったドキュメントを思い出した。いかにも安易なドキュメントで、拙速というか、周到な準備もなく、思いつきでフィルムをかき集めて、つなぎあわせたような作品だった。大島 渚は日本映画のみじめな発展さえ、まともにとりあげなかった。

たとえば、若き日の川田 芳子、五月 信子、英 百合子の姿を、ビデオで見ようと思っても、ほとんど不可能だろう。まして、入江 たか子、夏川 静江、砂田 駒子などの水着姿などを見ることはない。

後年の化け猫女優、鈴木 澄子の若い頃は胸をくりぬいたような水着、歌川 八重子が背中をまるだしにした水着だった。そんなことは誰も知らない。
いまの女の子に較べて可哀相なくらい短足で、メタボな松枝 鶴子。下腹部がホコッと出ていた高津 慶子。痩せっポチの田中 絹代。胸が平べったい及川 道子などをビデオで見ることはない。

日本の映画界に、すぐれたドキュメンタリストがいないわけではない。
将来、日本の映画の発展をまっすぐ見すえた、すぐれたドキュメンタリーが作られることを期待している。

1164

  立○ ○子さん

お手紙、ありがとう。とても、うれしかった。

私は、今、少し長いものを書きはじめたところなんだ。
何を書くのか自分でもわからない段階の作家は、内心、いい知れぬ不安をかかえている。これから書こうとしているものが、ほんとうにおもしろいものになるかどうか。実際に書きつづけるとして、作品の長さ、サイズはどうなるのか。読みやすいかどうか。
はたして読者が読みたいと思ってくれるかどうか。それに、だれが読んでくれるのか。読んでもらえるほどの魅力があるかどうか。
不安は、つぎからつぎに重なってくる。
だいいち、書きあげることができるのかどうか。

だからたいていの作家は、自分の前にしらじらしく広がっている茫漠たる空間に、ただ立ちすくんでいる。きみのいう「炯々たる虎のまなざし」なんて、とんでもない。
もはや老いぼれて、シマシマも色褪せ、牙も抜けて、ヨタヨタの虎は、果てし無い密林(タイガ)をのろのろと歩きまわっている。たまに吠えても、ほんの退屈しのぎか、自分がまだ声をだせるかどうか心配で、よわよわしく咆哮してみせるだけのことなのだ。
きみは私が「どんな分野でも自由自在に書きわける」才能をもっていて、その幅のひろさに驚いている、という。これまた、とんでもない。私はひどく狭い分野をうろついていただけのことさ。

はじめてものを書きはじめた頃、先輩の荒 正人がハガキをくれた。
若い頃のチェホフは、アントーシャ・チェホフというペンネームで、おびただしいコントや、ファルス、滑稽な雑文を書きとばして、医科大学を出た、と。当時、まだ学生だった青二才にこんな助言をあたえてくれた荒 正人の励ましがどんなに嬉しかったことか。
そこでチェホフにならって、いろいろなものを書きとばしてきた。
ただし、肝心なことを忘れていた。私には才能がなかった。もう少し才能に恵まれていたら、今頃もう少しなんとかなっていたはずだよ。アホな話だよ、まったく。

たとえば、児童むきの小説、ジュヴナイルものを書きたいと思ってきた。1冊でも書けたか。児童むきの絵本を翻訳する機会さえなかった。たとえば、ファンタジーを書きたいと思った。1冊でも書けたか。残念なことに、そんな機会もなかった。
若い頃の私は、依頼された原稿を書きとばしてきた。放送劇からポルノまで。馬琴は、良書を得るために悪書を書くと称したが、私の場合はポットボイラーの仕事ばかりで、まともな作家のやる仕事ではなかった。
何しろ貧乏作家だったからねえ。
きみは――「先生のほかに(そんな仕事をする人は)ちょっと見当たらない」という。
正直のところ、耳が痛い。きみは、私を多才なもの書きと見てくれているようだが、ひいきの引き倒しってヤツだよ。

きみが久しぶりに手紙をくれた。せっかくだから、もう少しさらりと「アントーシャ・チェホフ」をやってみるか。
荒 正人に対する感謝の思いは変わらないように、私に手紙をくれたきみにも感謝している。

1163

其角の句は、じつはとてもむずかしい。私には元禄の俳諧をすんなり理解する力がないからである。

雪の日や 船頭どのの 顔の色

雪が降っている。渡し船に乗ったが、船頭さんの顔は長年の渡世に日焼けして、雪とつよいコントラストを見せている。
なんとなく、ヘミングウェイの『老人と海』の主人公を思い出す。
謡曲の「自然居士(じねんこじ)」の一節、「ああ船頭殿のお顔色」を踏まえての句と聞いても、ふぅん、そんなことなのか、と思う。

子どもの頃、よく遊んだ向島、三囲(みめぐり)神社、絵馬堂の裏に、

夕立や 田を三囲の 神ならば

という句碑があって、其角の名をおぼえた。
そういえば――あのあたりには、十寸見 河東の碑や、長命寺に芭蕉の碑、成島 柳北の碑などがあったはずだが、大空襲で焼け出されてから一度も行ったことがない。

暖かくなったら行ってみようか。

1162

其角の句を読みながら、テレビを見ていた。

世の中は 何がさかしき 雉の声

テレビは鳩山政権が発足してはじめての通常国会。
国会が招集される直前、民主党の小沢 一郎幹事長が、政治とカネのスキャンダルにまみれる。土地購入の代金は4億円という。ヤルもんだねえ。
小沢の資金管理団体、「陸山会」の土地購入をめぐって、小沢の秘書、衆議院議員が逮捕された。(小沢は、昨年10月にも、「西松建設」の違法献金問題で、秘書が逮捕されている。)この秘書は、保釈後、民主党を離れた。
小沢は政治資金規制法違反(虚偽記入)で告発されたが、ナァニ、嫌疑不十分で不起訴になったトサ。
昨年11月にはじまった茶番は、これにて一件落着。(’10.2.3)祝着至極。

泰山鳴動してネズミ一匹。まあ、あんなこった。こんなこった。

あれ 春が 笠着て行くは 着て行くは   一茶

テレビで小沢 一郎を見ているとなかなかおもしろい。自分の談話で、一言づつ、ラストのフレーズになると、かならず、力をこめてつよい語勢(ストレス)を出す。口を「への字」にゆがめる。 私自身が・ 刑事責任を・ 問われることにな・れ・ば・非常に責任は、重・い・ と思われま・す・ というふうに。

さて、其角の句に戻ることにした。

分限者(ぶげんしゃ)に成たくば。秋の夕暮をも捨よ

其角のへんな趣味で、句のまんなかでブッちぎってある。分限者(ぶげんしゃ)は、ミリオネアー。
ミリオネアーになりたい人は、秋の夕暮にあわれをもよおすようなセンチメンタルな感性を捨てたほうがいい、という意味。
其角の句でも、あまり感心できない一句だが、小沢 一郎ふぜいを連想するには、ちょうどいい。もっとも、おなじ其角の句、

憎まれて ながらふる人 冬の蠅

このほうが、小沢 一郎にはふさわしいかも。

1161

東 恵美子、ジーン・シモンズの訃につづいて、双葉 十三郎の訃を知った。
双葉さんは、私にとっては大先輩の映画批評家だった。よく試写で見かけたが、口をきいたことはない。しかし、映画、ミステリーについて、じつにさまざまなことを教えていただいたような気がする。
双葉さんに『映画の学校』という著書がある。私が『映画の小さな学校』という編著を出したのは、双葉さんに対するささやかな敬意のつもりもあった。

双葉 十三郎さんが亡くなられて、すぐに登川 直樹さんの訃報を聞いた。

この世代の人々では、南部 圭之助、海南 基忠、内田 岐三雄、野口 久光といった人々がすでに白玉楼中の人となった。
私は個人的に飯島 正さん、植草 甚一さんに親しくしていただいたが、双葉 十三郎さん、登川 直樹さんの話を伺う機会がなかった。それでも、おふたりのお書きになるも
のにはいつも敬意を払っていた。

そして、立松 和平が亡くなった。

たとえ縁は薄かろうと、私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に入ってゆく。心から残念に思う。それぞれの人の死は一つの時代の終わりと見える。
月並みな感想といわばいえ。月並みでは切実な思いではないと誰がいえるか。

1160

いろいろな人の訃報を聞く。わずかにその名を知っている程度の人々は別として、はからずもめぐり会ったことの不思議さ、そうした人がついに不言人となるを聞けば、追憶の心をおぼえるのは当然だろう。

女優の東 恵美子が亡くなった。
創立間もない「青年座」で、彼女は私の演出につきあってくれた。当時、私はよくラジオドラマを書いていたので、放送劇にも出てもらった。
東 恵美子自身は口にしなかったが、浪曲師の東 武蔵の娘だった。浅草でいろいろと浪曲を聞いていた私は、そのことに関心をもったと思う。東 恵美子が、もともと放送劇団をへて「俳優座」に入ったという経歴も、私には近しい位置にいるような気がした。私も似たような運びで、「俳優座」の養成所にかかわり、やがて演出を手がけるようになったからである。
彼女は、おなじ劇団の、山岡 久乃、初井 言栄とともに、私の女優観――(そんな大仰なものではないが)――の根っこに、いつも存在していた。つまり、私が女優を見たり、女優について考えるときは、この三人の女優たちや、ほかの数人の女優たちの姿、気質、性格、芸風などとひき較べたり、そこから何かを推し測るといった、一種のクライテリオンになった。
まだ、結婚する前の彼女が南 博とつれだって歩いているところを見たとき、思いがけず、南さんから声をかけてきたことを思い出す。

私にとっては、なつかしい女優さんのひとり。

しばらくして、ジーン・シモンズの訃報を聞いた。

イギリスの女優にはアングロサクソンに特徴的な香気(フレグランス)がある。ここでは説明しないが、ヴィヴィアン・リー、マーガレット・ロックウッド、グリア・ガーソン、クレア・ブルームと挙げてくると、ジーン・シモンズが典型的にイギリスの女優としての香気をもっていたことがわかる。
戦後、「大いなる遺産」の「エステラ」や、「ハムレット」の「オフィーリア」を演じたジーン・シモンズのすばらしさは忘れられない。しかし、その後、女優としては空疎な歴史ロマンスに多く出た。マーロン・ブランドを相手にした「デジレ」などが記憶に残っているが、女優としては進むべき方向を誤ったとしかいいようがない。

1159

一月の末に、J・D・サリンジャーが亡くなった。
私は、サリンジャーをもっとも早く読んだひとりだったから、この作家の訃に深い感慨があった。
それとは別に、私の内面にはサリンジャーの紹介に関して感慨があった。

現在は村上 春樹の訳がひろく読まれているが、日本で誰よりも早くサリンジャーを先に訳した翻訳家、橋本 福夫の仕事は誰の注目も浴びなかったと思われる。
しかし、橋本 福夫の訳は、後発の某先生の訳に比較して、いささかも劣らない、みごとなものだった。ある部分、橋本訳のほうがすぐれていたと思う。
ただし、原題の『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、『危険な年齢』などという愚劣な題名で出版された。(出版社は、ダヴィッド社)
当時、アメリカ映画の「理由なき反抗」とか、フランス映画の「危険な都市小室」といった映画にあやかったネーミングだったのだろう。そのため、ティーンエイジャー向きの読みものの原作か何かと見られたのではないか。
むろん、橋本 福夫の責任ではない。橋本 福夫訳は、当時としてはやむを得ない誤訳があるにしても、サリンジャーの本質をただしくとらえた、優れた翻訳だったことにかわりはない。翻訳史上、これは特筆していいと思う。
これから翻訳家を志す人は、まず橋本訳を探し出して一行々々、吟味して読むことをすすめる。一介の翻訳家の仕事などと見くびってはならない。
橋本 福夫は、田中 西二郎、中村 能三、宮内 豊などとおなじ世代の、もっともすぐれた翻訳家なのである。『危険な年齢』は、たいして売れなかったはずだが、ときどき古書市で見つかる。

サリンジャーの追悼とは無関係に、私の胸に、あまり恵まれなかった(と、想像するのだが)、すぐれた翻訳をしながらついに不遇だった先輩の翻訳家に対する敬意と、ひそかな同情がかすめてゆく。

1158

歌舞伎の世界は、若手がぞくぞくと意欲的な芝居を見せている。市川 海老蔵が早変わり十役をつとめたり、右近が「黒塚」をやったり。
後世の人は、平成になってからの歌舞伎を、名優が輩出した時代と見るかも知れない。
あたかも、明治の人たちが、文化、文政の頃を名優が輩出した時代と見たように。

実悪の松本 幸四郎(五世)、所作の中村 歌右衛門(三世)、板東 三津五郎(三世)などが、名優として知られていた。

この三津五郎が、舞台で家老の役を演じた。湯呑みを手にする。舞台に置いた時計の音にあわせて、爪ではじく。これで道具替わりの合図にした。
観客にウケた。大いにウケて、評判になった。
これを見ていたのが、作者の桜田 治助。
せっかく評判の湯呑みも、張り子の小道具なので、どうにも栄(は)えない。わざわざ、本物の湯呑み茶碗を買い求めて、取り替えて置いた。

幕を終えた三津五郎は、楽屋に戻ったが、不機嫌な顔で、
「誰が、余計なことをしやがった?」
と怒った。
桜田 治助は、意外に思って、
「じつは、湯呑みを替えたのは、あたしだが」
というと、三津五郎も作者のしたことなら仕方がない、と、いくらか顔色をやわらげたが、
「瀬戸ものを瀬戸ものに見せることは誰にもできる。張り子の小道具をほんものの瀬戸ものに見せるのが役者のウデだ。この頃、ようやく張り子がほんものにみえるようになったのを、惜しいことをしてくれた」
と嘆息した、という。

この三津五郎の和事、実事、いずれにもすぐれ、老女の覚寿、岩藤なども評判の当たり役だった。天保二年、法界坊、五三桐を演じたのが、江戸芝居の最後で、その年(1831年)の暮れに亡くなっている。五十七歳。

こんなエピソードからも、いろいろと考えることができる。

1157

雪が降っている。
にぶい明るさを秘めた空から、かぎりなく落ちてくる。ときおり、わずかな風に一斉に揺らいで、きた地面に落ちてくる。
あとからあとから、ひらひらと落ちてくる、雪、雪、雪。気の遠くなるような、無限の動き。
私たちは、ただ黙々と歩き続けていた。

下山の途中から、風が出てきて、雪がはげしくなってきた。雪は降りつづけ、視界はただ白く明るい起伏に、雪はぐんぐんひろがって落ちてくる。
コースは間違いないと思ったが、いちめん雪に蔽いつくされて、ただしいコースを選んでいるかどうか、自信はなかった。
眼の前につづく、すでに降りつもった雪の高さが、ついさっきよりもすこし多くなってきたような気がする。
私のうしろに、彼女が歩いている。頭にかぶっているフードが少し斜めになって、全身真っ白に雪がつもってきた。

「少し、休もう」私はいった。

彼女は黙って足をとめた。私は、携帯カップの底に固形燃料を押し込んだ。手袋をとるとたちまち手が凍えて、ライターの火がつけられない。やっと火をつけた。
「このコースでいいのかしら」彼女がいった。手がふるえていた。
「わからない」私はいった。

すでに暗くなりはじめていた。それでも、空から降りつづける雪はいっそう白さをましている。まるで空がくだけたように雪が落ちてくる。空のてっぺんのほうに、なぜか灰色の部分がのこっている。
暗くなって降りしきる雪は、頭上まで近づいてきて、白い無数の渦になってくる。

お湯に、インスタントのティーバッグを入れる。そして、シュガーも。
彼女が、半分ほど飲んで私にカップを返した。残った半分が私の喉に流れてゆく。

「少しキツいかも知れないが、急ごう」

私たちは、もう3時間も歩きつづけていた。下山のコースは、雪が降りつもった岩や樹木の肌にしがみつきながら下りる、危険な箇所が続いていた。最悪の場合、途中で、岩と岩の間にツェルトザックを張って、緊急にビバークしよう。事態はそこまできている。
自分では冷静に行動しているつもりだったが、彼女が疲労していることはわかった。あと、どのくらい歩けるのか。私も疲労しはじめている。
彼女が疲労しきって歩けなくなる前に、ビバークの場所を確保しよう。
彼女をつれてきたことを後悔しはじめていた。

それから、20分後、私は木の根の下に、ふたりがやっともぐりこめる隙間をみつけて、風のなかで、ツェルトをくくりつけた。ふたりで折り重なって、やっと風を避けるような状態で、ずしりと重い彼女の冷えきった感触が、私のからだにつたわってきた。

彼女のふるえがつたわってくる。

1156

あなたは、3分ですか、4分ですか。
私の質問にすかさず、3分半です、と答えてくれたレディがいた。
このやりとりの下敷になっているのは、ジェームズ・ボンド。彼がボイルド・エッグ、半熟タマゴと指定する時間である。アホな私は、ジェームズ・ボンドの真似をして、ボイルド・エッグは3分半ときめていた。
だから、このレディが私の質問をすぐに理解してくれたことがうれしかった。

タマゴをゆでているうちに、うっかり時間をまちがえてゆで過ぎることがある。(うっかり、じゃない。しょっちゅうだね。)すっかり、ハードボイルドになってしまう。
つい先日、久しぶりにゆでタマゴにしようと思った。当然のようにうっかりして、ガチンコのボイルド・エッグになってしまった。さて、どうしようか。
タマゴをふたつに切ることにした。包丁で切ってもいいが、黄身がくずれるかもしれない。糸を口のハジッコでくわえて、タマゴを手に、糸で切る。うまくいった。
フライパンに、バターを落として、メリケン粉を大サジ2杯、こいつをトロ火でいためて、ミルクを少しづつ。塩、コショーで味をととのえて、私のホワイト・ソースのできあがり。

このなかに、タマゴをしずかに入れて、トロ火で10分ばかり煮込む。

サクラエビ、ホウレンソウの青ゆで、大根の葉ッパをさっとゆでたヤツをつけあわせにする。

けっこう、おいしかったナ。

私と、タマゴ問答をしたレディは、私のクラスで翻訳を勉強なさっていたが、残念なことに亡くなられた。

1155

つい先日、私は書いたのだった。
「和歌や短歌は、はじめから私などの立ち入るべき世界ではない」と。
理由をあげるとすれば、私が和歌や短歌を敬遠してきたのは、じつは記憶できないせいではないか、と思う。

わが恋の 果てはありけり 蝶の凍      はぎ女

おなじ作者の

茶の花や 丘ばかりにて 川もなし      はぎ女

といった句はおぼえやすいが、

今日来ずば 明日は雪とぞふりなまし
消えずはありとも 花と見ましや   在原 業平

いくら名歌でも、私の、くたびれきった脳にはすぐにうかんでこない。さなきだに(そうではなくても)いまや私の脳には、あわれ、ベータ・アミロイドが「雪とぞふりつもって」いるので、和歌や短歌はおぼえられない。おぼえても思い出せない。

暇なときに和歌を読む。ときどき、笑いたくなるからいい。

冬川の上は氷れる我なれや 下に流れて恋わたるらむ   宗岳大頼

冬の川水は、氷の下を流れる。私の恋は、氷の下を流れる冬の川のようなものだ。それだけの歌だが――私の思いは、氷の下、つまりは硬く凍った心のなかに流れているので、氷を溶かすことはない。だから、私がひそかに恋しているひとに気づかれることもない――そう見てくると、無残な歌に見える。思わず、ニヤニヤしたくなる。

眼にした一首を、ためつすがめつ読む。けっこう楽しい。
あるお坊さん、さる女人に、あの老法師を見よ、と笑われた。そこで詠んだ一首。

形こそ み山がくれの 朽木なれ
心は花に なさばなりなむ      兼芸法師

それほどいい歌には見えないし、ひとによっては老人のいやらしさを不快と感じるかも知れない。
私は笑った。ゲラゲラ笑ったわけではなく、イヒヒヒぐらい。身につまされたせいもある。今年は、せめてこのくらいの気概をもってくだらぬことを書くことにしよう。

1154

年末、その年の総括として、どこかの寺の坊主が、一字を揮毫する行事をみた。この坊さん、一昨年は「変」の一字、去年は「新」という一字を、大きな紙に墨痕あざやかに揮毫なさった。

「新」などという言葉で何がいいあらわせるものか、とひそかに思ったが。

一字をもって世相をあらわそうというのだから、最大公約数のようなもので、何をもってきても通用する。お坊さんも、政権交代で鳩山内閣が登場したことを「新」と表現なさったのであろう。もとより、たいした趣向のものではない。つまらぬ 浮辞に過ぎない。こんなものは――小人の情を動かす所以に過ぎない。

私は思い出す。――まさに100年前、明治43年(1910年)の坪内 逍遙のことばを。逍遙は、この年、早稲田で、「近世文学思想の源流」という講義をはじめたが、その冒頭で、

新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼
声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる。

と語った。(「早稲田大学文学科「講義録」(第二号)。

逍遙は、日清戦争前後から俄然として形勢が一変し、外国思潮の浸入がにわかに急になった、という。18世紀末から19世紀末にいたる100年の「彼方の分断に瀰浸したあらゆる思潮は、時を同じうし、もしくは密接に相前後して何の前知らせも無しに浸入」してきた。
早い話が――西洋の文壇が最近一百年間に経験した種々雑多な重大な変動――利弊相半ばする大変動を、日本の文壇は、わずか15、6年に、ほとんどことごとく接触したと逍遙はいう。

その結果、いわゆる自然主義の世の中になった。ところが、これと同時に、印象主義、標象主義(象徴主義)も唱えられる。沙翁(シェイクスピア)やゲーテやシルレルを激賞する声がひろく行きわたったかと思うと、もはやこれを貶す声が聞こえる。ワグネルを紹介する評論が少々ばかり見えたかと思うと、いつしかオペラ熱(逍遙はオペラ沙汰と書く)は忘れられる。
イプセン、トルストイの研究がはじまったかと思うと、すぐに捨てられて、ロシア、フランスの最近の文学に注意を傾倒するというアリサマ。そして――「新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる」という言葉になる。

明治43年の逍遙は、私財を投じて演劇研究所を発足させている。やがて、帝国劇場で『ハムレット』を上演する。
逍遙の論敵、森 鴎外は「スバル」を創刊し、旺盛な活動を見せている。
谷崎 潤一郎が、『刺青』で文壇に登場する。

2010年が「新」などと見るのは、へたな冗談にすぎない。

稲妻や きのふは東 けふは西    其角

このくらいに見とけばいいやな。どうだろう、其角さん。

1153

テレビで、「坂の上の雲」(司馬 遼太郎・原作)を見ている。
伊予出身の秋山 好古、真之兄弟と、親友の正岡 子規を中心に、明治という時代の息吹を描いた大河ドラマである。
秋山 好古を阿部 寛、秋山 真之を本木 雅弘、正岡 子規を香川 照之。
子規は大学を中退して、新聞に勤めるようになった。
私は子規を勉強したことがあって、テレビを見ているうちに、この時期の子規の作品を少し読み返してみた。

明治25年12月、子規は内藤 鳴雪といっしょに、高尾山に「旅行」している。
本郷から、新宿まで歩いて、新宿から汽車に乗る。

荻窪や 野は枯れはてて 牛の声         鳴雪
汽車道の 一筋長し 冬木立

八王子から府中まで歩く。

鳥居にも 大根干すなり 村稲荷         鳴雪

府中から、国分寺まで。ここで汽車を待つ。新宿に着く頃には、「定めなき空淋しく時雨れて、田舎さして帰る馬の足音忙しく聞ゆ」ということになる。

新宿に 荷馬ならぶや 夕時雨          子規

この小旅行で、子規が詠んだ5句は、全部、馬糞ばかり。

馬糞の ぬくもりに咲く 冬牡丹
鳥居より 内の馬糞や 神無月
馬糞の からびぬはなし むら時雨

子規は――風流は山にあらず水にあらず、道ばたの馬糞累々たるに在り、とうそぶいている。若者らしくていいや。

1152

ジョン・ダンの詩をあまり知らない。ヘミングウェイが自作の題名にしたので、とりあえず読んだ程度。

彼の「おはよう」The Good-morrow という詩が好きだった。

朝の眼ざめをむかえた恋人たちの詩。私にはとても訳せないので、まことに散文的で平凡な説明しかできない。朝、眼ざめたばかりの恋人たちが、お互いの眼を見つめあっている。第一連の冒頭は――きみとぼくが互いに愛しあうまで、いったい何をしてきたのだろう? 乳離れもしないおさな子みたいに、世なれぬたのしみにふけってきたのか。
しかし、こうしてお互いのうつそ身をふれあわせてみると、この愛のよろこびのほかは、何もかもまぼろしなのだ。
以前のぼくが、どこかの美人に出会って、欲望のままにものにしたことがあったにしても、それもじつは、きみというまぼろしを追っていたからなのだ。

そして、第二連。

こうして眼ざめたぼくたちの朝の挨拶。互いに見つめあっていて、なんの気づかいもない。愛すればこそよそ見をする気もちは起きないし、こんな小さな部屋なのに、これが世界のすべてになる。
新世界をもとめて大わだつみを航海する冒険者、はたはまた、地図を見ながらつぎつぎに世界を知る人たち。ぼくたちも、それとおなじで、一つの世界を抱きしめる。お互いが一つの世界を手にして、しかもおなじ一つの世界なのだ。

第三連。

きみの瞳にぼくがいて、ぼくの瞳にきみがいる。ふたりの顔に、真実の心がやどる。
きびしい北も、日の沈む西もない。これほど、ふさやかな半球ふたつが、どこにある。
おぞましいもの、いまわしいものは、ここにはまざらない。きみとぼく、ふたりが一つにとけあって、衰えることなく、ひとしく愛しつづければ、死ぬことはない。

こんな小曲にも、ルネッサンスの恋人たちの姿がうかんでくる。

好きな詩さえ訳せなかった私だが、せめて訳詩集の一冊ぐらいは出したかったと思う。もはやとり返しのつかないことだが。

1151

ある人生相談。

70歳代の祖母。
20歳代の孫娘は、大学をでて一流の会社に勤務しています。
ときどき外泊するので心配していたところ、男性の家に泊まっていたことがわ
かりました。深い仲でした。その男性は給料も安いし、ボーナスもなし。ずい
ぶんと反対もしましたが、孫は聞きません。
相談もなく勝手に婚姻届けを出し、2人でアパートに住み始めました。
いくら愛があるといっても、お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない
なんて。男性に都合の良いことばかりです。男性は平然としています。こんな
ことでよいのでしょうか。私は夜も眠れません。
男性は、私の家にはほとんど来ません。孫娘は母親を訪ねては食品をもらって
いくようです。私は何もあげないでいます。
(福島・N子)

こういうババアを業突張り(ゴウツクバリ)という。
孫娘は「大学をでて一流の会社に勤務している」のだから、分別のある、しっかりしたお嬢さんなのだろう。近頃は「一流の会社に」勤務する女の子だって、「婚活」とやらにうきみをやつすようなご時世だよ。そんな女の子と違って、好きな相手を見つけてさっさと結婚する娘さんのほうがよほど利口だし、本人もどれほど幸福かわからない。
そういう孫をみとめてやるのが、話のすじ道ってものだぜ。

このオババにいわせれば、相手の男性は給料も安いし、ボーナスもないという。「お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない」ことを非難する。
バッサよ、あんダ、古いねえ。白虎隊の子孫かどうか知らねえが、あんた、化石化しているゴウツクバリだナヤ。

このババアの心には抜きがたい貧乏人に対する差別がひそんでいる。そして、はっきりした「男性蔑視」がひそんでいる。まず、そのあたりに気がついたほうがいい。
世間にはりっぱに結納をかわして、ケンラン豪華な結婚式をあげても、あっという間に離婚するカップルだっている。あんたの孫娘は、結納もいらないし、結婚式もしないでいい、と思って結婚に踏み切った。けなげなお嬢さんだぜ。まったく。
実をいやぁあ、孫娘はあんたに内緒で母親にけっこう苦労をかけているはずだよ。そこンとこ察してやッたらどうなんだ、バサマ。
娘としては母親に援助してもらっている身にひけめも感じているかも知れねえ。「母親を訪ねては食品をもらっている」のは、むろん、新婚そうそうで家計が苦しいせいだろうが、ひょっとして、そういうおねだりに、娘としての甘えもあるんじゃなかろうか。母親だって、内心は心配しながら、娘のためにせっせと食品をわたしてやる。それがうれしいかも知れないやね。
ババアは、そんな母娘に嫉妬しているのかも。

母親だって、自分の新婚当時、あんたのようなゴウツクバリの母親をもったおかげで苦労したことを思い出しているかも知れねえ。

さて、このバンツァン、頭にきて、孫娘には「何もあげない」。ケッ。どだい、このイイぐさ。クソババアめ。
孫娘のほうだって、こんなクソババアから何ひとつ貰いたかねえだろう。
「夜も眠れません」だと? 胸クソが悪いゼ。心配で夜も眠れませんときたか。せいぜい、世間の同情惹くがいい。広い世間だ、あんたの味方につくやつも出てくるカモ。

ほんとうに孫娘が心配だったら、娘たちのアパートに、ほんのわずかでいい、お赤飯とメザシでも、カンヅメでも、野菜でも、小さな花束でも、宅配で届けてやればいい。突っ返されたってたいした失費じゃァあるまい。
あんたが一度だけでも心からふたりの結婚を祝福してやる。それだけですむ。

こういう投書を読むと、短編の一つふたつはすぐに書けそうな気がする。
むろん、そんなものを書く気はないが、自分のブログで、モンスター・クソババアの悪口を書く。

君子は三端を避けるという。私は君子ではない。世はまさに草昧のとき、嚇怒せずんばやまず。

1150

名投手、ランデイ・ジョンソンが引退する。新年そうそう、このニュースを聞いてちょっと驚いた。同時に残念な気がした。(2010.1.5)

私はランデイのファンだった。
まるで猛禽類のような顔のランデイがマウンドに立つと、それだけで相手が萎縮するような、圧倒的な存在感があった。
顔を見ていると不精髭に白いものがまじって、野球選手にしてはずいぶんくたびれて見えた。ところが、その鋼鉄のような左腕からくり出される速球の凄さ!
ボールが空気を裂き、うなりを生じて、キャッチャーのミットに飛び込んでゆく。

「ダイアモンドバックス」の頃から、4年連続で、サイ・ヤング賞をうけているほどの大投手だった。私は一度しか球場の彼を見たことがない。テレビで見つづけてきただけのファンだが、相手チームの名だたるバッターたちが、つぎつぎにきりきり舞いをさせられる。舞台で名優を見るような思いというか、ときには、膚(はだえ)に粟を生ずるような思いがあった。
メジャーリーグには凄いピッチャーがいるなあと感嘆した。

昨年、「ジャイアンツ」に移ったが、6月、「ナショナルズ」相手に、300勝を達成した。45歳になっての300勝だから、たいへんな記録といってよい。成績は、8勝6敗。ふつうの投手ならりっぱな成績だが、ランデイとしてはあまり芳しくない結果に終わった。防御率も、4.88。
このシーズン後に、フリー・エージェントになった。
野球人生にどういうかたちで幕を引くのか。ファンとしても、気が気でない思いはあったはずである。
そして、引退を表明した。

通算成績は、303勝166敗。防御率、3・29。
サウスポウでは、通算、4875三振という記録で、歴代1位。

年をとって、自分のからだやゲームが、もうしおどきだと教えてくれるのは、自然の流れだと思う。何度も手術をしながら回復して、健康な体調で投球がつづけられたことを心からよろこんでいる。
引退にあたっての、ランデイのコメント。

感動した。

1149

親しくなったばかりの友だちの姉さんの裸身を見てしまった。窓は、まるで汽車の寝台のようにカーテンが吊ってあり、若い娘の部屋らしいデザインのチュリップの花の刺繍に、白い鳩が差し向きになっている。私はそこまで見届けていた。

私ははじめて女の乳房を見たのだった。ただし、女の乳房を見たという思いはなく、U君の姉さんの胸に見たこともない白いふくらみがあるということに気づいて、ぼんやり眺めていただけだった。
そのふくらみの先には、ほのかなピンク色の蕾がついていた。そこまで見て、私はそれが乳暈で、その先に小さな乳首がついていることに気がついたのだった。
時間にして、ほんの二、三秒ぐらいではなかったか。

いつものように、U君がくぐり戸から出てきた。私はU君か出てきたことに気がつかなかった。まだ、二階の窓に眼を向けていた。U君の姉さんは、くぐり戸をぬけたU君にも、まったく気がつかなかったらしい。
U君の姉さんは何かを手にして、それを胸に当てた。まだブラジャーということばではなく、乳当てと呼ばれていたものだった。姉さんが乳当てを胸もとに当てがうと、たちまち綺麗な乳房が見えなくなった。
U君は私の視線を追って、私が何を見ていたのか気がついた。U君の顔が真っ赤になった。

姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られた。その恥ずかしさが、U君が赤面した理由だった。私は顔を真っ赤にしているU君の反応に驚いた。

その頃に、ブラジャーということばはなかった。ほとんどの場合、「乳おさえ」、あるいは「乳バンド」といっていたはずである。それも、日常の会話でこうしたことばが使われることはなかった。
だから、顔を真っ赤にしたU君が「行こう」とだけ声をかけて、いきなり走り出したとき、姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られたというふうにU君が考えたとは思えない。ただ、どうしようもない羞恥に混乱していたのだろう。私は少しうろたえていた。
U君が「行こう」と声をかけて、停留所まで走り出したので、あとを追った。
電車に乗ってからも、U君は私に眼をむけなかった。
それからあとのことは、よくおぼえていない。

翌日から、U君は私を避けるようになった。
翌朝、いつものように門の外から声をかけたが、意外にも、
「もう出かけちゃったのよ。ごめんなさいね、中田君」
姉さんが返事をした。
私はU君の姉さんの顔を見なかった。こんどは、私が乳房を見てしまったことを思い出して、ひどい羞恥にいたたまれない思いで路地から離れた。

そんなことが、二、三度続いて、U君か私をきらっているらしいと気がついた。
それからはU君を誘って学校に行くことがなくなった。
姉さんの二階の窓も二度と開け放しにされなくなった。
それまで親しくしていた友人が不意に離れてしまった。私はそのことがショックだった。U君は私をきらっている。彼にも私にも、うまく説明のつかない理由で。

翌年、父が外資系の会社から国策会社に移ったため、一家をあげて東京にもどった。
私は神田の中学に転校した。その後、U君のことは思い出さなかった。

いまの私は、U君の姉さんの顔もおぼえていない。ただ、真っ赤になったU君の顔を忘れてはいない。あの日はおそらく夏休みの少し前だったのではないだろうか。さわやかな朝、U君の姉さんの綺麗な乳房を見たことだけが切り離されたように心に残っている。まるで、何かのまぼろしのように。

若き娘の窓辺に立ちし胸もとに
白き乳房をあらわにも見つ

後年、こんな歌を詠んだ。

とるに足りない小さなできごとなのに、私の内面に意外に大きなものを残したできごとのひとつ。

1148

ひどく小さなできごと。ずっとあとになって、自分の人生に大きなものだったことに気がつく。私にもそんなできごとがいくつもあった。

中学生になったばかりのとき、あたらしい友だちができた。
たまたま近所に住んでいる少年だったが、別の小学校に通っていた。中学でもクラスは違ったが、おなじ路線の電車で通学していたから、友だちになった。
名前はUといった。背丈も私と似たりよったりの、チビだった。

U君の家まで、歩いて数分。私の家のすぐ近くにお寺があって、その境内の裏、路地の先の二階建ての家だった。
私は、毎朝、境内を通り抜けて、その先の路地の門の前まで行く。
「U君!」
声をかけると、門のくぐり戸から、中学生が飛び出してくる。
電車の停留所まで、これも歩いて数分。電車に乗ってからもおしゃべりをつづけた。中学では別々のクラスなので、校内ではほとんど話をしない。下校の時刻も違っているので、いっしょに帰宅することはなかった。
つまりは朝だけの友だちだったが、私にとっては中学生になってできた親友なのだった。

U君には美しい姉さんがいた。
女学校を卒業して、どこかの会社に採用されたという。颯爽とした洋装で、勤務先でも評判の美女だったらしい。
毎朝、U君といっしょに学校に行くようになって、姉さんと路地ですれ違うこともあった。一度だけ、彼女から声をかけてきたことがある。
「お早よう! 弟をよろしくね、中田君」
私はあわてて帽子をとってペコリとお辞儀した。彼女は、そのまま去って行ったが、私は声をかけられたことがうれしかった。
どうして姉さんが私の名前を知っているのだろう?

私は中学生の制服を着ていたし、U君とおっつかっつのチビだったから、弟の友だちとわかったはずだった。

ある朝、いつものようにお寺の境内を抜けて、U君の家のある路地に入った。眼をあげると、二階の部屋の窓が開けられているのが見えた。開け放たれている窓に若い女の姿が動いていた。U君の姉さんだった。
その窓から路地を見おろしても、私の姿は見えなかったに違いない。朝早く、その路地に入ってくる人はいないだろうし、私はチビだったから、その部屋からは見えなかったはずだった。
U君の姉さんは、上半身、裸になっていた。私は、彼女の胸につややかなまろみが左右に並んでいるのを見た。

その瞬間の私は、自分の見ている光景にどう反応したのだろうか。
おそらく、何も考えてはいなかったのだろう。見てはいけないものを見たという気もちもなかったにちがいない。              (つづく)