1405

松窓 美佐雄のような俳人の仕事に関心をもつのは――ほとんど無名の人でありながら、貧しい農民層の心情を読んでいると思えるからである。
この人の出自は――貧しい山村の別当の子として生まれている。父は、わずかな田畑を耕し、蚕を育て、万徳院という寺の住職だったという。
松窓の句は、かならずしもすぐれたものばかりではない。

しのぶ夜や 人麿さまも 垣の元(もと)

この句は万葉の大歌人、柿本 人麿を詠んだわけではない。夜更け、垣根の下あたりに、誰かがひそかに身をひそめている。「しのぶ」は、身に忍という字。これは「偲ぶ」に通じるので、ひそかに女に思いを寄せている男が、目的の家に「しのび込む」ために、じっと身をひそめている。つまり、夜這いのありさま。
それを柿本 人麿にひっかけたもの。

鹿 通ふほど 明けて 結う 簀垣かな

この垣根は、雪垣のひとつだが、家の外側にめぐらす簀垣(すがき)という。簀垣(すがき)は、カヤを編んだスダレ。だから、防雪用ではなく、防風の垣根。秋田では、きびしい冬に、食べるものがなくなったシカが、人里にやってくる。そこで、シカがやって来るのを見越して、簀垣(すがき)を通れるように少しだけ開けておく。
お坊さんの心やさしい配慮が感じられるけれど、リズムがよくない。ただし、よく見れば別のことがうかんでくる。

寺の垣 内の相手は いぶかしや

もともとお寺は、葷酒山門に入るを許さず、というのが建前。ところが、ふつうなら山門からの出入りがはばかられる商人(あきんど)が入っている。
柿崎 隆興は、案外色気のない事柄で、頬被りした魚売りが、寺に立ち寄ったものという。
さて、どうだろうか。むろん、柿崎先生はトボけていると思うのだが。

垣越しに するのは 旨い噺かな

柿崎先生は――「家人の耳目をはばかってする「旨い噺」は「よからぬ話」に通じるのではないか。密かに、端米を持ち出して、町の<姉こ屋>に行こうといった筋の。」
という。
たぶん、そんなことだろうが、「旨い噺」は、色事だけに限らない。
幕末の、絶対的、相対的な窮乏や、そこから生じる潜在的な不安、もしくはフラストレーションの慢性化といったものが見えてこないだろうか。
(つづく)

 

1404

 昔むかしの話である。

   自分は貧困のあいだに育ったので書物を買うことができなかった。他人の蔵
   書を借りて、勉強するほかはなかった。珍しい本を持っている人のことを聞け
   ば、十里、二十里と離れている土地を歩いて、その本を借覧させてもらった。
   借りた期限が切れて、本を返しに行くときは、いとし子と別れる思いで返しに
   行ったものである。

 秋田の詩僧、松窓 美佐雄。残念ながら、私は、この人の俳句を知らない。
 ただ、柿崎 隆興という人の編纂した「前句集」を読んだ程度の知識しかない。

 幕末に近い文化元年(1804年)の生まれ。秋田の、まずしい寺に生まれて、刻苦精励しながら、和漢の珍書奇籍を読んでいた若者を想像しながら、その句を読む。松窓の漢詩は私には読めないし、読めたにしても意味がわからない。前句なら、私にもだいたいわかるが、あまり感心できないものもある。
 いくつか、私なりに評釈をしてみよう。

   生垣のあたりを 廻る 秋の鶏

 鶏が庭の生け垣のあたりまで行く。そのあたりを、ぐるっとまわりながら、何かついばんでいる。そんなことにも、秋の風情が感じられる。
 まあ、そんなことだろう。

   八重垣は 歌と悋気のはじめかな

 神代に、スサノオノミコトが、新妻のクシナダヒメといっしょに住むことになった。その家に、八重垣をめぐらせて、「八雲立つ出雲 八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」と詠んだ。これが、和歌のはじまり。
 悋気は、嫉妬。スサノオノミコトが新居に、八重垣をめぐらせたのは、ほかの男神たちを寄せつけないためだろう、というウガチ。だから、スサノオノミコトは、日本ではじめての、ヤキモチやきなのだろう。
 川柳としても、あまりいい句ではない。

   雪垣にしても 月さす ススキかな

 秋田は雪国なので、秋も深くなると、農家はススキを刈りとって、防雪のために垣根を作る。雪垣を作っても、秋の名月は、皓々たる光を浴びせる。ススキの穂は立っている。晩秋の風景。むろん、「月の光がさす」と、「突き刺す」がかけてある。そう見ると、もう少し露骨なエロティシズムを感じさせないだろうか。

   むつまじい 隣りもちけり 垣見草

 垣見草はウツギという。これは、お隣りさんの田畑との境界に植えておく。ホトトギスが鳴く頃には、ウツギの花が咲くだろう。お隣りさんと仲がいいので、境界線をきびしくしなくてもいい。そういう意味。しかし、むつまじい、という形容には、いささかあやしい響きがある。

 松窓 美佐雄は、当時の農民のエロスを詠んだと見ていい。

 (つづく)

1403

 戦後、ラジオの放送が一変した。それまで、大本営発表の戦況と、空襲警報ばかり聞かされていたのだから、戦後のラジオは驚くべき変化だった。

 戦後すぐに、占領軍は、内幸町のNHKに、AFRS(American Forces Radio Service)のキー・ステーションを置いた。
 私の父は、戦前から、外資系の商社で働いていたから、このAFRSのニューズを聞くようになった。むろん、英語を知らない私には、内容はまったくわからなかった。

 ある日、それまで聞いたこともない音楽が流れてきた。ジャズだった。
 曲名も、演奏者も知らない。だいいち、ジャズのどこがいいのか、まったくわからなかった。今でもおぼえているのだが、ショパンの曲をアレンジした曲が流れてきて、私は殆ど茫然とした。アメリカでは、とんでもないことをやっている連中がいる! そう思った。しかし、すぐに、ジャズのおもしろさに惹かれて行った。
 これは、えらいことになった。私の聞いていた音楽とは、まったくちがう演奏だし、ルールも何もブッこわしながら、これだけすごい音を出している!

 衝撃だった。

 当時の私は知るよしもなかったが、ディジー・ガレスピーのフル・オーケストラや、ジョン・ルイス、チャーリー・パーカーなどを毎日聞いていたのではないか、と思う。
 はるか後年、私はガレスピー論、チャーリー・パーカー論などというシロモノを書いたことがある。これも、敗戦直後から、ラジオにしがみついて、AFRSのジャズを聞いていたおかげだった。

 戦後、私はある新聞のコラムで雑文を書きはじめたが、まとまったエッセイとしては、「ショパン論」が最初だった。これが、私の処女作ということになる。
 当時、私のひそかな目標は小林 秀雄で、戦後の「モーツァルト」を読んで、なんとか音楽論のようなものを書こうと思ったのだった。

 私の好みはジャズ、ロック、ポップスと変わったが、それでも、音楽から離れることはなかった。もっとも、音楽について書く機会はなかった。

1402

 1945年8月15日、戦争が終わった。私は17歳。

 東京は焼野原で、さまざまな機能が麻痺していた。大学の授業も再開していなかった。焼け残った大学に行っても、ガランとしているだけで、ほとんど人影もなかった。
 召集されて戦地に行った学生たちの安否もわからない。戦死、戦災死した学生も多かったが、ほかに生き残った学生もいた。ただし、いつ復員してくるかわからない。
 私は毎日のように、大学に行った。ほかに何もすることがなかった。友人の覚正 定夫(後年、左翼の映画評論家になる。)といっしょに、誰もいない教室で時間をつぶしていると、思いがけないことに、汚れた軍服の学生が戻ってくることがあった。
 内地の軍隊から復員して、そのまままっすぐ大学めざして戻ってくるのだった。

 ある日、私の親友だった木村 利春が戻ってきた。階級は、陸軍中尉。いわゆるポツダム中尉だった。日本が連合国のポツダム宣言を受諾して、敗戦国になったが、そのとき全軍の兵士は、一階級、昇進したからである。木村は、召集されて、すぐに少尉に任官したが、敗戦で、名目だけ中尉になったのだった。

 「おう、帰ってきたか」
 「うん」
 「どこだ?」
 どこの戦線に配属されていたのか、という意味だった。
 「シナだよ」

 それだけの会話だが、それ以上、何もいうことがなかった。
 彼は、中国戦線から復員してまっすぐに大学の教室にやってきたのだった。驚いたことに、身長が低くなっていた。

 廃墟のようにひとけのない大学に戻ってきて、私たちを見ると、疲れきった顔が輝いていた。戦争のことは、ほとんど話さなかった。
 敗戦前の漢口から上海まで、ひたすら歩き続けたという。過酷な体験だった筈である。あんまり歩いたので、身長が2センチも低くなったらしい。
 私たちは、共通の友人の消息を語りあった。

 「元気でな」
 「おう、ありがとう」

 出征したときと、おなじ言葉をかわしただけで敗残兵は去って行った。出征したときは、お互いに二度と会うことがないと覚悟していた。それはお互いにはじめからわかりあっている。彼が出征したときも、復員してきたときも、おなじ言葉をかわしたのだった。
 敗戦直後の大学に戻ってきた木村の胸に何が去来していたのか。戦争が終わって、これから日本はどうなって行くのかわからない。そんな不安が胸をかすめていたのか。おそらく、そうではないだろう。
 お互いに暇な学生どうしだったら、のんびりした会話をするところだが、戦争が終わって自分の古巣に戻ってみると、教授もいないし、まるで浮浪児のような別の科の学生がうろついている。出征したときと、あまりに違ってしまった環境にただ驚いていたのだろう。
 木村は、故郷の岩手県に戻って、しばらく静養したが、翌年(1946年)の3月頃に東京に出てきた。このとき、故郷で書いた小説を私に読ませた。驚いたことに、戦争のことなどまったく関係のない、ある少女への思いをつづった少女小説のような作品だった。

 この年の晩春、木村 利春は肺結核のために亡くなった。享年、23歳。

 私は、この頃から、新聞に原稿を書くようになっていた。

1401

 
 もし、もう一度、行くことができたら、ロシアのサンクト・ペテルブルグに行ってみたい。むろん、夢のまた夢だが。

 エルミタージュ(美術館)から――フィンランド湾にそそぐネヴァ河の河口にうかぶペテロ・パヴロフスク要塞の眺めは忘れがたい。
 この要塞は、のちに刑務所になり、ドストエフスキーが収監されたことで知られている。私は、評伝「メディチ家の人びと」を書きあげて、すぐにロシアに旅立ったのだが、旧ソヴィエトの閉塞的な空気にうんざりしていた。
 私は、エルミタージュ(美術館)に感嘆を惜しまないし、エカチェリーナ宮殿(私が行ったときは、ナチス・ドイツによって破壊、略奪されたあとの修復工事が続けられていたが)の壮麗な姿にも魅せられた。
 しかし、私は、いつもどこかで私たちの行動を監視している「眼」を意識していた。

 ヤスナヤ・ポリアナに行ったとき、食堂で昼食をとったのだが、私たちがテーブルについたとき、隣りにいた中年の男が、立ちあがりざまさりげなくカメラのシャッターを切った。
 そのとき、私の隣りに、通訳のエレーナ・レジナさんがいた。
 「今、そこにいた人が、カメラ、撮りましたか?」
 エレーナさんが低い声で私に訊いた。
 「ええ、写真を撮っていましたよ」
 私は答えた。
 「そうですか」
 エレーナさんはうかぬ表情でいった。

 じつは、通訳のエレーナ・レジナさんの夫は、KGBの大佐で、エレーナさんは、作家同盟で、日本を担当している公務員だった。そのエレーナ・レジナさんでさえ、私たちを案内している途中、誰かに見張られている。
 私は、この瞬間に、私たちの行動はすべて監視されているらしいと意識した。

 エレーナ・レジナさんのことは、前に一度書いたことがある。だが、いつかもう少し書いてみよう。

1400

旧ソヴィエトの作家同盟と、日本の「文芸家協会」は、お互いに対等の立場で、毎年、3名の作家、または評論家が、お互いの国を訪問する協定をむすんでいた。
たまたま私は、高杉 一郎、畑山 博といっしょに、ロシアに行ったのだった。

モスクワに着いて、翌日、私たちは、作家同盟の理事長に会った。

この人物は文学者というより、文学官僚といっていい人物だった。
作家同盟の応接室で、正式に挨拶を受けたのだが、夕方から延々2時間以上も一方的に講話を聞かされた。その内容は、いかにも公式的な、社会主義リアリズム理論で、私はうんざりした。彼の話しかたも退屈きわまりないものだった。

同席した通訳のエレーナ・レジナさんが、逐一、訳してくれた。

私は薄暗くなってきた応接間のソファにすわったまま、これまで何カ国の作家や詩人たちが、おなじ人物におなじ社会主義リアリズム入門のご講義を聞かされたのだろう、と思った。
それと同時に、現実にロシアの人々は、まるでドストエフスキーの登場人物のようにやたらに長く話をつづけるのか、と思った。
ドストエフスキーの登場人物は、それこそ何ページにもわたって話をつづける。まるでモノローグのような長広舌をふるう。
こうしたモノローグは、ドストエフスキーが登場人物の哲学的な論理を無理なく展開する技法だと思ってきた。
ところが、このときの話で、ロシアの知識人は、会話というより、自説の開陳だけに終始するらしい、と思ったことだった。

私は、相手が私の経歴などをくわしく調べているらしいことがわかった。私は、ヘンリー・ミラーをはじめ、クロンハウゼンの「ポーノグラフィー」や、いろいろな作家、評論家がポーノグラフィーを論じた著作などを訳していたが、その理事長の話の後半は、もっぱらポーノグラフィーについての見解を述べた。ポーノグラフィーが文学と無関係、かつ無価値であり、反革命思想に汚染されたものであるか、ようするにポーノグラフィーの反動性を説いたのだった。
もし、私がロシアでものを書いていたら、たちまち逮捕されたにちがいない。

何か希望があるか、と聞かれた。
私は、作家のフェージン、評論家のユーリー・トゥイニャーノフに会いたいといった。
理事長は承知したと答えた。しかし、これは、そのままにぎりつぶされた。

今でも私は、崩壊前のソヴィエトに行けたことをありがたく思っている。旅行自体は、制限の多いものだったが、いくらかでもソヴィエトの実態を見ることができたから。
どこに行っても、スターリンの独裁下で、逮捕され、処刑された人びとのことが頭から離れなかった。ひとたび逮捕されたが最後、その人物は、もはや「生きている」人間ではなくなる。裁判もない。当然ながら、弁護士がつくわけでもない。検察は、逮捕の理由もあきらかにしない。しかも、逮捕されたら有罪しか待っていない。
逮捕者が出た家族も、おちおちしていられない。いずれは、監視の目が光り、最悪の事態を覚悟しなければならなくなる。残った家族も逮捕され、かならずおなじ道をたどるからだ。

ソヴィエト崩壊後のロシアで、まっさきにポーノグラフィーが解禁されたとき、私は、あの文学官僚はどうなったのだろう、と思った。
あれだけ弁舌さわやかに、ソヴィエト文学の優秀性について、お説教をたれた人物だから、激動の時代もうまく立ち廻って、その後の文壇でもそれなりの位置におさまったのではないか。そんな気がする。

電話の話から、ひどく脱線してしまったが、ま、いいか。

 

 

1399

 電話の会話。
 モシモシは別として、アノネ、フンフン、ソウソウ、アハン、フッフッフ、エート。
 これも、「テ」または「テェ」でやったら、ずいぶん楽になる。

   A  ね、きみ。きみって、もっと背が高くって、やせた人かと思ってた。
   B  テェ?
   C  ……あなたは、写真で見た通りの方ですわね、ほら、この前の週刊誌の。
   B  テェ。
   A  いくつぐらいだろう。(Cに)いくつぐらいに見える?
   C  ……そうね、二十、二、三かしら。
   B  テ。

 むろん、外国人相手にこの「作戦」は使えない。
 相手はこちらの話にじっと耳を傾けて、こちらの話が終わるまで黙ったままだったりする。相手が話しているあいだは口を挟まないのがマナーだから。
 こちらは相手の顔が見えないので、話が通じているのかどうか不安になる。

 私は、ときどき、あいづちをうったりして、会話をなんとかスムーズに進めようとする。むろん、こちらが、流暢に会話ができないのをカヴァーしようとするためである。
 ふと――旧ソヴィエトのことを思い出した。

 1978年、私は旧ソヴィエト作家同盟の招待で、ロシアに行った。
        (つづく)

1398

 「21世紀政策研究所」のリポートのほかにもおそろしい報告がある。

 50歳になって一度も結婚しなかった人の割合を生涯未婚率というそうな。2012年度版「子ども・子育て白書」による。

 これが、2010年の時点で――男性、20.1%、女性、10.6%になった。

 1980年当時、生涯未婚率は、男性、2.6%、女性、4.5%。つまり、結婚しないまま50歳になった男が、30年前にくらべて、約8倍。女も、約2倍になった計算になる。
 そして、90年代から、結婚しない男女の生涯未婚率がともに、急上昇している。

 私の周囲には、いつも未婚の女性がひしめいていたので、いつも、
 「きみたちが結婚しないものだから、いまにきっと日本は滅亡するよ」
 などと冗談をいったものだった。

 ただし、私は「女はすべからく結婚すべし。男はなるべく結婚するな」
 というジョークを披露しては、女の子たちの笑いをとっていたものである。

 しかし、「子ども・子育て白書」の未婚率をよく見ると――
 25歳 → 29歳     男性、71.8%、 女性、60.3%、
 30歳 → 34歳     男性、47.3%、 女性、23.1%、

 こうした未婚者のうち、
 「いずれ結婚するつもり」  男性、86.3%、 女性、89.4%、

 独身を続けている理由は、「適当な相手にめぐりあわない」

 25歳 → 34歳     男性、46.2%、 女性、51.3%、

 「結婚資金が足りない」   男性、30.3%、 女性、16.5%、

 さて、ここから何が読めるか。

 しばらく前までは、30歳を越えて、結婚せず、(当然)子どももいない女性は、負けイヌなどといわれることがあった。この言葉は、酒井 順子のエッセイ、「負け犬の遠吠え」(2003年)による。その後、「婚活」という言葉も生まれたが、最近はあまり聞かなくなった。
 私は、こうした調査に――いよいよ困難なルートを歩もうとしている日本の姿を見るような気がする。

1397

 2012年版「子ども・若者白書」の原案なるものを読んで、これまた、暗澹たる思いがあった。

 今の若い人たちは、自分の将来にどのようなイメージをもっているのか。調査は、インターネットを通じて、全国の15歳から29歳までの男女、3000人を対象におこなわれた。(実施期間は、2011年12月から今年3月にかけて。)

 大多数が――仕事、働くことに関して、不安と答えている。

    十分な収入がえられるか(という不安は) 82.9%
    老後の年金はどうなるか         81.5%
    きちんと仕事ができるか         80.6%
    就職できるのか、仕事を続けられるのか  79.6%

 こういう数字を見ていると、私のような後期高齢者は、ギョッとする。今の若い人たちは、お先マッツァオだなあ。「お先マッツァオ」は、造語。「お先まっくら」の少しだけ手前。
 なぜ、こんなことを記録しておくのか。遠い将来、誰かが、これを読んで、ニヤリとするかも知れないから。

1396

 「21世紀政策研究所」のリポート。

 このリポートで指摘されている「もっとも楽観的なシナリオ」ですら、(1)の――日本が、ほかの先進国なみの生産性を維持するのは、2030年あたりまで。その後の31年から40年では、平均で、0・17パーセントのマイナス成長とされている。
 いいかえれば、日本の不況は「失なわれた20年」どころか、「失なわれた半世紀」ということになる。いや、それどころではない。
 東日本大震災という未曾有の天翻地覆すら「国難」と見なかった。その私が、2050年の日本のGDP、2兆9720億ドルの衰微という予測をこそ「国難」と見る。

 すなわち、「もっとも悲観的なシナリオ」では、41年から50年では、1・32パーセントのマイナス成長になるという。
 もし、こうなったら、日本の国内総生産(GDP)は、中国、アメリカの1/8という状態になる。

 輸出において、もはや、手も足も出ないだろうし、国力の疲弊は、おそろしい社会不安を惹き起す。もし、そうなったら、あらゆる分野で停滞がはじまり、それは雪崩のように、21世紀後半に引き継がれるだろう。
 日本全体が想像を絶するおそろしい事態に直面する。

 例の蓮ボウなどという牝鶏(ひんけい)は――日本は一流国家でなくていい、二流の国家でいいではないか、とヌカスかも知れない。しかし、国家の衰微は、国民の生きる力、創造力さえも枯渇させるものなのだ。どこかのバカ、はっきりいえば、蓮ボウのような愚かな女のいいぐさは、少しでも歴史を知っている人なら口が裂けてもいえないだろう。

1395

 
 注目すべき報告を読んだ。
 それぞれが日本の未来に関する一種の予言といってよい。それによれば――21世紀後半の日本は、先進国の列から脱落するという。

 まず、第一に――経団連の付属機関、「21世紀政策研究所」のリポート。
 このリポートは、「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」という。
 その内容を要約してみよう。

 (1)
 日本が、ほかの先進国なみの生産性を維持するのは、2030年あたりまで。その後は、マイナス成長の時代に移ってゆく。
 2041年から50年にかけての国内総生産(いわゆるGDP)の成長率は、平均でマイナス0・47パーセント。すなわち、中国、アメリカと比較して、じつに1/6という状態になる。(2010年と2050年を比較する。)

 (2)
 2050年の時点で、国民、1人あたりのGDPは、世界の18位。(比較のためにあげておけば)韓国は14位。つまり、ついに、韓国にも抜かれる結果になる。

 (3)
 このシナリオは、4つの予測が可能になる。
 それを、以下に並べてみよう。

 (4)
 もっとも楽観的なシナリオ。
 2050年、日本の国内総生産(GDP)の試算は、4兆1710億ドル。
 (現在の4兆850億ドルをややうわまわるが、中国、アメリカ、インドにつづいて、世界の4位。)

 (5)
 現在を基準としたモデレートなシナリオ。
 2050年、日本の国内総生産(GDP)の試算は、4兆570億ドル。
 (現在の4兆850億ドルを下まわっても、中国、アメリカ、インドにつづいて、世界の4位。)

 (6)
 これまでの、「失われた20年」がこのまま続く場合。
 (4)の中国、アメリカ、インドにつづいて、ブラジルが日本を抜く。つまり、日本は5位。)

 (7)
 悲観的なシナリオ。
 2050年、日本の国内総生産(GDP)は、2兆9720億ドル。
 中国、アメリカ、インド、ブラジル、ロシア、イギリス、ドイツ、フランス、インドネシアに抜かれて、日本は9位。)

 残念ながら、このリポート自体を批判する学問的な能力がない。したがって、経済学、社会学、統計学的にこれをどう見るべきなのか、答えはだせない。
 私としては、ひとりの国民として、どう受けとめればいいのかを考えた。

 暗澹たる思いがあった。
 これは、まさに存亡の危機ではないか。

1394

映画、「アーテイスト」を見たせいか、昔の女優を思い出した。ただし、サイレントの女優ではない。「戦後」の、しかも、ほとんど無名の女優ばかり。

ニナ・フォッシュ。たいへんな美人だった。(ただし、あくまで個人的な意見。)
オランダ、ライデン生まれ。母はコンスェロ・フラワトンというラテン系の女優。父は、オランダでも有名なオーケストラの指揮者。ニナ自身も、コンサート・ピアニストとして、リサイタルをやるほどの実力があった。
これほどの女性なら、なにも映画に出なくてもいいのだが――「巴里のアメリカ人」に出ているから、ビデオや、DVDで、私たちはニナの美貌に接することができる。ほかに「血闘」、「君知るや南の国」といった映画に出ていた。こちらは、ビデオ化、DVD化されているかどうか。

「重役室」という映画では、社長秘書の役で、ジューン・アリソン、バーバラ・スタンウィック、シェリー・ウィンタースなどといっしょに出ていた。彼女たちは、いずれも大スターになったが、ニナは、やがて消えてしまった。

どうして消えてしまったのだろう?

リタ・ガム。
この女優は、日本ではほとんど知られていない。
ピッツバーグ生まれ。ブロードウェイの舞台から草創期のTVドラマで認められ、Hollywood 入り。私は、何かの映画で見て、その美貌に驚いた。
しかし、この女優も、消えてしまった。

そんな女優は、ほかにもたくさんいる。
その大多数は無名だし、クレジットに出た名前も、もうおぼえていない。
ニナ・フォッシュのような美人にかぎらない。

「スティング」で、ロバート・レッドフォードが、毎晩、食事に立ち寄る、安食堂の、しがないウェイトレス。ロバートは、このくたびれた中年のオバさんと一夜の契りをかわす。翌日、人けのない裏通りで、小綺麗なファッションに着替えたオバさんが、彼に歩み寄ってきて、主人公を狙撃する殺し屋になっている。
この女優さんは、ほんとうにすばらしい。だが、「スティング」以後、一度も見たことがない。彼女は、私の好きな女優のベスト・テンに入る。

「ウォリアーズ」で――深夜のセントラル公園からブロンクスまで、少年たちが必死に逃げようとしている。途中の公園のベンチに、若い女がひとりで腰かけている。少年の一人が、その女をモノにしょうと話しかける。女のからだに手をかけた瞬間、少年の手首に手錠がかけられてベンチに繋がれる。この女性刑事は凄い迫力があった。
この女優さんも、その後、見たことがない。

私の心のなかに、こうした女優の面影が焼きついている。AV女優にも、ほんの二、三人、そういう女がいる。むろん、名前も知らない。

 

 

 

1393

「7日間の恋」で、「シビル・ソーンダイク」を演じたジュデイ・デンチも、短い出番ながら、さすがに名女優らしい芝居をみせている。
これに対して、「ローレンス・オリヴィエ」、「ミルトン・グリーン」をやった俳優たちの魅力のないこと、おびただしい。

とくに失望したのは、「ローレンス・オリヴィエ」をやったケネス・ブラナーだった。もともと大根役者だが、この映画では、とてもローレンス・オリヴィエに見えない。(「サウンド・オブ・ミュージック」のケネス・ブラナーは、もう少しましな俳優だったが、いまや見るかげもない。)

「7日間の恋」とはまるで違う映画だが、ロンドンの大女優の孤独といやらしさを描いた「華麗なる恋の舞台で」(イシュトバン・サボ監督)や、黒人の歌手、ティナ・ターナーを描いた「ティナ」(ブライアン・ギブソン監督)を思い出した。
「華麗なる恋の舞台で」はアネット・ベニング、ジェレミー・アイアンズの主演。
ジェレミー・アイアンズが、みごとにアネット・ベニングを立てていた。こういう俳優に比較すべきではないが、ケネス・ブラナーはジェレミーに遠く及ばない。

それほど優れた映画でなくても、ある部分が、いつまでも心に残る映画はある。この映画、「7日間の恋」はそんなものの一つ。

「7日間の恋」は、もうどこでも上映されていない。最近の映画の「運命」ははかないものだ。
「7日間の恋」につづいて――「アーティスト」を見た。この映画は、本年度のアカデミー賞・作品賞ほか、数々の賞に輝いている。当然、私も期待するところが大きかった。

結果的には、この映画は私の期待をみごとに裏切った。

私は、「アーティスト」を見て、ジョン・ギルバートや、ラモン・ナヴァロたちのたどった悲惨な人生を考えた。
悲しみを甘受していれば、悲しみは心から離れない。
ジョン・ギルバートは、オリンポスの高みからころげ落ちて、酒に溺れた。最後は、自殺に近い状態で死ぬ。ラモン・ナヴァロは、老いさらばえて、裏町の路地で、わかい黒人の強盗に刺されて死ぬ。悲惨な末路だった。

むろん、「アーティスト」にはそんな悲惨はない。
こんな程度の作品が、アカデミー賞の作品賞に選ばれるというのはおかしい。これが、ウディ・アレンや、ビーター・ボクダノヴィチの演出だったら、はるかにすばらしい映画になっていたにちがいない。
旧ソヴィエトの映画監督、ニキータ・ミハルコフが、サイレント映画時代を背景に、黒海沿岸の町で、無声映画のメロドラマ出演者たちを描いた「愛の奴隷」にさえ比較すべくもない。

この映画を見た人たちに訊いてみたい。

Was it good for you,really?

1392

いつか、私は書いたのだった。「公開されたとき、さして評判にならなかった映画、あるいはどうしようもなく程度の低い映画でも、それを見て思いがけない「発見」をした」場合、そんなことも書いてみたい、と。

アランがいっていたが、芝居の見巧者になるには、恐らく名優になるくらいの時間がかかる、という。映画だっておなじことだ。映画のいい観客になるには、それなりに人生の哀歓が身についてこそ、よりよく映画を楽しむことができるのだから。

ミッシェル・ウィリアムズは、とてもよくやっている。「マリリン」の緊張、撮影への不安、そして夫の「ミラー」がロンドンから去ったあとの悩み、実際の「マリリン」もそうだったのかと思うほど、自然に演じている。

この時期のマリリンは、「フォックス」との対立、アーサー・ミラーがマッカーシーの「非米委員会」に召還されて、追求されていたし、マリリン自身が、悪辣な上院議員に脅迫されていた。世界のジャーナリズムの関心が集中するなかでの、ロンドンへの新婚旅行と、ただでさえ狂瀾怒濤の女優人生のなかで、自分のプロダクションの最初の映画、「王子と踊り子」の撮影にとりかかった。

もともと現実生活への適応性が欠けていたマリリンが、ミルトン・グリーンや、ポーラ・ストラスバーグにすがりつくようになったのは、当然だろう。映画も、そのあたりの人間関係は、いちおう描いている。
しかし、体力や精神力の限界から、マリリンは心身両面で消耗しているだけに見える。

ただし、そのあたりをミッシェル・ウィリアムズは、よくとらえていた。(ミッシェルは、「ゴールデン・グローヴ」最優秀女優賞を受けている。)
原作者のいう「恋」が「時空を超えた、しかし、リアルなエピソード」という認識、ないし、知覚は監督のサイモン・カーティス自身、考えなかったろう。しかし、ミッシェル・ウィリアムズは、(できるかぎり)「夢物語」を見せようとしていた。

「7日間の恋」のマリリン、つまり、ミッシェル・ウィリアムズを見ていて、ある作家のことばを思い出した。

    感受性にとみ、ゆかしく、熱烈で、つまり俗にいうロマネスクで、恋人とふたりきりで、真夜中にも人里離れた森をさまようにすぎない幸福を王者の幸福にもまさると考える魂、こうした魂をかいま見ると、私は一晩じゅう夢想にふけるのだ。

 スタンダール。
(つづく)

1391

「マリリン・モンロー 7日間の恋」は私にいろいろなことを考えさせてくれたのだった。

マリリンは、結婚した相手をどう見ていたのか。「7日間の恋」では、アーサー・ミラーと新婚で、ロンドン行きは、新婚旅行のようなものだった。

    夫ってものは、だいたい、いい「恋人」なのよ。
    奥さんを裏切っているときはね。

 ずいぶん、シニックな意見に聞こえる。しかし、少し口を尖らせながら、ちょっとドモリ気味に、舌ったるい、こんなセリフを聞かされたら、誰だって、マリリンに賛成したくなるだろう。この映画のマリリンは、まず、結婚の不幸を知らせてくれる。

イギリスにおけるマリリンには、少数だが意外な理解者がいた。たとえば、詩人のイーディス・シットウェル。

    彼女は世界を知っているのだが、この知識が、いまや彼女の偉大で、情け深い尊厳を低めている。その暗さが、彼女の「よき姿」をかすんだものにしている。

 イーディスは、マリリンが、アーサー・ミラーに「裏切られた」ことなど知るよしもなかったはずである。しかし、見える人には見えていたのだろう。

「7日間の恋」のマリリンは、「王子と踊り子」の撮影に非協力的で、撮影には遅刻ばかりする。アーサー・ミラーは、さっさとロンドンを去って、アメリカに戻ってしまう。
マリリンは、ローレンス・オリヴィエの演出に不信をだき、演技を指導するポーラ・ストラスバーグにすがりつく。それでいて、撮影をスッぽかして、若いコリンを相手に一日を楽しく過ごす。最後には、「スプーニング」(セックス)というオマケつきで。

マリリンのことば。

    セックスは、自然の一部よ。あたしは、自然にしたがうだけ。 

 こういう女は、ややもすれば、男にとって、いちばん危険な手管をもった女に見える。ここに不幸がある。
「王子と踊り子」の演出にあたったローレンス・オリヴィエはいう。

    プロフェッショナル・アマチュア。

 現在、「王子と踊り子」を見ると、マリリン・モンローは、映画の始めから終わりまで、名優、ローレンス・オリヴィエの「芝居」をまるっきり食っていることがわかる。

「7日間の恋」の原作者は、彼女の根底にある「怖れ」を指摘している。しかし、映画は、そのあたりにまったく眼を向けていない。というより、はじめから、そのあたりに関心がない。
だから、身勝手なスター、「マリリン」にふりまわされるスタッフ、そして撮影の途中で露呈してくるさまざまな葛藤など、あくまで平板に描かれるだけで終わっている。

「マリリン・モンロー 7日間の恋」を、そのまま「おとぎ話、幕間劇、時空を超えた、しかし、リアルなエピソード」として、この映画を見たということ。

サイモンは、原作を読んで、

    1956年当時の映画作りの克明な描写のみならず、人生初の仕事で最盛期のマリリン・モンローと親密な仲になった若者の夢物語にも心惹かれた。

 という。「夢物語」なら「夢物語」でいいのだ。しかし、この映画にはそんな「夢」のかけらもない。「マリリン」をやった女優さん(ミッシェル・ウィリアムズ)が気の毒だった。
(つづく)

 

1390

サイレント映画のスター、クララ・ボウは語っている。

   セックス・シンボルなんて、背負いきれないほど重いお荷物だわ。とくに、疲
   れきって、傷ついて、どうしていいかわかんないときは。

 マリリン・モンローが、おなじことばをいったとしてもおかしくない。
彼女は、自分の限界を知っていた。

   あけすけにいうと、あたしって、土台がない上に建っている超高層ビルみたい。
   だけど、あたしは土台のところで仕事をしてるのよ。

 このあたりに、私はマリリンのいじらしさを見る。

   あたしの自己証明のベストの方法といったら、女優としての自分を証明するこ
   となの。

 この目的を実現できるかどうか、自信はなかった。映画、「マリリン・モンロー 7日間の恋」でも、撮影現場で、なにかとポーラ・ストラスバーグにすがりつくマリリンが描かれる。(現実には、あの程度のものではなかったと思われる。)

   ほんとうにピタッときまったときは、演技することが楽しいわ。

 しかし、マリリンが、「ピタッときまったとき」when you really hit it right は少なかった。(これは「結婚」や、「情事」でも、おそらくおなじことだったにちがいない。)

この映画では、「ローレンス・オリヴィエ」が、マリリンの「演技」を認めようとしなかったこと。「マリリン・モンロー・プロダクション」の共同出資者で、「王子と踊り子」の撮影が遅れて、破産寸前の写真家、ミルトン・グリーンの、やけっぱちな姿勢に、マリリンの「天然ボケ」と「恋」が重なってくる。

   これまでの生涯、私はずっと日記をつけてきた。しかし、これは日記ではない。
   日記というよりおとぎ話、幕間劇、時空を超えた、しかし、リアルなエピソード
   だ。

 「マリリン・モンロー 7日間の恋」の原作者、コリン・クラークの言葉。

原作者、コリン・クラークにとって、マリリンとの交遊全体がそれこそフェアリ・テールだったに違いない。だが、「マリリン」にとっては「7日間の恋」は「おとぎ話」ではなかったのではないだろうか。
「幕間劇」というのは、インタルードという意味だろう。作者は、インタルードと書いているのだから、文字通り、アーサー・ミラーとの結婚と、「王子と踊り子」の撮影の中間にはさまれた幕間劇と見ているのだが、私は、もう少し重い意味を見る。
マリリンにとっては、「7日間の恋」ではなかった。
(つづく)

1389

しばらく前に――映画、「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見た。
(’12.3.24 公開)

私は、このブログでとりあげるつもりはなかった。ずっと以前に、新聞や雑誌に映画批評を書いていた時期の私なら、この映画を批評しなかったと思う。
評価ははっきりしている。それほど、それほど、すぐれた映画ではない。

今頃になって、もう誰も見るはずのない映画について書く。ずいぶん酔狂な話だが、むろん、書いておこうと思った理由はある。ただし、映画評ではない。例によって、「マリリン・モンロー」というテーマをめぐっての閑話(コーズリー)である。

「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見たのは、当然ながら、「マリリン・モンロー」に関心があったからである。自分でも信じられないのだが――日本で、最初の評伝を書いた作家なのだから。(笑)
じつは、この映画を見る前に、作家、山口 路子の「マリリン・モンローという生き方」(新人物往来社)を読んだ。「ココ・シャネルという生き方」の著者である。

まず、この本について。
山口 路子は、「マリリン」に対して、私とはちがったやさしい理解をみせている。全体はマリリンの伝記といってもいいのだが、この女優の「生きかた」に通じる一種の「狂気」――とくに、恋愛、あるいはセックスというかたちであらわれるものを、女流作家らしく、とらえている。
「マリリン」の恋愛にあって、セックスという行為がもたらすものは、とても自然で、いわばリーズナブルで、しかも、女としての自負もふくんでいる。
ベッドではあられもなくみだれるような美しい女性が、一方では、真摯で、聡明で、近寄りがたいVirtu(ヴィルチュ)をもっているとすれば。たとえスクリーンの恋人だとしても、だれしも好意をもち、幸福さえも感じるだろう。
かくて、マリリンとは、多数の人が夢見て、作りあげ、組み立て、あらまほしい「女」として望んだファラシーなのだ。
そのあたりを、山口 路子は作家として、みごとにとらえている。

私は、それこそロマネスクな気分で、「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見たのだった。
(つづく)

 

1388

2012年5月11日、東京電力は、家庭向けの電気料金の値上げを政府に申請した。7月1日から、平均10・28%の値上げという。
これで、消費税が10%になったら、庶民はダブル・パンチどころではない。

ところで――東日本大震災が起きる直前、私は、ある予測に驚かされた。

2010年、動画コンテンツといった大容量のデータ通信需要がぐんぐん増加していた。つまりは、ネットワークを行き交うデータ量が急激に拡大していたことになる。

通信ネットワークを往来するデータがふえる。当然、ITC機器の電力の消費量もふえる。それも、算術級数的にではなく、幾何級数的にふえる、という予測だった。

当時、経済産業省の試算によれば――
インターネット内の情報通信量は、2025年には、2006年の190倍になると予測されていた。

そこで、電力の消費量も激烈にハネあがる。
2010年には、5000万khw。日本全体の電力の消費量の5%以上。

これが、2010年以後にも増大しつづけていた。

ここで、東日本大震災が起きた。

現在、国内で稼働する原子力発電所は、ゼロ。さて、どうするのか。
私は、当時の経済産業省の試算――(インターネット内の情報通信量が、2025年に、2006年の190倍になるという予測)が、現在、どうなっているのか知りたい。
私は、ここに、日本の大きな危機が顎(あぎと)を開いて待っているような気がする。
どこかの牝鶏はサバサバと、日本は二流国でいいではないか、とヌカすだろうが、この問題の処理をあやまれば、牝鶏の予言をまつまでもなく、あと10年以内に、日本はまちがいなく三流国に転落する可能性がある。

1387

私は、サイレント映画の女優たちのことを調べているのだが、どんなに有名な女優さんでも、出演作品を見ることが不可能なので、いきおい色々な文献にあたって、少しでも関係のあるものを見つけようとする。

古い映画雑誌などで、ゴシップ記事でも見つければ、どんなにつまらない記事でも、何かの役に立つ。

有名な女優には、いろいろな逸話(アネクドート)がまつわりついている。それが伝説となって、ときには神話として、人々の記憶にきざまれる。

私も、女優さんの、いろいろな逸話に注意している。

最近の私は、古い、古いサイレント映画の女優たちのことを調べているのだが、こんなつまらない雑文を書くときでも、いつも心に刻みつけていることがある。

1907年(明治四〇年)に、久保 天随が書いている。

邦人の弊として、伝記をものせるに際し、殊に逸話を重んずる傾向あり。抑(そ
もそ)も、逸話はその性質上、断片的事実にして、その人の生涯全体には、さば
かり重要の関係を有せざるものなり。

たしかに、天随先生のおっしゃる通りだと思う。
いくらおもしろいアネクドートが残っている人でも、その逸話だけで理解してはならない、ということだろう。

しかし、相手がサイレント映画の女優だって、そんなおもしろいアネクドートが簡単に見つかるはずもない。

1386

最近の私は、サイレント映画の女優たちのことを調べている。その当時は有名だった女優さんでも、出演した作品を見ることがまず不可能なので、ごく短いエッセイを書くだけでも、けっこう苦労する。

ジャック・フィニーという作家がいた。
「盗まれた街」、「ゲイルズバーグの春を愛す」、「レベル3」などの小説で知られている。

私は、最近、ジャック・フィニーの小説「マリオンの壁」を読んだ。

この長編、「マリオンの壁」は1973年に書かれている。
内容は、サイレント映画のフィルム収集家の話なのだが、ジャック・フィニーらしい、おもしろい「幽霊小説」といってもいい。

驚くべきことに、作品の冒頭に、150人の映画スター(大多数が女優だが)の名前を列挙している。
作家が自作の冒頭に、特定の個人の名を挙げ、献辞を添えて感謝の気もちを表明することはめずらしくないが、150人の映画スターの名をあげて謝意を表明するような例はめったにない。

サイレント時代のスターとして――リタ・ナルデイ、ルネ・アドレー、アラ・ナジモヴァからはじまって、ヘッシー・ラヴ、ザス・ピッツ、バーバラ・ラマールまで。
男性たちは、りゅー・こでい、クライヴ・ブルックスから、早川セッシュー、エミール・ヤニングスなど。計、66名。……

つぎの世代は、クリア・ガースン、リタ・ヘイワースから、キャサリン・ヘップバーン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアーまで。計、21名。

さらに「戦後」になると、ケイリー・グラント、フレドリック・マーチから、マリリン・モンロー、ジョゼフ・コットンまで。計、15名。

さらに、エリオット・グールド、ジェーン・フォンダから、ダスティン・ホフマン、マーロン・ブランドまで。計、13名。

総計、115名。
いずれもアトランダムに選んだにちがいないが、やはり、作家らしい選択基準があるような気がする。

そして、最後に――

その他、過去、現在、そして未来の何千人もの映画人たちに 愛をこめて

という献辞が添えられている。

ジャック・フィニーが映画を愛していたこと、そして「マリオンの壁」という作品は、この作家がどうしても書きたかったハリウッド小説なのだろうと思う。

私が読んだのは福島 正実の訳だが、おなじ福島 正実訳のハインラインや、ヒルダ・ローレンスなどよりも、ジャック・フィニー訳のほうがいいと思う。
自分の好きな作家を訳している翻訳者のよろこびが想像できるような気がするから。

ただし、この作品は日本ではあまり評判にならなかったのではないか。