1365

寒い日がつづいていた2月。
夕方、帰宅の途中、駅前のトンネルの先で、デッサンらしい絵を並べて売っているカップルがいた。

ふたりで、共同でマンガを描いている。ファンタジーもの。
それほど際だって個性的なマンガとも見えなかった。

帰宅の途中、無名の芸術家が自作を路傍に並べて売っている。その絵を見て、ほしいと思ったわけではない。しかし、寒空の下、自分のデッサンを並べている若いマンガ家志望のカップルにエールを送ってやりたかった。

値をきくと、デッサン自体は非売品で、その絵を集めたCD-ROMを売っているという。1200円。すぐに買うことにした。
あいにく5000円紙幣しかなかったので、それを出すと、ふたりがひそひそ何か相談している。女の子が寄ってきて、おつりがないという。
「じゃ、私がどこかでくずしてこよう」
その場を離れた。

近くの本屋で、雑誌を買って、ふたりのところに戻った。
CD-ROMを受けとって、帰ろうとしたとき、女の子がモジモジしながら、別のCDを贈ってくれた。これはそのふたりが作詩、作曲したものらしい。

私は礼をいってそのCDを頂戴した。それだけのことである。

若くて、おとなしいカップルだった。
ふたりが、いつかマンガ家として自立できればいいと思う。

 

 

1364

ふと気になったこと。

テレビで、桐生の絹織りもの、銘仙の職人の仕事を見た。(2012.1.12.午後6時、「挑戦! 2012」という番組だった。)
この番組で、女のアナウンサーが、「銘仙」という言葉を、「メイ・セン」と発音した。聞きなれない発音で、英語の May と Cent を合わせたような発音で、ドイツの陶器の「マイセン」を連想した。

つづいて、男のアナウンサーが、やはり「メイ・セン」と発音した。

私は、こういう発音ははじめて聞いた。私はメーセンと発音する。

ねんのため、家人にも聞いてみると、やはり、メーセンと発音していた。

この番組に出た新井 淳一という桐生の絹織りものの専門家も、はっきりメーセンと発音していた。

日本語はむずかしい。

翌日の同じ番組で、アナウンサーが、「昨日の放送で、銘仙の発音に誤りがありましたので、訂正いたします」
とだけ弁明した。

恥ずかしそうな顔もしていなかった。

1363

少し前のこと。
1月24日、テオ・アンゲロプロスが亡くなった。
「旅芸人の記録」、「エレニの旅」、「第三の翼」などの映画監督である。三部作の最後の作品になるはずの「もう一つの海」の撮影中、アテネ近郊で、オートバイにはねられて死亡した。なんともいたましいできごとだった。

しばらく前までの私は作家や詩人の訃を知ると、その人たちの作品を探しては読むことにしていた。たいして意味のあることでもないが、追善の思いもあったと思う。

ところが、映画人の訃を聞いても、ほとんどの場合、ゆかりの映画1本すら見ることができないのだった。
私が見たいと思ったテオの映画は「シテール島への船出」だが、残念なことにビデオもDVDももっていなかった。
だから、心のなかで、ところどころ映画のシーンを思いうかべるだけで、アンゲロプロスを追悼した。

ホイットニー・ヒューストンが亡くなった。
2月11日午後3時55分(日本時間/12日午前8時55分)、ロサンジェルスのホテル「ビヴァリー・ヒルトン」の一室で倒れていたという。

有名人、とくに映画スター、シンガーといった芸術家が生涯を閉じたとき、ありし日の名声をおのれの心にきざみつけようと願うのはごく自然な感情だろう。その願いは、ファンならなおさら切実なものになるだろう。

私はホイットニー・ヒューストンのファンではなかった。彼女のCDももっていなかった。
だからDVDの「ボディガード」を見て、ホイットニーをしのぶよすがにしたかったが、これももっていないのだった。

今後の私がホイットニーについて、何か書くだろうか。おそらくないだろう。では、テオ・アンゲロプロスについて書くことがあるだろうか。
これもないだろう。

故人の行実をつたえるのは、そのファンや、その平生を知る人によって語られるべきだと思う。私などはそれによって、あらためて故人の冥福を祈るしかない。
哀惜の情はその芸術家を知る人にとってあまねきものとなるだろうから。

1362

焼け出された日の朝、私は吾妻橋のたもとにあるポートワインの工場に行った。
ここにも、数人の人が入っていた。工場内は全部焼け、無数のビンが破裂して、ワインの匂いがたちこめていた。破裂したビンのなかに、煮立ったお湯のようなワインが残っている。みんなが、割れたビンを口にあてて、熱湯のワインを飲んでいるのだった。
私もワインを飲んだ。咽喉の渇きを癒すために。すぐに酔いがまわった。
この工場に入った連中は、罹災者のなかではいちばん幸福な気分を味わった人たちではなかったろうか。
つい数時間前まで業火に焼かれて、死の恐怖にさらされていたことを忘れて、無尽蔵にころがっている美酒に酔いしれたのだから。

昼になって、どこかの工場の焼け跡にブドウ糖の大きな固まりが放置されているというウワサが流れてきた。それを聞きつけた罹災者たちが押し寄せた。甘いものにたかるアリのように。私も、蟻の仲間になった。
めいめい、焼け落ちた瓦や棒ツ杭で、そのブドウ糖の固まりをカチ割って、両手にかかえて持って帰ろうとしていた。
私はやっと掌に入る程度のブドウ糖のカケラをひろって、黒く焼けた灰をこそぎ落として口に入れた。唾液も出なくなっていたが、それでも甘くておいしかった。
焼け出されてから、はじめて口にした食べものだった。

焼けた石油缶でミズアメをすくいあげて、もち帰った人がいた。スプーンや箸があるわけもない。ミズアメは、指でしゃくってなめるしかない。それでも、飢えた人たちがアリのようにたかっていた。
ミズアメに片栗粉か何かをまぶして食べようと考えた人がいる。そして、誰かが、どこかの工場の焼け跡で、白い粉の山を見つけた。
その粉を手にすくって、ミズアメにからめまるくする。つぎつぎにアメダマができた。
そのアメダマを口にほうり込む。
つぎの瞬間に、その人は息が絶えた。

この粉末をメリケン粉と間違えた人が続出したらしい。私の隣組にも、その粉が致死的な青酸カリか砒素のような毒物だという知らせが届いた。
それを聞いた連中はあわてて北十間川の中に、石油缶をつぎつぎに放り込んだ。私の隣組では誰も被害をうけなかったが、近くの隣組では何人か死者が出たらしい。

毎年、3月になると、私の内面には1945年のさまざまな光景を思い出す。

吉永 珠子が書いてきた。

  戦争を知らない私は、大きな災害、不幸が、直接の被害ではないにしろ、このように心に覆いかぶさってくるのだとはじめて知りました。

墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。
私の内面には「覆いかぶさってくるもの」がけっして消えない。

業平橋で生まれ育った詩人の関根 弘、同じく作家の峰 雪栄(あまり有名にならずに筆を折ったが)が生きていたら、私と同じことを考えるだろう。

スカイツリーの見物なんぞに誰が行くものか。

1361

3月10日が近いので、もう一度、書いておく。

墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。物見高い連中がわれがちに押し寄せるだろう。

私ですかい?
せっかくでござんすが、ご見物は遠慮させていただきやす。へえ。

少年時代の私が住んでいた小梅町、吾妻橋二丁目は業平橋のすぐ近くで、小梅町から今のスカイツリーまでほんの数分、吾妻橋二丁目からは、ほんの二、三分の距離だった。

1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による大空襲で壊滅した。

この大空襲で、私の隣組(全体で30名ばかり)にも半数近く死者が出た。すぐ近くの「お妾横町」の住人たちは、ほとんど全部が焼死している。
なんとか焼死しなかった私は、まだ煙がくすぶって、焼死体が折り重なっているなかを近くの駅に押しよせる群衆を見た。亀戸にむかう大通りは無数の死人で埋まり、上野、御徒町、鶯谷は無残に焼けただれて、罹災者たち、さらには帰宅困難者たちがひしめきあっていた。
今と違って、救援物資があるはずもない。食べるものもなかった。咽喉がかわききっていたが、水一滴もなかった。
少年の私は、公園に行けば水道があると思って、歩き出した。公園で見たのは、この世のものとも思えない地獄図絵だった。
着ているものが焼けて、茶色、暗褐色、黒い焼死体が、両手をひろげてゴロゴロころがっている。
それを見ても感情が動かなかった。ただ、水が飲みたいと思って歩きつづけた。

公園に水道はあったが、セメントが焼け落ちて、水が出るはずもなかった。その近くの公衆便所の中に、やはり黒こげの死体が倒れ、その下に茶色の死体がひしめきあっていた。
その日、私たち家族は何も食べなかった。

焼け跡は、どこに行っても、食料や水を探す人たちが歩いていた。誰もが着のみ着のまま、焼けこげた服やモンペ姿、ときには下着も焼けて赤くなった肌をさらした人たちばかりで、墓場をうろつくゾンビのようにさまよい歩いていた。すべてが焼きつくされている。何もかも焼けているので、吾妻橋から神田、九段まで、ひろびろと見通しがきいた。下町全部が焼きはらわれたので、見はらしがきくようになっていた。
(つづく)

1360

昭和初期、日本はアメリカの大不況の影響をモロにうけていた。当然ながら、大学生の就職活動も危機的な様相を呈している。

下村 海南の別の随筆(「現代」昭和4年10月号)の一節。

 

此の如き実情は就職難の場合に於て 更らに著るしい。日本三井三菱住友正金第一安田その他の銀行はもとより、各民間の重なる会社に就職を志願するものは、各数百人を算する。しかも採用さるるものは五指を屈するに足りない。しかし殆どそれらの大部は同じ志願者によりてくり返されてゐる。朝日新聞社の入社志願者は千人に近い。しかもその九分九厘までは他の新聞社はもとより、他のあらゆる方面にも志願してる。職に就きうるや否やが問題である以上自分勝手にすき好みして居れぬ。出来るだけ沢山股にかけて、手あたり次第志願をする。現にさる大阪の大学の友人の親しく僕に話したは、卒業生の大部は平均七八ケ所に志願してる。尤も多いレコードは十三ケ所に志願してゐたといふ事であつた。(後略)(「現代」昭和4年10月号)

「最も」という部分を尤もと書いているのは、誤記か、誤植か。

 

その下村 海南は二年後の「現代放語」(「現代」昭和6年4月号)に書いている。

 

卒業近(ちかづ)いて就職運動に火花を散す。世界の不景気の洪水がいまや失業者二千万人を突破してる。滔天の渦流に逆(そから)って就職に喘ぐ青年の境遇は誠に同情に価する。何分(なにぶん)にも世界対戦の好況に浮いた浮いたと全国に学校の総花が振りまかれた。官立の高等諸学校だけが今や、学生の数は七万近い。これでは景気が好くなってもはけて逝かれよう道理がない。戦後繋船してる世の中にかまはず造船してると同じ事だ。

現在の私たちは、ギリシャ、スペイン、イタリアの信用不安、リビア、エジプトの崩壊から、シリアまでの「アラブの春」、そして空前の大震災、放射線被害などにさらされている。昭和6年の不況とは比較にならない苦しみにさらされている。

1359

二月、大学、大学院卒業予定者の就活(就職活動)がいよいよ最後の追い込みに入っている。
今年の就活は、昨年のシーズンよりも、2カ月遅れているため、いわば短期決戦になっているという。

なにしろ、ものごころついていらい、好況期を知らずに育った世代だけに、就職の希望も人気企業に集中している。

ある就職情報誌の、就職先の「人気企業」のランキングを見た。
男女別、文系、理系にわけてある。
まず、文系男子、理系男子から――

1 三菱商事        昨年度(1位)
2 住友商事           (3位)
3 三井物産           (6位)
4 三菱東京UFJ銀行      (2位)
5 伊藤忠商事         (15位)

1 東芝          昨年度(1位)
2 日立製作所          (4位)
3 三菱商事           (3位)
4 ソニー            (2位)
5 住友商事           (5位)

つづいて、文系女子、理系女子は――

1 東京海上日動火災保健  昨年度(2位)
2 三菱東京UFJ銀行      (1位)
3 JTBグループ        (14位)
4 みずほフィナンシュルグループ (3位)
5 三井住友銀行         (16位)

1 明治グループ      昨年度(1位)
2 ロッテ            (2位)
3 資生堂            (4位)
4 森永製菓           (12位)
5 日清製粉グループ       (・・)

この調査は、昨年11月から今年の1月下旬にかけて、全国の国公立、私立の学生、7O48人から回答を得たという。(「読売」2012.2,1)
こんなリストからも、じつにいろいろな状況が読める。
一部のジャーナリズムが「女子大生亡国論」といったテーマで、ふざけまわっていた時代もあったっけ。
そういえば、思い出したことがある。
(つづく)

1358

最近の私は、前に読んだがあまりよくわからなかった本や、若いときに一度読んだきりで忘れていた本を読み返している。

たとえば、エリザベート・バダンテール。
私にはどうもむずかしい本だが、彼女の論理のしなやかさに魅力があった。読んでいるうちに、ときどき反論したくなって、彼女の論理をたどり直すのだが、彼女の説得力たるやたいへんなもので私の反論の余地などあり得ないような気がしてくる。現実にこういう頭のいい女性に出会ったら、私などは逃げ出すだろうな。

そして、若い頃読んだ作家だが――フィリップ・エリア。

この作家はもともと誰も知らないだろうが、ゴンクール賞を受けた作家で、私はこの作家と夫人のエレーヌ・エリアが好きだった。
日本では翻訳もない作家だが、戦後のフランス文学の紹介が、どんなに狭いものだったか。結果として、日本ではフランスの現代文学は、ヌーヴォ・ロマン以後、殆ど読まれなくなってしまった。 残念な気がする。

昨年の暮れ、岸本 佐知子から、ジョージ・ソーンダーズの「短くて恐ろしいフィルの時代」(角川書店)を贈られた。
この本はお正月のたのしみにしていたのだが、やっと、初雪(例年より17日も遅かった)の日に読んだ。これまた、じつにおもしろかった。
岸本 佐知子は、その前に、ショーン・タンの絵本、「遠い町から来た話」(河出書房)を訳していて、翻訳家としてあたらしい分野に乗り出しているように見える。

最近の私はめっきり本を読むスピードが落ちた。だから、ちょっと前に読んだ本や、若いときに読んだだけの本を読み返している様なものだ。

先輩の白井 浩司(フランス文学研究者)が、晩年、ジャック・ド・ラクルテールを読み返してエッセイを書いていた心境が、なんとなく分かるような気がする。

1357

あまり本を読まなくなった。
読んでもスピードが出ない。簡単なことばしか残らない。

本を読みながら、ときどきメモをとったりする。メモしておかないと、どんな部分も忘れてしまう。どういう本から書きとめたものか思い出さない。

たとえば――

 

一日じゅう機知ばかりひけらかす殿方ほど、こわいものはありませんわ。

セヴィニエ夫人。

 

どこで読んだっけ。もう、思い出せない。思い出せなくても、いっこうに困らないけれど。

女が間違ってごらん、すぐに男たちがうしろについてくるのさ。

メェ・ウェスト。

いつ、どこで、メェ・ウェストがいったおことばなのか。

 

始まりは、あたえること。

ミュリエル・ルケイザー。

 

これも凄いね。英語だと、もっと凄い。

Beginning is giving.

 

ときどき、いいことばに出会う。そんなときは、いい俳句を読んだときのように、しばらく楽しむことにしよう。どうせ、すぐに忘れてしまうけれど。

 

 

 

1356

焼け出された日の朝、私は吾妻橋のたもとにあるポートワインの工場に行った。
ここにも、数人の人が入っていた。工場内は全部焼け、無数のビンが破裂して、ワインの匂いがたちこめていた。破裂したビンのなかに、煮立ったお湯のようなワインが残っている。みんなが、割れたビンを口にあてて、熱湯のワインを飲んでいるのだった。
私もワインを飲んだ。咽喉の渇きを癒すために。すぐに酔いがまわった。
この工場に入った連中は、罹災者のなかではいちばん幸福な気分を味わった人たちではなかったろうか。
つい数時間前まで業火に焼かれて、死の恐怖にさらされていたことを忘れて、無尽蔵にころがっている美酒に酔いしれたのだから。

昼になって、どこかの工場の焼け跡にブドウ糖の大きな固まりが放置されているというウワサが流れてきた。それを聞きつけた罹災者たちが押し寄せた。甘いものにたかるアリのように。私も、蟻の仲間になった。
めいめい、焼け落ちた瓦や棒ツ杭で、そのブドウ糖の固まりをカチ割って、両手にかかえて持って帰ろうとしていた。
私はやっと掌に入る程度のブドウ糖のカケラをひろって、黒く焼けた灰をこそぎ落として口に入れた。唾液も出なくなっていたが、それでも甘くておいしかった。
焼け出されてから、はじめて口にした食べものだった。

焼けた石油缶でミズアメをすくいあげて、もち帰った人がいた。スプーンや箸があるわけもない。ミズアメは、指でしゃくってなめるしかない。それでも、飢えた人たちがアリのようにたかっていた。
ミズアメに片栗粉か何かをまぶして食べようと考えた人がいる。そして、誰かが、どこかの工場の焼け跡で、白い粉の山を見つけた。
その粉を手にすくって、ミズアメにからめまるくする。つぎつぎにアメダマができた。
そのアメダマを口にほうり込む。
つぎの瞬間に、その人は息が絶えた。
この粉末をメリケン粉と間違えた人が続出したらしい。私の隣組にも、その粉が致死的な青酸カリか砒素のような毒物だという知らせが届いた。
それを聞いた連中はあわてて北十間川の中に、石油缶をつぎつぎに放り込んだ。私の隣組では誰も被害をうけなかったが、近くの隣組では何人か死者が出たらしい。

そういう光景を思い出すと、今回の地震で、JRや地下鉄の駅がどこも火災の被害を受けなかったこと、各地に大火が起きなかったことは不幸中の幸いといえるだろう。

墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。
しかし、私がスカイツリーの見物に行くことはない。

1355

墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。
私はスカイツリーの見物に行くことはないだろう。

1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による大空襲で壊滅した。

私が住んでいた吾妻橋二丁目は業平橋のすぐ近くで、今のスカイツリーからほんの数分の距離だった。
この大空襲で、私の隣組(ぜんたいで30名ばかり)にも半数近く死者が出た。直ぐ近くの「お妾横町」の住人たちは、ほとんど全部が焼死している。
なんとか焼死しなかった私は、まだ煙がくすぶって、焼死体が折り重なっているなかを近くの駅にひしめく群衆を見た。亀戸にむかう大通りは無数の死人で埋まり、上野、御徒町、鶯谷は無残に焼けただれて、罹災者たちがひしめきあっていた。

今と違って、救援物資があるはずもない。食べるものもなかった。咽喉がかわききっていたが、水一滴もなかった。
少年の私は、公園に行けば水道があると思って、歩き出した。公園で見たのは、この世のものとも思えない地獄図絵だった。
着ているものが焼けて、茶色、暗褐色、黒くこげた焼死体が、両手をひろげてゴロゴロころがっている。
死体を見ても感情が動かなかった。ただ、水が飲みたいと思って歩きつづけた。

公園に水道はあったが、セメントは焼け落ちて、水がでるはずもなかった。その近くの公衆便所の中に、やはり黒こげの死体が倒れ、その下に茶色の死体がひしめきあっていた。
その日、私たち家族は何も食べなかった。

焼け跡は、どこに行っても、食料や水を探す人たちが歩いていた。誰もが着のみ着のまま、焼けこげた服やモンペ姿、ときには下着も焼けて赤くなった肌をさらした人たちばかりで、墓場をうろつくゾンビのようにさまよい歩いていた。すべてが焼きつくされている。何もかも焼けているので、吾妻橋から神田、九段まで、ひろびろと見通しがきいた。下町全部が焼きはらわれたのだった。
(つづく)

1354

映画、「アウトサイダー」は、昭和58年(1983年)8月27日に公開された。
主演は、C・トーマス・ハウエル、マット・ディロン、ラルフ・マッチォ。まだ、ティーネイジャーだったダイアン・レインが出ている。
場所は、オクラホマ、タラサ。

 

この都会の貧民街の少年たちは、髪の毛をコテコテにポマード(グリース)でかためる「グリース」と呼ばれている。彼らは、上流の「ソッシュ」と呼ばれるグループと対立している。「グリース」のひとり、「ジョニー」(ラルフ・マッチォ)は、ケンカの相手をナイフで殺してしまう。リーダーの「ダラス」(マット・ディロン)は、山奥の教会に逃がしてやる。だが、この教会が失火で全焼し、「ジョニー」は病院で死ぬ。
「グリース」のリーダーの「ダラス」は、「ソッシュ」に襲われて死亡する。
この「ソッシュ」のひとりに、後年、スターになるトム・クルーズが出ていた。

映画会社は、「アウトサイダー」を夏休みの期間中に公開しようとしていたらしい。逆算すると、翻訳をしあげるまで、時間的な余裕がなかった。すぐにも翻訳にかからなければ、公開前に出せない。なにしろ時間がないので、映画の試写も見なかった。
「富士通」に頼んで、「山ノ上」にワープロを届けてもらって、私はひたすら翻訳に没頭した。私の訳は公開直前に出たが、書店の棚にすでに別の出版社のハードカヴァー本も平積みになっていた。
私はその翻訳家の手になる「アウトサイダー」を手にとって、書き出しの部分を読んでみた。さすがに、流麗で読みやすく、みごとな訳だったが、全体におしとやかで、典雅な訳になっていた。
なにしろ私の訳は、少年鑑別所に「ネンショウ」とルビをふるような訳なので、まるっきり別の作品の訳のように見えた。当時の「コバルト文庫」編集長は私の訳を読んで、これではまるでハードボイルド小説じゃないか、と青くなったという。
それでも、私の訳した「アウトサイダー」はかなりいい成績をおさめた。

このYAシリーズの成績は、大きなバラつきがあって、私のS・E・ヒントン以外では、売り上げ部数がわずか数百部という、惨憺たる成績のものもあって、30冊ばかり出したあとでこのシリーズは打ち切られてしまった。

坂崎 倭、竹本 祐子、羽田 詩津子、中山 伸子、矢沢 聖子のように、このシリーズの翻訳がきっかけで翻訳家として有名になった人も多い。

 

今の私は、「アウトサイダー」を訳していた時期はおもしろかったな、と思う。
北上 次郎のエッセイを読んだおかげで、忘れていたことをいろいろと思い出した。
「アウトサイダー」が出たときから、「ヤングアダルト」ということばが定着したのではないか。

 

 

1353

とりあえず、S・E ・ヒントンの4作を翻訳することがきまった。
そして、「コバルト文庫」の「ヤングアダルト小説」シリーズ、初期の作品はほとんど私が選び、翻訳も私のクラスにきていた人たちに依頼したのだった。
当時の私は、ある翻訳学校で、翻訳家を志望する人たちといっしょに勉強していた。
後年、この翻訳学校は有名になるが、当時は、まだ零細企業で、生徒数も少なかったし、現実に翻訳家になった生徒もいなかった。私はクラスの生徒たちに翻訳の機会をあたえるために、いろいろな企画を立てては出版にこぎつけようとしてきたのだった。
私は「コバルト文庫」で「非行少年」(原題「ランブルフィッシュ」)、「続アウトサイダー」を訳した。ヒントンのもう1作、「テックス」は、私が教えていた翻訳学校のクラスでも、もっとも優秀な坂崎 倭に翻訳を依頼した。
私は翻訳を引きうけて、すぐに「山ノ上」ホテルに入った。映画の公開が迫っていた。私は全力をあげて訳しはじめた。
シリーズの一番バッターとして失敗はしたくなかった。

最後の1章を訳し終えたとき、ホテルの窓から夏の夜明けを眺めながら、自分の翻訳は、いちおう合格だろうと思った。
(つづく)

1352

「アウトサイダー」の翻訳は、私にとってはスリルにみちたものになった。

集英社の「コバルト文庫」は、それまで翻訳ものを1冊も出したことがなかった。
若い読者に人気のある津村 節子、富島 健夫、もっと若い女性作家たち、正本 ノンなどのジュヴナイルものだけを出していた「コバルト文庫」としては、いきなりアメリカの翻訳ものを出すことに不安をもったのも当然だった。
たとえ翻訳ものを出すにしても、映画のノベライズものを出すにしても、「ヤングアダルト小説」という認識ではなかったに違いない。
当時、私は継続的に映画批評を書いていた。
ジュヴナイルものでも、70年代から大きく変化してきて、「ダウンタウン物語」や、「ウォリアーズ」のような傑作が登場する。
1980年のアメリカ映画、「リトル・ダーリング」(ティタム・オニール主演)や、「青い珊瑚礁」(ブルック・シールズ主演)、「フォクシー・レデイ」(ジョデイ・フォスター主演)といった映画があらわれる。したがって、「アウトサイダー」をはじめアメリカで読まれている「ヤングアダルト小説」を翻訳すれば、新しい路線が生まれるだろう。私は「コバルト文庫」が翻訳ものを出すなら、はっきりあたらしいシリーズものとして出したほうがいい、と主張した。
「ヤングアダルト小説」が、それまでの「少女小説」、「青春小説」とどうちがうのか、そんなことも説明したと思う。
当時(1982年)の「マイ・ボデイガード」(マット・ディロン主演)や、「タイムズ・スクェア」(トニ・アルバラード主演)、「エンドレス・ラブ」(ブルック・シールズ主演)、「初体験 リッジモンド・ハイ」(フィービ・ケイツ主演)といった映画をあげれば、私のいう「ヤングアダルト小説」の概念ははっきりしてくる。

「コバルト文庫」側は、かならずしも私の主張を信用したわけではなかった。
そこで私は、まずトップバッターとして「アウトサイダー」を訳すが、ひきつづいて、S・E ・ヒントンの4作を翻訳することを条件にした。私が土台を作っておけば、シリーズとして「ヤングアダルト小説」が定着する。私としてはそれなりに自信があった。
(つづく)

 

 

1351

北上 次郎のエッセイについてもう少し書いておく。

この集英社文庫版の訳者あとがきに「ヒントンは、アメリカのYA小説を代表する一流作家です」とあるが、アメリカで発表されたのが一九六七年なら、一九七〇年代初頭にそのヤングアダルトという名称が日本に伝わったとしても不思議ではない。いや、まだ七〇年代説にこだわっているんですが。「アウトサイダー」が翻訳されたのは発表後十六年もたってからだが、翻訳前にその名前だけが新しい時代の空気として輸入されたということはなかったろうか。
一九七〇年前後といえば古い時代の規範がなくなり、新しい時代の到来を告げるさまざまなものがいっせいに浮上した時代である。新しもの好きな日本人が、アメリカの若者たちの台頭を告げるムーブメントの名称を使ったことは考えられる。実例を出さないかぎりすべては仮説に過ぎないのでしばらくは宿題にしておくが、とりあえずそのヒントンの「アウトサイダー」を読んでみた。

このエッセイのおかげで、私はS・E・ヒントンを訳した頃のことを思い出した。

一九七〇年代初頭にヤングアダルトという名称が日本に伝わったことはない。
たしかに、「アウトサイダー」が翻訳されたのは発表後十六年もたってからだが、私が翻訳する前に、「ヤングアダルト小説」という名前が新しい時代の空気として輸入されたことはなかった。はっきり断言してもいい。
翻訳の世界でも「ヤングアダルト小説」を翻訳しようなどと思った人はいなかったはずである。いたとしても、よほどのものずきと見られたに違いない。当時、アメリカのジュヴナイルものを出していたのは、秋元書房ぐらいのもので、それも「ヤングアダルト小説」という概念で出版していたわけではない。おもに中学生、女子高校生を対象にした「少女小説」、「青春小説」といった程度のものだった。
この出版社のシリーズで、私が注目した作家はモーリン・デイリーだけだった。(作家、ウィリアム・マッギヴァーン夫人である。)しかし、モーリン・デイリーでさえも、ごくふつうの「少女小説」といった程度のあつかいで、まったく評判にならなかった。

もう時効だから、書いておくのだが――「アウトサイダー」という作品は、私が翻訳するよりも前に、ある出版社が翻訳権を取得していた。これはハードカヴァーの出版権だった。その出版社は翻訳ものを多く出していたし、「アウトサイダー」の翻訳は、若い読者のための翻訳書で有名な翻訳家が手がけることになっていた。
集英社は後発、というかずっと出遅れていた。
コッポラがこの作品を映画化して、いよいよ日本でも公開されるときまってから、やっと翻訳権を交渉した。はじめから「コバルト文庫」に入れるために交渉したわけではなかった。たいして期待はしていなかったから、はじめからハードカヴァーで出すつもりではなかった。したがって、翻訳権の争奪といった事態はなかった。

「コバルト文庫」が私に翻訳の依頼をしてきたのは1982年7月末だった。
(つづく)

1350

この「コージートーク」も、今年はなんとか幅をひろげよう。さて、何かおもしろいネタはないものか。

昨年の暮、こんなエッセイを読んだ。私にいくらか関係があるので、ここに引用しておく。(「音遊人」2011年11月号)
筆者は、北上 次郎。ミステリーの評論家として知られている。

 

ヤングアダルトという名称が日本でいつごろから使われだしたのか、必要があってしらべている。私の記憶では一九七〇年代初頭にすでにあったような気がしていたのだが、そのころの本を調べてもヤングアダルトという名称は未だ見つからない。たどりついたのが、一九八〇年代初頭である。
(中略) 実は七〇年代説をまだ捨てきれないのだが、一般的にヤングアダルトという名称が使われだしたのはそのころ(一九八〇年代初頭――中田注)という説のほうが有力のようだ。その八〇年代説と一緒に語られる実例が、S・E・ヒントン「アウトサイダー」(中田耕治訳/集英社文庫)である。一九六七年、ヒントンが十七歳のときに書いたこの小説がアメリカで話題になり(コッポラによって映画化もされた)、日本で翻訳が出たのは一九八三年。

 

これには驚いた。むろん――「ヤングアダルトという名称が日本でいつごろから使われだしたのか」、調べている人がいることに驚いたのだが。

答えは簡単で――「ヤングアダルト」という名詞が、日本ではじめて使われたのは、一九八〇年代初頭から。
英語圏ではもう少し前から使われていたはずだが、当時の「NEW COLLEGIATE」(研究社/1967年初版)にも、「ヤングアダルト」という項目はない。

はじめて「ヤングアダルト」という名詞、「ヤングアダルト小説」ということばを使ったのは、おそらく私だったと思う。このことは当時のコバルト文庫の編集者たちや、小学館でジュヴナイルものを担当していた若杉 章なら、よく記憶しているはずである。

S・E・ヒントンの作品が「アメリカで話題になり(コッポラによって映画化もされた)」というのも順序が逆で、映画監督、フランシス・フォード・コッポラが、ほとんど無名といっていいS・E・ヒントンの作品を読んで、映画化をきめた。そのため、この「ヤングアダルト小説」が評判になったのだった。     (つづく)

1349

昨日までかかって、やっと1編、エッセイを書いた。ある映画スターの話。
短いものだが、書きはじめてから、三年近くかかって、やっとなんとか書きあげた。その余波というか、まだ、心が揺れているような感じがある。
そこで、そのエッセイに書かなかった、別の女優さんの事を書いておこう。

アニタ・スチュワート。

この女優さんは、1895年、ブルックリン生まれ。義兄が「ヴァイタグラフ」の映画監督だったラルフ・インス。
映画通なら、この名前からピンとくるだろう。ラルフの兄はトーマス・インス。
これだけで、アニタが「ヴァイタグラフ」の女優になった事情も想像がつく。
「ヴァイタグラフ」が「ファースト・ナショナル」に買収されたため、アニタがそのまま「ファースト・ナショナル」の女優になったことも。

当時の「ファースト・ナショナル」は「パラマウント」と並ぶ大会社で、多数の美人女優を専属にしていた。チャップリンの最初の夫人、ミルドレッド・ハリス、非の打ち所のない美女といわれたキャスリン・マクダナルド、スリムで清楚なアニタ・スチュワート。

ルイス・B・メイヤーが、映画製作にのり出したのは、1917年。彼は、アニタ・スチュワートの映画のプロデュースをすることで、大プロデューサーの道を歩みはじめる。

日本で公開されたアニタの映画は、「懐かしのケンタッキー」(19年)から「誓いの白薔薇」、「運命の人形」(20年)まで、11本。当然、人気投票では、トップを争うスターだった。
ところが、アニタは突然、映画界を去る。第一次大戦が終わった。
1925年、ルイス・B・メイヤーはMGMの副社長になる。そして、フランスの映画監督、モーリス・トゥルヌールの映画、「東は東、西は西」にアニタを出演させた。

だが、アニタは自分が「戦後」の気分にあわなくなっていることに気がつく。
そして、引退。
いいねえ。女として、みごとな生きかたをつらぬいた。

こういういさぎよいスターもいる。

なぜ、こんなことを書いておくのか、って?

昨日までかかって、やっと1編、エッセイを書いたから。もう、何を書いたか、すっかり忘れているのだが。(笑)

 

1348

前回、団十郎のことを書いたので、ことのついでに。

私は、五世(白猿)も、七世、八世も見たことがない。あたりまえのことである。ただ、五世(白猿)の文学的な才能には興味があった。

おとろへた世と誰が云し 歳の市

去年のように、大震災や、原発事故、ヨーロッパの信用不安、円高、閣僚の失言、更迭とさんざんの事件で、私なども元気のない歳末をむかえたが、そんな年の瀬でも、さすがに歳の市ともなればけっこうの繁盛を見せていた。
この一句、よく読むと、為政者に対する白猿のせせら笑いが響いている。

鶯に この頃つづく 朝寝かな

これだって、のうのうとした日常を詠んだものと見えながら、いささかの、やりきれない気分がふくまれているかも知れない。

世を捨てて 友だち多くなりにけり 月雪花に 山ほととぎす

ここまでくれば、白猿の鬱々たる心境を察すべきだろう。

団十郎は、当時の俳優としては異様な自意識をもっていたように見える。私は、老境の白猿がひょっとすると鬱病ではなかったか、と想像している。
作家、山東 京山が書いている。

 

役者なりとて無礼を一揖なし、おしろい付けさせつついひけるやう、昨日も顔におしろいつけさせながら涙をおとし候。それはいかんとなれば、御素人様ならばたとへ家業をゆづり隠居をもすべき歳なり。然るにいやしき役者の家に生れし故、歳にも恥ぢず女の真似するはいかなる因果ぞと。しきりに落涙いたし候。役者としてここに心づきては芸にもつやなく永く舞台はつとまらぬものなりと、歎息して語りけるに、はたして二三年の後寺島村に隠居せり。

 

山東 京山は、京伝の弟。寺島村は、いまの向島。(今の女優の、寺島 しのぶの名も、寺島村に由来しているだろう。)
それはそれとして、当時の狂歌に、

我等代々 団十郎ひいきにて 生国は 花の江戸の まんなか

作者は、つぶり光。(つぶりは、頭。あとは説明しなくてもいいだろう。)

じつはこの正月、青木 悦子が、柴又、帝釈天のお守りを私に贈ってくれた。これはうれしかった。
ちなみに青木 悦子は、マイクル・コリータの「夜を希う」(創元推理文庫)の訳者だが、この作家は、あたらしいハードボイルドといっていい。作品がいいところにもってきて、悦っちゃんの訳がいい。
最新のハードボイルドの訳者が、下総在のご隠居に帝釈天のお守りを届ける。やっぱり江戸の女はやることが違うね。

最近の私も「世を捨てて 友だち多くなりにけり」の心境なのだが、今年から帝釈天さまにあやかって、中田 寅ジローというペンネームにしようか。(笑)

 

 

1347

今年のお正月、別にどうってことはなかった。くそ、おもしろくもねえ。
だから、毎日、何もしないで、ボケボケとすごしていた。

今年の小生の偈。

   人生八十年 つらつら観じ来たって、ついにボウボウなりき。

この「茫々」は、漢字で 目ヘン ツクリは 毛 と書く。むろん、パソコン、ワープロの「辞書」にはない。私はこの「ぼうぼう」を「ボケボケ」と読むことにした。
最近は、言葉が乱れているのだから、はじめから間違った読みかたをしたところで、誰も咎めないだろう。(笑)

七世、市川団十郎(1791-1859年)と、八世、市川団十郎(1823-1854年)の未公開の手紙が見つかったという。(「読売」’02.1.6.夕刊)

天保13年(1842年)、いわゆる天保の改革で、七世、市川団十郎は、江戸を追放され、6月、千葉の成田山に移った。新聞記事によると、団十郎は、10月、静岡の伊達というパトロンにあてて、

「御領主より此地には置かれぬと言われた時は、天竺かおらんだへ出立と思い申し候」と記し、名優の自尊心を吐露した。

伊達家では、さっそく団十郎に着物や、食べものを届けた。
10月、団十郎は礼状を書き、目玉の絵を描いて「めでたく」と茶目っ気も見せた。

今では誰も使わない漢字に、私が、間違った読みをつけても、笑うヤツはいないだろうな。エヘヘヘ。

1346

新年になった。今年も「コージートーク」に何か書ければ書いてみたい。

友人の安東 つとむのおかげで――このところ短いエッセイを書きつづけている。いまではもう誰ひとり思い出すこともないサイレント映画のスターたちのことを。

グレタ・ガルボは別格だが、リリアン・ギッシュ、アラ・ナジモヴァ、ビーヴ・ダニエルズ、オリーヴ・トーマス、コリーン・ムア、メェ・マレイ、リアトリス・ジョイなとについて。つい先日、ヴィルマ・バンキイを書いたが、これからも、メァリ・ブライアンか、アンナ・Q・ニルッソンなどについて書くつもり。

どうして、こんなものを書いておくのか。

かつて有名だったスターたちの生涯を見直していると――青春期と名声がいっぺんに重なってやってくることの重さ、といったことを考えさせられる。
ふつうの女性には、青春と名声が雪崩をうってやってくる、といったことはない。大抵の職業では、名声がやってくるのは、ある程度、長い修行をへて、はじめて名声を得るわけで、少数のすぐれた芸能人や、ごく一部の芸術家などが、例外的に、名声を獲得するだけのことだろう。

若い娘たちは、生きていること自体で、名声など必要としない、ありあまるほどのオドール・デ・フェミナをもっている。それが青春というものだろう。
老齢になったスターたちを想像してみるがいい。
冬枯れの樹木のように、ありとあらゆる快楽、歓喜が枯れ果てたあと、彼女が不死鳥のように生きさせるのは、名声なのである。
こんなことばがある。

 老齢になって、自分がみずからの青春時代の力を、ともに老いることのない作品に統一したということ、これ以上美しい慰めはない。

ショーペンハウェルのまわりくどい思弁が続くのだが、私の考えはいくらかショーペンハウェルに近い。

オリーヴ・トーマスは、パリで思わぬ悲劇に見舞われる。
メアリ・マイルズ・ミンターは、殺人事件に巻き込まれる。
バーバラ・ラ・マールは、麻薬とセックスにおぼれて死ぬ。
ジョーン・クローフォードは、売春婦だったが、スターになってから暴露された。
ルーペ・ベレスは、セックスに狂奔して死ぬ。
ラナ・ターナーはギャング相手のセックスを録音され、娘がその相手を殺害する。

サイレント映画の女優たちはけっして不滅の存在ではなかった。
おなじように、私が読みつづけてきたすぐれた短編小説群も、不滅のものではない。
もう誰も思い出すことのないサイレント映画のスターたちのことを考えることも、折りにふれてかつてのすぐれた短編小説を心のなかに喚び起すのも、じつは私にとっては同じことなのだ。老齢になって、みずからの青春時代の力を、ともに老いることのない存在に重ねあわせる。つまりは私の精神がまだ死んでいないことの証(あかし)なのである。