1425

徳田 秋声論を書くつもりはない。
ただ、その文章に、独特の比喩や当て字が多いことに驚いた。

「蒼白い月」(大正9年)から、書き出してみよう。

(1)この海岸も、煤煙の都が必然展けて行かなければならぬ郊外の住宅地若し
くは別荘地の一つであった。
(2)二人の生活の交渉点へ触れてゆく日になれば、話題が有り余るほど沢山あっ
た。
(3)彼女自身ははっきり意識してゐないにしても、私の感じ得たところから言え
ば、多少枉屈的な運命の悲哀がないことはなかった。
(4)私は何かにつけてケアレスな青年であったから、その頃のことは主要な印象
のほかは、総て煙のごとく忘れてしまったけれど……
(5)時間や何かのことが、三人のあひだに評議された。
(6)モーターが引切なしに証の方へ漕いで行った。

眼についた文章を引用しただけだが、今の雑誌にこういう文章が掲載去れることはないだろう。だいいち編集者が掲載しない。掲載したとしても、校正者が付箋をベタベタ貼りつけてくる。

文学史的にいえば、悪文といわれる文章表現をつづけてきた室生 犀星や、横光 利一が「日本語を相手に悪戦苦闘してきた」こともよく知られている。ところが、秋声のような作家もまた日本語を相手に悪戦苦闘してきたという「発見」に、私は驚かされた。

逆にいえば、今の作家は、ただ、平均的に読みやすい、なだらかな文章を書くだけで、「日本語を相手に悪戦苦闘」することもなくなっているだろう。

ついでにいえば――「故郷は遠くにありて思うもの」と室生 犀星はいう。彼の内面に何があったのか。
徳田 秋声は、「初冬の気分」で、若き日の故郷について、

郷里の町、町の人達の生活気分と、まるで没交渉な――寧ろ反感をさへももつ
ほどに、彼は自分の産れ故郷に昵(なず)むことができなかった。

と書く。
少年期に、いろいろな境遇の変化にふりまわされたことが、「彼の自己尊重と生活愛護の観念を、どれくらい傷つけたか」とみずからに問いかける。

少なくとも彼に若し幼い時からの記憶に刻みつけられた家があったならば、静か
なその故郷の町は彼に取って今少し懐しい愛着を覚えしめたかもしれなかった。

こういう感覚は、すでに私たちから遠くなってしまった。だから、あたらしい作家たちが、故郷に対する愛着や反発を語らなくなったのも当然かも知れない。

偶然、秋声を読み返した私の感想は、そんなところまでひろがってゆく。

 

 

1424

徳田 秋声の短編を読んでいる。古本屋にころがっていたので、買ってきた。

秋声は大作家だが、いまどきこの作家の短編、まして「西の旅」などを読む人はいないだろう。

「或る売笑婦の話」、「蒼白い月」(大正9年)、「復讐」(大正10年)、「初冬の気分」(大正12年))といった旧作に、「清算」(昭和13年)、「チビの魂」(昭和10年)、「西の旅」(昭和15年)など、新作が並べられている。

私は「文学講座」で、秋声の「縮図」をとりあげたが、そのときこの短編集にはまったくふれなかった。(理由はあとで書く。)

ここで、徳田 秋声論を書くつもりはない。ただ、戦時中に、この短編集を出した作家の境遇というか、状況を想像して、暗然たる思いがあった。(これもあとで書く。)

この短編集を出版したとき、徳田 秋声は、最後の長編、「縮図」の連載をはじめていた。秋声は、70歳。当時、すでに文壇の最長老といってよかった。だが、この作品は、当時の内閣情報局の忌避にふれて、連載80回で中絶した。
作家が、最後の力をふりしぼって書き始めた作品が、時勢にあわない、風俗壊乱を理由に発表を禁止されなければならなかった。秋声の無念は察するにあまりある。

しかも、この短編集「西の旅」もまた、1941年、発禁処分をうけた。
理由はあきらかにされなかったが、令息、徳田 一穂の推測するところでは、「復讐」と「卒業間際」が、抵触したらしいという。くわえて、「或る売笑婦の話」も問題とされたらしい。

詰り、その当時の軍官専横の為政下にあっては、かうした純粋な文学的短編集は
全体として忌避されたのであった。

という。

今では、「当時の軍官専横の為政下」の恐怖は想像もできないだろうが、秋声をはじめとする一部の作家たちはこうした時代の重圧にくるしんできたのだ。
そして、検閲者はいつも糧道を断つことで、活動を妨害することを忘れてはならない。

 

 

 

1423

「戦後」、あるテレビ番組の主題歌がレコード会社から出たが、それが「主婦を中心としたモニター」から批判され「要注意歌謡曲」の指定を受けた、とか。

このテレビ番組は、「可愛い悪女たち」というコメデイ・シリーズ。
主題歌は「ウイ・ウ・ノン」。歌詞は、

イヤ イヤ イヤ イヤ イヤだったら イヤ
ひとりぽっちで 夜明けまで なんて イヤ
あたしのぺットちゃんが そういうの
ウイ・ウ・ノン

このドラマが、6月にスタートしていらい、とくに「主婦を中心としたモニター」からの批判が多かった。
レコードは、5月に発売されて、歌詞は3番まで。「民放連」の番組審査会のレコード専門部会では、レコードの市販の段階ではじめて問題になった。

この部会は、東京のテレビ各局からひとりづつ、計10人の委員によって構成され、レコード会社から発売前に提出された新譜を審査する。
問題ありと見なされた場合は、臨時部会を開催し、全員の一致で「要注意歌謡曲」という指定をする。

審査基準は、(1) 男女の情事の露骨な表現
(2) 不倫関係などの肯定的な表現
(3) 卑猥、愚劣、下品な内容
(4) 犯罪の肯定
など、11項目がある。
「要注意歌謡曲」に指定された作品は、
(1) 放送しない
(2) メロデイーは使用してよい
(3) 削除・改善すれば放送してよい
(4) 「民放連」から特別に指示する
この4項によって、放送禁止、または一部使用がきめられる。

このテレビ番組、「可愛い悪女たち」はすでにワン・クール放送されていて、制作局では自主規制の対象としなかった。レコード化されてから、編成部長は、

これまでの放送では、局内ではとくに問題になっていない。いかがわしい、と
いう抵抗もないようだ。ただ。レコードになった場合は、全曲収録ということ
から、論議は別になるだろう。

とコメントしている。

「可愛い悪女たち」の主題歌、「ウイ・ウ・ノン」が、その後どうなったか、私はしらない。
作詞、藤本 義一。作曲、南 安雄。歌ったのは、朝丘 雪路。
私が聞いたのは、45回転のディスク。東芝レコード、TR-1130.
B面は、「くちづけを……」(R・カロッソーネ作曲)。これも、朝丘 雪路。

ここまで読んでくれた人は、エッ、いつの時代の話だろう、と、首をかしげるにちがいない。
1964年(昭和39年)9月。(笑)

テキは「主婦を中心としたモニター」といった、いかにも不特定多数をバックグラウンドにした「世論」をもちだしてくる。こうなったらヤバい。お互いに注意しよう。

歴史的には、明治の「矯風会」から、山高 しげり、奥 むめお などのオバサマに受けつがれ、やがて、昭和初期の「愛国婦人会」、「国防婦人会」にうけつがれるイデオロギーである。これは、1945年に、死滅したはずだった。
ところが、カビのようにしぶとく生き残って、これが、1964年の「主婦」に変身し、やがて「オバタリアン」という種族に進化した。
こういう「主婦を中心とした」ウイルスは、なかなか繁殖力も強力なので、私などはついぞ警戒心をゆるめたことはない。
美人薄命。これは、クソババアは死なず、と読む。(笑)

 

 

1422

戦後、最初に公開された映画、「春の序曲」でもっとも驚いたシーンがあった。

誰もいない大きな室内に、パット・オブライエンが入ってくる。
ふとめのシガー(葉巻)を口にくわえている。
シガーの煙を大きく吸い込む。
口をまるく開くと、力をこめてその煙をいっきに吐き出す。
どうどうたる体格の男が、両肺いっぱいに吸い込んだシガーの煙を、ブハーッと吐き出して、大きな部屋の右から左、飛距離にして7メートルほども、綺麗な輪のかたちをくずさずに飛ばしてみせている。

カメラの位置は固定で、その輪ッカの動きを全部とらえている。

口から吐き出された煙は、はじめはちいさな輪として、画面の右側から左に向かってゆっくり移動して行く。
しかし、途中で形がまったく崩れない。
そのまま煙はゆっくり移動するが、空気の抵抗で少しづつ形が大きくなってゆく。

ふつうのスモーカーも口に含んだ煙で輪ッカをつくる程度の芸当はできるだろう。
だが、パット・オブライエンがやってみせたのは、普通サイズのシガレットではできる輪ッカではなかった。
肺活量がちがう。

さすがに、5メートルを越えたあたりから、煙のかたちが崩れはじめ、輪のサイズが大きくなってくる。煙自体が、モヤーッとしてくるが、それでもまだ移動をつづける。

観客はこの「芸」に声をのんでしずまり返っていた。

このシーンは、映画、「春の序曲」のストーリーには無関係で、パット・オブライエンの「芸」として撮影されたものらしい。

その後、これとおなじ「芸」はバーレスク、ヴァラエティー、寄席、見世物の舞台はもとより、映画でも見たことはない。観客がいれば、空気の対流で、これほどの距離をタバコの煙が完全な輪ッカのまま移動することはあり得ない。

私の「戦後」は、タバコの輪ッカからはじまった。(笑)

 

1421

「春の序曲」が、日本で公開されたのは、1946年2月28日。
この映画で、美少女、ディアナ・ダービンがケーキを食べるシーンがある。

敗戦国、日本の食料事情は極度に逼迫していた。食料の配給がなかった。配給があっても、米の配給はなく、「農林2号」という、水っぽくて、まずいサツマイモが、2、3本だったり、ゴミまじりの片栗粉が、ひとり当たりオワンに一杯。たまに、米の配給があっても、一週間分か、せいぜい数日分しかないような非常事態がつづいていた。

安部 ねりの「安部 公房伝」のなかに私が1ケ所出てくる。

米の流通は政府の管理による配給となっていたが、裏取引の闇米を買いに「世紀
の会」の中田耕治と汽車で農村に出かけ、味噌漬けやタドンなどと一緒に行商し
たりもしていた。ある日手入れがあったが、公房と中田は、ゆっくり走る列車か
ら外へと飛び降りて警察の手を逃れた。  (P.89)

私が出てくるのはこの一か所だけだが、敗戦国の国民は食べられるものなら何でも手に入れようとしたのだった。配給の食料だけで、やがて餓死した判事がいたくらい。

「春の序曲」に話をもどすのだが――
私の記憶では――ディアナ・ダービンが、ケーキを食べるシーンに、観客席がどよめいた。羨望というよりも、むしろ驚きの吐息といったほうがいい。
まだ、ティーンエイジャーの若い娘が、目の前に出されたケーキを綺麗にカットして、こともなげに口に運んでいる。ほんとうに、劇場が沸いた。

私は、日比谷でこの映画を見た。劇場は超満員だった。戦後、最初に公開されたアメリカ映画なので、シーンの一つひとつ、カットの一つひとつが新鮮に見えた。

私は、戦前、「オーケストラの少女」を見ていたので、ディアナ・ダービンを知っていた。まだ、ロー・ティーンだった少女スターが、すっかり美少女に変身している。これにも驚かされた。                 (つづく)

1420

敗戦後、日本は、1945年9月から1952年まで連合軍の占領下にあった。いまさら、何をいい出すのか、といわれるのは承知だが。
戦後の日本人がいちばん先にふれたアメリカの文化は映画だった。

占領軍は、毎週、娯楽映画と、デモクラシーの啓蒙・宣伝に有益な映画を公開することにして、最初に選ばれたのは「春の序曲」(フランク・ボゼージ監督)、もう1本は「キューリー夫人」(マーヴィン・ルロイ監督)だった。

「春の序曲」のストーリーは――
美しい声で、将来は音楽家になりたいと思っている田舎娘(ディアナ・ダービン)が、ニューヨークにいる兄(パット・オブライエン)を頼って、大都会に出てくる。
兄は、作曲家(フランチョット・トーン)の執事を勤めているので、彼女をメイドとして雇うように主人を説得する。メイドの美声に気がついた作曲家は、やがて彼女の純真さに惹かれて行く……

映画評論家の佐藤 忠男は、「私にとって映画はなんだったか」のなかで、

まあ途方もなく楽天的でバカバカしい映画です。しかし私は上映が始まるとたち
まちこのたあいのない娯楽作品の世界に巻き込まれてしまった。彼女がニューヨ
ークに来て通りを歩いて行くと、その姿がなんとも元気でチャーミングなので、
向こうからくる男たちがスレ違うたびに振り返っていく。その場面でアッと驚い
たんですね。
(「公評」12年6月号)

私もこの場面はよくおぼえている。しかし、その場面でアッと驚いたわけではない。佐藤 忠男はつづけている。

もちろん、日本でだって、きれいな女性とスレ違えば振り返るということはある。
しかし日本の常識ではそういう態度は不良のはじまりなのであって、従って映
画で描くなら必ずニヤニヤ、ニタニタ嫌らしい表情をしているのでないとおかし
い、ということが常識になっていたのですね。ところがこのアメリカ映画では、
男たちはみんな、じつに明るい悪気のない顔で振り返るのですね。これに本当に
びっくりしました。

戦時中の日本人は、美しい女とスレ違っても振り返るようなことはあまりなかったろう。パーマネントは敵だ、というわけで、美人もいなかった。女子学生の最大の贅沢が白いソックスという時代だったからねえ。
それでも、男どもは、ニヤニヤ、ニタニタ、いやらしい表情で見るはずで、このあたりの陰湿さは、佐藤のいう通り戦前の日本映画によく見られたはずである。
ところで、私は「春の序曲」のこの場面で驚いたわけではない。
(つづく)

 

1419

短いものしか読めなくなっても、いろいろ考えることはできる。

こんな記事があった。

Perhaps the old adage,”Two can live
as cheaply as one,”means that father
and mother can live as cheaply as da
ughter.

昔の諺、「夫婦暮らしの費(ついえ)の嵩(かさ)は、ひとり暮らしとおなじほど」というのは、どうやら、父母の暮らしは娘ひとりとおなじ高、ということか。

訳がヘタなせいで、ちょっと、わかりにくいかも。
これは、おなじ1932年、「クリスチャン・サイエンス・モニター」から。

ようするに、当節のアメリカ娘の暮らしぶりは、一時代前の父さん母さん二人ぶんもかかるってこと。娘のほうが贅沢な暮らしをしているわけ。

最近の日本では――男女の初婚年齢が、男性が30.7歳、女性が29.9歳。過去最高という。(「2011年/人口動態統計」厚生労働省)
第一子/出産時の母親の平均年齢は、30.1歳。
1975年に、25.7歳。
2005年に、29.1歳。
2010年に、29.9歳。

笑いごとじゃないかも。(笑)

1418

 この春。
ギリシャの政情不安がスペインに飛び火しようとしていた。4月いらい、ユーロの信認が低下して、円高・ユーロ安がつづいている。こうなると、世界的に先行きが不透明になって、世界の同時株安という最悪の事態も懸念されている。日本はますます円高になって、輸出もますます落ち込む。

ここにきて、世界経済をリードするはずのアメリカ、さらに中国経済が減速しはじめている。ついでにあげておけば――最近の日本は、円高にくわえて、日経平均株価が、1万83円56銭(3月30日)から8382円(6月5日)に下落した。16.9%下落。

そんな中で、ボケ作家は――短いものを読んで、それをじっくり心のなかで反芻している。

The passenger used to worry about
catching a train. Nowadays it’s the
train that worries about catching a
passenger.

しばらく前までは、汽車にのるのも一苦労したものだ。今では、汽車のほうが乗客をつかまえるのに苦労している。

これは、アメリカの新聞記事(1932年)から。

最近の日本では、航空運賃の競争がはげしくなって、トルコ航空の周遊8日間、14.98~47.98万円。沖縄フリープラン、4日間で、3.98~9.48万円という価格。

 

1417

心に残る言葉。(かどうか。)

恋愛は、女がひとりひとり違っているという思い込みから起きる。

誰のことばかご存じだろうか?

まともな男がドジを踏むのは、女に対する欲望をcontrol できなかったせいだ。

こちらは、ムハメッド・アリ。(「プレイボーイ」1964年)

最近の私は長いものが読めなくなっている。集中力がなくなっている。視力が衰えてきたせいか、途中で何度も休んだり。しばらくして、また読みつづけるのだが、それまで読んできたところをうろうろと読み返したり、前後の脈絡がわかるまですこし時間がかかる。典型的なボケだよなあ。
私の楽しみは――短いものを読んで、それをじっくり心のなかで反芻すること。これがけっこう楽しい。

ボガートが、世にも楽しい、素敵なハンフリー・ボガートなのは、午後11時半
まで。それ以後のボガートは、自分がハンフリー・ボガートなのだと考える。

かなり前に「映画論叢」(丹野 達弥編集)という雑誌に、「ハンフリー・ボガート論」めいたものを書こうと思ったことがあって、いろいろ調べたことがある。これは、そのときの資料の一つ。

こんな短いものでも、読んでいていろいろ想像できておもしろい。
ただし、「ハンフリー・ボガート論」は書かなかった。

この夏、「映画論叢」に原稿を書く約束を果たすために、「バーバラ・ラ・マール」というエッセイを書いた。バーバラは、もう、誰も知らないサイレント映画のスター。
私の書いた女のなかでは、もっともニンフォマニアックな女性のひとり。

聖林きっての好色一代女。このエッセイを書いていた時期、私はとても幸福だった。

 

 

1416

2012年5月21日の月曜、朝早く目がさめたが、雨こそ降らねど曇りだった。それで思い出したが、今日は皆既日食が見られる日だったっけ。
どういうものか、ぼくは宇宙、天体に関心をもっているのです。

5月21日、九州南部から福島県の南東部にかけて、太平洋側で金環食が見られるというので、どうしても見たくなってきた。
なんでも、この日食は平安時代から数えて932年ぶりという。

ぼくが住んでいる土地は、よそが曇っていても晴れていたり、各地が雨なのに、こちらが雨になるまで、時間がずれたりする。あまのじゃくな土地なのである。
だから、今日は少しぐらい曇っていても、日食という天体ショーは見られるだろうと勝手にきめていた。
しかし、空はどんよりと曇っている。これでは、日本じゅうで日食が見られても、私の土地だけは見られないかも知れない。やっぱり困った。
わるい予想はきっと当たるもので、いよいよ月と太陽がかさなる瞬間がきても、雲が邪魔をして、何も見えない。こんなことなら、太陽を見るメガネなんか買うのではなかった。雲よ、早くそこからのいておくれ。

やっぱり、見えないらしい。月と太陽がかさなる瞬間の、そのすき間から太陽光がもれて、数珠状にかがやく。これはベイリービーズというらしいけれど、其れもみえない。

チェッ、おもしろくもねえや。

日蝕の金環食も見えず 躑躅萌ゆ

春逝きて 日蝕(は)え尽きんとす 雲厚く

曇天あはれ 金環食も見えざりき

ぼくはガッカリしたが、少年時代におなじような日食を見たことを思い出した。たしか昭和11年だったかな。こちとら、おん年、10歳。ガキ。

いまとちがって、日食だけを見るメガネなんぞどこにもなかった。切った板ガラスをローソクの火であぶって、くろいススをつける。それを目の前にかざして太陽を見た人が多かった。よく、目を痛めなかったなあ。網膜を痛めると、視野のなかに黒い斑点が出てきて、しばらくはものが見えなくなったりする。それでも、みんなはそのうちに癒ってしまうとおもっていた。
いくらガキでも、ぼくは太陽を直視したわけではない。写真フィルムのネガを何枚もかさねたて見たのだが、当時はネガ自体もめずらしかった。
父は、外資系の会社に勤めていた。昭和初期の「リヒトビルト」の影響らしく、写真が趣味だった。小学生のガキは、父のブローニー判のネガを持ち出して、近所の腕白ボウズどもに見せびらかしたらしい。
なにしろ写真機(カメラ)も、まだ普及していなかった時代だからねえ。

天体の知識もなかった。少国民文庫というシリーズに、石原 純先生の書いた科学の本があって、それを読んだぼくは、科学者になろうかと思ったけれど、頭がよくないと、科学者にはなれないとわかった。
ほかにももっとおもしろいものもあって、マンガ――当時、子どもたちに人気のあった「冒険ダン吉」というマンガ。南洋の「土人」につかまった少年「ダン吉」が、ヤシの木にしばりつけられていると、一天にわかにかき曇り、太陽が欠けはじめる。……

ぼくは、「冒険ダン吉」のように南洋の島で活躍するつもりだったので、日食についても研究しておきたかった。このときは、しっかり日食が見えた。
このマンガは島田 啓三というマンガ家の作品だか、はるかな歳月をへだてて、私は自分が「冒険ダン吉」の見たのとおなじ日食を見ようとしているのだった。

ところが、2012年の皆既日食は、あいにくの曇り。
やい、雲め、てめえのおかげで、「冒険ダン吉」の日食まで思い出しちまったじゃねえか。

悪態をついていると、雲が切れた。や、しめた。こいつぁいいや。
オテントさまが徐々にもとの形に回復しはじめて、雲の切れ目から、三日月みたいな、クロワッサンが見えてきた。

ベイリービーズは見られなかったが、それでも、チョビッと満足できた。通りすがりの若い美形をみながら、心のなかであれこれcriticizeするときの、GGiのほくそ笑みに似ていたかも。(笑)

 

 

1415

 
 これから起きると予想される「首都直下型」の大地震の災害が、すでに私たちが経験した阪神大震災や、東日本大震災と、決定的に違うのは、経済的な被害の規模が圧倒的に違うということだろう。

 東日本大震災、とくに原発事故が起きた直後に、

   私は、今回の大震災をまだ国難と見ない。ただし、第二の敗戦と見る。

 と書いた。(私よりあとで、同意見を述べた人に、田原 総一郎がいる。)
 だが、「首都直下型」の大地震が起きれば、まさに国難といっていい。

 地震で倒壊、消失する家屋は、85万棟で、低く見つもっても160万世帯が、その日から路頭に迷うらしい。

   阪神大震災 の直接被害額が、名目GDPに対して  3%
   東日本大震災の直接被害額が、名目GDPに対して  3.5%
   首都直下型の 直接被害額が、名目GDPに対して  14%

 金額にして66・6兆円。

 これに、間接被害額をあわせれば、122兆円。

 これに起因するさまざまな影響を合わせれば、日本経済は壊滅する。

 その先に待っているのは――亡国である。このとき、私が恐れるのは、緊急援助の名のもとに行われる外国の「侵略」である。私は巨大地震の カーネージ Carnageにおいては、ここまで想定しておいたほうがいいと考える。
 こうなれば、もはや国難どころのさわぎではない。

 さて、どうするか。
 私などにとける問題ではない。
 そこで、私は覚悟をきめた。どうせ、長くはない人生ではないか。せいぜい楽しく生きたほうがいい。(笑)

1414

 まったく個人的な回想。

 1945年、私は川崎のある軍需工場で、労働者として働いていた。いわゆる学徒動員で、きわめてわずかな例外をのぞいて、中学生、高校生、大学生の全員が、軍需生産の現場で就労することが決定された。
 私が配属されたのは、「三菱石油」の川崎工場という従業員、わずか2百人程度の小さな工場だった。私たち学生は50名ばかりで、現場ではドラム缶の製造をやらされた。事務関係では、「共立」の女子学生がきていたが、現場から離れていて、はるか遠くから眺めただけだった。
 隣接する日本鋼管の工場には数千人の労働者がいて、アメリカ軍の捕虜たちも、数十名の規模で働かされていた。

 7月、アメリカ空軍が川崎を空爆したが、日本鋼管の工場が爆撃された。このとき、「三菱石油」もねらわれて、海岸に積み上げられていたドラム缶が直撃され、数千本が炎上した。
 ドラム缶が、つぎつぎに空に吹き上げられ、空中で爆発し、炎の固まりになって、まだもえていないドラム缶の列に降りそそぐ。これほど凄まじい猛火を相手に、防火作業などできるはずがない。
 私をふくめて10人足らずの学生は、ドラム缶の列から必死に離れた。頭上に落ちてくるのは、火の粉ではなかった。炎の滝というか、とてつもない量の火柱の列だった。
 私が、海岸に近い工場から、次の工場にたどりついたとき、陸軍の憲兵が、手にした小銃に、腰から抜いた銃剣を着けて、実弾をこめて、逃げ出そうとする工員たちの前にはだかった。

 「逃げるな! 逃げる者は即座に銃殺する!」

 この憲兵は伍長か軍曹だった。日頃、この工場に派遣されて、労働者の作業状況などを監視していたヤツだった。このとき、彼は逆上していたのではないか、と思う。

 私は、憲兵ひとりが実弾入りの小銃で威嚇したところで、この大火災に浮足だった労働者たちの流れをおしとどめることはできないだろうと見た。すでに、火がその工場の屋根にも燃えひろがって、労働者たちは、われがちに逃げだした。
 徴用で沖縄からつれてこられた労働者や、朝鮮人の労働者たちも逃げた。私もそのひとりだった。

 ものの10分もしないうちに工場の半分に延焼がひろがって、つぎからつぎに猛火につつまれた。

 この火災で、隣接する「日本鋼管」の工場で働かされていたアメリカ塀の捕虜にも死者が出た。
 私の工場では多数の少年が焼死した。九州の小学校を出て、すぐに集団で、この工場に動員された少年ばかりだった。いまでいう集団就職だが、当時は徴用といういいかたで、やっと小学校を出たばかりの子どもが駆り出されたのだった。
 私は、このときいらい、小学校を出たばかりの子どもまで、犠牲にしなければならない事態は、人倫上、あってはならないと考えるようになった。

 首都直下型の大地震というカーネージ Carnageで、非常事態宣言なり戒厳令が出た場合、私の工場にきていた憲兵のようなヤツが、逆上して、銃を乱射するようなことが起きないとはかぎらない。あるいは、集団的なフラストレーションや、マス・ヒステリアが逃げまどう群衆にどういう行動をとらせるか想像がつくだろうか。

 つぎに首都直下型の大地震がくれば、高齢者の私はおそらく命を落とす可能性が大きいと考える。体力がなくなっているし、運動能力もいちじるしく衰えている。
 どうかすると、地下鉄に乗っていて、いきなり大洪水に襲われるかも知れないし、ラブホに入って、ホテルが倒壊し、あえなく瓦礫に押しつぶされるかもしれない。
 では、どうするか。できるだけそういう事態を避けるのは当然だが、しかし、そういう不測の事態もけっして「想定外」ではないと腹をくくったほうがいい。 (つづく)

1413

 
 政府の防災会議は、茨城県南部、立川断層ラインほか、18系統のマグニチュード 7 クラスの巨大地震の発生を想定している。
 東京湾北部を震源とするマグニチュード 7.3 の地震が起きた場合の被害想定に、私が読むものは、無意識にせよ、何らかの作為、ないしは、錯誤である。

 あるエコノミストが指摘している。

   日本の政治・経済は全て同じ筋書きの「4幕劇」で語られる。4幕とは
   (1)最初は「何の問題もない」と事態を過少評価する。
   (2)問題の所在をしぶしぶ認めるが、可能な限り矮小化する。
   (3)問題先送りで傷口をひろげる。
   (4)進退窮まって全面降伏する。

 小島 祥一著 「なぜ日本の政治経済は混迷するのか」(岩波書店)

 私たちは、太平洋戦争の敗戦の局面から、つい最近の福島原発事故、再稼働、その他、おびただしい事例を知っている。
 つまり、この多幕劇では、登場人物、劇の時代背景は変わっても、必ずおなじ事をくり返すという。

 巨大地震の発生による帰宅困難者が、517万人と推定されている。
 地震にともなって大火が発生すれば、かならずや阿鼻叫喚の地獄が展開する。
 にもかかわらず、

   最大で、 死者 約1万1000人

 という推定に間違いはないか。ここには、「ほとんど、何の問題もないとする事態の過少評価」があるのではないか。

1412

しばらく前に、ショッキングな記事が出た。

首都直下型の大地震、それもマグニチュード 7 クラスの巨大地震が、今後4年以内に発生する。「東京大学地震研究所」の研究チームの試算である。

4年以内に70%程度

それまで――政府の「地震調査研究推進本部」の評価と南関東の地震発生の確率は

30年以内に70%程度

としている。「東京大学地震研究所」と「地震調査研究推進本部」のどちらの試算のほうが、より蓋然性が高いのか。

それまでにも――政府の防災会議は、茨城県南部、立川断層ラインほか、18系統のマグニチュード 7 クラスの巨大地震の発生を想定している。
東京湾北部を震源とするマグニチュード 7.3 の地震が起きた場合の被害想定は、

最大で、  死者 約1万1000人
建物の全壊/消失 約85万軒

これを聞いたとき、私の反応はどういうものだったか。

まず、第一に、この試算がどういう根拠にもとづくものなのか、結果の確度よりもまず、計算の確実性を知りたいと思った。

文部科学省の「広域的危機管理・減災体制の構築」(研究代表者・林 春男京大教授)の研究によれば――

千葉県浦安市近くの東京湾北部を震源として、マグニチュード 7.3 Kの巨大地震が発生したという想定で、地震の及ぶ範囲は、東京、神奈川、千葉、を中心にして、人口、2千500万人、一千万所帯におよぶ。
この試算で、死者は約1万1000人、負傷者が21万人。

私は――まったく科学的な根拠がないまま――建物の全壊/消失が約85万軒におよぶ被害を受ける状況で、死者の総数、最大で約1万1000人ということがあり得るのだろうか、という疑問をもつ。

私は――これまた科学的な根拠がないけれど――はるかに深刻な事態を想定する。そして、それを――他に適切な呼びかたがないので、カーネージ Carnage と呼ぶ。直訳すれば、大量死、虐殺である。

1945年3月のアメリカによる東京大空襲による死者が、推定で10万。(9万をはるかに越えている)私は、これとヒロシマ、ナガサキの惨事を、20世紀の大量殺戮と考えるけれど、それでも、カーネージ Carnage とは呼ばない。
地震の発生時刻によって、大きく変動することも考えなければならないだろうが、きたるべき巨大地震は、はっきり、メガ・カーネージを想定したほうがよい。
私は、「広域的危機管理・減災体制の構築」の、死者、約1万1000人という推定は信じがたい。

たとえば――今回の東日本大震災で、数十万の帰宅困難者が出た。さいわい火災は発生しなかったが、都内各地で多数の火災が発生した場合、この人たちが逃げまどって、おびただしい死傷者が出ると見たほうが自然だろう。
東京都の試算では、巨大地震の発生による帰宅困難者は、517万人という。
これだけ膨大な人間が、そのまま都内各地の避難所で整然と、一夜を明かすと考えるのは、烏滸の沙汰だろう。
大火が起きた場合、阿鼻叫喚の地獄相が展開するのは確実である。

にもかかわらず、

最大で、  死者 約1万1000人

という空想的な数値はどこから、どうして出てくるのか。

この首都直下型の大地震が、現在の想定される規模なら・・・ もはや未曾有の カーネージ Carnage というのが当然だろう。ただちに非常事態宣言なり、戒厳令が出ると考えよう。みなさんは、カーネージの恐怖を想像できるだろうか。

私は疑う。ここには、なんらか意図的な歪曲がひそんではいないか。 (つづく)

 

 

1411

神崎 保太郎がどういう人だったのか。私は知らない。しかし、この雑誌の、和文英訳の出題、講評を担当している。
おなじ「英語研究」のフランス語講座を河盛 好蔵が担当している。この雑誌の読者には神崎、河盛のコラムは新鮮な魅力があったに違いない。

神崎 保太郎の出題は――

エヂソンは、オハイオ州という片田舎に生れたのでありますが、正則な学校教育
といふものは僅か六ヵ月しか受けてゐないのです。なぜ学校へ行かなかったか、
それは貧しいからでも病気だったからでもないのです。(後略)

こういう内容が、十数行つづく。そして、受講者の和訳の例が、神崎先生の削除、添削入りでいくつか並べられている。

神崎 保太郎自身の訳例では――

Edison was born in a remote country-
place called Ohio.He was only six mo
nth at school.What prevented the boy
from attending school? He was neithe
r too poor nor too weak to go to sch
ool.

生徒たちの訳例もとりあげたいのだが、別の機会に。

次回の課題は――

政友会とその共鳴者は金本位制の維持について、多数国民と所見を異にし、現下
の経済難局を打開し、国民生活の安定を計るが為には、却て金輸出再禁止を実行
との主張を成しつつあったのである。(後略)

これは、「朝日」(1931.12.11)から。むろん、もっと長い記事の引用である。
もう一つは――

私がこの小豆島に渡って来たのは、二年越しの約束によってだった。初めI君か
ら、内海の風光を見ながら自分の家に逗留するやうにといふ好意ある言葉を受け
て以来、その機会を見出し得ず、今日になったので、その今日を島の同人は喜ん
でくれた。(後略)

これは、荻原 井泉水の随筆、「山荘雑記」から。

こういう例題から、日本にはじめて、ルイ・ジュヴェを紹介した神崎 保太郎がどういう人物だったのか、と同時に満州事変が起きた時代の緊迫が少しは想像できる。

1932年(昭和7年)、私は6歳。

 

 

1410

日本にはじめて、ルイ・ジュヴェを紹介したのは「英語研究」昭和七年二月号。

筆者は、ただ、Y.K.と署名している。おそらく、当時、「英語研究」のレギュラー・コントリビューターだった神崎 保太郎だろう、と私は推定する。
この記事は、ガストン・バテイが、コポオのヴュー・コロンビエから出発したような誤りはあるが、やがて「カルテル」を結成するジュヴェ、デュラン、バテイ、ピトエフの活動に目を向けたことだけでもたいへんな炯眼というべきだろう。

ついでに、調べてみよう。

長谷川 如是閑・監修の「世界人名辞典」(成光館出版部/昭和13年刊)には、

ジューヴェ、ルイ  Louis Jouvet フランスの俳優、演出家、舞
台装置家。劇に就いて 普遍的な才能を有し、現代フランス劇団に於て有数の人
物。

とある。ただし、生年は書かれていない。コポオについて記述はあるが、デュラン、バテイ、ピトエフの記述はない。

「大日本百科事典」(ジャポニカ/小学館/昭和44年刊)では、「ジューベ」の表記で、20行、「タルチュッフ」を演じたジュヴェの写真も入っている。筆者は、渡辺 淳。
こんな記述にも、時代の流れが感じられる。
(つづく)

1409

日本のジャーナリズムにジュヴェの名がはじめて登場するのは、じつはかなり意外な場所であった。

わずか1ページの記事なので、全文を掲載したいのだがそうもいかない。

劇界の不況はどことも同じと見えて、巴里でも昨年のシーズンは散々であった。
しかし、今年の芝居季節は例年よりは多少早めに始まったにも拘らず甚だ活気を
呈してゐるらしい。

こういう書き出しで、コメデイ・フランセーズ、オデオン座にふれたあとで、

その他の劇場では何よりもまづ、嘗てはコポオの下に在ってヴュー・コロンビエ
座を組織してゐたBaty,Dullin,Jouvet の三人が、今は各々
独立して、夫々の主宰する劇団を挙げなければならぬ。

筆者は、モンパルナッス劇場のバテイ、アトリエ座のデュランの消息を紹介したあとで、ばじめて、ジュヴェをとりあげる。

最後に、名優にして、名演出家であり、その明朗にして聡明無比な演技と演出ぶ
りのために、劇作家仲間や、巴里の中流以上の人々の間に熱心な支持者を有つ
Louis Jouvet の主宰するシャンゼリゼ小劇場では、現代稀に見る
長編小説”チボオ家の人々”を以て有名な Roger Martin du
Gard の非常に大胆な世相劇”黙する男”や、涙と哄笑に溢れた殉情的な喜
劇を書いては並ぶもののない若き劇作家 Marcel Achard (この
人の”月世界のジャン”は我が国でも最近素人劇団によって上演された)の新作
”ドミノ”や、それに仏文壇の中堅作家で独自の幻想的にして、且つ詩趣横溢し
た繊麗な文章を以て、人間心理の鋭い解剖を試みる Jean Giraudo
ux の新作なぞが予定されている。この劇団には Valentine Te
ssier といふすばらしい名女優や、画家のルノワールの息子なぞがゐる。
Jujes Romainsの”クノック”や、Vildrac の”ベリア
ル夫人”等は統べてこの劇場で上演されたのである。

つづいて、ピトエフの紹介、リュニェ・ポオの「回想」などもとりあげている。
この記事こそ、演劇関係以外の雑誌に紹介されたジュヴェのはじめての記事ではないかと思う。

「劇界の不況はどことも同じと見えて、巴里でも昨年のシーズンは散々であった」という1931年(昭和6年)。ジュヴェは悪戦苦闘していた。2月から、ヨーロッパ各地に巡業して、世界的に知られる。(若き日のフェデリーコ・フェリーニや、フランコ・ゼフィレッリが、はじめてジュヴェを見ている。)
しかし、この年に手がけた「新鮮な水」(ドリュ・ラ・ロシェル)、「無口な男」(マルタン・デュ・ガール)、「ユディト」(ジャン・ジロドゥー)、「仮面の王」(ジュール・ロマン)、どれも、失敗とはいえないまでも、成功とはいえなかった。
(つづく)

 

 

1408

 評伝、「ルイ・ジュヴェ」を書いていた時期、私の頭からはなれなかった疑問が一つあった。
 たいした疑問ではない。しかし、できればつきとめておきたい問題だった。
 日本では、いつ頃から、ルイ・ジュヴェの存在が知られていたのだろうか。

 小山内 薫は「モスクワ芸術座」をみていたが、パリの「ヴュー・コロンビエ劇場」は見ていない。土方 与志も見ていたかどうか。ただし、「築地小劇場」の旗揚げ公演は、ゲオルグ・カイザーの「海戦」が有名だが、エミール・マゾーが選ばれていることから、「ヴュー・コロンビエ劇場」のことは知られていたと見ていい。
 それでも、ルイ・ジュヴェのことは何ひとつ知らなかったと思われる。

 同時代でルイ・ジュヴェを知っていた人びとは、当時、フランスで演劇を勉強していた人々、例えば、岸田 国士、岩田 豊雄、久生 十蘭、あるいは、詩人の柳沢 健、作家の芹沢 光治良などがいる。

 しかし、私の知るかぎり、1920年代、これらの人びともルイ・ジュヴェに言及したことはない。
 日本にひろくジュヴェが知られたのは、1935年(昭和10年)映画「女だけの都」(ジャック・フェデル監督)が公開されてからである。
 この映画で、ジュヴェは日本の映画ファンに強烈な印象をあたえた。(「ルイ・ジュヴェとその時代」第四部第二章)

 岸田 国士門下の菅原 卓、阪中 正夫、川口 一郎、田中 千禾夫、内村 直也たちが、同人誌、「劇作」を創刊するのは、1932年(昭和7年)である。
 同人のなかに、金杉 惇郎、長岡 輝子がいたから、この人たちの間では、ルイ・ジュヴェの仕事はよく知られていたはずである。

 ただし、ジュヴェの名が登場するのは、かなり後になってからといってよい。

 では、いつ頃から、ルイ・ジュヴェの存在が知られるようになったのだろうか。

 私にはこれが気がかりな「問題」になっていた。 
    (つづく)

1407

松窓の、いい例をいくつか。

黄昏に 後家ァ 裏道 小足早

これを読んで、太宰 治の戦時中の掌編、「満願」を思い出した。私自身は、「戦後」の太宰 治にあまり関心がないのだが、この「満願」や、「右大臣実朝」、「新釈諸国噺」、「津軽」を戦時中の最高の文学作品と見ている。
松窓の句には、「後家」に対する侮蔑が感じられるが、それでも、女の性に対する賛嘆、ないしは驚きが秘められている。

寺町は 恋と無常に 夕暮るる

これも説明の必要はないだろう。前の句に、言わば性悪説のようなペスミスティックなものがないように、ここにも、おおらかな性の肯定がある。

けころ買い 山下までは 一里半

「けころ」は安女郎。「山下」は、上野。上野まで、一里半というのだから、それほど遠い距離ではない。しかし、神田、浅草、本所あたりから出てくるわけではない。
して見れば、吉原まで足をのばすことのできない距離。一里半でも、安いほうがいい。
もう一つ。庶民の労働時間の長さ、副業や、内職といった時間をかんがえれば、上野まで一里半という距離が、どういうものか、想像できよう。

年の歯を口説くも道理 干ワラビ はさまるはさまる はさまるはさまる

これも、あわれな句である。私のように棺桶に片足を突っ込んでいれば、身につまされる。(笑)つぎの句もおなじ。

年悲し 菜漬を食うて つかう小楊枝

私が、松窓の川柳や、前句付けの卑猥な表現を少しも不快に思わない理由がわかってもらえるだろう。

「屏風まわして 屏風まわして」という前句のものを並べてみよう。

氷る夜の 梅を 隠居は いたわりて

供の下女 あわれに見ゆる 捨て小舟

金にするとても はずかし 昼の客

早く寝て 下手笑わるる 茶ッ葉宿

後家 納戸(なんど) 月にも少し 恐れあり

女房の 床しく戻る 裏座敷

私は、この松窓をよしとする。

秋田の詩僧、松窓 美佐雄は、文久三年(1863年)卒。

 

 

1406

 
 私の見るところ、松窓の句には、とてもいい句と、農民に通有の卑猥な表現が混在している。
 注釈ぬきで、いくつか並べてみる。

   その中に 玉虫もいる 涼み舟
   見るもうたてし 女房の朝小便
   板の間に ひったり ねまた 裸臀
   炬燵の大指 飛島の 蛸の穴
   世を逃げて見ても 陰茎と耳ふたつ
   両股は すったくれるに 重へこ
   睾丸か なからへ おれも 立ちしんこ
   人 二十歳(はたち)頃や 女房も 月の夜も
   やれ待て 女房 おれも往生だ

 江戸時代、それも末期になると、社会的、心理的な制約が崩れ、浮世絵、春本(ポーノグラフィー)などの性的な表現が、ひろく受け入れられるようになった。それに、北国の農村の陰湿な風土で、性的な表現が直截的なものになるのは当然かも知れない。
 私は、川柳や、前句付けの卑猥な表現を少しも不快に思わない。何かにつけて卑猥な表現をとりたかった作者の心情、ひいては農村の疲弊を思うからである。
 あえていえば、江戸の人たちは、もっともありふれたことにおいて私たちよりすぐれている。もっともめずらしいことにおいて、私たちは、ほんのわずか観察力をましたかも知れないが。

 松窓の句に見られる卑猥な表現に、農民のあけっぴろげな助平を見るか。それとも、いじましさを見るか。
 かたや浮世絵の洗練があって、もう一方に、松窓の重苦しい現実がある。
 (つづく)