1432

No one ever learned literature from a textbook.
I have never taken a course in writing.
I learned to write naturally and on my own.
I did not succeed by accident;I succeeded by patient hard works.
Verbal dexterity does not ma kes a good book.

 

文学を教科書からまなんだものは一人もいない。
私は書くために(大学の創作科のような)授業を受けたことは一度もない。
ひとりでに書くことを身につけ、独力で書いてきた。
偶然に成功したのではない。忍耐づよい、くるしい仕事のおかげで成功したのだ。
ことばの器用さだけでは、いい本はできない。

 

誰でも経験することだが、色々な本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うような言葉を発見することがある。
そういうことばは――たとえ、そのことばを読んだ本を忘れてしまっても――そのことば自体は、心に残るだろう。

私はヘミングウェイのようなえらい作家ではない。文学部で勉強してきたが、アメリカの大学の創作科のようなコースもなかったし、有名な作家たちの講義もいろいろと受けたが、創作の授業を受けたことは一度もない。
自分で、いろいろと書きつづけているうちに、なんとなく書くことを身につけたのだから、やはり独力で書いてきたといっていい。

私は作家として、まあ、無名作家に近いマイナーな存在にすぎない。そのことを恥じる必要はない。
ただ、しがないもの書きとして、それなりに「忍耐づよく、くるしい仕事」をつづけてきた。
私はいつも考えつづけてきたのだ。なぜ、ある人は才能に恵まれているのに、ある人は才能に恵まれないのか。

「忍耐づよく、くるしい仕事」をつづけることも才能の一つ。それは間違いない。
ただし、今年のように猛暑がつづくと、「忍耐づよく、くるしい仕事」なんかとても続けられない。
だけどさ、ヘミングウェイさん、あんただって猛暑の中で「アフリカの緑の丘」を書いたわけではないよね。地球の異常気象を知らなかったパパがうらやましいよ、まったく。

1345

明けましておめでとうございます。

大地震、津波、福島の原発事故、そして被災したひとびとのことを考えると、この「コージートーク」のようなくだらない閑文字を並べるのは申し訳ない気がする。

それでも、とにかく、新玉の年。

 初あかり これから何を書こうかな

これでは俳句にならねえか。ならば、季としては二月だが、

 初午に 子供あそばす 狐かな   丈草

さすがにいい句だね。それでは、もう一句。

 花の世を 無官の狐 なきにけり   一茶

これも、季としてはあわないが。

あらたまの年にあたって、今年は何を書こうかとぼんやり考える。

 

 

1344

 2011年、最後の挨拶。

 2011年3月11日。
 宮城県沖、約130キロの海底を震源とする巨大な地震が発生した。マグニチュード、9.0。千年に一度の大地震という。震度、7。
 遠く離れた千葉に住む私の部屋でも、棚の本が落ちたり、その上にテレビがころがったり、色々なものが散乱した。

 そして、岩手、宮城、福島の太平洋沿岸を中心に、波高が10メートルを越す巨大な津波が襲いかかった。この津波は、三県の市町村に壊滅的な被害をおよぼした。死者、行方不明、あわせて2万という悲劇をもたらした。

 さらなる恐怖はその直後にやってきた。
 巨大津波は、東京電力の福島第一原子力発電所に襲いかかり、原子炉が破損し、いわゆるメルトダウンがおきて、たいへんな量の放射能が飛散した。
 その後の、東京電力、および、菅 直人を首相とする内閣の判断の誤り、対応の遅れ、ことごとく杜撰、遺漏ばかりだったため、私たちの現在の悲惨に至っている。

 12月22日に発表された「事故調査・検証委員会」の中間報告に、私たちは、戦慄をおぼえた。

 事故当日、政府首脳は、菅 直人をはじめ、主要閣僚は、官邸5階の執務室にいた。
 大震災発生後に、官邸地下の「危機管理センター」に、各省庁の幹部による緊急グループが参集していた。
 ところが、「内閣」は、5階にいた一部の省庁の幹部の意見(むろん、電力、原子力の専門家ではない連中)や、「東電」の情報、意見だけを参考にして、この事故の対応の決定がなされた。

 そして、官邸5階の「内閣」は、放射能拡散予測システム「SPEEDI」が存在することさえ、知らなかったという。このシステム「SPEEDI」のデータがあれば、被災地の住民の避難は、もっと適切にできたという。

 「SPEEDI」がうまく働かなかった理由は――「文部科学省」と「原子力安全委員会」の間で、どちらに責任の所在があるのか不明だったせいという。
 しかも、官邸5階に「文部科学省」の幹部がいなかった。

 ようするに、大震災発生後の「内閣」は官邸地下の「危機管理センター」にほとんど何も連絡しなかったということになる。

 これが、もし、東京でおなじ規模の大地震が起きたら、どうするのか。
 地上5階のエレベーターは運転を停止するかも知れない。あるいは、ビルが倒壊すれば、地下の「危機管理センター」も機能しなくなるかも知れない。

 もっとおそろしい事態も「想定」しておくべきである。

 某国に内乱が起きて、指導層が国民の眼をそらせるために、ミサイルを発射したら、どうなるか。

 私は、2011 年の最大の教訓は、「事故調査・検証委員会」の中間報告にあると思う。
 この中には、日本人とは何かという問いと、私たちが読み解く必要のある情報がいっぱい出ている。

 それではみなさん、よい御年を。

1343

この師走、ずっと続けてきた「文学講座」を終了した。
私にとっては、この最終講義が、生涯最後のパーフォーマンスということになる。さすがに出席者も多く、私としてはうれしいかぎりだった。

最終講義でも話したことだが――私がやっと30代になったばかりの頃、先輩の批評家、福田 恆存に、 「中田君、きみ、文学史の書き換えをやってみたら?」
といわれた。
当時の私に、そんな大それた仕事が出来るはずもなく、そのときから数十年もたってから、「文学講座」というかたちで、私なりに文学史の整理をやってみようと思いたったのだった。私としては力をそそいだつもりだが、結果としては、自分が思い描いたことの半分も語ることが出来ずに終わってしまった。
それでも、福田 恆存に対する感謝を忘れてはいない。

私は、毎回、特定の作家をとりあげて、明治初年の頃から、現代の三島 由紀夫、安部 公房あたりまで、いわば文学史の見直しといったレクチュアをおこなった。残念ながら、戦後の、植草 甚一、飯島 正、荻 昌弘などの映画批評家をとりあげたところで、思わぬ事故を起こしたため、一年近く「講座」を中断した。
そして、ついに今回の最終講義という次第になった。

私の講義は、まったくの偏見、独断にみちたもので、たとえば、志賀 直哉、武者小路 実篤に一顧も与えず、長与 善郎、中 勘助をとりあげる。横光 利一の「上海」をみとめず、村松 梢風の「上海」を昭和期の傑作とする。
おなじように、宮本 百合子よりも、中本 たか子、矢田 津世子、尾崎 翠を論じ、中野 重治は敬遠して、葉山 嘉樹、高見 順をとりあげ、一方で小栗 虫太郎、山本 周五郎を論じるという破格のものになった。
戦時中の「狂気」や「いやだよ重労働」といった連中にもふれた。(笑)

最終講義は、特別なテーマもきめない、まことに気楽なものだった。

このあと、近くのレストランで、ささやかな送別会のような宴をもったが、これも楽しい集まりになった。
私の「文学講座」を企画し、最後までささえつづけてくれた安東 つとむ、真喜志 順子夫妻、そして、田栗 美奈子のみなさんにあらためて感謝している。

じつは、今年の私は、初夏に、おなじようにささやかな集まりをもった。
このときも、私の親しい友人たちが、遠足のようなお散歩のために集まってくれたのだが、この「遠足」の趣旨は、ある石碑を皆さんに見ていただくことが目的だった。

私の墓に案内したのだった。この墓地に、小さな石碑が建てられて、

たまゆらの いのちのきわみ ゆめのごと
季節(とき)のながれと 花のうつろい

私のつたない偈のごときものが刻まれている。これでおわかりいただけたはずだが、これは私の生前葬のつもりであった。
この夏、私の墓に詣でてくれたなかには、師走、あらためて私の最終講義に出てくれた人も多い。私としては、その一人ひとりにあらためて感謝している。

私のクラスで、勉強をつづけてきた人ばかりだった。その人々と、私はふたたび会うことはないだろう。だが、きみたちと出会ったことが、私の人生をかたち作ったと思っている。
あらためて、みなさん一人ひとりに心から感謝したい。

 

 

1342

この師走、ずっと続けてきた「文学講座」を終了した。
私にとっては、この最終講義が、生涯最後のパーフォーマンスということになる。さすがに出席者も多く、私としてはうれしいかぎりだった。

最終講義でも話したことだが――私がやっと30代になったばかりの頃、先輩の批評家、福田 恆存に、 「中田君、きみ、文学史の書き換えをやってみたら?」
といわれた。
当時の私に、そんな大それた仕事が出来るはずもなく、そのときから数十年もたってから、「文学講座」というかたちで、私なりに文学史の整理をやってみようと思いたったのだった。私としては力をそそいだつもりだが、結果としては、自分が思い描いたことの半分も語ることが出来ずに終わってしまった。
それでも、福田 恆存に対する感謝を忘れてはいない。

私は、毎回、特定の作家をとりあげて、明治初年の頃から、現代の三島 由紀夫、安部 公房あたりまで、いわば文学史の見直しといったレクチュアをおこなった。残念ながら、戦後の、植草 甚一、飯島 正、荻 昌弘などの映画批評家をとりあげたところで、思わぬ事故を起こしたため、一年近く「講座」を中断した。
そして、ついに今回の最終講義という次第になった。

私の講義は、まったくの偏見、独断にみちたもので、たとえば、志賀 直哉、武者小路 実篤に一顧も与えず、長与 善郎、中 勘助をとりあげる。横光 利一の「上海」をみとめず、村松 梢風の「上海」を昭和期の傑作とする。
おなじように、宮本 百合子よりも、中本 たか子、矢田 津世子、尾崎 翠を論じ、中野 重治は敬遠して、葉山 嘉樹、高見 順をとりあげ、一方で小栗 虫太郎、山本 周五郎を論じるという破格のものになった。
戦時中の「狂気」や「いやだよ重労働」といった連中にもふれた。(笑)

最終講義は、特別なテーマもきめない、まことに気楽なものだった。

このあと、近くのレストランで、ささやかな送別会のような宴をもったが、これも楽しい集まりになった。
私の「文学講座」を企画し、最後までささえつづけてくれた安東 つとむ、真喜志 順子夫妻、そして、田栗 美奈子のみなさんにあらためて感謝している。

じつは、今年の私は、初夏に、おなじようにささやかな集まりをもった。
このときも、私の親しい友人たちが、遠足のようなお散歩のために集まってくれたのだが、この「遠足」の趣旨は、ある石碑を皆さんに見ていただくことが目的だった。

私の墓に案内したのだった。この墓地に、小さな石碑が建てられて、

たまゆらの いのちのきわみ ゆめのごと
季節(とき)のながれと 花のうつろい

私のつたない偈のごときものが刻まれている。これでおわかりいただけたはずだが、これは私の生前葬のつもりであった。
この夏、私の墓に詣でてくれたなかには、師走、あらためて私の最終講義に出てくれた人も多い。私としては、その一人ひとりにあらためて感謝している。

私のクラスで、勉強をつづけてきた人ばかりだった。その人々と、私はふたたび会うことはないだろう。だが、きみたちと出会ったことが、私の人生をかたち作ったと思っている。
あらためて、みなさん一人ひとりに心から感謝したい。

 

 

1341

■有吉 佐和子のこと

「江口の里」のなかで、ヒロインの芸者が舞踊劇、「時雨西行」を演じる。

 

……春の朝(あした)に花咲いて、色なす山の粧(よそほひ)も、秋の夕べに紅葉して、月に寄せ、問い来る人も河竹の、うき節しげき契りゆゑ……

 

この一節を読むと、なぜか有吉 佐和子の世界がまざまざと眼のなかに浮かんでくる。

有吉 佐和子は、昭和6年、和歌山市に生まれた。
父の転任で、小学校だけで5回も転校した。病気がちだったため、女学校でも5回も転校した。少女の頃から、これほど各地を転々とした作家はめずらしい。戦後、東京女子大に入っても、病気のため一年休学したが、父の急逝もあって、短大に移った。卒業前に、「演劇界」の編集をしたり、出版社につとめたり、舞踊家、吾妻徳穂が、戦後、アメリカで公演した「アズマ・カブキ」のブロードウェイ公演では、事務を担当したり、演出も引受けたり秘書としてアメリカ人と交渉した。
有吉 佐和子は、本質的に「移動」する作家である。
戦後すぐに、作家をめざした有吉 佐和子は、第十五次「新思潮」に参加した。この雑誌に発表した作品を改稿したのが『地唄』である。ほかの作家と違って、有吉 佐和子は、日本の伝統的な芸の世界と、あたらしい教養の世界の隔たりを描きつづけた。
「江口の里」もその一つだが、『人形浄瑠璃』(昭和33年)や、花柳界の愛憎を描いた『香華(こうげ)』(昭和36~37年)など、どの作品にも「春の朝(あした)に花咲いて、色なす山の粧(よそほひ)も、秋の夕べに紅葉して、月に寄せ、問い来る人も河竹の、うき節しげき契りゆゑ」というテーマが見え隠れしている。
この作家が好んで職人、芸人の世界、伝統的な芸の世界に眼をむけたのは、ただのロマンティックな憧憬だったのだろうか。むしろ、かつてあったものを描くことで、じつは私たちの未来に属しているいきいきとした世界を見せようとしたのではなかったか。
もっと大きなことは――関西ことばをふくめて、日本語の美しさ、深さのなかで、作家としての自分自身にめざめたことだった。
有吉 佐和子が意識して四季の移りかわりや、伝統的な芸の完成に自分の運命をかさねたかどうかわからない。しかし、彼女は、そうした運命を予感するように、自分のテーマを深めていった作家だった。
『三婆』(昭和36年)のラストで、「駒代」の耄碌ぶりから、おそらく有吉 佐和子は、花のように美しく、しかし、衰えてゆく姿をいつか書きたいとおもっていたと思われる。これがもっとも早く高齢化社会を描いた『恍惚の人』(昭和47年)に発展してゆく。
和歌山に生まれた作家は、やがて母の故郷、紀州を舞台に家族の年代記ともいうべき『紀の川』(昭和34年)、『有田川』(昭和38年)、『日高川』(昭和40年)という紀州三川物語を描く。こうした年代記は、『助左衛門四代記』(昭和37~38年)で完成するが、ここで描かれる木本家は母の実家である。
年代記作家としての有吉 佐和子は、さらに歴史への関心に移ってゆく。『華岡青洲の妻』(昭和41年)、『出雲の阿国』、さらには、『和宮様御留』などの歴史小説は、女主人公の「移転」と、「契り」をテーマにしている。
一方では、それまで私たちがまったく知らなかった、もう一つの世界が作家をとらえはじめる。公害問題に先鞭をつけた『複合汚染』や、黒人問題をとりあげた「非色」といった社会的な問題小説の世界である。『恍惚の人』が、老いさらばえ、ついには人格崩壊にまで至る人間の無残さを描いたというより、そうした悲劇さえ「河竹の、うき節しげき契り」と見た。『非色』は、アメリカ社会に見られる肌の色による差別というだけでなく、むしろ伝統のいのちの問題としてとらえていたのだった。

有吉 佐和子が亡くなってから二十年以上になる。

 

……江口の里の黄昏に、迷いの色は捨てしかど、濡るる時雨に忍びかね賤(しづ)の軒場に佇みて、ひと夜の宿り乞ひければ、主(あるじ)と見えし遊び女が……

 

こうしたテーマが、彼女の作品群のどこかに響いている。そう見てくると、有吉 佐和子は、日本の文学史にあらわれたもっともダイナミックな女流作家のひとりなのである。

1340

台風12号が、四国に上陸して、進路を北に向けていた。
この日、私は、東京にいた。

地下鉄で日比谷に出た。
私は、ほんの一時期、「東宝」で仕事をしたことがあって、旧東宝の本社があった界隈、もとの日比谷映画劇場のあったあたりは、今でもなつかしい。その後、私は、映画の批評を書いていたので、日比谷から先、新橋方面にかけて、よく歩いたものだった。

「宝塚」まできたとき、突然、雨が降りはじめた。いきなり土砂降りになった。

私は、急いで、もとの日比谷映画劇場の横をまわって、近くの喫茶店をめざした。
もともと「東宝」本社の前にあつた喫茶店で、私は、よく女優たちを見かけたものだった。満州から脱出してきた木暮 実千代を見かけたり。戦後、もっとも期待されながら、自殺した堀 阿佐子に会ったのもこの喫茶店だった。そういえば、まだかけ出しの女優だった頃の岡田 まり子、有馬 稲子たちに紹介されたこともある。

その後、喫茶店の規模も変わったし、内装も変わった。いまどきめずらしく古風な雰囲気の喫茶店になっている。私は、この喫茶店で、ある女性とデートしたのだが、その女性にフラれた。そんな思い出がまつわりついているので、その喫茶店は敬遠して、土砂降りのなかを反対側のファストフードの店に飛び込んだ。

私の席から、日比谷、みゆき座の通りが見渡せるのだった。

突然の大雨に、歩行者たちはあわてて近くのビルに走ったり、この喫茶店にも私のあとから客がつぎつぎに駆け込んでくる。
雨のなかを、このあたりの0Lらしい若い娘が走ってくる。
みゆき座に出る角あたりにきたとき、若い娘がバランスを崩して、はげしく転倒した。それを見ていたのは、おそらく私だけではなかったか。
女の子はずぶ濡れ。起き上がれない。5メートルばかりうしろから、男の子が走ってきた。
その若者は、目の前で、女の子が転倒するのを見た。
急いで走り寄って、女の子を抱き上げるようにして立たせた。しかし、どこか打ちどころがわるかったのか、女の子はからだを前に折るようにして、やっと立っている。
私は、女の子が肋骨にヒビでも入ったのではないかと思った。

あたりは、はげしい雨に煙っている。もう、だれひとり、このあたりに人影はなかった。みんなが、近くのビルに逃げ込んだり、走り出して、あっという間に、日比谷の通りに人の姿が消えた。

一瞬後に、ふたりはその場から左に向かって歩き出した。意外だった。女の子は真っすぐ走って、交差点の向こう側(もとの日比谷映画劇場)に走り込むものと見たからだった。
ふたりの位置からそれほど遠くない場所に「アメリカン・ファーマシー」がある。
若者は、女の子がころんで、どこかに負傷したものと見たに違いない。
おそらく、若者が、ずぶ濡れになった彼女に何か指示をあたえたに違いない。もしかすると、ころんだ拍子に手首をいためたか。あるいは、若者が行こうとしていたビルに、とりあえず案内しようとしたのか。
若者は、彼女を抱きかかえるようにして、ゆっくり歩き出した。十字路をわたり切ったが、逃げ込む場所はない。私の位置からは、ずっとよく見えるようになった。

若者は、そのビルの角まできて、ずぶ濡れになった女の子のシャツをまくり上げた。肌にはりついているので、まるでシャツをひっ剥がすようにして、女の子の胸まであらわにした。女の子はされるままになっていた。
男の子は、だまって乳房に手をのばして撫でた。

私は、ちょっと信じられないものを見たと思った。

ふたりが歩きだしたところで、私の視野からふたりの姿が見えなくなった。私のすわっている位置からは、たとえからだをおおきく後に向けても、二人が見えるはずもない。

これだけの話である。
ただ、私は、どうしてこんなシーンを見てしまうのだろうか、という思いがあった。

1339

何かに関して自分の意見があくまで正しいなどと主張したことはない。
他人の意見を知って、自分の考えと違うことに気がつく。あまりにも違っていると、思わず笑いだしてしまう。それだけならまだしも、ひそかな軽蔑をおぼえる。
私は――いやらしい。しかも、自分のいやらしさを隠さない。
われながら、不快である。
少し説明したほうがいい。

ヘミングウェイの小説は数多く映画化されている。だが、これは映画化至難な物語(ストーリー)だといわれた「老人と海」――58年、その映画化に成功した。スペンサー・トレイシー主演、ジョン・スタージェス監督で……

これを読んだとき、へぇ、と思った。
『老人と海』は映画化至難な物語(ストーリー)だと、誰がいったのか。たぶん、当時の「業界」の通念としてそう見られていたということだろう。
1958年、ジョン・スタージェス監督がスペンサー・トレイシーの主演で、「老人と海」を映画化した。しかし、あの程度で映画化に成功したといえるのだろうか。
むしろ、どうしようもない駄作だったはずである。

ジョン・スタージェスは、「戦後」に登場した映画監督で、やたらに多作だった。戦後すぐの初期作品は、一本も輸入されていない。日本ではじめて上映された「人妻の危機」(53年)も、短くカットされて、やっと公開されたようなB級監督。
ところが、「ブラボー砦の脱出」(53年)が当たった。主演、ウィリアム・ホールデン、エリナー・パーカー。
この映画で、北軍の将校、ウィリアム・ホールデンはインディアンの襲撃を受けて、右腕に重傷を負うのだが、つぎのシーンでは、包帯をぐるぐる巻きにした左手を肩から吊って、堂々と凱旋する。思わず、眼を疑ったね。(笑)

そして、「0K牧場の決斗」(57年)。
「ワイアット・アープ」(バート・ランカスター)、「ドク・ホリデイ」(カーク・ダグラス)が、「クラントン」一家と、0K牧場で決闘する。ジョン・フォードの「荒野の決闘」には、到底およびもつかないが、それでも、西部劇としては、いい映画になっていた。
この映画で、「クラントン」のいちばん下の息子が、今年亡くなったデニス・ホッパーだった。まだ、少年だったっけ。「イージー・ライダー」、「地獄の黙示録」、「トゥルー・ロマンス」などを思い出す。もっとも、「スーパー・マリオ」のような駄作にも出ているけれど。

さて、「老人と海」だが、これは、まるで期待を裏切った。
スペンサー・トレイシーも、まるっきり漁師に見えない。「白鯨」の「エイハブ」(グレゴリー・ペック)よりもひどい芝居だった。

私にとっては、「老人と海」はCクラス。スペンサー・トレイシーにしても、すべての出演作のなかで最低。これが私の評価。

その後、これを書いた映画評論家の批評をまったく信用しなくなった。この映画評論家にひそかな軽蔑をおぼえるようになった自分がいやらしく思えてきた。いちいち他人の意見に目クジラを立てる自分か不愉快になった。

映画の「老人と海」も、もう忘れてしまったのだが。

 

 

 

1338

けっこう寒くなってきた。

去年の夏、暑さが続いていた頃。

「あつい、あつい。実に暑い。とてももう、小笠原流(かみしも)ではやりきれねえし、俳諧どころか二の句も出やぁしませんぜ、こ隠居さん」
とは、歌仙か百韵(ひゃくいん)の催しも、たちまちにしてお廃止(オクラ)と見えたり。
「オヤ、ネコの八っつあんかえ。たしかに今年の夏は暑いようだ」
「ご隠居だって、去年も、おなじことをいってたではありませんか」
「ああ、これ、そんな文句はいってくれたもうな。暑苦しくてたまらぬ。去年は去年、今年は今年。去年申したことノ、今年になってノ咎めだてというは、じつに総毛立つことでナ」
「おやおや、これはむずかしい先生だワ」
「こ隠居、ここで、涼しいものくらべという趣向はいかがでゲしょう」
「おお、それよ。妙々ですナ。その涼しさは……」
「さしづめ、極楽」
「アハハ。それでは、盆山。石菖。お手水」
「手水に映そうときましたか。では名月はいかが。月天心 貧しき町を通りけり、と。さて、蕪村とくれは、つぎの涼しさは……行水、としましょうか」
「エヘヘ、こちとらはついつい、手水組を連想いたしやした。そこで、涼しいものは、髪結い、髪剃り、といたしましょう」
「うまく逃げましたナ。それでは、ヒグラシの声。橋の上。柳かげ」
「夕露、小夜風。ひとえ衣(きぬ)としましょうか」
「あい変わらずだねえ、ネコの八っつぁんは」

去年の夏、わが家で飼っていたゲレというネコが、老衰で死んだ。私は、最後の最後まで見とってやった。
ゲレは最後に、痩せ衰えた前肢をふるわせて、かすかに足掻いた。まるで天国に向かって駆けて行くように。
その午後、私は庭の隅っこに遺骸を埋めてやった。

三ヵ月、喪に服したあと、新しいネコをもらってきた。アンゴラ系の白いネコで、みるみるうちに大きくなった。名前は、チルとつけた。
ある日、チルを外に出してやったが、それっきり帰ってこなかった。翌日は大雨が降った。そしてまた暑くなった。チルは、もう、戻ってこないだろう。私は不実な女に逃げられたように気落ちしたが、なんとかあきらめることにした。
もともとあきらめはいいほうである。
やっと心の整理がついたとき、思いがけず、チルが、折れた左足を引きずって、泥だらけになって戻ってきた。車にはねられたらしい。すぐに近くの獣医に診察してもらったが、チルのビッコは直らないようだった。

そして秋になった。

このまま冬になったら――炬燵にもぐって、ネコの話で落語を書いてみようか。

 

1337

まだ、きびしい残暑がつづいていた頃。

テレビで、酒井 抱一を見た。(’11.9.16 9:00am)。
抱一といえば、世に埋もれていた尾形 光琳の再評価に力をつくし、光琳の「風神雷神図」の裏に光琳へのオマージュとして、「夏秋草図」を描いた画家である。
この番組のなかで、抱一の句が紹介された。

  銀のうみ 渡もや 冬の月

私の聞き違えでなければ、アナウンサーはこの句を「ギンの海」と読んだ(と思う。)
録画しておけばよかったのだが、そんな気もなかった。

私がとっさに考えたのは――抱一が、そんな破調の句を詠んだのか、という疑問だった。私の無学をさらけ出すようだが。

じつは俳人としての抱一を知らない。私の知っている抱一は、

 

   山賤のおなかもはるの木の下や 花の吹雪に 腰はひえめし

   音に立て なをも鼓のうつつなや 三つ地のふみの長地短地

   ぬしさんにははきもとまで恋のふち 人の目貫を かね家のつば

 

こんな狂歌しか知らない。それも、一読して即座に歌意がわかるわけではない。
むろん、なかなか洒脱な人だったらしいことは想像できるのだが。
こういう人が「銀のうみ」をギンの海と詠んだとは信じられない。

 

  しろがねの  うみわたるもや ふゆのつき

 

こう読めば、俳人としての抱一の大きさがわかる。どうだろうか。

1336

昨年の暮、「文学講座」を終えた私は、忘年会の席で不覚にも酔いつぶれた。救急車で阿佐ヶ谷の病院にかつぎ込まれて、「文学講座」は中断した。
どうもみっともない話で、以来、身をつつしんでいる。
これ以上、みなさんに迷惑をかけるわけにもいかないし、私自身も「文学講座」をつづける意欲を失っている。年末をもっていよいよ大団円ということにあいなった。

9月の「最終講義」のあと、親しい人たちが残って、ひさしぶりにつつましい会食をしたためた。これは楽しかったね。

つわものどもの交わり頼みある中の酒宴も、さこそ楽しきことなるべけれど、酒なく、茶なく、わけもなきまどい(団欒)も、主客を忘れし旧知のひとびとの集まりしほど、世に興深きことはない。
みなさんの好意が身にしみた。
話題は、残暑のきびしさ。地震の被害。放射性物質の拡散の風評。汚染の除去。

「いかがでしたか、先生の震災被害は?」
「書斎や、本をしまってある書棚の本がずいぶん崩れ落ちてね」
「おやおや、たいへんでしたね」
「もともと本箱の前にも本を積み重ねて置いてある。そこに、本がドサッと落ちてきたから、今ではどこに何の本があるのかわからない」
「仕事にさしつかえがありますね」
「いや、仕事なんかしていないから、本がゴチャゴチャになってもそのまま放ってある。たまたま本も読まなくなったし」

みんなが、あきれた顔をする。

もし、私に才能と、時間の余裕があったら――「オレンジだけが果物じゃない」みたいな小説を書きたい。岸本 佐知子訳。白水社/Uブツクス。
岸本 佐知子の訳はほんとうにすばらしい。

1335

少し長生きしすぎた。よくもこれだけ長く生きてきたと思う。

つまらない人生を長く生きてきただけが取り柄かも。

八十年の生涯にすべてを知りつくしたなどとは、口が裂けてもいえない。ただし、私はもはやおのれの人生に何も求めてはいないし、何も願ってはいない。

人生観を問われても、まともに答えられないというのが正直のところ。

目下のところ――江戸の三文作家で、のちに出家して禅を説いた鈴木 正三(すずき しょうさん)に近いものを覚えている。
鈴木 正三はいう。

   年月は重り候へども、楽みは無して、苦患は次第に多く積るに非や、
   (としつきはかさなりそうらえども たのしみは なくして、くげんは しだいに おおくつもるにあらずや)

 

自分も齢を重ねてきて、歳月とはそういうものだと思う。
私は、「人生の真実は寂寞の底に沈んで初めて之を見るであらう」とする永井 荷風にしたがう。寂寞とは何か。もしも「四月は残酷な月」ならば、五月も、六月も、夏も秋も、まして冬もそれぞれに残酷な季節であることに変わりはない。それが、寂寞というものなのだ。
はたまた、鈴木 正三はいう。

 

   人間の一生程、たはけたる物なし。

 

こういう思いから、鈴木 正三は浄土を欣求(ごんぐ)したに違いない。

 

私は楽みはなく、苦患は次第に多く積ることを覚悟しているだけである。

 

 

1334

翻訳家としての渡辺 温については、ほとんど知らなかった。

「渡辺 温全集/アンドロギュノスの裔」(創元推理文庫)で、H・G・ウェルズ、オスカー・ワイルド、それに、黒岩 涙香訳をリライトした作品などを読んだ。
私は(オスカー・ワイルドは知っているが)原作を知らないので、翻訳については批評しないが、渡辺 温が修行時代(アプレンタイスシップ)に、こういう仕事をしていたことに感心した。
それともう一つ、女性名義で、小説を発表していることだった。これも、いまの作家たちには考えられないことだろう。
こういう角度からも、あらためて渡辺 温を考えることができる。

私が関心をもったのは、渡辺 温が、いろいろな俳優や女優たちに言及していることだった。
エミール・ヤニングス、コンラッド・ファイトの比較、あるいは、チャップリンにたいする否定的な見方など。
日本の映画でも、畑中 寥波、石井 漠、伊沢 蘭奢(らんじゃ)とならんで、戦後の「民芸」で舞台に立った細川 ちか子をあげている。(「疑問の黒枠」を見る)

「アンドロギュノスの裔」の主人公が、あこがれたのは「ベルクナルにも劣るまいと評判の高い活動写真の悲劇女優」という。この「ベルクナル」は、おそらく、エリザベート・ベルクナーだろう。

「今全盛のドロシイ・ダルトン」(「或る風景映画の話」)となれば、ブロードウェイの大プロデューサー、アーサー・ハマースタインと結婚して、スクリーンから去った女優(後年のミュージカルのビッグウィール、オスカー・ハマースタインの母親)とわかる。

渡辺 温といっしょに、サイレント映画の女優たちのことを話してみたかったな。
美少女、メァリ・マイルズ・ミンター、あるいは、妖艶なナジモヴァについて。
私の推測では――ニンフォマニアックだったバーバラ・ラマールなどは、好きではなかったのではないか。それでは、ビーブ・ダニエルズ、クララ・ボウたちは?

私は、むろん、渡辺 温の見た映画を一本も見てはいない。しかし、二十年、三十年のタイムラグはあっても彼がとりあげている人々も、少しは知っている。私は、及川 道子さえ見ているのである。そんなことが、渡辺 温を身近に感じさせているかも知れない。

渡辺 温は、1930年(昭和5年)、2月9日、原稿の依頼のため谷崎 潤一郎を訪問した。同行したのは、後年、ミステリーの翻訳家として知られる長谷川 修二。
その帰途、二人の乗ったタクシーが、国鉄(当時、省線)の貨物列車と衝突した。渡辺 温は頭部に重傷を負って、病院に運ばれたが、そのまま亡くなった。享年、27歳。

今年、温の姪の渡辺 東さんの編、「渡辺 温全集/アンドロギュノスの裔」(創元推理文庫)が出版された。
その出版を記念して、画廊「オキュルス」で、オマージュ展が開かれた。渡辺 東さんにおめにかかって、しばらく温の話を伺った。
私にとっては、親しい作家に会えたような気がして、うれしかった。

縁あって渡辺 温を読む。いまさらながら、惜しい才能が失われたことを悲しむ。

 

 

1333

渡辺 温の時代。

 

上野の博覧会で軽気球が上げられた。軽気球はまるで古風な銅版画野景色の如く、青々と光るはつ夏の大空に浮かんだ。
「風船美人」

 

秋晴れの青空の中に隣の西洋館の屋根の煙出しが並んで三盆あった。両側の二本は黒く真中のは赤い色をしていた。
「赤い煙突」

 

明るい陽ざしを透かせて、松林の影が紫の縞になっている蔦の絡んだ紅がら色のベランダで、小型オルガンを弾いている華奢な感じのする少女の姿が描いてあった。お下げに結った其の横顔はもとより、大きな百合の模様のある着物や派手な菱形を置いた帯びにも、由紀子の懐かしい思い出が残っていた。
「指環」

 

わざと小田急には乗らずに、東京駅から鎌倉へ行って、鎌倉から幌を取らせた自動車で稲村ケ崎を抜けて、海辺づたいに真直ぐに、江の嶋経向かいました。
(中略)浜辺にいる人々からも必ず、松林の縁(ふち)の街道を走る自動車の姿は一目で見える筈だし、そうすれば、ほろなしの座席に相乗りしたアメリカの活動役者の恋人同士のように颯爽たるだんじょの様子は、この上なく羨ましい光景として見送られるに相違ないのです。
「四月馬鹿」

 

まったく偶然に眼についた文章をとりあげたにすぎないが、ああ、これが渡辺 温の世界なのだと思う。そういう私の内面には、なぜか、ひどくノスタルジックなもの、そしてひそかな羨望がひろがっている。
ここにうかびあがる、何かロマンティックなモラリティーは、もはや私たちから遠くなっている。しかし、時代的には、ぐっと身近な「ALWAYS 三丁目の夕日」(昭和30年代)よりも、ずっと私には近くに感じられる。

ひょっとすると、このあたりに渡辺 温の世界の逆説性がひそんではいないだろうか。
むろん、もう少し説明しなければならないが――こう、いい直そうか。
たとえば、つい昨日の時代の「ジュリアナ」の世界は、私たちにはもはや何のインパクトももっていない。ところが、現在の私たちは、ムーラン・ルージュに踊っているロートレックの女たちと少しも違っていない。
大正末期から昭和初年を駆け抜けた渡辺 温は、じつは現在の私たちを描いているのではないか。……そんな気がしたのだった。

渡辺 温の「アンドロギュノスの裔」の娼婦は、現在のAVに出ている、おびただしいエロカワ少女の一人に見える。
そして「花嫁の訂正」は、佐藤 春夫の「この三つのもの」(未完のまま、中絶/大正14~15年)や、谷崎潤一郎の「卍」などに近い。もし、読みくらべてみれば、ここから何かが立ちあがってくるかも知れない。
(つづく)

1332

渡辺 温を読んでいて驚かされるのは――発想が、きわめてサイレント映画的なことである。それも、当時の演劇(小山内 薫がめざした「築地小劇場」など)がもっていたスタイル(柔軟性の少ない、それも因習的なスタイル)をはなれて、はるかに映画的な小説スタイルを導入していたことと無関係ではない。
小山内 薫は、映画の演出に意欲を見せたが、映画表現に知識がなく、せいぜい舞台の実写といった程度で終わり、技術的にも失敗した。
渡辺 温の「影」に対しても、どちらかといえば否定的な評価をもったが、谷崎 潤一郎が積極的に推したという。
温の発想が、はじめからサイレント映画的だったことと、温が、生まれつきミステリーや、恐怖を基調とするストーリー・テラーであること(スポンタネイテイ)を見抜いたからだろう。このあたり、谷崎の炯眼は、小山内 薫のおよぶところではなかった。
温が、ウェルナー・クラウス、コンラッド・ファイトといったドイツの俳優にしばしば言及していることも、私には、温の好み、と同時に、温のつよい自己主張を想像させる。

「学校を出ると直ぐ活動屋になるのが望みで、それも「カリガリ博士の箪笥」か何かに訳もなく感動させられて」(「或る風景映画の話」)という記述がある。
「カリガリ博士」は、恐怖と狂気を描いた映画作品で、映像化された悪夢といってよい。主人公は、自分の仇を殺害するために、催眠術による霊媒を駆使する。ストーリーは精神病院ではじまり、精神病院で終わる。こうした枠組は、この時代の精神状況にまさにコレスポンド(照応)していたものといってよい。

渡辺 温の代表作というべき「アンドロギュノスの裔」の冒頭は、

 

……曽て、哲人アビュレの故郷なるマドーラの町に、ひとりの魔法を使う女が住んでいた。彼女は自分が想いを懸けた時には、その男の髪の毛を、或る草と一
緒に、何か呪文を唱えながら、三脚台の上で焼く事に依って、どんな男をでも、自分の寝床に誘い込むことが出来た。
ところが、或る日のこと、彼女はひとりの若者を見染めたので、その魔法を用いたのだが、下婢に欺かれて、若者の髪の毛のつもりで、実は居酒屋の店先にあった羊皮の革嚢から毟り取った毛を燃してしまった。すると、夜半に及んで、酒の溢れている革嚢が街を横切って、魔女の扉口迄飛んで来たと云うことである。
頃日読みさしのアナトール・フランスの小説の中にこんな話が出ていた。
魔女の術をもってしても、なお斯の如きままならぬためしがある。

 

ふつうの場合、温は、大正時代に猖獗をきわめた表現派、ダダイズム、未来派、シュール・レアリズムなどの流れの中でとらえられる。しかし、私は、温を、そうしたエコールの作家とは見ない。新感覚派の作家ではなく、もっとずっとスマートな作家ではないか。
「アンドロギュノスの裔」のオープニングで、アナトール・フランスという外国の作家に刺激されて、自分の想像を展開させている、と見れば、なんの変哲もないが、このオープニングが、恐怖というアンダートーンを帯びていること、しかも、なにやらユーモラスに物語を展開してゆく手つきに渡辺 温のシネマトゥルギーといったものを感じる。

むろん、そう思う私の内面には、古き良き時代にこういう物語を紡いでいた若い作家に対する羨望がひそんでいるだろう。
(つづく)

1331

私は、夭折した作家、詩人たちに惹かれる。
たとえば、富永 太郎。富ノ沢 麟太郎、梶井 基次郎。戦後でも、原口 統三、湯浅 真佐子、久坂 葉子、山川 方夫。……

戦前、夭折した作家に、渡辺 温がいる。1902年生まれ。梶井 基次郎より1歳下。小林 秀雄、中野 重治と同年。
温のすぐ上の兄が、ミステリー作家、渡辺 啓助である。

1924年(大正13年)、温は映画シナリオ、「影」という作品で登場した。これは、映画筋書の懸賞募集に応募して一等当選を果したもの。選者は、谷崎 潤一郎、小山内 薫だった。
当時、谷崎 潤一郎はみずから映画のシナリオを書き、小山内 薫は、舞台「築地小劇場」の延長上に、映画の演出をめざしていた。
温は出発からして谷崎 潤一郎にゆかりの深い作家だったといえるだろう。

その後、江戸川 乱歩の影響で「新青年」が創刊され、横溝 正史が編集長になったが、このとき、編集助手に横溝が選んだのは、一面識もなかった渡辺 温だった。
温がめざしたのは、古いリアリズムにとらわれた表現に変わって、エスプリ・ヌーヴォーと呼ばれたモダニズムによる創作だった。

サイレント映画に見られる演技――言葉がないため、身ぶり、手ぶりといったジェスト(身体表現)によって、その瞬間その瞬間の感情、あるいは内面を、見る側(映画では観客、小説では読者)に感得させる方法が、作家、渡辺 温の特質の一つ。

 

その繁華な都会の町外れの、日当たりのよい丘の中腹に、青木珊作と呼ぶ年若い画工(えかき)が住んでいた。
×
冬の話である。
×
青木珊作は、ひと月の先に迫った国立美術館の展覧会へ出品するために「情婦(コランバイン)の嘆き」と命題した五十号のNudeを画いた。それはようやく完成しかけていた。もう一塗り最後の仕上げを待つばかりであった。だが、この時突然モデルの春子は解約を申し出た。珊作が十分に彼女の欲するだけの報酬を与え得なかったと云う理由を以て。春子は世にも美しい娘であった。

 

「影」の冒頭、オープニング。日当たりのよい丘の中腹、スタティックで、静かな世界である。どこにも影はない。
すぐに見てとれるのは、(シナリオとして書かれたのだから当然だが)、これはフェイドイン、もしくは、アイリスインの意識的な採用というべきものだろう。
彼のシナリオが、ドイツの表現主義映画、「カリガリ博士」の影響を見せていることは注目していい。
つい比較したくなるのだが――はるか後年の――たとえば、「ALWAYS 三丁目の夕日」。「繁華な都会にへばりついているような、日当たりのよくない裏町」、日本が右肩あがりの成長に向かおうとする前の、古き良き日本のイメージ。「影」ではまったく無縁の「世界」が静かに展開している。高度経済成長期のすさまじい足音などどこにもない。
この「影」の静けさの背後に、私はおそろしい破壊、ないし崩壊の予感を聞く。

渡辺 温は、たんなる大正モダニズムの作家と見るべきではない。
むしろ、1923年(大正十二年)の震災の直後から、文学的な活動をはじめた作家として、当時、芥川 龍之介のように「ある漠然とした不安」を生きた作家と見るべきたろう。
温は関東大震災について語らない。
それは、かつてない破壊、ないし崩壊を受けた、この世の虚しさを知った若者にどう映っていたのか。
数年後、温の世界、あるいは、かつてあった秩序は、おそらく「ある漠然とした不安」を背景にようやく完成しかけていた。もう一塗り最後の仕上げを待つばかりであった。                          (つづく)

 

 

 

1330

いまや私の記憶は、まことに無残で――昔見た映画なとは、記憶のなかでゴチャゴチャになっている。題名さえ、うろおぼえだからねぇ。

森本 薫の芝居、「華々しき一族」が映画化されたのは、いつころだったのか。これはおぼえている。「愛人」演出・市川 崑。三国 連太郎が新人だった頃の映画。1953年。
「コウちゃん」越路 吹雪が出ていた。マダムの役で。若い娘たちが絡んでくる。有馬 稲子と岡田 茉莉子。さて、どちらがどっちの役をやったのか。

「愛人」のことをおぼえているのは――当時、「東宝」に友人の椎野 英之がいたので、「東宝」の映画はたいてい見ていたから。「コウちゃん」が結婚する前で、越路 吹雪の家にも椎野につれて行ってもらったことがある。

この頃、私はたくさん映画を見ていた。

「アンナ」。アルベルト・ラットアーダ監督。
当時、肉体派と呼ばれていたシルヴァーナ・マンガーノの主演。
たしか病院の看護婦さんの話で、暗い過去を背負った美女の流転の物語。「戦後」のイタリアの暗さがこんな映画にもにじみでていたのか。
原作は、「空が赤い」のジュゼッペ・ヘルトだった。当時の私は、英語もろくに読めなかったのだから、原作を読んだはずもない。しかし、この作家は、私が大きな関心をもったひとり。
監督がラットアーダで、シルヴァーナ・マンガーノが出て、ラフ・ヴァローネ、ヴィットリオ・ガスマンが出ていたのだから、間違いなくいい映画だったはずなのに、もう、ほとんどおぼえていないのだから、ひどい話だ。

いまの私が思い出すのは――シルヴァーナのはいていたショートパンツにくっきりと亀裂が見えていたっけ。そんなことしか思い出さない。「ギルダ」で踊ったリタ・ヘイワースよりも、ナイトクラブで踊ったシルヴァーナ・マンガーノのほうが、ずっとセクシイ(当時は、こんな言葉も使わなかった)だった。
この映画に、シルヴァーナのすぐ下の妹、パトリツィア、いちばん下の妹、ナターチャが出ていたが、ふたりとも、その後はどうなったのだろう? そんなことしかおぼえていない。

あ、そういえば――「陽気なドン・カミロ」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)に登場した、新人、ヴェラ・マンガーノはどうなったのか。

その頃は、(まだ、ロロ・ブリジダも、アニタ・エクバークもいなかったので)、パンツのわれめにくらくらしたシルヴァーナ・マンガーノだが、ただのエロティックな新人女優にすぎなかったシルヴァーナが残って、ほんとうの名女優と呼んでもいいほどの女優になった。

わからないものだ。人生というか人間の運命というものは。

映画のストーリーも思い出さないで、その映画に出た女優のことをぼんやりと思い出している。ボケたなあ。

1329

もの忘れ。最近の私のもの忘れは、もの忘れどころのレベルではない。

いろいろな物事、できごとがゴチャゴチャになっている。もっとも、ゴチャゴチャになっていることがわかるだけましだろう。

例えば――

エリマキトカゲ。テレビ・CMで……パプア・ニューギニアかどこかの砂漠に住んでいたトカゲ。ほかのトカゲは、いかにも爬虫類といった面構えだが、こいつは、エリマキを巻いて、立ったまま全力疾走していた。アイツは何に向かって走り続けていたのか。
いつ頃、私の前から去っていったのか。

オバタリアン。堀田 かつひこのマンガ。中年になって、恥も外聞もなく、人生をカッポしていた人類。あのオバサマたちは、まだ、日本に棲息しているはずだが、どうなってしまったのか。むろん、世代交代して、新種のオバタリアンが繁殖しているはずだが、私は、外出もしなくなっているので、あまり遭遇することがない。

E電。国鉄が民営化されたとき、それまで「国電」と呼ばれていた電車の名称が変更された。作曲家の小林 亜星が、この名称変更の識者の委員か何かで、とくとくとして、E電という新名称を発表した。ところが、だれひとりこの名称をつかわなかった。
国民総スカンを食ったっけ。
あまの邪鬼な私も、この名称は使わなかった。トルコ風呂が、ソープランドに改名したようなものだ。
酒場で飲んでいて――「おれ、帰る。オデンチャで」
相手はたいてい、けげんな顔をする。
「オデンチャでもE電やろ」
ニヤリとする。

紅茶キノコ。口裂け女。  コンナノもあったっけ。

何もかもゴチャゴチャになってしまった。ひどい話だ。

(つづく)

 

 

1328

私の連載ははじまった。最初の数回で――自分でも快調だと思った。むろん、まだ読者の反響はなかったが。
ところが、急転直下――まあ、当然だったにちがいないのだが、この連載は10数回で終わった。あっけなく挫折したのだった。

担当の服部 興平君が亡くなった。連載中に、担当者が亡くなったことははじめてだった。ショックは大きかった。私は、北海道に旅行中で、服部君の訃報も知らなかった。
私は、彼の葬儀にも出席しなかった。(このことは、今でも申しわけなく思っている。)服部君から依頼された翻訳も、うやむやのうちに立ち消えになってしまった。

「週刊サンケイ」のコラムが中止したあと、私のマンガに対する関心は急速に消えてしまった。

このときから、森川 久美、小越なつえ、向坂 桂子、湖東 美朋といった少女マンガを読むこともなくなった。去年の雪いまいずこ。なつかしい作家たち。
私のマンガ批評はあえなく挫折したが、それでも、私の仕事に――砂川 しげひさ論や、上村 一夫、小池 一夫などのマンガの解説といった意外なエッセイがある。私は、こうしたマンガにも関心をもったのだった。

数年後、「集英社」のコバルト文庫が企画したアメリカのY.A.(ヤング・アダルト)小説のシリーズがはじまったとき、私はクラスにいた坂崎 倭、羽田 詩津子、中山 伸子たちを登場させた。
私自身は、スーザン・E・ヒントンの「アウトサイダー」という長編を訳した。このシリーズも、私がトップ・バッターだった。たまたま、ほとんど同時に、おなじヒントンの原作が別の出版社から出た。こちらの訳は、児童文学のほうでは有名な女流翻訳家の手になるもので、本もりっぱなハードカヴァー。翻訳は、ジェンティールで、まじめな翻訳だった。
私の訳は、この先生の訳と違って、全体にハードで、しかも少年マンガ、少女マンガを意識した翻訳になった。

ヒントンの原作は、フランシス・コッポラが映画化している。
マット・デイロン、まだハイティーンの少女だったダイアン・レインが出ている。
私の訳した本はいくらか読まれた。文庫本で安かったせいだろう。

このシリーズで、ヒントンの作品を、つづけて3作翻訳した。別に一冊、「テックス」という作品は、坂崎 倭に訳してもらった。坂崎 倭は、その後、児童文学、少女小説の翻訳家として有名になった。(田栗 美奈子さんの最初の先生である。)
私は、このシリーズの成功を見届けてから、Y.A.(ヤング・アダルト)小説から離れた。このシリーズを手がけていた頃も、私のマンガ熱はつづいていた。
今となっては、その頃読んだマンガのストーリーもろくに思い出せないのだが。

今でもときどき、「タラッタポン」や、「南国少年パプワくん」、はては「クレオパトラD/C」や「アレクサンドライト」などを読み直してみようか、と思う。
楽しいだろうなあ。

最近の私は、安東 つとむの好意で――サイレント映画の女優たちについて、短い連載をつづけているのだが、これも約束をはたさずに終わった服部 興平君への、罪ほろぼしのようなものなのだ。

人生には、いろいろな出会いがある。
マンガ評論家になれなかったのは残念だが。(ヘヘヘ、冗談ですよ)。

1327

批評上のクライテリオンなどは、書いて行くうちにあらわれてくる。
おもしろいマンガがいっぱいある。だから、マンガを読みつづけた。
手塚 治虫、石森 章太郎、松本 零士といったビッグネームをとりあげるつもりはなかった。

「ハンサムな彼女」  「変」  「SAY,GOOD-BYE」

「はじめちゃんが一番!」  「ロマンスの王国」  「きもち満月」

「神様の言うとおり」  「ハイヒールCOP」  「ハーパーの秘密」

好きな作家もいっぱいいた。

深見 じゅん  秋本 尚美  瀬川 乃里子  森生 まさみ

陸奥 A子  吉野 朔美  向坂 桂子  森川 久美 ……

ほかにも、思い出せるままにあげていけば――佐伯 かよの、松本 美緒、谷地 恵
美子、山田 里子……
こんなふうに書いてもきりがない。

「サンケイ」の文化面に書くのだから、一般の読者(とくに女性)に読まれるようなテーマがいい。そんな要望もあった。
「おともだち」の高野 文子は、どうしてもとりあげたかった。(今の私なら、近藤 ようこをとりあげるだろう。)
マンガを読む読者ではなく、マンガに関心がない人々にマンガの現状を紹介しよう。
そのためには、さしあたっては、社会派もの、青年マンガよりも、レディース、少女マンガに集中したほうがいい。
例えば――しげの 秀一は「バリバリ伝説」で知られているが、私は、超能力学園ものを描きはじめたこのマンガ家に注目した。
残念ながら、しげの 秀一だけでなく、車田 正美、鶴田 洋久、星野之宣といった作家たちにふれることがなかった。
この頃には、すでに「ぼのぼの」が登場していた。とにかく、毎週、書く対象の選択に困るほどだった。連載も最低、2クール(25回)つづけて、つぎに交代すればいい。

例えば――高橋 留美子をとりあげるのは簡単だが、わずか3枚の原稿で、「めぞん一刻」をとりあげるわけにはいかない。
そこで、「プチコミック」に出てきた「スリム観音」のような作品をとりあげたいと思う。(現在の私は、高橋 留美子にしては失敗作と見るのだか)、この作品のキャラクターは、後年の「らんま1/2」に発展している。そんなふうに考えると、かんたんに見過ごすわけにはいかない。

矢沢 あいも、とりあげたかったひとりだが、この作家が「りぼん」に書いているほかの作品を追っているうちに、私の連載が打ち切られてしまった。

私は、忙しい日常のなかで――気分転換のために、マンガを読みつづけた。とにかく読む。田村 由美、那州 雪絵。
そういうムチャクチャな読みかたをしながら、一方では、純文学からミステリー、SF、同時にイタリア・ルネサンスの文献まで、ひたすら読みつづけていた。

読むことが楽しくてたまらなかった。読むのにあきると、いそいそとマンガを読むのだった。
(つづく)