1266

震災で、私もひそかに覚悟をきめた。
さしあたって身辺の整理をはじめよう。これまでにも、多数の蔵書を整理してきたが、まだ残っている本が多い。書棚におさまりきれずに積みあげてあるのだが、この地震で崩れて散乱した。もっとも、たいして価値のある本はない。
揺れがおさまると、すぐに積み直すのだが、余震のたびに崩れてしまう。

もともと乱雑に積んであったのだから、どこが被害を受けたのかわからない。
本の整理をしていると、書きかけの原稿、ヘタクソなデッサン、いちおう描いた絵などが出てくる。未発表の長編が出てきたが、読み返す気にならない。そのまま焼き捨てた。
田栗 美奈子がお見舞いの電話をくれたので、そのことを話したら、ヒェーッと悲鳴をあげた。
どうせ、くだらない作品だから、焼き捨ててもいい。
そういうと、美奈子ちゃんは、
「そんなことをなさるのなら、私が預かっておきます」
という。
私は笑ってしまった。

今度の震災で、いろいろなものが失われてしまった。罹災者の人々にとっては、かけがえのないものだったに違いない。
それに較べて、私の原稿などは、そもそも存在する意味も価値もないものばかり。別に惜しいものでもない。

今も、本を片づけているうちに、昔、描いた絵のごときものが出てきた。いずれ焼き捨てるつもりだが、ほしい人がいたらさしあげてもいい。いや、誰もこんなものをほしいとは思わないだろう。
仕方がない、焼き捨てるか。

これから、時代は大きく変わるだろう。そうした変化をしっかり見届けたい。
このブログは、社会の片隅にひっそりと生きている老作家のつぶやきにすぎない。ただし、まだまだ見るべきほどのことを見てはいないのだ。

1265

今度の大震災は、さまざまなことを私たちにつきつけている。

福島の原子力発電所(福島県/双葉町、大槌町)の惨憺たる事故で、一号炉、三号炉、続いて二号炉の爆発、あるいは炎上、さらに、高濃度の放射能が漏れ出して、自衛隊のヘリコプター、警視庁の放水車まで動員して、必死に冷却作業がつづけられている。

東電は、はじめ10キロ、すぐに20キロの半径の住民たちの避難を要請したが、避難域はさらに拡大している。
いち早く、アメリカ大使館は東京から疎開したばかりか、自国民に日本国外に退去するよう勧告した。福島県沖に向かった空母、「ロナルド・レーガン」、及びイージス艦をふくむ艦隊も反転し、西太平洋に退去した。
フランスも、大使館員を帰国させている。むろん、ほかの各国も、おなじ行動をとっている。

被災した原発付近の住民の県外避難もはじまって、避難先を転々とする人たちも疲労と不安のいろが濃くなっている。
私は、戦時中の「疎開」を思い出した。

私の知人の中国人女性、張さんも、17日に、家族といっしょに成田から帰国した。私は、千葉駅で会ったが、あわただしい別れだった。千葉駅は、「計画停電」で構内は薄暗くなっている。
もうひとりの女性、路さんも、19日にマレーシアに旅立った。電話をくれたが――何かあってからでは遅い。幼い子どもを少しでも安全な場所に移したい、という。屈託のない、明るい声だった。

私は、刻々と報道される福島の原子力発電所の惨状をつたえるNHKの報道、特に放射能の人体におよぼす危険性は、ほとんどないとするコメンテーターの論理、そして政府の枝野官房長官の発表を見ながら考えた。
何かに似ている。さて、何に似ているのか。

不意に思い出した。戦時中の大本営発表によく似ているなあ。陸軍報道部の松村 秀逸大佐や、海軍報道部の平出 孝雄海軍大佐の発表にそっくりじゃないか。

第2号機のサプレッション・ルームの一部が損傷し、外部に放射性物質が流れ出した(15日午前6時)からあとの対応が遅れた。おなじ時刻に、第4号機が爆発し、さらに9時に火災を起こした。
政府と東電は、ようやく事故対策統合本部を立てた(15日)。

このときの東電側の発表、それを解説したNHKのコメンテーターの顔つきのしらじらしさ。人体に影響のない程度の放射能漏れという。まことしやかに、ウソをついている、ぬけぬけとした顔つきのようすが大本営発表にそっくり。

今度の大震災は、さまざまなことを私たちにつきつけている。

地震被害の拡大、原子力発電所の深刻な事故に乗じて、東京の株式市場での、日経平均株価が、急激に下落し、円高、株価の歴史的な全面安という事態に見舞われている。
閣僚の与謝野某は、このニューズに、ただひとこと、「不見識」といい捨てたが、そんなことをいうほうが不見識なのだ。ハゲタカは、いつも屍肉をねらっている。

戦争は平和の裡にある。天災は、じつは人災にほかならない。
天災は忘れた頃にやってくる。そうではない。天災は私たちが忘れようと、忘れまいと、そんなことにおかまいなしにやってくる。

そして、ガソリン、軽油、灯油の払底。庶民の買いだめ。買いあさり。

日本人は、大正12年の関東大震災から、何度もおなじ行動のパターンをくり返している。やがて、私たちは思い知らされるだろう。
繁栄のなかにこそ、欠乏があるという逆説的な事態を。

1264

3月11日午後3時半。私は外出しようとしていた。
家を出て、ほんの数十メートル歩いたとき、突然、ふらつくような感じがあった。地面がうきあがっている。眩暈を感じたのか。そうではなくて、直覚的に地震だと思った。いつもの震度3程度のものではない。かなり大きな揺れだった。
この揺れがおさまったとき、私はこのまま歩きつづけようかと思ったが、またしても強い揺れを感じた。
これが、東北/関東大震災の最初の印象だった。

家に戻ったとき、たまたま通りかかった車が急停車した。やはり、これまでの地震と違う異常な揺れを感じたのだろう。しばらく運転席にいた人が、ドアを開けて外に出てきた。家の前の電線が大きく波うって揺れている。

それからあと、テレビは、地震速報だけを流しつづけていた。

観測史上、最大規模の地震という。
震源は三陸沖、約10キロ。(マグニチュードは、その後、3回も訂正された。3月12日、最終的には、9.0と修正。このブログを書いているときは、8.8)。東北から関東各地、さらに新潟、長野、富山、石川にかけて。
この地震によって発生した津波が、福島、宮城、岩手の沿岸に襲いかかっている。
私の住んでいる地域でも、「コスモ石油」の製油所のタンクから火が出て、やがて隣接する石油コンビナートの施設に類焼する危険があった。(のちに延焼した。後記)

この日、私の孫が就職して、その研修のため、東京に出かけている。
地震から二時間ばかりたって、その孫から電話があって――首都圏の交通網のほとんどすべてがストップしている、という。当然、本人も帰宅できない。
ほんの十数秒で、電話が切れた。

テレビは地震のニューズだけを流しつづけている。各地の被害状況が断片的に入るだけで、全体の被害状況はまったくわからない。それでも、被害の大きさが刻々とわかってきた。

大きな地震であることにまちがいはない。
(午後七時/記)

深夜、2時に眼がさめた。余震がつづいている。だいたい震度4、または3程度。

3時14分、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報が出た。
これまで試験的に放送されたものを聞いたことはあるが、実際に速報を聞くのははじめてだった。ついにきたか。
このあと10秒ばかりして、地震になった。震源は福島沖。マグニチュード、6.3。

3時59分、こんどは長野、群馬、福島に、緊急地震速報。
長野北部で、震度6強の地震。震源は、中越、深さ10キロ。マグニチュード、6.6。千葉県では震度4。

4時09分、またしても、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報。
こうつづいて速報が出ると――あまり気分はよくない。
これは千葉県では震度4。

私は両親が大正12年の関東大震災を体験している。ふたりとも地震に対してつよい恐怖心をもっていたので、わずかな揺れにもすぐに反応するのだった。それかあらぬか、私も少年時代から地震に対しては敏感になった。
その後、空襲を経験してからは、天災に対してあまり恐怖をおぼえなくなってしまった。

今回の地震も、あまり気にならなかったが――
翌日、田栗美奈子、吉永珠子、立石光子たちが、お見舞いの電話をかけてくれた。これはありがたかったし、うれしかった。

東北/関東大震災は、おそらく現代史の大きなできごとになるだろう。
この地震を契機に、私たちの時代が変わることは予想できる。かつての関東大震災が、私たちの意識、世界観にまで影響したように。

千年に一度の大地震という。

道喪向千歳  道はほろびて千歳になんなんとす

ふと、私の胸にこんな一節がうかんでくる。むろん、ここでいう「道」は、大津波に襲われて壊滅した、三陸の町の道をさすものではない。しかし、その惨状を見て、私たちがおのがじし道がほろび去ったと観じても不自然ではない。
テレビは、つぎつぎに女川、石巻、名取といった町を襲う巨大な津波のおそろしい様相をとらえている。高台に逃れた人々が、潰滅する直前の町にいて逃げまどう姿に声をあげる。
音もなく、無数の家や車を飲み込んで進んでくる巨大で不吉な波の動き。私たちは、叫び声をあげたり、声を失って見ているしかない。
そこにあるのは、まさに超自然的な現象に対する畏怖だろう。私たちの内面には、ことばにならない畏怖と、何かに対する絶望しかない。それは、少したってから嘆きになる、まだ感情とならない怖れなのだ。
人間は、これまでに何度、こういう怖れに見舞われてきたのか。

天変地異を前にして、人間の無力を感じないわけにはいかないのだが――作家は、こうした現実が、さまざまな場合の、まさに不条理な、まるで無秩序な現象の無限のつらなりを、しっかり認識しなければならないだろう。

從古皆有波  いにしえよりみなほろびあり

念之中心焦  これを思えば中心焼きつくす

陶淵明の詩(己酉(きゆう)九月九日)を思いうかべる。私の勝手な解釈だが――昔から、生きとし生けるもの、すべては滅び去ってゆく。そういうことを思えば、自分の胸は焼けただれる。
詩人の思いは、私たちにも親しいだろう。

私は、この事態を第二の敗戦と見ている。

(3月14日 記)

番外

――管理人より――

☆中田耕治先生をご心配されている皆様へ
先生はご無事でお元気にしていらっしゃいますので、ご安心ください。
本コーナーは近日中に更新の予定です。

1263

大学に舞い戻った頃、結婚を考えていた。
在学中に翻訳をはじめた。最初の本が出たら結婚するつもりだった。
月下氷人を内村 直也先生ご夫妻にお願いして、ささやかな結婚式をあげたのだが、このとき司会をつとめてくれたのは遠藤 周作。この式に、数少ない友人として鈴木 八郎、若い友人として常盤 新平が出席してくれた。

結婚してもひどい貧乏だったので新婚旅行どころではなかった。
三ケ月ばかりたって、仙台で、演劇講座のようなものがあって、私は講演を依頼された。このとき、私は妻といっしょに旅行した。これが私の新婚旅行になった。
主催者側に、当時まだ東大在学中の木村 光一がいた。仙台で、私は常盤 新平に再会する。彼はまだ早稲田在学中ではなかったか。
お互いにそれぞれの道に歩み出していた時期であった。

鈴木 八郎は、「フィガロ」に、「とりかぶと」(一幕)、「長い夜の渇き」(一幕)を書く。

彼は私から、しきりに新しいアメリカ文学の話を聞きたがった。たまたま私がミステリーや、新作の戯曲を話題にすると、じつに熱心に聞くのだった。私のほうは、彼から歌舞伎の話や、私の知らない戦前の芝居の話を聞くことが多かった。実際、鈴木 八郎はたいへんなもの知りで、芝居のことになると、知らないことがないくらいだった。

私のところにくるときは、いつも俳句の宗匠のような恰好で、雨の日には、じんじんばしょり、ふところに足袋を隠して、雑巾で足を拭いてから、足袋にはき替えてあがるのだった。
生まれは新潟だが、ことばは、いなせな江戸弁だった。私の母と、よく話があって、少し昔の歌舞伎役者や、芸事の話になると、それこそ玄人はだしだった。
歌右衛門の熱烈なファンで、「黛(まゆずみ)」(一幕/「新劇」1955年4月号)に、そのあたりの機微がうかがえる。

1953年12月、クリスマス・イヴの日、敬愛していた劇作家、加藤 道夫が自殺した。鈴木 八郎は、銀座の街を泣きながら、歩いたという。

私にとっても加藤 道夫の死はつよい衝撃だった。まさか、泣きながら街を歩いたわけではなかったが。

少し脱線するが――現在の私は、加藤 道夫が、クリスマス・イヴの日に死を選んだのは偶然ではないと考えている。じつは、この日はルイ・ジュヴェの誕生日にあたる。ジロドォーにひたすら私淑していた加藤は、当然ながらジュヴェにも絶大な関心をもっていた。私が評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いたのは、いってみれば、加藤 道夫へのレクィエムだったと思っている。
加藤 道夫の死の直後に――当時、友人だった矢代 静一から、加藤が死を選んだ理由を知らされた。矢代は、「俳優座」から「文学座」に移籍したばかりだった。彼自身は伏せているが、矢代にはじめて戯曲を書かせたのは私だった。
加藤が死を選んだ理由を知った私は暗澹たる思いだった。

原 民喜の自殺とともに、加藤の死ほど衝撃的な事件はなかった。

中村 真一郎や、堀田 善衛、原田 義人たち、そして矢代も書かなかったのだから、私も書くつもりはない。

やがて、鈴木 八郎は、私がすすめたミステリーを読んで、たくみに換骨脱胎して、捕物帳仕立ての時代ものを書いた。ひどく達者な書き手だった。
(つづく)

1262

大畑 靖のことから、昔の友人たちのことを思い出した。
すでに鬼籍に移った仲間たちのことを。

たとえば、鈴木 八郎。

1940年(昭和15年)、22歳のとき、内村 直也先生の薫陶を得た。
太平洋戦争で、1943年、アリューシャンのキスカ島に派遣されたが、アッツ島の守備隊が玉砕したあと、キスカを撤退した。
ただし、私たちはお互いの戦争体験をついに語りあったことはない。私はいっさい口にしなかったし、鈴木 八郎も自分の戦争体験を語ったことがない。だから、彼の体験は、鈴木 八郎の文学仲間だった若城 希伊子から聞いた。
はるか後年(1969年)から、キスカ駐留の軍隊生活を小説に書くようになる。「馬と善行章」、「精霊とんぼと軍隊」、「草づたう朝の蛍よ」、「四日間の休暇」など。
しかし、これらの作品はついに未発表のままに終わった。

私が鈴木 八郎に会ったのは、1948年の早春。銀座の小料理屋の二階。
銀座の復興はめざましかったが、築地、八丁堀、京橋界隈は無残な焼け跡が残っていた。食料の不足がつづいて、人心の荒廃が、戦後の不安が色濃く残っていた時期だった。
この席では、お茶の一杯も出なかった。

戦前、継続的に出ていた演劇雑誌、「劇作」が、菅原 卓、内村 直也を中心に復刊をめざしていた頃で、戦後演劇の研究会のような集まりだった。
この席に、劇作家、田中 千禾夫、川口 一郎、小山 祐士、翻訳家の原 千代海がいた。ほかに、「文学座」の芥川 比呂志、慶応の芝居仲間だった梅田 晴夫。
私はいちばん末輩だったが、この集まりで内村 直也先生から鈴木 八郎を紹介されたのだった。鈴木 八郎、32歳。中田 耕治、21歳。

やがて、青山の内村 直也先生の邸宅の一室で、毎月、戯曲研究会が催されて、鈴木 八郎はその集まりの有力なメンバーだった。
この戯曲研究会から、戯曲中心の同人誌「フィガロ」が生まれた。
私は、おもに「近代文学」、「三田文学」に批評を書くようになっていたので、この戯曲研究会には顔を出さなかった。劇作志望でもなかったので、「フィガロ」にも関係しなかった  。

「フィガロ」創刊当時の同人は、鈴木 八郎はじめ、蟻川 茂男(後年、TBSの芸能プロデューサー)<三国 一朗(TVのパーソナリティー)、三寿 満(劇作家)、西島 大、若城 希伊子たちだった。
しばらくして、慶応出身の藤掛 悦需が参加する。劇作家、加藤 道夫、放送作家、梅田 晴夫の仲間だった。

私は、鈴木 八郎とは親しくなったし、内村 直也先生を通じて、西島  大、若城 希伊子を知って、「フィガロ」にイラストを描くようになった。
翌年、1940年(昭和15年)10月、NHKで、内村 直也先生が連続放送劇、「えり子とともに」を書くことになって、私はスタッフ・ライターのひとりに起用された。
ほぼ同時期に、西島 大が、内村先生の口述筆記をするようになっていた。
(あとで知ったのだが、内村先生は、西島 大にフランス語を勉強させるつもりで援助なさっていた。西島は、フランス語のかわりに、もっぱら居酒屋などで勉強していた。)

私は先生から毎月ポケットマネーを頂戴していたが、まるで無能なライターだったから、先生の期待を裏切った。
この時期の私は、才能もなかったし、ろくに勉強もしなかった。だから、大学の英文科に舞い戻ったのだが、講師になっていた加藤 道夫が、私をつかまえて、
「きみ、大学に戻ったんだって?」
と声をかけてくれた。
私は、批評家にもなれず、芝居の世界でも無名のままだった自分を恥じた。

大学に戻ったのは、ほかにすることもなかったし、内村先生から経済的な援助を頂いていたからだった。大学に戻っても、教室にはほとんど出なかった。アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買いあさって、一日に1冊は読みあげることにしていた。大学の教室には出なかったから、英文学の講義もろくに聞かなかった。
大学ではいつも研究室にたむろして、助手になった覚正 定夫(後年の映画評論家、柾木 恭介)、小川 茂久(後年、仏文の教授)、木村 礎(後年、学長になった)たちとダベっていた。だから、先生たちも私は学生ではなく、どこかの科の助手か何かだと思っていたらしい。

私が酒の味を知るようになったのは、まず鈴木 八郎、西島 大、そして、私が学生として大学に戻ったとき、すでに仏文研究室の助手になっていた小川 茂久だった。
戦後すぐに、ある雑誌で西村 孝次にやつつけられたことがある。数年後、大学の研究室でぶらぶらしていた頃、雑談しながら、
「じつは先生にやっつけられたことがあります」
というと、西村 孝次が驚いて、
「きみをやっつけたって?」
「中田 耕治といいます」
西村 孝次は驚いた顔になった。
その後、私は西村 孝次のクラスで少し勉強した。ときどき、神保町の「あくね」で、いっしょに酒を飲んだこともある。そういうときは、西村 孝次を先生などと思わなかったし、西村さんも私をもの書きとして扱ってくれた。おもしろい先生だった。
(つづく)

1261


昨年の歳末、同人雑誌、「時間と空間」が、64号をもって終刊した。

「時間と空間」は、庄司 総一(戦時中に『陳夫人』を書いた作家)の夫人、庄司 野々美、浜田 耕作、いしい さちこ、郡司 勝義といった人びとがいた。
この雑誌、「時間と空間」に、大畑 靖は、毎号、小説を書きつづけてきた。

私は、戦後しばらくして、大畑 靖を知った。
彼も内村 直也先生の教えをうけたひとりだが、私と違って、ラジオドラマから出発したのだった。昭和29年、私は同人雑誌「制作」をはじめた。この同人に、常盤 新平、志摩 隆、若城 希伊子、鈴木 八郎などがいた。

「制作」があえなくつぶれたあと、大畑 靖は「時間と空間」に移って、いらい営々として小説を書きつづけてきた。
創作集に「ミケーネの空青く」(審美社)、「ある目覚めのひと時に」、「夢一つ」(ともに沖積舎)、「パパイヤの丘で」(新風舎)などがある。
おだやかな作風ながら、だいたい私小説が中心で、一作ごとに自分の人生の年輪というか、じっくりと熟成された芳醇な味わい、生きることへの思いの深まりを感じさせる作家だった。私は「時間と空間」に発表された彼の創作は必ず読むようにしていた。
ひとりの作家が年輪を加えながら成長してゆく姿を、二十年にわたって見つづけてきたことになる。寡作ながら、おのれの名利を求めず、ひたすら誠実に、身辺、心境を書きつづけた作家なのである。

大畑 靖は「時間と空間」の終刊号に、「思い出箱」という短編を書いている。
夫人が病いを得て入院したため、主人公が毎日、病院に通って介護につとめている。主人公も高齢のため、往復2時間もかかる通院はつらいのだが、老妻のために、苦労もいとわず介護につとめている。そんな日常を淡々と描いた小品だった。私はこれを読んで感動した。すぐにその読後感を書き送った。

大畑 靖から礼状が届いた。そのなかに、

「時間と空間」は、64号で終刊号を迎えました。よく続いたと思います。私は
さいしょラジオドラマから出発しましたが、文学の本質を教えて下さったのは中
田さんです。
中田さんの才能、ひらめき、情感、そして根底に息づくやさしさ、そのすべてが
私にとっての光であり宝でした。中田さんとの出会いこそ神様が下さったお導き
だと心から感謝しております。

ありがとう、大畑君。

私も、大畑 靖も、おのれの信ずる道をただひたすら歩きつづけてきた。そして、お互いに老いた。そのことに悔いのあろうはずはない。
私こそ、きみと出会えたことを心から感謝している。

1260

 溝口 健二の「楊貴妃」(1955年/大映)が公開された1955年。


八十五マイルの急速で疾走してきたスポーツカー、ポルシェは、瞬間、横合
いから飛出してきた一学生の車を避けることができなかった。轟音。血。ポ
ルシェの主である二十四歳の青年は、車から跳ね出されて……死んだ。
一九九五年九月三十日、ジェイムズ・ディーンが未来を”創る”チャンス
を永久に閉ざしてから、一年が経つ。せっかちで非人情の映画界には決して
短い月日ではない。

映画評論家、荻 昌弘のエッセイから。(「ジェイムズ・ディーン論」)
同時代を生きた若い俳優の死に対する、哀惜、憐れみが感じられる。

石原 慎太郎の『太陽の季節』が発表されたのも、この年。

まだ、作家になっていなかった山川 方夫が、私相手の雑談のなかで、
「『太陽の季節』を読みましたか」
「うん、読んだけど」
「どうでしたか」
「ああいうのが、新しい文学なのかな」
山川 方夫は、当時、「三田文学」の編集をしていた。一方で、「文学共和国」という同人誌に「安南の王子」といった習作を発表しはじめていた。
「石原 慎太郎なんか、たいした才能じゃありませんよ」
彼はいった。

石原 慎太郎を「文学界」に紹介したのは、斉藤 正直だった。このことは、誰も知らない。おそらく、石原 慎太郎も知らないだろう。
斉藤 正直は豊島 与志雄の女婿で、戦時中に「批評」の同人だったが、後年、明治大学の学長になった。


1955年。
私は「俳優座」養成所の講師として戯曲論めいた話をしながら、翻訳をしていた。ひたすら雑文を書きとばし、ラジオドラマを書く、ようするに金が目当ての書きなぐり(ポットボイラー)だった。

常盤 新平の『片隅の人々』に、当時の私の姿が描かれている。
私は倨傲でおろかな文学青年だった。遠く、はるかな時期。

 

 

1259

さしあたって何もすることがない。昔の映画でも見ようか。

昨年、サイレント映画「ベン・ハー」は、リメイクものの「ベン・ハー」しか見られないと書いた(’10.12.10)ところ、このブログを見た池田 陽子さんが、「ベン・ハー/コレクターズ・エディション」というDVDでサイレント映画が見られる、と教えてくれた。「アマゾン」で買えるという。
知らなかった。ありがとう、池田さん。

ところで、私は昔の「ベン・ハー」を見るような気分ではないので、「戦後」の溝口 健二の「楊貴妃」(1955年/大映)を見ることにした。

「絶世の美女・楊貴妃の波瀾万丈の人生を、壮大なスケールで描く悲恋ロマン!」
という。こういう惹句に意味はない。溝口 健二の作品でも、あまり評判にならなかった。つまりは、空虚な作品らしい。

「楊貴妃」は、溝口 健二のはじめてのカラー作品。
この年度の「毎日映画コンクール」で「色彩技術賞」を受けているのだから、当時としては最高のカラー作品だったと思われる。ただし、当時の撮影現場では、フィルムの色彩再現能力、レンズの性能からみて、おそらくたいへんだったと想像できる。京 マチ子の頬が削げて見えるのも、照明の輝度をあげるために、メークも変えたのではないか。この映画が、「日本映画技術賞」の照明賞を受けていることも、おそらくそのあたりにあるのではないだろうか。主演は、京 マチ子、森 雅之。

京 マチ子は、戦時中に、溝口 健二の「団十郎三代」(44年)に出ているので、この監督の演出を体験していた。だから、溝口 健二の映画に出てもそれほど違和感はなかったはずである。
京 マチ子の代表作は――「羅生門」(黒沢 明/50年)だろう。この映画で森雅之と共演しているが――夫と旅をしている途中、山賊(三船 敏郎)に犯される若妻を演じた。これは武士の女房という「役」だったが、眉を剃り落とした女の、能面のような無表情が強烈な印象をあたえた。
「羅生門」のあとも、溝口 健二の「雨月物語」(53年)、衣笠 貞之助の「地獄門」(53年)などのコスチューム・プレイで世界的に知られる。
ほかにも、「鍵」(市川 菎/59年)、「浮草」(小津 安二郎/59年)など、日本映画を代表する女優になっている。

京 マチ子は、その後も谷崎 潤一郎原作の「痴人の愛」あたりで、みごとな肢体を見せているのだが、この映画の京 マチ子は、頬が削げて、「春琴物語」(53年)、「赤線地帯」(56年)ほどの魅力がない。相手の森 雅之も、それほどいい芝居をしていない。

もっと可哀そうなのは、戦前のスターだった霧立 のぼるが、この映画では、ろくに台詞もない端役で出ていること。
新人の南田 洋子が、せいいっぱいがんばっている。(この女優は、昨年、亡くなっている。)                     (つづく)

1258


昨年の夏、飼い猫の「ゲレ」が老衰で死んだ。2010年の私にとっては、つらいできごとの一つになった。

昨年は猛暑がつづいたが、夏になって、ネコは、しきりに私の身辺に寄ってくるようになった。いつもしきりに鳴いて何か訴えるのだが、それがうるさかった。エサが足りないのだろうか。
私がそんなふうにいうと、老妻は、
「エサは、ちゃんとやってありますからね」
といった。

「ゲレ」があまりエサを食べなくなって1年になる。まったく食べないのではなく、ひどく少ししか食べなくなっている。小皿のキャットフードも、せいぜい大さじに1杯程度。それもやっと食べたり、食べ残したり。
食べ残したぶんをあとで食べれはいいのだが、自分の唾液で小皿が濡れるせいか、残ったぶんには口をつけない。

それに、目がよく見えなくなっているのか。目の前にエサが置いてあっても、よわよわしくないている。
ネコも食欲をなくすような酷暑だった。

ときどき、私に寄ってきて、かるく私の手や腕を噛む。私の注意を惹こうという魂胆だろう。何を訴えようとしていたのか。

そんなことがつづいて――ある朝、私が見ている前で倒れた。そのまま、20分ばかりして絶息した。

哀れだった。

16年の生涯だったから、大往生といっていいのだが、私には打撃だった。
たかがネコが死んだ程度のことで落ち込むはずもなかったが、私はそれまで書いていた小説を中断してしまった。

夏の終わり、私は「動物保護センター」という機関に連絡して、コネコをもらってきた。とても綺麗な白いネコだが、まるっきりダネコである。もらってきた当座は、片手の掌に乗るほどの大きさだったが、今はもう、両手で抱きあげると、たちまち噛みついたり、ひっかいたり。
いまや、いたずらざかりのバカネコに変身している。

 

1257

折口先生によれば、「あはれなる」ということばは、善悪を超越して、「心の底から出てくる」ことばなのである。

 

  其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所の、作者を遊離した――言ひ
   かへれば、其性別を超越した、中性の歌と見るべきものが多くなって来た。つま
   り、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐたのである。
   だから、かうした「あはれなる」が、平気に用ゐられたのだ。つまり、特殊な内
   容を持つたぶん学用語であつた訳だ。

私(中田)はこういう部分に感嘆する。まさに、折口先生の卓見にちがいない。「恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐた」というだけのことだが、私などは、一度でいいから、こういうみごとな断言をしてみたいと思う。

折口先生は――俊成卿女の歌の、「心ながい」人の恋の執着を自分のものとして表現しながら、「他人の境涯」を見るように見ている、という。

   自分の心を、あはれと観じているので、いわば、身に沁むやうな感傷を享楽して
   いるのだ。われながら言ひ表されぬ程に思はれるこの心のながさ、と言つた意味
   なのだ。まづ普通と見られる解釈の本筋に叶ふ様に、此語をとけば、さうとる外
   はない。

折口先生の見方では、公経(きんつね)の作のテーマ、「あはれなる心の闇のゆかりとも」には「恋人をあはれと思ふ」と詠んでいるだけのものということになる。

俊成卿女の「心ながい」は――長続きのする心の程が詠まれている。

  いつまでも人(恋人 中田注)を忘れず、捨てず、あはれを続けてゐる事だ。こ
   の場合も、「さ」という語尾によって固定さした処――文法的には、名刺化して
   ――を見ると、自由な抒情的な表現としては、固定してゐる様に見える。だが、
   一種の戯曲味から見れば、咎めることもない。だが、未練とか、執着とか言ふ風
   に訳すべきではない。美化した誇りをもってゐる。

折口先生の注釈は、もう少しつづくのだが、私は、ここまで読んできて、ほんとうに心から感嘆した。ほんとうの批評は、こういうものなのだ。
俊成卿女の歌を「きはまれる幽玄の歌なり」とした批評を、現代の大歌人がみごとに批評している。
この短い注釈は、私がまじめにものを書くとき、そして芝居の演出をするときの目標になった。翻訳するときにさえ、この一節が心のどこかにあった。
わずか一語、「心の長さ」の「さ」について。そして、おのれの書くもののどこかに「一種の戯曲味」をこそ。
そして、恋の未練や、執着よりも、美化した誇りを。

人を愛すること。あるいは、恋すること。

折口先生から離れて、私の内面にもそういう願いがあった。

1256

じつは、俊成卿女の歌には、「新古今」に別の作者の先例があるという。

 

あはれなる心の闇のゆかりとも、見し夜の夢を だれかさだめむ

権中納言 公経(きんつね)の作。
そして、俊成卿女の歌集に、この「あはれなる心ながさのゆくへとも」の歌は出ていないという。
今なら、俊成卿女は盗作問題で攻撃されるだろう。

折口先生はいう。

 

一人が、新しい技巧、詳しく言へば、表現法の異風なものを発表すると同時に、
直に幾多の類型が現れた。其は単に模倣だとか、流行だとか、一言にかたづける
ことの出来ないものだ。つまり、新しい共同発想の出現した訳になるのだ。此事
実は、注意深い学者なら、既に心ついている筈だ。一部分の発想法――即、すが
た――だけの問題ではない。
却て意義は変化してゐても、全体の印象即おもむきが一つだ、と言はれるのだ。

ここから、折口先生は「あはれなる」ということばの検討に入る。

 

あはれなる――こうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる場
合を考えると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思はれ
る。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多少なり
とも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。

 

和歌史を知らないのだが――「あはれなる」という一語にこめられた感性、観念に「多少なりとも小説的な内容を含んでゐる」という意見に心を動かされる。
折口先生にしたがって、「あはれなる」ということばには、感傷どころか、じつは人間の肺腑をつらぬくことばとしてうけとめるべきものと考える。
(つづく)

1255

 人を愛すること。あるいは、恋すること。

ある人の文章を、年に一度は読み返す。
ただし、ごく短い部分だけ。折口 信夫の「難解歌の研究」。
ここで全文そのまま引用したいのだが、そうもいかないので、ごく短い部分、短い説明をつけながら書きとめておく。

    あはれなる心ながさのゆくへとも、見しよのゆめを だれかさだめむ

俊成卿女の歌。

 きはまれる幽玄の歌なり。そのよの密事をば、その人と我とならではしらぬ也
   ただひとり心ながく持ちゐたるをも、人がしらばこそ、ありしちぎりをば、ゆめ
   ともさだめんずれ、と言ひたる心也。

これを、折口先生がさらに解釈なさっている。

  この歌は、このうえもなく幽玄の歌だ。あの夜の(その頃の、という気分も含ま
   れていると見なければならぬ)二人の隠し事は、あの人と自分とを除いては(で
   なくては)他人は知らないのだ。

折口先生はつづけて、

 だから、其後また逢ふ事をこころの底に持って、唯一人こころがはりもせずに
   待ってゐた、この心持ちをも、あの人が知ってくれるとしたら、この当時あった
   関係をば、きれいに諦めて、夢ともかたをつけて了はう、が併し、あの人は忘れ
   てしまつてゐるので、却つてあきらめられぬ、と言うふ風に吹いているものらし
   い。

中田 耕治は考える。この歌は、なぜこのうえもなく幽玄の歌なのだろうか。ふたりだけのみそかごと。つまり、男と女という磁場で、それぞれのいのちの極みを生きたことは、だれも知らない。また、知られてはならないのだ。そして、それをしも、夢と観じることは、恋のはかなさ、というより、恋ほんらいの哀歓ではないか。
(つづく)

1254

このブログは、たまたま心に思いうかんだだけの、よしなしごとを書きとめている。
はじめから、トリヴィアだけをとりあげるつもりだった。

ただし、それだけではどうも芸がない気がしてきた。
そこで――これからは、自分が気に入った写真や、カット、デザイン、その他もろもろ、めずらしいもの、くだらないもの、皆いりごみのまま、ときどきここに出してみようか。
だいたいは説明をつけないままで。
ようするに、私のいたずら、あるいはダスト・ボックスと思っていただけるとありがたい。

なぜ、そんなことを考えたのか。
最近になって――自分がほんとうに考え続けてきたこと、心から敬愛してきた人びとのことを、これまでほとんど書かなかった――ような気がしてきた。

たとえば、スタンダール。たとえば、ボードレール。たとえば、たとえば……とつづくなかに、ヴァージニア・ウルフ、アナイス・ニン、さらにアーシュラ・ヒージ。そのほかにも無数の魂がつながっている。……
こうした人びとのことは、やはり、かんたんには書けなかったせいもある。

 

Such subjects are like love. It should be entered into with abandone or not at all.

 

さて、私のいたずらだが、今回は――昔の雑誌に掲載されたマリリン・モンローの記事を。
ごくありふれたピンナップ。(トルー・ストーリー/1953年12月号)である。
よく見れば、おもしろいことに気がつく。

ヒルデガード・ジョンスンというサインの入った「3D時代のピンナップ・ガールズ」(3ーD PINUP GIRLS)という記事のトップ。

立体映画とワイド・スクリーンの時代になってから、ハリウッドにはさまざま
の異変がおこった。とにかく、3D、シネマスコープ・シネラマと、つい二、三
年前までは名前を聞かなかったことばがどこへ行っても聞かれるようになり、
カメラもライトも、演出のテクニックも変わってきた。ポラロイド眼鏡など
という、夢にも考えていなかったアクセサリーもあらわれた。

この記事は――立体映画には立体映画に向いた肉体が必要なのだ、というテーゼから、いままで美しい肉体で売っていた女優はどうなるか、そのあたりにふれている。
「ハリウッドはじまって以来の異変といっていいかもしれない」という。

2010年、「アバター」、「不思議の国のアリス」などの登場から、ハリウッドに3D時代が到来したといわれているが、じつは、今から60年も前に、立体映画が実現しているのだった。これが、一つ。

おそらく、みなさんもすでに確信していることと思うが、マリリンはまさに
立体映画むきの女優である。しかも、マリリンはこの一年間にあの有名なお
尻のまわりを一インチ大きくしている。

ヒルデガードさんの予想と違って、この時期、立体映画は「ハリウッドはじまって以来の異変」にはならなかったし、「マリリンが立体映画むきの女優」ではなかった。
今だって、立体映画には立体映画に向いた肉体が必要なのだ、ということはないだろう。私たちは、もっと別のことを考えたほうがいい。
メジャーの没落と、9.11、そしてリーマン・ショック以後の世界的な経済不況のまっただなかに立体映画が登場したことこそ「ハリウッドはじまって以来の異変といっていいかもしれない」のではないか。

昔のトリヴィアを見つけていろいろとアホなことを考える私は、やっぱりアホの変人なのである。(笑)

 

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1253

1278の母、中田 宇免(うめ)は、昭和51年2月8日に亡くなっている。享年、68歳であった。

父の昌夫が亡くなったあと、母は私の住んでいる千葉に移った。私の家から歩いて十分足らずのアパートでひとり暮らしをするようになった。空地を庭にして、いろいろな植物を育てるのが趣味になったし、すぐ近くに大きな病院があるので、急病の際にも安心だった。
この冬の寒さのせいか、ときどき、心臓発作を起すようになった。
この8日の深夜、母から電話で、また発作を起した、と知らせてきた。私はすぐに駆けつけたが、母のようすを見ただけで、今回の発作はただごとではないと思った。
すぐに救急車を手配したが、すぐ近くの国立病院の担当医は、自分たちでは対応できないと判断した。
消防署員はつぎつぎに別の病院に連絡したが、深夜だったためか、どこの病院も急患の受入れを拒否した。やっと一つ、労災病院の許可がとれて、救急車はそちらに向った。

 

私は母につききりで、救急車の中にいたのだが、消灯のために母の顔はやっと見わけられる程度だった。母は苦しんでいた。
私は母の手を握りしめながら、
「お母さん、お母さん」

と必死に呼びかけていた。

ふと母が眼を開いて、じっと私を見ていたが、つぶやくように、
「ここはどこ?」
と訊いた。
それが最後のことばだった。

労災病院に到着したとき、すでに母は死亡していた。

母の死によって、私は大きな打撃をうけた。母は、私の日常にかかわりをもつ存在というより、私の内部にある何か永遠なるものだった。

私がルイ・ジュヴェの評伝を書いた動機の一つは――私の母が、ジュヴェの熱心なファンだったからである。

もう一つ。
私が、百年も前のアメリカの無名作家の作品を訳したのは、ヒロインの名が「お梅さん」だったことによる。
ほとんど知られていないこの女流作家の作品を、ヨネ・ノグチが読み、永井荷風が読んだというだけの理由で翻訳を思いたったのだが、このヒロイン、「お梅さん」に、どこか、宇免に近いものを感じたせいでもあった。

1252

時代ものの作家では、長谷川 伸を尊敬している。

こんなことばを見つけた。(出典は忘れたが、長谷川 伸のことば)。

 

この歳になってよくある話。……ああ、あれを聞いておけばよかった。それが
長丁場でなく、たった一言、別れてしまってから、あとを振り返ってみても、
もう相手はいない。しまった、と思ってみてももう遅い。

私なども、この歳になるまでに、「しまった、と思ってみてももう遅い」という思いをくり返してきた。

長谷川 伸の随筆集に『我が「足許提灯」の記』(昭和38年刊)がある。短い文章ばかり集めたものだが、内容はおもしろいものばかり。

九代目、団十郎は、芸は教えるものではなく、覚えるものだ、という信条をもっていたという。
いっしょに舞台に出ている役者にいけないところがあると、叱る。それで直らないと、また叱る。それでも直らないと、またまた叱る。
それでも直らないと、もう、そばから追いはらってしまう。

五代目、菊五郎は、芸は教えることで上達する、と信じていたという。

私は、むろん、九代目、団十郎も、五代目、菊五郎も見たことがない。ただ、長谷川 伸の随筆を読んでいて、五代目、菊五郎が、「芸は教えることで上達する」といったのは、教えた弟子の芸が上達するというだけではないような気がした。
このことばの真意は――大名題ほどの役者なら、教える相手の芸が上達するようにしむける。これは当然だが――じつは、そのことで自分の芸も上達すると考えていたのではないか。

長谷川 伸を読む。いろいろと教えられるので、ありがたい。

1251

湯浅 真沙子という歌人の出自、境遇については何も知らない。
戦後しばらくして、最愛の夫と死別したらしい。真沙子自身も病いに倒れる。あまりにも不幸な女性だった。

   何ゆえにああ何ゆえにわが夫は われを見すてて此世去りにし

戦後の混乱のなかで、夫と死別した女の境遇を思えば、憐れとしかいいようがない。おそらくは肺結核の身で、ダンサーとという職業を選んだことも不幸だった。

    わが涙 乾くひまなし 長椅子のかげのスタンドにレコードきくとき

    所詮われただ浮草のかなしさよ 戀もなし情欲もなし ただに悲しむ

    かへりきて踊衣裳のさみしくもかかれる壁みて 涙ながるる

    うつ蝉のこの世か 食ふにも事欠きて 日々を苦しくただ生くる吾

    今日は今日 あすは明日 ただそれでよし ゼロの生活

その歌に、嘆き、涙、素朴なニヒリズム、孤独感などの暗い倍音(オーヴァートーン)が響いている。そして、最後に詠んだ一首。

    われひとを怨まじ世を怨まじ これがさだめとおもふこのごろ

これが辞世だったらしい。すべてを「さだめ」と観じて、真沙子は消えた。薄幸の女歌人であった。

湯浅 真沙子の遺稿、『秘帳』が出版された年、高群 逸枝は、

   わが家の杉の梢にあかねさし 革命の世紀あけそめにけり

という歌を詠む。
こんな空疎な歌よりも、いまの私は湯浅 真沙子の諦念に心を動かされる。

1250

私たちは、短歌に出会ったすぐれた女たちを知っている。
樋口 一葉、菅野 スガ、梨本 伊都子、生田 花世、そのほか多数の女たち。湯浅真沙子もそのひとり。
『秘帳』は、赤裸々に女の性を歌ったとして注目されたが、長い歳月を経た今となっては、庶民の女として、素直に女の性のよろこびを見つめた歌人として評価すればよい。

 

緋ちりめんの腰巻前を乱しつつ 淫らのさまを鏡にうつす

淫欲の果なき吾のこのおもひ かなへたまふひと 君よりぞなき

二十分かかりてもまだ技(わざ)終へぬ甘き心地にひたるこのごろ

灯を消して二人抱くとき わが手もて握る たまくき太く逞し

眼つむりて 君たはむれの手に堪えず 思はず握る 太しきものよ

これを露骨な性描写と見るだろうか。
くり返していう。メディアで、セックスが堂々と書きたてられる時代とは、およそ遠いエロティシズムの世界ではないか。
やがて、湯浅 真沙子はレズビアニズムの経験に眼を向ける。これは、結婚前の回想ともうけとれるのだが――ターキー(水之江 滝子)、川路 龍子といったスターたちのファンだったらしい――同性愛の経験から、あらたな世界が展開したと思われる。

 

かの子おもへば堪えがたき夜あり わが肌狂ふ血汐に燃えたちにけり

かの子おもへばひしといだきてその肌(はだへ)合わせてみたし乳房と乳房も

こころもち涙ぐみたる瞳もて わが肩に倚るをひしと抱きにし

よりそひて抱けばふるる乳なでて赤らむ顔を なつかしく見る

この女流歌人の歌には、そのときに生きたすがたが塗りこめられている。その歌の背後に秘められた思いは、おのがじし時代とまっこうから対峙する。そうした思いは、熱く、重い。

湯浅 真沙子とほぼ同時代に、石牟礼 道子は、

それより先はふれたくなきこと夫もわれも意識にありてついに黙しつ

と歌う。(昭和26年)

湯浅 真沙子の歌には、こうした苦悩、沈黙はない。だからといって、石牟礼 道子に劣っているということにはならない。
(つづく)

1249

湯浅 真沙子の歌は、まぎれもなく「戦後」の混乱と、庶民の貧しい生活から生まれたものである。彼女の歌は、当時の左翼の「歌声よ よみがえれ」などとは、まったく無縁だった。彼女は、戦後の混乱のなかで、めぐりあった夫を愛し、はじめて知った性愛を深めてゆく。
彼女の歌には、女としてのよろこびがあふれている。まだ、ロレンスも、ヘンリー・ミラーも、ましてサドが、裁判にかけられることなど想像もしなかった時代であった。オーガズムということばさえ知られていなかった時代に自然に女のセックスを歌いあげた。そのことに、彼女の短歌の存在理由、価値がある。
歌人にとって、性愛はどういうものだったか。

    いかにせん かのたまゆらは 髪みだし 狂ひて 君の頬をば噛みにし

    こころよく死ぬるここちのつづくとき 吾は知らじな泣きてありしと

    朝あけに君なつかしむ わが床に乱れて散りし 桜紙かな

    旅の宿に隣りにきこゆ もの音に 吾らほほえみ抱き合ふ床

    五月野の晴れたるごとき爽やかさ 情欲(おもひ)充たせしあとの疲れに

ここに歌われているのは、ひたすらな性のよろこび、オーガスミックな発見といったものではない。平凡な主婦のごくつつましい官能のめざめ、性に対する好奇心、その充足の感動というべきだろう。

戦後に、中城 ふみ子、葛原 妙子、大西 民子、河野 愛子、河野 裕子、鳥海 昭子、浅野 美恵子など、多彩な女流歌人が登場したが、湯浅 真沙子は、こうした歌人たちとは無縁で、文学的に、その作歌のレベルにおいて比肩できるような歌人ではない。
しかし、名もなき庶民の女として、おめず臆せず、女の性のよろこびを見つめた。そういう歌人だったことを記憶すべきだろう。

たった1冊の遺作歌集、『秘帳』は、いみじくも短歌による私小説であった。
(つづく)

1248

戦後すぐに、ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』がベストセラーになった。性の解放は社会的な現象になる。おびただしいカストリ雑誌が氾濫する。解禁された性、エロティシズムに対する関心が、戦後の気分の大きな流れになった。戦時中きびしく抑圧され、禁圧されてきた「性」が、戦後、あからさまに表現されるようになった。(『完全なる結婚』の初版は、1946年11月)。

5年後(昭和26年/1951年)、湯浅 真沙子の歌集、『秘帳』が出版され、もうひとりの女性歌人、中城 ふみ子の『乳房喪失』とともに注目される。
さらに5年後(昭和31年)、別の出版社から再刊されたが、このときはもはやほとんど話題にならなかった。戦後のエロティシズムは、『秘帳』のレベルをはるかに越えたものになったからだろう。
私自身は、昭和26年にも、昭和31年以後にも、この歌集、『秘帳』を読まなかった。ただ、関心がなかった。

現在、「文学講座」というかたちで、さまざまな分野の作品を読み直しているのだが、たまたまこの歌集を読んだ。

詩人の川路 柳虹が序文を書いている。

この歌集は女性みづからの肉体的欲情を露はに歌ったといふ点で、一寸類がないものかと思ふ。いはば暴露的表現で、中には露骨だけで歌としては拙劣なものがあると思うが、大胆率直といふ点と、自ら臆せず性欲と肉体愛を歌ふことの正義感をもつてゐるような点で、一つのドキューメントとしても男性の歌にさへかつて無かったものである。

なるほど、戦後すぐに「女性みづからの肉体的欲情を露はに歌った」ものと見ていいが、短歌として、さほどすぐれた歌集ではない。作者には「性欲と肉体愛を歌ふことの正義感」といった気負いはないだろう。全体に「大胆率直」というより、戦後の女性が素直に「性欲と肉体愛を」歌ったものと私は見る。
この歌集が注目に値するのは、ごく普通の女性が自分の境涯を見つめながら、性生活の自然な感動を歌ったことにある。

歌集『秘帳』は新婚のよろこびを詠んだ歌からはじまる。

 

    おとめの日おもひいでては夢のやう わが肉体を流す湯の水

    処女膜はすでに手淫にやぶられてありしか 痛みそれとおぼえず

    愛情のきわまりつひに肉体のまじはりとなる戀ぞうつくし

    片時もそばにあらでは休まらぬ この心知るひとは君のみ

    おもはずも声立ててける吾が口を 手もて蓋ふ 君憎らしき

    色情狂と人のいふらし 狂ふまでの愛あらば いかに嬉しからまし

 

『秘帳』にはまったく露骨な表現はない。「戦後」、この程度の表現が世間の耳目を聳動させたのか。
「愛情のきわまりつひに肉体のまじはりとなる戀」が、「戦後」のあらたな希望だった。比較のためにあげておくが、現在の日本では――あるアンケート調査によれば、セックスレスでもかまわないと答えた男性が37.8パーセント。女性は、37.2パーセント。
セックスレスのほうがいいという回答は、男性で5.9パーセント。女性は、21.5パーセント。

湯浅 真沙子が、現在のような、セックスレス、「草食系」、あるいは、雑誌、週刊誌などのセックスの特集記事を見たらどんな歌を詠んだろうか。
つい、くだらないことまで連想してしまった。     (つづく)