1207

東京に闇市が出現したのは、いつからだったのか。
敗戦直後の9月といわれているが、実際には、もっと早かったのではないだろうか。
ほとんど自然発生的に、駅前に人が集まり、食料はもとより、日用雑貨、繊維製品など、それぞれ物々交換で、必要な品物を手に入れようとしたと思われる。
それは、あっという間に、ひろがってゆく。
一方で、軍の組織が崩壊して、各地で軍の物資の処分がはじまっていた。内地の軍の正規の復員業務は、もう少しあとだったにせよ、8月下旬には多数の現役の兵士が、現地の部隊から帰郷しはじめていた。(私の友人、小川 茂久は8月の初旬に招集されたが、8月中に除隊されている。)

はじめは、各地の復員兵めあてに、にぎり飯、フカシいも、蒸しパンなどを売る人々の群れがあらわれた。はじめはせいぜい十数人の規模だったのが、午後には数十人になり、翌朝は数百人の闇商人がひしめきあうありさまだった。
こうして、一般市民を相手に種々ざったな食べ物、衣類など、ありとあらゆるものを供給する市場が形成されて行く。

やがて(といっても、ほんの二、三日から、せいぜい一週間で)ヤキトリ、ホルモン焼き、雑炊、オデン。ショーチュウ、ドブロク、酒、ビールなどを売る屋台ができた。ぐるりを葦簾張りにして、長いベンチを据えて、そのなかで煮炊きをするのだから、れっきとした屋台であった。
こういう店がならぶ路地ができて、飢えた人々がひしめいていた。

それまで見たこともないほど雑多な品物が並べられた。鍋、カマ、お茶碗といった日用品、靴、とくに軍放出の軍靴、地下足袋、戦闘帽、雑農、古着から、鋸、鉄槌、シャベル、電気コンロ、ラジオ、とにかくありとあらゆるものが並んでいる。
9月以後になると、アメリカ兵の売り払ったタバコ、チョコレート、Kレーション、ライターなどが氾濫する。

そして、アメリカ軍が上陸して、数時間後に、若い女たちが、アメリカ兵に群がりはじめる。これも、敗戦国の、すさまじい、みじめな風景だった。
白昼、スカートをとられたらしく、下半身をむき出しにして、素足のまましらじらとした新橋の裏通りをぼんやり歩いている女学生ふうの少女を見たことがある。

1206

終戦直後に、浅草で思いがけず、G・W・パプストの映画、「喜びなき街」を見たあたりから、私の「戦後」がはじまっている。
もっと切実だったことどもは――もはやほとんど薄明の彼方に沈んでいる。あの頃のひどい貧困や飢えさえも、もはや思い出せなくなっているらしい。

私の「戦後」は、まず、食べることからはじまった。一方で、戦争継続を訴えて、海軍航空隊の戦闘機が超低空飛行で、ビラをまいていたとき、わが家の米ビツは空だった。配給も停止したからだった。
いつ配給があるのかわからない。そんなものをアテにしていたら、餓死することは目に見えている。
栃木県に疎開していた母は、我が家に戻ってきたとき、わずかながら食料を仕入れてきたが、そんなもので間にあうはずもなかった。母は疎開しておいた自分の和服などを売り払って食料に交換しようと考えた。
こういうときの母の行動力はたいへんなもので、どこに行けば食料があるのか、猟犬のように嗅ぎつけて、その日のその日の食料を確保してくるのだった。
むろん、苦心惨憺、やっと買い込んできた食料は、母の努力に比較しておそろしくみじめで貧しいものだったが。

母は毎日焼跡を歩いた。三月十日の空襲に母は、猛火の迫るなかで、ミシンの頭を外して、毛布にくるんでもち出していた。むろん、それだけでは遣いものにならない。
戦後すぐの焼跡で、焼けただれたミシンの足を見つけてきた。それを洗って、自分で組み立てた。
つぎにどこかから木綿の生地を仕入れてきて、手製のワイシャツを作りはじめた。
母は和裁、洋裁、どちらも得意で、ワイシャツを何枚も作った。
「耕ちゃん、ここからここまでミシンをかけといて」
私は母に教えられた通り、ミシンを踏んだ。
とにかく生きるために、何でもしなければならなかった。

できあがったワイシャツはきちんと畳んで、母がすぐに闇市にもって行く。手製のワイシャツでも、りっぱな新品で通用した。
その代金で、にぎり飯、フカシいも、蒸しパンなどを買ってくるのだった。

1205

戦後の私たちはそれこそ右往左往していた。
とにかく歩いた。

衣食住、何もかも不足していたので、生きてゆくために必要なものを探して歩いた。戦争が終わった直後に闇市場ができた。駅の周辺に人が集まる。なにかを売って稼ごうというひとたち、生活のためになにかを買う人たちが自然発生的に、闇市を作った。
生きてゆくためには、食い物、衣料が必要だった。しかし、生活してゆくには、それだけでは足りない。
私たちは、いささかの笑い、わずかな希望、なぐさめ、直接、腹のたしにはならないにしても、心の飢えをみたしてくれるものを求めていた。よくいえば、混乱と絶望のなかでも、文化のようなものが必要だった。文化は享楽でもあった。
戦争が終わった直後、ワラを編んだ大きなかぶりものを頭にいただいて、それにアメの棒をぐるりとさして、三味線でおどりながら売る女、ヨカヨカ飴が出た。
闇市の、葦簾(よしず)張りに幕を張りめぐらして、女が裸の下半身をむき出しにして、見物にタンポ槍で突かせる、いかがわしい見世物も出た。敗戦の東京に、いきなり江戸時代が戻ってきたようだった。

大阪では、敗戦の混乱がひどく、映画、演劇の興行が緊急に停止された。これが、一週間続いた。8月22日からいっせいに再開されたという。
東京はどうだったのか。
(私は、8月17日の早朝に東京にもどってきた。那須に疎開していた母は、8月15日、ラジオで天皇の終戦詔勅を聞いてすぐに家財いっさいを売り払って、まっしぐらに東京に向かっていた。つまり、私と行き違いになったのだった。)
その日、徹底抗戦を主張する海軍航空隊の戦闘機が、超低空飛行で飛びまわり、抗戦をうったえるビラをまいていた。

私は、この日、映画館に行ったわけではない。しかし、娯楽に飢えていた人たちは、盛り場に出かけたり、もうたいへんな勢いでひろがっていた闇市に出かけていた。

この時期、どういう映画が公開されていたのか。

「河童大将」(嵐 寛寿郎・主演)
「韋駄天街道」(長谷川 一夫・主演)
「愛の世界」(高峰 秀子・主演)
「団十郎三代記」(田中 絹代・主演)

残念ながら、私は、こうした映画を一本も見ていない。

1204

敗戦直後、それまでの日本をかたち作っていたものが音をたてて崩壊して行く。それは、かつて経験したことのない虚脱感として私たちに襲いかかってきた。
と、同時に私たちに重苦しくのしかかっていたものが一挙に吹き飛んで、なんとも奇妙な、あっけらかんとした解放感があった。
8月15日に、わずかながら食料の配給があった地域は多かったかも知れない。しかし、その後の混乱のなかで、鉄道ほかの交通手段が停滞し、配給システムがみだれ、私たちは途方にくれた。
私は、8月16日に、栃木県に疎開した母にわずかな食料を届けるために、早朝から上野駅に向かったが、東北本線は1本も動いていなかった。上野駅には、東京から脱出しようとする無数の群衆がひしめきあって、プラットフォームは、それこそ立錐の余地もないくらいだった。
私は朝の6時からプラットフォームにいたが、はじめての列車が駅に到着したのは、もう10時をかなり過ぎてからだった。群衆がわれがちに乗り込む。車窓から荷物を放り込む。その窓から車内に乗り込む。まるで暴動のようだった。その後もこれほどの状況は、見たことがない。
たまたま、私のとなりに同年輩の少年がいた。押しあいへしあいしているうちに、私たちは、入口から離れてしまった。
つぎの列車がでるとは考えられない。どうしてもこの列車に乗らなければ、と思った私は少年に、
「おい、あそこに乗ろう」
と声をかけた。
少年は私の視線の先をみて、すぐにうなずいた。そこは、車両と車両をつなぐ蛇腹のような蔽いの上だった。その蛇腹に乗れば、車両の先端に腰かけられる。
少年は、猿のように蛇腹に手をかけた。私は、少年の腰を押し上げてやった。つぎは、少年が私に手をさし伸べて、私の手をつかむと引きずりあげてくれた。
蛇腹に足を置いて、車両の先に並んで腰を下ろした。
なかなか快適だった。

いまから考えると、ずいぶん危険な行動だが、その時の私たちは危険だとは思ってもみなかった。私たちを見た人たちも、おなじように、連結の部分から屋根にのりはじめた。むろん、そんなことをする人たちは少なかったが、それでも各車両に2名づつはいたように覚えている。
こうして、私たちは、国鉄史上はじめて違法乗車をやったのだった。

敗戦翌日の国鉄がほとんど運行せず、ダイヤは麻痺状態、大混乱になった。駅に殺到した乗客は殺気だっていた。
このときのことは、後年、小説に書いた。         (つづく)

1203

私の人生に多少の影響をあたえた映画がある。

戦後すぐに、私は、ドイツ映画「喜びなき街」を見た。グレタ・ガルボがはじめて主演した映画だが、私はまったく何の予備知識ももたずに見たのだった。
これは、第一次大戦の「戦後」のウィーンのすさまじい荒廃を描いたもので、この8月、敗戦国家になった日本の運命を予感させるような内容のものだった。
監督や出演者の名前もしらなかった。

第一次大戦の、戦後のウィーンは、30年後の、ヒトラーの敗戦後とちがって、空襲を受けたわけではない。しかし、人々は飢えて、何の希望もなく、ただ街を歩いている。衣食住すべてがなかった。みすぼらしい服装、口腹の欲をみたすもの、ただゆっくり眠れる場所をもとめて人々は廃墟を歩きつづけている。
これが敗戦国の「現実」なのか。
当時、17歳だった私は、敗戦後の日本の「現実」――まだ、少しも現実のものになっていない「現実」を、無意識に、この映画に重ねていたような気がする。

この映画のラストで、ヒロイン(ガルボ)は混乱と絶望に蔽われた市街を放浪するのだが、雑踏のなかを右から歩いて、中央で立ちどまる。
左側から歩いてくる若い娘とすれ違う。お互いに視線をからませるわけでもない。ただ、一瞬、すれ違うだけ。その娘は、画面、右側から消えてゆく。

このシーンを見たとき、ふと、どこかで見たことのある女性だと思った。というより、一瞬、直覚したのだった。
あっと思った。
マルレーネ・ディートリヒ。私は、まったく無名のディートリヒを見たのだった。

その後、ガルボの伝記も、ディートリヒの伝記も読みつづけてきたが、無名のマルレーネ・ディートリヒが、これも無名に近いグレタ・ガルボがはじめて主演した映画に出たことにふれた資料はなかった。

ディートリヒ自身が、無名のエキストラ時代に関して、まったくふれることがなかった。つまりは、ディートリヒとガルボには、まったく接点がない。
私が見たワン・シーンも、きっと私の幻想だったのだろう。いつしか、私は自分でもそう思うようになった。

その後、「喜びなき街」を見る機会はなかった。

数十年後。ドイツの都市とナチスの歴史を研究した本を読んでいるうちに、まだ無名のディートリヒが「喜びなき街」に出たという記述を見つけた。
私は、茫然として、その一行を見つめていた。……

おなじ頃、フランスの俳優、ジャン・ギャバンの伝記を読んだ。戦時中、アメリカに亡命したギャバンがハリウッドでディートリヒと同棲していたとき、隣に住んでいたガルボがふたりに興味をもって、しきりに監視していたという記述を読んだ。
私は思わず笑ってしまったのだが――

敗戦直後の大混乱のなかで、一家離散の状態で、まるで戦災孤児のように、上野、浅草をうろついていた私が、どうして「喜びなき街」のような映画を見たのか、あらためて不思議な気がしはじめた。

1202

昔、同人雑誌の批評をつづけていたせいか、今でもときどき知らない方から、創作集などをいただく。かならず眼を通すことにしていたが、ちかごろはさすがに疲れてきた。

「文学書を読むとき、文体の外見に感心するのは阿呆の習性である。」

スタンダールのことば。私の批評上の心得のひとつ。

「はっきりした思想が単純な文体で述べられている本だと、これはちっともうまく書けていないという。そのくせ、誇張したいいまわしには、手放しで大喜び。こういうのが、成りあがりの田舎者なのだ。」

すぐにつづけてのスタンダールの痛烈な言葉。これもすごい。

こういう連中は、たとえば、
「私の心の中に冬がある――私の魂の中に雪が降る」
といったたぐいの文章に感心する。

ただし、スタンダールと違って私は、たとえば流行歌の作詞家が、
「私の心の中に冬がある――私の魂の中に雪が降る」
といったたぐいの歌詞を書くことに賛成する。
大衆にウケなければならないからだ。

1201

あい変わらず、ろくでもないニューズばかりだが、私がうれしくなったニューズがひとつ見つかった。
私たち現代の人間とは別の種類の人類に、ネアンデルタール人がいる。そのネアンデルタール人が、私たちの初期の人間と交雑していた。
ドイツの「マックス・プランク進化人類学研究所」のスパンテ・ベーポ教授のグループがつきとめた、という。

私は、進化人類学については何も知らない。ただ、今の人間の、遠い、遠い、遠い先祖の誰かが、ネアンデルタール人の男か女と、セックスして、相手を妊娠させたか、こっちが妊娠したか、とにかくムニャムニャして、現在の人間になっている、ということになる。私は、このニューズに感動した。

アフリカ以外の地域の現代人のゲノム(全遺伝情報)のうち、1~4パーセントが、ネアンデルタール人に由来する、とか。
ひょっとして、おれッチも、1パーセントぐらいはネアンデルタール人の血がまざっているかも。いや、まてよ、ひょっとして……

ネアンデルタール人とは何か。
40万年から30万年も昔に、現生人類の共通の祖先から枝別れした人類。3万年前に絶滅した。それまでは、ヨーロッパや、西アジアにぶんぷしていた。
特徴として、顔の彫りが深く、頑丈な体格。
日照の少ない高緯度地方に生息していたため、肌が白く、神の色も薄かったらしい。

なんでえ、これじゃ、可能性としては1パーセントもあぶねぇじゃあねえか。

「マックス・プランク進化人類学研究所」のグループは、3万8千年前に生きていたネアンデルタール人の女性3人の化石から、4年がかりで、ゲノム配列の60パーセントをつきとめた。
現生人類の祖先が、故郷のアフリカを出て間もない10万年から5万年前に、中東などの地域で、先住民のネアンデルタール人の異性に出会った。
その後、現生人類が世界じゅうに進出したため、アフリカ以外の各地で、ネアンデルタール人の遺伝子が検出された、と研究グループは推定している。
これは科学雑誌「サイエンス」に発表される、とか。

ゾクゾクするほど、うれしくなってきたね。

私がネアンデルタール人の遺伝子をもっている可能性は、1パーセントもないかも知れないが、何万年も昔の祖先が、異性に出会ったことぐらいは想像できる。
やっぱり「ボーイ・ミーツ・ガール」だろうなあ。
阿部 知二のもっとも初期の作品に、「戀するアフリカ」という短編があるけれど、私も「恋するネアンデルタール女」でも書けばよかったなあ。(笑)

1200

少年時代のことを思い出す。

ラジオで相撲の実況を聞いていた。野球の実況放送も聞いたが、そのナレーション、テンポ、エロキューションなど、今の人には想像もできないだろう。

ただ今、1時30分でございます。ただいまより、六大学野球、早慶第一回戦を放送いたします。少しくお待ちを願います。
……
ただいまの拍手は、慶応のシートノックがすんだところでございます。かわって、早稲田の練習でございます。ノックは、キャブテン、XXでございます。
……
本日は、朝は曇っておりましたが、ただいまはよく晴れまして、五月晴れとなりました。一塁線から外野センターのところまで、慶応の応援団、1万人以上。一方、早稲田の応援団、500人ばかし。三塁側に慶応の1万人に対しての涙ぐましい応援でございます。  …… フレーフレー ワセダ
かくて、早大、春の緒戦を勝ちとりますか、慶応、ふたたび王座をめざしますか、早慶、神宮グラウンドにあいまみえ、互いに一歩もゆずらず、竜虎あい打つ試合でございます。
……
早稲田の応援団、意気さかんに応援をしております。
……
いよいよ、試合の開始となりました。

少年の私は、ラジオにかじりついている。

……
やぁ、打ちました打ちました! 安東は、予定通りバントと見えましたが、みごとにヒット。やりましたやりました、1点。ランナー、真喜志、たちまちにしてホームイン!
……
次打者、田栗、ショートを抜けば、田村、懸命に走っております。やあ、ホームイン、ホームイン。吉永の返送球、やや高く、この間に三塁セーフ。これで早大、3点。田栗も一塁でセーフ。

本日は、投手戦というより、打撃戦になりまして、またもや、立石、ホームを踏みました。
さて、定期のお時間でございます。これよりしばらく経済市況を申しあげます。最初に、大阪の株式市場では……

私は、ラジオから離れて、母親のところに行く。

なんか、おやつ、ないの?

――何もないよ。コーセン、作ってあげるから、食べて。

香煎(こうせん)。クズ米を煎って、チンピなどとまぜた粉。ほんの少し、お砂糖をまぜて、白湯(さゆ)をそそぐ。たいしておいしいお菓子ではない。白湯をまぜないまま、口に入れると、口のなかが粉だらけ。むせたりする。

しばらくすると、

これで、経済市況をおわりまして、ひきつづき、早慶戦の放送でございます。
中断中に、慶応、三者凡退、ただいま、X回の表、早大の攻撃でございます。……
みごと、ストライク。これを、入江、見送って、安東、大きなモーション、ファール。アウトコーナーをややはずれたボール。2ストライク、1ボール。ランナーは笠井……

私はラジオにしがみつく。……やぁ、おもしろくなってきたぞ。ここで1点、入れるかなあ。

打ちました打ちました! 大飛球、大飛球。外野に向かって飛んでおります。
……
あ、レフト線上、堤、走る走る、ついにみごとにキャッチ。アウト、アウトでございます。打者がボールを打てば、野手がとるのであります!

私は思わずむせる。コウセンの粉が咽喉の奥にはりついた。

今でも忘れられないことがある。
私のクラスの、荒井君という同級生が作文を書いた。そのなかに「アナグソ」という言葉が出てきた。小学生の耳にはアナウンサーが「アナグソ」と聞こえたらしい。

今から70年以上も昔のこと。

1199

昔のゴシップ記事を読む。

エロの総本山、イットの元祖、クララ・ボウが肥り過ぎて、近頃、とんと売り物
のイットが発散しなくなったので、何とかして痩せたい痩せたいと苦労している
ことは皆様ご存じの噂。
ところが、わが国でも、肥り過ぎて困っている女優は沢山ある。
日活の夏川 静江、ますますポチャポチャと円くなり、マキノの大林 梅子、む
くむくとふとり、蒲田の新進、伊達 里子もまた脂肪分充満して、おのおの「痩
せたいわ痩せたいわ」と嘆いている。
蒲田の栗島 すみ子も、先ごろまで肥って困るとこぼしていたが、某博士発明の
「痩せ薬」を常用し初めてからメキメキと、痩せだし、近ごろではなよなよとし
たすみ子独特の美しさを発揮し出した。
女優連中が、すみ子を取り巻いて、
「まあ、羨ましいわ、その痩せる薬を教へて頂戴よ」といってるところへ、通り
かかった八雲 恵美子、その話を聞いていたが、やがてホッと一つ息をして行っ
てしまった。
無理はない、八雲 恵美子の念願は、「何卒神様、私を肥らせ給え」であった。
やせるもふとるも神のみこころ、こればっかりは、スター諸嬢にもままならぬと
見える。         (「サンデー毎日」昭和5年11月2日号)

別にコメントする必要もない。
こんなゴシップ記事に興味をもつのは、この程度の内容でもじつにいろいろなことがわかるからである。
栗島 すみ子は日本のサイレント映画を代表するスターだった。この昭和5年3月、「日活」は、藤原 義江主演で「ふるさと」で、トーキーに先鞭をつけた。つまり、栗島すみ子の時代は、確実に終わりを告げていた。
夏川 静江は、スターの地位はたもったが、マキノの大林 梅子、蒲田の伊達 里子もスターの座を去ってゆく。
世界的な大不況の影響もあって、昭和5年から7年にかけて、日本の映画界は激動の時代を迎えていた。撮影所だけでなく、映画館でも争議が続出している。

昭和5年、日活で撮影中の映画の題名は「娘尖端エロ感時代」。
一方、日本で公開されたハリウッド映画は、「アンナ・カレニナ「(グレタ・ガルボ主演)、「リオ・リタ」(ビーブ・ダニエルズ主演)、「ジャズ・シンガー」(アル・ジョルスン主演)、「ラヴ・パレイド」(モーリス・シュヴァリエ、ジャネット・マクドナルド主演)。「ブロードウェイ・メロデイ」(アカデミー賞作品賞)など。

優劣の差ははっきりしていた。

1198

電信柱に貼ってあった広告のチラシを思い出した。
アメリカから、テレル夫人という女性が来日したという内容のものだった。私が小学校の低学年だった頃。昭和10年代。

テレル夫人はたいへんな肥満で、関取の小錦よりももっとデブだったはずである。
来日したときも、当時の鉄道の客車には乗れず、わざわざ貨物車に椅子兼用の寝台を用意して各地を巡業した。見世物だったらしい。
私はテレル夫人を見なかった。見たいとも思わなかった。
ただ、毎日、電信柱にベタベタ貼りつけられたチラシを見ながら通学したので、テレル夫人の名前をおぼえてしまった。

つい最近、こんな人生相談の投書を読んだ。

育児休業中の30代女性。
幼い頃から続けてきた水泳を、中学時代に一時期やめて体重が15キロふえた
ことがありました。
高校になって水泳を再開して体重はもとに戻りましたが、以来、体重の増加が
過剰に気になるようになりました。1キロでも増えると落ち込んだり、イライ
ラしたり。毎日、体重計に乗ってイライラする自分が嫌になります。
べつに、やせて綺麗になろうとは思っていないのです。増えてしまうのが恐ろ
しい。今、太ったら、もうもとには戻らないだろうと思います。
体重が気になるのは自分に自信がないのが原因かも。本来、食べることは好き
なのですが、カロリーばかり気にして、毎日歩いて、野菜中心の食事にしてい
ます。それでも太ってしまうのではと心配。こんなことをずっと考えて暮らし
ていくのはつらいです。たべたいものを楽しく食べていきたいのですが……

この女性にとっては、わずかな体重の増減が人生の重大事なのか。
はっきりいって、こういう考えが――まず精神的によくない。1キロでも増えると落ち込んだりイライラするというのは、潜在的な鬱病の初期症状と見たほうがいい。
「べつに、やせて綺麗になろうとは思っていない」というのは、Evasive な表現で、はっきり「やせて綺麗になろう」と考えたほうがいいのではないか。
むろん、やせたから綺麗になるとはかぎらない。
若い女性のほっそりした足が魅力的に見える、といっても、外国人の眼には、日本の女性の、むしろぼってりした大根足のほうが、けっこう魅力的に見えていることを考えればいい。
テレル夫人のような極端な肥満は論外だが、やせている女性より、いくらかふとりじしの女性のほうが好まれることも多い。
「イヴのすべて」で主演したアン・フランシスという女優さんは、小柄だが、ぼってりしたからだつきだった。いまの女優でもアンジェリーナ・ジョリーなどは、ふとりじしといっていい。
だから、体重が15キロふえたぐらいで悲観する必要はない。30代で、育児休業中の女性なら、ホルモン・バランスから見て、多少ふとっても自然ではないか。
「今、太ったら、もうもとには戻らないだろう」などと考えないこと。

毎日、体重計に乗ってイライラするのはやめたほうがいい。

自分のからだをよく知って、いちばん貴重な体重をいつまでもたもちつつ、これからやってくる40代、50代を楽しみにしながら、好きなものを食べる。(むろん、食べすぎはよくないが。)30代といえば、女としても最高の時期ではないか。
毎日歩いて、野菜中心の食事にしようというのは殊勝だが、カロリーばかり気にするのはよくない。
私たちの幸せは毎日の食事をおいしくいただくことにある。私たちはカロリーばかり気にするために生きているのではない。

1197

スランプで何も書けないときはどうするか。

私のようなもの書きでも、ときどきスランプを経験した。そんなときは映画を見るとか、音楽を聞く。そういう対症療法がきかないスランプだったらどうするか。
地図をポケットに押し込み、知らない山を登りに行く。たいていのスランプは癒ってしまう。

老齢になると、どんな映画を見てもあまり楽しめないし、まして最近の音楽にはついて行けない。
一度スランプに陥ると、悪化するばかりで、予後もおぼつかない。

そこで、昔見た映画で好きだったものをビデオやDVDで見直す。
スランプのときに私がえらぶのは、「ファールプレイ」、「ウォリアーズ」、「ガルシアの首」、あるいは、ツイ・ハークや、チャウ・シンチーの映画なのだ。
どれもこれも、映画史に残るような傑作ではない。名画でもない。誰ひとりおぼえていないような映画ばかり。
「ファールプレイ」のゴールデイ・ホーンが好きだし、「ウォリアーズ」では無名だった少年や少女たちを見て――かつてのニューヨークを思い出す。
ツイ・ハークの女侠たち、とくにブリジット・リンや、内容はまったく「おばか映画」なのに「詩人の大冒険」のコン・リーが、どんなに美しかったか。

ただし、そういう「お気に入り」でも、あまり何度も見たせいか効果がない。こうなったら重症である。最後の最後にとっておきの1本を見て、やっとなんとか元気になる。
これは、いずれ友人の竹内 紀吉に見せてやる約束だったが、彼はスランプなど一度も経験しなかった。
だから、彼にも見せなかったのが――残念だった。

どんなにくだらないものでも、見落としている部分が少しはあるかも知れない。いつも、そう思って見ている。トリヴィアルなことでもいいのだ。ひとりの登場人物が、ほかのどんな女とも違って見えてくる。
それがすばらしい。

1196

作家、ジャン・ジロドゥーは、長い期間、何も書かない。何かを書きたい欲求がない。だからみんなはジャンがスランプなのだろうと見ている。
ある日、突然、作家は何か書きたいという気もちになる。
窓辺か、暖炉のそばに、ブリッジ用の小さなテーブルを出す。
さて。原稿用紙をひろげて書き出す。一気呵成に。
こうして二週間か三週間、書きつづける。

作品が仕上がると、小さなテーブルをしまって、それまで一心不乱に書いていたことを忘れたように、本業の外務省の仕事に専念する。

書きあげた原稿はタイプでコピーをとって、親しい作家や批評家に読んでもらう。戯曲の場合は、俳優のルイ・ジュヴェに読んでもらうのだった。
彼の原稿は、数十ぺージにわたって流れるように書きつづけられているが、途中、一語たりとも削ったり書き込みがなかった、という。

さすがに凄い作家だなあ。
私などはまったく正反対のタイプ。

作家、山川 方夫は、まだ無名の頃、「三田文学」の編集をしていた。たまたま、だれかの原稿が落ちた(間にあわなくなった)とき、急遽、自分の創作を掲載した。ほんの数時間で短編を書いたらしい。
たまたま、その翌日、私は山川に会った。しばらく雑談をしたが、山川は、徹夜で書いたばかりの短編を私に聞いてくれといった。原稿を読んでくれ。というのなら話はわかる。ところが、原稿を聞いてくれというのだった。
そして、山川はその短編、「春の華客」の冒頭から暗誦してみせた。

私は山川の暗記力におどろかされた。いくら自作の短編にせよ、まるまる全部暗記する芸当は私にはとても考えられないことだった。
私ときたら、自分が書いたばかりの短いエッセイでさえ、正確にそらんじてみせる、などという芸当はできなかった。その雑文で何を書いたか、内容さえろくにおぼえていないのだった。
山川は小説を書くのが好きでたまらなかったのだろうし、いつも自作に自信をもっていたに違いない。

山川は、ほんとうに才能のある作家だった。彼の周囲にいた人々は、誰しも、彼がいずれ作家として登場するだろうことを疑わなかったはずである。
「春の華客」を書いた彼は20代の前半で、私ははじめての訳書が出たばかりだった。

その日、山川 方夫は私に小説を書くようにすすめてくれたのだった。

1195

久しぶりに、知人に会って、自然に口を衝いてでることば。
「やあ、しばらく」

相手が親しい知人であれば、会わなかった時間をいっきに埋めて、なつかしさが迫ってくる。だからこそ、これだけのことばで挨拶として通用する。

日本人は、いつ頃からこんな挨拶をするようになったのか。

昔の俳句を読んでいて、思いがけず、

やあしばらく 花に対して 鐘つくこと      維舟

という句を見つけた。

作者は貞門の俳人で、ずいぶん剛腹な人だったとか。俳諧の道では、いろいろな人と争ったらしい。しかし、鬼貫、言水が門人だったというから、一門の指導者としてはすぐれていた人物。
どこの世界にも、こういう人はいる。人間的にいやなやつだったのだろう。延宝8年、76歳で亡くなっている。

ところで――
親しい人から近刊の本を頂いた。手紙がついている。

その結びの部分は、

どうか、お風邪など召しませんように。ご会拶に伺える日を楽しみにしております。

まさか、挨拶という言葉が書けないはずはない。してみると――わざと「会う」という言葉にひっかけて、造語(ネオ・ロジスム)とシャレたらしい。

こういういたずらは楽しい。というより、こういうさりげない「いたずら」が好きな人が好きなのである。

いただいた本は私にはむずかしい内容だったが、これから少しづつ読むことにしよう。

1194

フランスの芝居で、私たちがすぐに思い浮かべるのはコメデイ・フランセーズだろう。モリエールの劇団が旅から旅に巡業をつづけたことはよく知られているが、一六七三年、劇作家で俳優のモリエールが亡くなったあと、残された劇団は、ルイ十四世の勅命によって一六八〇年、これも王立のブルゴーニュ劇団と合同した。
ルイ十四世はこの劇団にパリにおける独占上演権を許し、俳優に年金をあたえる特権をあたえた。この新劇団は、ラシーヌ、コルネイユ、モリエールをはじめ古典の上演を使命とすることになった。一七七一年から八〇年代にかけて、パリの劇場はテアトル・フランセ、テアトル・イタリアン、テアトル・ド・ロペラ(オペラ座)が、ほんらいのフランス演劇(コメデイ・フランセーズ)である。(現在でも、コメデイ・フランセーズは「モリエールの家」と呼ばれている。)

ところで、コメデイ・フランセーズの成立ととかかわりなく民衆はエンターティンメントをもとめていた。パリでは縁日の市場に掛け小屋で喜劇を演じるような芝居者が多数あらわれる。一七五九年から、パリ市内、北東にあたるブールヴァール・デュ・タンプル(寺院通り)には常設の芝居小屋が並ぶようになった。サン・ジェルマンや、サン・ローンの修道院では、二ヵ月のロングラン興行さえめずらしくなくなる。ブールヴァール(大通り)芝居とよばれるものの濫觴(ルビ らんしょう)である。
こうした劇場でとりあげるレパートリーは、パリ市民の好みにあわせた、ひどく猥雑な笑劇、見世物、パントマイムによる夢幻劇、犯罪劇ばかりだったが、いきいきとした民衆のエネルギーにささえられていた。この通りに集まってくる連中のなかには、よからぬ風態のもの、ヤクザや娼婦たち、スリ、強盗なども多く、寺院通りはブールヴァール・デュ・クリム(犯罪通り)と呼ばれるようになった。
ただし、犯罪者が集まってきたために犯罪通りと呼ばれたわけではなく、当時、「メロドラム」と呼ばれた勧善懲悪のお涙頂戴もののサスペンスで、ドラマの山場にきまって殺人シーンが出てきたためという。これは、のちのロマン主義の演劇運動に通底している。こうした雰囲気は、後年の映画「天井桟敷の人々」(1944年/マルセル・カルネ監督)に描かれている。あの映画に登場するフレデリック・ルメートルは、実在の名優で、まさにロマン派とメロドラムのヒーローとして生きた。もうひとりのジャン・バティストは、マイムの名優として、フランスの俳優術の洗練を代表していた。

絶対王制の下で演劇活動をつづけてきたコメデイ・フランセーズは、一七八九年のフランス革命によって、特権的な地位を失った。革命の人権宣言で、劇場を開設する権利は万人のものと認められて、劇場が都市の周辺に出現する。一七九八年、コメデイ・フランセーズは再建されたが、名優、タルマと保守派の対立、俳優たちの内紛がつづいたり、火災にあったり存続もあやうい受難の時代をむかえる。
一八一二年、遠くモスクワに遠征したナポレオンの勅令によって、コメデイ・フランセーズの機構がきめられて現在までの大まかな基礎が作られ、一八五〇年にはコメデイ・フランセーズを総括する支配人という制度が発足した。これも、第二帝政の時代の大きな演劇改良の動きによるもので、ブールヴァールがフランス演劇に大きな影響をあたえていたからだった。こうして、名女優ラシェルからサラ・ベルナール、名優フリダリクスからムネ・シュリー、リュシアン・ギトリの時代に移ってゆく。

1193

イリヤ・エレンブルグを読む。
いまどき、ソヴィエトの作家、エレンブルグを読む人はいないだろう。

イリヤ・エレンブルグは、若き日をパリで過ごしている。
彼の回想を読むと、コメデイ・フランセーズで、ムネ・シュリーの「エディプス」を見たことがかかれている。

「私は芸術劇場しか認めていなかった。舞台ではすべて現実におけるがごとくでなければならないと思っていた。ムネ・シュリーはみじろぎもせず、ひとところに立ちどまると、手負いのライオンのようにうなりはじめた。『おお、われらの人生のなんと暗いことよ!……』何年かたってやっと、彼が名優だったと気がついたが、当時は芸術のなんたるかも知らなかったので、こらえきれず、大声で笑いだした。天井桟敷で、芝居の見好者(ルビ みごうしゃ)の間に陣どっていたのだが、あっと思ったときには、ぶん殴られて、通りにほっぽり出されていた」と。(「回想」1960年)

私はこのエビソードを、『ルイ・ジュヴェ』で書いた。

やはり若かったジュヴェは毎日のようにムネ・シュリーを見に行っていた。だから、ムネ・シュリーの芝居を見て笑いだしたロシアの青年が、パリの若者たちにひったてられても同情しなかったに違いない。

佐藤 慶が亡くなった。
俳優座の養成所で私の講義を聞いたひとりだが、あるとき、私が演出した芝居を見ていた彼が不意に笑いだした。私が芝居に出した俳優の芝居がひどく下手なので呆れたらしい。私は、佐藤 慶の風貌に、一筋縄ではいかぬ不定なものを感じたことを覚えている。

佐藤 慶は養成所の生徒だった頃から、映画をめざそうと思っているといっていた。

イリヤ・エレンブルグを読んでいて、彼が若き日をパリで過ごしていたこと、自分が若い頃に知っていた俳優の訃報がかさなってきた。

1192

私が好きな外国の女流作家。

アナイス・ニン。私は、彼女の作品を全部読んだ。ただし、自分で訳したのは長編が一つだけ、あとは処女作、『ガラスの鐘の下で』のなかの2編を訳しただけに終わった。ほんとうは、もっと多くの作品を訳したかったが、そんな機会はなかった。

アーシュラ・ヒージ。ドイツ系のアメリカ作家。彼女の作品はクラスで読んだ。私は作家の清冽な筆致に魅せられた。とにかく描写の一つひとつが、その作品の語り手の内面を想像させることに、心を奪われた。凄い作家がいるものだと思った。

ジャマイカ・キンケード。この作家のものは、わずか1編しか知らない。しかし、女流作家らしく、自分の身辺のことを書きながら、それだけで人生の哀歓を感じさせる。日本の女流作家が書くことを忘れてしまったり、はじめから問題にしないような世界をきっちりとらえている。しかも。いっしゅの凄味があって、なかなかの才能だと思う。

つぎに、私があげるのは、イタ・デイリー。アイリッシュの作家。失礼だが、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージと肩を並べるほどの作家ではない。しかし、この作家も、読んでいてじつにすばらしい。いまの作家の短編がどんなにおもしろいものか、イタ・デイリーを1編、読むだけで納得がゆく。

もう、ひとり。この少女は誰も知らない。本を1冊出しただけで消えてしまった。才能はあった。しかし、高校の文芸部か何かで、小説らしきものを書いて、少しばかりいい気になったのだろう。
ユダヤ系の少女だった。
私は、この少女の書いたものを読んで、ほんとうに感心した。
それから数十年たって、私のクラスで、イギリスの作家の長編を読んだ。そのオープニングを読んだとき、ずっと以前どこかで読んだことがあるような気がした。
そして――私が関心をもったアメリカの少女の書いた短編とまったくおなじ文章だったことに気がついた。
私は茫然としたが――その少女を非難する気は起きなかった。17歳の少女が、よくこんな長編を読んだなあ、と思った。
そして、自分でもすっかり気に入って、イギリス作家を模倣したのだろう。しかし、模倣しきれなくなって、つい、失敬してしまったに違いない。いいかたを変えれば、少女の才能は、その程度のものだったのだろう。
たった1冊だけ、有名な出版社から本を出して消えてしまった少女。彼女のことを考えると、なぜか私の胸には、いたましさと、その後の少女の人生が幸福だったことを願う思いが重なってくるのだった。
彼女の作品を、いつか翻訳したいと思ってきたのだが、どうやら夢に終わるだろうな。

1191

私は多代さんのファンだが、全部が全部いい句ばかり、等と思っているわけではない。

六月や 泊りからすは 山へ行く         多代

短夜や 雨水澄んで 有明る           多代

夏の夜や かねなき里のおもしろさ        多代

「かねなき」は、鐘も鳴らない鄙びた里ということだが、不況で過疎になってしまった里かも。おもわず、笑った。

あふき立て 鳴りの止まぬや  競馬       多代

これも、今の競馬を連想して、多代さんは馬券を買ったのか、などと連想して、われながらあきれた。

差し上る日を 屋根越しの 幟かな        多代

これも、いい句のように見えながら、なんとなく納得しがたいところがある。
しかし、おなじ更衣を詠んでも、千代の、

脱ぎ捨ての 山に積るや 更衣          千代

日はしたに 休む大工や 衣かへ         多代
あらためて 松風ききぬ ころもかへ       〃

私が、多代さんを推賞する理由はわかってもらえるだろう。

蝶々や 女子の道の後(あと)や先        千代
蝶々や 何を夢みて 羽つかひ          〃

よりも、おなじ多代さんの句に、

春の雁 笠着るうちに 遠くなる         多代
日の晴れや 幾度も来る おなじ蝶        〃
昼船や さそわぬ蝶の ついてくる        〃

のほうがいい。

1190

おや、春雨か。仕方がない。ぼんやり俳句を読みふけることにしよう。

世の中は 何がさかしき 雉(きじ)の声     其角

これまた、あまり感心できない句だが、それでも、

隠すべき事もあるなり 雉子(きじ)の声     千代

雉子(きじ)鳴くや 仏に仕ふ 身は安き     よし女

などよりは、ずっといい。またまた、多代さんの句を調べてみると、

隠るるも すばやき雉子(きじ)や 草の風    多代
首伸べて 見廻す雉子(きじ)や 草の中

やっぱり、いいなあ。
そこでまたもや、加賀の千代と並べてみる。

思ひ思ひ 下る夕べの 雲雀(ひばり)かな    千代
上りては 下を見て鳴く雲雀(ひばり)かな
二つ三つ 夜に入りそうな雲雀(ひばり)かな

おやおや。
千代の技巧句よりも、

美しい空に はらりと 雲雀(ひばり)かな    多代

さりげなく一瞬の冴えを見せる多代さんの句のほうが好きなのである。
(つづく)

1189

女人の俳句を読んでいるうちに、俳句のことを考えた。
俳句には用言の連体形止めが、よくみられる。えらい人の句を引用すれば、これはよくわかる。

留守にきて棚探しする 藤の花          芭蕉

まさか藤の花が棚探しをするわけではない。そういえば、昔の人は、よく人を訪問したものだった。たとえば、森 鴎外が新人作家の一葉を訪れたとき、一葉が留守だったので帰りを待って座敷に端然として待っていた、という。

世の中は 何がさかしき 雉(きじ)の声     其角

この句には「雉も鳴かずば打たれまいに」というメタフォーが隠れているだろうと思う。それはわかるのだが、どうもよくない。ごめんなさいナ、其角さん。

鶯や かしこ過ぎたる 梅の花          蕪村

これも蕪村にしては、「かしこ過ぎ」て、あまりいい句ではない。  (つづく)

1188

 以前もとりあげたが、私は多代さんのファンなのだ。桜が満開だった頃、ふと、多代さんに桜の句はないのだろうか、と思って調べてみた。ないはずはかい。

初花や 思ひも寄らず 神詣        多代
さむしろに 這ひ並ぶ子や 花の蔭
花の戸に 脱ぎもそろわぬ 草履かな
花少し散って晴れけり 朝曇り
ややあって 雲は切れたり 峯の花
花に月 どこからもれて 膝の上
花に暮れ さくらに明けて 日は遅し
木樵より 外に人なし 遅桜
晩鐘の さかひもなくて 花に月

注釈の必要のない平明な句ばかり。ただし、多代さんの句は、いかにも平明、平凡に見えるけれど、どうしてどうして、そんなものではない。たとえば、ほかの女性(にょしょう)たちの句と並べてみると、にわかに輝きをましてくる。

山桜 ちるや小川の 水くるま       智月尼
花さいて 近江の国の 機嫌かひ
逢坂や 花の梢の 車道
入相(いりあい)の鐘に痩せるか やま桜

智月尼は、芭蕉の弟子。大津の乙州の母。
それなりに姿のいい句だが、多代さんの句と読みくらべてのびやかさがない。
多代さんよりはるかに高名な、加賀の千代の

女子どし 押して登るや 山桜       千代
花戻り 見るなき里の 夕かな
晩鐘を 空におさゆる 桜かな
あしあとは 男なりけり はつ桜

こうした句と並べて、いささかも遜色がない。いや、それどころか、千代などとははじめから比較にならないほどに洗練された句ばかりだと思う。

多代さんだけを褒めるつもりはない。
ほかにも桜を詠んだ句は多いが、私の好きな句はあまりない。

管弦の灯のはしりこむ 桜かな       花讃
追い追いに 来る人ごとの 桜かな     園女
草臥(くたびれ)を花にあずけて 遠歩き  志宇
花にあかぬ 浮世男の憎さかな       千子
殿ばらと 袖すれ合うて 花見かな     りん
盃に影さす 夜の桜かな          可中
追ふ人や 追はるる人や 花の酔い     そめ女
うちにゐて 思ひにたへぬ 花曇り     はる

園女は芭蕉の弟子だったが、芭蕉亡きあと、其角についてまなんだ。志宇は、武家の妻女、和漢の書に親しみ、和歌もよくしたという。千子は、去来の妹。りんは、豊後の国の女性。可中については知らない。そめ女、はる、いずれも遊女ではないかと思われる。

春風駘蕩足る気分で、俳句を読む。

昔の女人の句。あまりにも遠く隔たった世界だが、かつて生きていた女たちの息づかいが艶冶に響いてくる。
(つづく)