3月11日午後3時半。私は外出しようとしていた。
家を出て、ほんの数十メートル歩いたとき、突然、ふらつくような感じがあった。地面がうきあがっている。眩暈を感じたのか。そうではなくて、直覚的に地震だと思った。いつもの震度3程度のものではない。かなり大きな揺れだった。
この揺れがおさまったとき、私はこのまま歩きつづけようかと思ったが、またしても強い揺れを感じた。
これが、東北/関東大震災の最初の印象だった。
家に戻ったとき、たまたま通りかかった車が急停車した。やはり、これまでの地震と違う異常な揺れを感じたのだろう。しばらく運転席にいた人が、ドアを開けて外に出てきた。家の前の電線が大きく波うって揺れている。
それからあと、テレビは、地震速報だけを流しつづけていた。
観測史上、最大規模の地震という。
震源は三陸沖、約10キロ。(マグニチュードは、その後、3回も訂正された。3月12日、最終的には、9.0と修正。このブログを書いているときは、8.8)。東北から関東各地、さらに新潟、長野、富山、石川にかけて。
この地震によって発生した津波が、福島、宮城、岩手の沿岸に襲いかかっている。
私の住んでいる地域でも、「コスモ石油」の製油所のタンクから火が出て、やがて隣接する石油コンビナートの施設に類焼する危険があった。(のちに延焼した。後記)
この日、私の孫が就職して、その研修のため、東京に出かけている。
地震から二時間ばかりたって、その孫から電話があって――首都圏の交通網のほとんどすべてがストップしている、という。当然、本人も帰宅できない。
ほんの十数秒で、電話が切れた。
テレビは地震のニューズだけを流しつづけている。各地の被害状況が断片的に入るだけで、全体の被害状況はまったくわからない。それでも、被害の大きさが刻々とわかってきた。
大きな地震であることにまちがいはない。
(午後七時/記)
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深夜、2時に眼がさめた。余震がつづいている。だいたい震度4、または3程度。
3時14分、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報が出た。
これまで試験的に放送されたものを聞いたことはあるが、実際に速報を聞くのははじめてだった。ついにきたか。
このあと10秒ばかりして、地震になった。震源は福島沖。マグニチュード、6.3。
3時59分、こんどは長野、群馬、福島に、緊急地震速報。
長野北部で、震度6強の地震。震源は、中越、深さ10キロ。マグニチュード、6.6。千葉県では震度4。
4時09分、またしても、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報。
こうつづいて速報が出ると――あまり気分はよくない。
これは千葉県では震度4。
私は両親が大正12年の関東大震災を体験している。ふたりとも地震に対してつよい恐怖心をもっていたので、わずかな揺れにもすぐに反応するのだった。それかあらぬか、私も少年時代から地震に対しては敏感になった。
その後、空襲を経験してからは、天災に対してあまり恐怖をおぼえなくなってしまった。
今回の地震も、あまり気にならなかったが――
翌日、田栗美奈子、吉永珠子、立石光子たちが、お見舞いの電話をかけてくれた。これはありがたかったし、うれしかった。
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東北/関東大震災は、おそらく現代史の大きなできごとになるだろう。
この地震を契機に、私たちの時代が変わることは予想できる。かつての関東大震災が、私たちの意識、世界観にまで影響したように。
千年に一度の大地震という。
道喪向千歳 道はほろびて千歳になんなんとす
ふと、私の胸にこんな一節がうかんでくる。むろん、ここでいう「道」は、大津波に襲われて壊滅した、三陸の町の道をさすものではない。しかし、その惨状を見て、私たちがおのがじし道がほろび去ったと観じても不自然ではない。
テレビは、つぎつぎに女川、石巻、名取といった町を襲う巨大な津波のおそろしい様相をとらえている。高台に逃れた人々が、潰滅する直前の町にいて逃げまどう姿に声をあげる。
音もなく、無数の家や車を飲み込んで進んでくる巨大で不吉な波の動き。私たちは、叫び声をあげたり、声を失って見ているしかない。
そこにあるのは、まさに超自然的な現象に対する畏怖だろう。私たちの内面には、ことばにならない畏怖と、何かに対する絶望しかない。それは、少したってから嘆きになる、まだ感情とならない怖れなのだ。
人間は、これまでに何度、こういう怖れに見舞われてきたのか。
天変地異を前にして、人間の無力を感じないわけにはいかないのだが――作家は、こうした現実が、さまざまな場合の、まさに不条理な、まるで無秩序な現象の無限のつらなりを、しっかり認識しなければならないだろう。
從古皆有波 いにしえよりみなほろびあり
念之中心焦 これを思えば中心焼きつくす
陶淵明の詩(己酉(きゆう)九月九日)を思いうかべる。私の勝手な解釈だが――昔から、生きとし生けるもの、すべては滅び去ってゆく。そういうことを思えば、自分の胸は焼けただれる。
詩人の思いは、私たちにも親しいだろう。
私は、この事態を第二の敗戦と見ている。
(3月14日 記)