徳田 秋声論を書くつもりはない。
ただ、その文章に、独特の比喩や当て字が多いことに驚いた。
「蒼白い月」(大正9年)から、書き出してみよう。
(1)この海岸も、煤煙の都が必然展けて行かなければならぬ郊外の住宅地若し
くは別荘地の一つであった。
(2)二人の生活の交渉点へ触れてゆく日になれば、話題が有り余るほど沢山あっ
た。
(3)彼女自身ははっきり意識してゐないにしても、私の感じ得たところから言え
ば、多少枉屈的な運命の悲哀がないことはなかった。
(4)私は何かにつけてケアレスな青年であったから、その頃のことは主要な印象
のほかは、総て煙のごとく忘れてしまったけれど……
(5)時間や何かのことが、三人のあひだに評議された。
(6)モーターが引切なしに証の方へ漕いで行った。
眼についた文章を引用しただけだが、今の雑誌にこういう文章が掲載去れることはないだろう。だいいち編集者が掲載しない。掲載したとしても、校正者が付箋をベタベタ貼りつけてくる。
文学史的にいえば、悪文といわれる文章表現をつづけてきた室生 犀星や、横光 利一が「日本語を相手に悪戦苦闘してきた」こともよく知られている。ところが、秋声のような作家もまた日本語を相手に悪戦苦闘してきたという「発見」に、私は驚かされた。
逆にいえば、今の作家は、ただ、平均的に読みやすい、なだらかな文章を書くだけで、「日本語を相手に悪戦苦闘」することもなくなっているだろう。
ついでにいえば――「故郷は遠くにありて思うもの」と室生 犀星はいう。彼の内面に何があったのか。
徳田 秋声は、「初冬の気分」で、若き日の故郷について、
郷里の町、町の人達の生活気分と、まるで没交渉な――寧ろ反感をさへももつ
ほどに、彼は自分の産れ故郷に昵(なず)むことができなかった。
と書く。
少年期に、いろいろな境遇の変化にふりまわされたことが、「彼の自己尊重と生活愛護の観念を、どれくらい傷つけたか」とみずからに問いかける。
少なくとも彼に若し幼い時からの記憶に刻みつけられた家があったならば、静か
なその故郷の町は彼に取って今少し懐しい愛着を覚えしめたかもしれなかった。
こういう感覚は、すでに私たちから遠くなってしまった。だから、あたらしい作家たちが、故郷に対する愛着や反発を語らなくなったのも当然かも知れない。
偶然、秋声を読み返した私の感想は、そんなところまでひろがってゆく。