1385

しばらく前に「スリット・アート」について書いた。
いわば「スリット・アート」趣味である。(安いポンピエを収集する趣味のこと)

どうして、そんな趣味をはじめたのか。

私は、女子美術大の先生だったことがある。
相模原に校舎がある。本館のホールのスペースが、ギャレリーになっていて、毎日のように生徒たちの展示があった。
本格的な油絵の展示もあったし、コンセプチュアル・アートもある。とにかく、毎日、なにかしらの制作が展示されるようだった。
学校側に申請すれば、かんたんに展示ができるようだった。だから、学年や専攻、クラスも違う生徒たちの個展や、数人のグループの展示もあった。

その展示は、ときには油絵で自分のヌードを描いた作品や、生徒たちがお互いをモデルにしたデッサン、クロッキーなどもあった。むろん、かなり、レベルの高い焼きものや、ガラスの食器などもあった。

じつに色々な才能が、いっせいに芽吹こうとしている。そんな感じが見られて、私は楽しかった。
たまに、れいれいしく値がつけてあるものもあった。むろん、学内で売れるはずもないのだが。
いくばくかの対価を払って、そんな絵を買ってやったこともある。

私は、生徒の作ったグラスでワインを飲んだり、海辺でひろった土管の切れはしに、女の子たちが彩色したオブジェを机に飾ったりした。
私のクラスの女の子から作品をもらったこともある。その一枚は、今でも私の仕事部屋に掛けて私の讃仰のまなざしをあびている。

吉永 珠子が、マリリン・モンローの写真をたくさんアレンジして、プラスティックで固めたオブジェも私のトレジャーだったが、後に接着剤が変質して、半分から崩れてしまった。私は泣きそうになった。

 

 

1384

先日、私は書いたのだった。

「俳句や、歌舞伎、遊女のことなど、これまで書く機会がなかったテーマも、ときどき書くつもり。ただし、まるっきり無趣味な男なので、何を書いたところでたいしておもしろいはずもないのだが。」

 

そこで、先日、市川 白猿(五世・市川団十郎)のことを書いたのだが、この俳優のことばを書きとめておこう。ただし、私の現代語訳。

私(白猿)が書いてメモしておいた俳句や狂歌などを、良質の紙にていねいに書いて、筐底(きょうてい)に秘めておく、などということは、しばらくたつと、どうも風流なことに思えない。おまけに、俳句や狂歌など、そのつど自分の名をサインするというのも、うるさい。自分でも、これはと思う和歌など、人に披露してよろこぶのは、心ゆくばかりにいさましいけれど、聞かされる側にすれば、さぞ片腹いたいことだろう。こういうことは、日頃からつつしみたいと思う。

いかにも白猿らしいことば。
ただし、団十郎らしいしたたかな自己顕示もはりついている。これは、原文で。

 

 のみます食ひます気が延(のび)ます、合せて三升の定紋は、孫にゆづり葉かやかち栗、海老はもとよりいへのもの、だいだいどころ生へぬきの、八百八町御ぞんじの、花の御江戸のやっかひおやぢ……

 

「孫にゆづり葉」とある「孫」は、七世、団十郎のこと。

どうか、今の海老蔵が八百八町御ぞんじの、花の御江戸のやっかひむすこになりませぬように。

 

1383

ゲーテにこういう詩がある、という。読んだような気がするけれど。

世界は粥で作られてはいない
君等は懶けてぐずぐずするな
堅いものは噛まねばならない
喉がつまるか消化するか、二つに一つだ
(「ゲーテ詩集」岩波文庫)

ようするに、噛むのに苦労するようなものでも、バリバリ噛む。フニャフニャのお粥なんぞ食らって腹をみたすなかれ。そういう意味だろう。

私はゲーテにほとんど関心がない。
「ファウスト」も「ウェルテル」も「ウィルヘルム・マイスター」も読んでいる。「ヘルマンとドロテア」だって読んでいる。しかし、おもしろくなかったねえ。
歯がたたなかった、というよりも、食欲をそそらなかったというべきか。

 

たしかに世界は粥で作られてはいない
しかし、お粥さんを頂くときに、どこのドイツが世界は粥で作られてはいないなどと考えるのか。
オラッチは懶けてぐずぐずるのがうれしいのさ

堅いものは噛まねばならない、だと?
おきやがれ、堅くて噛めねえものもあるんだ
なんなら舐めたり、しゃぶったりすりゃあいい
喉がつまったら、すぐにも指をつっ込んでゲーッテ吐き出すほうがいい

ゲーテを読まなくてもシラーが読めなくても少しも恥じる必要はない
生きるよろこびはあたたかくて、湯気のたつお粥さんが舌から喉を通ってゆく味わいにもあるのだから。

 

由飲食過度、飢飽失節、我的消化力弱。
ごめんなチャイナ、ゲーテさん。

 

1382

昭和36年(1961年)。私が思い出すのは、キューバ危機である。
あのとき、世界じゅうの人々は、アメリカ/ソヴィエト間で全面的な核戦争になるのではないか、という恐怖におののいたのではなかったか。

全人類の運命が、アメリカとソヴィエト指導者の手に握られていることに、ひそかな怒りをおぼえた人も多かったはずである。私もそのひとり。

この昭和36年(1961年)、江藤 淳が「小林秀雄」を、小田 実が「何でも見てやろう」を書いた。
1961年、深沢 七郎の「風流夢譚」が発表されて、右翼が中央公論の社長宅を襲って殺傷事件をおこした。

個人的なことだが、「小林秀雄」を書く前の江藤 淳と、ほんのちょっとした関わりがあった。内村 直也先生の紹介で知り合ったのだが、私は彼の翻訳したコンラッド・エイキンをどこかの出版社からだせないものかと努力した。
生活のために翻訳をしようと考えていた江藤 淳を、当時、「早川書房」の編集者だった都筑 道夫、福島 正実に紹介した。これは、うまくいかなかった。(後年、都筑 道夫は、江藤 淳に会ったときのことをエッセイに書いている。)
小田 実は、「何でも見てやろう」が出版される直前に、「朝日新聞社」(当時は、有楽町の「日劇」のすぐ近くにあった。)の前で会った。
後年の小田 実と違って、蒼白い文学青年といった風貌だったが、鬱勃たる野心を抱いていることはすぐに見てとれた。
その後、私は通俗小説を書くようになったが、はじめての本が出たとき、出版記念会に出席してくれたのだった。
それ以後の小田 実とは、まったく交渉がなくなったが。

私は何をしていたのだろう?

東京の片隅で、ちっぽけな劇団をひきいた私はいつも金策にかけずりまわっていた。なにしろ金がなかった。親しい編集者にたのんで、出版社から印税を前借り、稽古場を借りる、劇場をおさえる。大道具、小道具をかき集めたり。とにかく、公演の費用を捻出するために動いていた。
私は何でも書いた。金がめあての書きなぐり。英語でポットボイラーという。
当時の私は、小説や雑文を書きとばし、同時に翻訳を手がけ、おまけに大学で講義をつづけていた。

いつも火の車だった。

1381

徳川三百年の歴史で、私が関心をもっているのは、「犬公方」と呼ばれた徳川 綱吉。

将軍以外では、尾張の徳川 宗春。

八代将軍、吉宗の時代に、宗春の治世は、

老若男女貴賤共にかかる面白き代に生れあふ事、是只前世利益ならん、仏菩薩の再来し給ふ世の中やと、善悪なしに有難や有難やと、上を敬ひ地を拝し、足の踏締なく、国土太平、末繁盛と祈楽み送る年こそ暮れ行ける

という。(享保十六年/1731年)
是只前世利益は、これ、ただ、ぜんせいのりえき、と読むのだろう。
こういうおもしろい時代に生まれあわせたのも、輪廻(りんね)のしからしむるところ、ありがたいことである、という意味。

ときあたかも、「ロビンソン・クルーソー」、「ガリヴァー旅行記」が書かれたすぐ後の時代。近松が亡くなり、白石、徂来が没した直後。

徳川 宗春の書いた「温知政要」は、りっぱな政治論で、おだやかな主張の背後に、宗春の理想がきらめいている。
その一節を私なりに直してみよう。

そうじて人には好き嫌いというものがある。衣服、食物をはじめ、人によって好き嫌いは違っている。ところが、自分の好きなものを他人に強制しようとしたり、自分の嫌いなものを人にも嫌いにさせようとするのは、たいへんに偏狭なことで、人の上に立つ政治家としては、あってはならないことである。

もとより宗春の姿勢は、幕府の許すところではなかった。
将軍、吉宗は、滝川 元春、石河 政朝を尾張に派遣して、宗春を詰問する。
このため、宗春も、享保十九年、二十年と、家中に布令を出して、綱紀の粛清をはかったが、幕府の追求はきびしく、元文三年(1738年)、ついに隠居を命じられた。

私は徳川 吉宗に関心がない。ただ、宗春蟄居の二年後に、青木 昆陽らにオランダ語の習得を命じて、これが日本の蘭学の発祥となったことを評価する。

総武線、幕張駅の近くに、昆陽神社がある。青木 昆陽を祀ったものという。
神社といっても、低くて小さな丘の上の祠(ほこら)で、あまり人も寄りつかない。
青木 昆陽は、房総が飢饉に襲われたとき、下総の人々に甘薯(さつまいも)の栽培を教えて救ったという。私は、年に一度ぐらいこの丘に立って、コンビニで買ってきたおにぎりをバクつきながら、遠く青木 昆陽を思い、はたして吉宗、宗春のどちらが名君だったのかと考える。

 

 

1380

漱石さんの句に、

山高し 動ともすれば 春曇る

という句がある。

漱石さんにかぎらず、明治の作家、詩人たちの教養の深さにはいつも驚かされるが、私などが「ややともすれば」と書けば、どうかすると、とか、ひょっとすると、といった仮定だが、「動ともすれば」といった表現は絶対に出てこない。
うっかり、「動ともすれば」などと書こうものなら、校正者が、ご丁寧に「どうともすれば」などと訂正してくれるだろう。
私は――どうとでもしやがれ、と舌打ちしながら、「ひょっとすると」と書き直すだろうな。

先日、あるエッセイで――むずかしい原作を翻訳するときの私は、それこそ青息吐息、原文をにらみつけながら、

「訳もそぼろなそのうえに、作のかまえもただならぬ」とつぶやく。

と書いたら、校正では「訳もそぞろな」となっていた。あわてて「訳もそぼろな」と訂正した。これは、原作がとてもむずかしいうえ、私の訳は「そぼろ」(みすぼらしいありさま)というわけで、「東海道四谷怪談」の「お岩さん」の台詞、「なりもそぼろなそのうえに、顔のかまえもただならぬ」のパロディ。
「お岩さん」は柱にとりすがって、「一念通さでおくものか」といい残して果てるのだが、翻訳者としては、途中で翻訳を投げ出すわけにはいかない。

こんなことを書いたせいか――先日、夜中に起きて、机の角に眉をぶつけ、ちいさな傷ができた。バンソウコウを貼っておいたが、眼の下にアザができて、「顔もそぼろなそのうえに、顔のかまえもただならぬ」ありさま。

せまじきものは、パロディだなあ。(笑)

 

 

1379

「夢十夜」や「硝子戸の中」などを読んでいろいろと考えたが、そうはいっても、私の考えたことは漱石研究者なら誰もが考える程度のことだろう。
そこで、おそらく誰も考えない(だろうと思う)ことを一つだけ。

「硝子戸の中」の最後に、こういう一節が出てくる。

猫が何処かで痛く噛まれた米噛(こめかみ)を日に曝して、温かそうに眠ってい
る。先刻まで庭でゴム風船をあげて騒いでゐた子供達は、みんな連れ立って活動
写真へ行ってしまった。家も心もひっそりしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此稿を書き終るのである。
さうした後で、私は一寸(ちょっと)肘を曲げて、此縁側に一眠り眠る積(つも
り)である。

この文章が書かれたのは、大正4年2月14日。

この「猫」さんは、当然ながら「我輩は猫である」の「名前はまだない」猫さんではない。このネコだって、「我輩は猫である」の猫さんぐらいのことは考えたにちがいない。
私の考えたのは、もう少し別のことである。――子どもたちが「みんな連れ立って」見に行ってしまった活動写真は何だったのだろう?

大正4年(1915年)1月に公開されていた活動写真には、「空中戦」と「バイタグラフ」といった戦争活劇(2巻もの)がある。この2本はお正月映画で、2月には「アメリカン」の「海軍飛行家」(1巻もの)が封切られている。
現実に第一次世界大戦がはじまっている。世界は、いまや航空機の時代になっている。空中戦は、いわば空の一騎討ちで、日本人にとっては、まったくあたらしい戦闘形態だったはずである。そして、この2本は、実写もののドキュメンタリーだったのか。

当時はすでに世界大戦がはじまっている。まだ緒戦といってよい時期、日本人が戦争をそれほど身近に感じてはいなかったはずだが、漱石が、この戦争の帰趨に関心をもたなかったはずはない。

さて、ほかのお正月映画としては、「愛と王冠の為に」(3巻)、「赤ン坊のお守り」、「オーファン」、「彼女の覚醒」、「試験中の人」、「ブラックロックの電信技手」、「他の少女」、「マーフィーの静日」などが公開されている。
2月の中旬までに封切られたものに――「海軍飛行家」、「恋と電気」、「さやあて(小さき恋)」、「山中の捕虜」、「凋みつつある薔薇」など。

こうした映画の内容は想像するしかないのだが、漱石先生のお子さんたちは、「赤ン坊のお守り」、「恋と電気」といったスラップスティック・コメディーか、「愛と王冠の為に」のような冒険活劇を見たのか。あるいは、「オーファン」、「さやあて(小さき恋)」といった(現在のラブコメ)を見たのだろうか。

「硝子戸の中」を読んで、子どもたちが「連れ立って」見に行った活動写真は何だったのか、などと考えるのは私ぐらいのものだろう。酔狂な話だが。

「硝子戸の中」終章(三十九)は、日曜日で、漱石先生は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、「春はいつしか私の心を蕩揺(とうよう)せしめる」のを感じている。

蕩揺といったことばが自然に出てくるあたり、漱石さんの教養がうかがえる。
「蕩」は、もともと水面(みのも)が揺れること。それも、ゆぅらりゆらりと揺れ動く。「揺」がゆれるという意味だが、手で動かす。
「春風駘蕩」ぐらいなら私たちも使えることばだが、「心を蕩揺せしめる」といった表現は、私などにはとうてい出てこない。そもそもこういう感性がなくなっている。

ひょっとすると――庭でゴム風船をあげて騒いでいた子どもたちを眺めていたとき、漱石先生は自分の死さえも「いつしか私の心を蕩揺(とうよう)せしめる」ものとして見ていたのではないだろうか。

 

 

1378

春になって、いろいろな作家を読み直している。
久しぶりで漱石の小品なども読み返した。

「文鳥」、「夢十夜」、「永日小品」、といった小品や、「満韓ところどころ」などの紀行、「長谷川君と余」、「三山居士」、「ケーベル先生の告別」」などの交友記、人物論、そして「硝子との中」など。

こうした小品は、すべて一度は読んだものばかりだったし、とくに「夢十夜」や「硝子戸の中」などは、「文学講座」をつづけていたために読み直した。

あらためて、漱石さんを読んで――

今回、ふと気がついた。
漱石は、「硝子戸の中」の終章の直前、長兄のことを書き(三十六)、つぎに、実母、少年時代に死別した母、「千枝」の思い出を書いている(三十七、三十八)こと。
漱石さんの心にふれたように思う。むろん、批評上の問題として。

「満韓ところどころ」は、学生の頃に紀行文として読んだだけだった。だから、あまり感銘を受けなかった。というより、「戦後」の私にとっては、満州も韓国もまるで別世界のことでしかなかった。
今あらためて読み返してみると、これがじつにおもしろい。
私自身が、中国、韓国の文化に大きな関心をもつようななったせいもある。

なによりも、漱石先生のえらさが少しでもわかってきたせいだろう。

1377

映画についての閑話。
1930年。アメリカ映画は、サイレントの活動写真から、トーキーへの転換が進行中だった。

1930年のトーキー映画のシナリオ。
たとえば、「雷電」Thunderbolt。

ストーリーを紹介しても、あまり意味はない。それよりも、当時の、解説を紹介したほうがおもしろい。

 

「雷電」(サンダーボルト)と綽名(あだな)せられるジム・ラングは強盗殺人のかどでお尋ね者の身であるにも拘らず隠れ家を出てハーレム夜間倶楽部(ナイトクラブ)へ情婦のリッチーを連れて行った。リッチーはもう彼れと別れて正道を歩むつもりであることを話した。其の時倶楽部に警察の手が入りサンダーボルトは遁れた。サンダーボルトの手下共はリッチーを嗅ぎ廻って彼女がモラン夫人なる人の家に住んで居ることを報告した。モラン夫人の息子で或銀行の事務員をして居るバブはリッチーと戀仲なのである。リッチーとバブは結婚するつもりであった。バブの身に危険の起ることを恐れたリッチーは警察に知らせてサンダーボルトを捕へる罠をかけた。彼れは一旦逃れたがやがて縛に就き裁判の結果シンシンの刑務所で死刑に処せらるべき宣告を受けた。シンシンの死刑監に入ったサンダーボルトの胸に一つの憤怒と報復の心が燃えた。それはバブ・モランを殺さうと云ふ望みである……

 

「雷電」はスリラー・サスペンス。主演は、ジョージ・バンクロフト。「バブ」(今なら「ボブ」と訳されるだろう)は、リチャード・アーレン。リッチーは、フェイ・レイ。 ナイトクラブの訳が夜間倶楽部というのもおもしろい。
むろん、当時「ハーレム」がどういう場所なのか、殆ど誰も知らなかったに違いない。

私は、フェイ・レイという女優さんをそれほど好きではないのだが、この映画、「雷電」は見たいと思う。なぜなら、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの映画だから。
初期のスタンバーグの映画、8本のうち7本までが、マルレーネ・ディートリヒが主演していた。「モロッコ」、「間諜X27」など。

愛した女に去られて、落魄する芸術家の姿はいたましいが、スタンバーグは「恋人」だったマルレーネ・ディートリヒに捨てられて、創造力をうしない、成功から失敗にむかってひたすら落ちて行った映画監督だった。
この「雷電」を見れば、スタンバーグがどこで、どういうふうに輝きを失って行ったか、見えてくるかも知れない。だから、ぜひ見たいと思うけれど――むろん、見ることはできない。

おそらくスタンバーグは、フェイ・レイにディートリヒ的なファム・ファタールを見なかったに違いない。だから、演出に生彩がなかったのかも知れない。
フェイ・レイのほうは、スタンバーグのように独占欲ばかりつよくて、ひどく嫉妬深く、しかもマゾヒスティックな男に、はじめから眼もくれなかったのだろう。

不思議なことに、制作された時期には何程のことも見えなかった映画が、時間がたつにつれて、それまで見えなかったものがぼんやりと見えてくる。むろん、ほとんどの観客には興味もないことなのだが。

1376

遠い過去のサイレント映画のスターたちの伝記や、スキャンダルをテーマにした映画。けっこう、たくさん見てきたと思う。
すぐ思い出すだけでも――ピーター・ボクダノヴィッチの作品や、「チャップリン」、「ヴァレンチノ」、(映画女優ではないが)「マリア・カラス」、いろいろな芸術家の伝記映画があった。
上映中の「アーティスト」や「マリリン 七日間の恋」(マリリンはサイレント映画のスターではないが)がある。
「ヒューゴ」も、そういう流れの中で考えてもいい。

「ヒューゴ」を見ながら――ちょっと前に見た、12世紀のイギリスの「騎士」(ジャン・レノ)が、現代のシカゴにタイム・スリップしてしまう「マイ・ラブリー・フィアンセ」や、現代から、1930年代のハリウッドに戻ってしまう「13F」などを思い出した。

「ヒューゴ」のなかに、ハロルド・ロイドが高層建築の大時計の針にぶらさがる有名なシーン(「ロイドの用心棒」)が引用されている。
マーティン・スコセッシのことだから、ただのサイレント・クラシック回顧のために、ハロルド・ロイドのシーンを使っているわけではない。これも重要な伏線のひとつ。

「ヒューゴ」のような映画は、アィディアがおもしろいし、ただ見ているだけでも楽しいのだが、映画館を出たとたんに、どんな内容だったか忘れてしまう。
映画なんてそんなものだといえばそれだけだろう。

ジョルジュ・メリエスの夫人、「ママ・ジャンヌ」をやっているヘレン・マックロリーは、どこかで見たおぼえがあった。アア、そうか。サイレントから「戦後」まで、ワキで出ていたメァリ・ボーランドに似たタイプ。どうも、どこかで見たおぼえがあるような気がした。
しばらくして、「インタヴュー・ウイズ・バンパイア」でヘレン・マックロリーを見たことを思い出した。そして「ハリー・ポッター」に出ていたことも。
すると今度は、メァリ・ボーランドは、何を見たっけ? という疑問が頭をかすめた。ヒャー、サイレント映画の「高慢と偏見」だったっけ。

私の思考がタイム・スリップして、あらぬことを考えているうちに、映画はどんどん先に進んで行った。

「ヒューゴ」だってタイム・スリップものの変種といえるかもしれない。

私は、マーティン・スコセッシの作品では、「エルヴィス・オン・ツアー」ヤ、「タクシー、ドライヴァー」などでこの映画監督に敬意をもってきた。とくに「レイジング・ブル」や「ミーン・ストリート」は、ほんとうに驚嘆したものだった。

この「ヒューゴ」はアカデミー賞の5部門で受賞した。
撮影賞、美術賞、視覚効果賞、録音賞、音楽編集賞。

新聞の批評も――「映画愛にみちた冒険」(読売/3.2・夕刊)、「映画草創期の心踊る興奮」(日経)、「人生讃歌と映画愛」(毎日)、「あふれる映画への愛」(朝日/3.9・夕刊)と、手ばなしの称賛である。

私もマーティン・スコセッシの映画にたいする愛情はじゅうぶんに認めるけれど、スコセッシの作品としては、できのいい作品ではないと思う。
スコセッシ自身のフィルモグラフィーから見ても、やっと合格点といった程度の作品だろう。

映画評を書くわけではないので、勝手な感想をならべるだけだが、けっこう楽しかった。これに味をしめて、もう誰もおぼえていない映画についての感想を書きとめておこうか。映画を見ているあいだこそ心踊る興奮があっても、その評価が長く続くひとはむずかしい。長くつづいても、せいぜい半年ぐらいのものだ。

だから、個々の映画について、ときどき自分の心を揺すぶってみることが必要になる。

 

 

1375

フランスを舞台にしたアメリカ映画は、どうしてもフランスの風味が出せない。

わずかな例外として、「桃色の旅行鞄」(ルイス・アレン監督/1945年)や「巴里のアメリカ人」(ヴィンセント・ミネリ監督/1951年)、「ジャッカルの日」(フレッド・ジンネマン監督/1972年)あたりをあげておこう。
「桃色の旅行鞄」は、戦後すぐに公開されたパラマウント・コメディーだった。当時の私は何も知らなかったが、原作は、コーニリア・オーティス・スキナー。
主演したゲイル・ラッセルについては、はるか後年、短いモノグラフィーを書いた。これを読んだ作家の虫明 亜呂無がほめてくれたっけ。
「ジャッカルの日」はフランス/イギリス合作だから、アメリカ映画とはいえないかも知れないが。
パリを描いた最近の映画で、安心して見ていられるのは、ウディ・アレンの近作ぐらいのものだろう。さすがに「それでも恋するバルセロナ」の演出家だけのことはある。

それはとにかく――フランスを舞台にしたアメリカ映画の例にもれず、「ヒューゴー」には、パリの匂いなどどこにもない。
はじめから「巴里の屋根の下」を参考にしたなどといわなければいいのに。
もっとも、スコセッシにルネ・クレールの風味など期待するほうがおかしいけれど。

もともと、マーティン・スコセッシには、ルネ・クレールの「詩」といったものがまったく欠けている。
はじめから期待していなかったから、1930年の、シャンゼリゼからモンマルトル、あの界隈のカフェや、豪華なファッション・ブティック、劇場の並ぶブールヴァールといった風景が見られなくても不満があったわけではない。
せめて、「猫が行方不明」や「アメリ」にあふれているエスプリでもあれば、ずっとすばらしかったと思う。

この映画の駅も、モンパルナスでもなければ、ガール・デュ・リオンでもなく、まるで、ニューヨークのセントラル・ステーションのようだった。

駅をうろついて、カッパライを働く少年を追いかけまわす公安官をやったサシャ・バロン・コーエンは、完全にミス・キャスト。なんてヘタな役者だろう。「スウィニー・トッド」に出ていたらしいが、おぼえてもいない。

出演者のほとんどがイギリスの俳優、女優たちなので、ひどくアングロ・サクソンの匂いが立ちこめている。
こういう役なら、さしずめレイモン・コルデイ(「ル・ミリオン」)あたりにやらせたら、たちまちパリの気分が立ちこめてくる。30年代の俳優なら、ガストン・モドーあたり。「戦後」ならフェルナン・ルネ。もっと後年なら、ルイ・ド・フュネス。
フランスの役者なら、スクリーンに顔を出したとたんにパリの気分がひろがってくる。

父を亡くした少年の後見人になる、酔いどれの叔父さんをやったレイ・ウィンストン。
これも、「デヴィッド・カッパフィールド」に出てくる悪人のようだし、駅でコーヒーを楽しんでいるオジさん(リチャード・グリフィス)も、オバさん(フランシス・デ・ラ・トゥーア)もミス・キャストだなあ。

すぐれた舞台俳優でも、映画に出て、すぐれた演技をみせるとはかぎらない。不思議なものだと思う。

役者の悪口はいいたくないのだが、リチャード・グリフィスは、「フランス軍中尉の女」や「炎のランナー」の頃のほうがずっといい。この映画では、ロバート・モーリーそっくりのオジイさんになっているが、これがハンガリー出身のS・Z・ザコールあたりの役者だったら、珈琲を飲んでいるだけで、何かあたたかなパリの空気が流れてくる。
オバさんのフランシス・デ・ラ・トゥーアも、「アリス・イン・ワンダーランド」で見たが、こんな役なら、ミルドレッド・ダンノック、あるいは、スプリング・バイントンといったオバさんのほうがずっといい。
ようするに、この映画に出てくるワキの俳優たちは、まるっきりパリの匂いを持たない連中ばかり。
この映画で「パパ・ジョルジュ」をやっているベン・キングスレー、近くの古書店の主人(ブキニスト)をやっているクリストファー・リーは安心してみていられたが。

ベン・キングスレーは、「ガンジー」、「シンドラーのリスト」などで見ている。
この映画では、昔のオーブリー・スミスみたいな、いかめしいオジイさんをやっていたが、途中で、手品師のジョルジュ・メリエスに「変身」する。(映画のストーリーからいえば、手品師から映画監督に「変身」するわけだが。
(つづく)

 

1374

春である。パリには、マロニエが咲きはじめているだろう。
白い花。紅い花。
春や春。ああ、爛漫のローマンス。
というわけで――映画評ではなく、映画についての漫談閑話を語るのは、けっこう楽しい。
「ヒューゴの不思議な発明」は「巴里の屋根の下」、「パリの空の下セーヌは流れる」、「影なき軍隊」、「パリは燃えているか」といった映画史に残るような作品になるかどうか。

1930年のパリ。たとえば、リュー・ワグラムで、マリー・デュバがシャンソンを、夜の「リド」の前では、水着だけに豪華な毛皮のコートを無造作にひっかけた女が、自動車から降り立つような風景。
シャンゼリゼなら、石鹸の「キャダム」のネオンサインが輝いて、「イスパノ・スイザ」の前を通り、「テアトル・フェミナ」に出れば、新人女優のアルレッテイが、ものすごい迫力で舞台に登場している。
「ポゾール王の冒険」の初日。まだ無名のエドウィージュ・フィエール。おなじように無名の踊り子たち、シュジィ・ドレール、メグ・ルモニエ、シモーヌ・シモンたちが、おそろいの乳当て(ブラジャー)とズロースで、キャーキャーいいながら舞台に飛び出して行って美しい素足をはねあげているだろう。

「ヒューゴー」1930年のパリに、そんなものは見当たらない。

アメリカ映画が、フランスを舞台にすると、たいていの場合、フランスの風味は消えてしまう。「望郷」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督/1937年)が、「アルジェ」(ジョン・クロムウェル監督/1939年)のような、どうしようもない愚作に変わる。 それどころか、さらに後年、ミュージカルの「迷路」(ジョン・ベリー監督/1948年)になる。あいた口がふさがらない。

アメリカ人がフランスを舞台にした映画を作ると、ほとんど例外なく、軽薄なものになってしまう。舞台だって、「オンディーヌ」や、「ジジ」の舞台は、ひどく安手なものになったのではないか。

スコセッシだってそのあたりに気がつかないはずはない。
「ヒューゴ」ではパリの駅や、市街が描かれる。実際の風景をもとに想像もまじえて描いた、とスコセッシ監督はいう。彼がイメージしたのは、ルネ・クレールの「巴里の屋根の下」だそうな。え、冗談キツイなあ。
(つづく)

1373

マーティン・スコセッシの新作、「ヒューゴの不思議な発明」は、タイム・スリップもの、マッド・サイエンティストもの、何もかも入り込みの3D映画なので、いろいろな趣向が組み込まれている。

映画の草創期、ジョルジュ・メリエスのトリック映画に見られるように、タイム・スリップものが存在した。ついしばらく前も、「マイ・ラヴリー・フィアンセ」(ジャン=マリー・ゴーベール監督)のような映画があった。中世の「騎士」(ジャン・レノ)が、魔法使いのクスリのせいで、現代にまぎれ込んでしまう。まあ、そんなSF映画。
時空を越えて、別の世界に投げこまれたらどうなるか。私たちは、サイレント映画からあきもせず、このテーマ、異次元世界におかれるというシチュエーショナルな映画に眼をみはってきた。

映画の背景になるパリ駅の大時計のメカニックな構造。これを、たとえば、「大時計」(ジョン・ファロー監督/1948年)の時計と比較したら、それこそ、ジョルジュ・メリエスの「お月さま」と「アポロ 13」(ロン・ハワード監督/1995年)ほどの差があるだろう。比較も何もあったものではない。
ついでにふれておけば――「大時計」は、レイ・ミランド、チャールズ・ロートン主演。原作は、ケネス・フィアリング。とてもいい作家だったが、これだけで消えてしまったっけ。映画もなかなかいい映画だったが、もう、誰もおぼえていないだろう。

驀進する汽車がつっ込んでくるパニック・シーン。これも「ヒューゴ」では、リュミエールの実写フィルムが「伏線」になっている。私たちは、数多くの汽車や地下鉄のパニック・シーンを見てきた。だから、いまさら3D映画で見せられても、余り驚かない。
むろん、CG技術を駆使した「ヒューゴ」のスペクタクルは、1953年に登場した3D映画とは、これまた比較にもならない驚異的な映像になっている。

スコセッシの「ヒューゴ」にはリュミエールの活動写真のほかに、もう一つ、機械人形という「からくり」のもつ妖しい倒錯の世界までからんでいる。
はるかな昔の「メトロポリス」(フリッツ・ラング監督/ブリギッテ・ヘルム主演/1927年)の機械人形。

全身、ギラギラの金属の裸像だったブリギッテ・ヘルム。「彼女」は、大恐慌と破局的なインフレーションという資本主義の危機と、すでに地平の彼方に姿を見せはじめているナチスの恐怖の隠喩ではなかったか。
もし、こういういいかたに少しでも意味があるとすれば――スコセッシの機械人形は、リーマン・ショック以後の、デフレーションの危機的な状況(これまた資本主義の危機だが)のなかで、心臓にハート形の鍵を嵌め込めば生命力を回復する。
心臓にハート形の鍵を嵌め込む。
いかにも、アメリカのオプティミズム。この機械人形が「いのち」をもつかどうかは、かつてのフランク・キャプラの「我が家の楽園」、「群衆」などに見られるイデオロギーに通底するだろう。
アメリカ再生というハリウッド的ダイアレクティックス。

「ヒューゴ」の機械人形は「メトロポリス」の機械人形よりもはるかにエロティックで、しかも人間的な表情をもっている。スコセッシがどこまで意識して演出したかわからないけれど。

私はスクリーンとはまるで無関係なことを考えながら、この映画を見ていた。
それだけで楽しかった。
(つづく)

 

 

1372

先日、マーティン・スコセッシの新作、「ヒューゴの不思議な発明」を見た。
この監督が、はじめてとりくんだ3D映画だから見たわけではない。この映画が、アカデミー賞の作品賞、監督賞など、11部門にノミネートされているからでもない。
私は、つむじまがりなので、どんなにヒットしたからといって「アバター」や「アビエイター」を見たいとはおもわない。

私がこの映画を見たのは――映画の草創期を描いた「今までとは違う、個人的で、特別な作品」というスコセッシのインタヴューを読んだから。

映画の背景は――1930年代のパリ。
主人公は、まだ幼い少年「ヒューゴ」(エイサ・バターフィールド)。

スコセッシの演出に弛緩した部分はない。冒頭から、快調に、中央駅「ル・テルミニュ」(サン・ラザールだろうと思う)が紹介され、駅の構内でオモチャなどを売る老人、駅の花売り娘、駅でコーヒーを飲んでくつろぐオジサン、オバサン、いつしかこの駅に住みついて、駅の大時計のネジを巻いてい少年たちが次々に紹介される。

どうも、こういう映画のストーリーを要約するのはむずかしい。

少年の父(ジュード・ロウ)は機械の修理専門の職人。博物館から壊れた機械人形を持ち帰って、修理にとりかかったが、思いがけない事故で亡くなる。父は、人形修理のプロセスを克明に記録したノートを残していた。
少年はその日その日を生きるためにわずかな食べものをカッパライながら、父の残したノートをたよりに、機械人形の修理を手がける。
修理に必要な工具などは、駅の構内でおみやげやおもちゃなどを売っている売店から盗んでいた。だが、少年の盗みに気がついた店の主人、「パパ・ジョルジュ」(ベン・キングスレー)につかまってしまう。

「パパ・ジョルジュ」は老人で、これも初老の夫人、「ママ・ジャンヌ」(ヘレン・マックロリー)、孫の「イザベル」(クロエ・グレース・モレッツ)といっしょにひっそりと暮らしている。
「イザベル」は読書好きな少女で、「ヒューゴ」と知りあって、思いがけない冒険の世界に入ってゆく。

一方、「ヒューゴ」は「イザベル」とのかかわりで、機械人形のもとの所有者が、駅の構内で玩具などを売っている老人、「パパ・ジョルジュ」と気づく。
この老人こそ――リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフイーを、実写からストーリー性と動きのある無声映画に発展させたジョルジュ・メリエスその人だった……

映画評を書くわけではないので、映画をみながらいろいろな事を考えるだけでも楽しかった。
(つづく)

1371

ケーキは、不思議なものだという。
堤 理華の訳したニコラ・ハンブルの、「ケーキの歴史物語」の冒頭に出てくる。

メイン・ディシュに比較すれば、食べものとして、ケーキはそれほど重要なものではない。しかし、ケーキがなければ、正式なディナーとはいえないし、ときには、ウェディング・ケーキのように、とてもお菓子とは思えない堂々たる異彩を放っているケーキもある。

ここから、ニコラ・ハンブル先生は、ケーキとは何か、という問題設定と、それこそ古代から、人間を魅了しつづけて来たケーキの歴史の検証が行われる。
ただし、小むずかしい本ではない。

読んでいて、おいしさが舌に感じられるような本。
上質なケーキを口にするような、口あたりのいい、美味しい本だった。

第5章の「文学とケーキ」を読んだ。
プルーストの「失われた時を求めて」、ディケンズの「大いなる遺産」、ジェーン・オースティンの「エマ」、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」など。

プルーストの小説に出てくる有名な「マドレーヌ」は、「厳格で信心深いその襞のしたの、むっちりと官能的な、あの菓子屋の店頭の小さな貝殻のかたち」ということは知っていた。この小説の「語り手」が、「マドレーヌ」を口に含んで食べると、さまざまな記憶がよみがえってくる。
実際には――紅茶にひたしたかけらをそっとすすっただけで、記憶が押し寄せてくる」のだった。
へえ、そうだったのか。
私は、この本からはじめて教えてもらった。

それにしても、プルーストの「コンブレー」に、どんなお菓子が出てきたのか。まるで記憶にない。もともとプルーストの小説にくわしくないのだから、どんなお菓子が出てきたのか思い出せなくても仕方がない。
私が思い出したのは――「スワン」の「オデット」に対する恋が進行して行く部分で――社交界のご婦人がたの食卓の席上、アレクサンドル・デュマ・フィスの新作が話題になって、そのなかで「日本のサラダ」が出てくる。
これがわからない。
当時、コメディー・フランセーズが上演したデュマ・フィスの「フランション」に出てくるそうな。
私は、アレクサンドル・デュマ・フィスもよく知らない。だから、「フランション」も知らないので、「日本のサラダ」がどういうものなのか見当もつかない。

きっと、このまま知らずに終わってしまうだろうな。

「不思議の国のアリス」のなかで――ケーキはヴィクトリア時代の子どもには禁じられていた(すくなくとも、きびしく制限されていた)と知って、これまた驚いた。そういわれればそうだろうなあ。
お菓子を食べる「デヴィッド・カッパフィールド」なんて想像もつかないよなあ。
「ジェルヴェーズ」だって、幼い「ナナ」だって、お菓子を食べさせてもらえなかったに違いない。

この本を読んでいて――マリー・アントワネットが食べた(らしい)ケーキを食べたことを思い出した。
大阪のNHKの番組で、辻料理学校の、辻 静雄さんのお話を伺ったときだった。学校のシェフが作ってくれたもの。おいしかった。マリー王妃のラテイソイキを見るような思いがあった。(漢字がないから仕方がない。)
そのとき以来、私はチョコレート・ムースというお菓子を好んで食べるようになった。
マリー・アントワネットが食べたお菓子以上においしいものが、いまの日本ではいくらでも作られているのだから。

「ケーキの歴史物語」を読みかけて、いろいろなことを思い出す。だから、たのしい本になりそうな気がする。

翻訳家が、ほんとうに「おいしい」本を訳す機会はひどく少ないものなのだ。
植草 甚一さんは、いろいろな新しい作家を読んでたくさん紹介なさったが、ご自分で翻訳なさったのは、コンラッド・リクターと、もう1冊だけだった。
だから、「ケーキの歴史物語」のように楽しい本を翻訳できる堤 理華の才能が羨ましい。

岸本 佐知子の訳した「変愛小説」を贈られたとき、私は毎日1編ずつ、おいしいお菓子を食べるようにして読んだ。
こんどは、「ケーキの歴史物語」を、それこそおいしいケーキをつまむようにして読むことにしよう。

 

(注)  「ケーキの歴史物語」 (原書房)
ニコラ・ハンブル著
堤 理華訳
2012年3月23日刊 2000円

 

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3%81%8A%E8%8F%93%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9-%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB/dp/4562047844

1370

イトド。
もう誰も知らないだろう。漢字で書けば、竃馬(カマドウマ)。
コオロギに似た昆虫。ただし、コオロギは全身が黒光りしているのに、カマドウマのほうは茶色。コオロギはいい音色を出す演奏家だが、カマドウマは、台所や便所のあたりをノソノソ歩きまわっているだけ。
別名、イトド。

ホダたけば よろぼいきたる イトドよイトド  蝶衣

ホダも、もう死語になっている。
漢字では木ヘンに骨。パソコンにはこの字はない。イロリにくべたり、竈(カマド)に火をつけるミチビにする木クズのこと。
私は都会育ちなのでイロリも竈も無縁だったが、戦後まで、田舎の農家のどこでも見かけた。イトドは都会の台所や便所にも出没していた。

温石のそろそろさむる 夜明けかな     華渓

棚に置きて 帯しめ直す カイロかな    鳴雪

冷え尽くす 湯婆に 足をちぢめけり    子規

温石(おんじゃく)は軽石を火であたためて、布にくるんで、寒さをしのぐ。中世からつたえられてきたらしい。今では、どこにも見られないだろうなあ。
カイロは懐炉。私の少年時代のカイロは、メガネのケースほどのサイズの金属のケース。長さ10センチばかり、幅1・5センチばかりの和紙の袋に木炭などの粉末をつめたもの2本をならべて入れる。その先ッチョに火をつける。
はじめは、ほとんど熱さが感じられない。やがて、少しづつ温かくなってくる。
その温かみがなつかしい。

湯婆はユタンポ。漢字では湯湯婆だが、子規の時代には「タンポ」と読んだのかも知れない。もっとも子規の句にリアリティーを感じる人ももういないだろう。

東日本大震災のあとの節電で、防寒用にユタンポが復活したという。私は、少年時代のユタンポに強い思い出があるのだが――ここに書くほどのことでもない。

 

 

1369

現在の同人雑誌は、そこに発表されている作品の書き手も、その読者も、圧倒的に老人が多い、という。そうだろうなあ。
かつては、若くて無名の書き手が、同志と語らい、あいはかって、同人雑誌を創刊し、そこに自分たちの作品を発表する。誌面には、若者の鬱勃たる野心があふれていたものだが、今では、マンガの同人誌にそれが見られる程度で、文学の同人誌は老人たちのサロンと化している。

そこに発表されている作品も、定年後の生活や、自分史といった回想、あるいは、老後を迎えた消閑の趣味、または老年になってから海外に出かけた旅行記など。
むろん、いろいろな疾病の体験や、老々介護の明け暮れ、ときには、老いらくのロマンスなど。
文壇や、文芸誌にはついぞ登場しないのだが、老人文学もまた現代文学のひとつのジャンルと見ていい。

老人になれば、誰しも老後の生活や、自分の過去に目を向けるようになる。それを文学作品として表現する意欲をもっても当然で、非難される理由はない。
ただ、書いている本人が、世界の中心にいるような気で書いているとすれば、どうにも恰好がつかない。その滑稽さを描くなら別だが。

私のブログもそんなものの一つ。とはいえ、自分の病気の体験や、介護される明け暮れなどを書くつもりはない。老いらくの恋。これはいつか書きたいけれど、どうせフィクティアスな妄想になるのがオチ。はじめから私小説など書く気づかいはない。

老後を迎えての消閑の趣味は(映画の試写を見に行かなくなったため)DVDで好きな監督の映画を見ることぐらいか。公開されてもほとんど評判にならなかった映画、ハリウッドのどうしようもなく程度の低い映画を見て、思いがけない「発見」をしたり。
たまにAVも見る。驚くほどみごとな女の子を「発見」することもある。イタリア・ルネサンスの君主、ルドヴィーコ・イル・モーロに見せたら、さっそく「色道天下一流人」という感状を出すような美女たち。(感状という名詞がわからなかったら辞書で調べてください。)

俳句や、歌舞伎、遊女のことなど、これまで書く機会がなかったテーマも、ときどき書くつもり。ただし、まるっきり無趣味な男なので、何を書いたところでたいしておもしろいはずもないのだが。

老齢に達した作家が、晩年に書く作品では――藤枝 静男、古山 高麗雄、小島 信夫などの仕事を思い浮かべる。最近では、黒井 千次、三木 卓なども、つぎつぎにいい作品を書いている。こうした作家に共通するのは、自分の描く「老人」と、老齢に達した作家自信の距離がまったくないこと。作家としての修練が、そのままゆたかな人間観察に昇華しているあたりだろうか。
最近の古井 由吉の文章など、老齢の作家のなかでもじつにすばらしい。

私はまるで違うタイプ。いつまでたっても成熟しない、イトドの部類か。
ようするに、ボケた(トボケた)作家だねえ。(イトドの説明はあとで)
そんな男が自分史を書いたところでたいして意味もないのだが、あてどもなく放浪していた自分をおもしろおかしく描いてみたい。

私の読んだ最高の自分史は、スタンダールの「アンリ・ブリュラール」。最高の自伝の一つは、フローレンス・ナイチンゲールの「自伝」。

1368

嫌いな作家はあまりいない。
個人的に大嫌い、というか、虫酸が走るようなやつはいる。
唐木 順三。こいつだけは許さない。もうひとり。中村 光夫。こんなノは、せいぜいせせら笑ってやればいい。

嫌いなヤツのことは考えるだけでムカつく。

嫌いな作品は――ないわけではない。
例えば、「無限抱擁」。「もめん随筆」。

好きな作品をあげれば――矢野 龍渓の「浮城物語」、若松 賎子訳「小公子」、一葉の「たけくらべ」、漱石の「夢十夜」、中 勘助の「犬」、または「島守」。芥川 龍之介の「秋」、岸田 国士の「澤氏の二人娘」、江戸川 乱歩の初期の作品。村松 梢風の「上海」、小林 秀雄の「Xへの手紙」、永井 荷風の「墨東綺譚」。

私の好きな作家は――渋澤 龍彦、五木 寛之。

好きな作品は――川端 康成の「眠れる美女」、阿部 知二の「地図」、坂口 安吾の「風博士」、伊藤 整の「幽鬼の街」、萩原 朔太郎の「猫町」、横光 利一の「機械」、川口 一郎の「島」、川口 松太郎の「サロメの白粉」……

同世代の、安部 公房の「榎本 武揚」、三島 由紀夫の「卒塔婆小町」、吉行 淳之介の「夕暮まで」、遠藤 周作の「沈黙」。
石上 玄一郎の作品のどれか、小栗 虫太郎の作品のどれか、日影 丈吉の作品のどれかなどをまぜて――私の「世界」は、だいたい完成ということになる。

むろん、友人たちの作品もあげておこう。

西島 大の「富島松五郎の生涯」、若城 希伊子の作品のどれか、鈴木 八郎の「黛」、山川 方夫の「愛のごとく」など。

 

 

 

1367

 
 前に書いたのだが、これから私が書く女優さんは、クララ・ボウ。マルレーネ・ディートリヒ。むろん、たかだか3枚程度の雑文だが。
 もう書き終わったのは、バーバラ・ラマール。これは、50枚。
 この夏に発表できるはずだが、どうなるか。

 かつて、こういう女たちが現実に存在していたこと。それがまるで奇跡のように思えると私は書いた。
 もはや、現実離れした、はるかな過去のことでも――私がまじめに書いておけば、いつか誰かが関心をもつかもしれない。時世(ときよ)は変われ、タレひとり見たこともないスターたちの運命に心を動かされるやもしれぬ。

 私は1920年代を知らない。
 何もかもが、私の生きた時代とちがっている。むろん、今の時代ともにならない時代。 あんなにすばらしい、輝かしい時代に、系旬を過ごせたら、どんなによかったことか。
 ジャック・フィニーの登場人物がいう。

  今とは、いろいろなことがあまりに違いすぎる。(中略)もちろん人間も随分違
  った。私たちは無知だった。お前(息子)の半分も利口ではなかった。(中略)
  それでも 、私たちは、お前たちより、人が良かったような気がする。お前たち
  より忍耐づよかった。今あるような憎しみを、持った覚えが私にはない。もっと
  のんきで、もっと生活を楽しんでいた――ようするに、今よりずっと生き生き
  していたんだ! 人生が何のためにあるのかを知っていたんだ。(福島正実訳)

 彼は、20年代に青春を送れたことを幸運と思っている。それにひきかえ、今の若い者は気の毒だ。何もかもが、あまりに陰気すぎるからな。

 私は、20年代に青春を送れたような幸運な世代ではない。それでも、今の若い人たちは、私などよりはるかにはげしく、不安定で、混乱した時代に生きている。

 私が、このところずっとサイレント映画の女優たちのことを考えているのは、なにも現実逃避ではない。
 むしろ、彼女たちの生きかたから、私よりも後の世代につたえられるべきもの、悲惨から輝きまで、何かがあると思う。だから、書いているのだ。

1366

 
 私は、毎日、近くのスーパーに食料品を買いに行く。
 夕方、買物に行くと、ほとんどかオバさんばかり。

 近くのデパートで、「九州物産展」とか「北海道展」と銘打って、その土地の生産品を売る。
 先日、あるデパートでやっていた「北海道展」に行って見た。

 デパートの8階が催事場になっていて、エレベーターなら直通だが、エスカレーターは7階まで。ここから少し歩いて、8階に行く別のエスカレーターで移動する。
 このエスカレーターを利用した。

 上からエスカレーターで下りてきた中年のオバさんが、すれ違いざま、ひとりごとをいった。
 「5時だよ」
 私に語りかけたわけではない。一瞬つぶやいただけで、下りて行った。それだけのことだったが、「北海道展」にやってきたオバさんが、時間を気にしながら買い物を終えて、ほっとしたのだろうと思った。

 催事場に行ってみた。ほとんどの店は展示品を片づけて、台に白いシーツがかけてある。奥のほうに、二、三、まだ残った商品を片づけている店があった。
 そんな店に寄って行った。売れ残りのシューマイがあった。
 「これ、下さい」
 店のオバさんは、私の風態を見て、300円もまけてくれた。

 ここまできで、はじめて気がついた。

 こういうデパートの物産展は、終業時間近くになると、日もちのしない食品の値をさげるのだった。わざわざそれを目当てにくる客もある。さっきエスカレーターですれ違ったオバさんは、私をそんな客のひとりと見たに違いない。
 あんた、せっかくなのに、もう5時過ぎだから「北海道展」はおしまいよ、という意味だったのか。
 値下げをめあてに駆けつけたオジイさんと見たのだろう。

 私は、エスカレーターですれ違ったオバさんの親切がうれしかった。同時に、「北海道展」のおしまいになって値下げをめあてに駆けつけたオジイさんに見えたのだろうと思うと、おかしかった。まあ、老残の身だから、他人がどう見ようと関係がない。

 外に出ると、さむさがいっせいに押し寄せて来たが、宵闇があたりにひろがっていながら、未だ明るさがただよっている。こういう瞬間が私の好きな時間だった。
 少年時代から、暮れなずむ瞬間の風景に、なぜか心を惹かれるのだった。

 シューマイはおいしかった。