1227

あるとき、私は自分の周囲にいる若い女の子たちに、短い長編を書かせた。このシリーズはいくらか評判になったが、宇尾さんにもお願いして長編を書いてもらった。私が期待したものとは違う内容になったが、宇尾さんにが書いてくれたことがありがたかった。宇尾さんは、ペンネームを使っていたから、あまり知られていないかも知れない。(注)
宇尾さんは、生活のためにいろいろな仕事をしていたが、どんな仕事をしても、宇尾さんの誠実さは感じられた。
室生 犀星のことばだが――もの書きは一人前になって、あなたの作品が好きだとか何とかいっても、いわれたほうがきまり悪い思いがするから、いっさいそんな見え透いたことはいわなかった、という。おなじような意味で、私は宇尾さんの作品について批評めいたことはいわなかった。
「朝」の仲間といっしょに出したアンソロジー、『姥ケ辻』に、「花ばたけは春」という作品を書いている。老年をむかえた女性の境遇、内面を描いたもので、老年の華やぎといったものが感じられた。
おなじ時期に、宇尾さんが、聖ハリストスのイコンの画家、山下 りんの生涯をたどっていたが、この評伝が完成しなかったのは痛恨のきわみだったと思われる。
そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。

注)『愛の雫はピアノの音色』 森 扶紗子著 双葉紗 1989年2月刊

1226

たまたま私の住んでいる土地に、小さな文学賞があって、私はかなり長く審査をつとめた。これが「千葉文学賞」で、初期の頃は、恒末 恭助、峯岸 義一、福岡 徹、窪川 鶴次郎の諸先生が審査にあたっていた。ある時期からは、長老の恒松 恭助さんを中心に、宇尾 房子、竹内 紀吉、松島 義一、私の五人が、審査にあたるようになった。この審査会は年に一度だったが、恒松さんのお人柄もあって、いつも楽しい集まりになった。
審査の席で、宇尾さんと私の意見はだいたいおなじになった。文学観が違っても個々の作品の評価になると、不思議に似たような評価になる。そんなとき宇尾さんは私の面子を立ててくれたのだろうか。いや、宇尾さんにそんな成心のあろうはずはなかった。
審査のあと、すぐには別れがたい思いで、宇尾さん、竹内君、松島 義一君と、近くの旗亭で、酒を酌みかわす。いろいろな話題が出たが、これがじつに楽しかった。
だいたいは有名作家の作品が話題になるのだが、竹内君が何かの意見を述べと、松島君が切り返す。竹内君がムキになって反論する。宇尾さんは、かるく手をあげてふたりを制する。ときには顔に笑いをうかべたまま、これだから男衆は……とでもいいたげに、ハンカチを出して、口にあてるのだった。
私たちが何を話したのか。今となっては茫々として思い出せないが、まるでたあいもない話題に私たちはいつも笑いころげていた。

宇尾さんは、この「千葉文学賞」以外にも我孫子市の教育委員会編の「めるへん文庫」の審査などもやっていた。
その「選評」に「みんなが幸福であってほしいとねがう優しい心や、この世の不思議になぜ? と問いかける心があったから物語ができあがったのです」と書いている。こんなことばにも宇尾さんのひたむきな制作の姿勢がうかがえるようだった。

宇尾さんの小説に出てくる、ごくふつうの日常のなかに、ときどきギラリとひらめく異様な輝きのようなもの、ときには生理的にドキッとさせられるような部分。いかにも女流作家らしい、ゆたかな肉感性や、息苦しい背理といったもの。「日本きゃらばん」に発表された作品は、だいたいそういうものに彩られてはいなかったか。

1225

【No.1225~1229は、「朝」29号(追悼・宇尾 房子)平成22年8月刊に発表されたエッセイです】

宇尾さんの訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなったという。私は、ただ茫然として、この知らせを聞いた。

はじめて宇尾さんに会ったのは、いまからどのくらい昔のことだったのか、まるで思い出せない。そのとき、「文芸首都」の作家と聞いて、いささかたじろいだ。
「文芸首都」は新人の育成をめざした同人雑誌で、この雑誌からすぐれた作家が輩出している。その程度のことは知っていたが、だからといって宇尾さんが「文芸首都」の出身と聞いておそれをなしたわけではない。
私は「戦後」すぐから批評を書きはじめたが、いつも文壇とは関係のない場所に立っていた。文壇に知りあいはいなかったし、文壇関係の出版記念会や何かの集まりにはいっさい出席しなかった。まして同人雑誌の作家たちとは全く面識がなかった。
千葉に住むようになって、たまたま「文芸首都」出身の福岡 徹さんと知りあいになった。福岡さんが主宰していた「制作」にエッセイを書いたりするようになって、やはり「文芸首都」出身だった庄司 肇さんに紹介していただいたように思う。
その庄司さんが、これまたいろいろな方を紹介してくださった。宇尾 房子さんを紹介してくれたのも、庄司さんだった。
宇尾さんは、庄司さんが主宰していた「日本きゃらばん」に作品を発表していた。この「日本きゃらばん」の関係で、私は宇尾さん、竹内 紀吉君と親しくなった。
誰とも交際のなかった私の不器用な生きかたを気にかけて、いろいろな方がいろいろな人とひきあわせてくれた。そういう機縁でもなければ、竹内 紀吉君や、佐藤 正孝君、宇尾 房子さんと知りあうこともなかったに違いない。
べつにめずらしい話ではない。ただ、このおふたりとは、世にありがちな同人雑誌の離合集散などと関係なく、はじめから親しい友人として交際したことになる。
宇尾 房子さんが「文芸首都」で修行した作家と聞いて、私がひるんだことは事実だった。
「文芸首都」の作家では、北 杜夫や、佐藤 愛子には、いまでも親しみを覚えているが、「文芸首都」のように文壇に出ることだけを目的に修行し、その合評会では、なみいる論客がそれぞれ怪気炎をあげるという雑誌には、およそ関心がなかった。
もう一つ、この雑誌を主宰していた保高 徳蔵に、私はひそかな軽蔑をもっていたせいもある。
この作家は、戦時中にグレアム・グリーンの『第三の男』を読んでいたと書いていた。
私の知るかぎり、戦時中にグレアム・グリーンを読んでいたのは、わずかに植草 甚一、双葉 十三郎のおふたりだけで、ふたりともグリーンが「スペクテーター」の映画批評家だったと知っていたから読んだと思われる。しかも、当時、英米の作家たち、とくに、まだ無名に近いグリーンの小説は、上海の海賊版でしか読めなかった。植草 甚一さんは苦心の末に、ひそかに一本を入手して狂喜したという。(私は、植草 甚一さんから直接、この話を聞いている。)さらにいえば、グレアム・グリーンの『第三の男』は、戦時中の作品ではない。こういうことをぬけぬけと書く作家など信用できるだろうか。

批評家としての私は、それほど好悪の感情をむき出しにすることはないのだが、「文芸首都」から作家になった芝木 好子などは嫌いだった。この作家は、戦時中に書いた『青果の市』で、芥川賞をもらっているが、発表当時、警察権力の出没する部分を削ってまで芥川賞をねらった。その心根がいやしい。戦後の第一作は、エロの流行に乗ろうとして「州崎パラダイス」で娼婦を描いている。私には凡庸な作家と見えた。
そんなことも重なって、「文芸首都」の作家と聞くと、敬遠したくなったのだった。
かなり長い歳月、宇尾さんと親しくしていただいたが、文壇的なこと、お互いの身辺のことなど語りあったこともない。私たちの話題は、いつも文学に関してのものであって、その時その時のお互いの視野にあった文学に限られていた。
だから、この追悼で、私は何を語ればいいのか。あるいは、何を語ることができようか。

1224

(つづき)
一茶が有名になったのは大正12、3年の頃からだった、という瓢齋の記述は間違いではないだろう。
とすれば、俳人、一茶が知られたのは、たかだか80年前のことになる。もっとずっと前から、一茶の存在が知られていたものとばかり思っていた。

たしかに、一茶は、芭蕉、蕪村などとちがって、生前からひろく知られた俳人ではなかった。明治に入ってからも、一茶の名はひろく知られていたわけではない。

私の好きな一茶の句をあげておこう。

信濃路や 上の上にも 田植唄

わが里は どう霞んでもいびつなり

小林家は、柏原の本通りに面して、間口9間、奥行き4間、大きな藁屋だったという。

これがまあ 終(つい)の住家か 雪五尺

後年、この家を半分に区切って、一茶と、継母、その継母の子(異母弟)仙六が、隣あわせに住んでいた。
これが一茶の実家だが、一茶が亡くなった年に、焼けてしまった。

一茶は生涯、貧窮に苦しんだという。
だが、一茶の父の代には、150俵ほどの収納米があったという。
間口9間、奥行き4間の家屋といえば、かなりの広さだし、150俵ほどの収納米というのば、ただの貧農には考えられない量で、一茶が貧しい農民の出身ではなかったと見ていい。

故郷や 蠅まで人を刺しにけり

信濃路は 山が荷になる 暑さ哉

北アルプスを歩いていた頃、よく、この句を思い出した。ザックの重さが肩に食い込んで、見はろかす山脈(やまなみ)が「荷になる」実感があった。

釋 瓢齋のつまらない随筆を読んだおかげで、しばらく一茶の境遇を思い出すことができた。これだけでもよしとしなければなるまい。

1223

短い文章を書く。
べつにむずかしいことではない。

釋 瓢齋は、昭和初期、戦前の「天声人語」の執筆者として知られている。『白隠和尚』、『俗つれづれ』といった著書は、十数版を重ねたベタセラーだった。
先輩の徳富 蘇峰は、

瓢齋君の筆は光ってゐる。其の短章を用ゐる技倆は天下に公評がある。然も其の長編にも亦た同様の特色がある。何となれば短章の累積が、則ち長編であるからだ。

 という。
私は、蘇峰にまったく関心がない。瓢齋を褒めているようだが、これでは褒めるどころかむしろ貶しているように見える。
もっとも、瓢齋のほうも、あまり褒められたもの書きではない。
私は『瓢齋随筆』を読んだだけだが、失礼ながら退屈な随筆集で、今となっては読むにたえない。

なぜ『瓢齋随筆』などを読んだのか。森田 たまを軽蔑している私は、どうして、こんなオバサンが名随筆家としてもてはやされたのか、そんな興味から、昭和初期の随筆というジャンルの文学的なレベルを知りたくなった。
瓢齋は、一茶について、誰よりも早く、熱心にとりあげたひとり。

釋 瓢齋の随筆、『瓢齋随筆』(昭和10年)を読んでいると、こんなことが出てきた。
「一茶が俄に有名になったのは大正12、3年の頃からではなかったか」という記述にぶつかった。
思わず眼を疑った。  (つづく)

1222

最近の私は、あまり笑わなくなった。
いろいろな理由がある。

女がいう。
「結婚するのは、お互いに理解しあって、愛しあうようになってからにしましょう」

男はいう。
「まず結婚して、理解しあい、愛しあおう」

たいていの恋愛は、この食い違いをめぐっての喜劇である。見ていて、おかしな喜劇だから笑いを誘う。ときには、生涯をつうじての悲劇になる。
これは、見ていてつらいだけだ。まして、当事者だったら、どんなに後悔したところで、幕が下りるまでは終わらない。

女がいう。その眼が不安そうな色を帯びている。
「結婚するのは、お互いに理解しあって、愛しあうようになってからにしましょうね」
男はいう。
「まず結婚して、理解しあい、愛しあおう」

そういわずにはいられなかった。内面の深い底に、冷たい石のような不安が有るのを感じながら。

ある小説の一節。作家は、アメリカの有名な作家。

いつだったか、アダルトもののDVDを見た。テレビのリポーターを装った男が、繁華街で若い素人の娘をつかまえて、ホテルにつれ込む。
若い女は抵抗らしい抵抗もせずに、脱がされてしまうのだが、
「セックスするのは、お互いにもっとよく理解しあって、愛しあうようになってからするものよ」
といった。
ハンディカメラで撮影しながら男は、
「まずセックスして、お互いに理解しあったり、愛しあったりするんだよ」
といった。

私は思わず苦笑した。

1221

最近の私はあまり笑わない。

吉永 珠子は、そんな私を心配してときどき手紙をくれる。

なにしろ、手紙の表記に、中田 麹先生と書いたり、中田 工事先生、と書いてくる。悪意があってのことではない。私がこういういたずらが好きと知っていて、わざとふざけて書くのだった。

麹(こうじ)は、お米やムギをセイロで蒸して、暖かいムロに入れ、発酵させて、麹カビをつくる。うまく発酵すれば、おいしいお酒ができる。つまり、暗黙のうちに、文学的な杜氏(とうじ)として、私に敬意を表してくれているらしい。
工事というのは、たぶん、土木建築の工事のことで、毎日あくせく原稿を書いている私に対する、いささかの応援をふくんでいるだろう。
私は、彼女から手紙をもらうと、思わず破顔一笑して、さっそく読むのである。

ふと、考えた。
もし、中田 金之助、とか、中田 林太郎といった名前だったら、もう少し偉くなれたかも知れないなあ。一歩ゆずって、ペンネームでもいいかも。

どうせなら、中田 小鴉とか、中田 根っこ、または、中田 ひよこ、さては中田 メッキといったペンネームがいい。

小鴉はコルネイユ、根っこはラシーヌ。ひよこは、プッサン。メッキは、ドレ。

オレの作品に、コルネイユとかラシーヌの名がついていたら、サマにならねえ。(笑)

私が少し元気がなかったり、少しスランプ気味だったりすると、きまって吉永 珠子から手紙が届く。それを読むとすぐに元気になるし、書きあぐんでいた原稿もなんとか書けるようになる。
そもそも、こういうことを考えるのはヤキがまわった証拠だね。やっぱり、中田 麹か中田 工事ぐらいがお似合いだよなあ。(笑)

1220

最近の私はあまり笑わなくなった。
いろいろな理由がある。
その一つ。ホラティウスのことばを知ったから。

詩人はいう。

Quid rides? Mutato nomine,de te fabula narratur.

なぜ笑う? 名前を(置き)変えたら、おまえさんのことだぞよ。

文章を書くとき、できるだけこの言葉を思い起こすことにしよう。うっかり笑えなくなる。
うっかり忘れたら、そのときは笑うことにしよう。(笑)

1219

私は詩について、あまり知らない。不勉強だったから。

それでも、イエーツなどは、いくらか読んでいる。イエーツは劇作家でもあって、私はイギリスの戯曲はいちおう読んでいたからである。シングや、グレゴリー夫人の戯曲を読んだ動機もおなじだった。
それでも、イエーツの詩に関心をもった。

Knowing one,out of all things,alone,that his head
May not lie on the breast nor his lips on the hair
Of the woman that he loves,until he dies.

我が知れることのひとつは、ひたすらに
頭を 愛する女の胸にやすめたり 唇を 髪につけるなど
なすあたわざることなり ということ
死にいたるまで             (大意)

こんな詩句を読むと、ついついイエーツの恋人、モード・ゴーンのことを想像する。
モードは、終生、イエーツの恋人だった女人だが、イエーツの求婚を拒みつづけた。
そして、別の男性と結婚したが、その後まもなく離婚する。
モードを忘れられなかったイエーツは、わざわざノルマンデイーまで、モードに会いに行き求婚するが、またしても拒否される。

イエーツがはじめてモードに会ったのは、24歳のとき。
モードが、イエーツを振り切って結婚したとき、イエーツ、37歳。
そして、ノルマンデイーにモードを訪れたとき、イエーツ、51歳。

All true love must die,と、イエーツはいう。それは、やがて Into some lesser thing になる。

なぜか、こちらまで苦しくなってくる。

イエーツの場合、恋の苦しみがそのまま詩のみごとさに変わってくる。

1218

またまた古い話になる。ジュリアン・デュヴィヴィエの映画『旅路の果て』のなかで、老優に扮したルイ・ジュヴェが、かつてのプリマ・ドンナを見て思わず呟く。「老年は醜い」と。
老年をどういうふうに受け入れていくのか。これは、思想的な問題であり得るだろう。げんに、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』のようなすぐれたエッセイもある。しかし、平凡な作家には、老いを主題にしてシモーヌのように書けるはずもない。

つい最近知ったのだが――
1950年から、1990年まで、わずか40年間の経済生産のすさまじい拡大は、有史いらい1950年までの5000年間のそれよりも、じつに4倍になったという。

私たちは、毎日、そうした経済、および様々な生産体制の発展のなかで生きている。誰ひとりそのこと(そうした経済状況を)別に不思議に思ってはいない。

だが、計算しただけで、私たちの1年は、老いぼれた地球の1世紀ということになる。

つまり、私たちは、毎日、かつての歴史の数年というスパンを生きていることになる。

もし、地球がつぶやくとすれば――地球の「老年は醜い」というかもしれない。

私はいまや地球の未来に関してはっきりペシミストである。自分の未来については、オプティミストだが。

1217

シェイクスピアの詩で思い出したが、昔は、黒は美しい色ではなかったらしい。

In the old age black was not counted fair,

つまり、(シェイクスピアが若かった頃)、黒は美しい色ではなかった。少なくとも、美人の色ではなかった、ということ。

しかし、今では、黒だって、美の後継者になれるおかげで、美 Beauty が、無残にも恥ずかしさ bastard shame にかられている。

シェイクスピアの「恋人」Mistress の眼は、鴉のように黒い。

黒が女性美を際だたせるようになったのはいつ頃からなのか。
ファッション史を調べれば、だいたいの見当がつくだろう。では、現代の「黒」が女性美を際だたせるようになったのはいつからなのか。
「マネ展」を見に行って、「ベルト・モリゾ」や「オランピア」を見ながら、19世紀末のパリ・ファッションの「黒」に心を惹かれた。

私は黒いファッションをみごとに着こなしている女性を知っている。

無声映画のスクリーンでは白と黒のコントラストは、早くから強調されていたが、無声映画に登場する女性美を「黒」が強調するようになったのはいつからなのか。
たとえば、第一次大戦の「戦前」の、フランス美術、とくに「サロン」の女性のヌードに、「黒」はほとんど見られない。
これが、劇的に変化したのは――おそらく、フランスの女優、ジョゼット・アンドリオが、全身に薄い黒のシルクをまとって登場した1919年からだった。つまり、第一次大戦の「戦後」、私たちは、はじめて女性のヌードを隠蔽し、しかもエロティシズムを強調するパラドクサルな時代に入った、と見ているのだが。

これからフランス官展、「サロン」の女性ヌードを研究してみようか。

1216

最近、私の書くものは、だいたい昔のことばかりである。
これは、いたしかたのないことだろう。年が年なのだから、現在の時代を理解できなくなっているし、理解できたとしても、その理解はごく浅いものに過ぎないだろう。
それは仕方がない。

たとえば、詩を読む。
ずっと以前は、フランス、イギリス、アメリカの詩人たちのものも読んできた。しかし、外国の雑誌を読まなくなってから、詩の世界にまるで疎遠になってしまった。
いまの私が読むものは、せいぜいポップスの歌詞ぐらいなもので、それも自分の好きな歌手のものに限られている。

たまに、シェイクスピアのソネットを読んだりする。

Or I shall live your Epitaph to make,
Or you survive when I in earth rotten,
From hence your memory death cannot take.
Althou in me each part will be forgotten.

若い頃、こんなことを読んでも、べつに感心もしなかった。へえ、そうなのか。たかだかそんなふうにうけとめただけだったにちがいない。
今の私には、もっと重みのあることばとして迫ってくる。

私がきみより長生きをして、墓碑銘を書くとして、
いや、私が地中に腐っているとき、きみがまだ生きていたとして、
きみの思い出がかき消されることはない
私のことなど、ことごとく忘れ去られるにしても   (大意)

私ごときは、死ねばこの世のすべては終わる。しかし、君の名は永遠に生きつづける。

詩はそうつづくのだが、私(中田 耕治)は、有名人の誰かれの訃を聞くと、この一節をひそかにつぶやく。私はただ墓地の土にうずめられるだけだが、きみは人びとの眼のなかに横たわる。 When you entombed in men’s eyes shall lie.

大急ぎで断っておくが――シェイクスピアは、自分の詩が記念碑になって、「今はまだこの世に生まれていない人が読む。今、生きている人びとが死にたえても、これからこの世に生まれてくる人が(シェイクスピアの)詩を読んで、きみのことを語るだろう」という。私などに、そんなことがいえるはずもない。

シェイクスピアは、自分のペンには、それほどの Virtue がある、という。
ルネサンス人の凄さといっていい。

私は――しばらく前まで、スクリーンで見ることのできた美しいスターたちが亡くなったとき、ふと、この詩の一節をつぶやくだけ。
When you entombed in men’s eyes shall lie.

1215

たくさんの香港ポップスを聞いてきた。
テレサ・テンから、フェイ・ウォンをへて、彭佳慧(ジュリア)まで。

80年代から90年代にかけて、周 慧敏、フェイ・ウォン、陳 慧琳(ケリー・チャン)がトップを切っていたとき、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)は、いつもトップ・グループにいた。これだけでも、たいへんなことだったと見ていい。
黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の声の美しさ、そしてこの時期の香港ポップスのあまやかさ。どう表現すればいいのかわからない。

黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)が、との程度の歌手だったか、これは簡単に説明がつく。

1991年、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)は「我従這裡開始」で、香港の金賞を得ている。
1993年、「一人有一個夢想」で、ヒット曲の金賞。
1994年、10大心情歌手にえらばれて、「金心優異特別賞」を受けている。

おもしろいことに、関 淑怡、王 慧平、那 英たちの世代の歌手たちは、それぞれきわだって個性的でいながら、声や、歌唱法、曲のメロディー、それぞれどこか似ているのだった。
むろん、ある時代に活動した歌手たちが、それぞれの声や、歌唱法において似かよっているとしても、不思議ではないかもしれない。
1930年代の、中国ポップス、たとえば、白光を聞いて、すぐに李 香蘭や、チャン・シュアン、張 露、白 虹を聞けば、それぞれがひどく似ていることに一驚をおぼえるだろう。
だから、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)が、周 慧敏や、陳 慧琳と似ていたとしても、あやしむ必要はない。
私は、「秘密」(1995年)をときどき聴く。
このアルバムに、「一人有一個夢想」(デュエット)がはいっているのだが、この黎瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の歌に、香港返還の直前の哀愁と、不安がかすかに響いているような気がする。

私は、もう誰もアジア・ポップスを聞かなくなってからも、できるだけ聞いてきた。
その私が黎瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の歌を聞かなくなって、もう10年以上たっている。とても残念な気がする。

1214

原稿を書く。
書いている原稿と何の関係もない音楽を聞きながら書く。
ムード作りのようなもので、音楽を聞いていながら、まるで別のことを書いているほうが楽しい。
もっとも自分がよく知っている曲を聞きながら原稿が書けるかどうか。ひきずられてしまうだろう。

いちばんいいのは、中国の二胡の演奏。
たとえば「二泉映月」。誰の演奏でもいいのだが、へんに洋楽ふうにアレンジされた「二泉映月」は聞きたくない。そこで朱 昌燿の演奏を聴く。
二胡の曲には、「空山鳥語」、「聴松」などいろいろ名曲が多いのだが、「漢宮秋月」などを聞きながら、高橋 まり子が贈ってくれた宮古島のお菓子、「ちんすこう」をいただきながら、これも田栗 美奈子が贈ってくれた狭山の新茶をいただく。別世界に遊ぶような気分になる。
二胡の演奏では、日本では、陳明(チェン・ミン)が有名だと思う。NHKで放送した「アジア古都物語」のテーマで知られている。彼女の二胡の演奏もよく聴く。
もうひとり、同名の歌手、広州の歌手、陳明(チェン・ミン)の歌が、私は好きなのである。
こちらの陳明(チェン・ミン)は、私のひそかな評定では、王 菲(フェイ・ウォン)に比肩するほどの歌手なのである。

たとえば、映画のサウンドトラックを聞きながら原稿を書く。ヴァレリー・ルメルシェ監督の映画、「カドリーユ」。

私はこの映画を見ていない。原作はサッシャ・ギトリの戯曲。ヴァレリーは有名な歌手で、映画の監督。

映画を見ていないのだから、音楽を聞いて映画を思い出すこともない。ただ、軽快なムード・ミュージックとして流しているだけ。

ついつい原稿を書くどころではなくなって、ワインを飲みしこる。私の悪癖。

1213

北欧のポップスを聞きはじめたのは、たぶん、80年代の終わり頃からだったと思う。もっとも早く聞いたのは、アンヌ・トウルート・ミキールセンで、彼女の歌にはただひたすら驚嘆した。
ハンナ・ボエルを聞いたのは90年代になってから。
これも偶然のことで、ハンナ・ボエルがどういうシンガーなのか知らなかった。
最初のアルバム、「秘めた焦熱」DARK PASSION を聞いたとき、デンマークの歌手ということさえも知らず、アメリカのポップス、それも叙情的な、やわらかな唱法のシンガーなのかと思っただけだった。
ただ、このハンナが、この年のデンマークの最優秀ヴォーカルという程度のことは知っていたような気がする。

スカンジナヴィア・ポップスにかぎらず、ポップスについての私の知識はいいかげんなもので、そのアルバムのなかに、一曲、二曲、気に入った曲があれば、もう気がすむといったものだった。
この「秘めた焦熱」(DARK PASSION)のなかに、

「メイク・ラヴ・トゥ・ユー」 1 Wanna Make Love To You
「私を欲しいなら……」 If You Want My Body
「ウォーム・アンド・テンダー・ラヴ」 Warm And Tender Love

といった曲があってよろこんで聞いたのだが、ブラック・ミュージックに、叙情的なテイストをくわえたといった感じがどうも私の好みにあわなかった。
曲としては、最後の「クライ・フォー・ミー」だけは、ちょっとブルースふうで、心に残ったが、其れだけの印象だった。

それっきり忘れてしまったのだが、つぎのアルバム、「マイ・キンドレッド・スピリット」を聞いたとき、私は自分の不明に気がついた。
まるで印象が違っていた。

「カム・イントゥ・マイ・ガーデン」 Come Into My Garden
「フォーリング・イン・ラヴ」  Falling In Love
「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」 Time To Say Goodbye

どれを聞いても、前に聞いたハンナ・ボエルとは違っている。このときの私は、つくづく自分の耳が信じられなくなっていた。
ただし、私は、ハンナが、人気、実力、ともにトッブ・シンガーと知って、ハンナに関心をもったわけではない。

0ne by one I’ve watched them fall
Slowly leave then die
Now comes the hardest part of love
When it’s time to say love

そんなことばに心を動かされた。

ハンナ・ボエル、1957年、コペンハーゲン郊外に生まれた。1990年度、ワールド・ミュージック・アワード。

私にとって、忘れられないひとり。

1212

ファドの歌い手といえば、ドゥルス・ポンテスを思い出す。
久しぶりに音楽を聴きはじめたとき、まっさきにドゥルス・ポンテスを聞いた。

ドゥルス・ポンテスの「海の歌」は、ファドの大先輩のアマリア・ロドリゲスが「孤独」という題で歌っている。アマリアの歌には、いたましいほどの孤独感がみなぎっているのだが、ドゥルスの歌には、おなじ孤独でも、なぜか華やいだ、イベリアの女のあまやかな感じがある。

ある日 ファドはうまれた
風が ほとんどなくて
空が 海のつづきのような日
海に出た帆舟の 舟べりで
舟乗りの 胸のなかにうまれた
かなしい 歌をうたいながら

アマリアとドゥルスを比較するわけではない。だからアマリアとドゥルスのどちらがいいなどという問題ではない。ただし、おなじファドでもアマリアとドゥルス、それぞれの芸術家の資質、悲劇性、肉感性、大げさにいえば運命の違いのようなものを感じてしまう。うまくいえないけれど。
ドゥルスでは、「オス・インディオス・ダ・メイア・ペライア」のような明るい歌もいい。この歌を聞いていると、やがて、「エストイ・アキ」のシャキーラが重なってくる。アメリカで大ブレイクする以前の、みずみずしい、まだ無名のシャキーラだが。

いまの私は、アメリカのシャキーラを聞かない。ドゥルスは聴く。

「涙」のなかで、ドゥルスは「あなたがこんなに好き この思いは 絶望」という。

私を絶望させるのは
私の内部の
私を責め さいなむこの罰
あなたが きらいなのよ
私はいいきかせる あなたがきらい と
そして 夜に
あなたの夢を見るのよ 夜には

ドゥルスを聴くと、たちまちドゥルスの歌の華やぎ、あまやかな感じがからみついてくる。私は他人にはいえない、つらすぎる思い出のように、ドゥルスを聴く。ドゥルスを聴くこと、私には悲しみを聴くことなのだ。
「運命のファド」Fado Da Sina のなかで、

逃げられやしないさ
過酷で 暗い 宿命から
おまえの 不吉な 運命からは
邪悪な星が支配しているからさ

と、ドゥルスはいう。

いつかまた、ドゥルスを聞き直すだろう。

注   ドゥルスは「ラグリマス」(東京エムプラス)
シャキーラは「PIES DESCALZOS」(SONY)

1211

孫の運動会を見に行く。
少子化の影響で生徒数が減少しているので、1年生から6年生まで紅白に分かれている。
行事全体が赤組、白組の対抗戦になっているようだった。

競技ごとに若い女先生のアナウンスがある。

「2年生までは、50メートルでしたが、3年生からは80メートル走になります。いちだんと成長した生徒たちの元気な走りをとくとご覧ください!」

そして、生徒たちの競争がはじまった。……

私は、「とくと」スポーツを観戦したことがない。相撲や、野球の解説で、「とくとご覧ください!」という言葉を聞いたこともない。
この女先生は、しきりに「とくとご覧ください」をくり返した。

きっと、何かの機会にこのことばを「とくとご覧」になってそのまま「とくと」おぼえたのだろう。この先生が相撲の解説をなさったら、
「本日、春場所千秋楽、いよいよ白鵬/把瑠都の一線であります。みなさん、とくとご覧ください!」
こんなことをおっしゃるかも。(笑)

NHKのアナウンサーにも――「その一翼を担う」ということばを、「その一翼をカウのは」とヌカしたヤツがいる。(5/15。6:38a,m,)
「ゆとり教育」の世代で日本語もろくに読めないのだろう。

放送前に原稿を「とくとご覧ください」といってやりたくなる。
とくと。入念に。とっくりと。つらつらと。篤とご覧うじろ。

1210

最近まで音楽を聞かなかった。さしたる理由があってのことではないが、しばらく音楽を聞くまいと誓った。むろん、自分から求めて聞くことをしないというだけで、聞こえてくる音楽まで断ったわけではない。

その私が久しぶりでCDを聞いた。

旧ソヴイエトのソプラノ、リューバ・カザルノフスカヤ。

彼女の存在を知ったのは90年代の半ばだった。まだソヴィエト崩壊前のこと。
たった一枚しか出ていないCD、「イタリア・オペラ・アリア集」(メローデイア)を聞いたのだった。
はじめて聞いたときから、私はリューバに魅せられた。私がさわぎまわったので、私の周囲にいたお嬢さんたちも、リューバを聞いてくれた。

その後、ソヴィエト崩壊から、彼女の消息はわからなくなった。私はひそかに心配していたが、その混乱のなかで彼女のCDを探しまわって、やっと、2枚手に入れたのだった。その1枚は、ガーシュインや、アメリカのミュージカルまで入っているもので、ロシアの変貌ぶりがわかったが、カザルノフスカヤの健在を知ることができた。

さらにその後、カザルノフスカヤが来日して、リサイタル形式で『サロメ』全曲を歌った。このコンサートに、青木 悦子、鈴木 彩織、竹迫 仁子たちといっしょに行った。このとき、終幕近く、リューバの声がみだれた。おそらく、旅行の疲労も重なっていたのだろう。
しかし、私は長年関心をもちつづけてきたソプラノを、東京で、実際に聴くことができたよろこびにひたっていた。
その後、リューバ・カザルノフスカヤは世界的な名声を得ている。

私は、人生の途上で、たくさんのすぐれた芸術家に出会うことができた。現実に知り合う機会はまったくなかったが、そういう人々の仕事にいつも鼓舞されて、自分もやっと仕事をしてきたという思いがある。

そして、今、またリューバを聞いてあらためて感動した。
ソヴィエトで、はじめて、たった1枚だけ出せたCDで、リューバのみずみずしい声のすばらしさがいきずいている。こんな1枚をもっている人は、私たち以外にはあまりいないだろう。
リューバを聞いたことから――しばらく封印してきた音楽にふたたび親しむことを自分に許そうと思っている。

1209

私は夏が好き――だった。好きな理由の一つは、女の子の浴衣姿が見られる季節だから。

女たちは、木綿の中形、紗、絽のような、からみ織り、麻の上布などの夏姿にかわる。
ただし、私の好みは、あくまでも浴衣であって、夏御召、薄御召などの女人たちにさして関心はない。

最近、若い女性のあいだで、着物をふだん着として着ている娘さんを見かける。その着物も、それほど高価なものではない。
夏帯にしても、昔なら塩瀬の羽二重、絽がおもだったが、博多や、桐生のように単(ひとえ)帯にみえるものも、じつは中国産の安い生地のものや、リサイクルものの帯という。だから、和服を着るといっても、ふつうのワンピースを買う程度とかわらない。
それならば、ごくふつうの浴衣を着たほうがいい。
日本の女性、とくに浴衣を着ている若い娘の美しさは、いかなる民族の女性美にもおさおさ劣らない。
いや、浴衣姿の日本の女は世界最高の美女なのである。

浴衣といえば、下駄。
塗りゲタ、コマゲタ、日和ゲタ。
ゲタをはいた女の子の素足の美しさに、思わず眼を奪われる。私が久米の仙人だったら、やはり雲間から落ちてしまうかも知れない。

最近、ときどき見かけるジーンズ姿の女の子も、半襟をストールがわりにしたり、帯紐をベルトにしたり。どうやら和のよそおいの見直しが流行しはじめているのか。

1208

食料は肉から魚まで、闇市でなんでも買えたが、その前に金がなかった。
私は7月まで、学生の勤労動員で、川崎の軍需工場で働いていたが、日給は2円だった。(おなじ工場に動員されていた、九州の小学生たちは、日給、1円。)
戦争が終わってすぐにインフレーションが起きたので比較にならないのだが、敗戦直後の父の給料が300円程度だったから、闇市の食べ物が私にとって高価だったことは間違いない。

とにかく飢えていた。
食料といっても、私たちの口に入るものは、ほとんどサツマイモだけだった。戦時中に、食料増産のために「農林1号」、「農林5号」という品種が作られたが、これが、ただ図体ばかり大きくて、水っぼい、まずいものだった。これを五切れぐらいに切ったものが、5円。ミカン、10個で10円。カキ、3個で10円。

オニギリ、3個で10円。大きなセイロで蒸した蒸しパン、1個で5円。

敗戦直後の関西は、台風に教われて、甚大な被害をうけた。戦災で大きな被害をうけた大阪は大洪水にやられる。床上浸水、4万4994戸、床下浸水、1万490戸、被災者は15万9千人あまり。
アメリカ軍が上陸してわずか1週間後のことだったので、関東の私たちは、関西の被害の大きさに気がつかなかった。むろん、気がついたところで、どうしようもなかったのだが。

そして、冬がやってきた。
暖房などあるはずもなかった。そこで、電熱器で暖をとるようになった。ところが、電気の配給が少ないので、すぐにヒューズがとんだ。変圧器が焼けて、たちまち停電する。
敗戦で、電力の制限は解除されたが、実際にはひどい電力不足がつづいた。
さらには水不足、燃料不足という非常事態が重なって、国民の生活に敗戦の重圧がひしひしとのしかかってくる。
電力不足は、翌21年(1946年)になっても好転せず、一日おきに、午前5時から午後5時まで停電といった悲惨な事態になった。こうなると、夜、本を読む時間もかぎられてくる。

昭和22年(1947年)になって、一般家庭には、4日に一度の送電、夜間も夕方から2時間しか電気がつかないような悲惨な毎日がつづく。
銭湯も連日休業で、なかには薪持参でないと入れないという張り紙を出したところもあった。それでも、銭湯には昼間から人々がつめかけて、それこそイモを洗うような騒ぎだった。
カランから出すお湯も、めいめいが持参する洗面器に2杯といった制限をつけられた。入浴もままならない日常なので、どうしても不潔になる。栄養失調のところに、ノミ、シラミ、ダニがひろがって、悪質な疥癬が流行した。かゆみがひどいので、この皮膚病はカイカイムシと呼ばれた。
アメリカ占領軍が、日本人の頭からDDTを散布して、この流行は、ようやく沈静化したが、当時はだれひとり薬害など考えもしなかった。